いまいる場所が世界のすべてではない。自分が知っていることの何倍も、自分の知らない世界は広く豊かに存在している。こうでなければいけないということはない。誰も、何も、禁止も強制もしていない。ただ、自分がそうしたいからそうしているのだ、海外に足を運ぶと、そういうことを思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 9月 11
Don't be afraid, but be careful.ー 調子に乗ると即死する。
バルセロナに到着しました。漂っている明るさの空気感が半端ない…土地の気候が人間に与える影響はでかい。 pic.twitter.com/NVG3nxWAwm
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 9月 11
自分を、ひとりのまま(自分のまま)にしておいてくれること。
世界の優しい無関心とは、乱暴に言い換えると「ほうっておいてくれる」ことだと思う。ほうっておいてくれるということは「そのままでいさせてくれる」ということで、そのままでいさせてくれる空間の中で、自分は自分以外の何者にもなれないし、自分は自分なのだということを思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 8月 17
いまいる場所が世界のすべてではない。
このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今なお幸福であることを悟った。(アルベール・カミュ)
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 8月 17
「一回いけばいい場所」と「もう一度いきたくなる場所」の違い。
これからは『ヒトが観光名所になる』ということを思う。観光地は一度足を運べばコンプリートされてしまうけれど、また会いたいヒトがいれば、多分、どれだけ僻地でも人間は何度でも足を運ぶ。ピリオド(関係性の清算)よりもコンティニュー(関係性の継続)が重要になると思いました。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 8月 11
神は「好きなように生きなさい」と言っている。
楽しそうに生きているひとを見ると、見ているこちらまで幸せな気持ちになる。誰かのためではなく、自分のために生きることが、結果として誰かの力になることがある。自分を深く楽しませることは、決して自己満足なんかではなく、極めれば立派な(この世でひとつだけの)仕事になるのだろう。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 8月 14
人間が本当に愛するものを見つけるのはとても大変なことで、それがすべて、要するに人生の中心だと思うね。一生かかっても、ついにそれが見つからない人も多いと思うんだよ。だけど、ドアが閉まっていても、いつかは絶対に自分の好きなものが見つけられると、そういうふうに導かれているんだと信じることだね。だいたいは、どこもかしこも閉まっていると、絶望的になっちゃうんだよ。だけど、あっちこっち叩いているうちに、どこかのドアがポンと開くと思うんだね。その開いたドアが、自分のいちばん求めている、愛するものへの道だと、とりあえず信じるんだよ。そこへ入る、またドアが全部閉まっている。必死になって叩くと、またひとつだけドアが開く。そういうところをひとつずつ通過しているうちに、いつか、ものすごい光が自分の中に出てくるはずなんだよ。人間は大体、目に見えるものしか信じないでしょう?たとえば、汽車の二本のレールは地平線のとこで絶対にくっついて見える。そういうふうに見えるからそう信じているけど、そうじゃないんだね。飛行機で線路の上を飛ぶと、二本のレールは、行けども行けども平行なわけだ。また、雨が降って、地上では傘をさしている。人々は頭上に太陽があることを忘れているわけだ。だけど、ひとたび飛行機で上に上がってしまえば、そこに太陽は、あるわけなんだよ。人間が学校というフェンスを出ると、そこは、ドラゴンワールド(現実の、悪意に充ちた世界)なわけだ。地球上には三十億だか、四十億だかの人間がいて、おまえはその三十億プラス一の余り物にすぎない、おまえのことなんか誰も関心を持っていやしない、生きていようと死のうと、こっちの知ったことか、みたいな扱いを受けることになる。ある人間がだめになるというのは、そういうことなんだよ。どうやってそれに対抗するかといったら、やっぱり自分の歌をうたい続けることだと思うね。『うるせえ、おまえのその変な歌をやめねえと張り倒すぞ』かなんか言われて、それでだめになっちゃうことだってあるけど、張り倒されても、まだ歌い続けることだ。もちろん、ドラゴンワールドにあっては、明日の飯代をどうしよう、今日の部屋代をどうしようなんていうわずらいもある。それはしようがないから、思いわずらい、駆けずり回りながらでも、自分の歌だけはうたい続けるわけだ。これからの『神』というのは、決してわれわれに信じて貰うことを要求するのではなく、結局、この世の中はひとつのゲームであって、そのゲームをできるだけエンジョイするためにわれわれは生きているんだということを認識させるために存在する、そういう形での神でしかあり得ない、と僕は思っている。