いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

君は真面目過ぎる。

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新潟を経由して熱海に向かう。新潟では、いばやの仲間達と一緒に動画配信を行う。みんなと同じ時間を過ごしていると、自分の頭がどれだけ凝り固まっていたのかを痛感する。動画59分頃から「どこまでが自分なのか?【自分とは何か?】」という若干哲学的な話になり、やがて、自分が頭だけになったらそれでも生きたいと思うか?みたいな話になり、徹くんや、MAYUCHAPAWONICAさんの発想に度肝を抜かれる。
 
 
熱海では、3日、4日と、自宅を開放している。基本的に、この日以外も自宅は常に開放をしているのだけれど、「この日は開放しますよ!」というアナウンスがあった方が足を運びやすくなる方もいるということで、定期的に熱海で催し事を開催する。今回は、誰でも無料で食べ物や飲み物を楽しむことができる「わたり食堂」を行う。私は、「売る・買う」の関係性以上に「あげる・もらう」の関係性を愛している。飲食店を営業するには各種許認可が必要になるが、金銭のやり取りがなければ無許可でも問題はない。私の場合、「この料理は値段いくらで、1日に何人お客さんが来てくれたら経営が成り立つ」的な思考をするのが性分に合わないために、非常にざっくりとした形でやりたいと思う。
 

 
わたり食堂の開催にあたり、一通のメールが届く。
 
坂爪様

こんばんは!
お久しぶりです。
いつも素敵なブログをありがとうございます。
いつも清々しい気持ちで読ませていただいています。

突然ですが、4日にわたり食堂を開催されると拝見して、蟹!!と思ったので早速蟹を注文したので2、3日後に届くかと思われます。
事後報告ですみません(>_<)
量はあまり多くないかもしれませんが、大好きなわたり食堂で皆様が喜んでくださったらと出しゃばった事をしてしまいました。。

(中略)

私ももし伺えたら子供たちと共にお邪魔させてください。

開催日どうか素敵な1日になりますように。

○○○○
 
私はよろこぶ。
 
わたり食堂開催にあたり、大阪からは生姜茶やゆず茶、広島からは甘酒や梅干しや手作りの味噌が届く。手土産にみかんやせんべいや自家製のビーフジャーキーを持ってきてくださる方もいる。私の家にある食材は、玄米や、北海道産のじゃがいも、鳴門のわかめや岩戸の塩程度のもので、ものの少ない家になる。様々な方々が、様々な食糧を調達してくれる。動画配信の中で、ちーちゃんという女性が「けいごさんはものを集めるのが得意ですよね」と言う。私は、そうかもしれないと思う。正確には「私には何もない。何もないからこそ、周囲のひとたちが様々なものを補ってくれる」のだと思う。
 

君は真面目過ぎる。

新潟から熱海に向かう途中、新潟県三条市で女性と出会う。
 

 
彼女は、新潟県三条市フリースクールをやっている。最近、フリースクール関係者の方々とお会いすることが多い。私は、不登校支援とか、シュタイナー教育とか、居場所作りとか、サドベリースクールなどの単語を聞くと「素晴らしい活動なのかもしれないけれど、真面目過ぎる」と思う。私は、性格的に、悪ふざけをしたくなる。サドベリースクールに対抗しない形でマゾベリースクールをやったらどうなるのだろうかと思い、女性に、たとえば私のような人間でもある日突然「フリースクールをやります!」みたいな感じではじめちゃうことはできるのでしょうかと尋ねる。女性は、できますと答える。
 
私の中にある、何かしらのスイッチが押される。徹くんと一緒に、熱海に向かう車の中で、もしもいばやがフリースクールをやるとしたらどのような名前がいいだろうかと考えて、いばや小学校という候補案が出る。最初、いばや大学という名前が浮かんだものの「(自分たちを含めて)小学校からやり直した方がいいひともいるよね」ということになり、いばや小学校(通称・いば小)はどうだろうかという流れになる。居場所を作りたいとか、居場所を増やしたいと口にするひとたちは大量にいる。それならば、私たちも「いば小を作りたい」とか「いば小を増やしたい」などと口走ってみようか、みたいな話をする。
 
