いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

絶滅危惧種で行こう!

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梅田散策を経由して岡山にはいり、これからクラウドファンディング支援者N様におはなを届けるために島根県松江市に向かう。N様曰く「岡山から松江までの特急は死ぬほど揺れるので電車酔いには気をつけてくださいね♡」とのこと、そんなこと言われてもどうすればいいのでしょう!などと思っていたところ、奇跡的に岡山県津山市在住のM様から「津山まで来てくれたら松江まで車で送りますよ!(ドライブデートしましょう♡)」という奇跡的な連絡が舞い込む!この絶妙なタイミング!猛烈スーパーありがとうございます!ということで、これから岡山県津山駅に向かう。夜には松江空港から羽田空港にひとっ飛びをするために、一応、今回の「ごちゃまぜの家を横浜以外にも増やそう!」的な企画は一旦終了を迎える。

 


最初は「札幌と梅田にごちゃまぜの家を!」などと意気込んでいたけれど、この数日間を経て「別に新しく増えるなら場所はどこでもいいや。こういうのはきっとすべてご縁なのだと思う。さかしらな思考を働かせて家を増やそうとするよりも、素敵な誰かから『ここをごちゃまぜの家に使いませんか?』的な声がかかるまではおとなしくしていよう」というところに着地をした。言うなれば『老子的な心境』である。自分の力で「どうにしなきゃ!」と肩に力を入れるのではなく、自分を含めた宇宙全体の力に絶大なる信頼を置きつつ「どうにかなるだろう」とリラックスをしながら構えていたい。どうにか『する』とどうにか『なる』の間には、気が遠くなるほどの違いがある。わたしは後者を採用したい。そういう話を、昨夜、孤独なホテルの室内から配信をしていた(参加してくれたみなさまありがとうございました!!)。

 

【音声配信】Recoded Radio 絶滅危惧種で行こう! - いばや #379236427 - TwitCasting

 

絶滅危惧種で行こう!

わたしは採算を考えることが苦手だ。活動を維持するためには月額これくらいの収入が必要だとか、客単価はこのくらいで回転率はどうのこうのとか、そういうことを考えることができない。そのため、経営には恐ろしく不向きだ。基本的に「ざっくりやるから、ざっくりいただきたい」などと思っている。ごちゃまぜの家に関しても同じで、この家は「誰でも無料で泊まれて、誰でも無料で食事をとることができて、誰でも好きなだけ居座ることができる」というコンセプトでやっているために、乱暴にまとめれば「やればやるだけ主催者側が赤字を垂れ流す」ことになる。非常にありがたいことに、この度はクラウドファンディングの支援者の方々のおかげで無事にごちゃまぜの家を横浜につくることができた。しかし、どれだけ続くのかは時間の問題になる。誤解を恐れずに言えば「誰かに必要とされる限りこの家は続く(何かしらの救いの手が差し伸べられて維持をされていくであろう)けれど、誰からも必要とされない時はひとり静かに終焉を迎える」ということになる。

 

このままでは生きていくことができないということは「絶滅危惧種である」ということで、絶滅危惧種の存在に触れた世の人々が「こいつらを死なせてはいけない!」と思ってくださった暁には(何かしらの形で)我々は保護をされるだろう。しかし、別にこいつらは死に絶えてしまっても別に何も問題はないなと思われた場合には、我々は華麗に野垂れ死ぬことになるだろう。あとはもう、実際にやってみなければわからない。絶滅危惧種であるということは「常にエッジに立ち、ギリギリであり続ける」ことであり、現在と未来の境界線に立ちながら、自分たち的には「多分、未来的にはこっちだと思う!」と感じたことを死を厭わぬ覚悟で(なんて書くと大袈裟だけど、基本的には遊び感覚で)攻め続ける。そういう生き方が、多分、自分には合っているのだと思う。

 

通常であれば「お金がなければ生きていけない」というのがこの世界の常識だと思う。だから、誰もが何かをやる時に「採算性を重要視する」のだと思う。しかし、わたしは天邪鬼な性格だから「採算を度外視しても謎に続く活動を生み出せたら痛快だな」なんて思ってしまうものだから、あとはもう神に委ねる。自分たちの活動が必要とされる限りこの活動は続き、自分たちの活動が必要とされないのであれば潔く散るまでのこと。残された日々がどのような展開を迎えるのか、また、これからの我々の脳味噌が「どのような新しいことを創造していくのだろうか」ということに関心がある。これは面白そうだと思ったことは、積極的に試していきたい。うまくいくと思うから試すのではなく、ただ、面白そうだから(そういうものがあった方が絶対に世界は面白くなるような予感がするから)と思ったものを、 時には失敗することは明白であったとしても試し続けていきたいと思う。 

