いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【SVO-バルセロナ】神は「好きなように生きなさい」と言っている。

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モスクワを経由してバルセロナに入った。日本を発つ前、周囲の人たちからは「ロシアの航空会社はリスキーだ」とか「治安が悪い」などと言われたが、情報は幻想で、そんなことはないのだということがわかった。夜間の気温は10度を下回り、11月のような気分を味わえた。


今回は、新潟の大学院に通う友達のK氏と一緒に行動をしている。彼は大のサッカーファンで、本日12日(土)にマドリードで開催されるバルセロナアトレチコマドリードの試合を心の底から楽しみにしている。そんなK氏を嘲笑うかのように、バルセロナの地下鉄で、K氏のiPhoneが盗難の憂き目にあってしまった。

Don't be afraid, but be careful.ー 調子に乗ると即死する。


私たちはバルセロナの地下鉄に乗る前に、サグラダファミリア近くのテラスカフェでパエリアと共にサングリアを飲みながら「幸せだね」などと話していた。風が吹く。雲が流れる。空が青く澄み渡っている。温暖な地中海気候に包まれ、多幸感に溢れていた。そして、完全に油断をしていた。それからサンツ駅に向かう途中の地下鉄の中で、K氏のiPhoneは消えた。

油断をすると完全にもっていかれる。調子に乗ると即死する。過剰に何かを恐れる必要はないけれど、注意深くある必要はある。悲嘆に暮れたK氏と共に、我々は警察に足を運び、これも授業料だと開き直ってマドリードに向かった。

自分を、ひとりのまま(自分のまま)にしておいてくれること。


海外に足を運ぶメリットのひとつに、おそらく「決断力がつく」というものがある。今夜は何処に泊まるのか、次は何処に行くのか、飯は何を食べるのか、など、様々なことに対する決断力が求められる。そして、それに伴う意思表示力のようなものも同時に身につく。自分はどうしたいと思っているのかを、的確に、簡潔な言葉(現地の言葉)で相手に伝える必要がある。

余計なBGMが流れていないことも良い。自分に集中できる。同じような音楽を、同じような環境で、同じような頻度で聞かされていたら、どうやって自分を保てばいいのかがわからなくなる。私はテレビが非常に苦手で、同じような理由から、過剰なBGMや、街中のアナウンスや、電車内の広告を苦手としている。

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余計なものがないことの何が魅力的なのかを考えた結果「ほっといてくれる」ことなのだと思った。それは、言い換えるならば「自分で決めろ」ということになる。余計なお世話、余計な干渉、余計なコントロールを加えないこと。自分を、ひとりのまま(自分のまま)にしておいてくれることは優しさだ。


いまいる場所が世界のすべてではない。


いまいる場所が世界のすべてではない。自分が知っていることの何倍も、自分の知らない世界は広く豊かに存在している。こうでなければいけないということはない。誰も、何も、禁止も強制もしていない。ただ、自分がそうしたいからそうしているのだ、海外に足を運ぶと、そういうことを思う。

自分が知っていることなど全体の一部にしか過ぎないのだ、という思いは自分の思い上がりをセーブする、要するに、ある種の謙虚さを生む。自分は何も知らなかったのだ、そして、いまの自分は、少なくとも何も知らなかったのだということだけは知ることができている。そう思える瞬間の中には不思議な喜びがあり、喜びの中には「希望」がある。


「一回いけばいい場所」と「もう一度いきたくなる場所」の違い。


正直に言えば、実際にサグラダファミリアを見た時に「こんなものか」と思った。そのことを同行していたK氏に伝えると、彼は「なんとなくわかる気がします。ぼくは自由の女神を見たときに、同じようなことを思いました」と言った。

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ここは一回いけばもういいやと思う場所と、ここは繰り返し足を運びたくなる場所がある。この違いは何だろうか。おそらく「ひと」が何かしら関与しているような気がしている。会いたいひとがいれば、どれだけ僻地であろうとも人間は何度でも足を運ぶ。パエリアが美味かった、このパエリアをあのひとにも食べさせてやりたい、ここの景色が最高だった、この景色をあのひとと一緒に眺めてみたい、など、何かを見たときに思い浮かぶ「誰か」の存在が、再び足を運ばせる動機のひとつになるのかもしれない。


