1・自分が好きなものに触れている時間だけは自由になることができる。
生きることには免許も資格も他人の許可も必要ないのに、いつからか「生きるためには免許や資格が必要だ」みたいに思い込まされてしまう瞬間が誰にでもあって、でも、そんな時でさえも、自分の大好きなものは「(何もなくても、何もかも失ったとしても)生きていいんだよ」って言ってくれる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 8
2・「こうでなきゃいけない」なんてことはないんだよ。
そういうものに自分は何度も助けられてきた。「そういうもの」は、はみ出せばはみ出すほどに世間からは思い切り強く叩かれるけれど、はみ出せばはみ出すほどに、はみ出しものにはやさしかった。「こうでなきゃいけないなんてことはないんだよ」って言ってくれる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 8
3・自分にも生まれてきた甲斐があったのだということを信じたい。
死にたいとか言うと「死にたいとか言うな」と言われてしまうが、死にたいという言葉でしか生きたいと言えないこともあるし、言葉にするだけでも楽になることもある。問題なのは「死にたいと口にすることが許されない」ことで、それが原因で実際に死んでしまう人もいるのだろうと思いました。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 9
4・「幸せよりも興奮と熱狂(生きているという実感)」
出版社の方から取材(?)を受けた。「モノを減らすと幸福度はあがりますか?」と質問された時に、自分は幸福になりたくて家のない生活をしている訳ではないのだということを感じた。乱暴な言葉でまとめると『幸せよりも興奮と熱狂』だと思ったし、極論、別に不幸でも問題はないと思った。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 9
5・契機も動機も活動の目的も、幻想に過ぎない。
多くの人たちから「契機」や「動機」や「活動の目的」を尋ねられるが、そんなものは幻想だと思う。あるのは瞬間瞬間の思いつきと衝動だけで、これをやったらどうなるのかを見てみたい、自分の身体を通じて実感してみたいと思った時に、ある種の決意《死ぬ覚悟》をするかどうかなのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 8
6・本気を出せないことが生命の実感を遠ざけている。
自分を大事にしようとするから、自分が傷つかないように無難な選択ばかりを繰り返し、結果としてほんとうは開きたがっている生命の種を「安全な生活」によって捻り潰してしまう。現代社会は別に本気なんて出さなくても生きていけるからこそ、本気を出せないことが生命の実感を遠ざけている。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 5
7・「自分でいる」ことと「自分らしくいる」ことは別物で、わたしは、わたしがわたしであることをごまかしたくなかった。
「オンとオフで割り切る」とか「良質な仕事の為には良質な遊びが必要」みたいなことを言う人を見ると、自分には絶対に無理だなと感じる。オンで生じたストレスは必ずオフにも影響してくるし、仕事と遊びを区切ることも出来ない。何かを割り切れるほど、人間は合理的にはできていないと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 9
8・生きることに正解もクソもない。
わたしは「自己啓発書に書かれているようなことにひたすら中指を立てて生きていきたい」のかもしれない。言い方を変えると「良い子のマニュアルのようなものがあるとしたら、それを焚書するために生きているのかもしれない」と思う。「これが絶対だ」と言われると、絶対に反抗したくなる。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 9
9・余裕がなければ、やさしくなれない。
学校に行くのが絶対じゃないし、仕事をするのが絶対じゃないし、幸せな家庭を築くことだけが絶対じゃない。幾通りの人生にもそれぞれの味わい深さみたいなものがあって、大事なのは「意味不明な他人と比べないこと」と「(厳しい場合もあるけれど)他人に優しくあろうとすること」だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 9
10・すべての美しいものは悲しみを内包している。
すべての美しいものは悲しみを内包している。それは「永遠には見ていることができない」という悲しみだと思う。すべてに終わりの瞬間があって、いつか悲しむことすらできなくなる日が、必ず来る。大事な人がいつまでも側にいるとは限らないし、いまやっていることは、いましかできないのだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 10