いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

ギリギリ怒られよう。

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福岡県久留米市のジョイフルにいる。福岡ドーム(前)ライブも無事に終了した。無事に、などと書いたが、開始5分後に警備員の男性から「許可はとってますか?」と問われ、しっかり怒られる形で終焉した。怒られた、などと書いたが「コミュニケーションを取った」と言い換えたい。我々は、警備員の方とコミュニケーションをとることに成功した。別に、一曲だけやれたらそれだけでよかった。既成事実さえ残れば、もう、別にいいのだ。その後、我々は近隣の百道浜に避難した。

 

 

おおまかなスケジュール

6月17日以降、死ぬまでFREE!【イベントに出たい!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

ここにいてよかった。

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俺は醜いが、自然は美しい。

 

百道浜は最高だった。私は、ライブハウスが苦手だ。息苦しい。狭い。パッとしない。端的に「屋外の方がいいだろ」と思う。爆音が気持ちいいひともいるのかもしれない。が、私は、耳がキンキンするのが苦手だ。うるさい、と、思う。もっと言えば楽器屋も苦手だ。ロック好きな店員さんが、ああだのこうだの、聞いてもいないことを上から目線でやんややんや言う。私は、へそ曲がりな人間だから「反権力としてのロックを愛したお前が、楽器屋で権力を振りかざしてどうする」などと思う。が、この前、渋谷で出会った楽器屋さんの店員さんは最高に素敵だった。考えを改めたいと思う。偏見はよくない。いい人も悪い人もいる。どの業界も同じだ。

 

最近、孤独について考える。私は、頻繁に孤独になる。そのときに「あなたは、みんなからこれだけ愛されているのだよ!」と、励まされたりする。それを聞いても、全然、元気にならない。北野武さんを思う。多分、彼は、孤独だ。だって、誰もが「あの、たけしさん!」みたいな感じで付き合うから。北野武は、北野武であるという点において、多くの人々から愛されている。しかし、一匹の人間として、どれだけ彼と付き合っている人間がいるのかは、謎だ。有名になるほど、人間離れをする(してしまう)。みんなから愛されるむなしさは、そこにある。イメージで愛されることと、実態を愛されることの乖離。否、別に、有名無名は問わないのだと思う。損得勘定を越えて、イメージの乖離を吹っ飛ばして、一緒に遊べる(対等の人間として付き合える)人間がいることは、幸福だ。そして、私は、幸福だ。なぜなら、Agape(我々のバンド)メンバーは、そういう点において一致している。

 

私は、音楽をやりたいというより「この人たちといるために」音楽をやっているのかもしれない。そんな風に思うことがある。昨日、福岡のライブを主催してくださった女性が、最高な言葉を残してくれた。それは、こんな言葉だった。生きていると、なんでここにいるんだろうって思うこと、ありませんか???あたしは、あります。でも、今日、海をバックに演奏する坂爪さんや保科さんを見ながら「ここにいてよかった」って思いました。波の音と、空の青と、音楽と、言葉と、なんだかそれらが一体になったような感じがして、ここにいてよかったなあって思ったら、実は、最後の曲でちょっと泣きそうになっていた。と。最高な言葉だと思った。ここにいてよかった。そう思える瞬間には、これまでのすべてを肯定する力がある。

 

note.mu

 

わたり文庫『不良牧師!』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、アーサー・ホーランド著作『不良牧師!』です。アーサーさんにはまだお会いしたことはないのですが、以前、札幌でアーサーさんを愛する方々と立て続けにお会いしたことがあります。アーサーさんを愛する彼らは、一様に、素晴らしい人柄の持ち主でした。宗教でもなんでも、既存のコミュニティに対して、外部の人間は『不信感』であったり『疎外感』を感じるものだと思う。が、札幌の人々には、そういう雰囲気がまったくなかった。気持ちが、常に、外側に流れていた。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

大切なのは、自分は勇敢に戦い、道を走り抜き、信仰を持って人を温かい気持ちにさせるためにやり抜いたかどうかということだ。人にどんなに外面的に素晴らしいと評価されても、まったく意味がない。人を温かい気持ちにさせたという思いが、自分のハートの中に残らなければ、それは偽善だ。しかし、その部分ではなかなか人は理解されない。人は外側でしか評価しないからだ。

でも、歴史や人を変えていった人たちの中には、外面ではなく人のハートを温めてきた人たちがいるのだ。そういう人たちは目立たない。いや、目立たなくていい。新約聖書に出てくるバプテマスのヨハネは、神とこの世の橋渡し役だが、街中で語らず荒野で語った。だから、俺もそれでいいのだと思っている。人にジーザスの余韻を残すことができればいい。俺のキャラクターを出しながらやっていけばいいのだといつも思っている。

「人と関わる」ということは、すごくエネルギーがいることだ。疲れるし、人と関わることによって、かえってややこしくなることもある。また、なにか物事をスタートさせるというのも同じである。例えば、あの「ミッション・バラバ」にしても、スタートさせ、それを続けるには相当なエネルギーが必要だ。それに、誤解されたりもする。また、妬まれ、批判されることもある。ちょうどジーザスがそうであったように・・・。

では、最終的にどこで安らぎを得るのか。それは、九十九人がいろいろなことを言って批判しても、たったひとりが理解してくれればいいのだ。九十九人に嫌われても、ひとりの人から愛情が流れれば、人間は癒されるものなのである。

アーサー・ホーランド『不良牧師!』【文春文庫】

 

ギリギリ怒られよう。

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福岡ドーム(前)ライブ

 

予定調和が嫌いだ。ライブなどでも、あらかじめアンコールをされることが前提の上で曲順が決められていることを、不潔だと思う。だから、私は、アンコールは受け付けない主義で行きたいと思っていた。が、思っていたはずなのに、実際にアンコールをされると弱い。「人生にアンコールはないんだよ」とか言いながら、演ってしまう。今回、片道切符で九州に来たため、帰国便も宿泊先もアテがない。そういう話をすると「片道切符なんてすごいですね!勇気がありますね!」などと言われる。その時、私は「人生は片道切符なんだよ」とか、言う。一旦、悪態(?)をつかないと収まらない。そういう部分が、自分にはある。が、時折、悪態のつきようがない出来事に出会う。それを、私は『感動』と呼ぶ。真の感動は、悪態の余地を与えない。ただただ「参りました」と頭をさげる。お前はすごい。完敗です。

 

昨日、百道浜のビッグバナナで焼きそばを食べていたら、19歳の男性「りゅうちゃん」が突然登場した。彼とは、彼が16歳の時に博多で出会った。クラシックピアノの英才教育を受けた彼は、演奏技術も素晴らしく、周囲から「君はきっと史上最強のピアニストになる」と言われ続けて育った。が、実は、彼はX JAPANが好きなのだ。激しいロックが好きなのだ。ゆえに、周囲からのプレッシャーに嫌気がさした彼は、高校を退学してヒッチハイク放浪の旅に出た。そんな影響を、私は、彼に与えた(みたいな書き方は傲慢で嫌だね)。現在、彼は(ピアノを続けながら)生き方を模索する時期を過ごしている。数年ぶりの再会だったが、彼は、いい男になっていた。敷かれたレールの上を歩くだけでは、鍛えられることのない筋力を鍛えている。そんな印象を受けた。要するに「すげーかっこよくなっていた」のだ。

 

りゅうちゃんが自己紹介をする。自分は高校を退学して、現在は生き方を模索している。最近は本ばかり読んでいたが、ひとと会いたいと思う、こうして外に出るようにしている。明後日には片道切符でフィリピンに飛び、海上民族に会ってくる予定です。と。すると、その場にいた別の参加者が「あたしも中卒だよ!15の夜に家出をしたよ!」とか「俺も!俺も!」とか言って、中卒同盟が結成された。りゅうちゃんも「えっ」とか言いながら、はにかんだ笑みを浮かべている。なんだか、すごい、いい風が吹いた。人生、意外とどうにかなるんだよ。そのことを、言葉を通り越して、生き様で具現化している人間がいる。そのことは、希望だ。人と出会うことのなかには、希望の種が隠れている。それは「こんな生き方もできるんだよ」という、希望だ。希望を示す過程で、俄然、周囲から怒られる日々は続く。怒られないためにどうすればいいか。それだけを考えていると、生き方が狭くなり、毎日が窮屈になる。だから「ギリギリ怒られよう」と、私は提案をしたい。怒られた時は、謝ればいいのだ。怒られながら、強く、美しく、逞しくなればいいのだ。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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LINE ID ibaya

誰かに好かれようと思うな。

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大分駅前にあるカラオケにいる。突然ですがAgape(我々のバンド名)名義でドームツアーを敢行することになりました。日本の五大ドームツアーです。第1弾は6月16日(日)朝10時から、福岡ドーム前で開催することになりました。是非、遊びに来てください。ドームの中ではあらゆる意味で実行不可能なので、ドームの前で演ります。だから、正確には「福岡ドーム前でライブをやる」ということになる。仮に、日本の五大ドーム前でライブをやったら、俺は「日本の五大ドーム(前)でライブをやったよ」と言える。嘘じゃない。これを言いたいがために、やる。

 

 

おおまかなスケジュール

6月15日 博多と言えばうどん派です@福岡県福岡市【暇です】

6月16日 10時 福岡ドーム前ライブ@福岡県福岡市「福岡ドーム」
6月17日以降、FREE!【呼ばれたら何処にでも行きます!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

夏の朝にドーム(前)ツアーを。

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別府湾


あまりにも急にドームツアーが決定したので、ギターの竹谷さん(現在地新潟)とベースの保科さん(現在地横浜)に「16日福岡ドームでやるから、来て!」とLINEをした。彼らは、いま、必死になって福岡までの交通手段を考えている。果たして、誰かひとりでも来れるのだろうか。私一人の開催になるのだろうか。お客さんは来るのだろうか。誰も来ないかもしれない。が、愚かなイベントには愚かなひとが来てくれるはずだ。神に、祈ろう。我々はアガペーなのだから。私は、愚かなひとと友達になりたい。愚かなことを「愚かだね!」と一緒に笑える時間は、尊い

 

最近思う。現代社会は「稼ぐ」「集める」「溜め込む」ことが美徳になっているのか、どれだけ集めるかの勝負をしているように見える。収入が多い人間が勝ち。貯蓄が多い人間が勝ち。所有財産が多い人間が勝ち。など。しかし、実は、人間は「あげたい」生き物なんじゃないだろうか。溜め込むだけでは、絶対に満たされない何かがある。命も、時間も、金も、同じだ。大事なことは「使い方」であり、ただ、もっているだけでは苦しみになったり、重荷になったりもする。例えば、年間これだけの収入があれば安全とされる謎の指標がある。が、事実、この指標をクリアしている人間が幸福なのかと言えば、謎だ。どれだけ集めても、必ず「足りない」という不安はつきまとう。だから、また、さらに貯め込もうとする。が、溜め込むだけでは、絶対に満たされないなにかがある。この、絶対に満たされない部分を、満たすことができる行為が「あげる」「与える」「開放する」ことだと思う。

 

