いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

『他人がどう思うか』よりも『自分自身が自分の生き方に胸を張れるかどうか』の方が圧倒的に重要で、自分が最高だと思える瞬間を愚直に重ねて行けば勝手に人生は充実する。

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ありがたいことに様々な場所に呼ばれて自分のライフスタイルから学んだことを人前で話す機会が増えてきた。昨夜は佐賀県武雄市にあるいのししカフェで『坂爪圭吾を囲んでイジる会』が催された。初対面の方もいれば久しぶりに再会を果たす人もいて、久しぶりなのにまるで久しぶりな気がしなかった。


昨夜も様々な話を交わした。今の世の中は『損をしない生き方』が主流になってしまっているということ。大学を辞めるのは損だとか、大企業や安定した仕事を辞めるのは損だとか、せっかく結婚したのに離婚するのは損だとか、『損をしない為に(自分が有利になる方向で)生きろ』というメッセージが世の中に蔓延している。そして『損をしない生き方』の先に感動はないということ。喜びに声をあげて泣くことも、自分自身を投げ出して命を賭ける興奮も、現実に挑む闘志や気概も失くしてしまう。自分自身の可能性は常に危険と隣り合わせで、自分の行動範囲(安全領域)を越えた先に宝はある。

私は朝焼けと夕焼けを眺めるのが大好きで、美しい朝焼けを目撃した時などは「うおおおおおおおお!」と大声をあげて太陽に向かって爆走したりすることがある。本当に素晴らしいものに出会うと頭で考えるよりも先に身体が動く。頭よりも身体や心の方が答えを知っている場合がずっと多く、いつしか私は毎日朝焼けや夕焼けを出来る限り眺めていたいと思うようになった。そして、今までの自分の生活がどれだけ人間として不自然であるのかということに気がついた。

人間として自然であるということ。例えば、鳥の巣からずっと出てこない鳥がいたら、その鳥は多分病気だ。犬小屋からずっと出てこない犬がいたら、その犬も多分病気だ。それでは自分自身はどうだろうか。過去の私は24時間ずっと屋内に閉じ込められた生活をしていて、美しい朝焼けや夕焼けを眺める機会もなければ、金木犀の香りを気が済むまで浴び続けることもなく、日常の生活の中で風を浴びることはほとんどなかった。風を浴びるのはある場所から別の場所へと移動する間の時間に限られ、夜の街を歩きながら星空を眺めては「綺麗だなあ」とは思うものの、またすぐに屋内へと戻る生活をしていた。

いつしか「人間として不自然であること」が私の日常となってしまい、風を浴びる時間よりも屋内に閉じ込められた生活の方が長くなってしまっていた。『自然を楽しむ』ということを自分の日常としてではなく、時折機会に恵まれた時だけに味わう『特別なこと』という位置づけにしてしまっていた。

本来であれば人間も自然の一部であり、人間である前に一匹の動物である。本当は毎日朝焼けを眺めてからはじまる生活を送ってもいいし、毎日毎日夕日を眺めてもいいし、金木犀の香りを全身に浴びながら外で作業をしたりいつまでも散歩を続けても良いはずなのに、いつしか『(屋外ではなく)屋内へ』という思考がインストールされてしまった私は、自然を楽しむということを非日常な体験ということにしてしまっていた。これがよくなかった。これが本当によくなかったのだと思う。

自分が美しいと思うものを非日常にしないこと。自分が素晴らしいと思うことこそ、自分の日常に取り入れていくということ。それは自分の部屋にお気に入りのものたちを並べるように、自分自身の人生も『(自分が嫌だと思うものではなく)自分が好きだと思える瞬間』で満たしていくように暮らすこと。暮らしの中には「あ、いいな」と思う瞬間が一日に何回も何回もある。その瞬間を逃さないこと。

『損をしない生き方』ではなく『自分自身が最高だと思える生き方』をするということ。乱暴にまとめれば、ただこれだけを意識していればそれで充分なのだと思っている。自分が最高だと思える瞬間を重ねていくこと。たとえ一時的には何の得にもならず、むしろ周囲から見れば『時間の無駄』だと(損なことだと)思われるようなことであったとしても、そこにその人自身の感動が乗っかっていればそれだけで最高なのだと思っている。私が注力するべきなのは『他人がどう思うか』ではなく『自分自身が自分の生き方に胸を張れるかどうか』であり、愚直に自己ベストを更新していくだけだと思っている。

日本には美しい風景がそこら中に溢れている。人生は続く。

坂爪圭吾 KeigoSakatsume/ibaya