いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

弱いから、やっちゃだめってことはない。

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バンコクのオンヌット駅前にいる。よく使われる前置きに「これは別に批判をしているわけじゃないんだけどね」みたいな表現がある。私は、それ、普通に批判をしているじゃんと思う。はっきりそう言えばいいのに、と思う。ストレートに行こうぜ、と。もっと言えば「理解あるひとぶってんじゃないよ」と思う。優しさと、卑怯さは紙一重だ。本当に優しいひとは、傷つく覚悟がある印象を覚える。優しいっぽいひとは、自分は土俵に上がらないままで、他人のことをああだこうだと言う。

 

 

おおまかなスケジュール

7月15日以降、FREE@タイ界隈【呼ばれた場所に行きます!】
7月18日以降、FREE@日本【呼ばれた場所に行きます!】
7月28日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

踏み込む勇気。

巷では「自立した人間になりましょう」などと言われる。恋愛も、自分が自立をしているからこそ楽しめるものであって、依存になってはいけない。とか。あなたがいなければ生きていけないと思うことは依存の最たるものであり、それは弱さだ。まずは自分でしっかり立ちなさい。ひとりで生きる強さを持ちなさい。とか。私は、こうした意見に「異議あり」と言いたい。別にどっちでもいいじゃないか、と、思う。依存をしたければ思い切りすればいい。それで死ぬことになったとしても、思い切り誰かを愛して、それによって死ぬなら本望じゃないか、と、思う。

 

人間は矛盾した生き物だと思う。自立したいと思う自分もいれば、誰かとぐちゃぐちゃになるほど混ざり合ってみたいと思う生き物でもあると思う。依存はダメ。これは、多分、正解だ。しかし、正解だけでは満たされない心の部分がある。依存しないように、依存しないように、腫れ物を扱うような付き合いでは、心の一部はさみしいままだ。 私は、単刀直入に「それは、生き方としてさみしくないか?」と思う。あなたはあなた。自分は自分。よく、心理学などで「それは相手の課題だから自分が気にすることはない」などと言われるが、これは本当だろうか。自分と他人を、明確に区別することなんてできるのだろうか。区別するほど、自立はできるかもしれないが、同時に、境界を深めるさみしさを培うことにはならないだろうか。

 

他人の領域に踏み込まないように、自分の領域だけを守る。それは、やはり、さみしい気がする。余計なお世話という言葉がある。他人の領域に踏み込むことは、おそらく『無礼』にあたるのだろう。だが、他人に踏み込むことをせず、他人から踏み込まれることを拒む日々に、充実はあるのだろうか。年齢を重ねるほど、誰も、本当のことを言わなくなる。あなたはあなた。自分は自分。あなたにはあなたの人生があり、自分には自分の人生がある。これらはまったくの別物で、だから、他人がああだこうだと言えることではないということ。これは、最もな意見だと思う。だが、同時に「それはさみしすぎるだろ」とも、思う。依存はいけません。執着はいけません。自立しましょう。誰にも頼らないで生きていける人間になりましょう。これらは、全部、正解だ。ただ、退屈な正解だ。教科書みたいな正解だ。血の通っていない正解だ。かしこくなるほど、さみしくなる。そういう種類の正解だ。

 

note.mu

 

弱いから、やっちゃだめってことはない。

自分を弱いと感じることがある。強くなりたいと思う。よくなりたいと思う向上心は大事だ。しかし「弱い自分は存在をしていけはいけない」などと思ったら、大間違いだ。弱い自分を責める。それは仕方のないことだ。ただ、弱いからといって「生きていけはいけない」なんてことはない。強くなってはじめて生きる権利を得るなんてことはない。だから、強くなってからなにかをやろうとするんじゃなくて、弱いなら、弱いまま、やる。弱さを克服してからやろうとするのではなく、弱いなら、弱いまま、やる。弱いからと言って、なにかをやっちゃだめってことはない。ビビる自分を変えようとするのではなく、ビビる自分のまま、生きる。弱いまま生きる。ビビりながら生きる。永遠に弱いまま生きる。そっちの方が爽やかだ。

 

どうすれば強くなれるか。そんなことは考えないでいいのだと思う。弱いなら、弱いままで生きる。恐れながらぶつかって、恐れながら清濁を併せ飲み、恐れながら手応えを覚える。きっと、その繰り返しだと思う。そして、振り返ったときに、確かに生きてきた自分と出会う。昔より強くなっている自分や、昔より汚れている自分や、昔となにも変わらない自分と出会う。色々なことを覚えてきたようで、実は、何も変わっていない『自分』という存在。人間の価値は、不増不減だ。誰かが褒めたから増えるものでもないし、誰かがけなしたから減るものでもない。自分は、常に、自分のまま。自分の価値も、常に、自分のまま。誰かが褒めても自分は自分。誰かがけなしても自分は自分。なにかを覚えても自分は自分。なにかを忘れても自分は自分。常に、自分はそこにあり続ける。弱かろうが、強かろうが、それが自分であることに代わりはない。だから、この自分で生きる。そう思えたとき、自分という存在に対して『健やかな誇り』のようなものを、抱けるのだと思う。

 

生きていればいろいろなことがある。痛い。苦しい。悲しい。切ない。人間関係が広がるほど、様々な感情に縛られる。家にひとりでいれば、少しはましになるだろう。それでも、なぜ、ひとと交わることをやめないのか。それは「簡単には傷つかない自分を知るため」だと思う。痛い。苦しい。悲しい。切ない。傷を受けることは頻繁にある。しかし、同時に、まったく傷ついていない部分を知る。どんな目にあっても、絶対に傷つくことのない『自分』という部分。自分の尊厳。自分の魂。自分の価値。人間の価値。生命の価値。言葉はなんでもいい。本当に大事なものは、どれだけ肉体は傷ついても、ひとつも傷つかないまま、自分の中に残り続ける。弱いから、なにかをやっちゃだめってことはない。弱いなら、弱いからこそ、弱いままで生きる。簡単には傷つかない自分を知るために、生きるのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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LINE ID ibaya

誰にもわかってもらえない部分、それこそが自分だ。

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バンコクのカオサンロードにいる。テラス席に座り、虚空を見つめたり、虚空に見つめられたりしている。行き交う人々は楽しそうに見える。友達や恋人や家族連れがメインだ。俺も、誰かと来ればまた違った楽しさがあったのか、と考えた2秒後に「どうせひとりになりたがるのだろう」と諦めた。ひとりでいればさみしいし、誰かといれば煩わしい。実は、昨夜から、欧米人と一緒にいる。ヒゲも髪も長い彼は、永遠に洋書を読んでいる。行動パターンが同じなため、いつの間にか仲良くなった。一緒にいても、ひとりでいられる。彼を「ベストフレンド」と呼んでいる。

 

 

おおまかなスケジュール

7月8日以降、FREE@タイ界隈【呼ばれた場所に行きます!】
7月17日以降、FREE@日本【呼ばれた場所に行きます!】
7月28日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

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ibaya.hatenablog.com

 

男はロマン。

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安い飯ほどうまい気がする

 

タイ料理最高!毎日食っても全然飽きない!と言いたいところだが、飽きた。自分は退屈な人間だなと思う。積極的に観光地を巡る気力もないし、食事に対するこだわりも薄い。音楽以外にやることがない。音楽があってよかった。音楽がなければ破滅をしていたと思う。つまらない人間は、畢竟どこに行ってもつまらないのだ。繁華街では爆音で流れる音楽に欧米人が酔いしれている。私は「うるさいな」と思う。そう思いながら、同時に「なんで俺は一緒に楽しめないのだろう」と思う。みんなが楽しいと思うことも自分も楽しいと思えたら、また、違った人生になっていただろう。そう思いながら、いや、別に一緒に楽しめなくても全然いいや。とも思う。結果、自分自身に帰結する。自分は、結局いまの自分を選択して生きている。

 

車はガソリンで走る。男はロマンで走る。なんかもうロマンしかないのだと思った。夢。愛。志。希望。信頼。自由。理想。言葉はなんでもいい。これらは、すべて『欲』と言い換えることができる。欲望を、綺麗な言葉で言い換えただけのような気がする。欲に支配された自分を、正当化する(ごまかす)ためにある言葉。そんなことを思った。純粋な善意など、この世に存在するのだろうか。権力に抵抗を続ける姿も、乱暴にまとめれば権力的だ。それを悪いとは思わない。むしろ、自然だ。人間には欲望がある。欲望とは、生きる力だ。食べなければ死ぬ(やばい、不食のひともいる)し、眠らなければ死ぬ(やばい、不眠のひともいる)。暇だから、自分の欲望をじっと眺めてみる。俺は、なんのために生きたいと思うのだろうか。出てきた答えは、とんでもなく青臭い言葉だった。それは『ロマン』だった。

 

この世で一番ロマンチックな言葉は『革命』だと思う。小学校時代、私は少年野球チームに所属していた。野球の醍醐味はホームランだ。私は常にホームランを狙っていた。そのためスイングも大きく、派手な空振りを繰り返した。私が一番魅力を覚えた言葉は『逆転サヨナラホームラン』だった。当たり前のことだが、逆転ホームランは負けている人間にしか打てない。私は、当時から下克上という言葉にとんでもない魅力を覚えていた。勝てるはずはないと言われていたチームが、全部をひっくり返して逆転勝利をおさめる。そこにたまらない魅力を覚えていた。勝てるチームが勝ってもつまらない。なぜなら、それは当たり前のことだからだ。勝てるはずのないチームが勝つ。そこに魅力がある。奇跡を起こす。予定調和が崩される瞬間。革命とは、なにかをひっくり返すことだ。私は、そこに『ロマン』を覚える。

 

note.mu

 

わたり文庫『サウスバウンド』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、奥田英朗著作『サウスバウンド』です。めちゃめちゃ大好きな本なのでみなさま是非読んでください。面白い本に出会うと「読書とは本当に素晴らしい体験だ」と思えます。上原二郎のおかあさん(御茶ノ水ジャンヌダルク)は言いました。世間なんて小さいの。世間は歴史も作らないし、人も救わない。正義でもないし、基準でもない。世間なんて、戦わない人を慰めるだけのものなのよ。と。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、バンコクにわたりました ※※※

 

世の中にはな、最後まで抵抗することで徐々に変わっていくことがあるんだ。

奥田英朗『サウスバウンド』【角川文庫】

 

誰にもわかってもらえない部分、それこそが自分だ。

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「虚空」 撮影・ベストフレンド

 

何回も書いているけれど「社会不適合者って言葉もあるけど、自殺者三万人、鬱病患者100万人の社会に適応したらおかしくならないほうがおかしい」と思う。必要なのは、適応よりも開墾だ。常識のカルティベーションだ。生きているこころがなにかをおかしいと思う。おかしいのは自分なのか。おかしいのは社会なのか。おかしいのは自分だと思うと奴隷になる。あるいは、鬱病になる。おかしいのは社会なんだと思うと、革命家になる。あるいは、ロックンローラーになる。革命とは、なにかをひっくり返すことだ。と、ここまで書きながらはっきりと思った。俺は中二病なのだ。おとなになれないおとななのだ。そんなんじゃ生きていけないよと言われても「そこまでして生きていきたくねーよ」と思っているのだ。そんなんじゃ社会はまわらねえよと言われても「そんな社会はいらねーよ」と思っているのだ。

 

なにかをやりたいと思う。それは、そこに光を見たからだ。音楽をやる自分は、過去、音楽に光を見た。社会活動をやる人間は、過去、そこに光を見たのだろう。それは正しい光ではなかったかもしれない。多くの人から見れば、取るに足りない光だったかもしれない。でも、それでもなお、その人自身からすれば『確かに見た光』だったことに変わりはない。正しいからそれをやるのではなく、ただ、そこに光を見たからこそ、それをやりたいと思う。なにかを美しいと思う。なにかを素晴らしいと思う。なにかを見て「自分もこうありたい」と思う。そのとき、心を震わせたものは『ロマン』の光だ。ロマンを見たから、憧れを覚えたからこそ、そこに近づきたいと思う。それは、金になるとかならないとか、世間に認められるとかられないとか、そういう世界を超えている。ロマンがある。そこに感じるロマンがあるからこそ、何度でも立ち上がる勇気を得る。自分を使って、ロマンを継承する。

 

と、ここまで書いたところで日本人女性に声をかけていただいた。彼女いわく「彼氏が大ファンなんです!」とのこと。なんということでしょう。という訳で、これからみんなで一緒にスイカジュースを飲むことになった。自分みたいな生き方でも、支持(?)をしてくださる人々がいることはうれしい。常識を強制しあう関係性より、常識を拡張しあう関係性の方が、端的に楽しいと思う。自分という人間を使って「こんな生き方もできたよ」ということを、わずかでも証明できたら爽やかだ。このような生き方が、まるで通用することなくダメになることがあれば、そのときは「ダメでした」と言って死ねばいい。裏を見せ、表を見せて、散るもみじ。だがしかし別に死にたい訳ではないので、どこまでやれるか試してみたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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心配よりも、信頼をしよう。

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タイのバンコクにいる。路上に腰掛け、虚空を見つめたり、虚空に見つめられたりしている。何をしたらいいのかわからない。昨夜はバンコク在住Y様の家にお世話になった。いい人(という表現は語弊があるが)に出会うと「生きていこう」と思える。二週間の滞在で予算は三万円。宿代に毎日千円かけたとして、1日千円は食費に充てられる計算だ。が、どうしても「安全なうちは本当じゃない」などと考えてしまう自分がいる。ゼロになってからが勝負だ。自分を追い込み、自分を守る自分を蹴飛ばし、もうダメだと思った(自力を超えた)とき『真の他力』に出会う。

 

 

おおまかなスケジュール

7月3日以降、FREE@タイ界隈【呼ばれた場所に行きます!】
7月17日以降、FREE@日本【呼ばれた場所に行きます!】
7月28日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

圧倒的肯定力を、胸に。

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練習の風景

 