誤解を恐れながら言うと、いま、あまりにも疲れている人間が多い。満員電車は地獄である。日本は豊かになったと言われている。事実、蛇口をひねれば水が出るし、社会保障もそれなりに整い、餓死をするリスクは皆無に近い。では、なぜ、それでも人間が疲れているのかと言えば、それは「交換の原理」に疲れれいるのだと思う。稼ぐ、集める、溜め込む、これらの行為が美徳とされる世界では、どれだけもっているかが人間の価値になる。すると、大概、ひとは手放す行為にマイナスの感情を覚えるので、減らさないように、減らさないように、生きる。等価交換が基本になると、すべてが「損得勘定の商取引」みたいになる。それが悪いとは言わないが、行き過ぎると殺伐とする。誰だって、こんな風に感じたことがあると思う。俺は、いったい、いつまでこんな生き方を続ければいいのだろうか。と。終わりなき疲労感。永遠の徒労感。そんな時こそ、自然界を見てみよう。春の沈丁花、夏の向日葵、秋の金木犀、すべては無償で芳香を放つ。季節は巡る。自然を通じて、我々は四季を感じる。そこに喜びを覚える理由は「循環を感じる」からだと思う。自然界は、交換の原理で回らない。循環の原理で回っている。だから、我々は、自然に触れた時に励ましや慰め、根源的な安らぎを覚えることができるのだと思う。

note.mu

 

わたり文庫『美の世界旅行』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、岡本太郎著作『美の世界旅行』です。素晴らしい一冊。私は、これを読んで「いますぐメキシコとスペインに行きたい!」と思いました。最近、散歩中に、岡本太郎さんの音声を聴きながら街を歩くことが趣味です。岡本太郎さんの声は、もう、傷つきながらも純粋であることをやめなかった(やめることができなかった)、果敢に挑み続けた人間に宿る『凄味』のようなものが凝縮された、すごいいい声だな、と思いました。不思議と、聞いているだけで激励される効果がある。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大分県にわたりました ※※※

 

直感だが、人間の本性には定着に向くタイプと、そうでないのと、二通りあるのではないか。遊牧という、この誇り高い独自の文化を考えると、その根底に定着を拒否する、挑みの精神があるのだと思えてならない。

私自身、挑みなしに真の存在というものは無いと考える人間だ。今日の文明社会の、何かおさまりきって計算高い、安定、バランスが第一というようなモラルに、何ともいえぬ空しさを感じる。つまりは農耕民の定着、忍耐、勤勉。後生大事に貯めこんだ富の蓄積。それを土台にして進歩と称し管理能力だけを発達させた、市民社会の体制のいやらしさである。

岡本太郎『美の世界旅行』【新潮文庫

 

誰かに好かれようと思うな。

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田ノ浦ビーチ

 

さかつめさんはモテるからいいですね、などと言われる。褒めているつもりか、バカにするな、と思う。一体、モテることのどこがいいのかわからない。モテることなんて、ある程度のテクニックを習得すればいくらでもモテる。でも、それでは、虚しいままじゃないか。モテることと「愛し愛されること」は完全に別物だ。テクニックには、必ず、化けの皮が剥げる瞬間が訪れる。その時、問われるものが『真価』だと思う。テクニックで愛されても、虚しいだけじゃないか。世の中には、優しいひとと、優しそうなひとの二種類がいると思う。前者は大好きだが、後者は大嫌いだ。表面的には優しいひとも、言葉の裏にある「自分が好かれたいだけ」「自分をよく見せたいだけ」という魂胆が透けて見える。要するに嘘つきであり、詐欺師なのだ。騙されてたまるかと思う。そして、なにより、本人自身から「優しく振舞う自分自身に、自分がひどく傷つけられている」という悲哀を感じる。

 

先日、大阪でライブが開催された時に、埼玉から新幹線で来てくれた女性がいた。彼女は話す。自分は埼玉在住だから、別に大阪まで行かなくても、また関東でなにかあるときにいけばいいと思い、最初は自分の欲求を引っ込めた。でも、違うと思った。また別の機会にすればいいのだと、自分の願いを先延ばしにすることはやめようと思った。明日死ぬかもしれないし、今日やらなければ、二度とやれない体になるかもしれない。そう思って、今日、大阪まで来ました。と。 行動に裏打ちされた言葉には、重みがある。素晴らしい言葉だと思った。イベント終了後、彼女から連絡をもらった。そこには「今日は大阪まで行って本当によかった。あれ以来、素直に望むことができるようになりました」と書かれていた。素直に望むことができるようになる。これだ。これなんだ。自分の願いや祈りや欲求を、自分が、打ち消してしまったらそれはあまりにも悲しい。自分がやりたいと思うことを、自分にやらせてあげること。それは、決して「わがまま」「自分勝手」「自己中心的」と非難される行為ではなく、自分に対する失われた信頼を取り戻すための、ひいては人類全体に対する信頼を取り戻すために、必要にして、崇高な行為なのだと思う。

 

溌剌とした優しさは心地よいが、悲しい優しさを見るのは心苦しい。優しいひとほど、自分より他人を優先するひとほど、その優しさによって「自分自身を傷つけている」印象を覚える。優しさが、苦しいのだ。自分が我慢をすることで保たれる平和なら、そんな平和は偽物だと思う。あなたが思う平和の中に、あなたも仲間にいれてくれ。あなたを抜きにして成り立つ平和など、そんなものは嘘っぱちじゃないか。そう思う。良好な人間関係とは、ただ、自分が幸せでいることが「同時に、周囲の人間も幸せにする」関係だと思う。自分が役に立つからそこにいてもいいのではなく、なにかできることがあるからそこにいることが許されているものでも、ない。ただ、自分が幸せに生きていること。そのことをよろこんでくれるひとと同じ時間を過ごすとき、幸福は軽やかに伝播する。そこに、何も、犠牲はない。純粋なよろこびのために生はあるのであり、我々は、自分の正当性を主張するために、なにかを成し遂げるために、誰かに認められるために生きているのではないと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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LINE ID ibaya

この空があれば大丈夫だ。

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愛媛県松山市ドトールにいる。これから八幡浜港に向かい、フェリーで別府に行く。能動的な流刑だ。別府の温泉は多分日本で一番安い。無料温泉も豊富だし、かの有名な竹瓦温泉も百円だ。百円で買える幸せは、他になにがあるだろう。中古本、百円。映画のレンタル、百円。誰かに贈るためのガーベラ、百円。登山後に飲むコーラ、百円。他にも「こんなのどうですか?」などあったら教えてください。

 

 

おおまかなスケジュール

6月13日 19時頃 トーク×音楽@大分県別府市「田ノ浦ビーチ」
6月14日&15日 死に支度いたせいたせと大分かな?福岡かな?

6月16日 10時 福岡ドーム前ライブ@福岡県福岡市「福岡ドーム」
6月17日以降、FREE!【呼ばれたら何処にでも行きます!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

自由になる前に恐怖がある。 

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行雲流水。好きな言葉だ。希望は朝が似合う。夜には、少し重い。私は、自分を浮き沈みの激しい人間だと思っていた。しかし、正確には「裏表を見ているだけ」だと思った。たとえば、私は、上手に社会に馴染めない。調子がいいときは「こうあるべきの外側を見せてやるぜ!」と鼻息を荒くするが、夜、夕日と共に希望も沈下したときに「俺みたいな人間は、いない方がいいんじゃないだろうか」などと思う。仮に、私が、世直しを志したとする。しかし、自分は少数派で、誰もそんなことを求めていないのだとしたら、私がやろうとしていることは『余計なお世話』に過ぎない。それならば、世直しを目指すより、手っ取り早く消え去った方が早い。

 

しかし、私は生きている。生きている限り、絶望をすることもあるが、感動をすることもある。感動をすると「まだまだ、人生は捨てたもんじゃない」と思う。そして、同時に感じる。感動をしているだけじゃダメだ。感動をしたということは、その瞬間、自分に『責任』が発生をしたのだ。それは、自分が感動したものを、自分の生き様に宿らせるという責任だ。そうでなければ、真の意味で感動したとは言えない。誰かの生き様に心が震えたなら、自分もまた、同じように「真の意味で生きる」ことを目指すこと。それが筋だ。それは、誰かみたいになりたいと思うことではない。自分は自分。他人は他人。しかし、同じ人物にならずとも「同じ志を抱く」ことならば、できる。あらゆる偉人は、全員、志半ばでこの世を去る。それは、無駄なことではない。それは「乗り越えるものをまっている」ものだと思う。

 

感動は、引き継ぐと言うより『乗り越える』ものだ。自分が何かに感動をする。生きる実感を覚える。油断をすると、対象を崇拝したり、対象を布教するための生涯を過ごしそうになる。しかし、それは違う。なにかに感動を覚えるのは、その要素が、既に「自分の中にある」からだ。偉人も、凡人も、同じ人間だ。誰かを尊敬し過ぎることは、相手を人間以外のもの(悪魔か、神様)に変える。違う。我々は、同じ人間だ。何かに感動する。その感動を乗り越える。そのための挑みは、苛烈を極めるかもしれない。しかし、それが、命の役割だと思う。誰かに認められるとか、金になるとか、有利だからとか、安定のためなどといった、損得勘定を越える。それは、危険な道かもしれない。しかし、危険を生きることに充実を見る。そこで気付く。こんなにも生きたがっていた『命』の存在を知る。虚無感、空虚感、閉塞感、停滞感、絶望感、倦怠感、劣等感、それらを乗り越えるものは「危険に賭ける」ことなのだと、血を流しながら、涙を流しながら、思い知ることがある。

 

note.mu

 

わたり文庫『かもめのジョナサン

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、リチャード・バック著作『かもめのジョナサン』です。この本にある「正しい掟というのは、自由へ導いてくれるものだけなのだ」という言葉は、世間的にどのように受け止められるのだろうか。そんな言葉は戯言だ、絵空事に過ぎないと一蹴されるものだろうか。それとも、迫害を受けても、それを貫徹するために「命を投げ打ってでも」挑み続けたいと思えるものに、成り得るのだろうか。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、福岡県にわたりました ※※※

 

ほとんどのカモメは、飛ぶという行為をしごく簡単に考えていて、それ以上のことをあえて学ぼうなどとは思わないものである。つまり、どうやって岸から食物のあるところまでたどりつき、さらにまた岸へもどってくるか、それさえ判れば充分なのだ。すべてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変わりなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることよりも飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった。

リチャード・バックかもめのジョナサン』【新潮文庫

 

この空があれば大丈夫だ。

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今、松山から八幡浜行きの電車に乗った。快晴。流れる景色が心地よい。柔らかな旅風情だ。四国にしかない空、四国にしかない夕日、四国にしかない穏やかさを感じる。瀬戸内の影響だろうか。我が祖国新潟の冬の曇天はエグく、環境が与える影響を思う。冬、あれだけ曇る環境で育つことは、虐待を受けて育つことや、悲しみに暮れた人間とワンルームで暮らすことと似ている。誰だって、ダメ出しされ続ける日々を過ごしたら気分も滅入るだろう。が、悲哀の中で育まれる「何か」もある。文学(優しさ)などが代表だ。哀しみから歓びを引き出し、歓びから哀しみを引き出す。思えば、生きててもいいと思える理由をかき集めるような日々だった。悲哀の中にいる者ほど、激しい理由を求める。ちょっとやそっとの理由では、生きる方向に舵が向かない。だからこそ、獲得した「これは!」と思えるものたちは、深く、胸を震わせる。

