いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【FIN-ヘルシンキ】低俗な人間は「自分を肯定するために他人を否定する」 ー 「死にたくない」という感情は「負けたくない」という感情に似ている。私は何かに勝ちたいとは思わない。しかし、何かに負けたくはないと思っている。

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ヘルシンキでの滞在も終えて日本にいく。個人的に非常に面倒な事態が起こってしまい、比較的ダウナーな状態でこの記事を更新している。ヘルシンキと新潟は「冬の天気が悪すぎる」という点において共通している。新潟には「表面的には優しくておとなしいけれど、蓋を開けてみると頭のネジが外れている」人が大量にいる。これが私の故郷である新潟県の良さであり、要するにネガティブな変態が多い。

1・「わたしが元気なこととあなたの人生は関係ない」


北欧のライフスタイルは日本でも人気が高く、事実、ヘルシンキに散らばる生活用品は非常にスタイリッシュで「ゆとり」を感じた。街も人も可愛らしさに溢れていて、無駄なBGMが流れる空間も少なく、無音で、とにかく居心地が良い。日本とほとんど同じ国土面積でありながら、日本の人口が1億2000万人であるのに対して、フィンランドはおよそ500万人程度なので、人口密度にもかなりの差がある。

ヘルシンキ在住の日本人女性と行動を共にしていた。彼女曰く「フィンランド人は、わたしのような日本人が暮らしていても基本的にはほっといてくれる。この感じが(時にはさみしくなることもあるけれど)心地が良くて気に入っている」ー ほっといてくれるありがたさはものすごいよくわかる。

2・寒い地方では頭のネジが外れやすく、ぶっ飛んでいる人間を生みやすい(そして「文学」が生まれやすい)土壌がある。


真冬のヘルシンキはマイナス30度まで下がることもザラで、数日前まで滞在していたイタリアの人々とは、表情も服装も結構異なる。わたしは、ふと、自分の故郷である新潟県のことを思い出していた。高知県や宮崎県や東南アジアのあたたかい国の方では、何かに思い悩むことがあったとしても「海でも眺めてうまい飯でも食って忘れようぜ!」みたいな空気感が溢れている。

しかし、新潟県などの雪国や寒い地方の国では「ストレスの吐き出し口」がないために、どうしたって思考はひどく内向的なものになり、精神世界が勝手に充実する。だからこそ文学が育つのだろうな、と思った。あたたかい国で自分をシリアスな状態に保つことは難しいし、人生とは何かを考える暇があったら「くう・やる・ねる」という動物的な欲求に従っていた方が快適なままで生涯は閉じる。

日本の魅力は「自虐性(ユーモア)」にあると思った。ユーモアとは「どれだけ最悪の状態に置かれたとしても、自分自身を笑い飛ばすことができる力(自分を相対化する力)」であり、日本人にこれをやらせたら半端なく活きるんじゃないのだろうか、自虐性を解放するのは効果的であるような気がした。

3・海外で人気者になりたければ日本食材をある程度現地に持ち込み、日本食を振る舞うことで「誰でもコミュニティの主役(発起人)」になれるかもしれない。


ヘルシンキ在住の日本人女性の案内により、映画「かもめ食堂」に出てくるような飲食店にお邪魔した。海外で食べる日本の米や味噌汁や醤油やガリやほうじ茶などは非常に美味く、自分は日本人なんだなと思った。フィンランドは「飯マズ大国」とも呼ばれていて、街中に美味い飯屋がない。

この映画をまだ見たことがない人は、是非、時間のある時にGEOでもTSUTAYAにでも足を運んで借りて見て欲しい。完全に余談になるけれど「海を飛ぶ夢」というタイトルのスペイン映画を私は愛していて、自分の気分が滅入っている時などに、この映画の有名なシーンを思い出すことで活力を得ている。

