いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

恐れていることをやりなさい。

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新潟県新潟市生まれの坂爪圭吾のカルマ【業】のひとつに「おはなをあげる」というものがありまして、この度も「世界各国のみなさまに無料でおはなを配りたい!」という願望がふつふつと湧いてまいりました。一遍上人の踊り念仏(踊り狂うことで執着や煩悩を振り払う)に対抗しない形で、小生、坂爪圭吾はおはな念仏(おはなを眺めることを通じて静けさに還る)を唱えたいと思っております。おはなをご希望される方は、是非、どなたでもお気軽にご連絡ください!!【あなたがいる場所まで、おはなを抱えて向かいます!!】 

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

という内容のイベントを立ち上げました。エコノミックな理由で百花繚乱の花束をご用意することができないのですが、一輪挿しに命を込めてお届けいたします。この期間中、熱海の家は無人になるために「泊まりたい!【なにかしらで利用をしたい!】」などのご要望がありましたら、お気軽にご連絡をください。また、いつもの如く連日宿なしの日々を過ごしておりますので、奇跡的に「あなたを泊めてあげてもいいわよ!」的な神様がいらっしゃいましたら、お声掛けいただけましたら幸いです。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

答えよりも「問い」

先日、ひょんなきっかけで「60代の有名なおじさんと70代の有名なおじさんが対談をしている本」を読みました。乱暴にまとめると、これだから日本はダメなんだ(日本人はダメなんだ)的なことを愚痴愚痴と上から目線で話しているような内容で、私は、読んでしまった自分が悪いのですが「答えをもっているひとは退屈だなあ」と思いました。説教臭いことを言う人からは、自分は正しい【自分は偉い】と思い上がっている奢りを感じてしまいます。多分、私は、答えをもっているひとよりも「問いをもっているひと」が好きなのだと思います。大袈裟な言葉で言えば、答えをもっているひとは止まっていて、問いをもっているひとは進もうとしている印象を覚えます。格好いいところだけではない、様々な葛藤や煩悩を抱えながらも、前に進もうとしている【強くなろうとしている・優しくなろうとしている・ひとを愛そうとしている】ひとのことが好きなのだと思います。

 

なぜ生きるのかという問いに対して、私は「それを知るために生きている【それを知りたいから生きている】」のではないだろうかと感じています。何かを知ったつもりになること、自分とはこういう人間なのだとわかったつもりになることほど、物事に対する新鮮な感動を奪うものはないと思います。逆に言えば、「世の中にはこんなことがあったのか!」という驚きや発見、いままでこうだと思っていたものがまるで違った側面も持っていたことを知る瞬間の喜びや感動、そして、いままで見たこともないような自分自身と出会えた瞬間【未知との遭遇】の中に、私は、生きていることのうれしさや醍醐味を覚えます。

 

なぜおはなを配るのか、頭意識で考えると「そんな無益なことをやって何になるのか!また無一文になるだけじゃないか!」と即座に激しめのツッコミを入れてくる世間的な常識や損得勘定にやられてしまいそうになることもあるのですが、否、これをやったらこういうことが起こると思う何かがあるからやるのではなく、自分でもなぜやりたいと思うのかわからない、ただ、これをやることで「これをやらなければ遭遇することのできなかった最高の瞬間を味わえるかもしれない」という、まだ見たことのない光を、一縷の望みを、私は『(わかることではなく)わからないこと』の中に見ているのかもしれません。

 

未知の海原に己を投げ出す。

私の好きなバガボンドという漫画の中に、胤栄というお坊さんが登場します。時に、胤栄は「あらゆる状況を、時に己の命を業火にさらすような状況を乗り越えてこそ、『心』は充実を見る」と言います。逆説的になるけれど、死をリアルに意識した時、ひとは生をリアルに実感することができる。一度死にかけた人間は、一度死にかけているまさにそのことによって「生きていることの実感」を強く覚える。その為には、時に、己の命を業火にさらすような状況に投げ出す必要がある。あらゆる状況を乗り越えた時、「心」は充実を見るのだと、静かに胤栄は語ります。

