いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

「人間の価値」と「人間の功績」について。ー 「何かをしなければいけない」というのは幻想で、「何もしていない」ことは絶対に悪いことではない。

私は「普段は何をしているのですか?」という質問が苦手だ。同じ風に「苦手だ」と感じている人は多いと思う。「普通のサラリーマンです」と答える人もたくさんいるが、本来であれば、普通のサラリーマンなんてひとりも存在しない。誰もが、その人だけのオリジナルな何かを抱えながら生きている。

硬い話になるが、世の中には「人間の価値」と「人間の功績」があると思う。「人間の価値」とは、生きている限り、すべての人に備わっている。「人間の功績」とは、小さなものでは「料理が得意だ」とか「正社員になれた」とか「文章能力を褒められた」というものから、大きなものでは「iPhoneを発明した」とか「世界的な企業を築き上げた」とか「オリンピックで金メダルを獲得した」などがある。

今の世の中の息苦しさの根源は、「人間の価値」と「人間の功績」が、見事にごちゃごちゃになってしまっているからだと思う。本来であれば、人間の価値はすべての人に備わっているものであり、必要な条件などは皆無だ。しかし、「正社員ではない自分には価値がない」とか「結婚できていない自分には価値がない」とか「やりたいことがわからない自分には価値がない」とか、自分自身に価値を感じるためには、特別な何かをしなければいけないというある種の強迫的な雰囲気がある。

「自分は無価値な人間だ。だから、誰かに注目してもらうためには、特別な何かをしなければいけない。特別な何かを達成することを通じて、はじめて自分自身に価値を感じることができる」というのは、危険だ。人間の価値と人間の功績はまったくの別物で、「功績がなければ人間としての価値もない」ということは絶対にない。しかし、今の世の中は「功績がなければ人間としての価値もない」という雰囲気に満ち溢れていて、「普段は何をしているのですか?」という質問を通じて、お互いの功績を値踏みし合うような現象が頻発している。私が苦手なのは、このような「お互いに値踏みし合っている(お互いの人間的な価値を、お互いの功績によって確認しようとしている)」感覚だ。

「人間の価値」と「人間の功績」について、思い出すエピソードが三つある。

1・「余命一週間の人」の話

記憶が曖昧だが、養老孟司さんの著作の中で「(たしか)余命一週間の人」の話があった。ある日、医者から「余命一週間です」と突然に告げられた患者さんが、自分の人生に絶望する。残り一週間で終わろうとしている自分の人生にまるで意味を見出すことが出来ず、深い悲しみに暮れていた時のことだ。

見舞いか何かに駆けつけてきてくれた人に、その人は話した。「私の人生は残り一週間で終わる。こんな人生に、いったい何の意味があるというのだろうか」と。すると、見舞いに来た人は言った。「人生に意味はなく、生きることの意味はその人自身が与えるものだ。あなたが残り一週間の人生の中で、どのような日々を送るか、どのような態度で人々と接するか、そして、それを見た人が、どのようなことを感じるのか。それが『あなたが生きる』意味だ」みたいなことを話す。

「人生に(あらかじめ用意された)意味はない」という考え方は斬新で、私は目から鱗が落ちる思いがした。自分が置かれている環境の中で、自分がどのような態度で日々を生きるか。そして、それを見た人が、自分を通じて何を感じるとるのか。それが「自分が存在していることの意味」になるのだろう。

2・「父親の交通事故」の話

ある日、私が実家にいた時に、家の目の前で父親が交通事故に遭った。その事実を知った時は「まじか…!」と心臓が縮み上がり、最悪の事態を想定して私は震えた。最悪の事態とは「父親が死んでしまうこと」であり、私は即座に自宅を飛び出して事故現場へと駆け出した。しかし、実際のところはまるでたいしたことはなく、軽い接触事故を起こした程度だった。私は深い安堵感に胸を撫で下ろした。

そして、私は「父親が生きているだけで嬉しい」という感覚に自分が包まれていることを知った。誰かが「もしかしたら死ぬかもしれない」と思った時に、その人が「まだ生きている」ことを知った時に、それを知った人(今回の件で言えば私)は、嬉しさに満ち溢れる。「生きてさえいれば」と願う気持ちは切実なもので、「生きているだけで嬉しい」と他者に対して抱く気持ちは本質的だと思った。

本来であれば「生きているだけで嬉しい」のが人間の存在であり、他に必要な条件は何もないのだということを知った。「価値は存在に宿り、功績は行動に宿る」のであり、特別な行動がなかったとしても、存在に宿る価値が薄らぐことは決してない。本来であれば「生きているだけで嬉しい」のだ。

3・「海で溺れた時」の話

今年の夏、私は荒れ果てた日本海を目の前に「ここで泳いだら楽しそうだな…」と思い浮かんで飛び込んでしまった。そして、ものの見事に溺れてしまった(正確に言えば、ひたすら沖の方まで流されていった)。「このままだと死ぬ!」と思った私は、岸辺に向かうのを諦めて、真横にあった岩場まで死に物狂いで泳ぎ、九死に一生を得ることができた。岩場に乗り上げた時の安堵感は半端なかった。

その時に確信した。「生きているだけで嬉しい」ということを強烈に実感した。危なかった。あと一歩で死んでしまう所だった。岩場に思い切り叩きつけられるリスクもあったが、奇跡的にひょひょいと乗り上げることに成功した。そして私は実感した。どれだけ日常的に「死にたい」と思うことがあったとしても、実際に死を目前にすると、死に物狂いで「是が非でも生きようとする」自分の身体(?)や意思(?)の存在を強烈に痛感した。私の無意識は、常に強烈に生きたがっている。

ー 価値は存在に宿り、功績は行動に宿る。

「人間の価値」と「人間の功績」はまったくの別物であり、これらをごちゃごちゃにしてはいけない。本来であれば、誰もが「生きているだけで嬉しい」存在であり、他に必要な条件は皆無なのだと思っている。「何かをしたから自分には価値がある(何かをしていないから自分には価値がない)」のではなく、「何をしていなくとも人間の価値(生きていることのうれしさ)は常にそこに在り、何かをした人には『(人間の価値とはまた別の)功績』が宿る」だけの話なのだと思っている。

常に不安感を煽られて、「何かをしなければいけない」という強迫的な思いに囚われることは頻繁にある。「何もしていない」自分を責めるのは簡単だが、「何もしていなくとも絶対的な肯定感を自分自身に抱けるようになる」ことの方がずっと重要なことであり、自分を否定しても誰も幸せにならない。

「何かをしなければいけない」というのは幻想で、「何もしていない」ことは絶対に悪いことではない。今日はクリスマスイブで、明日は神様が生まれた日なのだと言う。もしも神様という存在が人間をつくったのだとしたら、自分の創造物に対して「不自由に生きること」なんて望みはしないだろう

クリスマスというこの瞬間を、(本来であれば)誰もが「生きているだけで嬉しい」存在なのだということを、はっきりと思い出せる機会にしていきたい。自由であること。幸せであること。愛情を持つこと。そして、GOD BLESS US! ー 何が起きたとしても、常に「人間の価値」は補填されている。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》
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