いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

正しさよりも「楽しさ」だ。

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「趣味は自爆です」と言えるくらいには疲れていた。富山県・石川県・福井県を経由して大阪にはいる。連日の移動で気力も体力も財布の中身もスッカラカン、さて、これからどうしようかと思っていた矢先に「もしよかったら我が家に泊まりに来ませんか?」という非常にありがたいご連絡をいただく。家主の方が非常に素晴らしい人柄の持ち主で、同じ時間を過ごすだけでも元気になる。今月頭から、引き続き、おはなを配る日々を過ごしている。今日は関西界隈をちょこまかして、明日の夕刻頃には四国の香川県に向かう予定だけれども宿は決まっていない。

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

金も何もいろいろなものがないのにこんなこと(おはなを無料で配り続けるということ)をしていたら、そりゃあ、疲れるに決まっている。それなのに、なぜ、自分は懲りずに愚行を繰り返すのだろうか。なぜ、自分をボロボロにしてみたいなどという謎の欲求が定期的に湧き出してくるのだろうか。わからない。いろいろなことがわからないけれど、私は、自分のことが一番わからない。わからないならわからないなりに、わからないままで突撃をする。する(実際にボロボロになる)と、少しだけわかることがある。ああ、自分は、ボロボロになることでしかわからない何かを知りたくて、愚行を繰り返しているのかもしれないということを思う。

 

※※※ おかげさまで、高松の宿は決まりました ※※※

 

自分をどれだけ透明なものにできるか。

出会う人々に「お金はどうしているのですか」と頻繁に問われれる。こんなことを言っても信じてもらえないとは思うけれど、お金が限りなくゼロに近く度に、謎の力が働いてどこからともなくお金を与えられることが多い。私は、この、謎の原理によって(生きているのではなく)生かされているのだと感じている。自力ではなく他力、目的ではなく無目的、作為ではなく無作為、自分を透明なものにして世界に投げ出すほど、その、謎の力は効力を発揮する。しかし、自分がお金を持っている時や、さかしらなことを考えている時には、この力は働かない。非常に感覚的な話になるけれど「自分をどれだけ透明なものにできるか」が、多分、肝になるのだと思う。

 

生きている限り、ああ、このひとはちょっと苦手だなと思う人とも出会う。私は、まだ、下品なひとと失礼なひとと奢り高ぶっているひとと同じ時間を過ごしている時に、強度の疲労を覚える。そんな時は「苦手だと思う自分がダメなんだ!【修行が足りない!】」などと、自分を責めてしまうこともある。ひとりの時間が訪れた時に、私は、なぜあのひとのことを苦手だと思ったのだろうかと考える。そして、ひとつのことに思い当たる。誰かと過ごしたあとに楽しや嬉しさよりも虚しさや疲労が強く残る時、それは「わかってもらえなかった感覚が自分の体内に蓄積している」からだと思う。そして思う。私の中に、まだ、ひとに期待をしてしまっている部分が多大にあるのだという、ある種の濁りを確認する。

 

疲れた時、私は、紙とペンを用意する。そして、自分の感情をすべて紙に吐き出す。疲れている時は、ただ「疲れた」と紙に書く。すると、不思議なことに「疲れた」と書いているにも関わらず、自分の体がちょっとだけ元気になるような感覚を覚える。疲れたという感覚をずっと自分の中に持ち続けるといることは、自分をさらに疲れさせる。紙に書くということは、一旦、自分の感情を外に出す【手放す・自分をからっぽにする】ということなのだろう。そして、紙に書くという行為を通じて、ああ、自分は疲れていたのだなあという(自分に対する)ある種の共感を生む。自分との関係も人間関係であり、苦しみも悲しみも疲労も、ネガティブとされている感情も、寄り添ってくれるものがあればそれは「温もり」に変わる。

 

してもらえなかったことに捕まらない。

人間関係において「あの時、ああ言ってもらいたかった【あの時、ああして欲しかった】」みたいな気持ちになることは頻繁にある。しかし、してもらえなかったことに捕まると、無意識の内に被害者意識が増幅する。誰かを裁き始める・誰かを憎み始める思考は、全体から切り離されるような痛みを生み、相手と自分【世界と自分】との間にある分離感を強める。私は、昨日、紙に気持ちを吐き出しながら「ああ、俺は『誰かと(表面的ではない)心を通わせるような会話をしたい』などと思っていたけれど、何よりも自分自身が自分に寄り添うことができていなかった、自分としっかり会話をすることができていなかった」と痛感した。

 

ボロボロになることのメリット、それは「ボロボロになった自分を励ましてくれるものと出会えること」だと思う。変な言い方になるけれど、ボロボロになっている人間は、生半可なものでは元気になることはできない。鬱病の症状を患ったことのあるひとならわかると思うけれど、調子の悪い時、普段はこれをしている時に「楽しい!」と思えるようなことにも、こころがまるで反応をしないことがある。イエローモンキーの吉井和哉さんは『淋しがりは激しいジョークを欲しがるのさ』と歌っていたけれど、多分、そういうことなのだと思う。極度に疲れた人間は決して心が死んでいる訳ではない、ただ、表面的ではない、自分の奥底を揺さぶる何かを強く求めているのだと思う。

 