 

 

過酷な状況の渦中にいる瞬間はつらいけれど、その体験を経てこそ再認識をすることができる、当たり前にあることの有り難み、生きているというただそれだけのことに対する強い感謝のようなものを抱くことがあります。大変という言葉は「大きく変わる」と書くけれど、変化の渦に対して抵抗をしようとすれば辛くなる、ただ、変化の渦に身を委ねて、なるように任せたら「まさかこうなるとは思わなかった」未来に漂着することがある。それが、過去から見た未来の自分【現在の自分】の姿になるのだと思います。変わることは、怖いことに見える時もあるけれど、変わっていく自分を眺めること【新しい自分を発見すること】は、とても面白いことだと思います。

 

『ラブ、安堵、ピース』 

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、黒澤一樹著作『ラブ、安堵、ピース』です。こちらの本は、埼玉県在住の女性から「わたり文庫用として、是非!」と熱海に御献本いただいた一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、愛知県にわたりました ※※※

 

「解釈の世界」に生きる人は、物事を分離して捉えているからこそ、「人の内に命がある」と言う。人に限らず、生物の個体それぞれに、個別の命が宿っていると思っている。

 

「あるがままの世界」に生きる人は、存在すべてのつながりを捉えているからこそ、「命の内に人がある」ことを知っている。

 

個別の命があるのではなく、無限に広がるたったひとつの「命」という空間の中に、すべての存在の躍動があるんだ。だから、そこに見えるのは、「個別の姿勢の繰り返し」ではなく、「絶え間ない宇宙の呼吸(全体における躍動)」。そこには、奪われる命も、与える命もない。ー 黒澤一樹『ラブ、安堵、ピース』【アウルズ・エージェンシー】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

恐れていることをやりなさい。

人の内に命があるのではなく「命の内にひとがある」という言葉を見て、私は、素晴らしい表現だなと思いました。そして、インラケッチというマヤ語の話を思い出しました。その意味は「あなたは、もうひとりの私です(私は、もうひとりのあなたです)」というものになるそうで、私たちは個別の命を生きているのではなく、ひとつの大きな命を生きている【あなたは私の代わりに生きていて、私はあなたの代わりに生きている】のだということを意味しています。

 

私は、不幸とは「分離感」で、幸福とは「一体感」だと感じることがあります。これは、何も幸福や不幸のみに限らず、不幸や恐怖や悲しみなどのネガティブな感情全般は「分離感」を生み出し、嬉しさや楽しさや共感などのポジティブな感情全般は「一体感」を生み出すものではないだろうか、と思うことがあります。やりたいことをやるというのとはちょっと違う、自分のこころが恐れていることをやるということ、時に、己の命を業火にさらすような状況を乗り越えることは、言い換えると「なにも恐れる必要はなかったのだ」ということを知るための行為なのかもしれません。

 

先日、江ノ島で見た海が綺麗だった。涙が流れるのはなぜなのか。悲しいとき、嬉しいとき、涙が流れるのはなぜなのか。涙という言葉は「海に戻る」と書くけれど、なぜ、海に戻ろうと流れるものが涙なのか。時に、私は、考えてもどうにもならないことを考えてしまうことがあります。考えてもどうにもならないこと、そういうことを考えている時、それがなにになるという訳ではないのに、私のこころは自由を覚えます。自意識は対象に流れ込み、客体は消えて、主体を共有する。恐れていることをやるということ、それは、いまよりも強い自分になるため、優しい自分になるため、成長した自分になるという表面的な目的を成し遂げるためではない、無意識の内に身に纏っていた不安や恐怖や猜疑心などの分離感をひとつずつ剥ぎ落とすため、そして、最終的には「恐れることなどなにもない。大丈夫、全部、自分なんだ」という深い安堵感を自身の内側に築くために、大切な過程になるのかもしれないと思いました。

 

 

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人生は続く。

 

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