いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【表現と表出の違いについて】最近思うことあれこれ。ー これから必要になるのは『表現力』だと私の直感が叫んでいる。

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全国各地で性懲りもなくトークセッションに出演する日々を過ごしている。常に新しい人達と出会い続けることは時にエネルギーを激烈に磨耗することもあるが、同時に「自分ひとりでは決して考えることのなかった質問を投げかけてもらえる」楽しさもある。私は考えることが好きなのだろう。最近思うことあれこれを10箇条(?)にしてまとめてみました。

1・一時的に熱狂的に私の言葉や生き方を好んでくれる人ほど、後になって「坂爪さんにはがっかりしました」と言って離れていく。長いつながりのある人間には「戦友」みたいな感覚を覚えることがあるが、恋愛も友情も同じで、ある程度の緊張感を必要とするものだと思う。

2・最近は「被害者意識」ほど醜いものはないと感じている。「会社が悪い」とか「家族が悪い」とか「政府が悪い」とか、常に不満に溢れている人達は、他人に自分の人生の責任をなすりつけてしまっている。自分の人生を背負って立っていない人間は、生き方としてダサいと思う。

3・溜め込んだエネルギーがマイナスに発揮されると自殺や戦争が起きるが、プラスに発揮されると祭りが起きる。自殺や戦争(要するに殺人)をしたくなければ「祭りを発明する」のがベストだと考えていて、日本の祭りや民俗学を再構築するのが有効な気がしている。

4・出版社の男性から「橋爪さん、本を出しませんか?」と連絡が来た。私の名前は『坂爪』で、「本を出させてやるよ」的な上から目線が不愉快だったので、お断りした。テレビや新聞社からの連絡も「テレビ(新聞)に出させてやってもいいよ」的な雰囲気を醸し出す人がいるから苦手だと思った。

5・「自分を偉いと思っている人に偉い人はいない」と思う。上から目線で物を言ったり、頼みもしないのにアドバイスをしようとする人に感じる違和感は、その人が抱える「醜悪なエゴ」に原因があると思いました。

6・これから必要になるのは『表現力』だと私の直感が叫んでいる。



今までは「自分を出す」よりも「周囲に合わせる」ことの方が重要視されていて、それが出来ていれば無難に生きていくことが出来た。しかし、何が起こるかわからない(「周囲」があてにならない)時代においては、最終的に頼りになるのは「自分がどのような人生を送りたいのか」という心の声になる。

7・私にとって表現とは「自分の内側にあるものを、自分の外側に出すこと」という単純な言葉で説明できる。そして『自分を表現する』には重要な2ステップがある。ひとつめは「自分の欲求をしっかりと捉えること」であり、これが意外と超絶難しい。自分が本当の意味で何を望んでいるのかをはっきりと掴むことが出来なければ、結果的にアウトプットも的外れな(ぶれぶれな)ものになってしまう。

もうひとつが「自分の内側にあるものを的確に外側に出すこと」であり、これも意外と超絶難しい。自分の内側にあるものをしっかりと捉えることが出来たとしても、それを的確に外側に出すことが出来なければ、まっすぐに相手に自分の気持ちを伝えることは出来ない。「本当はそんなことを言いたかった訳ではないのに、結果的にまったく違う言葉を口にしてしまった」という風に後悔してしまうことが頻繁にあるが、このような時は「的確に自分の気持ちを表現できなかった」場合に感じることが多い。

・自分の欲求をしっかりと捉えること
・自分の内側にあるものを的確に外側に出すこと

この二つが出来た時に、はじめて相手に対して自分のボールを投げることができたと言えるのだろう。求められるのは「精度」であり、自分の内側を的確に捉えて、それを的確に外側に出すこと。それが達成された瞬間には絶対的なよろこびがあり、これが『コミュニケーションの快楽』になる。

8・ 「みんながお前みたいに好きなことだけやっていたら社会が回らないよ」って今まで何千回も言われて来たけど、こういう批判をする人は《人間を信用していない》んだと思う。みんなが好きなことをやってOKとなった時に、誰もが「家のない生活」を始める訳がないし、役割は確実に分散する。

9・人間を信用していない人は「人間は放っておくと何を始めるか分からないから、ある程度の管理&監視をしておかないと余計なことをやらかす」という前提に立っている気がする。だから「他人は管理する必要がある」ということになるのだろうけど、誰だって管理&監視をされるのは嫌だと思う。

10・必要なのは「失敗してもいい」という空気感や「無駄を愛する」精神的な余裕だと思うのだけれど、強烈な管理や監視が行き届いた社会では《余計なことや失敗をすることが許されなくなる》と思う。「余計なことこそ最高!」なのに、言われたことしかやれないのなら、途端に人生は退屈になる。

私が自分の人生で大切にしたいのが「無駄を愛する」精神的な余裕であり、極論、人生に意味は必要ないのではないだろうかと感じている。私たちはスポーツを見て激烈に感動することがあるが、「バットを振ってホームランを打つこと」や「42キロを誰よりも早く走ること」や「ハンマーを遠くに投げること」などには、ぶっちゃけ何の意味も価値もない。もしも人生に意味を求めてしまうと、あらゆるスポーツは(生産性の欠片もない無意味な行為なので)「無価値」ということになっていまう。

同じように、私は海と太陽を愛している。日本海に沈む夕日を目にした瞬間、私はあらゆる作業を投げ出して(夕日に向かって)「うおおおおおおおおおおお!」と叫びながら駆け出してしまう癖(へき)がある。海を眺めることや、沈む夕日の美しさに見惚れることには、何の価値も意味もない。海を眺めても一円ももらえる訳ではないし、夕日を眺めていたら市民税が控除される訳でもない。ただ、私は「海を眺めたいから海を眺めている」だけであり、「意味」はないけど「喜び」はある。

ー 意味はないけど喜びはある。

このようなことを感じている。仲の良い人間と過ごす時間や、美しい自然を眺めている時間や、身体を動かす時間にあるのは「意味」ではなくて「喜び」だ。生きることに意味を求めるよりも、私は生きることに「喜び」を求めたいと思っている。そのためになくてはならないのが「無駄を愛する」精神的な余裕であり、自分と価値観を同じにする人と一緒に遊び、共に時間を過ごしていきたいと思っている。

人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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