いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだ。

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全然風邪が治らない訳だが、いま、山口県岩国駅から広島県尾道市に向かう快速シティライナーの車内でこの記事を更新している。北海道、福岡、佐賀、島根、山口、広島と立て続けにトークイベント的なあれこれに登壇を続けているものの、自己紹介が苦手な私は「三年ほど前から家なし生活をはじめまして、結果的にその生活は2年ほど続き、最初は東京からスタートしたのですが、やがて県外からも『交通費を出すから泊まりにおいでよ』などとお声をかけていただけるようになり、非常に有り難いことに一年間の間に47都道府県を制覇する形になりまして、2年目からは海外からも声がかかるようになりましていまでは20カ国近くに足を運びました」みたいな説明からはじまる。
 
「自分でもまさかこんな展開を迎えるとは思ってもいなかったので毎日ビックリしているのですが、都度都度、思ったことなどをブログ記事などに書いておりましたら、ブログ読者の方から『さすがに家のない生活は大変でしょう。熱海でもよろしければ家をご用意いたします』と連絡をいただき、なんと、その方に築89年の小さな古民家を購買していただきまして奇跡的に熱海に拠点を構えることにはなったのですが、基本的には呼ばれる限り何処にでも足を運ぶような生活を続けております」という説明で終わる。あとは、参加者の方から何かしらの形で質問が飛び出すことが多いので、それに答える形でトークイベントは進むことが多い。
 

いばや【とにかくやばいことだけをやる】

改めて文面に起こしてみると、我ながら、漫画みたいな日々だなと思う。漫画みたいな日々を過ごしていると、非常に有り難いことに、漫画みたいな出逢いに恵まれることが多い。私は「いばや」という名前の団体を3年ほど前から主宰(?)していて、これは「とにかくやばいことだけをやる」というコンセプトと共に、単純にやばいを逆から読んでいばやという名前にして、金になるかならないかは置いておいて「とにかく自分たちがこれは新しい!とか、これは面白い!と思ったことをやろう」と思ってはじめた団体になる。
 
最初は合同会社としてやっていたのだけれど、まるで金にならないから「法人税を払うだけ無駄だね」となり、今年の一月に会社としては倒産した。だけど、みな、とても仲が良いのでいまでもみんなで集まって何かをしたりしなかったりしている。いばやには複数人の男女がいて、これがまた非常に愉快な面々で構成をされていて、今回はいばやの男性陣3名が非常に私好みのイベントを立ち上げてくれたので下記にリンクを貼り付けて置きます。
 
【イベント詳細】0th「突破者はだれ」/TPD48
 
いばやの仮説のひとつに「自分たちがやっていることが未来にとって必要なものであれば、私達を見た誰かが『こいつらを死なせてはいけない!』となって助けてくれるだろう。しかし、自分たちがやっていることが未来にとってまるで必要のないことであれば、私達は死ぬだろう」というものがある。この考えは現在でも根本的には変わっておらず、何かをする代わりに対価を得る形で生き延びようとするスタイルではなく、損を承知で火中に飛び込み、あとはなるように任せる身体を張った生き方が主流の団体になる。
 

「生きろ」と言われる喜び。

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そんなんで生きていける訳がないよと言われ続けて早三年、ところがどすこい、この瞬間もしぶとく生き続けているのがいばやの面々であり、自身の体験を通じて「人生は意外とどうにかなるのだ」ということを実感している。基本的には定期的な収入とは縁のない生活をしているのだけれど、じゃあ、お金はどうしているのかと問われれば「みなさまからの施しによって生きております」としか答えることができない。私達の生き方を見て「あんたらみたいなひとが生きていけなくなったら日本は終わりじゃ。これ、とっておけ」みたいな形でお布施をいただくことがあり、私達は、それによって九死に一生を得続ける日々のど真ん中を過ごしている。
 
何かを売ってお金を得るという交換的な生き方ではなく、とにかく、身体を張って自分たちが「こっちだ!」と思った方角に突き進む。それを見たひとが「あんたらみたいな生き方を待っておったんじゃ!じゃけれども、そんな生き方では金も食料もなかろうもん。これ、使いなさい」と言って、何かしらの形で私達を生かしてくれる。言葉で伝えることは難しいが、最優先事項は「生きる」ことであり、私達を生かしたいと思ってくださった方々が私達を生かしてくださるおかげで、これからどうなるのかはまるでわからないけれどいまのところは死なずに生きていることができている。
 
私達には何もない。少なくとも、私自身には何もない。金も仕事も家もなく(家は1年前から与えられた)、あるのは脈打つ鼓動と肌の温もり程度のものであり、社会的に見れば格差社会の底辺を這うような生き方を続けている。しかし、こんな人間でも「あんたみたいなひとが好きだよ」と言ってくださるひとがいることは本当に嬉しく、生きる力をもらっている。同じように、私以上に愚かな生き方を続けるいばや男性陣の面々には、常に、勇気付けられることの多い日々を過ごしている。
 

損を承知で負ける側に賭ける。

私が魅力を覚えるタイプの人間は、宮崎学氏の言葉を借りれば「損を承知で負ける側に賭けられる人間」だ。見るひとが見れば、怒りの炎に駆られかねない生き方を続ける人間に、私は、長年勇気付けられてきた。そして、彼らと同じ時を過ごせること、喜怒哀楽を共にできることに大袈裟な言葉で言えば「生きていることの醍醐味」を感じるようにできている。
 
