いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

これは物凄い大切なことだと思うのだけど、多分、仕事でも家事でも人間関係でも『感謝しながらやっている人』と『感謝されたくてやっているひと』の二種類がいる。

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庭に植えた梅の小枝が、朝、目覚めて見ると花を咲かせていた。春は、小鳥のさえずりや芽吹く草木など「見つけることのよろこび」に溢れている。何かが『育つ』姿を見ることのなかには、普遍的なよろこびがある。大袈裟だけれど「(成長が見たいから・大きくなるまで世話をしたいから)まだ死ねない」という気持ちになる。春だ。四季のある日本に生まれて良かったと、心の底から思える瞬間になる。

たのしみは朝おきいでて昨日まで無(なか)りし花の咲ける見る時
橘曙覧「独楽吟」より

猿が風流をぶち壊した。

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春の情緒を味わいながら「ゴミでも出しに行くか」と外に出たら、驚いたことに猿がいた(「猫かな」と思ったら猿だった)。近所のひとも「この辺は猿が出るから、戸締りをちゃんとしていないと家の中のものを持って行くんだよ」と聞いていた。おそらく、食べるものがなくなって山から降りてきたのだろう。鋭い眼光が「奪えるものは何でも奪うぜ!」と物語っていた。

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こちらに迫ってくる。正直に言えば、恐怖である。私の大切な『春の情緒』は一瞬にして吹き飛び、全開にしていた玄関の扉を「殺られる!殺られる!」と思って音速で閉めた。扉を閉めた瞬間に、背後に迫っていた猿が全力で扉にタックルをした。私は、生きているものが好きだ。ガタン!と、大きな音を立てながら連続して突撃を続ける猿を見て「こいつ、生きているな」と思った。

トイレットペーパーの宝庫になる。

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「わたり食堂」という名前の0円食堂を開催した際に、トイレットペーパーの減り具合に衝撃を受けた旨をブログ記事から投稿したら、驚いたことに複数名の方から「送ります!」と、大量のトイレットペーパーが届いた(本当にありがとうございます!!)。私は、自分の心の小ささを恥じると共に「これからは、思うままにトイレットペーパーを使ってもらおう」と、気持ちを新たにした。


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トイレの棚はトイレットペーパーでパンパン(略してトイレットパンパン)である。改めて、この家は「善意のかたまり」であるということを思った。何かが足りなくなった時、必ず、誰かが何かを届けてくれる。強制的なものではない、自分の内側から静かに湧き上がってくる感情がある。感情の名前は『感謝』だ。そして、多分、幸せとは『何かに感謝をしたくなる』瞬間のことだ。自分は生かされているのだということを、自分ではない、何か大きなものに感謝をしたくなった。

「わたり子育て」という発想。


家のない生活をしていた頃、バリ島在住の女性に招待をしていただき、現地の方々と一緒に生活をする機会に恵まれた。そこでは、複数の家族が同じ敷地内に暮らしていて、誰が誰の親なのか、誰が誰の兄弟なのか、そういうことがどうでもよくなるほどに、全体が溶け合って暮らしていた。そして、私は「必ずしも家族単位で(ある種、家族単位で分断されているみたいな状態で)暮らす必要があるのか」ということを思った。


家のない生活をしていた当時は「(今世においては)結婚は無理だな」と諦めていたが、冷静になると、いま、家がある。これは「育児も余裕で出来るじゃないか!」と、目が覚めた。そこで閃いたのが『わたり子育て(みんなで育てる)』という考え方になる。そのような話を、先日、東京の国立で過去に市議会議員をしていた女性に話したら、後日、Facebookメッセンジャーから連絡が届いた。

坂爪さん、一昨日はありがとうございました! 私までランチをご馳走になり、申し訳ない限りです。とてもありがたく、嬉しかったです。「受け取ることにためらわないでください」と言った坂爪さんの顔は聖人のようで、神々しいくらいでした。 わたり文庫、わたり食堂、そして「わたり子育て」ってどうでしょう?と真顔で聞かれたとき、これは革命? 尊い社会実験?と、目がさめる思いがしました。それで救われる人がどれほどいるだろう、と後光が差して誰かのお困りごとは誰かの歓び。市議をやっていた4年間、「お困りごとはないですか?」といろんな人に尋ねながら思っていたのはそれでした。ごはんが食べられる歓びよりも、食べさせてあげられる歓びはそれを上回るかもしれない。子どもが欲しくて欲しくてつらい治療に耐えている友人を思うたびに、虐待で傷つく子どもを見るたびに、シェアできればいいのに、と思っていたところに「わたり子育て」!

あ、書いているうちに押してしまった(>_<)。途中変な文章になっていますが気にしないでください。とにかく、坂爪さんの生き方は、この世界の在り方を問う壮大な実験であり、唯一のアートであるとともに、人はなぜ生きるのか、どう生きるべきか、を問い続ける哲学そのものだー!といまさらながらに感動しています。発想が先を行き過ぎてついていけない大人が多いかもしれないけれど、キリストや仏陀の教えに近い気がしています。文筆家というより詩人、哲学者、思想家、革命家。いえ、そんな古い名称にハマらない人生を、生きてくださいね。ありがとうございます。

坂爪「ありがとうございます!!!(感動)」

一夜限りの米騒動

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皆様のご好意により、大量の白米(しかも自然栽培!)が自宅に届いた。しかし、誠に申し訳ないことに玄米しか食べることができない(白米を食べると不思議と調子が悪くなる)私は、ご希望される方に白米を無料で郵送する『わたり白米』を敢行した。その旨をFacebookから投稿すると、驚いたことに2時間で50件もの連絡が届いてこころの内線がパンクした。