写真中央の男性(私)を「ああ、この人はこのあとタイでお亡くなりになったのだ」的な視点で眺めると、ちょっとばかりジーンとする。生きていると腹が立ったり理不尽な仕打ちを受けることもあるが、みんな、最後には死ぬんだよなと思うと赦せる。赦せるばかりか、何かが輝く。最近、複数名から「坂爪さんが死んでしまいそうで心配です」と言われた。あまりにも言われるから「本当に死ぬよ?」って思った。言葉には二種類ある。祈りか。呪いか。心配はありがたいが、呪いをかけられている気持ちになった。できることならば、祈りを。心配よりも、信頼を。数ヶ月前に作った『ねえ』という曲に「ここで死ぬならそれまでのことだよねえ。まだ生きているそのことが答えだねえ」という歌詞がある。きっと、そんな感じだ。

 

note.mu

 

Agapeというバンド名で活動している。直訳すると『神の愛』になる。神の愛を伝える。そのための道具になる。そのために音楽をやる。そういう初心を忘れたくないと思う。歌うと、稀に、自分が透明になれる感覚を覚える。してもらえないこと(してもらえなかったこと)を考えると疲れる。しかし、自分にできることを考えると、力が湧く。前に、究極的に落ちていた時期に「こんな自分にも、誰かの幸せを願うことはできる」と思った。人間の行為の中で、多分、一番美しいものは祈りだと思う。私は、誰かになにかをして『あげる』という表現が苦手だ。上から目線で、傲慢な考え方だと思う。誰かになにかをしてあげるとき、それは、なにかを『させていただいている』のだと思う。誰かのためではなく、自分のために、やらせてもらっている。自分を好きになるために、やらせてもらっているのだと思う。

 

note.mu

 

知性に触れると嬉しくなる。東京で開催されたミニライブに男性N様が来てくれた。僭越ながら、N様から「坂爪さんは、アラジンに似ている」と言っていただいた。軽妙洒脱な雰囲気が似ているのだという。N様に言われたのでとても嬉しかった。その後、N様に問われた。自分にとって美しさを感じるかどうか、ということはとても大事なことで、坂爪さんの文章を読んでいると同じものを大事にしている気がする。美意識、とでも言えばいいのかな。仕事などをしていると「俺、穢れているなあ」と思うこともしきりですが、美意識が自分を取り戻す軸になっています。坂爪さんは、生きる上で大事にしている概念ってありますか???と。私は、しばらく考えたあとに「嬉しさ」と答えた。嬉しさを感じるか、否か。それは、自分にとってとても大事なものさしになっている。その後、N様から届いた感想メールに、私はとても大きな嬉しさを覚えた。いい人に出会うと「生きていこう」と思える。N様と出会えた。それだけでも、東京でミニライブを開催してよかったと思った(もちろん、他にもやってよかったと思えた出来事は大量にあります!!)。

 

坂爪さん、本日3時のライブでお話させてもらった○○です。

嬉しい時間と元気と勇気を頂きました。
ありがとうございます。
現場では感想が言葉にまとまらなかったので、少しばかり。

アガペーの音楽は、これがメッセージだ!と自己陶酔したり押し付けがましくするわけでもなく、お客さんのために歌います!と恩着せがましくするわけでもなく、ただただ、自らが音楽を奏でる喜びと、どこかで共感できたら嬉しいなという品の良い軽やかな祈りを纏っていました。

生きているうちに無意識に溜まった“思い込みの穢れ”を少しずつ祓ってくれるような時間でした。
バンドの皆さんの醸し出す雰囲気も、素朴で温かく柔らかで、 自由時間のぎこちなさも“らしくて”良かったです。
「あ、これでいいんだ。ちゃんとしなくていいんだ。」とw

その後の坂爪さんとのお話で印象的だったのは(うろ覚えですが)「嬉しく美しく楽しく生きるために、過去の自分を乗り越えて成長するために、自分と喧嘩&仲直りを繰り返すことで、自分との絆が出来た気がする。」的な言葉。

自信や自分軸を持つアプローチとしても、自分に喧嘩をふっかけるヤンキーのカツアゲみたいな逆説的な手法は、むしろ本質的な気がしたし、何より面白かったです。

また会いに行きますね。
「会いに行けるアイドル」ではなく、「愛に生きるアラジン」にw  

○○○○

 

gochamaze.hatenablog.com

 

心配よりも、信頼をしよう。

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とても音がくがとてもたのしくてともだちともあそんでとてもたのしいいちにち


小学2年生の女の子が定期演奏会の感想をくれた。超かわいかった。最近思う。巷では「愛は無条件」みたいなことを言われるが、本当だろうか。誰かに腹を立てたとき、愛は無条件ということになれば、腹を立てる自分には愛がないということになる。これは、本当だろうか。許すことが愛。受け入れることが愛。頭ではわかる。しかし、誰かに何かを言いたいと思ったときに「これを言うことは愛に反する」などと考えて自分の思いを引っ込めることは、自分を傷つけることにならないだろうか。ぶつかり合いを避ける関係性に、自分を取り繕って生きる関係性に、自分が無理をすることで維持をされる関係性に、果たして、真の『絆』は宿るのだろうか。自分を押し殺したままでは、心の一部はさみしいままではないだろうか。

 

似た言葉に「ジャッジをしない」と言う言葉もある。良いも悪いもない。だから、ジャッジをすることはいけないことだ。と。本当だろうか。私は、嘘だと思う。人間なのだから、ジャッジをしてしまうことが本当だと思う。ジャッジをしてしまう上で、どう生きるか、という話なのだと思う。「ジャッジをするのはいけないことだ」という言葉自体が、おい、ジャッジをしてるじゃねえかと私は思う。賢者ぶってんじゃないよと頭にくる。同じような言葉に「比べない」というものもある。頭ではわかる。誰かと比較をして自分をすり減らすことは、自分にもある。しかし、人間なのだから、誰かと比べてしまうことが本当だと思う。ジャッジをすることは当たり前のこと。誰かと比べてしまうことも当たり前のこと。自然な、心の働きだと思う。心の働き(自然)を否定することは、生命力を剥奪する。だからこそ、そういうことをしてしまう人間であるからこそ、どう生きるか、という話なのだと思う。そこで、私は、大事にしたい感覚のひとつが『嬉しさ』ということになる。

 

比較とは「こっちじゃない!」のサインだと思う。嫉妬する対象、悔しさを覚える対象は、実は「そっちじゃない!そっちに行くな!」ということを伝えている。思い出して欲しい。本当に素晴らしいものに出会ったとき、胸に抱いた感情は嫉妬でも劣等感でも悔しさでもないはずだ。本当に素晴らしいものは、ただただ、受け取る側の人間に嬉しさを刻む。その嬉しさは、ああ、自分はこのままでいいんだと思える嬉しさに似ている。音楽も似ている。かっこいいと思う音楽は大量にある。しかし、かっこよさばかりを追い求めると、必ず、疲れる。しかし、真に素晴らしい音楽は嬉しさを刻む。かっこいい音楽は大量にある。しかし、嬉しさを与える音楽は意外と少ない。だからこそ、私は、嬉しさを感じるものを指標にしたい。嬉しさとは、圧倒的肯定力を伴ったものだ。聞く側の人間に「いいんだ、このままでいいんだ」と思わせるものだ。そして、なにかを強制する感じではなく、自然な心の働きとして「自分もこうなりたい。自分もこうありたい」と思わせてくれるものだ。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

photographed by Chihiro Igarashi

 

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神と踊る。

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横浜駅前のドトールにいる。休むことが下手だ。鬱病だった時期、周囲から「いまは休めばいいのよ」と言われた。私は、そう言われることが苦痛だった。休むことがどれだけ大変か、お前にわかるのか。とか。横になっていても頭は常にフル回転なんだよ。とか。俺に休みかたを教えてください。とか。そういうことを思った。時は流れてナウ。鬱病は完治したが、引き続き休みかたを知らない。無意識に呼吸は続く。呼吸は休まない。だから、俺は呼吸と同じなのだと思うことにした。

 

 

おおまかなスケジュール

6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
7月1日 【昼】15時【夜】19時 東京公演@東京都日本橋「モリモトハウス」
7月2日 15時頃 
ドンムアン空港到着以降、FREE!

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

男は、死んでから眠るもの。

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結果的に「あの世でゆっくり眠れればいい」とかなんとか言っちゃって、今日も動く。7月2日からタイのバンコクに行く。行った途端に暇になる(誰か「タイに行くならここがいいよ!」などあれば教えてください)。音楽修行と銘打っているが、ただ、日本を出たいだけなのだと思う。海外旅行は一人暮らしと似ている。実家を出ることで、家族や故郷のありがたみを知る。最近、保科さんと「日本はゾンビ大国かもしれない!」みたいなことを語った。誤解を恐れながら言うと、こりゃもう、こんな国にいたら頭がおかしくならない方がおかしいよね、みたいに感じることは毎日ある。日本を離れると、日本の良さを気づく。普段は忘れている良さを取り戻すために、憎むためではなく愛を取り戻すために、一度、離れる必要がある。

 

闇という漢字がある。昔から、なぜ、闇の中に『音』があるのか気になっていた。音楽をはじめたいま、漢字の成り立ちを(白川静さんを参考にしながら)改めて調べた。俺調べによると、音と、まったく似ている漢字がある。それが『言』だ。上の部分は、もとは、同じ象形文字だったらしい。だから、音と言の違いは、下が『日』か『口』かの違いでしかない。この説明でわかるだろうか。不安だが、続けます。そして、口という漢字は、顔にある口がもとになってできた漢字ではないらしい。口の象形文字は『容器に、なにかがはいっている状態』から生まれた。容器とは、祝詞のことである。だから、目には見えないものだ。目には見えないものに、なにかが満ちている状態。要するに、祈りが込められている状態が『口』ということになる。祈りを込め、神に捧げる。人間にできることは、ここまでになる。

 

太古から、日本は言葉を大事にしてきた。言霊という言葉もある。だから、言葉を軽々しく扱う人間は、釘刺しにして処刑された。その、言葉を軽々しく扱ったら釘刺しにするぞっていう思いが、口の上にある四本の線に現れている。四本の線(釘)と、口、それによって『言』という漢字は生まれた。軽々しく扱うと、釘打ちの刑に遭うもの。それが『言』だ。こわい言葉なのである。そして『日』という感じの成り立ちを調べた。神に捧げた祈り(『口』)に、神様が応える。すると、容器の中にさざなみが立って、口は『日』になる。そう。日という漢字も、太陽がもとになって生まれた漢字ではないのだ。『日』の成り立ちは、祝詞に、神様がレスポンスを与えている状態を意味する。言葉は、人間が成し得ること。音楽は、神様がレスポンスを与えた状態。死ぬほど乱暴にまとめると、こういうことになる。

 

note.mu

 

わたり文庫『星の王子さま

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、サン=テグジュペリ著作『星の王子さま』です。王子さまとバラの関係、王子さまとキツネの関係には、惹かれるものがたくさんあります。ぼくはあのころ、なんにもわかっていなかった!ことばじゃなくて、してくれたことで、あの花を見るべきだった。あの花はぼくをいい香りでつつんでくれたし、ぼくの星を明るくしてくれたんだ。ぼくは、逃げだしたりしちゃいけなかった!あれこれ言うかげには愛情があったことを、見ぬくべきだった。花って、ほんとに矛盾してるんだね!でもぼくはまだ、あまりに子どもで、あの花を愛することができなかった。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

君がバラのために使った時間が長ければ長いほど、バラは君にとって大切な存在になるんだ。

君は、飼いならしたものしか知ることができないんだよ。
人間たちには、もう何かを知るための時間がない。
だから、お店に行って、出来合いのものを買うだけさ。
だけど、友だちはどこにも売っていないから、人間たちは友だちを持っていないんだ。

サン=テグジュペリ星の王子さま』【新潮文庫

 

神と踊る。

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雨上がり

 

スイスには『人間の混乱と神の摂理』という諺がある。闇という漢字は、乱暴にまとめると「神は夜に来る」ことを意味する。我々は、苦しみたくないと思う。できることなら楽しみながら生きたいと思う。しかし、生きている限り、苦しみを避けることはできない。辛い。苦しい。悲しい。時には「死にたい」とさえ思うことだってある。しかし、死にたいと思うとき、自分が苦しみに置かれているまさにその瞬間、そのひとは神と交わっているのだ。苦しみ(夜)のなかで、ひとは、神に出会う。神は夜に来る。そういうニュアンスの言葉が、闇という言葉になる。これにはちょっとびっくりした。そういえば、先日、私は強烈な腹痛に苛まれ、トイレで悶絶していた。冷や汗をダラダラ流して目の前も真っ白になり、朦朧とする意識の中で「神様ごめんなさい悪いことはもうしませんから許してください」みたいなことを、思った。そう。私は、死域を漂う苦悶のなかで、神と交合した(違うか)。

 

皮肉なことに、苦しいときほど、さみしいときほど、良い言葉(良い音楽)が生まれることは多い。幸せなとき、ひとは、言葉も音楽も必要としない。ただ、幸福感のまっただなかを漂っていればいい。神が訪れる必要もない。だが、逆境に置かれたとき、苦しみの渦中にいるときこそ、神は、その気配を濃厚にする。『闇』という言葉は、ネガティブな意味合いで使われることが多い。しかし、闇は、希望だ。そこには『神が来る』という最初で最後の希望がある。振り返ってみればわかる。もうダメだ。そう思ったときほど、奇跡は起こる。所持金がゼロになると、銀河の彼方から施しが舞い込む。俺は終わった。そう思ったときほど、そのときの苦しみが「自分をタフにする」最高の出来事であったことに、後で気付く。そのときは苦しみでしかなかったものが、実は、最高のギフトであったということを思い知る。

 

言語学者白川静さんは『遊』という漢字を愛した。この言葉は、要約すると「人間は、人間だけで遊ぶことはできない。神が遊ぶとき、はじめて、一緒になって人間も遊ぶことができる」という意味合いの言葉になる。深い言葉である。いま、私は、音楽をやっている。苦しいこともあるが、音楽をやっていなければ絶対に味わえなかったよろこびもある。自分の心が「最高だ」と感じること。その瞬間が、また、音楽をやりたいと思わせる。人生は捨てたものじゃないと思わせる。このひとたちと生きていきたいと思わせる。そして、音楽のある「この世界を生きていきたい」と思わせる。楽しいと思う。きっと、それがゴールなのだと思う。楽しむひとの姿を見て、周囲のひとたちも、つられて楽しく感じるような、ポジティブな循環を起こしたい。なにかを好きになるということは、生きていきたいと思うことだ。

 

 

https://www.instagram.com/p/BzUD5rfgyZx/

Love is always with you

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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LINE ID ibaya

戦う限り、負けない。

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菊名駅前のコロラドにいる。雨。寒い。梅雨。湿度。朝5時。雨音で目覚める。テントの中。寒い。お湯を沸かす。湯気。暖気。お湯。飲む。早朝、一番崇高な時間。この時間帯に思ったことが、1日の質を決める(気がする)。戦う限り負けない。なぜ生きるか。それは「勝つため」ではないと思う。私の場合「負けないため」だ。勝ちたいとは思わない(たまに思う)。ただ、負けたくないとは、思う。

 

 

おおまかなスケジュール

6月24日以降 死に支度、いたせいたせと、菊名かな
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
7月2日 15時頃 ドンムアン空港到着以降、FREE!

