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いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

クソガキのままでいたいよ。

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月曜日の夜に羽田空港を出てハワイのマウイ島に向かう。当方、ごちゃまぜの家なるものを企画している身としては、マウイ島でも「(家は無理でも)自由に使わせていただける土地」と奇跡的に出会うことができたら最高にうれしいなあと思う(あてはありません!)。奇跡的に土地を使わせていただけることになった暁には、ハワイのホームセンターで木材を購買してキュートなタイニーハウスを複数個ドロップすれば、意外とどうにかなるのではないだろうかなどと思う。日本以外にも「ここにいけばとりあえず寝る場所と食べるものはどうにかなる」的な場所があれば、なんというのだろう、乱暴にまとめると「生きるためのハードルが下がる【安心感が増す】」ような気がしている。

 

 

ハワイは物価が高いから、タイやマレーシアなどの近隣諸国(海外初心者も安心な場所!)にごちゃまぜの家を作ることも楽しそうだなあと思う。タイの首都バンコクなどでは、すでに大量の日本人がいる(一説によると10万人近い)ために、いろいろと融通が効くのかもしれない。同時に、バンコクの日本人コミュニティは日本以上にムラ社会化が激烈なので「これは溶かし甲斐がある」とも思った。東南アジアにごちゃまぜの家がひとつでもあれば、わたしの大好きなドラゴンフルーツやパパイヤをいつでも食べることができる。それだけでも「家が欲しい!」なんて思ってしまう。また、全国各地で引きこもり生活をしている方々なども、日本はちょっと家賃が高いから「とりあえず海外に行ってみんなで一緒に引きこもりましょう!」みたいなこともできる気がする。

 

生きるハードルを下げる。

思えば「生きるハードルを下げる」ためのここ数年間の日々だったなあと思う。家のない生活をはじめた最大の理由も、家賃を払う経済的・社会的な余裕が自分にはなかったから(根本的にダメ人間だったから)であり、わたしの意識は「どれだけ多くのお金を集められるか」というものから「どれだけお金がなくても生きることができる土壌を開墾することができるか」に変容を遂げた。いまでも、多分、その気持ちはあまり変わってはいない。お金というものはどれだけ集めてもどれだけ稼いでも多分きっとキリがないから、お金がなくても生きることができる(明るく楽しく生きることができる)土壌を開墾する方向にわたしの興味は向かっている。

 

昨日、熱海の家に海外周遊組3名が遊びに来た。ひとりは短期労働をしながら世界各地を渡り歩き、この前まで熱海のリゾートホテルで仕事をしていたものの、契約期間を終えたので今度は南米の農場で仕事をする予定なのだと話してくれた。もう2人は男女のペアで、先週までインドのバラナシで「声のヨガ」なるものの習得合宿に通っていたのだと話してくれた(こちらの女性とは、過去にバンコクでお会いしたことがある)。熱海の家には様々な来訪者が訪れてくれるのだけれど、すでに「ごちゃまぜの家」の試験場みたいな役割を果たしてくれている。わたしがハワイに行っている間も家の鍵は開けてありますので、興味のある方はお気軽に足を運んでみてください(宿泊希望の方に限り、事前にご連絡をいただけると助かります【理由は、すでに宿泊予定のひとがいるかもしれない(用意できる布団の数に限りがある)からです!】)。

 

世界周遊組の3名から「日本人は明日の話ばかりをする」のだという話を聞いた。日本人のその在り方が海外のひとから見ると不思議で不思議でならなくて、なぜ、いまという瞬間をもっと大切にしないのかというツッコミをされることは多い。なんだかこれは、ちょっとだけわかるような気がする。もしもの時のための貯金とか、もしもの時のための資格とか、もしもの時のための保険とか、何かあったときのために万全の備えることをよしとし過ぎるあまりに「肝心の『いま、ここ』がおろそかになる」ということは多い。過去や未来に現在を汚されてしまうことは、非常に勿体無いことだと思う。いまだけが生きている時間なのだ【明日死ぬかもしれない】ということ、そのことをはっきりと実感することができた時に、ひとは「この瞬間における命の充溢」を覚えるのだと思う。

 