神は「好きなように生きなさい」と言っている。


サグラダファミリアを眺めながら、ふと、世間で言われているところの宗教について思いを馳せていた。アントニオ・ガウディは熱心なカトリック信者で、その思想なり宗教観が色濃く建築に反映していた(ように思う)。私は、その佇まいから厳粛で敬虔な雰囲気だけではない、何か、堅苦しさのようなものを覚えた。

この堅苦しさの正体は何か。多分、これは神と呼ばれているものの認識の違いだと思う。私は、過去に渋谷のはなまるうどんで数時間だけ神様になるという稀有な体験をした。そして、少しだけ神の気持ちがわかったような(完全に勘違いかもしれないけれど)気がした。


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神は「あれをしなさい」とか「これをしなさい」みたいな禁止や強要をしたりはせず、ただ、そのままでいいから、自分の好きなように生きなさいと言っている。私にとっての神は、他人に何かを強制したり、自分と同じであることを期待もしない、ただ、そこにある(「わたしはここにいる」そして「自分の好きなように生きなさい」と認識させるため)だけの存在になる。

今月の頭、いばやの全国ツアーで仙台に訪れた際に立ち寄った喫茶店の店主さんから、村上龍が翻訳をしているリチャード・バックの「イリュージョン」という本を譲っていただいた。この本のあとがきには、このような事柄が綴られていた。

人間が本当に愛するものを見つけるのはとても大変なことで、それがすべて、要するに人生の中心だと思うね。一生かかっても、ついにそれが見つからない人も多いと思うんだよ。だけど、ドアが閉まっていても、いつかは絶対に自分の好きなものが見つけられると、そういうふうに導かれているんだと信じることだね。だいたいは、どこもかしこも閉まっていると、絶望的になっちゃうんだよ。だけど、あっちこっち叩いているうちに、どこかのドアがポンと開くと思うんだね。その開いたドアが、自分のいちばん求めている、愛するものへの道だと、とりあえず信じるんだよ。そこへ入る、またドアが全部閉まっている。必死になって叩くと、またひとつだけドアが開く。そういうところをひとつずつ通過しているうちに、いつか、ものすごい光が自分の中に出てくるはずなんだよ。

人間は大体、目に見えるものしか信じないでしょう?たとえば、汽車の二本のレールは地平線のとこで絶対にくっついて見える。そういうふうに見えるからそう信じているけど、そうじゃないんだね。飛行機で線路の上を飛ぶと、二本のレールは、行けども行けども平行なわけだ。また、雨が降って、地上では傘をさしている。人々は頭上に太陽があることを忘れているわけだ。だけど、ひとたび飛行機で上に上がってしまえば、そこに太陽は、あるわけなんだよ。

人間が学校というフェンスを出ると、そこは、ドラゴンワールド(現実の、悪意に充ちた世界)なわけだ。地球上には三十億だか、四十億だかの人間がいて、おまえはその三十億プラス一の余り物にすぎない、おまえのことなんか誰も関心を持っていやしない、生きていようと死のうと、こっちの知ったことか、みたいな扱いを受けることになる。ある人間がだめになるというのは、そういうことなんだよ。

どうやってそれに対抗するかといったら、やっぱり自分の歌をうたい続けることだと思うね。『うるせえ、おまえのその変な歌をやめねえと張り倒すぞ』かなんか言われて、それでだめになっちゃうことだってあるけど、張り倒されても、まだ歌い続けることだ。もちろん、ドラゴンワールドにあっては、明日の飯代をどうしよう、今日の部屋代をどうしようなんていうわずらいもある。それはしようがないから、思いわずらい、駆けずり回りながらでも、自分の歌だけはうたい続けるわけだ。

これからの『神』というのは、決してわれわれに信じて貰うことを要求するのではなく、結局、この世の中はひとつのゲームであって、そのゲームをできるだけエンジョイするためにわれわれは生きているんだということを認識させるために存在する、そういう形での神でしかあり得ない、と僕は思っている。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com