いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【NRT-札幌】期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。

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新潟を経由して東京に向かい、成田空港から新千歳空港にはいった。北海道に来るのは、多分、今回が三回目になる。前回はトークイベントに呼ばれて洞爺湖界隈に足を運んだが、当時の私は非常に荒ぶっていた。理由は単純で「ひとに会い過ぎていた」からだと思う。当時は一週間に5回はトークイベントに出演する日々を過ごしていた。自分が思う以上に神経は磨り減っていて、一緒に行動を共にしていたみっつに「死にたい」などと漏らしたりしていた。


口数と自信の無さは比例する。


私は、自分の話ばかりを一方的に延々と続けるひとが苦手だ。「このひとは病気なのかな」と思う。大勢の人間が集まる場所に行くと、必ず、そういう類の人種と出会う。口数の多さと自信の無さは比例する。多分、自分の話ばかりを延々と続けるひとや、自分の外部に答えを求めて彷徨っているひとは「混乱している」のだと思う。チューニングが出来ていない身体は不協和音を発して、周囲の人達を巻き込む。

自分がいいなと思うものに触れたりすると、自分の身体をチューニング出来ている感覚を覚える。必要なのは「高いテンションを維持する(常に明るい人間でいる)」ことよりも、自分をチューニングできる場所や時間を持つことで、最も重要なポイントは「ひとりでやること」だと思う。期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。

自分の正当性を主張するほどに「自分は被害者である」ということが強化される。


誤解を恐れずに言うと、いま、混乱しているひとが大量にいる。このひとは混乱しているなあと思うひとの話を注意深く聞いていると、特定の単語を頻繁に口にしていることに気がつく。どのような単語を口にするのかはひとによって様々だけれど、先日会った女性は「母」という単語を何回も口にしていた。母は私を愛してはくれませんでした。母親みたいにはなりたくないのです。私は母親に見捨てられたのです。また、前に話した男性は「自由」という言葉を頻繁に口にしていた。自由になりたい。みんな、もっと自由に生きた方がいい。自由でなければいけないのです。

おそらく、前者の女性は母親との間に未解決の問題を抱えていて、後者の男性は「自分のことを不自由だと思っている」のだと思った。多分、自分に足りていないものを、自分が受けた傷を象徴しているものを、当人も無意識のうちに繰り返し言葉にしているのだろう。その姿は、まるで自分の正当性を主張しているように見えた。自分の正当性を主張すればするほどに「自分は被害者である」ということを自分で強化しているように見えた。

「愛されたい(与えられたい)」は「奪いたい」


東京でひとりの女性と話した。彼女とは初対面だった。私の存在を知人の紹介で知ったという彼女は、直接電話で「会えませんか」と連絡をくれた。私は時間的にも余裕があったので、四谷三丁目で落ち合うことになった。彼女は過去に重度の精神病を患った経験があり、現在も断薬は続けているものの後遺症のようなものに悩まされているのだと矢継ぎ早に話した。

「最近さかつめさんのことを知ったのですが、さかつめさんも過去に統合失調症躁鬱病を経験しているのだと伺って、それでもいまは元気に生きているということが不思議でどうやっているのかなとかそういうことがすごい気になって私も薬はもう飲んでいないのですがいまだに後遺症に悩まされることもあってどうすればいいのかわからなくてこうして実際に連絡をしてお話させていただくことで何かヒントを与えてもらえたらいいなあと思っていたのですが、あの頃の自分に比べればいまはだいぶよくなっていて一度死んだ命だと思えばいまはなんでも新鮮な輝きを帯びているように世界は見えているからこそ明日死ぬかもしれないという思いが常に自分にはあるのでやりたいと思ったことはすぐにやるようにしていて会いたいと思ったひとにはすぐに連絡をして実際に会いにいくようにしていてそこから色々な気付きや発見を与えてもらっているのですが、さかつめさんはいつから家のない生活をはじめているのですか?」

私は質問には答えなかった。

現実が思うようにならないという幼児的な甘え。


これらの出来事に共通して言えることは「甘え」なのではないだろうか。期待は自分自身に寄せるものであって、他人に寄せた瞬間に甘えになる。誤解されると困るが、私は甘えることが悪いことだと言いたい訳ではない。問題は「甘えていることに対する無自覚さ」であると思っている。甘えていることに対して無自覚であることは、自分のチューニングを酷く狂わせるばかりか、周囲の人間も混乱に巻き込む。

誰かのせいで不幸になったと考える人間は、同じように、誰かの力を剥奪することで自分を幸福にしようとする。自分を苦しめているのは自分の考え方だということを考えたことのない人間は、現実が思うようにならないという幼児的な怒りを抱えていて、常に、自分が甘えられる対象を探している。

甘えることが当然とされている世の中では、多分、被害者でいる方が圧倒的に都合の良いことがあるのだろう。自分の頭で物事を考えるよりも、誰かに決められた道の上を歩く方が、何も考えないで済む、面倒なことは避けることができる、自分の不幸を誰かの責任にすることができる。私は、自分の人生を背負って立っているようなひとが好きだ。彼らは「現実が思うようにならない幼児的な怒り」とは無縁の場所にいる。その代わりに「静かな怒りをキープし続けている」ような印象を受ける。安易な雰囲気に惑わされないためには、愛でもなく、感謝でもなく、静かな怒りが必要になるのかもしれない。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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