 

穏やかな景色が続く。木々の緑、空の青、雲の白が素晴らしく、この国に年間三万人の自殺者がいて、百万人を越える鬱病患者がいることが嘘のように思えてくる。社会不適合者という言葉もあるが、適合することが善なのか、適合したら自殺や鬱病患者になるリスクが高まるだけなんじゃないのか、など、余計なことを考える。自然が嫌いな人間はいない。誰だって、夕日を見たら美しいと思うだろう。しかし、日没時に夕日を眺めている人間は圧倒的に少数で、大概は屋内でテレビを見ているか家事や仕事や勉強をしている。多くの人々が長期連休に自然の中で「癒される」などと言いながら、普段は都会に住み、マンション建設のためにガンガン自然は破壊される。自分が大事だと思うことと、社会が大事だと言うことと、どちらを優先させるのが良いのだろうか。松山市内を歩いていたら、中学生の声で「夢は見るものではなく、叶えるものだと思います」というアナウンスが流れていた。それを聞いて、ああ、言わされているなあと思った。誰かに言わされている言葉。それを排除したとき、どれだけの言葉が残るのだろうか。

 

人間の機械化が進む。学校は優等生製造工場みたいで、社会は平均的人間製造工場みたいだ。機械的であることが好まれ、人間味を出すことは「ふざけている」「生産的ではない」「余計なこと」になる。誰もが、似たような言葉を話し、似たような振る舞いをする。そんな中、ああ、このひとは人間のままでいてくれたと思えるひとを見ると、うれしくなる。それは、街中で野良猫に遭遇した瞬間の感慨に似ている。あ、ここに、生きているものを発見した!という感動。自分は、人間が嫌いで、人間が好きなのだと思う。そして、人間でありたいと思う。人間を好きになりたいと思う。窓の外を見る。青い空に、白い、大きな雲が流れている。眺めていると、自分の中にある想念、喜、怒、哀、楽、夢、愛、憎、烈、苦、すべて、吸い込まれていく感覚になる。この空があれば大丈夫だ。そんな感覚になる。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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LINE ID ibaya

捨てたところにも、人生はある。

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阪急梅田駅近くのサンマルクカフェにいる。数日前「地上の苦しみなど、ひとときの夢みたいなものだ」というフレーズを本で見た。良い言葉だ。まさにその通りだ。もうひとつ。俺と一緒にいることは、人生を捨てるみたいなものだと女との関係を断ち切ろうとする男に、女が「捨てたところにも、人生はあるのだと思います」と真剣な表情で喰らい付いた。格好いい。こういう関係性に憧れる。男気という言葉があるなら、女気という言葉もある。最近、真の『女気』について考える。

 

 

おおまかなスケジュール

6月11日 死に支度、いたせいたせと、愛媛かな【愛媛県今治市
6月12日以降、FREE!【呼ばれたら何処にでも行きます!】
6月13日 19時頃 トーク×音楽@大分県別府市「田ノ浦ビーチ」
6月14日以降、FREE!【呼ばれたら何処にでも行きます!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

「本当のいってらっしゃい」を聞きたい。

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大阪ありがとうございました!

 

婚活をはじめたいと思う。現在34歳。これまで「結婚なんてしてもしなくてもどっちでもいい」と思っていた。が、やはり、ひとりはさみしい。結婚をしたいというよりも「家に帰ったら誰かがいる」という生活に興味がある。基本、私は、常にひとりだ。なにをするのも一人。街中でさみしさにまみれて「誰かに会いたいけど、それが『誰』かわからない」とか「どこかに行きたいけど、それが『どこ』かわからない」などと悶絶することも三日に一回くらいある。居場所がない。居場所がないことがデフォルトになってしまった。しかし、デフォルトを変えることもできる。はず。だ。多分。きっと。できるかもしれない(できないかもしれない)。

 

理想の女性を考えてみよう。先日、大阪でイベントが開催された。そこで「理想の女性のタイプはありますか?」と聞かれた。私は、なかなか伝わらないだろうなと思いながら「私は、本当のいってらっしゃいを言える女性が好きです」と言った。本当のいってらっしゃいを言ってもらえると、俺も、本当のただいまを言うことができるのです。と。これが、非常に驚いたことにウケた。みんな、よくこんな抽象的な表現をキャッチできるなと感動した。私は男で、基本、出発をしたい生き物だ。だが、自分が出発をすることで「相手に迷惑が」とか「相手を悲しませてしまう」などと躊躇してしまうと、出発が鈍る。結果、自分が死に、人生が詰む。だから、自分は結婚なんて絶対に無理だと思っていた。が、仮に「本当のいってらっしゃい」を言ってくれる女性と出会えたらば、結婚もいけるかもしれないと思った。

 

私には4歳年上の兄がいる。兄は変で、WEBで「結婚相手を募集します」みたいなことを書き、自分の結婚観をひたすら書き綴った。自分は恋愛をしたいのではなく結婚がしたいのだ。とか。こどもの養育費にはこれくらいを考えている。とか。自分は爬虫類が好きで陰気な性格に見られることも多いが実際は優しい方だと思う。とか。そしたら、驚いたことに似た価値観を持った女性が兄の前にあらわれ、出会って数週間後に結婚をした。それが、8年くらい前。彼らは、いまも、仲良くやっている。弟の私は、兄を見ながら「すげえな」と思った。なんでもありだなと思った。結婚でもなんでも「このひと『でも』いいかな」と思う相手ではダメだ。自分の心が「このひと『が』いい」と前のめりに愛せる相手と生きること。それが大事だと思う。頭で考える限り、それは損得勘定である。逆に言えば、出会ったら話は早いのだと思う。来年の今頃、私にはこどもがいるかもしれない。それくらい、人生はなにが起こるかわからないものなのだと考えると、ちょっと、わくわくする。

 

note.mu

 

捨てたところにも、人生はある。

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自分みたいな人間と「結婚をしたい」などと思う女性がいるのだろうか。わからない。わからないが「世界にはいろいろな人間がいる」ことはわかる。ならば、変わった女性もいることを信じる。先日、ある既婚者の女性Y様と話した。Y様の旦那さんは自営業をやっているが、諸事情で自己破産をすることになった。このとき、Y様のハートは、絶望する方向には向かわなかった。逆に「人生、生きていると自己破産を経験することもあるんだなあ」と、なんなら置かれた状況をおもしろがっている自分がいた。と、彼女は話した。こういう女性は素晴らしいなあと思う。私といると、多分、いろいろな問題が勃発する。それがストレスになる女性はかわいそう(そして、自分のせいでかわいそうになる女性を見て自分も猛烈に胸を痛める)だが、それを「一緒に楽しめる」ひととは、仲良くやっていける予感がする。

 

最近では複数恋愛(ポリアモリー)なんて言葉もある。しかし、多分、私は「ひとりの人間と深く付き合いたい」と思うタイプの人間だ。月並みだが、岡本太郎岡本敏子ジョン・レノンオノ・ヨーコの関係性を素敵だと思う。仮に、相手が浮気や不倫をしたとしても「それは俺の魅力が足りなかったからだ」と思うタイプの人間で、相手を責めるよりも自分を責める(自分を向上させる)方向に舵を取る。そもそもで、自分と一緒にいない時間になにをしていたのか問うのはエネルギーの無駄遣いだと思うし、不在時になにをしていたのか気にすることもない。大事なのは「一緒にいる時間になにをやるか」で、一緒にいないときになにをしているのかは、冷たいかもしれないがまったく関心がない。楽しそうに生きていてくれたら、それだけで充分だ。いま、書きながら「本当にそうだなあ」と自分で思った。自分で自分の恋愛観を書くことは、楽しい。今度、どこかにまとめて書きたいと思う。

 

実は、私には夢がある。20代は『言葉』に、30代は『音楽』に身を捧げたい。言葉と音楽の共通点は「目に見えない」ことだ。私は、どうやら目に見えないものに興味がある。料理や家を建てることにも興味はあるが、誰かがやってくれるなら「あなたがやってください。私はそれを食べます(そこに住みます)」などと思って簡単に折れる。だが、自分の気持ちを代弁することは、誰にもできない。だから、私は、自分という人間を言葉や音楽を通じて表現する。そこに生きがいを感じる。私は、代わりがいないことをやりたいのだ。そして、他にも目に見えないものはたくさんある。40代以降、目に見えない最たるものを、自分の手でゼロから築き上げる人生をはじめたいと思う。これは、非常に馬鹿げた夢だから誰にでも話せる類のものではない。もし、理想の結婚相手と出会えたとき、私は、私の夢を語りたいと思う。この夢は「この夢を生きようと思う限り、あなたの人生を捨てることを意味する」みたいな夢になる。が、この話をしたときに「捨てたところにも、人生はあるのだと思います」とニコッと笑える素敵な女性と、一緒に生きていきたいと思う。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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時間なんてない。あるのは記憶だけだ。

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大阪府鶴見緑地近くのコメダ珈琲にいる。こどもを好きな理由がわかった。一般論を言わないからだ。誰かと話しているとき、一般論ほど退屈なものはないものはないと感じる。常識がどうだの、普通はこうするものだの、誰かがこんなことを言っていただの、心の底からどうでもいい。あなたが、あなたであるところの話を聞きたい。一般論に毒されると、自分が消える。誰と話しているのかわからなくなる。

 

 

おおまかなスケジュール
 
6月7日 FREE!@関西全域【宿も予定もございません】
6月8日 FREE!@関西全域【宿も予定もございません】
6月9日 17時 EVENT 音楽×トーク@大阪市北新地「Candy」
6月12日以降、経済的に○な場合、欧州音楽武者修行(仮)
6月12日以降、経済的に×な場合、四国&九州音楽武者修行(仮)

【イベント出演依頼があり次第、どこでも行きます!!】
6月30日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

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記憶と時間。

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新潟の夕日。ミニライブを開催した。


巷では「過去を悔やまず、未来を恐れず、現在を生きよう」みたいな言葉を聞く。いま、ここを生きよう。そういうことなのだと思う。私は、こういう励まし(?)の言葉に、もう、飽きた。過去と現在と未来を、明確に区別できる気がしない。物理学の世界では「時間はない」という学説もある。個人的に、時間はないと言われるほうが、ドキドキする。前提がひっくり返される楽しさを覚える。大概、我々は、三次元の世界を生きていると思っている。三次元に、時間の概念が加わると、四次元になる。しかし、物理学には『超ひも理論』なんて理論もある。この理論だと、我々が生きている世界は11次元(!)ということになる。11次元とか言われても、まったく意味がわからない。意味がわからないと、愉快な気持ちになる。

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家のない生活をしていた頃、様々な人々の家にお世話になった。特定の女性に養ってもらうことが「ひも」ならば、宇宙全体から養ってもらおうとする発想を「超ひも理論2.0」と呼べるのではないか、と、なんとなく閃いてしまった私は『超ひも理論2.0 〜私は地球に愛されている〜』を提唱した。程度の低いギャグだが、これがまた意外にウケた。宇宙は意味がわからない。私は、意味がわからないものが大好きだ。だから、意味のわからない生き方をしたいと思う。織物の一種に『さをり織』というものがある。障害者の就労支援などでも使われる(?)織物の一種で、障害者の方々は、健常者には思いも寄らない奇抜な(それでいて猛烈に美しい)織物を織り上げたりする。一般人には思いも寄らない秩序。表面的には無秩序に見えても、人間の想像を絶する『秩序(芸術)』に触れた時、我々は感動を覚える。

