いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

本音の中に音楽がある。

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Cymbals「I’m A Believer」を聴きながら街を歩く。昔から、どうして本音とは『本当の音色』と書くのだろうかとか、どうして闇という漢字の中には『音』がはいっているのだろうかとか、考えても仕方のないことを考えることが好きだった。わたしは音楽が好きだ。自分の好きな音楽を聴きながら街を歩く、ただそれだけのことで幸せを感じることができる。この曲の歌詞の中にも「Happy Life, Happy Song」というフレーズが出てくるけれど、わたしはハッピーな音楽が好きだ。その音楽を聞いているだけで、聞いているこちらもつられて幸せになってしまうような、大袈裟な言葉で言えば「よろこび【世界をまるごと肯定しようとしている力】」に満ち溢れているような音楽が好きだ。

 

【参考動画】Cymbals_I'm_A_Believer - YouTube

 

明日26日(日)は、熱海の自宅でわたり食堂【0円食堂】を開催します。毎月最終日曜日に開催されるこのイベントでは、基本的にあらゆるサービスを無償で受けることができます。理由は単純で「みなさまの善意によって運営をされているから」になります。ほんとうはもっとうまい言葉で説明できたらいいのですが、毎回、言葉で説明することは不可能なレベルの出来事が頻発するために、最近では「説明なんて無理!逆に、説明できないことをやろう(俺は説明できないことがやりたかったんだ!)」と開き直っています。どなたでもご参加いただける内容になりますので、興味のある方はお気軽に遊びにいらしてください。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】 

 

LOVE&CHAOS【愛と混沌】

わたしは常々「ごちゃまぜがいい」と思っていた。小学校には小学生だけ、老人ホームには老人だけ、障害者施設には障害者だけ、など、そういう環境を見ると「どうして隔離をするのだろう」と疑問に思っていた。我々はひとつの同じ社会に生きているのだから、別居をするのではなく同棲をする方向に仕向けた方が、お互いに楽になれる(お互いの持ち味を発揮することができる)ような気がしている。現在のわたしは熱海に家がある。熱海ももれなく過疎化が激烈に進んでいるために、家の周囲にはお年寄りしかいない。お年寄りしかいない環境の中に長いこといると、たまに小さなこどもとか若い女性が家に遊びに来てくれると爆裂にうれしくなる。

 

東京に「ごちゃまぜの家があればいい」と思う。過去記事に、誕生日プレゼント(わたしの誕生日は4月7日です)に自由に使える家をもらえたらどれだけ素晴らしいことになるのだろうか的なことを書いた。非常にありがたいことに、わたしのブログを読んでくださる方々は10代の方々から70代の方々まで、非常に幅が広い。イベントなどに呼ばれて足を運んだ際、参加者の方々の年齢層や職業の幅に驚かされる。わたしはこの現状をものすごい気に入っていて、仮に東京に自由に使える家があったら「あらゆる人種の人間が自由に出入りすることができる、ごちゃまぜの家があればいい」と考えるようになった。

 

【過去記事】居場所とは、場所ではなくて人間だ。 - いばや通信

 

ごちゃまぜの家のイメージは、時間のあるひとがそこに集まって料理をつくりたいひとは料理をつくる、こどもの面倒を見る時間のあるひとはこどもの面倒を見て、こどもを預かってもらえたお母様方は久しぶりの「ひとりの時間」を楽しむこともできる。お年寄りは若者に料理や裁縫などの生活の知恵を授け、若者はお年寄りに存在の活力【若い力】を与える。基本的に「365日炊き出しが行われている」ような状態になり、とりあえずそこに行けば食うものと寝る場所はどうにかなる。人間の三大欲求は食欲・性欲【コミュニケーション欲】・睡眠欲などと言われているけれど、わたしは「あれ、もしかするとこれって全部家で実現することができるやつじゃないか」と思う。多分、人間はひとりで生きるようにはできていない。わたしは、ごちゃまぜの家を通じて「家族という固定概念をもっと曖昧にしたい」のだと思う。

 

手紙を書く。

わたしは、過去に躁鬱病統合失調症椎間板ヘルニアのトリプルパンチで半年間の寝たきり生活を送っていた時期がある。あの頃は「俺の人生は終わった」などと絶望の淵に佇んでおりましたけれど、振り返って見るといくつもの素晴らしい体験を得た。ぶっ倒れる直前のわたしは東京都内でアルバイトに明け暮れる日々を過ごしていたのだけれど、精神的にかなりキツく参りそうになっていた時、新潟市内にある実家に電話をしたことがある。電話をすると、珍しく父親が出た。母親と話をすることは頻繁にあるけれど、父親と会話をすることは(男同士という照れもあるのか)それまでの人生でそれほどなかった。わたしは、電話越しに「実はいまちょっと弱気になっていてしんどい」みたいなことを父親に正直に話した。すると、いつもとは違う何かを察してくれたのだろうか、父親は「なにかあったらいつでも戻ってこい。お前は俺の子供なんだから」ということを話した。 

 

【過去記事】【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信

 