結果的に、米は高円寺とスリランカ(!)に郵送することになった(お申し込みをいただいた皆様、ありがとうございます!)。内側から湧き上がる感謝が連鎖することを祈るばかりである。これは余談だけれど、過去に『わたり文庫』の一冊をドイツに郵送した際、かかった郵送代は600円程度と比較的安価だった。スリランカに米(2キロ)を送る際も、SAL便で3600円(国際便小包は5000円程度)だった。これが安いのか高いのかはわからないけれど、非常に勉強になった。

『自然療法』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、日本の伝統的バイブル『自然療法(東城百合子著)』です。私が、個人的に最も感銘を受けた部分は「砂風呂」です。砂風呂にはいるだけで、全身から毒素が排出されて(砂風呂の周囲がガス臭にまみれることも!)ガンも治る(!)のだそうです。砂袋をつくって眠るだけでも非常に高い効果が期待できるらしく、誰か、裁縫が得意な方に砂袋をつくっていただきたいと思いました。そして、砂風呂の何よりも素晴らしい点は「無料(お金がかからない!)」ということです。この夏は、絶対に砂風呂にはいろう(いますぐにでも南国に飛びたい)。ご希望される方は、何かしらの形で坂爪圭吾(さかつめけいご)までご連絡ください。

※※※ こちらの本は、沖縄県にわたりました ※※※

感謝をしながらやっているのか、感謝されたくてやっているのか。

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この家は「善意のかたまり」であると書いたが、必ずしも善意だけが集まる訳ではない。生きていれば賞賛だけではない批判や中傷も届くし、まだ会ったこともないひとから「死ね」とか「消えろ」と言われることもある。批判を受けると、心は萎む。そして、多分、人間には『感謝しながらやっているひと』と『感謝されたくてやっているひと』の二種類がいるのだと思うようになった。

誹謗中傷を繰り返すひとは、多分、感謝をされたいのだと思う。「あなたがいてくれたおかげで、私の力になりました」と、誰かに言ってもらいたいのだと思う。しかし、感謝されたいということは『感謝させたい(他人をコントロールしたい)』ということになる。だからこそ、受け取る側は「コントロールされたくない!」という強烈な抵抗を覚えて、やがて、そのひと(感謝を要求してくるひと)を避けるようになる。

国立のイベントに来てくれた女性から、一通の連絡が届いた。その内容があまりにも素晴らしかったために、最後に全文を引用します。謙虚さとは、多分「自分は生かされている」という感覚だと思う。そして、謙虚さを失った瞬間から、人間は調子に乗り、最後には痛い目に遭うようにできているのだと思う。感謝の気持ちは「持てるひとは持つことができるけれど、持てないひとは永遠に持つことができない」というものではないと思う。誰もが(自分の力だけで生きているのではなく)周囲の力によって生かされているのであり、そのことを強く実感できた時に、ひとは静かな幸福を手に入れるのだと思う。



国立のお話会に参加した
⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎と申します 

お会いできてとても嬉しかったです


あの場所で感じたことを書かせてください




当日わたしは

坂爪さんは多くのものを贈られる際に
贈らせてくれてありがとう
というような気持ちの贈り物と

感謝してほしいとか、坂爪さんを使って何か別のものが欲しいとか

そんな気持ちで贈られてると感じるようなものがありませんか?

と質問しました



1年くらい前から坂爪さんのブログを読んでは、
自分の心が透明に戻るような気持ちにさせてもらい。
坂爪さんのことが知りたくて、生まれたところを見てみたいと1人新潟に行ってみたりしていました


でも坂爪さんのことがとても好きなのに
ずっと何か贈りたいという純粋な思いになれない自分がいました。


会いたいと思うのも
坂爪さんから何かが欲しかったから
それがわかっていました。



そして
そういう自分のちっぽけさを
どこかでずっと責めていました。



純粋に与えられない私は
この人を好きでいる価値がない人のような

というか
本当は誰のことも(自分のことさえ)好きではないんじゃないか?
といような気持ちがありました




でも

国立のお話会で坂爪さんに会え
ただ坂爪さんを見て感じていた時に
ある思いが突然湧き上がってきたのです



それは、うまく言えないのですか

清々しいまでの
自分を肯定する気持ちのようなものでした





それは
あの場所にいた坂爪さんが
ただ自分としてそこに在る


ただそれだけに
力を使っている方のように感じられたから
(私にはそう感じました)




何かになろうとか



何かを与えようとか



何かを受け取ろうとか



そう言ったものが皆無で



ただそこに
坂爪圭吾として在る
(全力で)




それが美しくて、清々しくて






それは

オレはこうだ!!
というような
自己主張や自分を押し付けるような類のものではなく

その対極にあるようなものでした





この感覚はお会いしなかったら絶対にわからなかったと思うので、お会いできて本当によかったと思いました



帰りの電車の中で


あぁ今日は坂爪さんのこの姿を見るために
ここに来れたんだ
と思いながら




どんな場所でも
私として在ることに力を使おう

そんなことを考えていました





そして今
わたり文庫に私の大好きな本を届けたくて仕方がない自分がいます




私もこんな思いが持てるんだ


それがただ嬉しいです






なんだかまとまりのない思いを
書かせてもらいごめんなさい。

読んで頂いてありがとうございました。



お会いできてとても嬉しかったです



インフルエンザが流行っていますが
お身体お気をつけてください


⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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