いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【TYO-国立市】嫌われないために空気を読む、その態度が嫌われる。

新潟行きの高速バスを見事に乗り過ごし、昨夜は新宿の路頭で途方に暮れていた。「これは神のお告げに違いない」ということで、何かしろということだなと勘違いをした私は漫画喫茶で進撃の巨人を生まれてはじめて読んでいたら、主人公の母親が一巻で巨人に食われる惨劇を目撃して悲しみに溺れた。

東京生活も最終日ということで、昨夜は国立市で「坂爪圭吾のお話会」という非常に牧歌的なイベントを企画していただいた。会場には『坂爪圭吾を見てみたいとは思うものの、個別で会いたいと思うほどでもなく、とりあえず来てみた』という感じの方々が集まってくれた。

これから一ヶ月は「書いて書いて書きまくる一ヶ月」にしたいと思っているので、そこで出た話題などをまとめます。まだ何を書くかも決まっていないけれど、本の出版も決まっている。自分の気持ちを言語化するスキルを高めておくことは、必ず何かの役に立つような気がしている。

1・自分の好きをごまかすと、自分の嫌いもわからなくなる。


とある女性の参加者の方が話してくれた。

「私は一年前まで営業の仕事をしていたのですが、まるで軍人のような日々で、売上目標を達成すると『その次は1.5倍!その後は2倍!』みたいな感じで、尋常じゃないノルマが課されていきます。ガムシャラに働いて目標も達成していて、私はそのことにやり甲斐を見出していたつもりだったのですが、冷静に自分の気持ちを眺めてみたら『うれしさよりも虚しさのほうが圧倒的に強くある』ことに気がついて、仕事のストレスから円形脱毛症が三つ出来て、ヒゲも生えたりしてきて、結構やばかったです。自分はこの仕事が好きなんだと思っていたけれど、実際は仕事にしがみついていた(仕事で自分の価値を補おうとしていた)だけだと気付いて、当時の自分は『自分は何が好きなのか』ということをごまかしていたので、結果として『自分は何が嫌いなのか』ということもわからなくなっていました」

2・自分としては軽い気持ちでやろうとしていることでも、周囲のひとの反応が『その行為を重くしてしまう』ことがある。


また別の女性も話してくれた。

「わたしが実際に坂爪さんとお会いしたのは5月に阿佐ヶ谷で開催されたイベントの時で、それまではブログを読んでいる程度だったのですが、別に物凄い入れ込んでいるという訳でもないのですが『あの人はちゃんとご飯を食べているのかしら?』という感じで気になることがあって、まるでお母さんみたいだけど、もしも良かったら(お金に余裕があるという訳でもないけれど)ごはんでもご馳走しますよ、という気持ちになります。だけど、そういうことをやろうとすると、周囲のひとから『お前は若い男に入れ込んでいるのか』とか『バカなんじゃないのか』みたいな風に見られてしまうので、自分としては軽い気持ちでやろうとしていることでも、周囲のひとの反応が『その行為を重くしてしまう』ことがあります」

その話を聞いた別の女性が、

「わかります。とりわけ『女の世界』には、そういうものが強くあるような気がします。普通の女だったらこうするだろうとか、普通の女だったらそんなことはしないだろうとか、『普通』という枠にはめられて様々な行動が制限されてしまうことが、女性にはたくさんあると思います。でも、これからは、そういう枠から自由になっていく女性が増えて行くのだろうなとも感じています」

3・「自分がやりたいことをやる」よりも「他人から変だと思われないことをやる」


わたしも便乗して発言をかました。

「本来であれば『自分がそうしたいから、そうする』というのがストレートでいいなあと思うのですが、いつの間にか『自分がやりたいことをやる』ことよりも『他人から変だと思われないことをやる』ことのほうが大事みたいな感じになってしまって、其処に謎の枠が発生して、限定された枠内の楽しみ(『楽しさ』の市民権を得ているもの)だけを追うようになってしまっている気がします。私も、今回の出版の件を通じて、自分がいつの間にか『何を書いたらみんなに面白がってもらえるだろう』みたいな発想をしている自分に気がつきました。本来であれば『否定されても構わない。よし、否定されてやろう』というマインドで生きてきたはずなのに、気がついたら大衆に迎合している自分がいました」

