いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【HIJ-鳥取砂丘】地球の遊び方。ー 「これをしなければ大丈夫じゃない」と思っていることのすべては余計なもので、足りないものは何もなく、必要なものはすべて揃っている。

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島根県の奥出雲を経由して鳥取砂丘に足を運んだ。鳥取砂丘をゴールに、一応、これで日本全国47都道府県すべてに足を運んだことになる。「だから何だ」と言われたらその通りだけれど、一年前から「家を持たない生活(移動する生活)」をはじめてから、私の中で移動は「非日常」から「日常」になった。元来旅行が好きでもなかった自分が全国制覇(?)したことに対して、軽い違和感も覚えている。

行く先々で頻繁に聞かれる10の質問があるので、簡単にまとめます。


1・基本的な荷物には何が入っているのですか?

今までは生活に必要な荷物をバックパックに入れて運んでいたのですが、よくよく考えてみると「こんなにいるか?」と思うようになり、実験的に革製のトートバックに荷物を入れ替えてみたところ、余裕でおさまることが判明しました。かばんの中にはいっているのは以下の荷物のみになります。

・着替え(二日分を着まわしている)
iPad(キーボード付きのケース)
・洗顔用具一式(in ジップロック
・各種充電器&バッテリー&文庫本

実際の所、これしか入っていません。総重量は三キロ程度で、飛行機内にも手荷物としてそのまま持ち込める為に、移動の負担が大幅に軽減されました。これだけでも案外どうにかなることがわかると、「今までいったい何をかばんに入れていたのだろうか?」という気持ちになります。

『所有物と執着は比例する』というのが最近の感想で、荷物を減らすと肉体的にも精神的にも身軽になります。今では、世の中の流れが「新しいものを付け足すことが幸福」から「余計なものを削ぎ落とすことが幸福」に移転しており(これは物凄い大きなパラダイムシフトだと思っています)、前者は「幸せはまだ備わっていない」のに対して、後者は「幸せは既に備わっている」ということになります。重要なのは「何を得るか」よりも「何を捨てるか」になるのだと思うようになりました。

2・暑い国に行く時はどうしているのですか?

タイやマレーシアなどの暑い国を訪れた際には、現地で知り合った方々から「捨てる直前の服を譲ってください」とお願いして、複数枚ゲットしたTシャツを着用していました。洗濯をして再利用する場合もあれば、一回着たら速攻で捨てる場合もありました。冬用のコートやマフラーは非常にかさばるために、次回の冬は超絶コンパクトに収納できるアウトドア用品で身の周りを固めたいと思っています。

余談になりますが、アウトドア用品は「生きるために最低限必要なもの」を最大限に軽量化したものの集大成です。極論、テントと寝袋と簡単な調理器具さえあれば、人間は家がなくても生きていくことが出来ます。生きていくことができるばかりか、大量の電力を消費しながら狭い屋内で飲む珈琲よりも、「海や星空を眺めながら」「湧水で沸かしたお湯を使いながら」「草原に寝転び日光浴をしながら」生産者の顔が見える珈琲を自分たちで淹れて飲む方が、圧倒的に美味いです。

3・移動する前と後で変化したことはありますか?

実験的に「家を持たない生活(移動する生活)」をはじめた中で、幾つもの価値観の変化がありました。当たり前のことですが、家がなければ「帰る必要」がなくなります。普通なら、何処かに出かけたら必ず「帰る必要」が発生します。しかし、私には家がないために、帰る距離と同じ分だけ進むことが出来ます。これは革命的な発見で、家がなければ「帰る必要がなくなる(同じ距離分進める)」のです。

また、移動する生活の醍醐味は「現地に執着を置いてこれる」ことにもあると思います。極端な話、ひとつの場所で何か大きなミステイクをおかしたとしても、移動することで意識が切り替わり「よし、次!」という気持ちになります。これがもしも「同じ場所で同じ人と同じことだけをやらなければいけない」状態だったとしたら、今頃の私は重度のノイローゼになって精神病院に通っていたと思います。

そして、何よりも大きな変化は「人間との出会いが圧倒的に増えた」ことです。今までの私は、自分で家を借りて住んでいたので「毎日そこに帰る必要」がありました。そのため、何処かで誰かに呼ばれても、必ず一定の期間は「自宅にいる必要」がありました。それが、帰る自宅がなくなったので、呼ばれた場所に何時でも気軽に行ける状態になりました。結果、普段は足を運ぶことがなかった地域にも頻繁に訪れることができるようになり、日本の都道府県をすべて巡ることが出来ました。

4・交通費などはどうしているのですか?