4・「みんなと仲良くしなければいけない」という嘘。


日本では常識とされていることでも、海外に出れば「何でもないこと」というのは大量にある。もしも日本病と呼ばれるものが幾つかあるとしたら、そのうちのひとつは間違いなく「みんなと仲良くしなければいけない」という思い込みの呪縛である。必要なのは「周囲に合わせる力」よりも「自分を出す力」であり、他人の顔色ばかりを伺っていると自分自身を見失ってしまう。

5・「美を意識する」ということ。


「自分の意識を何にフォーカスするか」になる。日常生活を送っていれば、どうしたっていけすかない連中に遭遇することは避けられない。しかし、いけすかない連中に自分の意識をフォーカスするよりも、そういう類の人種は無視して、自分が一緒にいて心地よい時間を過ごせる人種にエネルギーを投下した方が圧倒的に有意義だ。「一緒にいてもいい人(モノ)」ではなく「一緒にいると元気になれる人(モノ)」と同じ時間を過ごすことが大切で、余計なものは大胆に削ぎ落としてしまうに限る。

6・低俗な人間は「自分を肯定するために他人を否定する」


「自分を肯定するために他人を否定する」のは、人間的に程度が低い気がする。自分と他人は別人であり、自分なりの価値観を持つことは素晴らしいことだとは思うけれど、それを他人に押し付けた瞬間に暴力になる。他人の生き方をああだこうだと言う前に、自分の人生を充実させることにエネルギーを投下した方がいい。それを見た周囲の人々は、自分の生活に取り入れたいと思えば勝手に取り入れていくだろうし、別に自分には関係はないと思えば、単純に通過していく。

当たり前のことだけれど、どれだけ正しいことを言われたとしても「その人が、とてもじゃないけれど幸せそうには見えない(お前みたいにはなりたくない)」と思われてしまったら、その人の言葉は誰にも届かない。基本は「自分に集中すること」であり、自分以外の他人については二の次である。

7・頭で考えすぎて動けなくなるほど馬鹿らしいこともない。


ゲーテの話に花が咲いた。

8・「悩むな!生きろ!」とは、素晴らしい人生の助言だと思いました。


ひとつのことに思い悩み続けると、悩みがその人の内部で腐食をはじめ、何かこう「腐敗臭」みたいなものが発生してしまうことがある。最悪の場合は「悲壮感」が漂うこともあり、悲壮感を漂わせた人間には「近寄り難さ」が如実に宿る。自分をオープンにしている限り人間は絶対に死なないが、不安や恐れや猜疑心の影響によって自分をクローズドなものにした瞬間に「死のリスク」が発生する。

9・それが数日間や数時間の出来事だったとしても、ひとりの人間としっかり向き合えたことは人生の大きな宝物になる。


極論、新しい何かに出会いたいから自分は生きているのだと感じる。何かに出会うためには、当たり前のことだけれど「外に出る(アウェイに出かける)」必要がある。同じ場所で同じことをやり続けていても、新しい何かに出会える可能性が生まれることは少ない。

10・ポジティブシンキングとは「(最高を描く力ではなく)最悪を受け入れる力」である。


「何があっても生きる」と覚悟を決めて生きることが、自分を支える生命力になっている。私のような生き方がいつまで通用するのかはわからない。もしかしたら来月あたりには路上で野垂れ死んでいるかもしれないし、誰にも必要とされることなく、呼吸をするだけの死体になっている可能性もある。

私を支える最大の原動力は「よろこびに触れたい」とか「ワクワクすることをやりたい」とか「誰かの役に立ちたい」という綺麗で前向きで優等生的なものではなく、それは「死にたくない」という言葉で表現することができる。私は「死にたくない」と思っている。何かに勝つために生きている訳でもなく、誰かに褒められるために生きている訳でもなく、ただただ、私は「死にたくない」と思っている。

私と同じ新潟県出身の作家である坂口安吾は、過去の著作の中で「戦っている限り負けないのです」のだと言っていた。「死にたくない」という感情は「負けたくない」という感情に似ている。私は何かに勝ちたいとは思わない。しかし、何かに負けたくはないと思っている。曇天が続いたヘルシンキの夜には雨が降り、街を美しく照らしていた。空気が澄み渡っていた。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com