死なないためのユーモア。
10月5日(水)19時から、東京の国立市でトークイベントを開催していただく運びになりました。どなたでも参加できる内容になるので、是非、お時間のある方はお気軽に遊びにいらしてください。とてもじゃないけれどブログには書けないようなあれこれを、リアルの空間をお借りしてお話させていただけたら(あと、自分が一方的に話すよりも参加者のみなさまのお話も聞きたい!)と思っています。
【イベント詳細】坂爪圭吾さんお話会in 国立
ブログに書ける範囲内の、最近思ったことをまとめます。
1・動物占いだけが俺を肯定してくれた。
最近は動物占いにはまっておりまして、まず、自分が「ネアカの狼」であることが判明しました。WEBなどで検索をしていただけるとわかるのですが、ネアカの狼の特徴としては「ひとりの時間や空間がないとダメになる」とか「初対面はとっつきにく」などがあります。でも、付き合ってみると以外と可愛らしい部分がたくさんあることがわかり、かつ、ハートがピュアであることもわかります。
私は、何かあるとすぐにひとりになりたがる傾向が顕著にあるのですが、そんな自分を「ダメだ!ダメだ!弱者だ!」と責めてしまうことが頻繁にあります。そんな時は腐ったトドのような顔面になることが多いのですが、動物占いだけは「大丈夫。大丈夫。そんなあなたでも、生きてていいんだよ」と言ってくれているような気がして、それ以来(といっても、数日前から)動物占いを贔屓するようになりました。
動物占いだけでも人間は12種類に分類されるので、当たり前のことですが「誰もが異なった特性をもっているのだから(【例】自分軸を持った方がいいひともいれば、自分軸とかないほうがいろいろなことがスムーズに進むひともいる等)、違いを否定するのではなく、違いを楽しむ精神的な余裕がゆとりを生むのだ」ということを思いました。
2・新潟のひとは優しくて陰湿。
昨夜、新潟市西区イロハニ堂さんで「欧州紀行の結果報告会的なサムシング」を開催しました。そこでは様々な方々と話をする機会に恵まれたのですが、新潟県のひとは「(雪国で冬はまったく晴れないからなのでしょうか)表面的には優しいけれど、内面的には陰湿で陰険なひとが多い」印象があります。
私自身も、高校を卒業するまでは新潟市内で暮らしていたのですが、基本的に「自分は友達も少なくて夢も希望も何もない、生きていてもしょうもない存在だ」みたいな風に自分のことを思いながら生きていました。多分、似たようなひとはたくさんいるのではないだろうかと睨んでいます。だからなのでしょうか、北と南ではどことなくユーモアの種類も異なるような気がしていて、北に行くほど「自虐生が高まる」ように感じています。これは余談になりますが、私は、自虐性の高いひと(自意識に苦しむひと)が好きです。
ロンドンやモスクワや新潟などの雪国には、似た雰囲気を感じる。多分、寒い国ほど「文学が育つ土壌に恵まれている(ひとの頭がおかしくなる)」のだと思う。南国では色々なことがどうでもよくなるけれど、寒い国では「死を身近に感じる」のだと思う。 pic.twitter.com/S9IltqoZVK
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月19日
この前、ロンドンに行った時に「(非常に僭越な話ではありますが)新潟に似ている」と思いました。多分、南国の島々でUKロックを聞いても何も身体にはいってこないと思うのですが、裏日本を覆い尽くす曇天の中でレディオヘッドのハイアンドドライなどを聴いていると、五臓六腑に染み渡る(「ほっといてくれ」的な)共感を覚えることがあります。これは余談になりますが、スペインやオランダに行った時に「ここは本当に素晴らしい場所だと思うけれど、みんなが幸せそう過ぎてついていけない」などと思いました。逆に、モスクワやヘルシンキなど、ある程度の自殺者を安定して輩出している国には、親しみにも似た感情を覚えました。
【過去記事】野垂れ死にこそ、男のふるさと。 - いばや通信
3・カウンセラー殺人事件。
いきなり何を言うのだ!と思われるかもしれませんが、私には、やりたいこととか夢とか理想とか野望とか、そういうものがありません。しかし、やりたいことがないなどと言うと「お前は無気力な人間だな!死ね!」と言われているような気がして、できるだけ「夢や理想を持っている風」に生きていた時期があります。でも、そうしたふりも長くは続かず、最終的に「俺は俺だからいいのだ」と、やりたいことは何もない自分を肯定的に見れるようになってきました。