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

世界には、こんなに楽しいことがあったのか。 

ひたすら曲を作り続けている。駄曲の数々。創作は孤独だ。毎日作ると「もう、俺からはなにも出てこないよ」と思う。それでも作る。作ろうとする意思を持つ。気力はなくとも、楽器を持つ。椅子に座る。ノートを広げる。言葉を綴る。作ろうとする意思をもつと、不思議なことに、言葉が出る。音楽が出る。創作に疲れて「もうやめたい」などと思いながら、創作によって励まされている自分を見る。人間関係と似ている。人間に疲れ、人間に嫌気が差す時もあれば、人間に救われることもある。創作の時間は孤独だが、音をあわせる時間はたまらない。ああ、音楽をはじめてよかったと思える最高の瞬間のひとつだ。やめないでよかった。心から思う。

 

千葉県で開催されたライブ出演直前、女性Mさんからもらった言葉。楽しんでほしい。失敗しないようにやるんじゃなくて、楽しみながらやってほしい。楽しむ姿を見て、自分たちも一緒に楽しむことができる。間違えたときも、ああ、間違えたって閉じてしまわないで。堂々と間違えて、間違えたことも楽しんでほしい。と。大事な言葉だと思う。どれだけ正しいことをやっていても、当事者たちが「楽しそう」でなければ、見ている側も窮屈になる。私達は、多分、誰もが『自由』を感じたくて生きている。自由に触れるとうれしくなり、自由を奪われると悲しくなる。自由を『愛』や『よろこび』に置き換えてもいい。楽しんでほしい。この言葉は、多分、人類全体に共通する祈りだ。誰もが、大切なひとには「生きることを楽しんでほしい」と願うだろう。完璧であることより、完全無欠であることよりも、無様でも、不器用でも、不完全でも「楽しみながら生きてほしい」と、願うだろう。

 

反対のないもの。そこに興味がある。誰かを「優しいひと」「冷たいひと」「明るいひと」「無口なひと」などと表現するとき、必ず、何かを取りこぼす。言葉は足りない。誰にでも、それだけじゃない部分がある。誰かを「優しいひと」と形容するとき、同時に、そのひとの『優しくない部分』が浮き彫りになる。対義語のない言葉、反対のない言葉を通じて、自分の好きなものを表現できたらと思う。そのもののど真ん中。そのひとのど真ん中。それを表現したい。音楽をやっていると、稀に『ど真ん中』を体験できる瞬間がある。ただ、そうであること。ただ、それでしかないこと。瞬間的なものだとしても、何かが合致した時、我々は、高次の次元に引き上げられる。ただ、そうでしかないことの境地。それは、おそらく『遊び』を通じて辿り着く境地。楽しいのなかには、全部ある。遊びのなかには、全部ある。

 

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わたり文庫『代表的日本人』 

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、内村鑑三著作『代表的日本人』です。生き方に迷う時、私は、長く親しんできた本を手に取る。そこには、自分の原点のようなもの、初期衝動のようなものが書かれている。たとえば、西郷隆盛の「天を相手にせよ。人を相手にするな。すべてを天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ」という言葉。自分は、自分の『好き』を通じて、自分をチューニングするのだろう。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

 

誠の世界は常に密室である。そのなかで強い人は、どこにあっても強い。

 

命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である。

 

「天」と、その法と、その機会とを信じた西郷は、また自己自身をも信じる人でありました。「天」を信じることは、常に自己自身を信じることをも意味するからです。

内村鑑三『代表的日本人(西郷隆盛・新日本の創設者)』【岩波文庫

 

戦う限り、負けない。

強制収容所の体験記を読んだ。過酷な状況で生き延びた人間は、不思議なことに、体力のある人間より「繊細な人間」だった。そして、極限の状況の中に置かれても、最後まで奪われることのなかったものが『音楽』と『ユーモア』だったという。どれだけ腹をすかしていても、自分に残された最後の食糧と引き換えにしてでも、不定期で開催された音楽の催しに集まる人間は、決して少なくなかったという。繊細な人間は、言い換えれば「情操豊かな人間」とも言える。ささいな出来事に、芸術性を見いだせる人間とも言える。強制収容所では、希望をなくした人間から、死んでいった。希望を抱き続けた人間は、強制収容所でも自分を保ち続けた。

 

ある心理学者は、強制収容所での数々の体験を、いつの日か、大勢の聴衆の前で語る自分を想像しながら、日々を乗り越えた。ここでの体験が、いつの日か、必ず報われる瞬間が来る。そう信じることが希望となり、彼を『生きる』方向に向かわせた。強制収容所と、いまの日本は、まったく違うもののようで「どこか似ている」と思う。それは、希望の欠如だ。私達には、どのような環境に置かれても「そこでどう動くか」を決める自由がある。態度決定の自由だ。逆に言えば、希望を失うことは、意思を失うことと似ている。意思を失うと、環境の奴隷になる。蔓延する諦めのムードに蝕まれ、自分を保つことが難しくなる。「なにをしても無駄」という気分が蔓延すると、自分を捨てることが賢明なこととなり、自分を出すこと、夢を見ること、希望を抱くことは「愚かなこと」になる。そして、夢は、希望は、次々とその芽を摘み取られてしまう。賢明であるために。この世を生き延びるために。

 

ここでいきなり突拍子もないことを言うけれど、私は、孤独死でもいいじゃないかと思う。みんなに囲まれながら死ぬことがひとつの終わりなら、人知れず、こっそり息を引き取ることもひとつの終わりだ。自分がどれだけ生きたのかは、おそらく、自分が死ぬ瞬間にわかるのだろう(わからないかもしれない)。自分がごまかしてきたものと、自分がごまかさないできたもの。自分が避けてきたものと、自分が貫いてきたもの。自分が愛してきたもの。自分が愛されてきたもの。私は、今朝、負けたくないと思った。自分を大事にするということは、自分の『希望』を大事にするということだ。自分に嘘をつくくらいなら、自分をごまかすくらいなら、自分を貶めるくらいなら、自分の希望を貶めるくらいなら、私は、私に「孤独死を贈りたい」と思う。その孤独は、きっと、遥かに充実した孤独であるように思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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本当の生き方をすれば、本当の人間に出会える。

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静岡県熱海市デニーズにいる。一応、いま、熱海と横浜で「誰でも自由に使える家」的な活動(?)をやっている。駆け込み寺のように使われることも多く、布団が足りなくなったり、精神的に「無理!」となったとき、私は、野宿をしたり漫画喫茶に行ったり東横インに泊まったりする(無論自腹)。夜の街を歩きながら、ああ、何処かに「誰でも自由に使える家」はないかなあと思いを馳せる、この、矛盾。矛盾と言うか、ギャグみたいだ。一体、私はなにをやっているのだろうか。

 

 

おおまかなスケジュール

6月21日以降、FREE!【東京でイベントをやりたい!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」

7月2日 15時頃 バンコクドンムアン空港到着以降、FREE!
(ギターを預けるよりも現地で買った方が安いかもしれないと思い、手ぶらで行くことになりました。誰か、バンコク界隈で「ギター余ってるよ!」的な方がいたら、お願いがあります。そのギター、あたしに売ってください)

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

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家主はつらいよ。

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佐賀は非常に良いところでした。

 

精神的に追い詰められ、一旦、熱海の逢初庵を閉めた。ようやく落ち着きを取り戻した私は、再び、この家を開放することに決めた。これまでは「家の鍵は空いているので誰でもいつでも使ってください」スタイルだったが、これからは「使いたい人は事前に連絡をいただけたら助かります」スタイルに変える。なぜか。開放し過ぎたあまり、粗雑に使われていろいろ壊れるという憂き目を見たからだ。多くの場合、利用者の方々はこの家を大切に使ってくれる。掃除をしてくださる方や、光熱費を能動的に支払ってくださる方もいる。しかし、99人の善意も、1人の悪意で簡単に木っ端微塵になる。そのことを、実感した出来事があったのだ。これは非常にいたたまれない。自分が大事にしているものが、粗雑に扱われる瞬間はつらい。 

 

www.youtube.com

 

熱海の家。利用料金はかからない。何泊滞在しても無料。布団は二組ある。冷蔵庫にあるものも、押入れにあるものも、この家にあるものは全部無料で使っていい。玄関には財布も掲げてある。みんなの財布だ。出すのも自由。入れるのも自由。好きにして欲しい。家の名前は逢初庵(あいぞめあん)。活動開始時に「はじめてそれを見たときのような、新鮮な気持ちで生きることができたなら」という思いを込めた。この家は、譲り受けたものになる。だから、自分一人で使うことは違うと思った。横浜の家も同じだ。自分の家であって、自分の家ではない。使わせて『いただいている』ものだ。この『いただいている』という感覚が薄れた時、邪気にまみれる。当たり前なんてない。時折、利用者の一部に「ここは自由なんでしょ!じゃあ、なにをしてもいいってことだよね!」的なノリで、アホみたいに騒ぐ人間がいる。私は、そういう連中をこらしめる。ここはそういう場所じゃないんだよ。と。

 

gochamazekikuna.wixsite.com

 

イメージは神社や教会に近い。私は、ルールが嫌いだ。だから部屋中に張り紙をしたり、ルールブックを作るとかを絶対にしたくない。ルールで縛られている間は本当じゃない。神社感、教会感を目指したい。神社や教会にルールブックなんてない。だが、空気感を通じて「ここは騒ぐ場所じゃない。見定める場所なんだよ」的な雰囲気を醸し出す。来訪者の方々は、一様に「なんだか来る前はすごい緊張しました」と言う。緊張させちゃって悪かったなあ、と思う反面「それは正常な反応だ」と思う。緊張感のない人間が、アホみたいに騒ぐのである。と、こんなことを書くと余計近寄りがたくなるとは思いますが、熱海、横浜、門戸は常に開かれています。もしも「そんな逢初庵(あるいはGOCHAMAZE no IE)を見てみたい!泊まりたい!」と思われた方がいたら、事前にご連絡をいただけましたら助かります。

 

note.mu

 

わたり文庫『自分を信じて生きる』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、松木正著作『自分を信じて生きる』です。こちらの本は、埼玉県在住の女性が「坂爪さんに読んでもらえたらうれしいです!」と、わざわざ御郵送をしていただいた一冊になります。自分を信じる。大事なことだ。自信を保つためには、多分、ふたつ必要になる。自分が自分を信じること。苦難を乗り越える体験などを通じて、自分自身に対する信頼を取り戻すこと。そして、もうひとつは「自分以上に、誰かに自分を信じてもらうこと」。この、二種類の自信が必要だと思う。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

 

アンクル・ロイがぼくを見てこう言った。

「タダシ、判断を急ぎすぎてはいけない。何が起きているのか、よーく見るんだ。そうすると、いつしか頭ではなくハートが『よし!』と判断をくだすときが来る。それを覚悟というんだ」

この言葉は、強烈に心に響いた。

松木正『自分を信じて生きる』【小学館

 

本当の生き方をすれば、本当の人間に出会える。

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東京の夕日

 

ブログを書くたびに批判され、音楽を更新するたびに罵倒される。なにかするたびに一々傷つくのは、調練の不足か。会う人に「坂爪さんは自由だから、何を言われても平気ですよね!」などと言われるが、違う。私は、一々、傷ついている。傷つきながら、いまの生き方をやめることができない。何か言われると「今に見てろよコンチクショー!」みたいな気持ちになる。怒りや、復讐を、ガソリンにして高速道路をぶっ飛ばしたくなる。が、怒りや、復讐は、一時的なものに留めたい。自分の純粋な思いを、怒りや、復讐などの感情で濁らされてたまるか。私は、あくまでも『喜び』をベースに、言葉を綴ったり、音楽を作ったりしたい。言葉の素晴らしさ、音楽の素晴らしさを忘れたくない。そうでなければ、怒りをベースにビーガンを推奨する人々や、怒りをベースに猫カフェを営業する人々や、怒りをベースに政治批判を続ける人々と、似た雰囲気を帯びてしまう(口が悪くてごめんなさい)。

 

