いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【TYO-国立】僕の後ろを歩かないでくれ。僕は導かないかもしれない。僕の前を歩かないでくれ。僕はついていかないかもしれない。ただ僕と一緒に歩いて、友達でいてほしい。

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昨夜、東京の国立市で開催されたトークイベントに出演(?)した。過去にも定期的にトークイベントをやっているために、何度も来てくださる方もいれば、はじめて参加してみたという方々もいる。参加者の年齢層に偏りはなく、10代から60代まで、あらゆる年代の方々が足を運んでくれる。


私は、ひとりで物事を考える時よりも、ひとと話すことで思考がまとまるタイプの人間なのだと思う。そこで受けた質問の数々をベースに、最近思うことあれこれをまとめます。

1・坂爪さんのような「家を持たない生活」や「お金がなくても世界をバンバン飛び回るような生活」は、誰にでも可能だと思いますか?

坂爪「やる必要があるかどうかはさておいて、これは誰にでも可能だと思います。ただ、すべてがうまくいく保証はどこにもありませんし、私の真似(?)をして『ぼくもこれから坂爪さんのように家のない生活をはじめたいと思うので、誰か家に泊めてください!』などと言い始めるボーイや、『ぼくもこれからは他力本願でどこまで生きられるかを試したいので、自分の口座を晒すので誰か振り込んでください!』などと言い始めるボーイを見かけることは増えました」

来場者「私も稀にそういう人を見かけます」

坂爪「正直に言うと、そういうひとを見ても『きっとうまくいかないんだろうな』という気持ちしかしません。別に何かで力になりたいとも思えないし、まあ、好きなようにやればいいよ、という風に感じます。こういう現象を見たときに、ひとの力を借りるためには何かしらのコツがあるのかもしれない、と思うようになりました」

2・何が人間のこころを動かすと思いますか

坂爪「先日、横浜の中華街で開催したイベントに、私の友人である阿部という男性が遊びに来てくれました。話の流れで『阿部さんは、何かやりたいことはありますか?』ということになり、そこで、阿部は『俺は野球が大好きで、とりわけ西武ライオンズが大好きで、過去に西武ドームを20万円程度で貸し切って野球をやったのだけれど、それが最高に気持ち良かったから、今度は広島のマツダスタジアムを貸し切って皆で野球ができたらいいなと思っているんだというようなことを話してくれました」

来場者「阿部さんとは、いばやの設立のときに50万円をくれたという、伝説の阿部さんですか?

坂爪「そうです。伝説の阿部さんです。そして、伝説の阿部調べによると、マツダスタジアムは数万円あれば借りることができるそうで、何かこう、阿部の話を聞いていたら『みんなで野球をするために横浜から広島まで行って、帰りに牡蠣でも食べて帰ってくるのも悪くないな』みたいな雰囲気が生まれているのを、私は勝手に感じました」


3・ひとの力を借りるためのコツとは何ですか?

坂爪「言い換えるならば、その場には『阿部さんの夢を実現させようとする力』が動き始めているのを感じました。もちろん、阿部さん自身は『こういうことを達成したいので、誰か僕を助けてください!』みたいな言葉は何も発していません。ただ、阿部さんは『自分は最高に野球が好きだ』ということと『広島のスタジアムを貸し切って、普段は行かない場所まで足を運ぶことができたら、多分、絶対に楽しい』と思っていることを、自身の態度で表明しただけに過ぎません」

来場者「はい」

坂爪「何が言いたいのかというと、阿部さんの話には『みんなが幸せになる方向で』という非常に重要な要素が大いに詰まっていたからこそ、それを聞いている人たちの中に『実現させようとする力』が働いたのだと思います。逆に言えば、家のない生活に挑戦したいので誰か家に泊めてくださいとか、金のない生活に挑戦したいので誰かお金を振り込んでくださいという態度には、みんなが幸せになる方向で、という要素が圧倒的に抜けている(自分のことしか考えていない)ような気がします」

4・坂爪さんが色々な体験をできているということは、坂爪さんの存在が「みんなを幸せにする方向で」作用しているということですか?

坂爪「それはわかりません。そのように言ってもらえることもあれば、一方では、まだ会ったこともない人たちから『死ね』とか『消えろ』ということを言われることもあります。誰かに面白がってもらえているのと同時に、誰かの気分を害していることも確実です」

来場者の主婦「正直に言うと、私も、普段は子育てなどの家事に追われているので、そういうときに坂爪さんのブログを見ると『チッ!』って思うことはあります」

坂爪「おお!素直!」

来場者の主婦「それでもなんで坂爪さんのブログを読むのかというと、気分だけでも、自由の風を浴びることができたらいいなあとは思っているんです」

5・坂爪さんを批判するひとたちは、何が気に食わないのでしょうか?

坂爪「前に国立で開催されたイベントで、実際に足を運んでくれた50代の主婦の方から『正直に言えば、私は坂爪さんのことが嫌いです。それで、どうして嫌いなのかを考えてみたのですが、私がいままで我慢して我慢してようやく達成することができたこととかを、坂爪さんは何も我慢しないで達成しているように見えるからなんだ、ということがわかりました』と言われました」

来場者「おお」

坂爪「これは想像の域でしかありませんが、おそらく、こうした『スキップしちゃっている感』が気に食わないのだと思います。普通なら我慢しなければ味わうことが許されなかったものを、何も我慢しないで味わっているように見える私の存在が、まるでその人自身の考え方や生き方そのものを否定しているように見えてしまうのだと思います」

6・突然ですが、坂爪さんには目標はありますか?

