福島県耶麻郡猪苗代町の不動滝を訪れた。周囲の空気は神聖な緊張感に包まれていて、そして、静かだった。ふと、どうして『静』は『青の争い』と書くのだろうか、などと考えていた。青が争うことが静かさならば、青は『無』ということなのかもしれない。争いのない状態が『静』になるのだろうか。
何者でもなく生きるということと、自分が自分であることの絶望と誇りは、表裏一体で切り離すことはできない。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 5月 15
未熟な人間のことを「青二才」と言う。世の中に完璧な人間なんていないのであれば、誰もが生きている限りは未熟者だということになる。善意が他人を傷つけることもあるし、エゴを捨て去ることも不可能で、基本的には欲望や執着にまみれているが、それでも存在していられるのは「何かに許されているから」なのだろう。既に許されている自分の存在を認識できないことが『愚かさ』なのかもしれない。
ほんとうに元気な人間は生命力を与えるけれど、元気なふりをしている人間は生命力を奪い取る。無理をしてでも元気でいなければいけないというのは大嘘(害になる場合が多い)で、見た目はおとなしい人だとしても『ほんとうのこと』を話せる相手と過ごす時間は、生きる元気を与えてくれる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 5月 20
高過ぎるテンションには、嘘が混ざる。無理矢理つくられた笑顔は歪みを含み、心のない言葉の中には空虚さが宿る。私は「静けさ」を持つひとが好きだ。大地に根を張る樹木のように、静けさの中には安定がある。見た目はおとなしいものだとしても、ずっしりとした優しさと安定感がある。
『おかしいと感じる自分がおかしいのだ』と自分の感情を否定して我慢を続ける日々を送れば、誰だっておかしくならない方がおかしい。自分の感情を押し殺してでも周囲に合わせることが『大人になる』ということならば、それは『あなたがあなたである必要はない』ということになり、唯の骸だ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 5月 20
この一年間、様々な場所でトークセッションなどのイベントに招待されては、多くの人々と出会う機会に恵まれた。県民性などによる多少の性格の違いはあれど、同じ人間であることには変わりはない。自分を良く見せることに精一杯な人間もいれば、自分の正当性を主張することに必死な人間もいる。与えようとする人間もいれば奪おうとする人間もいるし、存在しているだけで周囲の空気をほぐすような人間もいれば、自分が存在していることが、何かの処罰であるかのように生きている人間もいる。
『おかしいと感じる自分がおかしいのだ』と自分の感情を否定して我慢を続ける日々を送れば、誰だっておかしくならない方がおかしい。自分の感情を押し殺してでも周囲に合わせることが『大人になる』ということならば、それは『あなたがあなたである必要はない』ということになり、唯の骸だ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 5月 20
ひとつの場所から遠く離れることで冷静に客観視できることもあれば、絶対に避けられないものがあるということも知った。それが『自分自身』であり、どれだけ遠くに離れたとしても、自分自身から逃れることは出来ない。
自分を良く見せようとすることは弱さであり、弱さを隠そうとするほどに、自分自身から遠く離れていく。自分自身が暴かれることの不安と恐怖を常に抱きながら、嘘で塗り固められた人間になる。自分以外の何者かになろうとすることは、短期的には効果的だとしても、長期的には致命傷になる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 5月 20
自分の中にある「青」と、自然の中にある「青」と、
同じ「青さ」なのに、まるで違う。
自然は大きい。自然の青さと、自分の青さの違いは何だろうか。争いのない状態(青い争い)が『静』ならば、自分の中にあるこの青さや愚かさは何だろうか。答えはわからない。ただ、争わないためには強くならなければいけない。優しくならなければいけない。いまよりも大きな存在にならなければいけない、否、いまよりも大きな存在になりたいと思っている自分がいる。これが「青さ」だ。激しい音を立てながら大量の水飛沫を上げる不動滝は、絶対的な『静けさ』を誇っていた。
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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