悔しさでは戦わないと決めた。無論、生きていれば悔しくなることはある。いまにみておれと思う。しかし、大前提は『喜び』のために、生きていたいのだ。自分が愛するものを、自分を正当化するために使いたくない。油断をしていると、競争の世界で苦悶する。誰かよりも優れることが、自分の価値であるかのような錯覚をする。が、多分、その先に幸福はない。あるのは、摩耗する日々、絶えざる欲求不満の日々だ。本来、比べられるはずのないものを、比べる世界に摩耗は絶えない。幸福とは一体感であり、不幸とは分離感だと思う。「俺が、俺が」となるほど、案外、不幸になる。音楽をやっていると思う。人間、同じ人間だと思う。多くの人々は夕日を美しいと思うし、走ると疲れるし、愛するひとを失えば苦しくなるし、煩悩や矛盾や軋轢を抱えているし、さみしさを覚えることも、消えてなくなりたくなることもある。多様性が叫ばれるが、私は、人間のど真ん中を射抜きたいと思う。

 

さみしいな、と思うことがある。同時に「本当の生き方をしていたら、本当の人間に出会える」ような気もする。では、本当とは、なんだろう。わからない。ただ、誠実であること、とは、思う。それは世間的なルールに誠実であるということより、自分が思う『美しさ』に対して、誠実であることだと思う。自分が感じる誠実さに、我が身を賭して投げ出すこと。美しささえ、流れていく。それは安定せず、形を変えたり、美しさそのものを更新したりする。その流れに翻弄されながらも、必死に、必死に、懸命に食らいつくこと。追い求めること。それが、誠実さだと思う。誠実という漢字を眺めてみる。言葉が成って、実る。いい言葉だ。まだまだ自分は未熟者で、芯はぶれる。しかし、ぶれながら、ぶれながら、自分の芯を見定める。ぶれることで、芯の存在に気づくのだ。誠実であること。誠実であることのなかで、傷ついたり、これは本物だ!などと思ったりしながら、人間のど真ん中を見定めたい。言葉が成って、実る。自分の言葉に、嘘のない生き方をしたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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ギリギリ怒られよう。

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福岡県久留米市のジョイフルにいる。福岡ドーム(前)ライブも無事に終了した。無事に、などと書いたが、開始5分後に警備員の男性から「許可はとってますか?」と問われ、しっかり怒られる形で終焉した。怒られた、などと書いたが「コミュニケーションを取った」と言い換えたい。我々は、警備員の方とコミュニケーションをとることに成功した。別に、一曲だけやれたらそれだけでよかった。既成事実さえ残れば、もう、別にいいのだ。その後、我々は近隣の百道浜に避難した。

 

 

おおまかなスケジュール

6月17日以降、死ぬまでFREE!【イベントに出たい!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

ここにいてよかった。

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俺は醜いが、自然は美しい。

 

百道浜は最高だった。私は、ライブハウスが苦手だ。息苦しい。狭い。パッとしない。端的に「屋外の方がいいだろ」と思う。爆音が気持ちいいひともいるのかもしれない。が、私は、耳がキンキンするのが苦手だ。うるさい、と、思う。もっと言えば楽器屋も苦手だ。ロック好きな店員さんが、ああだのこうだの、聞いてもいないことを上から目線でやんややんや言う。私は、へそ曲がりな人間だから「反権力としてのロックを愛したお前が、楽器屋で権力を振りかざしてどうする」などと思う。が、この前、渋谷で出会った楽器屋さんの店員さんは最高に素敵だった。考えを改めたいと思う。偏見はよくない。いい人も悪い人もいる。どの業界も同じだ。

 

最近、孤独について考える。私は、頻繁に孤独になる。そのときに「あなたは、みんなからこれだけ愛されているのだよ!」と、励まされたりする。それを聞いても、全然、元気にならない。北野武さんを思う。多分、彼は、孤独だ。だって、誰もが「あの、たけしさん!」みたいな感じで付き合うから。北野武は、北野武であるという点において、多くの人々から愛されている。しかし、一匹の人間として、どれだけ彼と付き合っている人間がいるのかは、謎だ。有名になるほど、人間離れをする(してしまう)。みんなから愛されるむなしさは、そこにある。イメージで愛されることと、実態を愛されることの乖離。否、別に、有名無名は問わないのだと思う。損得勘定を越えて、イメージの乖離を吹っ飛ばして、一緒に遊べる(対等の人間として付き合える)人間がいることは、幸福だ。そして、私は、幸福だ。なぜなら、Agape(我々のバンド)メンバーは、そういう点において一致している。

 

私は、音楽をやりたいというより「この人たちといるために」音楽をやっているのかもしれない。そんな風に思うことがある。昨日、福岡のライブを主催してくださった女性が、最高な言葉を残してくれた。それは、こんな言葉だった。生きていると、なんでここにいるんだろうって思うこと、ありませんか???あたしは、あります。でも、今日、海をバックに演奏する坂爪さんや保科さんを見ながら「ここにいてよかった」って思いました。波の音と、空の青と、音楽と、言葉と、なんだかそれらが一体になったような感じがして、ここにいてよかったなあって思ったら、実は、最後の曲でちょっと泣きそうになっていた。と。最高な言葉だと思った。ここにいてよかった。そう思える瞬間には、これまでのすべてを肯定する力がある。

 

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わたり文庫『不良牧師!』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、アーサー・ホーランド著作『不良牧師!』です。アーサーさんにはまだお会いしたことはないのですが、以前、札幌でアーサーさんを愛する方々と立て続けにお会いしたことがあります。アーサーさんを愛する彼らは、一様に、素晴らしい人柄の持ち主でした。宗教でもなんでも、既存のコミュニティに対して、外部の人間は『不信感』であったり『疎外感』を感じるものだと思う。が、札幌の人々には、そういう雰囲気がまったくなかった。気持ちが、常に、外側に流れていた。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

大切なのは、自分は勇敢に戦い、道を走り抜き、信仰を持って人を温かい気持ちにさせるためにやり抜いたかどうかということだ。人にどんなに外面的に素晴らしいと評価されても、まったく意味がない。人を温かい気持ちにさせたという思いが、自分のハートの中に残らなければ、それは偽善だ。しかし、その部分ではなかなか人は理解されない。人は外側でしか評価しないからだ。

でも、歴史や人を変えていった人たちの中には、外面ではなく人のハートを温めてきた人たちがいるのだ。そういう人たちは目立たない。いや、目立たなくていい。新約聖書に出てくるバプテマスのヨハネは、神とこの世の橋渡し役だが、街中で語らず荒野で語った。だから、俺もそれでいいのだと思っている。人にジーザスの余韻を残すことができればいい。俺のキャラクターを出しながらやっていけばいいのだといつも思っている。

「人と関わる」ということは、すごくエネルギーがいることだ。疲れるし、人と関わることによって、かえってややこしくなることもある。また、なにか物事をスタートさせるというのも同じである。例えば、あの「ミッション・バラバ」にしても、スタートさせ、それを続けるには相当なエネルギーが必要だ。それに、誤解されたりもする。また、妬まれ、批判されることもある。ちょうどジーザスがそうであったように・・・。

では、最終的にどこで安らぎを得るのか。それは、九十九人がいろいろなことを言って批判しても、たったひとりが理解してくれればいいのだ。九十九人に嫌われても、ひとりの人から愛情が流れれば、人間は癒されるものなのである。

アーサー・ホーランド『不良牧師!』【文春文庫】

 

ギリギリ怒られよう。

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福岡ドーム(前)ライブ

 

予定調和が嫌いだ。ライブなどでも、あらかじめアンコールをされることが前提の上で曲順が決められていることを、不潔だと思う。だから、私は、アンコールは受け付けない主義で行きたいと思っていた。が、思っていたはずなのに、実際にアンコールをされると弱い。「人生にアンコールはないんだよ」とか言いながら、演ってしまう。今回、片道切符で九州に来たため、帰国便も宿泊先もアテがない。そういう話をすると「片道切符なんてすごいですね!勇気がありますね!」などと言われる。その時、私は「人生は片道切符なんだよ」とか、言う。一旦、悪態(?)をつかないと収まらない。そういう部分が、自分にはある。が、時折、悪態のつきようがない出来事に出会う。それを、私は『感動』と呼ぶ。真の感動は、悪態の余地を与えない。ただただ「参りました」と頭をさげる。お前はすごい。完敗です。

 

昨日、百道浜のビッグバナナで焼きそばを食べていたら、19歳の男性「りゅうちゃん」が突然登場した。彼とは、彼が16歳の時に博多で出会った。クラシックピアノの英才教育を受けた彼は、演奏技術も素晴らしく、周囲から「君はきっと史上最強のピアニストになる」と言われ続けて育った。が、実は、彼はX JAPANが好きなのだ。激しいロックが好きなのだ。ゆえに、周囲からのプレッシャーに嫌気がさした彼は、高校を退学してヒッチハイク放浪の旅に出た。そんな影響を、私は、彼に与えた(みたいな書き方は傲慢で嫌だね)。現在、彼は(ピアノを続けながら)生き方を模索する時期を過ごしている。数年ぶりの再会だったが、彼は、いい男になっていた。敷かれたレールの上を歩くだけでは、鍛えられることのない筋力を鍛えている。そんな印象を受けた。要するに「すげーかっこよくなっていた」のだ。

 

りゅうちゃんが自己紹介をする。自分は高校を退学して、現在は生き方を模索している。最近は本ばかり読んでいたが、ひとと会いたいと思う、こうして外に出るようにしている。明後日には片道切符でフィリピンに飛び、海上民族に会ってくる予定です。と。すると、その場にいた別の参加者が「あたしも中卒だよ!15の夜に家出をしたよ!」とか「俺も!俺も!」とか言って、中卒同盟が結成された。りゅうちゃんも「えっ」とか言いながら、はにかんだ笑みを浮かべている。なんだか、すごい、いい風が吹いた。人生、意外とどうにかなるんだよ。そのことを、言葉を通り越して、生き様で具現化している人間がいる。そのことは、希望だ。人と出会うことのなかには、希望の種が隠れている。それは「こんな生き方もできるんだよ」という、希望だ。希望を示す過程で、俄然、周囲から怒られる日々は続く。怒られないためにどうすればいいか。それだけを考えていると、生き方が狭くなり、毎日が窮屈になる。だから「ギリギリ怒られよう」と、私は提案をしたい。怒られた時は、謝ればいいのだ。怒られながら、強く、美しく、逞しくなればいいのだ。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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誰かに好かれようと思うな。

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大分駅前にあるカラオケにいる。突然ですがAgape(我々のバンド名)名義でドームツアーを敢行することになりました。日本の五大ドームツアーです。第1弾は6月16日(日)朝10時から、福岡ドーム前で開催することになりました。是非、遊びに来てください。ドームの中ではあらゆる意味で実行不可能なので、ドームの前で演ります。だから、正確には「福岡ドーム前でライブをやる」ということになる。仮に、日本の五大ドーム前でライブをやったら、俺は「日本の五大ドーム(前)でライブをやったよ」と言える。嘘じゃない。これを言いたいがために、やる。

 

 

おおまかなスケジュール

6月15日 博多と言えばうどん派です@福岡県福岡市【暇です】

6月16日 10時 福岡ドーム前ライブ@福岡県福岡市「福岡ドーム」
6月17日以降、FREE!【呼ばれたら何処にでも行きます!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

夏の朝にドーム(前)ツアーを。

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別府湾


あまりにも急にドームツアーが決定したので、ギターの竹谷さん(現在地新潟)とベースの保科さん(現在地横浜)に「16日福岡ドームでやるから、来て!」とLINEをした。彼らは、いま、必死になって福岡までの交通手段を考えている。果たして、誰かひとりでも来れるのだろうか。私一人の開催になるのだろうか。お客さんは来るのだろうか。誰も来ないかもしれない。が、愚かなイベントには愚かなひとが来てくれるはずだ。神に、祈ろう。我々はアガペーなのだから。私は、愚かなひとと友達になりたい。愚かなことを「愚かだね!」と一緒に笑える時間は、尊い

 

最近思う。現代社会は「稼ぐ」「集める」「溜め込む」ことが美徳になっているのか、どれだけ集めるかの勝負をしているように見える。収入が多い人間が勝ち。貯蓄が多い人間が勝ち。所有財産が多い人間が勝ち。など。しかし、実は、人間は「あげたい」生き物なんじゃないだろうか。溜め込むだけでは、絶対に満たされない何かがある。命も、時間も、金も、同じだ。大事なことは「使い方」であり、ただ、もっているだけでは苦しみになったり、重荷になったりもする。例えば、年間これだけの収入があれば安全とされる謎の指標がある。が、事実、この指標をクリアしている人間が幸福なのかと言えば、謎だ。どれだけ集めても、必ず「足りない」という不安はつきまとう。だから、また、さらに貯め込もうとする。が、溜め込むだけでは、絶対に満たされないなにかがある。この、絶対に満たされない部分を、満たすことができる行為が「あげる」「与える」「開放する」ことだと思う。

 

誤解を恐れながら言うと、いま、あまりにも疲れている人間が多い。満員電車は地獄である。日本は豊かになったと言われている。事実、蛇口をひねれば水が出るし、社会保障もそれなりに整い、餓死をするリスクは皆無に近い。では、なぜ、それでも人間が疲れているのかと言えば、それは「交換の原理」に疲れれいるのだと思う。稼ぐ、集める、溜め込む、これらの行為が美徳とされる世界では、どれだけもっているかが人間の価値になる。すると、大概、ひとは手放す行為にマイナスの感情を覚えるので、減らさないように、減らさないように、生きる。等価交換が基本になると、すべてが「損得勘定の商取引」みたいになる。それが悪いとは言わないが、行き過ぎると殺伐とする。誰だって、こんな風に感じたことがあると思う。俺は、いったい、いつまでこんな生き方を続ければいいのだろうか。と。終わりなき疲労感。永遠の徒労感。そんな時こそ、自然界を見てみよう。春の沈丁花、夏の向日葵、秋の金木犀、すべては無償で芳香を放つ。季節は巡る。自然を通じて、我々は四季を感じる。そこに喜びを覚える理由は「循環を感じる」からだと思う。自然界は、交換の原理で回らない。循環の原理で回っている。だから、我々は、自然に触れた時に励ましや慰め、根源的な安らぎを覚えることができるのだと思う。