私は、自分をボロボロにすることを通じて「ボロボロになった時はこれをするといい」という、まるで自分にしか当てはまらないかもしれない(それでいて、窮地の際には自分を深いところから救い出してくれるもの)を見出そうとしているのかもしれない。いままでの私にとって「好きな歌を歌う・好きな道を歩く・好きなひとを思う」ことなどがそれに当てはまることだったけれど、肝心なものが抜け落ちていた。それが『自分と会話をする【自分が自分の理解者になる】』ということだ。私には、自分の気持ちを理解してくれる誰かを求め、そして、勝手に傷ついてしまうことがある。しかし、どのような時も自分が自分の気持ちにしっかりと寄り添えることができるのならば、どのような感情も「温もり」になる。

 

『死してなお踊れ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、栗原康著作『死してなお踊れ』です。一遍上人の踊り念仏に対抗しない形でおはな念仏を絶賛敢行中の小生ではありますが、やはり、ほんものは凄い。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、宮城県にわたりました ※※※

 

 一遍の思想はなんだったのかというと、ひとことでいえば「捨ててこそ」だ。この現世では、ひとはどうあがいても仕事の世界にとらわれてしまう。仕事の達成。その目的のために、有用な生きかたをしなきゃいけないとおもわされるのだ。もともと一遍は武士だったのだが、他人をぶっ殺してでも家をまもれ、財産をふやせ、それが仕事だといわれていて、それをやっていたら身内同士で所領争いになり、あげくのはてに殺しあいになってしまった。つらい、くるしい、いきぐるしい。ああ、こんなのやってられねえと、家も土地も財産も、奥さんも子どもも、ぜんぶ捨てて、出家して旅にでた。そうしてすべて捨ててしまえば、ひとは生きながらにして往生できる。仏のように、仕事にも家にもなんにもしばられないで、自由に生きることができると考えたのだ。

 

一遍がすごいのは、ここからだ。 

 

自分のこの身体に、現世がしがみついているというならば、おどってはねてふりおとす。踊り念仏だ。やりはじめたら一晩中。ながいときは何十日間でも、ぶっとおしておどり狂う。とちゅうで失神したひとも、もしかしたら死んでしまったひともいるかもしれない。しかも男女根をかくさず、野馬のようにおどり、うひゃあと山猿のようにさわいでいたというから、とんでもないことだ。人間すら捨てて、畜生になっている。素っ裸だ。はねて、はねて、ピョンピョンはねて、厳正におちてきてしまうこの身体。でもいくらおちても、そこにはかならずスッカラカンになった感覚がのこっている。いくぜ極楽、なんどでも。一遍の踊り念仏には、そうおもわせてくれるなにかがある。きっとそれは、現代に生きるわたしたちにとってもだいじなことであるはずだ。とにかくはねろ。ピョンピョンはねろ。現世におちろ。下にとべ。われわれは圧倒的にまちがえる。ー 栗原康『死してなお踊れ』【河出書房新社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

正しさよりも「楽しさ」だ。

昔、山岳修行中の山伏が履いていたという一本下駄で越後の山を登ったことがある。普通に歩くだけでも辛い一本下駄で行う登山は苦しく、途中で何度も「これは無理なんじゃないだろうか」と諦めそうになった。しかし、不思議なもので次第に身体は慣れてゆき、数時間奮闘した後に無事に山を制覇することができた。肉体も精神もボロボロになっていたけれど、下山した時に飲んだファンタグレープの味は格別だった。私たちは、一緒に登山をした友達と一緒に「乾杯!」と叫びながら祝杯をあげた。こんなにも、心の底から「乾杯!」と叫ぶことができた瞬間は、これまでの私の人生にはなかった。

 

どのようにして高知県に行くのか、その交通手段は何も決まっていないけれど、2月12日(日)に高知市内でイベントを開催していただく流れになった。なぜ自分を苦しみに投げ出すのか。それは、端的に「生きている実感を感じたいから」ではないだろうか。私は、まだ、若い。まだまだ未熟だ。理想を言えば「何もせずとも、ただ、静けさの中で落ち着きながら常に満たされている」的な状態にいられたらいいのだろうけれども、まだ、その境地には達していない。何かを知ったつもりになる自分と、何かを知ったつもりになる自分を蹴り飛ばす自分、その、絶え間ない反復横跳びを繰り返しているような日々だ。 

 

【イベント詳細】坂爪圭吾トークイベントin高知

 

一遍上人の本の中には「いくぜ極楽、なんどでも」という表現が何度か出る。私の好きな漢字は『遊』であり、そして、私の好きな言葉に「求道の道は道楽の道【ぐどうのどうは、どうらくのどう】」というものがある。なぜ自分を苦しみに投げ出すのか。小難しいことは何もない、それは、端的に「楽しいから」なのだと思う。私は、答えを持った専門家や宗教家より、答えを更新し続ける探求者や求道者が好きだ。これまでの自分が大きく拡張するような感覚、大袈裟な言葉で言えば「古い自分が一回死んで、新しい自分になって生まれ変わる」ような瞬間が好きだ。古い自分を一回殺すために、時には愚行も必要になるのだろう。生まれ変わるということは、定められた自分を何度でも殺していくということなのだろう。それならば、と思う。正しさよりも「楽しさ」だ。正しさを追い求める深刻な求道者ではない、楽しさを追い求める軽妙な道楽者でありたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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