いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

【資本主義の石器時代は終わりだ】金の使い方をひっくり返す。ー 「受ける側」ではなく「与える側」が金を払う。

私の根源的な熱情は「常識をひっくり返したい」という思いに支えられていて、固定概念を破壊できたらどれだけ清々しいだろうかと思っている。今、個人的に興味のある対象は「金(MONEY)」であり、金の使い方をまるごとひっくり返せたら面白くなるような気がしている。以下に構想中のアイデアを綴ります

「受ける側」ではなく「与える側」が金を払う

今までは「サービスを受ける人」が、自分が受けるサービスの対価として金を払っていた。例えば、飲食店ならば「食べる人(サービスを受ける人)」が金を払って食事をしていたが、これをひっくり返したいと思っている。客(サービスを受ける側)が金を払って食事をするのではなく、飲食店の店主(サービスを与える側)が金を払って客に無料で食事を食べてもらうようにしたら面白いと思っている。

学校にも適用できる。今までは生徒が金を払って授業を受けていたが、このスタイルでは先生が自分で金を払って授業を行う。生徒(サービスを受ける側)である限り、その人は常に無料で授業を受け続けることができる。理由は単純で、先生(サービスを与える側)が自分で必要経費を賄っているからだ。

これはホテルでも美容室でもマッサージでもあらゆる業種に適用できる。要するに「サービスを受ける側でいる限りその人は永遠に無料でサービスを受けることが出来る。そして、自分が与える側にまわりたいと思った時に、はじめて支払いの必要が発生する」というスタイルが面白くなると思っている。

「カオスキッチン(仮)」の思い出

このような考えを持つきっかけになった重大な出来事がある。昔、私は「カオスキッチン(仮)」という名前の東洋的な混沌を楽しむイベントを不定期で開催していた。内容はシンプルで、私が調理器具全般が整っている広めの施設を終日貸し切り、告知ページには「料理が好きな人は料理を作って欲しい。参加費は無料で、誰か料理をしてくれる人が登場してくれた暁には皆でそれを食べるが、誰も登場しなければ何も食べるものはないので、その時は会話でも楽しもう」と書いた。非常にゆるい内容だった。

すると、告知文章を見た斎藤さん(仮名)という男性から「私は料理が好きなので、よかったらそこで料理をさせて欲しい。イベントの趣旨をあまり理解できていないのですが、料理の予算などはあるのですか?」という連絡が届いた。確かに分かりづらい内容のイベントである。私は(斎藤さんは何かを誤解しているのかもしれないと思い)イベント趣旨が明確に伝わるように以下のような返答をした。

「誠に恐れ入りますが、このイベントは収益が一切発生しないモデルなので、料理をしてくださる方に材料費などをお支払いすることが出来ません。そのため、斎藤さんの無理のない範囲で、1000円でも500円程度の材料費でも構いませんし、参加者全員分の料理を用意する必要もないので、斎藤さんがつくりたいものをつくりたい分量だけ、無理のない範囲でつくっていただけたら幸いです」

すると、斎藤さんから驚くべき返答が来た。「(ということは)逆に言えば、どれだけ金を使ってもいいってことですよね??」と言ったのだ。私は驚愕した。その発想はなかった。私は「もちろんです!」と返事をした。まさかの展開に胸が弾み、結論から言うと、斎藤さんは6000円〜7000円分の大量の食材を買い込み、参加者全員に「スパイスまみれのインドカレー」を振る舞ってくれた。

ここで注目すべきポイントは三つある。

1・受けるよりも与える方が満足度が高い。
2・天井を設けないことで限界が突破される。
3・「与える側」にまわれる機会の少なさ。

乱暴な表現になるが、カオスキッチン(仮)に参加してくれた人の中で、誰よりも幸福そうに見えたのは斉藤さんだった。普通なら、無料でインドカレーを食べることができた参加者こそが幸運であり、自分で金を払って食材を買い込んで長い時間を調理に注いだ斎藤さんの生き様は、損得勘定で見れば「圧倒的に損」な役回りであったはずだ。それなのに、その場では誰よりも斎藤さんが楽しそうに見えた。

