いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

社会不適合者でも楽しく生きる。

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久し振りに熱海に戻り、昨日は、千葉と北海道とニュージーランドから来客があった。千葉県からのお客様は、非常に有り難いことに「さかつめさんが風邪だと聞いていたので」と、大量の漢方薬と大量のヒートテックと大量の干し芋を持参してくださり、私は「風邪をひいて良かった!」と思った。北海道からのお客様は「さかつめさんはいくらが好きだと聞いていたので」と、大量のいくらを購買して来てくださり、私は玄米2合を瞬時に炊き上げて一目散に食べ散らかしながら「家を開放していて良かった!」と思った。
 
何事もオープンにしてみるものである。一ヶ月程度前に「家にある食糧が尽きて、最近は小麦粉を捏ねてうどんを作っています」的な投稿をしたら、それを見てくださった方々から様々な食糧が届いた。本日も、日本の何処かから玄米30キロ(!)を抱えて車で熱海まで来てくださるご夫婦とお会いする予定がある。巷の噂によると『玄米は完全食である』らしいので、とりあえず玄米を食べていれば人間は死なない(のだと思う)。私は、ああ、こうして今日もみなさまに生かされていることの幸福と玄米を噛み締めている。
 

Q「さかつめさんは反資本主義なのですか?」
A「いいえ、違います。お金がないだけです」

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全国行脚の日々も終わり、ようやく腰を据えてひと段落という形で、熱海でのんびりとした時間を過ごしている。トップ画像は東京の渋谷で開催されたあとの全体写真になる(追記・諸事情により変更しました!)のですが、この日は、女性陣に囲まれまくって緊張をした。が、参加者の方から「声が美しいですね!」と言ってもらえたことを自分は死ぬまで忘れないと思う。このブログを読んでくださる方々は、坂爪圭吾という人間に対して様々なイメージを抱いているみたいで、あるひとは「もっと僧侶みたいなひとかと思っていました」とか「もっと怖いひとかと思っていました」とか「もっと声の小さいひとかと思っていました」とか、いろいろなひとから、いろいろなお声を実際にいただけることが面白い。
 
この前は「さかつめさんは、資本主義に反対なんですよね?」と尋ねられて、全然そんなことはないから「いいえ、違います。お金がないだけです!」と答えたら、会場のみなさまが笑ってくれて嬉しかった。質問者の方は「社会に対する不満とか、そういうものはないのですか?」と尋ねるので、私は「ええと、多分、そんなにないと思います。コンビニ店員やカフェ店員の接客があまりにも冷たいと死にたくなる程度で、世の中に対する不満とか、何かを変えてやりたいみたいな思いはありません」という風に答えた。
 
それを聞いて、ある方が「みんなもさかつめさんみたいに自由に生きられてらいいのにと思います」というので、私は二つの点から意見を述べた。一つ目は「ええと、まず、私は『みんな』という言葉があまり好きではありません。みんなとか多分幻なんじゃないだろうかと思うので、他のひとのことはとりあえず置いておいて、自分に集中していればいいような気がします」という点。二つ目は「自由じゃないひとなんて実際はいなくて、やりたいことをやる自由もあれば、やりたくないことをやる自由もあるし、楽しく生きる自由もあれば、深刻に思い悩みながら生きる自由もあるし、自分なりに自由を行使して生きているのが現在なのだと思います」という点。
 

遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。

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もともとお金を稼ぐことが非常に苦手で、ひとともうまくコミュニケーションがとれず、30種類程度のアルバイトをしてみたものの長続きをすることはなく、学校でも職場でも毎日同じことをしなければいけないという暗黙のプレッシャーに発狂しかけてみたり、ああ、自分は社会不適合者なんだろうなと自分を責めていた時期もあったけれど、生まれてきたからには生きなければいけないと当時は思っていたために、私は「社会不適合者でも楽しく生きる道を探そう!」みたいな発想のもとに、現在の生活に辿り着いた。
 
だから、私は、とてもじゃないけれど「みんなも家のない生活をはじめましょう!」とか「みんなも会社勤めをやめて物乞いの日々を送りましょう!」とか「みんなも自分と同じような考え方を持ちましょう!」だなんて、口が裂けても口にすることはできない。私が言葉にするものは「私はこう思う」というだけのものであり、自分と同じであることを誰かに強制したいとは思わないし、他の生き方を否定するものでもなければ、限定的な答えの中に自分や他人を押し込めるものでもない。多分、正解はひとの数だけあるのだと思うし、私は「正解を答える生き方ではなく、正解を増やすような生き方をしよう!」とか「自殺者三万人の社会に適応するとやばいから、適応よりも開墾をしよう!」などの言葉を通じて、ただ、ダメな自分を肯定&鼓舞をしていただけに過ぎないのだと思う。
 