 

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来週から欧州に行く。が、片道切符しかないため、帰ってこれないかもしれない。欧州が無理になった場合、四国&九州音楽武者修行に出る(予定)。欧州でも、日本でも、もしも「坂爪圭吾と語ってみたい!」などと思ってくださる方がいたら、規模は一切問わないのでイベントを企画していただけたら猛烈に嬉しいです。音楽の場数、会話の場数を磨きたい。人と話すことでインスピレーションを得たい。私には、昔から「人間と話したい」という欲求があった。しかし、人間と話しているはずなのに「人間と話している」とは思えない瞬間が、たくさんある。一般論しか語られることのない時間は苦痛だが、なんだか、最近は『人間の機械化』がすごい速度で進んでいる。お利口さんは多い。ロボットみたいなお利口さんは、最悪だ。

 

note.mu

 

時間なんてない。あるのは記憶だけだ。 

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音楽をはじめてから、自分で作詞作曲をするようになった。創作をしながら「ああ、俺は、人類共通の記憶にリーチしたいのだな」と思う(ことが多い)。音楽は時間に乗っている。絵画の場合、その絵を5秒見て立ち去ることもできるし、1時間でも2時間でもずっと見続けていることもできる。しかし、音楽は時間に乗っている。3分間の音楽なら、誰にとっても、聞いていられる時間は3分間になる。この違いが、なんだか興味深い。もし、時間なんてものはないとすれば、あるものは『記憶』だけだ。私は、時折、考える。我々は「時間が流れる」なんて表現を使うが、実は、流れているのは時間ではなく『人間』の方なのではないだろうか。と。時間は常にそこにあって、そこを人間が流れているだけに過ぎないのかもしれない。

 

音楽を聞いてくれたひとが「動画で見るより全然いいですね!やっぱり生ですね!」と感想をくれる。なんとなくわかる。動画にないものがライブにはある。なにが違うのか。私は『振動』だと思う。別に『波動』でも『エネルギー』でも『覇気』でも言葉はなんでもいいのだが、動画にはない、リアルの振動がライブ会場に生まれる。音楽とは、要するに『振動(音の振動)』のことだ。音は、(これは非常に重要なことだと思うのだけれど)物質を通過する。壁を超えるし、人間の皮膚を超える。臓器に直接届く。鐘を鳴らすことで心身のバランスを整える、なんてことは昔から行われてきた。祭りの太鼓も、原始的な本能を目覚めさせる力がある。

 

記憶と時間。興味のあるテーマだ。音楽に限らず、素晴らしい出会いには、世界を変える力がある。誰にでも経験があるだろう。恋をすると、世界が輝いて見える。素晴らしい本を読み終えると、世界が明らかに変わって見える。素晴らしい音楽に触れた途端、まったく同じ世界を生きているにも関わらず、まったく別物の世界を感じ取ることができるようになる。これまで当たり前だと思っていたものが、一瞬にして『奇跡』に取って代わるような、価値観の転換。それは、自分が新しいものに生まれ変わるというよりも、忘れていたなにかを『思い出す』という感覚に近い。私は、音楽を通じて、人類共通の記憶にリーチをしたいと思う。言葉でも、同じことだ。自分という完全に個人的な事象を通じて、人類全体の記憶にアクセスする。自分を生きれば生きるほど、自分を掘り下げれば掘り下げるほど、結果的に、人類全体に到達する。そういう、表面的には矛盾をしていることに、関心がある。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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真理は人を、自由にする。

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新潟駅前のドトールにいる。鬼ごっこ。人生が本気の鬼ごっこみたいになってきた。背後には、常に現実という名の死神がいる。捕まったら即死だが、逃げ切れば勝ちだ。死ぬのが先か、有終の美を飾るのが先か。あ、どっちも死だ。なーんだ、いずれにしても死じゃないか。あはは。と、定期的に謎の形で安定をする。しかし、死にたくはない。安らかに逝きたい。そう思っていたら、救世主が降臨した。

 

 

おおまかなスケジュール

6月4日 EVENT 音楽×トーク@新潟市西区「海のオフィス」
6月6日以降、FREE!@関西全域【宿も予定もございません】
6月9日 EVENT 音楽×トーク@大阪市北新地「Candy」
6月12日以降、経済的に許された場合に限り、欧州武者修行(仮)
6月30日 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

楽観力。

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私の生活は破綻している。それを見かねた救世主から「困ったことがあったら言ってください」とご連絡をいただいた。エブリデイ困っているため、先ほど、新潟駅前でお会いした。結果的に、あらゆる問題が霧消(?)した。餅は餅屋。真理だ。自分が苦手なことを、自分だけで抱えると死滅する。私は、数字などの管理が著しく苦手で、これをやらないと死ぬなどと言われても「これをやらなければ生きていけない世界を、生きていきたいとは思わない」とか言って、すぐに破滅を考える。

 

救世主M様は言う。幸福は四種類の精神から成り立つ。『自分らしさ』の精神と、『やってみよう』の精神と、『なんとかなるさ』の精神と、『ありがとう』の精神。この四種類の精神だ。あなたには、なんとかなるさの精神が足りない。他の三種類は、充分、備わっている。だから、もっと楽観力を磨いた方がいい。そうすれば、ずっと生きやすくなると思うよ。と。素晴らしい指摘だ。その通りである。小生、行動力はあるものの毎回死にそうになりながら行動をしている。毎回、しっかりビビっている。そして、なにかあるたびに「やっぱりね」とか言いながら、こっそり破滅の準備をする。頑丈な縄を探してみたり、孤独死にふさわしい海や森を探してみたり、遺書を書いてみたり。そんな私の魂胆(?)を見抜いたM様は「楽観力を磨け」という、ありがたい言葉を残した。なんとかなる。だから、大丈夫だ。

 

別に、法律を犯した過去があるわけじゃないのに、生きることが「罪滅ぼし」みたいに感じることがある。生きていること、生まれたことを『罪』のように感じる。罪という言葉が重いなら、恥という言葉でもいい。私は、私を、恥ずかしい存在だと思う。欠落人間だと思うし、ダメ人間だと思う。そして、これまた厄介なことだが「そんな自分が愛おしい」などと思ったりする。そして、またさらに厄介なのが「似た恥や、似た罪、似た感覚を感じているひとに親愛を覚え」たりする。参った。私は、恥と、罪で、出来ている。そのことを誇りに感じていたりするのだ。だがしかし、生きるためには楽観力を磨きたい。そうだ。これまでがどうにかなってきたように、きっと、これからもどうにかなっていくのだろう。生きたくなったり死にたくなったりを積み重ねながら、図太く、しぶとく、生きていくのだろう。

 

note.mu

わたり文庫『アルジャーノンに花束を

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ダニエル・キイス著作『アルジャーノンに花束を』です。こちらの本は、先日、千葉のライブを企画してくれたN様が「わたり文庫に是非」と寄贈をしてくれました。N様、最高の人柄の女性です。千葉駅近くで『14番目の月』というスナックを営業しています。是非、行ってください。定期的に死にたくなる小生ですが、いい人に出会うと、生きたい。生きていきたい。生きててよかった。生まれてきてよかった。と、生きる活力を得ます。大袈裟だけど、マジで、得ます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※

 

キニアン先生もしこれをよんでもぼくをかわいそーとおもわないでください。先生がいったようにぼくわりこうになるための二度目のきかいをあたえてもらたことをうれしくおもていますなぜかというとこの世かいにあるなんてしらなかったたくさんのこともおぼいたし、ほんのちょとのあいだだけれどそれが見れてよかたとおもているのです。それからぼくの家族のことやぼくのことがよくわかたのもうれしいです。みんなのことをおもいだしてあうまでわ家族なんかいないのとおんなじでしたけれどもいまわ家族もあることがわかっているしぼくもみんなみたいな人間だとわかっているのです。

 

どうしてまたばかになてしまたかぼくがなにかわりいことをしたかわからない。きっとぼくがいしょけんめやらなかったからかもしれないだれかがぼくにいじわるしたからかもしれない。でもうんといしょけんめにべんきょーすればもうちょとりこーになって言葉もみなわかるよおになるんだろうな。

 

やぶけた表紙の青い本をよんだときとてもいい気ぶんだったのをちょとおぼいている。

ダニエル・キイスアルジャーノンに花束を』【早川書房

 

真理は人を、自由にする。

https://www.instagram.com/p/ByPq9_3A1a7/

 

千葉でライブをご一緒させていただいた、N様の歌声が本当によかった。純粋に、音楽を愛している人の歌声だった。N様は話す。小さな頃、父親が酒乱で家で暴れることが多かった。暴力も受け、生きることが辛く、なにもいいことはないと感じていたとき、ふと、ラジオから流れてくる音楽が耳に入った。その音楽が優しくて、自分の力になり、辛い時期を生きることができた。だから、自分の音楽を通じて、少しでも誰かがそういう気持ちになってくれたらうれしい。と。その声には、音楽を通じて「自分を認めて欲しい」とか「誰かを蹴落としてやりたい」とか、そういう邪念が微塵もなかった。それは、歌というよりも、祈りに近いと思った。N様の祈りは、深く、優しかった。N様に出会えたことを、心から嬉しいと思った。

 

母親と話した。母親は、昔から「貧乏人ほどよく笑う」と話していた。事実、我が家も母親の実家も(父親の実家も)生活は厳しく、笑わないとやってられない場面は結構あった。みじめさにうちひしがれてへこんだ部分を、音楽で埋め合わせている。自分の欠落している部分を、ユーモアで満たしている。そういう感覚が、自分にはあった。この世界に音楽がなければ、ユーモアがなければ、とっくの昔に自殺をしていたと思う。つらさを経由したひとの、言葉は、音楽は、ユーモアは、深く、優しい。付け焼き刃ではない、そのひとの人生そのものが乗っかっている、懐を感じる。そして、思う。悲しみも、苦しみも、決して無駄にはならないことを。

 

N様の演奏中、感じたことをメモを取った。笑ったり、泣いたり、みんな生きてんだよ。不完全でも、みっともなくても、みんな生きてんだよ。生きたいと思ってんだよ。もがきながらでも、幸せになりたいんだよ。そうじゃなかったら、悩まないよ。苦しんだりしないよ。生きたいと思う摩擦熱が、悩ませたり、苦しませたり、しているだけなんだよ。だから、それを見せてくれるひとに、どうしようもない共感を覚えるんだよ。と。日々、色々なことを感じながら、誰もが生きているのだと思う。ただ、ひとつ、もしも共通する願いがあるとすれば、それは「感動したい」という願いだ。感動に触れたいと願う思いが、人間をライブ会場に向かわせたり、図書館に向かわせたり、遠い異国に足を運ばせたりする。感動を通じて、我々は、自分はまだ生きていたことを思い出す。自分には、まだ、何かを感じる心がある。たとえ、これまでの人生がうだつのあがらないものだったとしても、たとえ、代わり映えのない毎日を過ごしていたとしても、明日、なにかいいことがあるかもしれない、感動の予感と、感動の可能性の、発動。それを『希望』と呼ぶのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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純粋なまま、汚れて行こう。