それでも、稀に「いやいやそんなことないでしょ!やりたいことは必ずあるはず。あなたは自分のこころに蓋をして生きてきた時期が長いから、でも、大丈夫。安心して。勇気を出して、自分のこころの声を聞いてあげて。さあ、あなたのやりたいことは何??ほんとうは、どうしたいと思っているの??」的なことを聞いてくるカウンセラー的なひとと出会うことがあります。
私は、最初は「はあ」とか「へえ」などと答えているのですが、あまりにもカウンセラー的なひとが「ちゃんと自分と向き合って!こころの声を聞いてあげて!さあ、あなたのやりたいことは何!」などと聞かれてしまうと、最終的に「しつこいお前を殺したい」などという非常にバイオレンスな声が自分の内部から生まれてしまうために、いまでは、カウンセラー的なひとを見かけると一目散に逃げ出すようになりました。
何が言いたいのかというと「やりたいことは必ずあるはず」という謎の前提や「やりたいことをやらなければいけない」という強迫的な雰囲気は、時に、ひとを苦しめてしまうことがあるのではないだろうかということです。上記に挙げた例はひとつの冗談に過ぎないのですが、親や周囲の人間の過干渉が原因で、それを受けたこどもとかが「お前を殺したい」という復讐の感情を抱くようになってしまったら、裏目の中の裏目になると思いました。これは余談になりますが、ネアカの狼としては「ほっといてくれる」ひとの姿に愛を見ます。
4・ヨガの先生はヨガをやった方がいい。
先日、わたしの友人が複数の人達と一緒に登山をしました。登山のメンバーには、普段、ヨガの先生をやっているひとがいて、登山中も「ヨガ的にはこうやって歩くといいんだよ」とか「こういう呼吸をするとこころのモヤが晴れるよ」的なアドバイスをしてくれたのだそうです。それを聞いていた友達は、最初は「へー!なるほど!素晴らしい知識をありがとう!」と感心をしていたのですが、徐々に様子がおかしくなってきました。
前半は、まだまだ体力的にも余裕があるために、ほがらかなムードの中でみんなで登山を楽しんでいました。しかし、後半にさしかかり、みんなの体力が尽きてくるほどに会話も減り、いよいよ『人間の本性が露わになりやすい』状態になってきました。最初にイライラしはじめたのは、ヨガの先生でした。疲れたとか、休みたいとか愚痴をこぼすようになり、付き添いのガイドのひとに「あと何分で終わりますか?」と尋ね、ガイドのひとが答えてくれた時間になっても(途中で休んだりしたために)終わらず「時間になっても終わんねえじゃん!!」と、ガイドさんに向かってブチ切れていたのだそうです。
わたしは、これを聞いて「なんて面白い話なのだろう!」と思いました。誤解されると困るのですが、わたしはヨガの先生という職種を罵倒したい訳ではありません。わたしの感想は、ヨガの先生をやっていると言う人に「表面的にはやさしそうだけど、なんだか怖い。裏がありそう!」と感じた経験が、いままでにもたくさんあったなあということです。これは完全に余計な御世話ですが、ヨガの先生はもっとヨガをやった方がいいと思いました。
5・青いスーツのおばさん。
生きていると「人生はギャグだ」と思うことがあります。多分、誰もが大なり小なり矛盾を抱えた生き方をしていたり、矛盾を抱えた発言をしているのだから、そういった時のベストな対処方は「違いを指摘して是正すること」ではなく「的確なツッコミをいれること【笑いに昇華すること】」ではないのだろうか、と思いました。論理的におかしなことを言っているひとは、漫才でいうところのボケを担当してくれているのだから、こちら側が見事なツッコミをいれることで「無事に笑いが成立する」のだと思いました。
他にもいろいろな話をしたのですが、このような場所に書いてしまうと、誰かを深く傷つけてしまいそうなので書くことができません。最後に、手前味噌ではありますが自身の体験を綴ります。わたしが、まだ、家のない生活をしていた頃(こんな風に過去の話ばかりをしている自分がすごいダサく感じることがあります)、日本のF県で開催されたトークイベントにゲストとして招待されたことがあります。
その日、わたしが壇上で軽い自己紹介を20秒程度した(家のない生活をしています的なことだけを言った)瞬間に、参加者のみなさまから「家がないとはどういうこと?ホームレスなの?なんで働かないの?親にはなんて言っているの?みんなに迷惑をかけているってこと?そんなんで生きていけると思っているの?大人を馬鹿にしているの?感謝が足りないんじゃないの?保険金は?税金は?食費は?結婚は?老後は?あなたは結局、逃げているだけでしょ???」的なことを一方的に言われ続けてボコボコにされていました。
あまりにもボコボコにされるものだから「これはコミュニケーションがとれないな」と思ったわたしは、このイベントに遊びに来てくれていた自分の友達を笑わせてみせるというところに焦点を定めました。どれだけボコボコにされても構わないから、今日、ここに来てくれている友達を笑わせてやりたい。それだけが自分のゴールであり、あとはすべておまけのようなものになりました。