現在では、ありがたいことに私のブログなどを読んでくれた方から「会ってみたい」「講演会をしてみないか」「近くに寄ったら宿を手配するので声をかけてください」などと声をかけてもらえるようになり、そうした方々から交通費や宿泊費や謝礼をいただく形で『移動する生活』は成り立っています。

家がなければ固定費もかからないので、現在の私は(諸々の支払いも含めて)毎月三万円程度あれば余裕で生きていくことが出来ます。そして、現在の私にはまるで金がありませんが、この一年間の生活で「金以外の何か」が確実に蓄積されている感覚を覚えています。この「金以外の何か」があれば、金がなくても生きていける気がしているのですが、いまだに名前を与えることができないでいます。

この「金以外の何か」は、稀に「金以上の効力(速度)」を発揮する場合があります。たとえば、私が自力で稼いだ金で家を買うためには何十年も働いて金を貯める必要があるけれど、「金以外の何か」の力が最大限に発揮された時、無償で私に家を与えてくれる人が登場します。同じように、私が自分の金で全国をまわるとしたら大幅な予算が必要になりますが、多くの方々のサポートにより「金がないくせに全国制覇(?)をすることが出来た」ことになります。

これは決して自慢をしたい訳ではなく、こうした現象の中には「未来のヒント」が隠されているような気がしています。今までは「自分のことは自分でやって一人前(誰かに頼るのは半人前)」だと思って生きてきましたが、果たして何処まで「自分でやる必要がある」のか、そして何処からが「自分以外のものに委ねても良い」のか、こうした境界線が曖昧になっています。

5・不安になることはないのですか?

不思議なことに、不安を覚えることがありません。もちろん、家を持たない生活をはじめたばかりの頃は「こんな生活がいつまで続くのだろうか」という不安を強烈に抱いていました。しかし、今ではそうした不安を日常レベルではほとんど感じることがなくなったので、自分なりに理由を考えてみました。

おそらく、自分の中での「セフティネット」という言葉の意味がまるごと変わったからだと思っています。今までは「安定した職業につくこと」や「銀行にお金をたくさん集めておくこと」が、自分にとってのセフティネットになると思っていました。しかし、今では「自分にもしものことがあった時に、助けてくれる人や環境がどれだけあるか」が最大のセフティネットになるのだと思うようになりました。

6・具体的にどういうことですか?

これは物凄い大きなパラダイムシフトで、今までは「自分のことは自分でやって一人前(だから安定した仕事につく必要があるし、銀行に大量のお金を預けておく必要がある)」と考えていました。しかし、家を持たない生活をはじめてから、日常的に大量の出会いと大量の移動が発生した結果、もしものことがあった時の人的・環境的なシェルター(逃げ場)が日に日に増えていく感覚を覚えました。

宿主さんからは「困ったらまた泊りに来てください」と言ってもらえるし、農家さんからは「困ったら米を送るぞ」と言ってもらえるし、個人事業主さんからは「困ったら我が家に住み込みで働けばいい」と言ってもらえるし、海外在住の日本人からは「困ったら日本を逃げ出してこっちに移住したらいい」と言ってもらえるし、ああ、自分の人生はきっとどうにかなるのだなあという安定の感覚を覚えることができます。そして、自分にも何かできることがあれば単純に力になりたいと思うようになりました。

「自分は生かされている」という感覚が、自分自身を根底から支えてくれています。この感覚は、自分のことはなんでも自分でやっていた(と思い込んでいた)頃には、決して感じることは出来ませんでした。何か大きなものに感謝したくなるのと同時に「調子に乗ったら即死する」とも感じています。

7・「調子に乗ったら即死する」とは?

