いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

家がなくてもお金がなくても生きていけるのかを実験してみた結果報告。 - 恥を捨てて町へ出よう -

【最終日】家を捨てよ、町へ出よう。 - 生きるためには必要ないけれど、生きていることを実感するために必要なもの - でも書いたように、私は「家がない / 金もほとんどない」状態でどれだけ生き延びることができるのかを試してみた。世間では「金がなければ生きていけない」と言われている。これはどれだけ真実なのか、自分の身体を通じてライトに実験してみようと思ったのが最大の動機だった。

結果、手応えとしては「いける」と思った。

まずは家の問題。私には家がないが、他の人には家がある。そこを頼った。宿を提供してくれる人を探すと、気軽にOKを出してくれる人が何人もいた。私は迷惑をかけない程度に甘え、無事にことなきを得た。何よりも楽しかった。毎日違う場所に泊まれることは楽しかったし、住人たちと話す時間は楽しかった。そして嬉しかった。家を提供してくれることが嬉しかったし、寝る場所があること、シャワーを浴びることができるのがとても嬉しかった。この、「楽しさ」と同時に「嬉しさ」も感じることができるのはキーポイントだ。あとでまとめる。これで家の問題はクリアだ。最悪、漫画喫茶に泊まれば済む。毎月10万円も払ってひとり暮らしをするのは「楽しさ」もないし「嬉しさ」もないしバカげていると思った。

次は食の問題。私には潤沢な資金はないが、他の人には私よりある。そこを頼った。誰だって毎月ある程度の額は「娯楽」に使っている。飲み会や映画やLIVEなどの体験の場にお金を使う。それならば私と時間を共にすることをある種の娯楽にしてしまえばいいのだと考えた。私といる時間が楽しければ私にご馳走してくれるだろうし、私といる時間がつまらなければわざわざ貴重な時間とお金を出してまで一緒にいたいとは思わない。私は私と一緒にいる(私にわざわざご飯をおごる)価値は何なのかと考えた。私にご飯をご馳走することのメリットは・・・

①ホームレスに「ご飯をご馳走した」というネタを獲得できる。

②坂爪の話が聞ける。最近考えていること(シェアタウン構想やねこばっじなどのいばやの活動やコンセプト)についての話が聞ける。家がなくても生きていけるのかというサバイバルスキルについて実体験を交えた話が聞けるので、単純にそれが楽しい。

③坂爪には道化の要素が強いので、そもそもで一緒にいる時間が単純に楽しい。

④坂爪そのものはつまらないとしても、坂爪の周りには面白い人がたくさんいるので、とりあえず坂爪と繋がっておくことで長期的に幅広い人間的繋がりを獲得していくことができる。

⑤優越感を獲得できる。坂爪にご飯をおごるという優越感を。

簡単にざっとあげてみても、上記のような5つのメリットが浮かんだ。これをメリットと思う人は私にご飯をご馳走してくれて、これを「煩わしいだけのもの」と感じた人は私を無視した。無視することは決して悪いことじゃない。まともだ。私にご飯をご馳走する人は、皆が皆(非常に前向きな意味で)変わっていた。私は彼らと話した時間が本当に楽しくて嬉しくて、家がない生活を通じて感じることができるよろこびに思いを馳せた。キーワードは3つ。「楽しさ」と「嬉しさ」と「煩わしさ」だ。この3つはこれからの時代を生き抜きキーワードになる。

私は他人の家を借りることで家がなくても生き延びることができた。そして毎月家賃に給料の3分の1とか払うのはどこまでもバカげていると思った。しかし、他人の家を借りるためには「家を貸してください」とお願いしなければならない。ここに、コミュニケーションの手間(「煩わしさ」)が発生する。「煩わしさ」を乗り越えればお金もかけずに家もご飯も手に入るが、そのためには自分でお金を払わなければいけない。お金は「煩わしさ」を排除してくれる。

例えばこの国には「他人に迷惑をかけてはいけません」という強い風潮がある。これは、裏返せば「私に迷惑をかけないでください」ということにもなる。要するに、煩わしいことがみんな大嫌いなのだ。だからみんな自分で家を持つし、自分のお金でご飯を食べて、自分のお金で娯楽を楽しんだり服を買ったり恋人とデートに出かけたりする。

しかし私にはお金がなかった。家もなかった。何もなかった。だから煩わしさを突破した。すると、面白いことにそこには「楽しさ」と「嬉しさ」があった。この「楽しさ」と「嬉しさ」は、自分で言えも借りて自分でご飯を食べている時には、決して感じることのできなかった感情だ。

誰かに助けを求める時に死守すべき3つのコツ。 - 「他人に迷惑をかけちゃいけない」というのは大嘘で、「どれだけ楽しく迷惑をかけられるか」の勝負だ! - でも書いたように、「煩わしさ」を「楽しさ」や「嬉しさ」に転化することができれば、もしかすると金も家もなくても生き延びていくことができるかもしれない。生き延びていけるばかりか、楽しく、そして嬉しさを感じながら生き延びていくことができる。この現象は一体何だろうか。

繰り返しになるが、私たちは「煩わしさ」を排除するために金を使う。カメラが欲しければカメラを自分で買うし、家がほしければ自分で家を買ったり借りたりする。カメラを持っている人に「カメラを貸してくれ」「カメラを譲ってくれ」とお願いするのは煩わしいことだ。

しかし、カメラを持っている人にカメラを貸してもらえることにはメリットもある。最大のメリットは「お金がいらないこと」であり、「カメラの使い方を教えてもらえること」であり、「そこにコミュニケーションが発生すること」だ。コミュニケーションには3つの要素が隠れている。「煩わしさ」がトップに来るが、煩わしさを突破した先には「楽しさ」や「嬉しさ」がある。カメラの使い方を自分で勉強する時間を大幅に短縮できるし、素敵なカメラ屋さんの情報なども教えてもらえる。なんでも自分でやろうとするよりも、圧倒的に有益な情報が圧倒的なスピードで入ってくる。

長くなってきたのでまとめに入る。

①金がなくても「煩わしさ」さえ突破できればどうにかなる。
②「煩わしさ」の先には「楽しさ」や「嬉しさ」がある。
③「楽しい」だけでなく「嬉しい」というのは、実はとんでもなくすごいことだ。生活の中で楽しさを感じる出来事は多いけれど、「楽しくて、かつ、嬉しい」状態というのはなかなかない。嬉しさは他人とのコミュニケーションを通じて獲得できる。

私にとって、究極の嬉しさとは「自分の気持ちが伝わったこと」であり、「自分がやったこと(自分がつくったもの)で誰かもそれをよろこんでくれたこと」である。私たちは「煩わしさ」を排除するためにお金を使い、そして煩わしさを排除した結果、人間的なコミュニケーションまで排除してきてしまったのかもしれないとさえ私は思った。コミュニケーションには普遍的なよろこびがある。結論。「煩わしさ」の先に、「楽しさ」や「嬉しさ」がある。恥を捨てて町へ出よう。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume/ibaya
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