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わたり文庫『美の世界旅行』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、岡本太郎著作『美の世界旅行』です。素晴らしい一冊。私は、これを読んで「いますぐメキシコとスペインに行きたい!」と思いました。最近、散歩中に、岡本太郎さんの音声を聴きながら街を歩くことが趣味です。岡本太郎さんの声は、もう、傷つきながらも純粋であることをやめなかった(やめることができなかった)、果敢に挑み続けた人間に宿る『凄味』のようなものが凝縮された、すごいいい声だな、と思いました。不思議と、聞いているだけで激励される効果がある。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大分県にわたりました ※※※

 

直感だが、人間の本性には定着に向くタイプと、そうでないのと、二通りあるのではないか。遊牧という、この誇り高い独自の文化を考えると、その根底に定着を拒否する、挑みの精神があるのだと思えてならない。

私自身、挑みなしに真の存在というものは無いと考える人間だ。今日の文明社会の、何かおさまりきって計算高い、安定、バランスが第一というようなモラルに、何ともいえぬ空しさを感じる。つまりは農耕民の定着、忍耐、勤勉。後生大事に貯めこんだ富の蓄積。それを土台にして進歩と称し管理能力だけを発達させた、市民社会の体制のいやらしさである。

岡本太郎『美の世界旅行』【新潮文庫

 

誰かに好かれようと思うな。

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田ノ浦ビーチ

 

さかつめさんはモテるからいいですね、などと言われる。褒めているつもりか、バカにするな、と思う。一体、モテることのどこがいいのかわからない。モテることなんて、ある程度のテクニックを習得すればいくらでもモテる。でも、それでは、虚しいままじゃないか。モテることと「愛し愛されること」は完全に別物だ。テクニックには、必ず、化けの皮が剥げる瞬間が訪れる。その時、問われるものが『真価』だと思う。テクニックで愛されても、虚しいだけじゃないか。世の中には、優しいひとと、優しそうなひとの二種類がいると思う。前者は大好きだが、後者は大嫌いだ。表面的には優しいひとも、言葉の裏にある「自分が好かれたいだけ」「自分をよく見せたいだけ」という魂胆が透けて見える。要するに嘘つきであり、詐欺師なのだ。騙されてたまるかと思う。そして、なにより、本人自身から「優しく振舞う自分自身に、自分がひどく傷つけられている」という悲哀を感じる。

 

先日、大阪でライブが開催された時に、埼玉から新幹線で来てくれた女性がいた。彼女は話す。自分は埼玉在住だから、別に大阪まで行かなくても、また関東でなにかあるときにいけばいいと思い、最初は自分の欲求を引っ込めた。でも、違うと思った。また別の機会にすればいいのだと、自分の願いを先延ばしにすることはやめようと思った。明日死ぬかもしれないし、今日やらなければ、二度とやれない体になるかもしれない。そう思って、今日、大阪まで来ました。と。 行動に裏打ちされた言葉には、重みがある。素晴らしい言葉だと思った。イベント終了後、彼女から連絡をもらった。そこには「今日は大阪まで行って本当によかった。あれ以来、素直に望むことができるようになりました」と書かれていた。素直に望むことができるようになる。これだ。これなんだ。自分の願いや祈りや欲求を、自分が、打ち消してしまったらそれはあまりにも悲しい。自分がやりたいと思うことを、自分にやらせてあげること。それは、決して「わがまま」「自分勝手」「自己中心的」と非難される行為ではなく、自分に対する失われた信頼を取り戻すための、ひいては人類全体に対する信頼を取り戻すために、必要にして、崇高な行為なのだと思う。

 

溌剌とした優しさは心地よいが、悲しい優しさを見るのは心苦しい。優しいひとほど、自分より他人を優先するひとほど、その優しさによって「自分自身を傷つけている」印象を覚える。優しさが、苦しいのだ。自分が我慢をすることで保たれる平和なら、そんな平和は偽物だと思う。あなたが思う平和の中に、あなたも仲間にいれてくれ。あなたを抜きにして成り立つ平和など、そんなものは嘘っぱちじゃないか。そう思う。良好な人間関係とは、ただ、自分が幸せでいることが「同時に、周囲の人間も幸せにする」関係だと思う。自分が役に立つからそこにいてもいいのではなく、なにかできることがあるからそこにいることが許されているものでも、ない。ただ、自分が幸せに生きていること。そのことをよろこんでくれるひとと同じ時間を過ごすとき、幸福は軽やかに伝播する。そこに、何も、犠牲はない。純粋なよろこびのために生はあるのであり、我々は、自分の正当性を主張するために、なにかを成し遂げるために、誰かに認められるために生きているのではないと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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この空があれば大丈夫だ。

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愛媛県松山市ドトールにいる。これから八幡浜港に向かい、フェリーで別府に行く。能動的な流刑だ。別府の温泉は多分日本で一番安い。無料温泉も豊富だし、かの有名な竹瓦温泉も百円だ。百円で買える幸せは、他になにがあるだろう。中古本、百円。映画のレンタル、百円。誰かに贈るためのガーベラ、百円。登山後に飲むコーラ、百円。他にも「こんなのどうですか?」などあったら教えてください。

 

 

おおまかなスケジュール

6月13日 19時頃 トーク×音楽@大分県別府市「田ノ浦ビーチ」
6月14日&15日 死に支度いたせいたせと大分かな?福岡かな?

6月16日 10時 福岡ドーム前ライブ@福岡県福岡市「福岡ドーム」
6月17日以降、FREE!【呼ばれたら何処にでも行きます!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

自由になる前に恐怖がある。 

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行雲流水。好きな言葉だ。希望は朝が似合う。夜には、少し重い。私は、自分を浮き沈みの激しい人間だと思っていた。しかし、正確には「裏表を見ているだけ」だと思った。たとえば、私は、上手に社会に馴染めない。調子がいいときは「こうあるべきの外側を見せてやるぜ!」と鼻息を荒くするが、夜、夕日と共に希望も沈下したときに「俺みたいな人間は、いない方がいいんじゃないだろうか」などと思う。仮に、私が、世直しを志したとする。しかし、自分は少数派で、誰もそんなことを求めていないのだとしたら、私がやろうとしていることは『余計なお世話』に過ぎない。それならば、世直しを目指すより、手っ取り早く消え去った方が早い。

 

しかし、私は生きている。生きている限り、絶望をすることもあるが、感動をすることもある。感動をすると「まだまだ、人生は捨てたもんじゃない」と思う。そして、同時に感じる。感動をしているだけじゃダメだ。感動をしたということは、その瞬間、自分に『責任』が発生をしたのだ。それは、自分が感動したものを、自分の生き様に宿らせるという責任だ。そうでなければ、真の意味で感動したとは言えない。誰かの生き様に心が震えたなら、自分もまた、同じように「真の意味で生きる」ことを目指すこと。それが筋だ。それは、誰かみたいになりたいと思うことではない。自分は自分。他人は他人。しかし、同じ人物にならずとも「同じ志を抱く」ことならば、できる。あらゆる偉人は、全員、志半ばでこの世を去る。それは、無駄なことではない。それは「乗り越えるものをまっている」ものだと思う。

 

感動は、引き継ぐと言うより『乗り越える』ものだ。自分が何かに感動をする。生きる実感を覚える。油断をすると、対象を崇拝したり、対象を布教するための生涯を過ごしそうになる。しかし、それは違う。なにかに感動を覚えるのは、その要素が、既に「自分の中にある」からだ。偉人も、凡人も、同じ人間だ。誰かを尊敬し過ぎることは、相手を人間以外のもの(悪魔か、神様)に変える。違う。我々は、同じ人間だ。何かに感動する。その感動を乗り越える。そのための挑みは、苛烈を極めるかもしれない。しかし、それが、命の役割だと思う。誰かに認められるとか、金になるとか、有利だからとか、安定のためなどといった、損得勘定を越える。それは、危険な道かもしれない。しかし、危険を生きることに充実を見る。そこで気付く。こんなにも生きたがっていた『命』の存在を知る。虚無感、空虚感、閉塞感、停滞感、絶望感、倦怠感、劣等感、それらを乗り越えるものは「危険に賭ける」ことなのだと、血を流しながら、涙を流しながら、思い知ることがある。

 

note.mu

 

わたり文庫『かもめのジョナサン

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、リチャード・バック著作『かもめのジョナサン』です。この本にある「正しい掟というのは、自由へ導いてくれるものだけなのだ」という言葉は、世間的にどのように受け止められるのだろうか。そんな言葉は戯言だ、絵空事に過ぎないと一蹴されるものだろうか。それとも、迫害を受けても、それを貫徹するために「命を投げ打ってでも」挑み続けたいと思えるものに、成り得るのだろうか。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※

 

ほとんどのカモメは、飛ぶという行為をしごく簡単に考えていて、それ以上のことをあえて学ぼうなどとは思わないものである。つまり、どうやって岸から食物のあるところまでたどりつき、さらにまた岸へもどってくるか、それさえ判れば充分なのだ。すべてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変わりなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることよりも飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった。

リチャード・バックかもめのジョナサン』【新潮文庫

 

この空があれば大丈夫だ。

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今、松山から八幡浜行きの電車に乗った。快晴。流れる景色が心地よい。柔らかな旅風情だ。四国にしかない空、四国にしかない夕日、四国にしかない穏やかさを感じる。瀬戸内の影響だろうか。我が祖国新潟の冬の曇天はエグく、環境が与える影響を思う。冬、あれだけ曇る環境で育つことは、虐待を受けて育つことや、悲しみに暮れた人間とワンルームで暮らすことと似ている。誰だって、ダメ出しされ続ける日々を過ごしたら気分も滅入るだろう。が、悲哀の中で育まれる「何か」もある。文学(優しさ)などが代表だ。哀しみから歓びを引き出し、歓びから哀しみを引き出す。思えば、生きててもいいと思える理由をかき集めるような日々だった。悲哀の中にいる者ほど、激しい理由を求める。ちょっとやそっとの理由では、生きる方向に舵が向かない。だからこそ、獲得した「これは!」と思えるものたちは、深く、胸を震わせる。

 

穏やかな景色が続く。木々の緑、空の青、雲の白が素晴らしく、この国に年間三万人の自殺者がいて、百万人を越える鬱病患者がいることが嘘のように思えてくる。社会不適合者という言葉もあるが、適合することが善なのか、適合したら自殺や鬱病患者になるリスクが高まるだけなんじゃないのか、など、余計なことを考える。自然が嫌いな人間はいない。誰だって、夕日を見たら美しいと思うだろう。しかし、日没時に夕日を眺めている人間は圧倒的に少数で、大概は屋内でテレビを見ているか家事や仕事や勉強をしている。多くの人々が長期連休に自然の中で「癒される」などと言いながら、普段は都会に住み、マンション建設のためにガンガン自然は破壊される。自分が大事だと思うことと、社会が大事だと言うことと、どちらを優先させるのが良いのだろうか。松山市内を歩いていたら、中学生の声で「夢は見るものではなく、叶えるものだと思います」というアナウンスが流れていた。それを聞いて、ああ、言わされているなあと思った。誰かに言わされている言葉。それを排除したとき、どれだけの言葉が残るのだろうか。

 

人間の機械化が進む。学校は優等生製造工場みたいで、社会は平均的人間製造工場みたいだ。機械的であることが好まれ、人間味を出すことは「ふざけている」「生産的ではない」「余計なこと」になる。誰もが、似たような言葉を話し、似たような振る舞いをする。そんな中、ああ、このひとは人間のままでいてくれたと思えるひとを見ると、うれしくなる。それは、街中で野良猫に遭遇した瞬間の感慨に似ている。あ、ここに、生きているものを発見した!という感動。自分は、人間が嫌いで、人間が好きなのだと思う。そして、人間でありたいと思う。人間を好きになりたいと思う。窓の外を見る。青い空に、白い、大きな雲が流れている。眺めていると、自分の中にある想念、喜、怒、哀、楽、夢、愛、憎、烈、苦、すべて、吸い込まれていく感覚になる。この空があれば大丈夫だ。そんな感覚になる。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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捨てたところにも、人生はある。

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阪急梅田駅近くのサンマルクカフェにいる。数日前「地上の苦しみなど、ひとときの夢みたいなものだ」というフレーズを本で見た。良い言葉だ。まさにその通りだ。もうひとつ。俺と一緒にいることは、人生を捨てるみたいなものだと女との関係を断ち切ろうとする男に、女が「捨てたところにも、人生はあるのだと思います」と真剣な表情で喰らい付いた。格好いい。こういう関係性に憧れる。男気という言葉があるなら、女気という言葉もある。最近、真の『女気』について考える。

 

 

おおまかなスケジュール

6月11日 死に支度、いたせいたせと、愛媛かな【愛媛県今治市
6月12日以降、FREE!【呼ばれたら何処にでも行きます!】
6月13日 19時頃 トーク×音楽@大分県別府市「田ノ浦ビーチ」
6月14日以降、FREE!【呼ばれたら何処にでも行きます!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

「本当のいってらっしゃい」を聞きたい。

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大阪ありがとうございました!