振り返ってみると、私は、ただ「遊んでいただけ」なのではないだろうかと思うことがある。金がないなら金がないなりに、家がないなら家がないなりに、定期的な収入がないなら定期的な収入がないなりに、自分のこころが楽しめる生き方を続けてきた結果、現在の生き方になっているのだと思う。「遊ぶ」という言葉は、私の大好きな言葉だ。金にならなくてもいい、誰にも理解してもらえなくてもいい、無意味でもいい、無価値でもいい、ただ、自分のこころが「これは面白そうだ!」と思う生き方を続けた結果、奇跡的に多くの方々の力を得ることができた私は非常に恵まれていて、自分を責める時期もあったけれど、いまでは「こういう生き方も悪くはないなあ」と思えるところまで来ることができた。
 

方丈記 全訳中』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、鴨長明著作(安良岡康作)『方丈記 全訳中』です。鴨長明のすごいところは、齢60歳を間近にして「自作のタイニーハウスでモバイル生活」をはじめたことにあると思う。類稀なる表現能力もさることながら、私には『実践が伴っているアバンギャルドな男性』を(同じ男として)尊敬する傾向があります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※
 
遠く行く河の流れは、とぎれることなく続いていて、なおそのうえに、その河の水は、もとの同じ水ではない。その河の水が流れずにとどまっている所に浮かぶ水の泡は、一方では消え、一方では形をなして現れるというありさまで、長い間、同じ状態を続けているという例はない。世の中に存在する人と住居とは、やはり同じく、このようなものである。
さて、露のようにはかない、六十歳に近い、年老いた命の消えかかるころに達して、また改めて、草木の枝の先の葉のような、余生のための住居をこしらえることになった。たとえて言えば、旅人が、一晩だけの宿舎を造り、年老いた蚕が、繭をせっせと作るようなものだ。これを、賀茂の河原近くに造った、生涯の中ごろの家に比べると、これはまた小さく、その百分の一にも達しない。
あれこれと愚痴を言っているうちに、わたくしの年齢は、年々に積もって来、住む家は移転の度ごとに狭くなってくる。この度の家の様子は世間一般のものとも似ていない。広さはやっと一丈四方で、高さは七尺にも足りない。土地柄を心に選んできめないから、土地を自分で所有したうえで造ったのではない。土台を組み合わせて造り、簡単な屋根を上にふいて、材木と材木との継ぎめには、どれも、締りとする鉤をかけてある。これは、もしも、自分の気持に合わないことが起きたら、簡単に、ほかの場所へ移そうと思うからである。その改築することには、どれほどの苦労があろうか。車に積む所の資材は、たったの二台分であって、その車で運ぶ者の労力に報酬を払う以外には、まったく、出費を必要としない。ー 鴨長明(安良岡康作)『方丈記 全訳中』【講談社学術文庫
 
 

社会不適合者でも楽しく生きる。

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トークイベントの参加者の方から「私も楽しく生きたいとは常々思っているのですが、いかんせん、自分で自分を責めてしまうことがあります。さかつめさんにはそういうことはないのですか?」という質問をもらった。私は、いつの間にか自分を責めてしまうこともなくなっているのだけれど、なぜ、そのような変化が自身に起きたのかを振り返りながら、質問者の方に対して、以下のような返答をした。
 
「やっぱり、2年間の家のない生活は大きかったように思います。自分でも無意識の内に、その時期に、多分、私は二つの覚悟を決めていたのだと思います。ひとつ目は『ひとりでもいい』という覚悟。理解者はいなくてもいい、仲間も友達も恋人も家族も協力者もできなくてもいい、ひとりでもいいから自分は自分がこれだと思った生き方を続けていくのだという覚悟。ふたつ目は『死んでもいい』という覚悟。他にも様々な生き方があった中でこの生き方を選んでいる訳ではなく、いろいろとやってみたけれどどれもダメで、結果的にこういう生き方しかできなかった自分を認める覚悟、自分を殺して生きるくらいなら、自分を出し切って死ぬのだと腹を括る覚悟のようなものを、無意識の内にしていたのだと思います。そして、不思議なことに、ひとりでもいいと思ってからの方が、自分はひとりではないのだという実感が増していることを感じています。そして、死んでもいいと思ってからの方が、生きていることの実感は増していることを感じています」
 
私は、自分のことをダメ人間だと思っていた。自分のことをダメ人間だと思っている人間でも、ひと並みに「楽しく生きたい」「遊びたい」「生きていることをよろこんでいたい【よろこびを分かち合いたい】」と願う気持ちがある為に、ダメ人間ならダメ人間なりに楽しく生きる道を探し続けて、結果的に、現在のような生き方をしている。だからこそ、私は「このような生き方をするべきです!」だなんていうことを、他の方々に偉そうに言うことはできない。私にできることは、ただ、私の身の上に起きたことやその中で私が感じたことを通じて、聞くひとが「このような生き方でも、どうにかなっているひとがいるということを、ひとつの素材として面白がってもらえたら嬉しい」と思っている。
 

 
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人生は続く。
 
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