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横浜駅前のドトールにいる。あまりにも「ドトールにいる」と書き続けたため、宮城県在住のN様から「これを使ってください」と、ドトールカードが郵送で贈られてきた。宮城県に足を向けて眠ることができない。が、西にも、東にも、南にもお世話になっている人々が大量にいるため、もう、直立不動で眠るしかない。これは、眠るな、ということである。私は、極端な言葉、極端な行動が、好きだ。「真の男は、死んでから眠るもの思うとります」という、有名なセリフを思い出した。

 

 

おおまかなスケジュール

6月3日以降、FREE!@新潟市【青山海岸で寝泊まりの予定】
6月6日以降、FREE!@関西全域【宿も予定もございません】
6月9日 EVENT 音楽×トーク@大阪市北新地「Candy」
6月12日以降、経済的に許された場合に限り、欧州武者修行(仮)
6月30日 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」


SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

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正しいけれど、つまらない。

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先日、オーガニック料理をご馳走になった。内装は綺麗で、料理のこだわりもすごい。はたから見れば最高なのかもしれないが、私は、もう、こんなことを書いてしまって本当にごめんなさいだけど「正しいけれど、つまらない」と思ってしまった。なにか、こう、食べた気にならないのだ。無農薬。正しい。消化にやさしい。正しい。丁寧に生きる。正しい。正しい。正しい。正しいのだけれど、乱暴にまとめると「こんな人生は嫌だ」と思った。カラダにいいからと、豆ばかりを食べるような人生は、ごめんだ。正しいけれど、つまらない。そう思う瞬間は、結構ある。

 

なんで、みんな、いいことしか言わないのだろう。なんで、みんな、自分のダメな部分を出さないのだろう。誤解を恐れながら言うと、「ココロとカラダにやさしい」みたいなことを銘打つひとほど、覇気がない印象を覚える。覇気がないことは、悪いことではない。ただ、覇気がないくせに「覇気があるように見せかける」ことは、違うと思う。あなたは、ひとを元気にするとか言っている割には、元気がなさそうに見えますね、とか、あなたは、愛、愛、愛とか言うけれど、それは全部承認欲求じゃないですか???とか、そんなことを言いたくなる。これを言われて、笑えるひととは、友達になれる。が、大概の場合、そんなことを言うと怒られてしまう。だから、言えない。承認欲求があることは、自然だと思う。だから、普通に「あたしは承認欲求が、すごいあります!」と明朗に言えるひとは、爽やかで、好きだ。隠されるから、おかしくなる。見栄を張られるから、暴きたくなる。

 

昔、あまりにも社会に馴染めなくて「自分は欠陥人間だ」と、消えたい時期が長く続いた。その時、ふと、嫌いなもののために死ぬなんてクソだ、ということを思った。世の中に馴染めない自分を責めるとき、世の中は善で、自分は悪になる。でも、冷静に、考えてみる。いじめられて自殺を考える少年の心理と、これは、きっと似ていると思う。自分をいじめる人間がいる。生きるのがつらい。苦しい。毎日、死にたいと考える。しかし、これで死んでしまったら「自分が嫌いだと思うもののために死ぬ」ことと、同じだ。これは、なんだか、癪だ。どうせなら、自分が嫌いなもののためではなく、自分が好きなもののために、死にたいと思う。自分が、世界でもっとも大事だと思うもの。それは、自分の感受性だ。自分の感受性を守るために、命を張る。そっちの方が、よっぽど、有意義な生を送れると思った。

 

note.mu

 

わたり文庫『忘れられた日本人』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、宮本常一著作『忘れられた日本人』です。短編集なのですが、この本にある『土佐源氏』という30ページ足らずの話が、昔から大好きで「これは俺のバイブルだ」と、長年、思い続けてきました。岩波文庫とか、普段、読まれる方は少ないと思うのですが、騙されたと思って(本屋さんに立ち寄る機会があれば)土佐源氏だけでも読んでみてください。少なからず、衝撃を受けると思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

「わしのような者のいうことをどうしてきく気になりなさったか」いうてきいたら「あんたは心のやさしいええ人じゃ、女はそういうものが一番ほしいんじゃ」といいなさった。身分の高い女で、わしをはじめて一人まえに取り扱こうてくれて人じゃった。

どんな女でも、やさしくすればみんなゆるすもんぞな。とうとう目がつぶれるまで、女をかもうた。そしてのう、そのあげくが三日三晩目が痛うで見えんようになった。極道のむくいじゃ。わしは何一つろくな事はしなかった。男ちう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけはわしのいいなりになった。

わしにもようわからん。男がみな女を粗末にするんじゃろうのう。それで少しでもやさしうすると、女はついて来る気になるんじゃろう。

宮本常一『忘れられた日本人(土佐源氏)』【岩波文庫】 

 

純粋なまま、汚れて行こう。 

前は「あなたは純粋だね」と言われるたびに、腹を立てていた。なんだか馬鹿にされている気がして、ちげえし、などと反発していた。時は流れ、現在、34歳。自分の宝は、自分の純粋さだ。そう思うようになった。自分にあるものは、この、あほみたいに純粋な部分。こどもの頃から変わらない部分。おかしいものを「おかしい」と思える純粋な部分。いやなものを「いやだ」と思える純粋な部分。好きなものを「好きだ」と思える純粋な部分。愛するものを「愛している」と思える純粋な部分。音楽をやりたいと思った、その気持ちにストレートに殉じた、純粋な部分。

 

 

初心者三人でバンドを結成した。名前は「Agape(アガペー」。今日は千葉でライブだ。複数曲、ギターソロを作成した。音を出す。へたくそながら、一生懸命に演奏をする。時折、あ、いま、音が完全に一致をしたぞ、と思える瞬間がある。その瞬間、不思議だ、原因不明の涙が流れそうになることがある。ああ、音楽をやっていてよかったと思える、最高の瞬間のひとつだ。こんなよろこびが、こんな楽しさが、こんな素晴らしさが、世界にはあったのかと思わせてくれる新鮮な衝撃。快感。震えるほどの感動。音楽をやると決めた自分に「ハレルヤ!」と叫びたくなるような、過去の自分を「お前は最高の選択をした」と賞賛したくなるような、これまでのすべてに「よくぞ、ここまで生きてきてくれた」と涙の全肯定をしたくなるような、生きていてよかった、生まれてきてよかったと思える瞬間の、ひとつだ。

 

 

おかしな表現になるが、誰もが「自分である才能」を持っているのだと思う。自分にあるものなんて、たかが知れている。私には、音楽の才能も、言葉の才能も、ない。しかし、私は、私を、34年間続けてきた。私は、私という種目を34年間続けたベテランであり、ある種の大御所であり、坂爪圭吾という競技種目のトップアスリートである。ぶっちぎりの第一位である。そのすべてを、ある時は音楽に込め、ある時は文章に込め、ある時は自分が話す言葉に込め、ある時は自分が差し出す右腕に込め、ある時は、自分が踏み出すその一足に込める。私は、私を構成する、すべてによって成り立っている。その中には、私の家族も、私の友達も、私が嫌った人間も、私が愛した人間も、その、すべてがいる。そのすべてが込められた一匹のオスが、どう、次の一歩を踏み出すのかということに、自分自身が胸を高鳴らせる。自分が、自分に、期待をする。そういった状態を「悪くないな」と思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/ByBeN2VA7o_/

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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恥の数だけ、強くなる。

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定期演奏会を終えた。短期間で成長(?)する秘訣は、どれだけ恥をかけるか、どれだけ失敗を重ねることができるか、だと思った。恥をかく。失敗をする。つらい。しんどい。消えてなくなりたいと思うこともある。しかし、時を経て、あの体験が「俺を磨き上げてくれた」と感じる瞬間は、多い。成功も失敗も糧になる。そう思えば、失敗なんてないな、と思う。恥をかいたら、恥のポイントカードにスタンプが押される。20個貯まれば、ごほうびをもらえる。そう思えば、遊びになる。

 

 

おおまかなスケジュール

5月28以降、FREE!【イベント出演依頼諸々絶賛募集中!】
6月2日 EVENT 音楽×トーク@千葉県千葉市「N-HOTEL
6月3日以降、車で新潟を目指す予定【何か企画してくださる方、激募!】
6月9日 EVENT 音楽×トーク@大阪市北新地「Candy」
6月12日以降、アムステルダムかミラノ発の欧州武者修行(仮)

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

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恥ずかしいこと、書かなきゃ。

バンド名が『Agape(アガペー)』に決定した。直訳すると『神の愛』になる。現時点で60曲作った。人前で演奏するとき、どうしても「この曲は好かれそうだな」みたいな感じで、選曲をする自分のダサさを痛感する。説明できないことをやりたいのに、説明的になる。これは、自分のなかにある「理解されたい」「わかってもらいたい」という願望が、そうさせているのだと思う。自分でも、自分のことを理解できていないくせに、何が、理解だ。何が、共感だ。何が、表現だ。そう思い、理解されなくてもいいから、不快感を与えてしまってもいいから、自分が「これだ」と思う曲をやろう。そう思って、定期演奏会では『オニキス』を演奏した。

 

自分の中にある恥ずかしい部分。それは、隠されて、隠されて、隠され続けていながら、同時に「誰かに見てもらえることをまっている」ものだと思う。恥という漢字は、耳に、心だ。心の声を聞かれたら、きっと、誰もが恥ずかしいのだと思う。そして、だからこそ素晴らしいのだと思う。そこには「なんだ、自分だけじゃなかったのか」という、安堵がある。芸術とは、誰かに向けたメッセージでは、ないように思う。それは「俺は、いま、こんなにも、こうなんだよ」と、自分の内臓を取り出して目の前に置くような、生々しくて、それでいて、目を逸らせないものだ。

 

自分の中にある、孤独と矛盾。それを、そのまま、打ち出すことが許されている。それが芸術だと思う。普通、生きていると、矛盾を打ち消す方向に思考は向かう。心身の一致が、言葉と行動の一致が、人生の秘訣だと言われる。しかし、私は、強烈な矛盾、強烈な葛藤、強烈な摩擦を生きる人間に、強く惹かれる。筋が通っているから惹かれるのではなく、筋が通らないまま、そのままの姿で生きる姿に、一貫性を感じる。強烈な矛盾を抱えて生きるという、一貫性だ。矛盾がないから生きるのではなく、矛盾を抱えたまま、そのままの状態で生きていこうとする。そっちのほうが、なんとなく「ほんとうだな」と思う。よっぽど「生きているな」と思う。

 

note.mu

 

わたり文庫『金色の鳥の本』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、石井ゆかり著作『金色の鳥の本』です。こちらの本は、宮城県在住の女性から「わたり文庫に是非!」と寄贈をしていただきました。好きなページをパッと開き、そこに書かれている言葉からヒント(?)を得る、オラクルカードみたいな一冊です。試しに、いま、一回開いてみると・・・「通過」しすぎて疲れたときは立ち止まり、「居つき」すぎて飽きたときは移動してみる。それが、問題の「打開」につながることもめずらしくないようです。と、書かれてありました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※

 