 

婚活をはじめたいと思う。現在34歳。これまで「結婚なんてしてもしなくてもどっちでもいい」と思っていた。が、やはり、ひとりはさみしい。結婚をしたいというよりも「家に帰ったら誰かがいる」という生活に興味がある。基本、私は、常にひとりだ。なにをするのも一人。街中でさみしさにまみれて「誰かに会いたいけど、それが『誰』かわからない」とか「どこかに行きたいけど、それが『どこ』かわからない」などと悶絶することも三日に一回くらいある。居場所がない。居場所がないことがデフォルトになってしまった。しかし、デフォルトを変えることもできる。はず。だ。多分。きっと。できるかもしれない(できないかもしれない)。

 

理想の女性を考えてみよう。先日、大阪でイベントが開催された。そこで「理想の女性のタイプはありますか?」と聞かれた。私は、なかなか伝わらないだろうなと思いながら「私は、本当のいってらっしゃいを言える女性が好きです」と言った。本当のいってらっしゃいを言ってもらえると、俺も、本当のただいまを言うことができるのです。と。これが、非常に驚いたことにウケた。みんな、よくこんな抽象的な表現をキャッチできるなと感動した。私は男で、基本、出発をしたい生き物だ。だが、自分が出発をすることで「相手に迷惑が」とか「相手を悲しませてしまう」などと躊躇してしまうと、出発が鈍る。結果、自分が死に、人生が詰む。だから、自分は結婚なんて絶対に無理だと思っていた。が、仮に「本当のいってらっしゃい」を言ってくれる女性と出会えたらば、結婚もいけるかもしれないと思った。

 

私には4歳年上の兄がいる。兄は変で、WEBで「結婚相手を募集します」みたいなことを書き、自分の結婚観をひたすら書き綴った。自分は恋愛をしたいのではなく結婚がしたいのだ。とか。こどもの養育費にはこれくらいを考えている。とか。自分は爬虫類が好きで陰気な性格に見られることも多いが実際は優しい方だと思う。とか。そしたら、驚いたことに似た価値観を持った女性が兄の前にあらわれ、出会って数週間後に結婚をした。それが、8年くらい前。彼らは、いまも、仲良くやっている。弟の私は、兄を見ながら「すげえな」と思った。なんでもありだなと思った。結婚でもなんでも「このひと『でも』いいかな」と思う相手ではダメだ。自分の心が「このひと『が』いい」と前のめりに愛せる相手と生きること。それが大事だと思う。頭で考える限り、それは損得勘定である。逆に言えば、出会ったら話は早いのだと思う。来年の今頃、私にはこどもがいるかもしれない。それくらい、人生はなにが起こるかわからないものなのだと考えると、ちょっと、わくわくする。

 

note.mu

 

捨てたところにも、人生はある。

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自分みたいな人間と「結婚をしたい」などと思う女性がいるのだろうか。わからない。わからないが「世界にはいろいろな人間がいる」ことはわかる。ならば、変わった女性もいることを信じる。先日、ある既婚者の女性Y様と話した。Y様の旦那さんは自営業をやっているが、諸事情で自己破産をすることになった。このとき、Y様のハートは、絶望する方向には向かわなかった。逆に「人生、生きていると自己破産を経験することもあるんだなあ」と、なんなら置かれた状況をおもしろがっている自分がいた。と、彼女は話した。こういう女性は素晴らしいなあと思う。私といると、多分、いろいろな問題が勃発する。それがストレスになる女性はかわいそう(そして、自分のせいでかわいそうになる女性を見て自分も猛烈に胸を痛める)だが、それを「一緒に楽しめる」ひととは、仲良くやっていける予感がする。

 

最近では複数恋愛(ポリアモリー)なんて言葉もある。しかし、多分、私は「ひとりの人間と深く付き合いたい」と思うタイプの人間だ。月並みだが、岡本太郎岡本敏子ジョン・レノンオノ・ヨーコの関係性を素敵だと思う。仮に、相手が浮気や不倫をしたとしても「それは俺の魅力が足りなかったからだ」と思うタイプの人間で、相手を責めるよりも自分を責める(自分を向上させる)方向に舵を取る。そもそもで、自分と一緒にいない時間になにをしていたのか問うのはエネルギーの無駄遣いだと思うし、不在時になにをしていたのか気にすることもない。大事なのは「一緒にいる時間になにをやるか」で、一緒にいないときになにをしているのかは、冷たいかもしれないがまったく関心がない。楽しそうに生きていてくれたら、それだけで充分だ。いま、書きながら「本当にそうだなあ」と自分で思った。自分で自分の恋愛観を書くことは、楽しい。今度、どこかにまとめて書きたいと思う。

 

実は、私には夢がある。20代は『言葉』に、30代は『音楽』に身を捧げたい。言葉と音楽の共通点は「目に見えない」ことだ。私は、どうやら目に見えないものに興味がある。料理や家を建てることにも興味はあるが、誰かがやってくれるなら「あなたがやってください。私はそれを食べます(そこに住みます)」などと思って簡単に折れる。だが、自分の気持ちを代弁することは、誰にもできない。だから、私は、自分という人間を言葉や音楽を通じて表現する。そこに生きがいを感じる。私は、代わりがいないことをやりたいのだ。そして、他にも目に見えないものはたくさんある。40代以降、目に見えない最たるものを、自分の手でゼロから築き上げる人生をはじめたいと思う。これは、非常に馬鹿げた夢だから誰にでも話せる類のものではない。もし、理想の結婚相手と出会えたとき、私は、私の夢を語りたいと思う。この夢は「この夢を生きようと思う限り、あなたの人生を捨てることを意味する」みたいな夢になる。が、この話をしたときに「捨てたところにも、人生はあるのだと思います」とニコッと笑える素敵な女性と、一緒に生きていきたいと思う。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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時間なんてない。あるのは記憶だけだ。

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大阪府鶴見緑地近くのコメダ珈琲にいる。こどもを好きな理由がわかった。一般論を言わないからだ。誰かと話しているとき、一般論ほど退屈なものはないものはないと感じる。常識がどうだの、普通はこうするものだの、誰かがこんなことを言っていただの、心の底からどうでもいい。あなたが、あなたであるところの話を聞きたい。一般論に毒されると、自分が消える。誰と話しているのかわからなくなる。

 

 

おおまかなスケジュール
 
6月7日 FREE!@関西全域【宿も予定もございません】
6月8日 FREE!@関西全域【宿も予定もございません】
6月9日 17時 EVENT 音楽×トーク@大阪市北新地「Candy」
6月12日以降、経済的に○な場合、欧州音楽武者修行(仮)
6月12日以降、経済的に×な場合、四国&九州音楽武者修行(仮)

【イベント出演依頼があり次第、どこでも行きます!!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

記憶と時間。

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新潟の夕日。ミニライブを開催した。


巷では「過去を悔やまず、未来を恐れず、現在を生きよう」みたいな言葉を聞く。いま、ここを生きよう。そういうことなのだと思う。私は、こういう励まし(?)の言葉に、もう、飽きた。過去と現在と未来を、明確に区別できる気がしない。物理学の世界では「時間はない」という学説もある。個人的に、時間はないと言われるほうが、ドキドキする。前提がひっくり返される楽しさを覚える。大概、我々は、三次元の世界を生きていると思っている。三次元に、時間の概念が加わると、四次元になる。しかし、物理学には『超ひも理論』なんて理論もある。この理論だと、我々が生きている世界は11次元(!)ということになる。11次元とか言われても、まったく意味がわからない。意味がわからないと、愉快な気持ちになる。

ibaya.hatenablog.com

 

家のない生活をしていた頃、様々な人々の家にお世話になった。特定の女性に養ってもらうことが「ひも」ならば、宇宙全体から養ってもらおうとする発想を「超ひも理論2.0」と呼べるのではないか、と、なんとなく閃いてしまった私は『超ひも理論2.0 〜私は地球に愛されている〜』を提唱した。程度の低いギャグだが、これがまた意外にウケた。宇宙は意味がわからない。私は、意味がわからないものが大好きだ。だから、意味のわからない生き方をしたいと思う。織物の一種に『さをり織』というものがある。障害者の就労支援などでも使われる(?)織物の一種で、障害者の方々は、健常者には思いも寄らない奇抜な(それでいて猛烈に美しい)織物を織り上げたりする。一般人には思いも寄らない秩序。表面的には無秩序に見えても、人間の想像を絶する『秩序(芸術)』に触れた時、我々は感動を覚える。

 

note.mu

 

来週から欧州に行く。が、片道切符しかないため、帰ってこれないかもしれない。欧州が無理になった場合、四国&九州音楽武者修行に出る(予定)。欧州でも、日本でも、もしも「坂爪圭吾と語ってみたい!」などと思ってくださる方がいたら、規模は一切問わないのでイベントを企画していただけたら猛烈に嬉しいです。音楽の場数、会話の場数を磨きたい。人と話すことでインスピレーションを得たい。私には、昔から「人間と話したい」という欲求があった。しかし、人間と話しているはずなのに「人間と話している」とは思えない瞬間が、たくさんある。一般論しか語られることのない時間は苦痛だが、なんだか、最近は『人間の機械化』がすごい速度で進んでいる。お利口さんは多い。ロボットみたいなお利口さんは、最悪だ。

 

note.mu

 

時間なんてない。あるのは記憶だけだ。 

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音楽をはじめてから、自分で作詞作曲をするようになった。創作をしながら「ああ、俺は、人類共通の記憶にリーチしたいのだな」と思う(ことが多い)。音楽は時間に乗っている。絵画の場合、その絵を5秒見て立ち去ることもできるし、1時間でも2時間でもずっと見続けていることもできる。しかし、音楽は時間に乗っている。3分間の音楽なら、誰にとっても、聞いていられる時間は3分間になる。この違いが、なんだか興味深い。もし、時間なんてものはないとすれば、あるものは『記憶』だけだ。私は、時折、考える。我々は「時間が流れる」なんて表現を使うが、実は、流れているのは時間ではなく『人間』の方なのではないだろうか。と。時間は常にそこにあって、そこを人間が流れているだけに過ぎないのかもしれない。

 

音楽を聞いてくれたひとが「動画で見るより全然いいですね!やっぱり生ですね!」と感想をくれる。なんとなくわかる。動画にないものがライブにはある。なにが違うのか。私は『振動』だと思う。別に『波動』でも『エネルギー』でも『覇気』でも言葉はなんでもいいのだが、動画にはない、リアルの振動がライブ会場に生まれる。音楽とは、要するに『振動(音の振動)』のことだ。音は、(これは非常に重要なことだと思うのだけれど)物質を通過する。壁を超えるし、人間の皮膚を超える。臓器に直接届く。鐘を鳴らすことで心身のバランスを整える、なんてことは昔から行われてきた。祭りの太鼓も、原始的な本能を目覚めさせる力がある。

 

記憶と時間。興味のあるテーマだ。音楽に限らず、素晴らしい出会いには、世界を変える力がある。誰にでも経験があるだろう。恋をすると、世界が輝いて見える。素晴らしい本を読み終えると、世界が明らかに変わって見える。素晴らしい音楽に触れた途端、まったく同じ世界を生きているにも関わらず、まったく別物の世界を感じ取ることができるようになる。これまで当たり前だと思っていたものが、一瞬にして『奇跡』に取って代わるような、価値観の転換。それは、自分が新しいものに生まれ変わるというよりも、忘れていたなにかを『思い出す』という感覚に近い。私は、音楽を通じて、人類共通の記憶にリーチをしたいと思う。言葉でも、同じことだ。自分という完全に個人的な事象を通じて、人類全体の記憶にアクセスする。自分を生きれば生きるほど、自分を掘り下げれば掘り下げるほど、結果的に、人類全体に到達する。そういう、表面的には矛盾をしていることに、関心がある。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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真理は人を、自由にする。

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新潟駅前のドトールにいる。鬼ごっこ。人生が本気の鬼ごっこみたいになってきた。背後には、常に現実という名の死神がいる。捕まったら即死だが、逃げ切れば勝ちだ。死ぬのが先か、有終の美を飾るのが先か。あ、どっちも死だ。なーんだ、いずれにしても死じゃないか。あはは。と、定期的に謎の形で安定をする。しかし、死にたくはない。安らかに逝きたい。そう思っていたら、救世主が降臨した。

 

 

おおまかなスケジュール

6月4日 EVENT 音楽×トーク@新潟市西区「海のオフィス」
6月6日以降、FREE!@関西全域【宿も予定もございません】
6月9日 EVENT 音楽×トーク@大阪市北新地「Candy」
6月12日以降、経済的に許された場合に限り、欧州武者修行(仮)
6月30日 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

楽観力。

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私の生活は破綻している。それを見かねた救世主から「困ったことがあったら言ってください」とご連絡をいただいた。エブリデイ困っているため、先ほど、新潟駅前でお会いした。結果的に、あらゆる問題が霧消(?)した。餅は餅屋。真理だ。自分が苦手なことを、自分だけで抱えると死滅する。私は、数字などの管理が著しく苦手で、これをやらないと死ぬなどと言われても「これをやらなければ生きていけない世界を、生きていきたいとは思わない」とか言って、すぐに破滅を考える。

 

救世主M様は言う。幸福は四種類の精神から成り立つ。『自分らしさ』の精神と、『やってみよう』の精神と、『なんとかなるさ』の精神と、『ありがとう』の精神。この四種類の精神だ。あなたには、なんとかなるさの精神が足りない。他の三種類は、充分、備わっている。だから、もっと楽観力を磨いた方がいい。そうすれば、ずっと生きやすくなると思うよ。と。素晴らしい指摘だ。その通りである。小生、行動力はあるものの毎回死にそうになりながら行動をしている。毎回、しっかりビビっている。そして、なにかあるたびに「やっぱりね」とか言いながら、こっそり破滅の準備をする。頑丈な縄を探してみたり、孤独死にふさわしい海や森を探してみたり、遺書を書いてみたり。そんな私の魂胆(?)を見抜いたM様は「楽観力を磨け」という、ありがたい言葉を残した。なんとかなる。だから、大丈夫だ。

 

別に、法律を犯した過去があるわけじゃないのに、生きることが「罪滅ぼし」みたいに感じることがある。生きていること、生まれたことを『罪』のように感じる。罪という言葉が重いなら、恥という言葉でもいい。私は、私を、恥ずかしい存在だと思う。欠落人間だと思うし、ダメ人間だと思う。そして、これまた厄介なことだが「そんな自分が愛おしい」などと思ったりする。そして、またさらに厄介なのが「似た恥や、似た罪、似た感覚を感じているひとに親愛を覚え」たりする。参った。私は、恥と、罪で、出来ている。そのことを誇りに感じていたりするのだ。だがしかし、生きるためには楽観力を磨きたい。そうだ。これまでがどうにかなってきたように、きっと、これからもどうにかなっていくのだろう。生きたくなったり死にたくなったりを積み重ねながら、図太く、しぶとく、生きていくのだろう。

