いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

永遠の前の一瞬。

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ベトナムのニャチャンを経由してホイアンにはいり、これからタクシーでダナンに向かう。夜には寝台列車ホーチミンに戻り、一泊した後に水曜日の便でバンコクにはいる。基本的に暇なので、ラジオ番組「坂爪圭吾のポンポンがパンパン!」なるものを配信した。ポンポンとは腸【はらわた】のことで、肉体的及び精神的に満腹時の坂爪が皆様のご機嫌をハンティングする軽薄な内容になっている。


自前のスマートフォンを落として割ってしまった。ブログに使用している写真は、すべてスマホiPhone5s】で撮影していたために困ってしまった。精神もスマホも粉々である。新しい携帯(iPhone6s plusの大画面に惹かれている)を購買したいが、所持金はお米粒程度だ。金曜日には祖国【日本】に戻るので、どなたか使っていないスマホなどを安価で譲ってくださる神様がおりましたら、ご連絡いただけると猛烈に喜ぴます。

元気なんか出さなくていい。

私は、多分、ハイテンションのひとが苦手だ。みっつを含めたいばやの皆様といると落ち着くのは、彼らは「元気だけどテンションは高くない」からだ。要するに、無理をしていない。常に明るくいなければいけない、前向きでいなければいけない、元気でいなければいけない、楽しまなければいけない、みんなと仲良くしなければいけないという雰囲気が空間に満ちている時、私は、その場にいることが耐えられなくなって逃げ出すことが多い。

誰かから贈り物を貰う時、受け取りやすいものと受け取りにくいものがある。金にしろ、物にしろ、そのひとが「これをあなたにあげたくて仕方がないの!」という溢れ出す感じがあるものは受け取りやすく、逆に「いまの私にはこれが精一杯なの」的な悲愴感【絞り出している感】がブレンドされている贈り物は受け取りにくい。前者には、何かをすればするほどにそのひと自身も潤うイメージがあるけれど、後者には、何かをすればするほどにそのひと自身が干からびるイメージがある。

私にとって、何かをしたいと思う感情は「絞り出す」ものではなく「溢れ出す【溢れ出てしまう】」ものだと思っている。自分をボロ雑巾みたいに扱って、最終的には搾りカスになるほど無理をしてまで何かをするほどに、多分、そのひと自身は干からびていく。私は、人間が干からびていく様を見たいとは思わない。搾りカスになることを前提としたコミュニケーションや人生の在り方には、違和感を覚える。俺も我慢しているんだからお前も我慢をしろという世界は、端的に、酷だ。

花と水の街「ホイアン

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ホイアンの街は、花が綺麗だ。アジア諸国の緩さは自分には相性が良いみたいで、暇な時は平気でスマホをいじるレストランの店員や、まるで商売っ気のない仏頂面の店員や、仕事であることを抜きに気軽に話しかけてくる店員の笑顔に触れると、不思議と嬉しさがこみ上げてくる。私は、多分、この「【自分の内側から】こみ上げてくる」という感覚が好きなのだと思う。

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花を見ると嬉しくなる。嬉しくなりたいと思うから花を見るのではなく、花を目にすると「嬉しくなっちゃう」のである。この、自然と「なっちゃう」感じ【ちゃうちゃう感】が私は好きで、これは夕日を見た瞬間に思わず駆け出してしまっている自分に似ている。思わずしてしまっているという、この「そうせずにはいられなくなる【気がついたらそうしちゃっていた】」姿に、自分の必然や自然を見る。

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近くの川にはボートが並び、客寄せのおじさんが「ボート!ボート!」と叫んでいる。

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幾つもの色彩に溢れた、可愛らしい街だ。

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移動を続ける日々の中で、私は旅や食や世界遺産などにはあまり興味がないのだということを知る。ただ、自分の心が何を感じるのかということには興味があり、外側の世界ではない内側の世界の拡がりを覚えた時に、ある種のよろこびを覚える。ああ、自分のこころはこのような反応をするのか、ああ、自分はこれをするとこういう気持ちになるのかということを垣間見た時、それがどのような反応であれ、なるほど、ここに来てよかったと思う。


そしてまた、新しい一日を迎える。

青空文庫「こころ」

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、海外遠征中のために紹介のみになるのですが、青空文庫で無料で読める夏目漱石の「こころ」です。海外で日本の文学に触れると、いつもとはまた違った染み込み方をする。他にも、最近では原民喜「夏の花」宮沢賢治よだかの星太宰治「斜陽」高村光太郎智恵子抄坂口安吾文学のふるさと内村鑑三「後世への最大遺物」芥川龍之介羅生門伊藤野枝「遺書の一部より」トルストイ・レオ「イワンの馬鹿」などが良かったです。電子書籍は荷物にもならない、様々な作品を無料で読むことができる、素晴らしい時代だ。お手隙の際にでも、是非、青空文庫で検索してみてください。

私は冷やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。
私が帰った時は、Kの枕元にもう線香が立てられていました。室へはいるとすぐ仏臭い烟で鼻を撲たれた私は、その烟の中に坐っている女二人を認めました。私がお嬢さんの顔を見たのは、昨夜来この時が始めてでした。お嬢さんは泣いていました。奥さんも眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらい寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。
私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命と共に葬った方が好いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。ー 夏目漱石「こころ」【青空文庫


永遠の前の一瞬

どれだけ遠くに足を運んだとしても、どれだけ多くの著作に触れたとしても、自分自身から逃れることはできない。結局、最終的に行き着く先は自分であり、他人がどう生きるのかではなく「自分はどう在りたいのか」ということを、自身に問い続ける日々にいる。自分との付き合いは長い。長ければ長いほど詳しく分かりそうなものなのに、長ければ長いほど、いよいよわからなくなることも多い。


不安になるのはあたりまえで、さみしくなるのもあたりまえのことだと思う。元気な時に「このままで行こう!」と思うことは簡単だけれど、元気のないときも、元気のないままで「このままで行こう!」と生きる姿勢が、多分、自分の中心を生きる芯になる。元気を出さなきゃとか、明るくいなくちゃとか、やりたいことを見つけなくちゃだめだとか、そんな言葉で自分を苛めてはいけないのだと思う。生きる力は、ボロ雑巾のように絞り出すものではなく「溢れ出す【溢れ出てしまう】」ものだ。


普通はこういうものだという声に惑わされてはいけないのだと思う。自分という人間は普通でもなければどこにでもいるような存在でもなく、優等生でもなければ劣等生でもない、そのことによる悲しみもあるけれど、そのことによる光と尊さを見出すこともできる、唯一無二の存在だ。生きていることが安らぎになるように、死ぬことが安らぎになることもある。生まれてから死ぬまでの【永遠の前の一瞬】に、どのように生きるのかはそのひとの自由だ。その中で「自分は自分でいいのだ」と思えた時、多分、ある種の安心感は芽生えるのだと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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