 

【過去記事】だから楽しめ。自分を信用するために。 - いばや通信

 

クラウドファンディング支援者のみなさま。

菊名の家に遊びに来てくれたお母様K様からメールが届いた。非常に素晴らしい内容だと思った。クラウドファンディング支援者のみなさまに、改めてお礼の気持ちを伝えたくなった。支援者のみなさまは、このブログを読んでいてくれるだろうか。みなさまのおかげでこの家は無事に生まれることができて、そして、以下のような素晴らしい働きを見せてくれている。本当に素晴らしいことだと思う。誤解されると困るが、わたしは「どうだ、俺の創造力はすごいだろう!」と言いたい訳ではない。わたしは自分のすごさを証明する為に生きている訳ではない。でも、自分ではなく「人類全体のすごさ」を証明するためになら、命を捧げてもいいのだと思っている。こちらのメールにはその片鱗を垣間見ることのできる、ほんとうに素晴らしい内容だと思った。

 

昨日は菊名の家へお邪魔させて頂きましてありがとうございました。

 

正午過ぎの陽射しが強い時間帯に菊名に着いたので
息子を励ましつつ坂道を登って行きました。

 

坂道の街に慣れていない私は「この坂道どこまで続くんだろう?住んでる人(幼児、おじいちゃん、おばあちゃん)は普段どうしてるんだろう?」
などと思いつつたかだかその程度の坂が続いただけて
一瞬後ろ向きな気持ちになりました。

 

が、登りきって急に視界が開けた時、強めの風が吹き抜けた時、目の前の道が急に下り坂になった時、
説明仕様のないワクワク感と達成感、そこまで来てる感が込み上げて妙にテンションが上がりました。

普通の住宅街で山登り的な気持ちを感じられるなんて(初回限定か?)お得な気持ちになりました。

 

お庭もお家もお花が沢山で素敵ですね。
若干お庭の花達が水切れ気味だったので、お水あげておきました。
暑い季節は植えたばかりのものは朝晩お水をあげてもいいかもしれません。
卓ちゃんと彰人さんにもその様に伝えておきました。
(花の様子を観察して加減する様に伝えるのを忘れました!)

 

私もターシャの映画を見たので、ターシャの庭みたいに一見自然で、でもとても手の込んだお庭になるといいなぁと思いました。

 

私は自然もお花も好きですが、家で花を飾って置くと猫が悪戯したり食べたりするので
日常的に花を室内に飾る生活はしていないので
花がふんだんに飾ってあるって本当に素敵だよなぁと改めて思いました。

 

そういう気持ちの人が沢山あの家に出入りしてる事を家のそこかしこの花が教えてくれて、その会った事の無い人達の面影を残していていいなぁと思いました。

 

当たり前かもしれませんが、その人はその場に居なくても花がその人達の存在をちゃんと教えてくれてるなぁと。

 

そして、何だかよくわからないけれど連れて来られた息子。
昨日触れ合えた人の人数はそんなに多くもなくて、
他に子供にも会えなかったけれど
すっごくすっごく楽しかったみたいで「ここに泊まりたい~」と到着して数時間後には言ってました。

 

大人の大半は泊まりたいと思って、泊まりたいと口にだしても心の中では「泊まれない」って思ってると思うのですが、子供は本気で「泊まる」気で言ってるんだもんなぁいいなぁと思いました。

 

そりゃ泊まりたくなるよね、私もそうだよ。

 

人の家だから泊まれないみたいな大前提は子供の中には存在しないから言われてみればごくごく自然な発言だなと思いました。

 

でも本気で泊まりたければ本当に泊まれるって言うメルヘンチックな家がこの家というのが、そういう家が実在する事が改めて凄いなと思いました。

 

凄く長くなってしまいました。

 

まだ滞在前半までの話なんですけど…。

 

とにかく、圭吾さんありがとうございます。
田舎や帰る実家のない私には、菊名の家たまらない存在です。

 

存在してくれていてありがとうございます。

 

ありがとうございました。

 

支援者のみなさま、これを見ているだろうか。あなた様のおかげでできたこの家は、こんなにも素晴らしい働きをしている。何度でも言いたいと思うことは、すごいのは坂爪圭吾という個人ではなく「坂爪圭吾をとりまく周囲の人々の存在」なのだということ。わたしという人間は生きているのではなく「生かされている」のだということ、そして、わたしが生かされていることを通じて「同じように生かされるひとが発生していく」この謎の循環、恩恵のリズム、生命の結びつきを、わたしはなんだかとっても素晴らしいものであるように感じている(だとかなんとか偉そうに書いていてごめんなさい!なにはともあれ関係者のみなさまほんとうにありがとうございます!!)。