「受けるよりも与える方が圧倒的に満足度が高い」ということを確信した出来事だった。参加費や予算などを設けないことで発生したハプニングによって、新しいスタイルの在り方を垣間見た気がした。そして、通常の人生の中で「自分が与える側にまわれる機会」が非常に少ないということを考えた。

消費者よりも生産者になろう

基本的に、人間は「受ける」よりも「与える」ことが出来た時によろこびを感じる生き物であると思っている。しかし、企業の広告などは「これを買え!」「あれを買え!」と消費活動を促し、一般大衆に向けて「永遠の消費者であれ!」というメッセージを常に放ち続けている。消費を通じて得られる快楽の持続性は低く、ひとつのものを購買したら、また新しい別の消費を必要とする。

この欠乏的なサイクルに終止符を打ちたい。「消費者よりも生産者になる」ことが生きている実感や日々の充足感に繋がりやすく、与える側にまわれる機会が少ないこの世の中において、「受ける側ではなく与える側が金を払う」システムを実験的に導入してみることを通じて、何かを獲得したいと思っている。

なにはともあれとりあえず実践

頭で考えても仕方がない。言葉で説明できることには限界があるし、今までにない「新しい常識」をつくりたいと望むなら、そもそもで(現在の常識を基盤とした)言葉で説明できる訳がない。「そんなのはうまくいくはずがない」と思われることにこそ未来の可能性は宿り、何かを突破していくのだろう。

今月末から台湾に行く。個人的な思いとして「台湾にいつでも誰でも無料で泊まれる宿があったら、日本からも『無料で泊まれるならとりあえず台湾にいってみるか』と思う人も現れるだろう。台湾の家賃は日本ほど高くはないので、10人程度の有志(与える側の人間)が集まれば、小さなマンションならすぐに借りることができる。利用者(サービスを受ける側)は常に無料で宿泊できるし、その中にはサービスを利用するだけ利用して素通りしていく人もいるだろうが、場合によっては『自分も一緒に与える側にまわりたい』と希望してくる人間もあらわれるだろう。そういう人間が増えていったら、世界中にこのような拠点を幾つも構えたり、拠点以外にも『無料で受けられるサービス』が増殖していく。まずは他の誰でもない自分自身が実際に動くことからすべてははじまる。台湾で家を探そう」と思っている。

台湾に拠点を構えれば、東南アジアへのアクセスも飛躍的に向上する。世界を見ることの最大のメリットは「自分が今いる場所が世界のすべてではない」ということを肌感覚で実感できることであり、自分の居場所を地球上に増やせば「日本がダメでも別の国に行けばいいや」みたいな心の余裕が発生する。心の余裕を生むために、最大のハードルになるのが「金」だと思うが、誰でも無料で使えるサービスが増えていけば、今よりも気軽に移動や交流が生まれ、自分の世界を広げる契機も発生していく。

移動とアイデアは比例する ー 高城剛

今はまだ妄想の域を越えていない。実際的な行動を重ねながら、出会う人たちとの会話を通じて、自分自身の考えを煮詰めていきたい。「受ける側」ではなく「与える側」が金を支払うシステムに現代の閉塞感を突破する可能性を感じている。ブルーハーツの情熱の薔薇という曲に「見てきたことや聞いたこと / 今まで覚えた全部 / デタラメだったら面白い / そんな気持ちわかるでしょう」という歌詞がある。

私の根源的な熱情は「常識をひっくり返したい」という思いに支えられていて、信じてきたことがデタラメになる時代は、そう遠くないような気がしている。自分の常識を決めるのが自分なら、自分の常識を覆すのも自分自身だ。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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