「勇気づけられる」「元気づけられる」のは、
自分が闘っているその闘いについて、だれかに
「その闘いは、闘うべき闘いだ!」
と認められたときではないかと思います。

誰もが、日々、
悩みや苦しみ、不安や孤独などと闘っていますが
その闘いを
「それでいい!」
と認めてもらえることは、なかなか、ないのです。
もし、力強く
「それでいい」と頷いてくれる人がいたら、
それだけで、苦しいはずの闘いが、
喜びや充実へと変わる場合だってあります。

石井ゆかり『金色の鳥の本』【PIE】

 

恥の数だけ、強くなる。

私の名前は坂爪圭吾。昔、姓名判断的なもので「あなたは死ぬまで孤独だ」と言われたことがある。それを聞いたとき、私は「かっこいい!」と思った。大変そうだが、かっこいい。言葉の持つ威力は大きい。聖書にも「はじめに言葉があった」とある。私が孤独を脱出したいときは、おそらく、改名をすればいいのだと思う。しかし、まだ、私は坂爪圭吾を生きてみたい。自分の孤独が、自分の矛盾が、自分をどこまで連れて行ってくれるのか、見てみたい。前に『Lonliness is Mine』という曲を作った。孤独を通じて、私は、私に出会う。孤独を通じて、私は、あなたに出会う。孤独の中に太陽があり、孤独の中にみんながいる。そんな感じの曲になる。

 

note.mu

 

その次に作った曲が『オニキス』だった。歌詞も、曲も、音程も、なにもかもが納得いかない仕上がり(これを『仕上がり』とは呼ばない)になったが、聞き直したら「意外と良い曲だな」と思った。荒削りだけど、荒削りな存在が、自分なのだと思った。醜いなあ、ダメだなあ、情けないなあと感じたあとに、それをそのまま引っ込めるのではなく、醜いものを、醜いまま、そのままの姿で、打ち出していく。「俺は、いま、こんなにも、こうなんだよ」と、未熟な自分を、さらけ出していく。不思議なもので、どのような曲であっても、公開した瞬間は、一種の清々しさを感じる。表現は、よく、排泄行為に例えられる。入れて、出す。その循環だ。出したあとはスッキリするが、生きている限り、再び蓄積するものがある。そして、また、新しい音楽が生まれる。見る人が見たら目をそむけたくなるものも、ある人にとっては養分になる。それは、花が、二酸化炭素を吸って酸素を排出していることと、似ている。私たちは、花が、排泄をしたものによって生命を維持している。

 

note.mu

 

数日前、こんなメモを書いた。自分を生きるということは、誤解をされるということだ。俺も、しっかり誤解されて、しっかり嫌われて、しっかり迫害されて、しっかり追い出されようとしているよ。近隣から。社会から。世間とか呼ばれるものから。新しいことをやるって、つまり、そういうことだろう。奴らも、俺たちが主流になった途端に、おれもこっちがいいと思ってたんだ、とか、言うんだ。そういう奴らが作ってるのが、世の中なんだ。人間は弱い。どうしたって、多数になびきたくなる。たとえ、それが正しさとは違うものであっても、彼らにとっては多数であることが正義になるんだ。だからこそ、おれは、若い人たちに言いたい。世の中の正義に従うのではなく、自分の正義に従ってほしい。自分が正義になるくらいの気骨をもって、バカにされても、迫害されても、お前なんかいなくなればいいと言われても、負けないでほしい。そういう人間が、必要なんだと思う。自分が感じる正義の中に、自分が感じる愛があるならば、諦めちゃダメだ。投げ出しちゃダメだ。その過程で、誰かに、なにかを、押し付けてしまうこともあるだろう。これは、仕方のないことだと思う。少なくとも、衝突をさけて、自分を引っ込める日々を送るよりも、熱くぶつかり合って生じる火花に身を焦がしたほうが、死ぬ瞬間、おれは生きた、と、言えるのだろう。と。これまでがこれからを決めるのではなく、これからがこれまでを決めるのだ。あとになってから、わかることがある。できることは、いま、生きることだ。説明のできない未来へ、一歩、歩みを進めることだ。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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世界は一つだけの花。

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横浜駅前のドトールにいる。今週末は横浜で、来週末は千葉でイベントがある。是非、来てネ。今、熱海の家が差し押さえられそうな感じで人生が逼迫してきたが、神社に行くと「澄み渡るなあ」と清廉になる。神頼みでもしなきゃやってられんぞ、みたいな思いで神社に行っても、境内に入ると「ありがとうございます」以外の言葉が出てこない。病気になると「体さえ健康ならば」と思うが、人間の欲望はキリがなく、次はお金が、とか、次は家が、とか、なる。神社にいくと「生きてるだけでいい。それ以外はおまけだよ」みたいな感覚になり、澄み渡るのだろう。

 

 

おおまかなスケジュール

5月24日以降、FREE【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月26日 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
6月2日 EVENT 音楽×トーク@千葉県千葉市「N-HOTEL

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

俺は神様にグッドデザイン賞をあげたい。

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伊豆山神社


新横浜は人間が多い。熱海では人間よりも猫や猿や草と話す。可愛い女子を見ると「頼みもしないのに可愛くしてくれるからすごいな」と思う。女は勝手に綺麗になり、街は勝手に綺麗になる。たとえ(というか『もう一回』)ホームレスになっても、俺は、勝手に綺麗になるドトールなり駅前の公衆便所などを使える。日本にいる限り飢え死にすることはない。パン屋さんでパンの耳をもらう度胸があれば、大概の問題は解決する。大概の問題は解決するというのは嘘で、正確には「問題を、問題と思わないふてぶてしさ」を得る。人生は、意外とどうにかなる。それを実感するためにも、多少の苦しみは人間を鍛える。艱難辛苦が、人間的な成長を促す。

 

金に行き詰まるたびに「猫も猿も草も税金なんか払ってねえんだよな」と思う。所詮、人間が決めたルールだ。私は、神のルールに従いたい。そんなことを言っても「お前はバカか」とあしらわれるだけであり、事実、自分はバカだと思う。野良猫から生きる逞しさを学び、コンクリートを突き破る雑草から生きる逞しさを学ぶ。なにかこう、視点が弱者だ。ヒエラルキーの底辺に、共感を覚えるのだ。某有名人が、麻薬所持の疑いで逮捕された。世間は批難の『嵐』(あ、これはちょっと某グループに関係性があるぞ)である。なぜ、直接迷惑を被ったわけでもない人間が、第三者の失態にこれほど口を挟むのだろう。どれだけ、日々、鬱憤がたまっているのだろう。悪事を働いた人間は、勝手に法が裁く。ほっといても、良心(神)が裁く。これ以上、他者が裁く必要はない。他人の粗探しをする人間に、言いたいことがある。お前らは、ひとのことを言えるほど正しいのか。過去に、間違えたことはないのか。罪をおかしたことはないのか。弱者の側に立ったことはないのか。と。

 

俺は神様にグッドデザイン賞をあげたい。本当に、よくぞ、こんな世界を作ったものだ。朝があり夜がある。男があり女がある。闇があり光がある。天があり地がある。バランス感覚が凄い。無数の命が、陸上に、海中にある。もうダメだと思った時、どん底の時に救いの手が差し伸べられたり、有頂天になっていた翌日に最悪の事態に見舞われたりする。最強のストーリーテラーだ。地球は丸い。完全に丸い。星の軌道は正確で、互いにぶつかり合うこともない。最強の設計士だ。神は万物の創造主だと言う。となれば、自然を作ったように、神は自分を作ったことになる。となれば、仮に、自分が「自分はダメな人間だ」と思う瞬間があったとしても、神の意図は、自分の想像をはるかに凌駕する形で「存在の意味」を与えている。そう思うことで、私は、自分に「もしかしたらものすごい存在意義があるのかもしれない」と、思い込む。私自身は不完全だけれど、生みの親は、最強で、最高なのだ。

 

note.mu

 

わたり文庫『魂のことば』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、フジ子・ヘミング著作『魂のことば』です。こちらの本は、佐賀県在住の方から「わたり文庫に是非!」と、寄贈をしていただきました。私は、フジ子・ヘミングが大好きです。なぜならば、砂糖水を飲みながら飢えを凌ぎ、艱難辛苦の時期を乗り越えたタフさを持っているからです。どんなに教養があって立派な人でも、心に傷がない人には魅力がない。他人の痛みというものがわからないから。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、和歌山県にわたりました ※※※

 

明日はもっとよくしようって毎日思っている。時々ガックリする出来事もあるけど、毎日そう思っていると、本当に明日や明後日がよくなるって信じているの。

 

死にものぐるいになったら、なんでもできる。そのかわり一生懸命にならないと、実現できないわよ。情熱の一部なんかでは絶対にできない、ということを肝に銘じるべきだわ。 

 

死ぬ人は、その人が死ななければ贈れない最善の贈り物を後の人に残していく。それを受け取った人は不思議な力を受け、新しい生涯が始まる。母の死は、そんなことを教えてくれたわ。

 

ピアノを捨てて、平穏無事な人生を選んだなら、こんなに苦しまずにすんだかもしれない。しかし、私はあえてこの人生を選んでいた。苦しかったことは、時が流れれば黄金色になるわよ。

 

振り返ってみると、一人ぼっちになってみなければ、わからないことがたくさんあった。

フジ子・ヘミング『魂のことば』【清流出版】

 

世界は一つだけの花。

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音楽活動をはじめると豪語してから三ヶ月が過ぎた。昨日、ギタリストでありバンドリーダーの竹谷さんが、横浜入りを果たした。ベースの保科さんと三人で合宿生活に入る。我々、全員、オーバー30(歳)。普通なら、夢を諦めて就職とか実家の後継などを考える年頃に、我々は、バンドを結成した。周囲から「いい歳こいて」としっかり嘲笑されながら、我々は「いまに見てろよ」と、鼻の穴を膨らませている。現在のクオリティはひどいものだが、売れない時期を体験できるのも、劣悪な時期を体験できるのも、いまだけの話だ。やがて、我々は、売れっ子になる。まともに街を歩けなくなる。故に、まともに街を歩ける現在が、すでに懐かしい。

 

言葉を綴ること、音楽を作ることは、タネを撒くことと似ている。そのタネは、すぐに花が開くとは限らない。腐って終わるタネもあるだろう。しかし、適切な時期が訪れたら、撒かれたタネが、人々の心に花を咲かせる。そういうタネを撒きながら生きることができたなら、たったひとりだけでもいい、誰かの心に残るタネを撒けたら、ああ、素敵だなと思う。というのは完全なる綺麗事で、自分は、タネではなく『時限爆弾』を撒いているような気がする。すぐに爆発する爆弾もあれば、不発弾として人々の記憶に残り続け、ある日、ある時、なにかに触れた瞬間にドカン!と爆発をする。銃弾の種類のひとつにホローポイントと呼ばれるものがある。通常、弾丸は、人間の肉体を貫通する。しかし、ホローポイントは、人間の肉体を貫通することなく、人間の内部にとどまる。そして、最終的に、爆発する。はなびらが開くように、銃弾が、人間の内部で爆発するのだ。殺傷能力は高く、比較的エグいのだけれど、私が撒いているタネはホローポイント寄りの花である気がする。

 

