いばや通信

ibaya≪いばや≫共同代表・坂爪圭吾のブログです。わっしょい└( ^o^ )┐

自分自身が有名な存在になるということと、それに伴うメリットとデメリットについて。ー 自分を殺して他人に好かれるよりも、自分を出して他人に嫌われる方がずっといい。

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2015年1月現在、私はTwitterFacebookのフォロワー数がどちらも6000程度で、ブログのアクセスは一日一万程度になる。このブログをはじめたのが今から一年前で、当時は一日100程度のアクセスだったので、この一年間で100倍(!)増加したことになる。去年の今頃は、Twitterのフォロワー数も3000弱で、Facebookに関してはフォロワーなんてほとんどいなかったんじゃないかと記憶している。


国民的な有名人と比べれば「屁」みたいなものだが、それでも徐々に自分自身が著名な存在になってきているのを感じている。「有名になるということ」がどういうことなのかを、自分の身体を通じて実感している真っ只中にいて、その中でもとりわけ印象的だったメリットとデメリットをまとめます。

有名になることの3つのメリット

1・魔法が使えるようになる。
2・経験や見聞の幅が広がる。
3・自分自身が起爆剤になる。

有名になることの3つのデメリット。

1・甘い罠にはまりまくる。
2・怪しい人が集まってくる。
3・誹謗中傷を受けまくる。

有名になることの最大のメリットは「魔法を使えるようになる」ことであり、これがどういうことかというと、私が「海外旅行に行きたい」などとボソっと呟くと、例えばハワイに住む方から「飛行機代を出すから遊びに来ないか?」という魅力的過ぎるオファーが届いたりする。ブログに「毎日リンゴを食べて生きている」と書けば、行く先々で出会う方々からりんごやみかんなどのフルーツを頂戴する。自分が欲しいものを言葉にするだけで、それが物凄い速度で実現するようになっているのを感じている。


2014年の2月から、私は「家がなくても人間は生きていけるのか」ということを自分の身体を使って実験している。その中で、私が発信する情報を目にしてくれた人が「もしも⚪︎⚪︎県で困っている時があれば我が家を使ってください」という風に声をかけてくれる。場合によっては「あなたの書く文章が面白いので、私が住む街で講演をしてください」と頼まれることもあれば、講演に訪れた先では私のブログを熱心に読んでいてくださる方々もおり、人によっては「ずっと会いたかったんです!」と叫びながら抱きついてきてくださる方もいる。自分という人間を一目見るだけでテンションをあげてくれる人がいるのはとても嬉しく、そんな時は、まるで自分が有名人(まるで存在自体が起爆剤)になったような錯覚を覚える。

私は新潟出身の人間なので、去年の今頃までは一度も九州に足を運んだことがなかった。それが、家のない生活をはじめたことを通じて、多くの都道府県から声がかかり、今では九州すべての県を巡ることが出来た。交通費は私を呼んでくださる方が負担してくれるので、基本的には「無料で旅行が出来ている」状態になる。これは本当に有難いことで、自分自身の経験や見聞の幅が広がっている。謝々!

「有名になること」にはデメリットもある。

「甘い罠にはまりまくる」というのが代表的なものであり、今では多くの方々が「会いたいです」と連絡をくれる。基本的には私という存在に好意を抱いている方から連絡をもらうことが多く、私自身も(そんな風に言ってもらえたら)決して悪い気はしないので、自分の都合がつく限り実際に足を運ぶようにしていた。しかし、これには何か問題があることに気がついた。乱暴にまとめると「自分と一緒にいたいと言ってくれる人」と時間を過ごすよりも、「自分がこの人と一緒にいたい」と(自分が主体的に)思える人と自分の時間を使わなければ、何かこう本末転倒なんじゃないだろうかと感じている。


多くの方々に自分の存在が知れ渡るようになると、私の影響力を「悪い方向に利用しようとする人」も登場する。自分のビジネスに利用しようとする人もいれば、常に私から何かを(与えようとするのではなく)奪うことだけを考えている人もいるし、覇気を失った人や、怪しげな宗教やビジネスや自己啓発団体に手を染めてしまっている多くの人たちとも出会った。

不特定多数から誹謗中傷を受ける機会も増えたし、見たこともない人から「死ね」とか「消えろ」と言われることも増えた。これが「有名になること」のデメリットであり、自分自身に知名度がなければ決して発生することのなかった面倒臭い出来事のあれこれがある。誤解されると困るが、私は「有名になることは素晴らしいことだ」と言いたい訳ではない。個人的な実感として、自分自身の存在を多くの方々に知ってもらうことを通じてどうにかこうにか生き延びることができている今、私にとって「自分自身を発信すること」の重要性と危険性について、改めて考え直していきたいと思っている。

私が家も金もなくても生きることが出来たのは、こうしたWEB媒体を通じて「コミュニケーション能力を磨くことに成功した」からだと睨んでいる。極論、コミュニケーション能力があれば人間は死なない。金がなくても「助けてください!」と言葉にして的確に伝えることが出来れば、必ず誰かが助けてくれる。しかし、自分自身にコミュニケーション能力が欠如していれば、他人に助けを求めても誰も反応してはくれないので、自分のことはすべて自分でやらなければならなくなる。

【参考記事】「他人に迷惑をかけてはいけない」というのは大嘘で、どれだけ楽しく迷惑をかけられるかの勝負だ。 - いばや通信

コミュニケーションには「煩わしさ」という最大のデメリットが発生するために、例えばシェアハウスなどに住めば家賃などは折半できるが、代わりに「個人的な空間」を確保することは難しくなる。言い換えれば、コミュニケーションという煩わしい対価を支払うことが出来る人間は金銭的な負担も低く抑えることができる。大抵のことは「金」か「コミュニケーションコスト」を支払えばどうにかなる。

これからは個人の時代だと言われている。今までは「自分を出す」ことよりも「周囲に合わせる」ことの方が大事だという雰囲気に包まれていたが、大企業だろうがいつ倒産するか分からない今、寄らば大樹の陰というマインドも古臭いものになってきた。そんな中で必要になるのは「私はこういう人間です」という風に自分自身の旗を掲げて生きることだと私は思っていて、その中で重要になるのは「自分自身を表現すること」になるだろうと思っている。

コミュニケーションとは「自分の内側にあるものを、自分の外側に出すこと」だと思う。言い換えるならば「自分自身を表現すること」であり、これに成功した人から自分オリジナルの幅広い世界を生き始めることができるのだろう。すべての人が自分を受け入れてくれるとは限らないけれど、すべての人が自分を受け入れてくれないとも限らない。自分を殺して他人に好かれるよりも、自分を出して他人に嫌われる方がずっといい。「これが私です」と自分自身を掲げること。これが大切だと思う。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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