悪態日記【クソガキのままでいたいよ】

最近、ことあるごとに悪態をついている自分を鑑みて「それってどうなのだろう」と思うことは多い。先日、栃木県のリゾートホテルで断食合宿に招待をしていただいた時、あまりにも退屈だったのでブログに「誰でも遊びに来てください!」的な投稿をした。すると、それを見てくれた65歳の男性が遠いところを車を飛ばして会いに来てくれた。わたしは、正直に告白をすると自分から声をかけておきながら「うわっ!本当に来るんだ!」なんて軽く引いてしまった。ああ、俺は何をやっているのだろうかと思った。わたしたちはホテルのロビーで落ち合う。初対面を交わす。軽い挨拶をする。ロビーの椅子に座る。男性は語る。坂爪さんに相談をしたいことがあるのだと語る、その内容は以下のようなものになる。

 

わたしはこうして65年生きてきたのですがまだ人生のなんたるかを何もわかっていなくて、最近になってやっとちょっとだけわかってきたのかななんてようやく思えるようにはなってきたのですが、坂爪さんのブログ記事を拝読していると年齢はまだまだ全然お若いのにわたしなんかよりもずっと人生の真理をすでに体得しているかのように感じることが多くてですね、ペラペラペラ、ペラペラペラ、ペラペラペラペラペラ……(以下省略)今日、こうしてお会いさせていただいたのはまだまだ人生のなんたるかをなんにも知らないわたしのために何かアドバイスをいただけたら嬉しいのですが、坂爪さん、人生の先輩としてわたしに何かアドバイスをいただけませんか?

 

わたしは、このお願いに対して速攻で「イヤです」と答えた。まさか自分が自分の親くらいの年齢のひとに真っ向から「イヤです」なんて最小限の言葉に最大限の熱量を込めて口にする日が来るとは思わなかった(ちょっと感激した)。言葉だけでうまく説明をできている自信がまったくないのだけれど、わたしは人生相談の類が苦手だ。聖人君子みたいな存在になりたいとは思わないし、誰かのための救世主になることよりも「クソガキのままでいたいよ」と思う。誤解を恐れずに言うと、自分の親くらいの年齢の方から人生相談を受けると「頼むからしっかりとしてくれ!」という気持ちになる。怒りにも似た愛情を込めつつ、わたしが「イヤです」と真っ正面から口にした時、65歳の男性は(多分ものすごい驚いたのだと思う)上下に軽く振動をした。ああ、これは悪いことをしたなあと思ったけれど、これ以上に有効なアドバイスはないのではないだろうかとも思った(「イヤです」なんてはっきりと口にしたことは生まれてはじめての体験だったので、ああ、これはこれで非常に素晴らしい時間になったなあと後から清々しい充足感が溢れてきた)。 

 

【過去記事】罵倒されても大丈夫。ひとを罵倒するひとよりも、面白い目に遭えている自信はある。 - いばや通信

 

『現代坐禅講義 ー只管打坐への道』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、藤田一照著作『現代坐禅講義 ー只管打坐への道』です。こちらの本は、ミャンマーで出会った女性N様が「帰国して以来禅にはまりまくっているのですが、とりわけこちらの本は最高です!」という言葉と共にわたり文庫に託してくれた、禅の真髄が凝縮されている最高の一冊になります(N様談!)。ハワイに向かう飛行機の中で、マウイ島の砂浜の上で、わたしはこの本を読むことになるでしょう(実は、マウイ島の宿も予定も何も決まっていません!)。そして、読後【帰国後】、必要としてくださる方の手元に贈り届けることになるのでしょう。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

パスカルは、遊戯、狩猟、賭け事、異性との交際、多忙な日々の仕事や職務といった様々な活動に没頭することで自分を見失い、しかもそれで平然と生きている(かのような)世間の人々の日常をその透徹した眼で深く観察しました。そして人間のあらゆる行為の裏に潜む隠された動機を鋭く見抜いたのです。パスカルはそれを「気晴らし」と表現しました。

 

当時のわたしは、こうした気晴らしをめぐるかれの考えにも深く納得させられました。そして、「おれはパスカルのように神への信仰などとても持てそうにないから、気晴らしで一生を終えるしかないのかもしれない。もしそうなら、なるべくなら長続きする、そしてできるだけ高尚な気晴らしを探さなければいけないな・・・」などと思いながら生きていました。

 