自分というドキュメンタリー番組を、みなさまにお楽しみいただきたいと思う。音楽で成り上がると豪語した人間が、果たして、どこまで行けるのかを見届けていただけたら、うれしいと思う。そして、できることならば、一緒に前を向いて生きていきたいと思う。それは、綺麗事に聞こえるかもしれないけれど、でも、やはり、お互いに刺激し合いながら、高め合いながら生きていけたほうが、死ぬまでテレビを見ながら生きるより、死ぬまで誰かの文句を言いながら生きるより、楽しいことだと思うのだ。楽ではないけど、楽しい道。せっかく生まれたのだから、周囲から「そんなのは無理だ」と言われることに、挑戦したほうがやりがいもあるように思う。楽ではないけど、楽しい道。生きて、生きて、生き切ったあとにかえり見たとき、すべてが黄金色に輝いている、青春の道。その道を、歩いていきたいと思う。 

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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自分の正義のために。

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静岡県三島市デニーズにいる。欧州には安楽死が合法化されている国がある。先日、知人が、自らの意思で安楽死を選び、死んだ。倫理的な問題も、あるのだろう。ただ、彼に対して「死ぬなんて勿体無い」とか「生きていればいいことがある」ということは、無意味だと思う。周囲が問う何億倍も、彼は、彼自身に問うたはずだ。そして、考え抜いた先に選び取った道が、そうであっただけに過ぎない。生きた人間は、最後に問いを残す。それは「お前はどう生きるか」という問いだ。

 

 

おおまかなスケジュール

5月22日以降、FREE【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月26日 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
6月2日 EVENT 音楽×トーク@千葉県千葉市「N-HOTEL

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ibaya.hatenablog.com

 

死に後れたものの凄み。

先日、ある女性が飼っていた犬を亡くした。女性は悲しみに暮れ、現在は仕事も休んでいる。周囲の友人は、彼女に「そんなに悲しんだら、天国で〇〇ちゃん(犬の名前)も心配するよ」などと、彼女を励ます。励ます側に悪気はない。ただ、自分だったら、こんな慰められ方をしても、ほっといてくれと思うだろう。実の母親をなくした人間に、悲しまないで、笑って!などと要求することは、拷問に近い。悲しむことが弔いになる。悲しむことが、心の中に、自分が愛したものを仕舞うためのスペースを作る。悲しむことを通じて、自分が、いかに愛していたのかを知る。

 

「そんなに思ってもらえるなんて、〇〇ちゃん(犬の名前)も幸せだね」と、人は言う。逆だ。こんな気持ちにさせてもらえた、自分の方が幸せなのだ。たとえ、この瞬間に感じている感情が悲しみだとしても、それは『愛があるから』に、他ならない。大切なものを失うとき、ああすればよかった、とか、こうすればよかった、とか、関係性の中における自分自身の動き方を後悔することがある。しかし、大事なことは、それらを経て「これからの自分が、どう生きるか」だと思う。生きて、生きて、生ききったものは、最後に問いを残す。それは「お前はどう生きるか」という問いだ。いま、生きている我々は、極端な話『死に後れた者』だと思う。私は、死んだ人間に、ある種の美しさ、ある種の完成、ある種の『敵わなさ』を感じる。生き残ったものの無様さと、責任。私は、まだ、生きている。私の中にまた、彼らも、同時に生きている。本当に生きるとは、どういうことを言うのだろうか。

 

俺だけ生き残ってしまった。なぜか、そう感じる瞬間がある。死んだ方がいいのは俺だったのに、なぜ、優しい人間から死ぬ。なぜ、心ある人間からこの世を去る。考えても仕方のないことだ。後追いで死ぬことも、違うのだろう。生きれるだけ生きたとき、人は、死ぬ。すべてに『時』があるのだと思う。私は、これまで「いつ死んでもいい」などと嘯いていた。しかし、今は、生きれるだけ生きてやりたいと思う。苦しむだけ苦しんで、傷つけるだけ傷ついて、笑えるだけ笑ってやりたいと思う。なぜか、そのことが、死んだものに対する供養であるように、感じている。死に後れたものの凄みを見せてやる。そう思うとき、もりもりっと湧き上がる力を感じる。この力のなかに、あいつも、こいつも、全員がいるような感覚を覚える。

 

note.mu

 

わたり文庫『悲しみの秘儀』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、若松英輔著作『悲しみの秘儀』です。熱海の家の本棚には、10冊程度の本が並んでいる。そのなかの一冊が、この本になります。あなたは、もし、これまで読んだ本の中で「永久保存版にしておきたい本を10冊選べ」とか「誰かに無理やりでも読ませたい本を10冊選べ」と言われたら、どのような本を選ぶだろうか。おそらく、あなたが選んだ本が、あなた自身を形成しているのだと思う。あなたの好きなものが、あなたの血となり、あなたの骨となっているのだと思う。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

かつて日本人は、「かなし」を、「悲し」だけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。悲しみにはいつも、愛しむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことができない何かが宿っている。人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているのかもしれない。

若松英輔『悲しみの秘儀』【ナナロク社】

 

自分の正義のために。

10歳にも満たない頃、忘れられない夢を見た。自分の不手際で、自分が通う小学校に火をつけ、全焼させてしまう夢だった。私は恐怖に目覚め、母親に泣きついた。母親は「よしよし」と言って、私をなだめた。私は震えながら、同時に「違う」と思った。私が恐怖を覚えたことは、学校を燃やしたことではない。学校を燃やしたことで、その損害賠償が母親に行くということだった。自分の存在が、誰かの迷惑になること。そのことを、私は、一番の恐怖として認識していた。それを避けるために、両親に「俺を離縁してくれ」と頼んだこともある。自分一人で責任を背負える範囲なら、問題はない。最悪、自分が死ねばいい話だ。だが、自分が生きていることが、周囲の人々の迷惑になる。そのことが耐え難く、同時に、そうなる予感を強く感じていた。乱暴にまとめるなら、私は、自分を『邪魔者』だと感じていた。

 

卑近な例だが、街を走ればショッピングモールにぶちあたる。私は、このような商業施設が苦手だ。美しくないと思う。しかし、そこには常に大量の人間がいて、私が美しいと思う場所は、大概、無人だ。こう言う時、ああ、おかしいのは自分なのだなと思う。どれだけ「商業主義は不潔だ」とか「損得勘定の得は、本当に得か?」とか「世に、美を!光を!」などと思っても、多くの人間が、自分が美しくないと思うものを美しいと思うのであれば、バグっているのは自分だ。おかしいのは自分であり、邪魔者であるのは自分だ。だから、俺がいなくなればそれで済む話だな、などと思ったりする。しかし、そう思いながらも、熱海の家の近所の人々はやさしい。久々に家に戻ると、「あら、帰ってきたの!」と、満面の笑みで迎えてくれる。熱海を離れるときは「また来てね」などと言ってくれる。その一言に、どうしようもないよろこびを感じてしまう、ひとりの人間(要するに自分)がいる。

 

正しさよりも『楽しさ』だ。正しさで人間は動かないが、楽しさならば人間は動く。そのようなことを、過去に、何度も書いた。しかし、一番奥底、心の一番深いところでは、私は『正しさ』を求めているのだと思う。それは、決して、自分の正当性を主張するための正しさではない。誰かに強制するための正しさでもない。それは、自分を、人間にしてくれる正しさだ。自分は、いま、正しいことができているのだという感覚は、自分を人間にしてくれる。歪みかけた精神を律し、崩れかけた精神を支える。本当に生きるとは、どういうことなのだろうか。わからない。あるものは、ただ「本当に生きたい」と願う、思いだけだ。生きることの中にしか、見いだすことのできない正しさを感じる。それは、楽しくはないかもしれない。しかし、正しいことではあるかもしれない。だから、生きれるだけ生きてやりたいと思う。苦しむだけ苦しんで、傷つけるだけ傷ついて、笑えるだけ笑ってやりたいと思う。なぜか、そのことが、死んだものに対する供養であるように、感じている。死に後れたものの凄みを見せてやる。そう思うとき、もりもりっと湧き上がる力を感じる。この力のなかに、あいつも、こいつも、全員がいるような感覚を覚える。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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弱さは、希望だ。

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熱海の逢初庵にいる。逢初庵は、約四年間「誰でも自由に使っていい」と、無料で開放してきた。諸事情により、この無料開放を、昨日で終わりにした。恋愛と同じで、なぜ、別れたのかと問われても「それは当事者にしかわからない」事情がある。芸能人が離婚をすると、かわいそうだの、もったいないだの、周囲は散々なことを言う。しかし、当事者にしかわからない事情を、我々は知らない。周囲の人間にできることは、焼肉をおごるとか、一緒に焚き火を囲むとか、そういうことだ。

 

 

おおまかなスケジュール

5月20日以降、FREE【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月26日 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
6月2日 EVENT 音楽×トーク@千葉県千葉市「N-HOTEL

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ibaya.hatenablog.com

 

ひとつ、ひとつ、終わらせる。

古い関係性を終わらせたり、使わなくなったものを処分している。整理整頓、衣類を丁寧に畳んだり、部屋を掃除していると、心が澄む。ものを大事に扱う時、同時に、自分を大事に扱っている感覚を覚える。逢初庵にあるものは、愛するムラキテルミさんから譲り受けたものが多い。なにを使うか以上に「誰からもらったものを使うか」が、私の場合、精神状態に大きく作用する。どれだけ高額なものでも、それをくれたひとのことを愛することができないならば、わたしは、その高級品を廃棄する。ものを見るたびに、そのひとのことを思い出すのが耐えられないからだ。

 

逢初庵【熱海】の無料開放は終わり、ごちゃまぜの家【横浜】の無料開放は続く。ごちゃまぜの家は、新規入居者も決定した。流れがある。続くものは続き、終わるものは終わる。自分の力の及ぶ範囲と、自分の力の及ばない範囲がある。肩に力がはいっているほど展開は滞り、委ねているとサラッと決まる。きっと、そんなものだ。私は、縁のあるひととは一番いいタイミングで出会えると思っている。だから、過剰な宣伝をしたいとは思わない。最近は「熾火になりたい」と思う。常に、静かに、燃えていたい。私は、ここで、燃えていたい。素通りをするひともいれば、温まるひともいる。火傷をするひともいれば、背中を押されるひともいる。

 

熾火と言えども、ただ、じっと座っているだけではない。ただ、じっと待っているだけではない。「ここぞ」という瞬間は、火の玉になって、飛び込みたい。自分には足があり、自分には腕がある。熾火は生きている。動く熾火だ。人生で大事なことは、どれだけ、自分が前のめりになって愛していけるものと出会えるか、だと思う。「これでいいや」とか「このひとでいいや」とかではない、自分が、どれだけ前のめりに「これがいい」とか「このひとがいい」と思えるか。その瞬間、どれだけ自分の身を賭してぶつかっていけるかが、日々の充足度を決定づける。真剣にぶつかること。それが、相手に対する礼儀であり、自分に対する礼儀であると思う。

 

note.mu

 

わたり文庫『光あるうちに』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、三浦綾子著作『光あるうちに』です。私は、青年期、キリスト教とロックンロールに影響を受けて育った。共通点は「弱者の視点に立っている」ことだと思う。ロックは、誤解を恐れずに言えば、負け犬の歌だと思う。負け犬が、負け犬のまま、負け犬の自尊心を高らかに歌うこと。それが、自由を、感じさせる。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、宮城県にわたりました ※※※