宮崎学氏は言う。
 
丸山眞男は、『現代政治の思想と行動』という名著のなかで、法的な秩序と無関係な次元で生きる「無法者」について述べています。彼は、「無法者」を否定的にとらえているのですが、私はもちろんこれを肯定的に考えるものです。以下に「無法者」のエッセンスを列挙してみます。言うまでもなく、これは私の生き方にまったく重なるものです。
一・市民生活のルーティンに埋没しない。丸山はそれを、「一定の職業に持続的に従事する医師と能力の欠如」と規定しているが、それはとりも直さず退屈な日常生活が嫌いであるということだ。
ニ・モノへの関心より人間への関心が強い。金より、人間関係を重視する。
三・常に非日常な冒険、破天荒の「仕事」を追い求める。
四・しかもその「仕事」の目的や意味よりも、そこで引き起こされる紛争や波乱のほうに興奮と興味を覚える。
五・公的な責任意識が欠け、その代わりに私的な、あるいは特定の人的な義務感(仁義)が、以上に発達している。
六・規則的な労働により、定期的な収入をうることへの無関心もしくは軽蔑。これはつまり、賃金や報酬の奴隷にならないということである。
七・最悪事態における思考様式やモラルが、物事を判断する日常的な規準になっている。そのため、瞬間的に善悪を判断し、きっぱりとトドメを刺す。
八・性生活の放縦、好きな異性と、好きなときに寝る自由をもっている。
このような「無法者」の生き方のほうが、私にはずっと人間らしく思えます。所詮、生まれて死ぬだけの人生。その間の時間はすべて自分のもの、どんなふうに生きようと、人生は一回きりなのです。それならば、興奮できる冒険的な人生のほうが楽しいに決まっています。ただし、こういう生き方をしていると、その反動は大きい。私の五十数年の人生を振り返っても、死屍累々、それはもう無残なものであります。それでも私は、「突破者」としての自分の人生をまっとうしたい。
もし「たった一つだけ、突破者の条件を挙げてくれ」と問われれば、私はためらわずにこう答えます。それは、「損を承知で負ける側に賭けられるかどうかということや」と。もちろん、私のこんな生き方を人に強いるつもりはまったくありません。ただ、突破者として、こんな生き方を楽しんでいるのです。どちらがよい悪いというのではなく、それを選ぶのは自分自身。ですから、「無法者」だろうが「市民的人間」だろうが、自分の人生で生じたことは自分で責任をとらなければならないのです。ー 宮崎学宮崎学の兵法」【サンマーク出版
 
西郷隆盛の言葉に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)をともにして国家の大業は成し得られぬなり。」というものがある。金でも名誉でも動かない人間を動かすもの、それを共有できる人間とだけ、分かち合うことのできる素晴らしい宝物がこの世の中にはあるのだということが、感覚的にだけれど、私にはわかる。
 
 

『インド放浪』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、藤原新也著作『インド放浪』です。こちらの本は、先日、島根県津和野町でお会いした方が「さかつめさんにおすすめです!」と譲ってくださった一冊になります。ご希望される方(インドに興味のある方!など)は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※
 
この「インド放浪」は、私が二十三歳の時、はじめてその熱球の下の大陸に遊んだ時の記録である。はじめて、その土地を踏んだ一九六〇年代の終りのころ、日本はちょうど高度経済成長の最中だった。物質的な豊かさを求めて、誰もが一生けんめいに働いていた。この国の近代化と、経済の豊かさを求める過程において、失われて行くものも多かった。そして、社会は管理化されつつあった。管理化のシステムの中で人間的なる息吹は隠滅され、それに対する抵抗もあった。そういう状況の中で、私ば大学を捨て、自分の経歴のすべてを捨て去るようなかたちでインドに行った。この国は貧困であった。ただ、そこに私が見たものは、その物質的貧困と同時に、あの、我々が今現在失いつつある、熱、であった。つまり、ちょうど日本では、この熱という一つの生命の根本が、何か巨大なものによって管理されて行こうとしている最中だったから、私はその国の熱にうかされた。そして、地上における生きものの命の在り場所をはっきりと見たし、合わせて自分の命の存り場所もはっきりと見ることができた。それは、私の二十代の一つの革命だった。ー 藤原新也『インド放浪』【朝日新聞社
 
 

楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだ。

西郷隆盛は「徳に励む者には、財は求めなくても生じる。したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。いにしえの聖人は、民を恵み、与えることを得とみて、民から得ることを損とした。いまは、まるで正反対だ。」と嘆いたと聞く。この言葉を読んだ時、結果論ではあるけれど「いばやの男性陣と同じことを言っているじゃないか!」と、私は強い感動を覚えてしまった。現代を生きる無名の人間たちの感覚的な生き方が、結果的にいにしえの聖人と被ることがあるのだという事実(あるいは単なる勘違い)を前に、私達は震えた。
 
生きる上で何を大切にしたいと思うのか。ひとによって答えは異なり、何がよいとか悪いとかはなく、多分、こういったものは「趣味の違い」程度のものでしかないのだと思う。ロック音楽を好きなひとが、ボサノバやクラシックを好きだと話すひとを罵倒するのはお門違いで、ひとにはそれぞれ心地のよいものがあり、自分と同じであることを相手に求めるよりも「自分の好きなことを個々人が勝手に楽しんでいれば、結果として同じ趣味を持つ者同士が類友的な眼科で集まって盛り上がる」ことになるのだと思う。
 
他人の生き方をああだこうだと言う前に、自分を真剣に生きること。他人を変えることにエネルギーを注ぐ位なら、自分が「これだ!」と思う道に集中すること。私は、自分と同じであることを他人に強制したいとは思わない。誰かを否定したいとも思わないし、自分の生き方を「これが正解だ!」なんて言い切ることは、とてもじゃないけれどすることはできない。ただ、分かり合おうと努力しなければ維持することのできない関係性よりも、はじめから同じ趣味を共にする者同士、楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだと思っている。
 

 
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人生は続く。
 
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