いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【KIX-東京】最大の復讐は「許す」ことだ。

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東海道新幹線で新大阪から小田原に向かい、二宮で開催されたイベントに登壇した後に、東京にはいった。最近は「悪を糾弾する心も、同じように悪である」ということを思う。クリスマスが近いからなのだろうか、出会う人や様々な書籍を通じて、キリスト教の考え方に触れる機会も多い。聖書には「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」という言葉がある。


悪を糾弾する心も、同じように悪である。

今年の夏、印象的な体験をした。その日、私は数年前にブログ読者の方から無償で頂戴した(!)スーパーカブに乗りながら、夜の街を走っていた。夜の道路の車通りは少ない。その時、私の前には一台の軽自動車が走っているだけだった。信号が赤になる。軽自動車が止まる。その後方で、私も止まる。辺りは静寂だ。誰もいない。信号は赤のままだ。私は「早く青にならないかな」と思っていた。

すると、前にいた軽自動車が、信号が赤であるにも関わらずに突如車を走らせた。私は「おっ!(悪いことをしているな!)」と思った。小学生だったら「先生にちくってやる!」と思っていたかもしれない。10秒後には信号が青になったので、私は、いっちょ前を走る軽自動車に追いついてやれと思った。あなたがやったことを、私はしっかりと見ていましたよということを、目の前を走る軽自動車に伝えてやりたいと思ってしまった。

その時、私は、私の中にある「悪い部分」の存在を確認した。誰かが悪いことをした時に、それを告発しようとする態度の中には、正義の仮面を被った『悪』がある。悪を糾弾する心も、同じように悪である。そう思った。信号無視をしたドライバーが悪ならば、信号無視を告発(?)しようとしている私の心の中にも、同じように「悪い部分」が確実に含まれていると思った。

精神の高貴さを失わせるもの。

先日、本屋を歩いていたら「アホノミクスがなんたらかんたら」というタイトルの本を目にした。背表紙には「日本の政治は間違いだらけ!(アベノミクスをぶった切る!)」みたいなことが書かれていた。私は、正直に言うと、この本のタイトルを見た瞬間に嫌な気持ちになった。そして、小さな頃に耳にする「アホという奴がアホだ!」というような言葉を思い出した。

罵詈雑言を耳にする機会は多い。私には、相手を傷つける言葉を使った瞬間に、その人は自分の心も同時に傷つけているように見える。アホだのバカだの、誰かを傷つける目的で言葉を多用する人間は、自分でも気づかない内に「精神の高貴さ」を自ら貶めているように見える。

あらゆるメディアは、まるで鬼の首でも取ったかのように「あいつはこんなに悪いことをしていました!」という暴露の記事をばら撒き続ける。そして、それを見た人々も「あいつにはがっかりだ!」という反応を示す。有名税という理不尽な言葉も生まれ、最悪の場合には「死ねばいいのに」という言葉まで浴びせられる。しかし、自分とは関係のない第三者が何か悪事を働いたからと言って、自分の人生に何の影響があるだろうか。自分とは何も関係がない場所で起きた悪に反応して、何かしらのネガティブなリアクションを示すことは、自分でも無意識の内に「悪に加担している」とは言えないだろうか。

最大の復讐は「許す」ことだ。

かく言う私も、頻繁に苛立ちにまみれることがある。自分の知名度が増えることに比例して、私を利用して金儲けを考える人間や、私を利用して自分たちの活動を宣伝しようとする人間からの連絡が、最近、とみに増えている。自分のこころに余裕がない時は、そうした態度に如実に反応してしまう自分がいて「お願いだから二度と連絡をしないでください」というようなことを、実際に言葉にしてしまうこともある。


しかし、こうした体験を重ねながら、人にはそれぞれ事情があるのだということもわかってきた。私を利用したいひとには私を利用したいひとなりの事情が、誰かを罵倒せずにはいられないひとには誰かを罵倒せずにはいられないひとの事情が、スピリチュアルに救いを求めるひとにはスピリチュアルに救いを求めるひとなりの事情が、こどもを虐待する親にはこどもを虐待する親の事情が、必ずあるのだ。世の中に、多分、生まれながらの加害者だという人間はいない。誰もが最初は無垢であり、周囲の環境要因などによって、そうならざるを得なかった(その人自身の責任を超えた)事情を何かしら抱えているものだ。

どうしても見過ごすことのできない悪もある。これだけは許せないと思えることもある。そういうものを見ると、是が非でも「あなたは間違っている!」ということを伝えたくなってしまうこともある。しかし、世の中は「自分がやったことに対するツケを払う瞬間が、必ず来る」ように出来ている。昔のひとは「お天道様は見ている」という言い方をしたが、自分が悪を糾弾せずとも、善いことを続けた人間には善いことが、悪いことを続けた人間には悪いことが、魂の結果として(それを自身の良心や自然の摂理を通じて)必ず訪れるように出来ている。

すべてを知れば、すべてを許せる。


世界は鏡だ。相手を傷つける言葉を使った瞬間に、自分の心も同時に傷つけている。目の前にいる人間を愛するようにつとめることは、そのまま、自分自身を愛することにもつながる。境界線はない。世の中は、自分が投げたものがそのまま自分に返ってくるように出来ている。自分が投げたものが、自分にそのまま返ってくるように出来ている。全部が自分になる。すべてが自分になるのだ。

憎しみの感情で何かをすれば、世界に憎しみの総量を増やしてしまう。慈しみの感情で何かをすれば、世界に慈しみの総量を増やすことができる。大事なことは、隠された悪を撲滅することではない。隠された悪を撲滅したところで、世界の美しさが増える訳ではない。憎しみは、また別の憎しみを生む。私は、できることならば、未熟な部分を大量に抱えながら、それでも「美しい」と思える世界を生きていたい。

クリスマスの時期が近づいている。クリスマスの本当の意味は何だろうか。イエス・キリストは、人間の原罪を背負って十字架に磔になったと聞く。最大の復讐は「許す」ことだ。悪を糾弾する心も、同じように悪になる。人にはそれぞれ事情がある。厳しい場合もあるけれど、すべてを知れば、すべてを許せる。大事なことは、隠された悪を糾弾することではなく、憎しみの感情から復讐を誓うことでもなく、自分自身を通じて『新しい美』を創造することだ。周囲がどうあれ自分自身は、自分が『善い』と思った道を切り拓くことだ。


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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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