いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【KIJ-日本海】すべての美しいものは悲しみを内包している。ー 「こうでなきゃいけないなんてことはないんだよ」と言ってくれるものが、自分には何よりもやさしく響いてきた。

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私の生まれ故郷である新潟県に来ている。学生時代の友達は皆無で、基本的にはひとりでいることが多い。灰色の学生時代を送ってきた私は、学校の授業を真面目に受けることにどうしても耐えきれず、近所の海に本や煙草やギターを抱えてひとりでいた。海は、私にとって「ひとりでいることが許される」唯一の逃げ場だった。

1・自分が好きなものに触れている時間だけは自由になることができる。


別に暗い話をしたい訳ではないけれど、私は常に「死にたい」と思っていた。学校もつまらず、友達もおらず、何をしていても退屈だと感じていた私にとって、いまいる世界が「生きるに値する」と思うことは大変なことだった。ただ、自分が好きな音楽を聞いている時間だけは自由になることができた。そのような音楽は「(何もなくても、何もかも失ったとしても)生きていいんだよ」といってくれているような気がしていて、私は、自分が好きなものに触れている時間だけは自由になることができた。


2・「こうでなきゃいけない」なんてことはないんだよ。


学校に上手く馴染むことができない、周囲に溶け込むことができない、ほんとうは楽しいはずの場面で楽しむことができない、みんなが当たり前にできることが自分にはできない、こうした思いは私の内部に確かな劣等性を刻み続けて、自分はダメな人間なんだと思うようになった。ただ、自分が好きな音楽は「こうでなきゃいけないなんてことはないんだよ」と言ってくれているみたいで、それがうれしかった。自分みたいな人間も、生きていていいのかもしれないと思うことができる、唯一の瞬間だった。


3・自分にも生まれてきた甲斐があったのだということを信じたい。


当時の私は「生きたい」と思っていた。ほんとうは生きたいと思っている自分の気持ちを「死にたい」という言葉でしか表現することができなかった。自分にも生まれてきた甲斐があったのだと信じることができる瞬間を何よりも求めていたし、何よりも強く求めることを通じて、その感覚が何よりも自分の中から欠落しているのだということを知るようになった。私は、自分は無価値な人間だと思っていた。

4・「幸せよりも興奮と熱狂(生きているという実感)」


月日は流れて、現在の私は「家を持たない生活」を送っている。いばやという「とにかくやばいことだけをやる」合同会社の共同代表をつとめ、様々な場所で人前に出る機会も増えて、自分が書いた文章が多くの人の目に触れる機会や、各種メディアなどから取材を受ける機会も増えてきた。

「どうすれば幸せを感じることができますか」というような質問を受けた時に、私はどうしても違和感を覚える。この違和感の正体が何かを考えてわかったのが、私は、いまも別に幸せな訳ではないということだ。私の人生は100点満点でもなんでもない。2点くらいだと思う。だから、100点の取り方を誰かに教えることは不可能であり、ただ、この「100点満点におけるたったの2点」がいい感じに自分の中で燦然と輝いていて、どうしようもない自分の存在を強烈に支えてくれているのを感じている。

5・契機も動機も活動の目的も、幻想に過ぎない。


「やりたいからやる」ということ。これがすべての原則であり、そこにもっともらしい契機も動機も活動の目的も存在しないと思う。あるとすれば「未知に触れたい(未体験ゾーンに踏み込んでみたい)」という程度のものであり、自分の世界を拡張するために、何が起こるかわからないという予測不可能性に自分を賭けてみたいと願う気持ちが、何よりも人間というアニマルを駆り立てる強い原動力になる。

6・本気を出せないことが生命の実感を遠ざけている。


「自分を守ろうとするから弱くなる」ということ。

7・「自分でいる」ことと「自分らしくいる」ことは別物で、わたしは、わたしがわたしであることをごまかしたくなかった。


私の青臭い願望は「常に自分でいたい」という言葉に収斂される。「自分でいる」ことと「自分らしくいる」ことは別物で、わたしは、わたしがわたしであることをごまかしたくなかった。殺しても殺しても、どうしても殺すことができない自分がいる。誰かに好かれるために自分を偽ることはしたくないし、自分を殺して他人に好かれるくらいなら、自分を出して他人に嫌われた方がずっと良い。

8・生きることに正解もクソもない。


そんなんじゃ生きていけないよという言葉を、おそらくいままで1万回は言われてきた。しかし、そんなんで生きてきてしまった(そしてこれからもそんなんで生きていくであろう)自分からすれば「誠に申し訳ありませんが、あなたの中ではその通りなんだと思います」としか言えない。

わたしは、わたしを殺さなければ生きていけないのであれば、そんな世の中を生きていたいとは思えない。ただ、わたしはわたしでいたいと思っている。それだけがわたしの絶対性であり、泣いても喚いてもわたしにはこの身体とこの精神しかないのだから、受け入れる方向に自分をドライブしていきたい。

9・余裕がなければ、やさしくなれない。


生きることには免許も資格も他人の許可も必要ないのに、いつからか「生きるためには免許や資格が必要だ」みたいに思い込まされてしまう瞬間が誰にでもあって、でも、そんな時でさえも、自分の大好きなものは「(何もなくても、何もかも失ったとしても)生きていいんだよ」って言ってくれる。

「こうでなきゃいけないなんてことはないんだよ」と言ってくれるものが、自分には何もないと思っていた自分には、何よりもやさしく響いてきた。余裕がなければ、やさしくなれない。

10・すべての美しいものは悲しみを内包している。


美しいものに触れたとき、自分が心の底から大好きだと思えるものに触れたとき、ひとは幾つかのことに感動している。美しさを覚えた対象そのものだけにでなく、美しいと感じることができる「自分の心の存在」にも感動しながら、同時に、いつまでもそれを見ていることができないという事実に胸を締め付けられたりもする。

「自分にも生まれてきた甲斐があったのだと信じたい」と思っていた当時の自分は、いまの自分を見たら何を思うだろうか。なかなかやるじゃないかと笑うだろうか。こんなもんかと嘲笑するだろうか。わたしは、過去の自分に胸を張れるような(恥ずかしくない)生き方ができているのだろうか。

すべてに終わりの瞬間がある。過去を悔やんだり未来を不安に覚えることもありながら、いつしか、過去を悔やむことさえも、未来を不安に感じることさえもできなくなる日が、必ず来る。それまでの時間をどのように過ごすのかはひとりひとりの手の中にあって、何が正解だとか、何が間違いだとか、これをしたら誰かがどう思うだろうかとか、そういうものの一切は、すべてが瑣末なものになる。

生きているのはいまだけだということ。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com