坂爪「どうしてそれが気になるのですか?」

来場者「というのも、いままでの私は目標などをしっかり持つことが大切だと思っていたのですが、最近ではそういうものをあまり持てなくなっていて、これは決して落ち込んでいる訳ではないのですが、自分はこれを達成するために生きているというものがいまの自分には何もないんです」

坂爪「はい」

来場者「それで、坂爪さんみたいな(自由に生きているように見える)ひとは、目標とかは持っているのかなって思って、それでこの質問を投げかけてみました」

坂爪「ありがとうございます。お聞きしたいことはなんとなくですがわかりました。そして、正直に言うと、この質問にはあまり答えなくないなあと思いました」

7・どうして「答えたくない」と思ったのですか?


坂爪「これは非常に失礼な発言になってしまうかもしれませんが、あなたが『単純に安心したがっている』だけに見えたからだと思います。たとえば、私が『目標はありません』と言えば、あなたの中では『目標なんてなくてもいいんだ!』みたいになって安心できるんだと思います」

来場者「はい」

坂爪「ただ、この場では『目標なんてなくてもいいんだ!』と思えたとしても、また別の場所で『目標を持たない人間は猿と同じだ』というようなことを発言しているひとを見たら、多分、あなたは再び目標を持つことについて悩み始めるような気がします」

来場者「はい」

坂爪「何が言いたいのかというと、自分の外側に答えを求めている限り、永遠にぶれ続けるということです。自分が目標なんてなくもいいのだと思えれば、別に目標なんてなくてもいいと思います。ただ、それが『あの人もそう言っていたから』ということが理由になると、多分、ぶれ続けると思います」

8・坂爪さんと似たようなことを、仏教のひとや瞑想の先生も言っていたのですが、坂爪さんは瞑想をしているのですか?


坂爪「瞑想などはしていません。仏教についても詳しい知識は持ち合わせていないので、自分が仏教的なのかどうかということも、あまりよくわかりません。ただ、様々なジャンルのひとたちが、別々の言葉で『同じようなことを話している』ということは、なんとなく分かる気がします」

来場者「はい」

坂爪「ひとによってはそれを『普遍性』と呼ぶ場合もあるし、『本質』とか『真理』とか『自然の摂理』みたいに呼ばれる場合もある思います。別に呼び方はなんでもいいのですが、わたしは『自然の摂理に従っていれば物事はうまいことまわっていくけれど、それに逆らうと、なんだかんだでうまいこといかなくなる』という風に感じています」

9・自然の摂理とは何ですか?


坂爪「それはひどく当たり前のことですが、朝になれば太陽が昇るとか、夜になれば暗くなるとか、生まれてきたものは必ず死ぬということや、花は枯れてまた咲くとか、鳥が飛んでいるとか、魚は泳いでいるとか、生命は循環しているとか、宇宙にも形があるとか、そういうことです」

来場者「それのどこが摂理なんですか?」

坂爪「自分でもあまりよくわかっていないのですが、多分、この世の中には『人間の摂理』と『自然の摂理』の二種類があって、もちろんかぶっている部分もあるのですが、絶妙に噛み合っていない部分もあって、(人間の摂理ではなく)自然の摂理に身を委ねていれば勝手に生き延びることができるけれど、 自然の摂理に逆らったことをやろうとすれば、割と早い段階で廃れてしまう気がしています」

10・最近は何に感動しましたか?

坂爪「最近出会った男性が『僕は感動を大切にして生きていきたいんだ』と話していました。感動という言葉は不思議なもので、それがあった方がいいに決まっているし、それを求めて生きようとする態度は褒められたものだ、という風になりやすいと思います」


来場者「はい」

坂爪「ただ、この男性の話を聞きながら、わたしは不思議な感覚を覚えました。いままでは、自分自身も『感動が大事』だと思って生きてきたつもりだったし、事実、そのような内容のブログ記事を書いてきたりもしてきました。しかし、いまの自分はもうそこにはいないのだと思ったのです」

来場者「はい」

坂爪「誤解を恐れずに言うと、感動が大事だと話す男性を見て、わたしは『ああ、この人は(いまはまだ)感動をしていないんだな』と思ってしまったのです。男性は感動の外側にいて、感動に触れることが大事だと話しているように見えたのです」

来場者「はい」

坂爪「その話を聞きながら、ああ、自分は(うまいこと言えないけれど)既に感動の内側にいるのだなあと思いました。ちょっと前の自分は『感動を味わうために生きている』と思っていたはずなのに、いまの自分は『感動の中を生きている』のだと思ったのです。そして、ああ、自分は変わったんだなあと思いました」

来場者「なんだかよくわからないけれど、印象的な話ですね」

坂爪「カミュというひとの言葉に『世界の優しい無関心』というものがあるのですが、最近では、このカミュという男が残した言葉が妙に頭をよぎることがあります。いまの 自分が感じているようなことなど、とっくの昔に他の誰かが考えていた(感じていた)ことなのだと思うと、別に人間は何も変わってはいないのだなあと、嬉しさにも似た感情を抱きます

来場者「はい」

坂爪「そして、生きていることそれ自体が、ほんとうは奇跡のようなものなんだなと感じるようになりました。これらは自分の外側にあるものではなくて、多分、誰もが既にその内側を生きているのではないだろうかと思っています」


人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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