すると、もうひとりのゲストでもある市議会議院のおばさんが、わたしを見て「あなたは結局、目立ちたいだけなんでしょ?」と言いました。そのおばさんは、コンデンスミルクよりも濃いメイクをしていて、かつ、U字工事よりも派手な青いスーツを着ていました。これはチャンス!と思ったわたしは、咄嗟に「でも、僕は青いスーツは着ません」と答えました。その瞬間、わたしの返答を聞いていた友達の腰が少しだけふわっと浮き、わたしは「よっしゃ!」と思いました。
青いスーツのおばさんは、それを聞いて「あなたったら、まったく・・・」と鼻息を荒くしたあとに沈黙をしました。その後、わたしはまた別のひとびとから引き続き罵倒のシャワーを浴びることになるのですが、こころは非常に清々しく、とても良い風が吹いていました。話が長くなりましたが、何を言いたいのかというと「死なないためにはユーモアが必要」ということです。
死なないためのユーモア。
ほんとうは、今日、今月中に提出しなければいけない各種書類の手続きがあったのですが、あまりにも空が綺麗だったので「すべてを放り出して、海に行こう!」となり、結果的に海にいった自分と(平日の昼間であるにも関わらず仕事をサボって)一緒に海に行ってくれた友達のことが大好きです。どうしてなのでしょうか、社会的にはやってはいけないことばかりをしてしまうけれど、多分、今世は仕方のないことなのだと思います。
誰の中にも『菩薩ボタン』みたいなものは隠されていて、美しいものを見た瞬間、ひとの善性に触れた瞬間、ある種の真理に触れた瞬間、菩薩ボタンは発動して「今なら、すべてに優しくなれる」的な気持ちになる、そんなボタンがあると思う。多分、私は「人類の菩薩ボタンを連打する生き方」をしたいのだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月29日
最後にちょっとだけ真面目なことを言うと、平和とは「こころの状態」だと思います。世界平和を願うなら、まずは、自分のこころを平和な状態にしておくこと。幸福や充足感は、多分、平和な心持ちの中でだけ感じることのできる感情だと思います。自分のこころの状態が崩れるほどに、見るひとすべてが敵になり、恐怖と猜疑心に包まれて、世界は優しさと色彩を失い、殺伐としたものになってしまう。そして、何よりも悲しいことは「愛する家族や恋人(そして自分自身)のことさえも、疑いの目で見てしまう」ことだと思います。
イライラしないコツは「すべてはベストタイミングである」と信じることだと思う。雨が降ることの中にも、電車に乗り遅れることの中にも、苦手な人と同じ空間を共にすることの中にも、多分、何かしらのヒントは隠されている。神様からの謎解きみたいなものだと思えば、毎瞬間は宝物探しみたいなものだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年8月30日
自分のこころが平和な状態に保たれている時、きっと、それは世界から「敵が消えている」状態になるのだと思います。無敵とは「敵がいない」ことであり、決して完全無欠な個人になることではないのだと思います。個人的な憎しみや恐怖やある種の不機嫌さを抱いたままでは、ネガティブな感情にドライブをされて、利用されたり、利用をしたり、まどわされたり、まどわせてみたり、世界に『敵』を増やしてしまう。幸福や充足感とは「こころの状態」のことであり、自分を楽しませること、自分のこころを満たすこと、自分の状態をピースフルなものに保つことは決して自己満足なんかではない、多分、最優先事項なのだと思いました。
母親が不本意な生活のなかで苦しんでいるとき、その母親の苦しみを目撃するだけで子どもには虐待にあたるというフレーズを目にした。家族や友達や恋人には、不完全でも構わないから楽しそうに生きていて欲しい。自分を楽しませることは決して自己満足ではない、多分、最優先事項だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年7月24日
毎日が深刻になりそうな時は、勇気を出して、阿呆になるのが一番です。 pic.twitter.com/ne6AUBGRwt
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年8月14日
人生は続く。
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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