 

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わたり文庫『アルジャーノンに花束を

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ダニエル・キイス著作『アルジャーノンに花束を』です。こちらの本は、先日、千葉のライブを企画してくれたN様が「わたり文庫に是非」と寄贈をしてくれました。N様、最高の人柄の女性です。千葉駅近くで『14番目の月』というスナックを営業しています。是非、行ってください。定期的に死にたくなる小生ですが、いい人に出会うと、生きたい。生きていきたい。生きててよかった。生まれてきてよかった。と、生きる活力を得ます。大袈裟だけど、マジで、得ます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※

 

キニアン先生もしこれをよんでもぼくをかわいそーとおもわないでください。先生がいったようにぼくわりこうになるための二度目のきかいをあたえてもらたことをうれしくおもていますなぜかというとこの世かいにあるなんてしらなかったたくさんのこともおぼいたし、ほんのちょとのあいだだけれどそれが見れてよかたとおもているのです。それからぼくの家族のことやぼくのことがよくわかたのもうれしいです。みんなのことをおもいだしてあうまでわ家族なんかいないのとおんなじでしたけれどもいまわ家族もあることがわかっているしぼくもみんなみたいな人間だとわかっているのです。

 

どうしてまたばかになてしまたかぼくがなにかわりいことをしたかわからない。きっとぼくがいしょけんめやらなかったからかもしれないだれかがぼくにいじわるしたからかもしれない。でもうんといしょけんめにべんきょーすればもうちょとりこーになって言葉もみなわかるよおになるんだろうな。

 

やぶけた表紙の青い本をよんだときとてもいい気ぶんだったのをちょとおぼいている。

ダニエル・キイスアルジャーノンに花束を』【早川書房

 

真理は人を、自由にする。

https://www.instagram.com/p/ByPq9_3A1a7/

 

千葉でライブをご一緒させていただいた、N様の歌声が本当によかった。純粋に、音楽を愛している人の歌声だった。N様は話す。小さな頃、父親が酒乱で家で暴れることが多かった。暴力も受け、生きることが辛く、なにもいいことはないと感じていたとき、ふと、ラジオから流れてくる音楽が耳に入った。その音楽が優しくて、自分の力になり、辛い時期を生きることができた。だから、自分の音楽を通じて、少しでも誰かがそういう気持ちになってくれたらうれしい。と。その声には、音楽を通じて「自分を認めて欲しい」とか「誰かを蹴落としてやりたい」とか、そういう邪念が微塵もなかった。それは、歌というよりも、祈りに近いと思った。N様の祈りは、深く、優しかった。N様に出会えたことを、心から嬉しいと思った。

 

母親と話した。母親は、昔から「貧乏人ほどよく笑う」と話していた。事実、我が家も母親の実家も(父親の実家も)生活は厳しく、笑わないとやってられない場面は結構あった。みじめさにうちひしがれてへこんだ部分を、音楽で埋め合わせている。自分の欠落している部分を、ユーモアで満たしている。そういう感覚が、自分にはあった。この世界に音楽がなければ、ユーモアがなければ、とっくの昔に自殺をしていたと思う。つらさを経由したひとの、言葉は、音楽は、ユーモアは、深く、優しい。付け焼き刃ではない、そのひとの人生そのものが乗っかっている、懐を感じる。そして、思う。悲しみも、苦しみも、決して無駄にはならないことを。

 

N様の演奏中、感じたことをメモを取った。笑ったり、泣いたり、みんな生きてんだよ。不完全でも、みっともなくても、みんな生きてんだよ。生きたいと思ってんだよ。もがきながらでも、幸せになりたいんだよ。そうじゃなかったら、悩まないよ。苦しんだりしないよ。生きたいと思う摩擦熱が、悩ませたり、苦しませたり、しているだけなんだよ。だから、それを見せてくれるひとに、どうしようもない共感を覚えるんだよ。と。日々、色々なことを感じながら、誰もが生きているのだと思う。ただ、ひとつ、もしも共通する願いがあるとすれば、それは「感動したい」という願いだ。感動に触れたいと願う思いが、人間をライブ会場に向かわせたり、図書館に向かわせたり、遠い異国に足を運ばせたりする。感動を通じて、我々は、自分はまだ生きていたことを思い出す。自分には、まだ、何かを感じる心がある。たとえ、これまでの人生がうだつのあがらないものだったとしても、たとえ、代わり映えのない毎日を過ごしていたとしても、明日、なにかいいことがあるかもしれない、感動の予感と、感動の可能性の、発動。それを『希望』と呼ぶのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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純粋なまま、汚れて行こう。

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横浜駅前のドトールにいる。あまりにも「ドトールにいる」と書き続けたため、宮城県在住のN様から「これを使ってください」と、ドトールカードが郵送で贈られてきた。宮城県に足を向けて眠ることができない。が、西にも、東にも、南にもお世話になっている人々が大量にいるため、もう、直立不動で眠るしかない。これは、眠るな、ということである。私は、極端な言葉、極端な行動が、好きだ。「真の男は、死んでから眠るもの思うとります」という、有名なセリフを思い出した。

 

 

おおまかなスケジュール

6月3日以降、FREE!@新潟市【青山海岸で寝泊まりの予定】
6月6日以降、FREE!@関西全域【宿も予定もございません】
6月9日 EVENT 音楽×トーク@大阪市北新地「Candy」
6月12日以降、経済的に許された場合に限り、欧州武者修行(仮)
6月30日 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

正しいけれど、つまらない。

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先日、オーガニック料理をご馳走になった。内装は綺麗で、料理のこだわりもすごい。はたから見れば最高なのかもしれないが、私は、もう、こんなことを書いてしまって本当にごめんなさいだけど「正しいけれど、つまらない」と思ってしまった。なにか、こう、食べた気にならないのだ。無農薬。正しい。消化にやさしい。正しい。丁寧に生きる。正しい。正しい。正しい。正しいのだけれど、乱暴にまとめると「こんな人生は嫌だ」と思った。カラダにいいからと、豆ばかりを食べるような人生は、ごめんだ。正しいけれど、つまらない。そう思う瞬間は、結構ある。

 

なんで、みんな、いいことしか言わないのだろう。なんで、みんな、自分のダメな部分を出さないのだろう。誤解を恐れながら言うと、「ココロとカラダにやさしい」みたいなことを銘打つひとほど、覇気がない印象を覚える。覇気がないことは、悪いことではない。ただ、覇気がないくせに「覇気があるように見せかける」ことは、違うと思う。あなたは、ひとを元気にするとか言っている割には、元気がなさそうに見えますね、とか、あなたは、愛、愛、愛とか言うけれど、それは全部承認欲求じゃないですか???とか、そんなことを言いたくなる。これを言われて、笑えるひととは、友達になれる。が、大概の場合、そんなことを言うと怒られてしまう。だから、言えない。承認欲求があることは、自然だと思う。だから、普通に「あたしは承認欲求が、すごいあります!」と明朗に言えるひとは、爽やかで、好きだ。隠されるから、おかしくなる。見栄を張られるから、暴きたくなる。

 

昔、あまりにも社会に馴染めなくて「自分は欠陥人間だ」と、消えたい時期が長く続いた。その時、ふと、嫌いなもののために死ぬなんてクソだ、ということを思った。世の中に馴染めない自分を責めるとき、世の中は善で、自分は悪になる。でも、冷静に、考えてみる。いじめられて自殺を考える少年の心理と、これは、きっと似ていると思う。自分をいじめる人間がいる。生きるのがつらい。苦しい。毎日、死にたいと考える。しかし、これで死んでしまったら「自分が嫌いだと思うもののために死ぬ」ことと、同じだ。これは、なんだか、癪だ。どうせなら、自分が嫌いなもののためではなく、自分が好きなもののために、死にたいと思う。自分が、世界でもっとも大事だと思うもの。それは、自分の感受性だ。自分の感受性を守るために、命を張る。そっちの方が、よっぽど、有意義な生を送れると思った。

 

note.mu

 

わたり文庫『忘れられた日本人』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、宮本常一著作『忘れられた日本人』です。短編集なのですが、この本にある『土佐源氏』という30ページ足らずの話が、昔から大好きで「これは俺のバイブルだ」と、長年、思い続けてきました。岩波文庫とか、普段、読まれる方は少ないと思うのですが、騙されたと思って(本屋さんに立ち寄る機会があれば)土佐源氏だけでも読んでみてください。少なからず、衝撃を受けると思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

「わしのような者のいうことをどうしてきく気になりなさったか」いうてきいたら「あんたは心のやさしいええ人じゃ、女はそういうものが一番ほしいんじゃ」といいなさった。身分の高い女で、わしをはじめて一人まえに取り扱こうてくれて人じゃった。

どんな女でも、やさしくすればみんなゆるすもんぞな。とうとう目がつぶれるまで、女をかもうた。そしてのう、そのあげくが三日三晩目が痛うで見えんようになった。極道のむくいじゃ。わしは何一つろくな事はしなかった。男ちう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけはわしのいいなりになった。

わしにもようわからん。男がみな女を粗末にするんじゃろうのう。それで少しでもやさしうすると、女はついて来る気になるんじゃろう。

宮本常一『忘れられた日本人(土佐源氏)』【岩波文庫】 

 

純粋なまま、汚れて行こう。 

前は「あなたは純粋だね」と言われるたびに、腹を立てていた。なんだか馬鹿にされている気がして、ちげえし、などと反発していた。時は流れ、現在、34歳。自分の宝は、自分の純粋さだ。そう思うようになった。自分にあるものは、この、あほみたいに純粋な部分。こどもの頃から変わらない部分。おかしいものを「おかしい」と思える純粋な部分。いやなものを「いやだ」と思える純粋な部分。好きなものを「好きだ」と思える純粋な部分。愛するものを「愛している」と思える純粋な部分。音楽をやりたいと思った、その気持ちにストレートに殉じた、純粋な部分。

 

 

初心者三人でバンドを結成した。名前は「Agape(アガペー」。今日は千葉でライブだ。複数曲、ギターソロを作成した。音を出す。へたくそながら、一生懸命に演奏をする。時折、あ、いま、音が完全に一致をしたぞ、と思える瞬間がある。その瞬間、不思議だ、原因不明の涙が流れそうになることがある。ああ、音楽をやっていてよかったと思える、最高の瞬間のひとつだ。こんなよろこびが、こんな楽しさが、こんな素晴らしさが、世界にはあったのかと思わせてくれる新鮮な衝撃。快感。震えるほどの感動。音楽をやると決めた自分に「ハレルヤ!」と叫びたくなるような、過去の自分を「お前は最高の選択をした」と賞賛したくなるような、これまでのすべてに「よくぞ、ここまで生きてきてくれた」と涙の全肯定をしたくなるような、生きていてよかった、生まれてきてよかったと思える瞬間の、ひとつだ。

 

 

おかしな表現になるが、誰もが「自分である才能」を持っているのだと思う。自分にあるものなんて、たかが知れている。私には、音楽の才能も、言葉の才能も、ない。しかし、私は、私を、34年間続けてきた。私は、私という種目を34年間続けたベテランであり、ある種の大御所であり、坂爪圭吾という競技種目のトップアスリートである。ぶっちぎりの第一位である。そのすべてを、ある時は音楽に込め、ある時は文章に込め、ある時は自分が話す言葉に込め、ある時は自分が差し出す右腕に込め、ある時は、自分が踏み出すその一足に込める。私は、私を構成する、すべてによって成り立っている。その中には、私の家族も、私の友達も、私が嫌った人間も、私が愛した人間も、その、すべてがいる。そのすべてが込められた一匹のオスが、どう、次の一歩を踏み出すのかということに、自分自身が胸を高鳴らせる。自分が、自分に、期待をする。そういった状態を「悪くないな」と思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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恥の数だけ、強くなる。

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定期演奏会を終えた。短期間で成長(?)する秘訣は、どれだけ恥をかけるか、どれだけ失敗を重ねることができるか、だと思った。恥をかく。失敗をする。つらい。しんどい。消えてなくなりたいと思うこともある。しかし、時を経て、あの体験が「俺を磨き上げてくれた」と感じる瞬間は、多い。成功も失敗も糧になる。そう思えば、失敗なんてないな、と思う。恥をかいたら、恥のポイントカードにスタンプが押される。20個貯まれば、ごほうびをもらえる。そう思えば、遊びになる。

 

 

おおまかなスケジュール

5月28以降、FREE!【イベント出演依頼諸々絶賛募集中!】
6月2日 EVENT 音楽×トーク@千葉県千葉市「N-HOTEL
6月3日以降、車で新潟を目指す予定【何か企画してくださる方、激募!】
6月9日 EVENT 音楽×トーク@大阪市北新地「Candy」
6月12日以降、アムステルダムかミラノ発の欧州武者修行(仮)

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

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恥ずかしいこと、書かなきゃ。

バンド名が『Agape(アガペー)』に決定した。直訳すると『神の愛』になる。現時点で60曲作った。人前で演奏するとき、どうしても「この曲は好かれそうだな」みたいな感じで、選曲をする自分のダサさを痛感する。説明できないことをやりたいのに、説明的になる。これは、自分のなかにある「理解されたい」「わかってもらいたい」という願望が、そうさせているのだと思う。自分でも、自分のことを理解できていないくせに、何が、理解だ。何が、共感だ。何が、表現だ。そう思い、理解されなくてもいいから、不快感を与えてしまってもいいから、自分が「これだ」と思う曲をやろう。そう思って、定期演奏会では『オニキス』を演奏した。

 

