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いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

瞬間をぶちまけて輝くこと。

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バンガロールからバンコクを経由してチェンマイにはいり、ミニバンに揺られること3時間強(値段は150バーツと非常に安価)、タイの北西部にあるパーイという小さな町に来た。山道を抜けるために爆裂に揺れるとは聞いていたが、見事に過酷で、乗客の過半数近くは車内でリバースをしていた。助手席を陣取ることで揺れの軽減に成功した私は、比較的軽度のダメージで事なきを得た。

変なことを考えていたら、酔った。

3時間強の道程の途中、日本でいう「道の駅」的な山中の小屋で、20分程度の休憩が入る。そこにはWi-Fiが飛んでいたために、インターネットを接続したところ、ジャストタイミングで(まだ会ったことのないひとから)一件のクレームが届いた。そこには「前にLINEを送ったのに、既読スルーをするのはなぜか」というようなことが書かれていた。

いただいたメールにはすべて目を通していて、自然の恵みを前に「ありがてぇ、ありがてぇ」と昔の農民がひざまずくような感覚で、私も、メールを前に「ありがてぇ、ありがてぇ」とひざまずいている。しかし、メールの返信が非常に苦手な私は、ほとんどのメールに返信をできていない。そんな私を許容してくれるひととは良好な関係を築けるものの、許容できないひとたちから定期的にお叱りを受ける。

クレームが届くと、正直、心中は穏やかではなくなる。休憩時間が終わったあとも、パーイに向かう車内で「このようなひとには、どのように対応するのがベストなのか」ということを考えていたら、なんということだろう、(前半戦はまったくの無傷で「余裕だぜ!」と思っていたはずの私が)酔った。変なことを考えはじめてから、精神状態が乱れ、軽い車酔いをしてしまったのだ。

「BUT, I LOVE YOU」の魔法。

このままではいけないと思った私は、この、不穏な感覚(クレームに対する精神状態の乱れ)に、一刻も早くピリオドを打たなければいけないと思った。そこで思い浮かんだ妙案が、過去のブログ記事で書いた「こころのなかでひたすら相手を罵倒した後に、最後に『BUT, I LOVE YOU【でも、愛しているよ】』とささやく」というものだった。


誰も傷つけることのない、クレームに対する優等生的な対応ができるのであれば、それに越したことはないのだと思う。しかし、私のような器の小さい人間は、正しさを追求するほどに、必ず何処かで無理が出る。そんな時は、ひたすら相手の責任にするに限る。「これだけメールが届いているのに、毎回返事ができる訳がないだろーが!バカ!」と、逆切れをかますに限る。

ひとしきり逆切れをかました後、最後の最後に「BUT, I LOVE YOU【でも、愛しているよ】」で締めくくった私の精神はアルカイックな安定感を取り戻し、その後の車内は「私は川。私は清らかな川。さらさら流れる新緑の小川」と自らに暗示をかけて清流に擬態をした私は、抗わず、濁らず、揺れに身をまかせる(あとは「鼻呼吸」に集中する)ことによって酔いも収まり、無事にパーイに到着をした。

美しい街「パーイ」


パーイの街並みは非常に素晴らしく、物価も安価で、自然に溢れ、アーティストの移住者も多いためにお洒落な雑貨が立ち並び、観光地にありがちな勧誘行為を目にすることもない。オートバイもレンタルも1日300円程度からと破格で、滝や、洞窟や、天然の温泉もあり、街全体を一周するのに1時間もかからない。

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宿泊先のコテージは自然のど真ん中にあり、

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見渡す限りの、山と、森が広がっている。

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マンゴーは五個で100円程度。ドラゴンフルーツは五個で150円程度。宿泊代は1000円程度。私は、目の前に広がる雄大な自然を眺めながら、ひたすら南国の果物を(ナイフがないので手で剥きながら)摂取し続けていた。何もない、何もしないということが、時には最高の贅沢になるということを思う。雲が流れるように、時間がゆっくりと流れている。

ひとは、幸せなときに誰かを批判したいとは思わない。

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パーイの街並みを眺めながら、天然の温泉に浸かりながら、自然に溢れた風景のど真ん中に身を置きながら、「ひとは幸せなときに、誰かを批判したいとは思わないだろう」ということを思った。自分が批判的になっているとき、自分が懐疑的になっているとき、自分が「あまり好きではない自分」になってしまっているとき、私は、自分の中にある種の攻撃性が宿るように感じている。

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誤解を恐れずに言うと、常に不平不満に溢れているようなひとは、常に攻撃できる対象を探しているようなひとは、あまり幸せではないのだろうなと思う。私は弱い人間なので、一緒にいるひとのエネルギーをダイレクトに受け取ってしまう。常に不満に溢れているひとと一緒にいると、こちらまで不幸せな気持ちになる。いまの自分にはまだ、そういうひとと同じ時間を過ごしている余裕はない。

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ただ、同時に「もしも、そういうひとたちとこうした景色を共有できたなら、こうした体験を共有することができたなら、そのひとたちともよろこびを分かち合えるのではないだろうか」と感じることもある。不穏な感情や誹謗中傷などの攻撃性は、形を変えたSOSであることが多い。生まれてきてよかったと感じる幸せに触れてみたいと乞い願う、そのひと自身のこころの叫びであることが多い。

瞬間をぶちまけて輝くこと。

素晴らしい風景を目にしたとき、美しい時間を過ごしたとき、私達は、いつまでもその瞬間を忘れないでいられるように、写真に収めたり、言葉に残したり、自分のこころに焼き付けようとする。それでも、その瞬間が、その刹那が、素晴らしいものであればあるほどに、写真には収められないということを、とてもじゃないけれど言葉にすることはできないのだということを、同時に思う。


自然やこどもの生き様に感動を覚えるのは、それらが「瞬間にすべてを凝縮している」からなのだと思う。過去でもない、未来でもない、ただ、この瞬間に自分の生命をぶちまけて輝いている。思い煩うこともない。出し惜しみをすることもない。その姿を目にした時に、ああ、自分はいまをしっかりと生きていなかったのだということを、そして、自分もこんな風に生きられたらということを思う。


時間にも、命にも、限界がある。限界があるからこそ、いまあるものに輝きが宿る。生きているということは、瞬間【力】を持つということだ。瞬間をぶちまけて輝くことができる、その可能性を誰もがすでに持っているということだ。自分を磨り減らすような比較や競争からは距離を置き、絶対的な自分に集中すること。生きているということは、瞬間をぶちまけて輝くことができるということだ。


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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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