「多分、認めらたいと思ってやることよりも、認められなくても構わないと思ってやることの中に、その人自身の魅力は宿るような気がしています。そして、わたしはわたしが書く本を両手に持ちながらドヤ顔をしたいと思いました。他人が面白がってくれるだろうかとビクビクしながら反応を伺うような本ではなく、自分自身は『最高のものが出来ました(どやあ)』と言えるものを作りたい、と」

4・「暇で暇で仕方がないからはじめたこと」が世界を開く。


これはまさにその通りで、自分は自由でもなければ旅人なんかでもなく、単純に暇人なんだと思っている。暇で頭がおかしくなりそうだから、家を持たない生活をはじめてみたり、文章を書いたり、大勢の人とあって話をしたりしている。結果的に『暇で暇で仕方がないからはじめたこと』が、いつの間にか自分の世界を拡張する謎のツールとしての効力を発揮している。

別の男性からこんなことを尋ねられた。

「私は役者をしているので、忙しい時期は物凄い忙しいのですが、暇な時は猛烈に暇です。それで、たまに昼間っから公園でビールとかを飲んで『幸せだなあ』と思うこともあるのですが、同時に、自分は何をやっているのだろうかという謎の罪悪感に駆られることもしばしばあります。自分は時間の自由が効くのでいつでも海外に行ったり昼間からビールを飲めるよろこびはあるのですが、収入は少なく、友達の年収を聞いた時などは自分との落差に愕然としたりします。坂爪さんは、暇であることに罪悪感を覚えることはないのですか?」

5・「昼間から飲むビール」というよろこび自体があいつらのもの。



それに対するわたしの回答は、

「めちゃめちゃわかります。自分は何をやっているのだろうかと思い悩むことはしょっちゅうで、ただ、他人と比較したり自分の未来に不安を覚えることは絶対的に減少していて、それは何故だろうかと考えていたら、そのヒントが『昼間から飲むビール』に象徴されている気がしました」

「たとえば、私は『居場所をつくりたい』という言葉を発する人に軽薄さを覚えることがあるのですが、人間は、自分がやりたいことに忠実になればなるほど『自分独自の言葉を使う』ような気がしています。多分、本当に居場所をつくりたいと思っている人は『居場所をつくりたい』なんて言葉を使わない。他人の手垢にまみれた言葉よりも、自分独自の言葉を生み出して、そこに自分自身の熱量を込めるような気がします」

「何が言いたいのかというと、『昼間から飲むビール』というよろこび自体があいつら(自分が比較している対象)のもので、そのよろこびに自分を合わせているうちは劣等感から自由になれないのだと思います。あいつらが幸せだと感じるようなこと(誰かに褒めてもらえるようなこと)を自分がするのではなく、自分だけが知っている極上のよろこびを幾つも増やして、そのよろこびをあいつらにも教えてやりたいぜみたいな気持ちになれたときに、罪悪感や劣等感から自由になれるような気がします」

6・親の期待を裏切ることが「親孝行」になる。


別の女性も話してくれた。

「私は中学時代からひきこもりみたいな生活をしていて、親の期待をことごとく裏切るような生き方をしてきました。親の期待に(応えたいのに)応えられない自分には価値がないように感じていて、親によろこんでもらいたいのに、自分の存在が真逆であることが苦しく、自分はいないほうがいいんだろうなという気持ちになることもたくさんあります。だけど、最近は『もしかしたら親の期待を裏切ることが親孝行になる』んじゃないだろうかみたいに思うこともあって、いまの私はひとりの部屋で瞑想をしたりヨガをしたりしている時に猛烈な楽しさを見出しているのですが、そういう私を見て、親も安心してくれているように感じるというかなんというか。自分を楽しませることが、結果として親孝行にも繋がるのではないだろうかということを思いました」


7・嫌われないために空気を読む、その態度が嫌われる。


また別の女性も話してくれた。

「私も小さな頃から家庭環境が複雑だったこともあり、家のない生活をしていた時もありました。私は長女なので、自分がしっかりしなきゃいけないという思いが強くあって、そのために一日24時間働きづめになることもあって、数か月前にいよいよ身体を壊して入院しました。そのときに『もっと自分を大切にしなきゃいけない』ということを思ったのですが、私にはとにかく『ひとから嫌われることを極端に恐れる』ところがあって、誰かに嫌われないために(自分でも意識していないところで)頑張りすぎてしまうというか、無理をしすぎるというか、肩に力が入ってしまうことがたくさんあります」