 

【過去記事】人生は短いから、不幸でいる暇なんてない。 - いばや通信

 

自分の信じる道を進むんだ。それで良い。喜びも不安も丸ごと抱き締めて前へ前へ。

先日、札幌でM様という女性におはなを渡した。M様は非常に忙しい方なので、お会いする予定の時間に会えるかどうかがちょっと微妙だった。そのため、もしも会えなかった時に備えて「坂爪圭吾に渡す用の手紙」を事前に書いていてくれた。私たちは無事に会うことができたので、面と向かってしばらく話をした後に、帰り際「これ、受け取ってください」という言葉と共にM様の手紙を受け取った。わたしは「ありがとうございます」とだけ伝えて、手紙を読まずにカバンにしまった。M様と別れた後、電車の中で手紙を開く。手紙を読む。感動をする。手紙の中には「自分の信じる道を進むんだ。それで良い。喜びも不安も丸ごと抱き締めて前へ前へ」という、これから新しい一歩を踏み出そうとしているM様の覚悟にも似た心境が綴られていた。

 

 

ひとの本気に触れた時、ただそれだけのことが「自分の生きる力になる」ことがある。ひとの純粋な思いに触れた時、ただそれだけのことが「自分のこころが浄化されるような気持ちになる」ことがある。ここ数日間、わたしはごちゃまぜの家の候補地を探す散策をしていた。しかし、わたしが欲しいと思うものは『家』そのものではなく『ひとの純粋な思いに触れることができる場所』なのだと思った。自由に使える空間があるだけでは、多分、まったく足りない。こころがなければ、そこに「生きている人間の血が通って」いなければ、空間はただの空間で終わる。血が通ってはじめて、その空間は「生きている空間」になるのだと思う。生きている空間にはこころがある。生きている人間の質感や温もりがある。表面的なものではない、根底に流れている「思いやり」のようなものがある。

 

 

奈良県明日香村で開催されたトークイベントの時間中、その場で懐いてくれた女の子が(イベント開催中であるにも関わらず)わたしの膝の上にちょこんと座って寛いでいてくれたことが嬉しかった。こどもたちの感情表現はあまりにもストレートで、嫌いなことには嫌いだと叫び、好きだと思うことには肉体全体を通じて「好きだ!」ということを表現する。そういう姿に触れた時、わたしは「たまらないな」なんて思ったりする。自分の命全体を使って、自分の感情を表現するということ。多分、それが「生きている」ということなのだと思う。自分の感情を押し殺すということ、それは『小さな自殺』だと思う。生まれてきたこの命を、生まれてきたこの感情を、殺すのではなく「生かす」方向に舵を取っていきたいのだと、そういうことを考えている。

 

 

今朝、仕事へと向かう地下鉄の中でスマホを取り出すと飛び込んできました。坂爪さんが今日札幌へいらっしゃるんだ!…その瞬間から、不思議な力が?指先にまで沁み渡り、良い意味で脱力しました。

 

現在の私は10年間働いてきた職場を6月いっぱいで辞め、7月から新たな一歩を踏み出すための様々な事で心身共に余裕がなう、体もカチカチになっていました。慣れた環境から離れ、踏み出すその一歩は予想以上に希望のかけらよりも不安や恐れの方が強く、本当にこの選択は自分にとって良かったのか?と自問自答を繰り返していたのです。

 

しかし、坂爪さんがいらっしゃると知り、ワ〜!っとみるみる希望のかけらが増大していきました。何と言う素晴らしいタイミングなんだ・・・このタイミングで、もし一目でも坂爪さんに会えたならおじけづいている一歩が背中を押され“自分の信じる道を進むんだ。それで良い。喜びも不安も丸ごと抱き締めて前へ前へ”と言われている気がしたのです。

 

タイミングが合って昨年の2月以来の再会が出来るかは微妙ですが同じ土地に今立っているんだ。同じ空を眺めているんだ・・・いつもよりとても近くで・・・と、思うだけで不思議な安堵感とパワーを頂けました。ありがとうございます。

 

会えると嬉しいですが、会えなくともとても良い日になりました。

 

https://www.instagram.com/p/BVLWxbvjzrV/

懐いてくれた女の子を抱え(?)ながらのお話会。。。

 

人生は続く。

 

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