いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【SVO-鹿児島】百回の慰めよりも、一回死ね。

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モスクワを経由して成田に入り、小規模な天国旅行を終えた後に、鹿児島に向かった。モスクワから成田までのフライト時間はおよそ10時間だったので、成田から鹿児島までの二時間のフライトが非常に気楽に感じる。一度遠くまで足を運んでしまえば、心理的な距離が一気に縮まる。あれほど遠いと思っていたヨーロッパでさえも、その気になればいつでも行けるのだということが分かった。


鹿児島に来た目的は、古くからの友人であるミッドナイトランナーズ鹿児島の主催者である上水流君が「何かをやろう!」と声をかけてくれたことがきっかけとなり、鹿児島中央駅前の下堂薗茶舗という非常にお洒落な飲食店でトークイベントが開催された。あまり知られていないけれど、鹿児島は日本有数の日本茶の産地で、その気候柄、日本で一番早い新茶を楽しむことができる。わたしの故郷である新潟のこしひかりと鹿児島の新茶を掛け合わせれば、最強のお茶漬けができるかもしれない。

百回の慰めよりも、一回死ね。


トークイベントなどに呼ばれて出演すると、開催される土地によって集まる人の人柄がまるで異なることが面白い。時には、参加者の半数以上の目が死んでいることもあって驚愕する。誤解を恐れずに言うと、自分以外の他人の話を聞くことで何かしらの癒しや救いを求めたり、何かこう『慰められること』を求めているひとの目は死んでいる場合が多い。

それはそれで面白いのだけれど、そういう場ではひたすらネガティブな質問責めに合う。どうすれば家がなくても生きていけるのですかとか、どうすれば自分に自信が持てますかとか、どうすれば他人の目線を気にしないでいられますかとか、どうすれば勇気を持つことができますかとか、不安になることはないのですかとか、恐怖とか、生きる上で大切にしていることはなんですかとか、何かこう「ここは地獄なのかな?」というような気持ちになる。

中途半端な慰めを求めるよりも、一回死んだ方が早いと思う。死にかけているシステムや都市や人間を、延命措置するだけの日常はつらい。古い自分には一回死んでもらって、新しい自分になって生まれ変わろう(よし、死のう!)という気概がなければ、多分、人間は割と早い段階でゾンビのようになってしまうのだろう。

延命措置に未来はない。


鹿児島のイベントに参加してくれた方々は、非常に柔和な方々が多くてアットホームな雰囲気の中で楽しむことができた。40名程度の参加者が全体で円になり、いばやの活動や坂爪に対する質問を投げかける形でイベントは進行された。私は、たとえば家がなくなったことで家が増えたとか、家がなくなったことで全国各地を巡れたばかりか世界にまで進出することができて、そして、いい家に泊まることができるようになったとか、自分で金を稼いでいたときは自宅で納豆ご飯とかを食べていたのに、金が途絶えて周囲からの施しを受けるようになってから、謎にふぐとかしゃぶしゃぶとかとか懐石料理とかフランス料理とか恵比寿のBARとか、豪華な食事をする機会が目に見えて増えたことなどを話したりした。

この現象は何なのだろうか。私にはなにも答えはわからない。知らぬ間に、わたしたちの脳内には「何でも自分の力でやって一人前」という考え方が根強くインストールされている。私は、多分、およそ一年半前に経験した「家がなくなる」という出来事を通じて、自力を諦め、自分の日々に他力を取り入れることを無意識のうちにはじめていたのだと思う。

死に様を晒せ。


「一回死ぬ」ということは、何かしらのヒントになるような気がしている。基本的に、いばやは逆張りで生きているので、多くの人が自分が有利になるような生き方をしようとしている雰囲気を嗅ぎ取ったら「損をしよう!(センスのある損をする奴が新しい!)」などと言って見たり、多くの人が幸せになろうとしている雰囲気を嗅ぎ取ったら「不幸になろう!(死のう!)」などと言って見たりする。


いばやをはじめる前の私は自営業のようなことやってみたり、アルバイトをしながら自身の生計を立てていたが、心の裏側には常に「いつか路頭に迷うかもしれない」という不安や恐怖があった。ホームレスになって路上で生活をすることになったらどうしよう、などと思っていたのだ。そして、思考は見事に現実化した。晴れてホームをレスした私にとって、路頭に迷うことは「不安」ではなく「現実」になったので、恐れている場合ではなくなった。そして、仕方が無いのでホームをレスした状態の中で生きて見たら、意外とどうにかなるばかりか(もちろんつらいこともあるけれど)楽しい部分も多大にあるという新鮮な発見に目から鱗が落ちたりもしていた。

人間は簡単には死なない。


誤解を恐れずに言えば、実は、誰もがほんとうは死たがっているのではないだろうかと思うことは多い。そして「死にたい」は「知りたい」と似ている。こんなことをやったら自分はどうなってしまうのだろうか、それを「知りたい」と強く思う時、古い自分にヒビが入って、魔人ブウのような不敵な笑みを浮かべた新しい自分が内側からひょこっと顔を出して「LET'S GO...(死んぢゃえ)」的なことを囁いてみたりする。

多分、人間は簡単には死なない。だからこそ、一回死ぬのはありだと思う。生きようとするからつらくなるのであって「よし、死のう」と思って何かに飛び込めば、死なないばかりか意外と清々しい結果になることは多い。慰めや救いを求めて彷徨う悲しみのゾンビになってしまう前に、古い自分を殺すこと。死ぬ瞬間の手前で感じるゾクゾクの中にこそ、多分、生きていることの実感が凝縮されている。


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人生は続く。

photgraphed by いづろベース

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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