8・根本的に「大丈夫である」ということ。


私は答えた。

「自分自身の体験から思うのですが、嫌われることを恐れる気持ちの裏側には『私はここにいても大丈夫なんだろうか?』という確認の要素が強く含まれている気がします。ただ、仕事にしろ、恋愛にしろ、自分は『一緒にいてもいい』から一緒にいるのであって、それはすでに大丈夫であることの証明であり、人間は根本的に大丈夫なんだと思います。大丈夫なのに大丈夫であることを疑うから『大丈夫だって言ってんじゃん!』みたいな感じで、周囲の人を苛立たせてしまうことは大量にあると思います」

「私の話は非常に抽象的なのでものすごく分かりづらいと思いますが、人間は根本的に大丈夫なのです。大丈夫だからここにいて、大丈夫だからこそ、こうしていまも元気に生きているのです。大丈夫であることに根拠はない(根拠が必要になると、欠如した途端に『大丈夫じゃない』ことになってしまう)ので、あとはもう『自分は大丈夫なのだ』ということをどれだけ信じられるかの勝負なのです」

9・あらゆることは自分で決めることができる。


私がこの日の「お話会」で言いたいことがあるとしたらそれは何だろうかと考えたときに、出てきたテーマ(?)は「自分で決めることができる」というものだった。多分、この世のあらゆることは『自分で決めることができる』ということを最近は感じていたので、そういうことを話した。

「家も金も彼女もなくしたときに、神から『お前は泣く道を選ぶのか、笑う道を選ぶのか、どっちだ』と突きつけられたように感じて、そのときの自分はとにかく『泣くのはダサい!』ということを強く思ったので、取り急ぎ笑う道を選びました。それでは、具体的に笑うとは何だろうか。当時の私にとって、笑う道を選ぶということは『徹底的に自分を出す』ということになり、私はこういう人間だということを衒いもなく晒すことに決めた。自分を出すことでどうにかなると思った訳ではないけれど、自分を出さないことには何も始まらない予感が猛烈にしたので、とにかく徹底的に自分を出すことにした」

「すると、奇跡は起きた。様々なひとから連絡が届くようになり、いつの間にか全国を巡るようになり、いつしか舞台は日本から世界に変わっていった。正直に言えば『なんじゃこれは!』と思うことの連続で、乙武さんから連絡がきたときも(嬉しさを覚えると同時に)『自分みたいな人間が国民的アイドルである乙武さんと会ってもいいのだろうか』という気持ちにもなった。しかし、乙武さんも会いたいと言ってくれている訳だし、自分を卑下しても何もはじまらない。自分は乙武さんに会う価値があるのか、価値がないのか、自分の価値は自分で決めることができるということを、その時に強烈に思った。そして、私は『自分には乙武さんに会う価値がある!』と自分で決めて、そして実際に会ったら圧倒的に対等に話すことができて非常に楽しい時間になった。何が言いたいのかと言うと、あらゆることは(実は)自分で決めることができるということで、悩むことをやめたければ『悩まない!』と決めることで、明るく生きたければ『俺は今日から楽しく生きるぞ!』と決めることで、いくらでも新しい日々を開拓していくことはできる、みたいなことです」

10・「嬉しさ」の中に答えはある。


多分、答えは「正しさ」よりも「楽しさ」の中にある。そして、楽しさの質を決めるのは、楽しさの中に『嬉しさ』があるかどうかだと思っている。本当に素晴らしい情報に触れたとき、人は楽しくなるだけでなくて、同時に嬉しくなる。多分、それは『自由に生きていい』という風が吹くからだろう。


様々なひとが様々なことを言うし、この世の中には様々な情報が氾濫している。自分はどうすればいいのかと迷ったときに、頼りになるのは心のナビゲーターであり、それは『自分の身体が感じる嬉しさを察知する能力』だと思う。自分が感じる嬉しさに素直に生きれけば、稀に罪悪感や劣等感を覚えることがあったとしても、いまの自分の想像を遥かに凌駕する多彩な日々を送ることができるのだろう。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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