いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

自分を責める必要はない。

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ベトナムのダラットを経由してニャチャンにはいり、突如、念願のベトナムデビューを果たした。「この夏は、はなはだしいロールアップでキマりよ!!」ということで、心も身体もグイッ!と巻き上げて行きたい。それっぽい写真を撮影していただけたことが露骨に嬉しい。夏だ。プロフィール画像を変えると、自分がまるで新しいものに生まれ変わったような気持ちになる。


音声配信を公開した。現在、行動を共にしているみっつとは、様々な話をする。その中の一部(文章で伝えるには難しい部分)を音声で配信した。そこで出た話題と、その補足について、最近思うことあれこれをまとめます。

「働かざる者食うべからず」という嘘。

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非常に乱暴な言葉でまとめると、みっつは、10年間ほど自宅で引きこもりの生活をしている。私も、通常の意味での仕事はしていない(定期的な収入があるう訳ではなく、人々のお布施によって生きている)為に、我々ふたりは無職ということになる。無職の人間は、社会的に居心地の悪い思いをすることが(ひとによるけれど)頻繁にある。要するに「ダメ人間」のレッテルを貼られることが多い。

日本の諺に「働かざる者食うべからず」というものがある。これは、直訳すると「お前らみたい(ニートや引きこもりや何かしらの事情で働いていないひと)な生き方をしている奴は死ね」ということになる。言葉が与えるダメージは大きい。他人から言われることも勿論辛いが、何より、自分自身が自分に対して「お前はダメな人間だ」と感じる瞬間【自分で自分をいじめてしまう瞬間】は辛い。自分の存在や自分の人生が「負債だらけの罰ゲーム」になり、世界から、自分ひとりだけ消えてしまいたくなる

誤解を恐れずに言うと、私は「働かざる者食うべからず」という諺は嘘だと思っている。働きたいから働いているだけであり、働かないひとを責める必要はないと思っている。働かざる者食うべからずというひとは、本当は「そのひと自身が働きたくないだけ」だと思っている。働かないひとが羨しいから、働かないひとに腹が立つから、働かざる者食うべからずという諺を用いて、働かないひとを責めている【自分を正当化している】だけだと思っている。働いていないひとも、放っておけば勝手に働きたくなる時が来るだろうし、その時が来なければ来なかったでまた、非常に個性的【乙な人生であると思っている。

自立と依存は紙一重。

音声配信の中で「自立とは何か」という話題が出た。多くの場合、それは「経済的な自立」を指すのだと思う。たとえば、企業に勤めるひとは、自宅に引きこもっている若者に「いまは親がいるから良いけれど、親が死んだらどうするんだ」と言う。この場合、家族からの庇護を受けているひとは自立をしていないということになり、企業からの庇護を受けているひとは自立をしているということになる。

しかし、私には、これらのことが同じに見える。親が死んだらダメになる生活と、企業が倒産したらダメになるような生活は、頼りにしている先が異なるだけで「お互い様」なんじゃないだろうかと思っている。誤解されると困るが、私は「働くこと」を否定したい訳ではない。そうではなく、誰もが誰かを頼りにしながら生きているのであり、真の意味で自立をするということは実は不可能なことであり、自分の力で生きていると思うことは「自惚れの最たるもの」になるのではないだろうかと思っている。

いや、俺はどの組織にも属さないで、自分の腕一本で生きている。だから俺は自立をしているんだと言うひともいるかもしれない。しかし、このひと自身の生活も「そのひとが提供するサービスを買ってくれるひとがいる」から成り立っている訳であり、どれだけ素晴らしい技術や能力を持っていたとしても、それを買ってくれるひとがいなければ生活は破綻する。

自分を支えるものは「他者」である。

繰り返しになるけれど、私は「働くことを否定したい」訳でもなければ「働かないことを正当化したい」訳でもない。ただ、誰もが誰かに支えられながら生きているのだから、もっと、お互いに優しくできないものだろうかと思っている。「こうでなきゃいけない」という不安や恐れからではなく「こうしていきたい」という希望や喜びを礎に、明日を生きることができる世の中になればいいなあなどと思っている。

私が使っているスマホタブレットも、ベトナムまで来た飛行機も、家も、服も、車も、水筒も、洗濯機も、日本語も英語もギターなどの楽器も、とてもじゃないけれど私には自作をすることはできない。既に、先人たちによる様々な恩恵を受けながら成立をしているこの日々の中で、とてもじゃないけれど私は「自分ひとりの力で生きている」とは思えない。そして、私は「自分の生活を支えているものは『他者』である」ということを思う。

私には、生きるために必要な酸素を生み出す力もなければ、種を抜きに食物を生み出す力もない。自分の身体であるにも関わらず、血液の流れを早めることも、トイレの時間をコントロールすることも、髪の毛の生育をストップさせることもできない。ただ、勝手に肉体は傷ついた皮膚を修復し、口から取り入れた栄養を分解し、赤い血液【生きるために必要な力】に載せて身体中に巡らせている。そういうことを思うとき、私は「生きているということは、生かされているということだ」ということを思う。

クレイジーハウスダラット

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ダラットにある「クレイジーハウス」に足を運んだ。仮に、人間が損得勘定だけで生きている生き物だとしたら、このように愚かな建物を創り出すことも、このようなものを見て「OMG!」と興奮することもない。アーティスティックなものに触れた時、空間に、心に、自由の風が吹く。自由になることと「楽になること」は似ている。自由の風は受けるひとの心を楽にして、この世の中に「こうでなきゃいけないということなんて、本当は何もないのだ」ということを思い出させる。

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ダラットの空

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自分を責める必要はない。

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何もしていない自分には価値がないと感じる時、生きているだけではいいと思えなくなる。生きているだけではいいと思えないということは、生きているだけではダメ【存在をしているだけでは価値がない】になるということだ。生きているだけではダメになるということは、生きていること(生まれてきたこと)そのものが「負い目【生まれてきてごめんなさい】」になるということだ。しかし、私は思う。生きているだけではダメだなんて、それはちょっと、あんまりにも酷ではないだろうか。


自立とは何だろうか。それは「自分で自分にOKを出す」ということではないだろうか。どのような生き方をしていたとしても、いま、こうして無事に生きているということは「大丈夫である」ということの最高の証明になりはしないのだろうか。人間としては不完全でも、不完全で当たり前、不安になることがあっても当たり前、落ち込むことがあっても当たり前、でも、大きな全体の流れの中では「生きている【成立をしている】」というこの点において、私達は、実は『パーフェクトな存在である』とは言えないものだろうか。


何かをしたから価値があるとか、何かをしていないから価値がないとかではない、ただ、ありのままでそこにあるというその姿を通じて、見る者もまた、何者でもない「ただの自分」に戻ることができる。何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだ。自分を責めてしまう瞬間は辛いけれど、しかし、私達が自然を美しいと思うとき、それは「自然のままでそこにある」からだ。自然を愛するように、自分を愛したいと思う。


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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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