非常に感覚的な話になりますが、私の脳味噌の片隅には常に『ゴッド(神様)』みたいなものがいて、ゴッドは常に「調子に乗るな」と私に囁きかけています。たとえば、現在の私の生活を客観的に振り返ってみた時に、交通費を負担してもらいながら全国を移動し、週に3〜4回は温泉に入り、自然に触れ、多くの人々と出会い、名物料理を食べ、手配してもらったホテルや宿に無料で宿泊しています。

こうした現象の中には「家も金もない」くせに「家も金もあった時よりも、圧倒的に豊かな生活を送れている」不思議さがあります。これは決して「自分はすごい人間だ」と言いたい訳ではなく、真逆で、自分が足りていないからこそ周囲の人々がそれを埋め合わせてくれているのだという認識を持てなくなった時に、私の人生に大きなデストロイヤー(破滅的な出来事)が発生する予感がしています。

8・坂爪さんにとって「受難」とは何ですか?

極上の受難を受けた人間が一等賞の「受難ボーイグランプリ」というものを極少数の知人たちとやっていて、この根底には「人生を変えるのは(幸福ではなく)受難である」みたいな思想が流れているのですが、受難を競い合うようになってからあらゆることをネタ化できるようになった気がしています。

私は「家を持たない生活」を通じて多くの人々の目に触れるようになったのですが、これは「ホームをレスする(具体的には、当時同棲していた彼女から振られる体験を通じてホームをレスする)」という受難を経由したことで、獲得出来た報酬になります。最初にあったのは、幸福ではなく受難でした。

最近では(昔からも大量にありましたが)「やりたいことをやろう!」とか「ワクワクすることをやろう!」という掛け声を頻繁に耳にするようになりましたが、どうしても拭いきれない違和感を覚えていました。その正体は『受難の欠落』であり「受難なくして幸福なし!」だと思うようになりました。

9・受難をすることは恐くないのですか?

多くの神話や少年ジャンプなどに出てくる冒険物のストーリーも、基本的には「主人公の受難」から物語ははじまっている気がします。『受難→旅立ち→最高の宝を持ち帰る』みたいな流れがあり、最高の何かを獲得したいと思うのならば、まずは何かを受難しないことにははじまらないのかもしれないと感じています。もちろん、恐怖心を覚えることもありますが、あとは「人生は意外とどうにかなる(自分自身もどうにかなる)」ということをどれだけ信じられるかの勝負になるような気がしています。

10・最近は何を感じていますか?


「存在しているだけで価値がある」ということを、自分の身体を通じてどれだけ実感していけるかが重要になると感じています。繰り返し言い続けてしまいますが、人間の価値と人間の功績は別物で、価値は存在に宿り、功績は行動に宿るものだと思います。今は価値と功績がごちゃごちゃになっているから、何もしていない人は人間としての価値もない、みたいなことになってしまっています。だから「何もしていないことは悪いことだ」みたいな雰囲気が生まれてしまいましたが、これは嘘だと思います。

私がまだ訪れたことがない場所に足を運ぶ理由は「その場所の風を浴びてみたい」という言葉に集約されます。何かをするためではなく、何かを見るためでもなく、その場所に吹いている風を感じること(その場所に存在しているものを感じるため)であり、これは「私が人と会う理由」にも重なります。

多くの人と出会うと、どうしても「会話を盛り上げるために何かを話さなくては」とか「せっかく来てもらったのだから何処か素敵な場所に案内しなければ」みたいな気持ちが働きます。こうした感覚は『何かが足りない』という不安や恐怖心が原因になる場合がほとんどですが、「何かをすること」は人生における副産物でしかなく、重要なのは『お互いの存在を共有すること』だと思っています。

太陽に照らされながら雄大な自然に囲まれていると、大袈裟ですが「私は地球に愛されている」という感覚を心の底から味わうことが出来ます。そうした瞬間の気持ちは最高であり、「これをしなければ大丈夫じゃない」と思っていることのすべては余計なもので、大切なのは「足りないものは何もない(自分はすでに大丈夫なのだ)」ということを、自分の身体を通じて実感することなのだと思っています。

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人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
TEL:07055527106 or 08037252314
LINE:ibaya  keigosakatsume@gmail.com