いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

流動的な存在であるために。

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東京都国立市で開催されたイベントに登壇(?)した後に、熱海に戻った。職場でも、子育てでも、自分が解決できていないことを他人に教えることはできない。こどもの教育に悩むお母様とお話をする機会があったけれど、(こどもは勝手に学んでいるものだから)無理に何かを教えようとしたり、母親としてしっかりしなければいけないという思いは持たなくてもいいのではないだろうかと思った。


私は親になったことがないためにこどもの気持ちしかわからないが、こどもは、不完全でも構わないから親には楽しそうに生きていて欲しいと思っているのではないだろうか。逆に言えば、両親が常にイライラしたり心の余裕をなくしていたら、こどもは常に萎縮をして、自分の感情を溜め込み、時には「自分がいるから両親はイライラしているのだ」と自分を責め、世界を恐れて、周囲の顔色を伺う人間になる。私の場合、親が非常に適当な人間であったために、自分も適当な人間になることができた。この点は、とても親に感謝をしている。

自分に肩書きを与えない。

適当な人間が功を奏したのか(功を喪失したのか)、いまの自分には社会的な肩書きが何もない。文章は書くが作家ではなく、移動はするが旅人ではなく、わたり文庫やわたり食堂などはやっているが活動家ではなく、呼ばれたイベントなどには出演するが講演家という訳でもない。そのため、自己紹介をする時には非常に困る。多くの場合、ただの胡散臭い人間だと思われてコミュニケーションは終了する。自分を説明する言葉を持ち合わせていないために、ああ、今日もわかってはもらえなかったなあと思うことは多い。

自分に肩書きがあれば説明も楽になるだろうとは思うものの、私は、まだ、自分に肩書きを与えていない。これはある種の反骨精神にも似ていて、私は、人間が「自分の外側に装着しているもの」に対する関心が薄い。大企業の社長だとか、金持ちだとか、著名人であるとか、世界を舞台に活躍をしているとか、巷ではこれだけ話題になっているのだと耳にしたとしても、正直に言えば「だから何なのだろうか?」という気持ちになる。世間的にどのようなポジションにいるのかという相対的なものよりも、そのひと自身が何を感じ、何を思いながら生きているのかという『絶対的なそのひと自身』に興味がある。

だからなのだろうか、あなたはこういうひとですよねというカテゴライズをされてしまった瞬間、私の中にある反骨精神が爆発して「違うし!」と叫びたくなる。固定されてしまうことを、自分の役割を限定づけられてしまうことを、極端に恐れているのかもしれない。固定されたくない。自分の役割を限定づけられたくない。こどもじみた思いかもしれないが、私は、流動的な存在でありたいと思っている。

流動的な存在であるために。

最近は、ことあるごとに「捨てなさい」という言葉が脳裏をよぎる。高級な家や車や家具を所有することの中には自身の欲望を満たす快楽もあるかもしれないが、同時に、傷つくことや失うことを常に恐れる不安定な状態にもなる。目には見えない「見栄」や「プライド」や「世間体な肩書き」なども、それによって自分を律することができる場合もあれば、同時に、それに縛られる(守ろうとする力が働く)ことによって、自身の自由を喪失する場合もある。


家のない生活をはじめた頃から、自然を愛する気持ちが極端に増えた。昔はペットを飼いたいなどとも思っていたが、いまでは、家の前を通る野良猫や野良猿や野良狸(熱海には猿や狸が出る)を眺めているだけで「ある意味で、これもペットだ」という気持ちになる。大都会の街中ですれ違う美女も、かつては自分のものになったらいいなあなどと思うこともあったが、いまでは「眺めているだけでいい【一緒になるのも、一緒にならないのも、ある種の縁だ】」という、野に咲く花を眺めている時のような気持ちになる。


自分は強いのではなく弱いのだと、自分は賢いのではなく愚かなのだと思うようになってから、生きることが楽になった。多くのものを維持できる強さが自分にあれば、捨てずに持ち続ける生き方もできたかもしれない。しかし、今世における私には、そのような余裕は持ち合わせていないみたいだ。流動的な存在でありたければ、余計な見栄やプライドを、ポイっとゴミ箱に捨ててしまうことだ。

雨の日は、沢蟹も出る。

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「おお、また来たか!」と、話しかけている。

『「足もみ」で心も体も超健康になる!』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、田辺智美さん著作『「足もみ」で心も体も超健康になる!【王様文庫】』です。この本は、熱海に遊びに来てくれた女性が「これはいいですよー!」とおすすめしてくれた最高の一冊になります。ふくらはぎや足裏は「第二の心臓」とも言われていますが、私も、自分の生活が行き詰まった暁には『ふくらはぎもみ師(ふくらはぎもまれ師)』として、第二の人生を歩みたいと思います。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、熊本県にわたりました ※※※


アキレス腱の周囲がもったりとして、足首のくびれがほとんどなくなってしまっている状態の人も即、足もみを。

足首が太いのは遺伝や体型のせいではなく、毒素や老廃物が付着しているケースがほとんどです。

しっかり足もみをすれば、必ずキュッとしまった足首になり、全身の肌ツヤもよくなります。



何者でもないからこそ、すべてになることができる。

自分の外側に装着したもので自分を誇るような、そういうものには、もう、あまり興味を持てなくなってしまった。どれだけ金を集めても、どれだけ周囲の評判を集めても、どれだけ高級な装飾に身を包んだとしても、どれだけ立派とされている行為を成し遂げたとしても、根本のところで感じている「虚しさ」をごまかすことはできない。それならば、今世の自分は「(有ではなくて)無に賭ける」しかないのだろうと、自分の外側に装着しているものではなく、何もかもを剥ぎ取った後に残る『裸の自分』で、どこまで行けるのかを見てみたいのだと思っている。


自然のすべてはこの世にひとつしかない天然記念物のようなもので、こどもを、花を、異性を、動物を、あらゆる自然を、檻の中に入れて閉じ込める(カテゴライズをして固定する)ような真似はしたくない。花や女性やこどもを「眺めているだけでいい」と感じている時の自分は、同じように、その対象に対して「生きているだけでいい」と感じている。相手を自由にさせているときに、自分のこころも、同じように自由になることができる。この気持ちを、この感覚を、出来ることならばなくしたくない。


何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何かをしなければいけないという罪悪感に駆られている時期は辛いけれど、その時期を超えた先には、前よりも透明で、前よりも強い、そして、前よりも揺るぎのなくなっている自分がいるのだと思う。何者でもないからこそ「何者にでもなることができる」のであり、何者でもないからこそ「すべてになることができる」のだと、私は思う。何者でもなく生きるということは、ただ、そのままの姿でそこにあるということだ。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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MAIL keigosakatsume@gmail.com
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