わたしと父親は決して仲が悪いということはないのだけれど、でも、このようなことをはっきりと言葉にして伝えてもらったことは生まれてはじめての経験だった。雰囲気では「父親はおれのことを別に嫌いではない(ちゃんとこどもとして見てくれている)」ということはわかっていたのだけれど、いざ、実際にこうして言葉にして伝えてもらったことは本当に大きな力になった。大袈裟な言葉になるけれど、ああ、自分は父親に愛されていたのだなと思った。まさかこのようなタイミングで、そのような言葉を聞けるとは思ってもいなかったので、わたしはふいをつかれたように胸をつかれてしまった。そして、ある種のうれしさ(報われたような感覚)を覚えた。自分は父親【母親】に愛されているのだという思いは、時に大きな力になる。逆に、自分は父親【母親】に愛されているのだろうか(愛されていないのかもしれない)という不信感は、生きる力【自分自身の存在価値】を朧げなものにする。

 

家族との確執で苦しんでいると話す方々と出会うことは多い。あらゆる問題の根源は幼少期からの家族関係にあるのではないだろうか、などと思うこともある。そのような方々と出会った時、わたしはひとつの提案をする。それは「手紙を書く」ということだ。自分の気持ちを正直に手紙に書く、長くなってもいいから、不器用な文章になってもいいから、とにかく精一杯の心を込めて自分の気持ちを手紙に綴る。そして、勇気を出して相手に渡す(時には手紙を書くだけで気持ちが楽になることもある)。愛していると言って欲しかったのならば、ただ、それだけのことをシンプルに言葉にする。ほんとうはずっとさみしかったのならば、ただ、それだけのことをシンプルに言葉にする。自分の本音を言葉にすること、自分の本音を相手に伝えようとするその態度が、時に「両者の間にある確執の氷を、あたたかく溶かす」ことがある。言いたいことを言えていないとき、聞きたいことを聞けていないとき、きっと、大切なことは「自分から率先をして本音を言葉にする」ことなのだと思う。

 

『TOKYO 0円ハウス 0円生活』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、坂口恭平著作『TOKYO 0円ハウス 0円生活』です。誰もいないビルの屋上にキャンプ道具一式を持ち込んで「ルーフトップキャンプだぜ!」などと叫びながら警備員のひとに通報をされた経験は誰にでもあると思うのですが、いまから数年前、ホームをレスした際に非常に参考にさせていただいたこちらの一冊には、現代社会を楽しく生きぬく(「楽しく」←これはものすごい大切な考え方だと思う)知恵が大量に詰まっていると思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

 

 「東京では1円もかけずに暮らすことができる」ー 住まいは23区内、総工費0円、生活費0円。釘も電池も全てタダ!?隅田川のブルーシートハウスに住む“都市の達人”鈴木さんに学ぶ、理想の家と生活とは?人間のサイズに心地良い未来の暮らしを提案する、新しいサバイバルの知恵がここに。

 

坂口恭平『TOKYO 0円ハウス 0円生活』【河出文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

本音の中に音楽がある。

言葉を扱うとき、大切になることは「何を言うか」ではなく「どのような気持ちで言うか」なのだと思う。わたしは、ひとの言葉を聞く時に「この言葉はこのひとの頭から出ている言葉なのだろうか、それとも腹から出ている言葉なのだろうか」を見る。多くの場合、頭から出ている言葉がひとのこころを動かすことはない。逆に言えば、そのひとの腹から出ている言葉であれば、それがどのようなものであれ「それに触れるひとのこころを動かす」ものになるのだとわたしは思う。

 

 

自分はいま、自分を大切に扱うことができていないと感じる時、それは「言葉を大切に扱うことができていない」時が多い。表面的な言葉遣い、乱暴な言葉遣い、自暴自棄でヤケクソな言葉遣い、乾いた言葉遣いをしてしまっている時、わたしは『わたしの心が乾いている』ことを知る。ひとを傷つける言葉を使っている時、そのひとは自分自身も傷つけている。ひとを軽く扱っているとき、いまという瞬間を軽く扱っているとき、そのひとは自分自身を軽く扱っている。この世界は自分が投げたものが返ってくるようにつくられていて、多分、境界線はない。だからこそ、目の前にいるひとを愛するようにつとめることは、そのまま、自分自身を愛することにもつながっていく。

 

 

Cymbals「I’m A Believer」を聴きながら街を歩く。昔から、どうして本音とは『本当の音色』と書くのだろうかとか、どうして闇という漢字の中には『音』がはいっているのだろうかとか、考えても仕方のないことを考えることが好きだった。わたしは音楽が好きだ。その音楽を聞いているだけで、聞いているこちらもつられて幸せになってしまうような、大袈裟な言葉で言えば「よろこび【世界をまるごと肯定しようとしている力】」に満ち溢れているような音楽が好きだ。音楽の力は言葉を超える。好きな音楽を聴きながら街を歩き、わたしは「音楽のように話をしたい」と思う。きっと、誰の中にも音楽は流れていて、幾重にも重なり合う旋律が素晴らしいオーケストラを生み出すように、その音楽は溢れ出す瞬間を待っているのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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