自分の中にある恥ずかしい部分。それは、隠されて、隠されて、隠され続けていながら、同時に「誰かに見てもらえることをまっている」ものだと思う。恥という漢字は、耳に、心だ。心の声を聞かれたら、きっと、誰もが恥ずかしいのだと思う。そして、だからこそ素晴らしいのだと思う。そこには「なんだ、自分だけじゃなかったのか」という、安堵がある。芸術とは、誰かに向けたメッセージでは、ないように思う。それは「俺は、いま、こんなにも、こうなんだよ」と、自分の内臓を取り出して目の前に置くような、生々しくて、それでいて、目を逸らせないものだ。

 

自分の中にある、孤独と矛盾。それを、そのまま、打ち出すことが許されている。それが芸術だと思う。普通、生きていると、矛盾を打ち消す方向に思考は向かう。心身の一致が、言葉と行動の一致が、人生の秘訣だと言われる。しかし、私は、強烈な矛盾、強烈な葛藤、強烈な摩擦を生きる人間に、強く惹かれる。筋が通っているから惹かれるのではなく、筋が通らないまま、そのままの姿で生きる姿に、一貫性を感じる。強烈な矛盾を抱えて生きるという、一貫性だ。矛盾がないから生きるのではなく、矛盾を抱えたまま、そのままの状態で生きていこうとする。そっちのほうが、なんとなく「ほんとうだな」と思う。よっぽど「生きているな」と思う。

 

note.mu

 

わたり文庫『金色の鳥の本』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、石井ゆかり著作『金色の鳥の本』です。こちらの本は、宮城県在住の女性から「わたり文庫に是非!」と寄贈をしていただきました。好きなページをパッと開き、そこに書かれている言葉からヒント(?)を得る、オラクルカードみたいな一冊です。試しに、いま、一回開いてみると・・・「通過」しすぎて疲れたときは立ち止まり、「居つき」すぎて飽きたときは移動してみる。それが、問題の「打開」につながることもめずらしくないようです。と、書かれてありました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※

 

「勇気づけられる」「元気づけられる」のは、
自分が闘っているその闘いについて、だれかに
「その闘いは、闘うべき闘いだ!」
と認められたときではないかと思います。

誰もが、日々、
悩みや苦しみ、不安や孤独などと闘っていますが
その闘いを
「それでいい!」
と認めてもらえることは、なかなか、ないのです。
もし、力強く
「それでいい」と頷いてくれる人がいたら、
それだけで、苦しいはずの闘いが、
喜びや充実へと変わる場合だってあります。

石井ゆかり『金色の鳥の本』【PIE】

 

恥の数だけ、強くなる。

私の名前は坂爪圭吾。昔、姓名判断的なもので「あなたは死ぬまで孤独だ」と言われたことがある。それを聞いたとき、私は「かっこいい!」と思った。大変そうだが、かっこいい。言葉の持つ威力は大きい。聖書にも「はじめに言葉があった」とある。私が孤独を脱出したいときは、おそらく、改名をすればいいのだと思う。しかし、まだ、私は坂爪圭吾を生きてみたい。自分の孤独が、自分の矛盾が、自分をどこまで連れて行ってくれるのか、見てみたい。前に『Lonliness is Mine』という曲を作った。孤独を通じて、私は、私に出会う。孤独を通じて、私は、あなたに出会う。孤独の中に太陽があり、孤独の中にみんながいる。そんな感じの曲になる。

 

note.mu

 

その次に作った曲が『オニキス』だった。歌詞も、曲も、音程も、なにもかもが納得いかない仕上がり(これを『仕上がり』とは呼ばない)になったが、聞き直したら「意外と良い曲だな」と思った。荒削りだけど、荒削りな存在が、自分なのだと思った。醜いなあ、ダメだなあ、情けないなあと感じたあとに、それをそのまま引っ込めるのではなく、醜いものを、醜いまま、そのままの姿で、打ち出していく。「俺は、いま、こんなにも、こうなんだよ」と、未熟な自分を、さらけ出していく。不思議なもので、どのような曲であっても、公開した瞬間は、一種の清々しさを感じる。表現は、よく、排泄行為に例えられる。入れて、出す。その循環だ。出したあとはスッキリするが、生きている限り、再び蓄積するものがある。そして、また、新しい音楽が生まれる。見る人が見たら目をそむけたくなるものも、ある人にとっては養分になる。それは、花が、二酸化炭素を吸って酸素を排出していることと、似ている。私たちは、花が、排泄をしたものによって生命を維持している。

 

note.mu

 

数日前、こんなメモを書いた。自分を生きるということは、誤解をされるということだ。俺も、しっかり誤解されて、しっかり嫌われて、しっかり迫害されて、しっかり追い出されようとしているよ。近隣から。社会から。世間とか呼ばれるものから。新しいことをやるって、つまり、そういうことだろう。奴らも、俺たちが主流になった途端に、おれもこっちがいいと思ってたんだ、とか、言うんだ。そういう奴らが作ってるのが、世の中なんだ。人間は弱い。どうしたって、多数になびきたくなる。たとえ、それが正しさとは違うものであっても、彼らにとっては多数であることが正義になるんだ。だからこそ、おれは、若い人たちに言いたい。世の中の正義に従うのではなく、自分の正義に従ってほしい。自分が正義になるくらいの気骨をもって、バカにされても、迫害されても、お前なんかいなくなればいいと言われても、負けないでほしい。そういう人間が、必要なんだと思う。自分が感じる正義の中に、自分が感じる愛があるならば、諦めちゃダメだ。投げ出しちゃダメだ。その過程で、誰かに、なにかを、押し付けてしまうこともあるだろう。これは、仕方のないことだと思う。少なくとも、衝突をさけて、自分を引っ込める日々を送るよりも、熱くぶつかり合って生じる火花に身を焦がしたほうが、死ぬ瞬間、おれは生きた、と、言えるのだろう。と。これまでがこれからを決めるのではなく、これからがこれまでを決めるのだ。あとになってから、わかることがある。できることは、いま、生きることだ。説明のできない未来へ、一歩、歩みを進めることだ。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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世界は一つだけの花。

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横浜駅前のドトールにいる。今週末は横浜で、来週末は千葉でイベントがある。是非、来てネ。今、熱海の家が差し押さえられそうな感じで人生が逼迫してきたが、神社に行くと「澄み渡るなあ」と清廉になる。神頼みでもしなきゃやってられんぞ、みたいな思いで神社に行っても、境内に入ると「ありがとうございます」以外の言葉が出てこない。病気になると「体さえ健康ならば」と思うが、人間の欲望はキリがなく、次はお金が、とか、次は家が、とか、なる。神社にいくと「生きてるだけでいい。それ以外はおまけだよ」みたいな感覚になり、澄み渡るのだろう。

 

 

おおまかなスケジュール

5月24日以降、FREE【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月26日 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
6月2日 EVENT 音楽×トーク@千葉県千葉市「N-HOTEL

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

俺は神様にグッドデザイン賞をあげたい。

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伊豆山神社


新横浜は人間が多い。熱海では人間よりも猫や猿や草と話す。可愛い女子を見ると「頼みもしないのに可愛くしてくれるからすごいな」と思う。女は勝手に綺麗になり、街は勝手に綺麗になる。たとえ(というか『もう一回』)ホームレスになっても、俺は、勝手に綺麗になるドトールなり駅前の公衆便所などを使える。日本にいる限り飢え死にすることはない。パン屋さんでパンの耳をもらう度胸があれば、大概の問題は解決する。大概の問題は解決するというのは嘘で、正確には「問題を、問題と思わないふてぶてしさ」を得る。人生は、意外とどうにかなる。それを実感するためにも、多少の苦しみは人間を鍛える。艱難辛苦が、人間的な成長を促す。

 

金に行き詰まるたびに「猫も猿も草も税金なんか払ってねえんだよな」と思う。所詮、人間が決めたルールだ。私は、神のルールに従いたい。そんなことを言っても「お前はバカか」とあしらわれるだけであり、事実、自分はバカだと思う。野良猫から生きる逞しさを学び、コンクリートを突き破る雑草から生きる逞しさを学ぶ。なにかこう、視点が弱者だ。ヒエラルキーの底辺に、共感を覚えるのだ。某有名人が、麻薬所持の疑いで逮捕された。世間は批難の『嵐』(あ、これはちょっと某グループに関係性があるぞ)である。なぜ、直接迷惑を被ったわけでもない人間が、第三者の失態にこれほど口を挟むのだろう。どれだけ、日々、鬱憤がたまっているのだろう。悪事を働いた人間は、勝手に法が裁く。ほっといても、良心(神)が裁く。これ以上、他者が裁く必要はない。他人の粗探しをする人間に、言いたいことがある。お前らは、ひとのことを言えるほど正しいのか。過去に、間違えたことはないのか。罪をおかしたことはないのか。弱者の側に立ったことはないのか。と。

 

俺は神様にグッドデザイン賞をあげたい。本当に、よくぞ、こんな世界を作ったものだ。朝があり夜がある。男があり女がある。闇があり光がある。天があり地がある。バランス感覚が凄い。無数の命が、陸上に、海中にある。もうダメだと思った時、どん底の時に救いの手が差し伸べられたり、有頂天になっていた翌日に最悪の事態に見舞われたりする。最強のストーリーテラーだ。地球は丸い。完全に丸い。星の軌道は正確で、互いにぶつかり合うこともない。最強の設計士だ。神は万物の創造主だと言う。となれば、自然を作ったように、神は自分を作ったことになる。となれば、仮に、自分が「自分はダメな人間だ」と思う瞬間があったとしても、神の意図は、自分の想像をはるかに凌駕する形で「存在の意味」を与えている。そう思うことで、私は、自分に「もしかしたらものすごい存在意義があるのかもしれない」と、思い込む。私自身は不完全だけれど、生みの親は、最強で、最高なのだ。

 

note.mu

 

わたり文庫『魂のことば』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、フジ子・ヘミング著作『魂のことば』です。こちらの本は、佐賀県在住の方から「わたり文庫に是非!」と、寄贈をしていただきました。私は、フジ子・ヘミングが大好きです。なぜならば、砂糖水を飲みながら飢えを凌ぎ、艱難辛苦の時期を乗り越えたタフさを持っているからです。どんなに教養があって立派な人でも、心に傷がない人には魅力がない。他人の痛みというものがわからないから。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、和歌山県にわたりました ※※※

 

明日はもっとよくしようって毎日思っている。時々ガックリする出来事もあるけど、毎日そう思っていると、本当に明日や明後日がよくなるって信じているの。

 

死にものぐるいになったら、なんでもできる。そのかわり一生懸命にならないと、実現できないわよ。情熱の一部なんかでは絶対にできない、ということを肝に銘じるべきだわ。 

 

死ぬ人は、その人が死ななければ贈れない最善の贈り物を後の人に残していく。それを受け取った人は不思議な力を受け、新しい生涯が始まる。母の死は、そんなことを教えてくれたわ。

 

ピアノを捨てて、平穏無事な人生を選んだなら、こんなに苦しまずにすんだかもしれない。しかし、私はあえてこの人生を選んでいた。苦しかったことは、時が流れれば黄金色になるわよ。

 

振り返ってみると、一人ぼっちになってみなければ、わからないことがたくさんあった。

フジ子・ヘミング『魂のことば』【清流出版】

 

世界は一つだけの花。

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音楽活動をはじめると豪語してから三ヶ月が過ぎた。昨日、ギタリストでありバンドリーダーの竹谷さんが、横浜入りを果たした。ベースの保科さんと三人で合宿生活に入る。我々、全員、オーバー30(歳)。普通なら、夢を諦めて就職とか実家の後継などを考える年頃に、我々は、バンドを結成した。周囲から「いい歳こいて」としっかり嘲笑されながら、我々は「いまに見てろよ」と、鼻の穴を膨らませている。現在のクオリティはひどいものだが、売れない時期を体験できるのも、劣悪な時期を体験できるのも、いまだけの話だ。やがて、我々は、売れっ子になる。まともに街を歩けなくなる。故に、まともに街を歩ける現在が、すでに懐かしい。

 

言葉を綴ること、音楽を作ることは、タネを撒くことと似ている。そのタネは、すぐに花が開くとは限らない。腐って終わるタネもあるだろう。しかし、適切な時期が訪れたら、撒かれたタネが、人々の心に花を咲かせる。そういうタネを撒きながら生きることができたなら、たったひとりだけでもいい、誰かの心に残るタネを撒けたら、ああ、素敵だなと思う。というのは完全なる綺麗事で、自分は、タネではなく『時限爆弾』を撒いているような気がする。すぐに爆発する爆弾もあれば、不発弾として人々の記憶に残り続け、ある日、ある時、なにかに触れた瞬間にドカン!と爆発をする。銃弾の種類のひとつにホローポイントと呼ばれるものがある。通常、弾丸は、人間の肉体を貫通する。しかし、ホローポイントは、人間の肉体を貫通することなく、人間の内部にとどまる。そして、最終的に、爆発する。はなびらが開くように、銃弾が、人間の内部で爆発するのだ。殺傷能力は高く、比較的エグいのだけれど、私が撒いているタネはホローポイント寄りの花である気がする。

 

自分というドキュメンタリー番組を、みなさまにお楽しみいただきたいと思う。音楽で成り上がると豪語した人間が、果たして、どこまで行けるのかを見届けていただけたら、うれしいと思う。そして、できることならば、一緒に前を向いて生きていきたいと思う。それは、綺麗事に聞こえるかもしれないけれど、でも、やはり、お互いに刺激し合いながら、高め合いながら生きていけたほうが、死ぬまでテレビを見ながら生きるより、死ぬまで誰かの文句を言いながら生きるより、楽しいことだと思うのだ。楽ではないけど、楽しい道。せっかく生まれたのだから、周囲から「そんなのは無理だ」と言われることに、挑戦したほうがやりがいもあるように思う。楽ではないけど、楽しい道。生きて、生きて、生き切ったあとにかえり見たとき、すべてが黄金色に輝いている、青春の道。その道を、歩いていきたいと思う。 

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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