いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残る瞬間のど真ん中を。

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関西空港を経由してタイのドンムアン空港に着き、5日、バンコクで開催されたわたりカフェ&トークイベントに登壇(?)した。大勢の人々がはるばる遊びに来てくれて、また、参加者のひとりひとりの雰囲気がとても柔和で素晴らしいもので、心に深く残る1日になった。ほんの一瞬の出来事だとしても「いま、このひとと心を通わすことができた」と思える瞬間の中には、言葉にならない喜びがある。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・自分を開けば、世界も開く。


こんなにもたくさんのひとが来てくれるとは思わず、ただ、ただ、感動してしまった。日本から来てくれたひともいた。小さなこどもたちもたくさんいて、見ているだけでも元気を貰えた。自分がいまいる場所を好きになるかどうかは、多分、自分の心理状態に大きく依存している。自分を開けば、世界も開き、幾つもの素晴らしい側面を見せてくれる。平和とは、外的な要因ではなく、心の状態だと思う。自分を閉ざせば、世界も閉じる。幾つもの素晴らしいものたちも、そのまま、流れ去ってしまう。

2・悪を糾弾する心も、同じように悪である。


私は、誰の生き方も否定をしたくない。他人がしたことやしなかったこと(してくれなかったこと)ではなく、できることならば、自分がしたことやしなかったことだけに集中をしていきたい。理由は単純で、私は弱い人間だからだ。他人の生き方にああだこうだと言いたくなっている時、私の心は静けさを失い、波風が立って、乱れている。乱れた心のままでは、自分で自分を護ることが難しくなる。大切なことは、他人の濁りを指摘することよりも、自分の純度を高めることだ。

3・ヘタクソなままでいいし、ヘタクソなままがいい。


コミュニケーションの本質は、何を話すかよりも「どのような気持ちで話すか」に宿るものだと思っている。心のない言葉は、どれだけ綺麗でも、どれだけ耳当たりの良いものだとしても、聞く人の心には届かない。語彙力はなくても、自分の気持ちを的確に表現できる言葉は見つからなくても、まっすぐに、精一杯に何かを伝えようとする人の姿には、見る人の心を動かす力が宿る。言葉だけではない、多分、私達は「言葉を含めた身体全体」を通じて、コミュニケーションを交わしている。

4・自分の弱さを認めた分だけ、他人に優しい人間になる。


自分の強さを認めた分だけ、他人に厳しい人間になる。自分にもできたのだから、お前もやればできるのだと、何かをできないひとの姿を「努力が足りない」からだと叱責をする。厳しさは萎縮を生み、そのひと自身が本来持っていたはずの力さえ、芽が出る前に潰してしまうこともある。きっと、弱さとは「自分の弱さを認められない弱さ」のことだ。自分の弱さを認めた分だけ、他人に優しい人間になる。弱さを認められた土壌の上にだけ、咲く花もある。

5・一般的な幸福に惑わされると、自分の幸福を見失ってしまう。


月並みな言葉になるけれど、いままで、何度も何度も目にしては通過してきた言葉になるけれど、大切なことは「他人がどう思うかということではなく、自分がどう思うかということ」だ。誰も理解者はいなくても、いまはまだひとりきりだとしても、自分の心は確かに素晴らしいと感じたものならば、紛れもない、それは本当に素晴らしいものなのだ。





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6・自分が溶け出していくこと。


抽象的な話になるけれど、俺が、俺が、となっている時、そのひとは(水に例えるならば)固体の状態になっている。固体は硬い。氷は冷たい。何かと交わることもない。それが徐々に溶け出した時、そのひとは固体から液体になる。液体は流れる。温度も上がる。周囲の液体とも混ざり合う。そして、最終的には気体になる。素晴らしいひとの存在は、まるで、そこにいるだけで周囲の空気を変えてしまう力がある。固体から液体へ、液体から気体に変化していく過程の中に、自分の純度を高めるヒントがあるような気がしている。

7・何度でも、宝物を探しに行こう。


わかってしまう(先が見えてしまうことに対する)退屈さもあれば、わからないことに対する不安や恐怖もある。同時に、何かを理解することの楽しさもあれば、自分は何もわからないということをわかる楽しさもある。ひとつの答えを常に胸に抱き続けることは、人間には、とても難しいことだ。だからこそ、僕達は、生きている限り見つける楽しさを喜んで行ける。

8・無理をすることは、ガチガチの固体。


バンコクのイベントを主催してくれたまさみさんは、とにかく素直で、リアクションも豊かで、かといって誰かに気に入られる為にしている訳でもない、ただ、そのまま、自然なままでそこにいる姿が、ほんとうに素敵だった。ほんとうに素敵なひとは、ほんとうに可愛い。無理をすることは、ガチガチの固体だ。何かをしなければいけないとかではない、頭ではない、ただ、自然に「何かをしたくなってしまう」瞬間の中に、透明な魅力は宿るのだと思う。

9・同じ気持ちを分かち合う。


あのひとのことばかり考えている。

10・どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残る瞬間のど真ん中を。


トークイベントなどに出演をすると「夢や目標はありますか」と尋ねられることが頻繁にある。その度に、私は「特にありません」と答えていた。誰かに胸を張れるような夢もなければ、自分のモチベーションを高めるような目標もない。そんな自分をダメだなあと思う時期もあったけれど、しかし、ないものはない、無理矢理何かを用意をしたとしても何処か違和感がある、それならば「夢も目標もないままに生きる」しかない、それでいい、そのままでいい、そんな風に自分のことを思っている。

夢も目標もない自分にも、強く感じている部分は二つある。ひとつは「言葉に対する執着」のようなもので、何処にいても、何をしても、私は、言葉を綴ることをやめなかった。誰かに頼まれている訳でもないのに、それで生計が成り立つ訳でもないのに、ひたすらに、ひたすらに、自分が感じていることを言葉に置き換え続けてきた。それは、まるで自分の生きた証を残すかのように、自分の心臓に消えない刺青を掘るように、自分の内部に強く刻まれている。言葉を綴り続けること、そこに、私は自分が生きていることに対する大きな何かを感じている。

そして、もうひとつは「毎日、今日も生きたと思って眠りに落ちたい」という思いだ。いまの私には、固定された夢も目標も何もない、ただ、こどものような愚直で幼いこの願いしかない。どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残るような瞬間のど真ん中を。バンコクに沈む夕日が綺麗だった。心に染みる、素晴らしい夕日だった。きっと、いまの自分にも夢はある。いまの自分にも目標はある。燦然と輝く、いまの自分にも理想はある。それは、今日も生きたと思って毎晩眠りにつくことであり、最後の瞬間に「俺は生きた」と思いながら、こどもが眠るように、人生に幕を降ろすことだ。

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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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