それから約十年後に全く思いがけない縁に導かれて、坐禅という行法を伝承してきた禅の伝統に出会うことができ、「自分で作り出した幻影を追ったり、それから追われたり、そういう一人相撲のような空しい生き方ではなく、今ここの自己を充実させて深く生きることを教えている確かな道がここにあった!」と眼からうろこが落ちるような思いをしました。そのとき、人間の最大の悲惨そして最大の不幸を「部屋のなかでじっと安静にしていることができず、様々な気晴らしに時間を費やしているあいだに空しく一生を終えてしまう」ところに見出した、あのパスカルのことを思い出しました。かれはキリスト教が説く神への信仰に悲惨と不幸からの救いを求めましたが、わたしはそんなかれに「坐禅が、仏教からの贈り物としてわれわれのような者のためにあったんだよ」と教えてあげたいと強く思ったのでした。そのときからずっと、「もしパスカルが禅や坐禅のことを知っていたらどうだっただろう?」という思いがわたしの胸のなかにありました。ですから、わたしのなかでは「坐禅パスカル」というのはそう突拍子もない組み合わせではないのです。

 

藤田一照『現代坐禅講義』【佼成出版社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

何も心配することはない。

部屋のなかでじっと安静にしていることができず、様々な気晴らしに時間を費やしているあいだに空しく一生を終えてしまうというパスカルさんの指摘は耳が痛く、わたしのような多動症の人間にとっては死活問題(?)でもある。わたしがこうしてブログを書くのも、ひとと会うのも、単純に「暇だから(そして寂しいから)」なのではないだろうかと思うことは多い。ただ、自分を弁護するみたいな形になるけれど、こうしてひとと出会わなければ絶対に発生をすることのなかった「素晴らしい瞬間」も確実にあるような感覚もあり、小生、32歳になるのですがまるで落ち着きのない日々を過ごしています(そして、その人生を結構気に入っています)。

 

 

昨日、日本に帰国をしたばかりの女性が「これからマッサージの仕事もしたいと思っていて、その時には資格もあったほうが有利(お客さんの信頼感にも繋がる)かと思うので、資格取得の学校に通う」ということを話してくれた。 その言葉を聞きながら、わたしは、正直に言うと「資格ってなんなのだろう」ということを思った。資格があれば、正社員になれば、恋人がいれば、結婚をすれば、家族を築いたらホッと安心をすることができる、などという言葉を耳にする機会は多い。わたしは、そういう言葉を耳にするたびに「所属先や自分の外側に張り付いているものを通じてではなく、自分が自分であることに安心を覚えることはできないのだろうか」ということを思う。何かを通じて自分自身を誇るのではなく、自分が自分であることをストレートに誇れないものだろうかと思う。そうでなければ「ブレてしまう」のではないだろうかと思う。もちろん、目の前の何かをこころの底からやりたいと思っているのならば、そこに何も問題はない。ただ、自身の不安やある種の無価値観を埋めるための対処療法的な解決策は、何かこう「違うんじゃないのかな」なんて思ってしまう自分がいる。

 

 

金の悩みや仕事の悩みなど、生き方の悩みの根本は「安心感の欠如」にあると思う。安心感を埋め合わせるために、ひとは金を求めたり仕事を求めたり社会的な肩書きや他者の承認を求めたりするのだと思う。しかし、真の安心感とは「自分自身を自分の居場所にすることができた時【自分自身に還るとき】」に得ることができるものだとわたしは思う。自分の外側にあるもので、自分の内面を埋めることは難しい。逆にいえば、自分の内面の問題ならば「自分の意識ひとつで、いつだって簡単に変えることができる」ものだとわたしは思う。自由になるためにお金はいらない。ただ、自由であることを認めるだけでいいのだ。必要なことは「自分は自分でいいのだ」と認めること、人並みにならなくてもいいのだと、他人の顔色を伺わなくてもいいのだと、誰にも認められなくてもいいのだと、誰にもわかってもらえなくてもいいのだと、何も心配しなくてもいいのだと、ただ、自分は自分でいいのだと認めることができたとき、その瞬間から、居場所だと思える空間は内側からゆっくりと拡張をしていくものだとわたしは思う。そのように感じることができる場所、自分は自分でいいのだと認めることができる場所、これからどのような形になるのかはわからないことばかりだけれど、ごちゃまぜの家がそんな感じの場所になればいいと思っている。

 

 

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人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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