専門家でもなんでもない私たちが、仮に、突然学校や保育園をはじめたとすれば、多分、それを見たひとたちは「お前たちがやるんかい!」となる。そして、笑ってくれる。あるいは、説教をしてくれる。そんな生半可な気持ちでやるものではないよ、などと言われたりする。だからこそ、私は、良いのだと思う。あらゆるものが「ちょっと真面目に過ぎる」なかで、非常にライトな感覚で「とりあえずやってみました」みたいな感じで何かをはじめることの中には、見るひとのこころをざわつかせる何かがある。
 

問題を問題と思うから問題になる。

家族全体で食事をとらないバラバラの家族を見ると「それは問題だ!」と叫ぶ専門家がいる。しかし、インドネシアのバリでは家族全体で食事を摂る習慣はなく、ひとりひとりが好きな時間に好きな料理を好きなように食べる。家族が別々で食事を摂ることを「バラバラな家族」と言えば、彼らはバラバラな家族になる。家族が別々で食事を摂ることを「バリ風だね!」と言えば、彼らはバリ風の家族になる。ものはいい方であり、逆に、ものはいい方でしかないのだと思う。問題とは、多分、問題を問題と思うから問題になるのであり、問題を問題と思わなければ問題にはならない。私は、問題を解決したい訳ではなく「問題が問題ではなくなるような視点、および生き方」のようなものを模索したい類の人間なのだと思う。
 

 
こういうことを話すと、君は発達障害だからねとか、いばやはADHDの集団だからね、などと言われることもある。また、自分は発達障害ADHDで苦しんでいるのだと話すひとたちと出会うこともある。私は発達障害かもしれないし、発達障害じゃないかもしれない。私はADHDかもしれないし、ADHDじゃないかもしれない。ただ、どれだけ足掻いてみたところで自分にはこの身体とこの精神しかないのだから、仲良くやっていきたいと思う。たとえ、普通と呼ばれるものとは異なるものであったとしても、そもそもで普通と呼ばれるものにうまく馴染めなかった人間であり、普通であることにそれほどの面白みを見出せなかった人間でもあるのだから、別に問題はないのだと思う。別に問題はないはずなのに、油断をしていると「普通と違う」ことによるさみしさや悲しみを無意識に抱いてしまうこともある。
 

 
このさみしさや、この悲しみを払拭してくれるものがいばやの仲間達であり、彼等は、月並みな言葉で表現をすれば『こども』だ。発達障害と呼ばれるものや、ADHDと呼ばれるものも、ただ、普通の人よりもちょっとだけ「素直」なだけに過ぎないのだと思う。やりたいことはやる。やりたくないことはやらない。言いたいことは言う。言いたくないことは言わない。違うと思うものには違うと叫び、自分のこころが「そうだ!」と思ったものには諸手を挙げて賛同する。それが、極端に表に出ているだけに過ぎないのだと思う。きっと、誰もがこどもの頃は天才だった。問題は、いつまで天才でいられるかだ。私は、こどものままでいるひとの存在を見ると、天然記念物を発見した喜びに満ち溢れる。
 

 
トイレに行きたい気持ちを我慢しながら書き綴ったために、まとまりのない、忙わしない文章になってしまった。私は、多分、真面目過ぎる。もっと柔らかな思考を持ってもいい。もっと幅広いこころで世界を捉えてもいい。こうあるべきの思考の枠を飛び越えて、こんなものがあってもいいじゃないかというある種のギャグ、見るひとのこころを解きほぐすギャグをかましたい。笑いと許しは何かが似ている。怒りに満ちているひとも、悲しみに満ちているひとも、一回の笑いが大きく精神をほぐすことがある。それならば、かましてやりたいじゃないかと私は思う。笑って泣ける、最高のギャグを。
 

 
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人生は続く。
 
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