 

湯たんぽのぬるきを抱きて目ざめるるこのひとときも生きてゐるといふのか

昭和二十五年、療養中のわたしの歌である。

その朝、わたしは、もうぬるくなって、体温以下になったような湯たんぽを抱いていた。ぼんやりと目をあけたまま、わたしはあたたかい床から起き上ろうとはしなかった。旭川の冬は寒い。じっと、いつまでも床の中にいたい怠惰な気持だった。起きて食事をする気すらない。療養中のわたしには、安静も食事も大事な仕事だった。しかし、わたしは何の意欲もなく、ただぼんやりと、ぬるい湯たんぽを抱いていた。

その時、わたしはふっと、そうした怠惰な自分に自己嫌悪を感じた。今の自分は、果して生きているといえるのか。この今の自分の姿が、わたしの生き方を示しているのではないか。わたしはそう思った。当時のわたしは、確かに生きる意欲を失っていた。ちょうど、ぬるい湯たんぽを抱いて、ぐずぐずと床の中にねている姿のような生き方だった。

(中略)

わたしたちにとって大切なのは、いつかは遂に死ぬ自分が、その日までどのような姿勢で生きるかということであろう。来る日も来る日も、食事の支度と洗濯と掃除のくり返しでもいい。いや、そうであっていい。ただ、いかなる心持で、それらをくり返すかが問題なのだ。家族が楽しく美味しい食事ができ、清潔な衣服を着て、整頓された部屋に憩い、しみじみと幸せだと思える家庭をつくる。それがどんなに大いなる仕事であるか、働きであるかを、考えてみることが必要なのだ。

三浦綾子『光あるうちに』【新潮文庫

 

弱さは、希望だ。

私は三人兄弟の末っ子だ。末っ子は『甘え上手』と言われる。半分正解で、半分間違い。そう思う。末っ子は、甘え上手ではある。しかし、それは「周囲の空気を読むことに長けている」だけであって、逆に言えば「ここまでなら甘えられる」とか「ここまでだったら迷惑にならない範囲で要求を通せる」など、自分が大丈夫と思われる範囲内で自由に振舞っているだけに過ぎない。きっと、誰もが、同じ部分を持っている。ここまでなら迷惑にならない。ここまでなら甘えられる。ここまでなら人間関係にかどが立たない。ここまでならたとえ断られたとしても傷つかないで済む。浅傷で済む。立ち直れないほどのショックを受けないで済む。そういう感じで、常に、決められた範囲内での『自由』を行使しているだけに過ぎないと思う。

 

だが、最近、私は思うのだ。優しさは大事だ。思いやりも大事だ。だが、常に誰かの負担にならないように、常に相手の機嫌を損ねないように、自分の感情を後回しにして、上手に、器用に、置かれた状況に適した立ち振る舞いをすること、それだけを最優先に生きていたら、心の一部がさみしいままではないだろうか。誰かの荷物を持つことはできるのに、自分の荷物を持ってもらうことはできない。誰かの愚痴を聞くことはできるのに、自分を愚痴を吐き出すことはできない。それでは、心の一部はさみしいままではないだろうか。だから、私は、自戒も込めて、こう言いたい。負担にならないように生きるのではなく、負担になればいいじゃない。と。

 

生きる強さとは、なんでも自分だけの力でできることではない。それはただ臆病なだけ。弱さがあるから、人間は、人間を必要とすることができる。強さとは、自分の弱さを受け入れる力だ。弱さを通じて、他者と、世界とつながりを築く力だ。よろこびだけではない、うれしいという感情だけではない、嫉妬を覚えるとき、さみしさを覚えるとき、自分を責めたいと思うとき、違和感を覚えるとき、悔しさを覚えるとき、怒りを覚えるとき、憎しみを覚えるとき、あらゆる感情の中に、自分が進みたいと思うヒントが、自分が「こうありたい」と思うヒントが、隠されている。埋蔵された宝物は、自分が、瞬間瞬間に感じる感情のなかに眠っている。それを押し留めるのではなく、開放すること。外側に答えを求めるのではなく、内側にある答えを生きるとき、世界は、想像を超えて優しかったことを知るのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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逃げない。晴れ晴れと立ち向かう。

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横浜駅前のドトールにいる。写真は鴨川。諸事情が爆発して非常にセンチメンタルになっていた。男と女。永遠のテーマだ。自分は男だから「女は好きだけど話が長いから面倒臭い」とか「女の寿命が長いのは、男の命を吸い上げているからだ」とか、色々思う。だが、女のいない世界は確実に殺伐とする。話が長い。だが、可愛い。孤独が足りない。だが、可愛い。論理が破綻している。だが、可愛い。面倒臭いなどと思いながら、面倒臭いと思うものによって、生かされているのである。

 

 

おおまかなスケジュール

5月18日以降、FREE!【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月26日 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
6月2日 出演決定!EVENT 音楽×トーク@千葉県千葉市「N-HOTEL
6月13日 欧州遠征予定【from MILANO to ANYWHERE!】

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

掘っ建て小屋でもいいじゃない。

「惨めな男にはなりたくねえ」と思う。惨めとはなにか。経済的に貧しいことか。違う。惨めであるとは「絶対的なよろこびを持たない」ことだと思う。私はバイクに乗る。冬、バイクを走らせると死ぬほど寒い。全身が凍える。しかし、全身が凍えた状態で入る温泉は死ぬほど気持ちいい。そこで、私は、思うのである。いま、この温泉に入っている人間の中で、間違いなく自分が一番「最高だ!」と思えている。と。つまらない優越感だが、私は、これが大事だと思う。勘違いであろうが、いま、世界で一番俺が人生を楽しめているという圧倒感が、大事なのだと考える。

 

家も金もなにもない状態で、江ノ島を放浪したことがある。非常に惨めだ。自己憐憫がどぼどぼ湧いてくる。この歳になって俺はなにをやっているのだろうか、とか、生きていてもなんの意味も価値もありゃしねえ、とか、そんなことを考えながら海に出たら、夕日が、最高に綺麗だった。私は、もう、泣いた。泣きながら「この夕日を誰よりも感動しているのは間違いなく俺だ」と思った。隣には、若いカップルが「綺麗だね」とか話している。私は、心の中で、悪態をついた。うるせえ。ふざけるな。ばかやろう。お前らが綺麗だねと思っている五億倍、俺は、この夕日を綺麗だと思っているぞ。家も、金も、なんでもあるお前らには、これほどまでに染みてくる夕日の素晴らしさがわかるはずもなかろう。涙とともにパンを食べたものにしか、涙とともに夕日を眺めたものにしか、人生の味はわからないのだ。と。

 

書きながら「俺が一番惨めじゃないか」と思った。だが、仕方がないのである。苦楽を共にした記憶が、絆を深める。楽だけじゃダメだ。恋愛だろうが、友情だろうが、苦楽を共にした関係性は続く。しかし、楽はいいけど苦しいは嫌!みたいなひとと、私は、友好を築く術を知らない。大学生と接触すると、稀に、苛立つ。彼らには「苦しみが足りない」と思うからだ。だから、私は、苦学生が好きだ。いい感じに苦しんでいるひとをみると、いいぞ、友よ、この苦しみを乗り越えて俺たちは『いい男(いい女)』になるのだ。と、思う。惨めな男とは、掘っ建て小屋に暮らす男のことではない。絶対的なよろこび、いま、俺が世界で一番の幸せ者だと思える瞬間を持たない人間を、私は惨めな男だと思う。掘っ建て小屋に暮らしていようが、これをやっている瞬間は最高だ!と思える絶対感を持つ男は、豊かである。逆に、豪邸に暮らそうが、相対的なよろこびしか持たない(自分が幸せになることより、誰かに幸せだと思われることに重きを置く)男は、救いがたいほど、貧しい。

 

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わたり文庫『試みの地平線

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、北方謙三著作『試みの地平線』です。悩みに悩む童貞男子に、北方の兄貴は「ソープに行け!」と答えます。自分は生きている価値がない、自分は社会に適していないのかもしれない、毎日自殺を考えていると話す青年男子に、北方の兄貴は「まずは本を50冊読め!それでもダメなら、また手紙をくれ」と答えます。こどもが引きこもりになって苦しむ親御には「いますぐに家から追い出せ!あるいは、父親が仕事を全部放り出して、こどもと一緒に野宿旅をしろ」と答えます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

『友よ君は』

小僧ども、よく聞け。

俺はいい男である。少なくとも、そう言う他人が多い。年齢相応の風格も出てきた。金もある。バブルで儲けたわけではなく、精魂をこめて小説を書いて稼いだ、誇りを持てる金だ。したがって、女にももてる。日本に数台という車を持っているし、別荘も持っている。柔道は黒帯だし、FBIの射撃認定は中級だし、腕相撲では四十四年間に二人に負けただけだ。二十代の頃は、命がけの喧嘩を数回やった。

そういう俺に、おまえら、勝てるのか?

俺の回答が傲慢だとか一方的すぎるとか文句が多いが、おまえらは黙って俺の言うことを聞いてろ。文句を言うのは、二十年早い。

おまえらには、俺にないものがひとつある。若さだ。それを生かそうとしないおまえらを見ていると、なんともくやしくて、俺は怒鳴りたくなってしまうのだ。若さは、愚かさと同義だ。しかし、純粋なのだ。一途なのだ。俺が自分の全財産をはたいても買えないそれを、おまえらは持っている。

わかるか、俺の言っていることが。生きて、生ききって、ズタズタになり、どうにもならなくなってから、悩め。それまでは鼻の穴をふくらませて突っ走れ。

北方謙三試みの地平線』【講談社文庫】 

 

逃げない。晴れ晴れと立ち向かう。

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俺は昨日こんなところにいた。


逃げてもいいよ、とか、ありのままでいいよ、とか、みんなの居場所を作りたい、とか、そういうことを話す人々と連続して会った。言いたいことはわかる。だが、ちょっと敗北的に過ぎないか???と、思う。なよなよした男性が「ぼくは、みんなの居場所になりたいんです」などと話すのは、正直、気持ち悪い。少なくとも、俺はそんな場所には絶対に行きたくねえ、と、思う。居場所を作って、それで、どうするのだろう。男なら、アウェイに飛び出てなんぼなんじゃないのか、などと考える自分は古臭い人間なのだろうか。外部のない世界観は不潔だ。無論、休むことは大事だ。逃げることも大事だ。しかし、人生のメインテーマは『逃げる』ことではないだろう。誤解を恐れずに言えば、いつになったら勝負をするのだ、と思う。

 

逃げるが勝ち。わかるよ。でも、あんた、いつ勝負をするんだよ。俺には、お前が「勝負から逃げる言い訳を並べているだけ」にしか見えないぞ。そう思った。別に、強くなれとか、居場所なんか必要ないとか、そういうことは思わない。ただ、人生のメインテーマが『逃げる』ことになっているとしたら、それは、この世で最も悲惨なことだと思う。別に、そういう人間がいてもいい(とは思う)。ただ、そういう人間とは「友達になれない」と思った。お前が、いまの社会をおかしいと思うことはわかる。お前が、働きたい職場なんてひとつもないと思うことはわかる。ただ、大事なことは「そこで、自分はどう動くか」では、ないのだろうか。できるできないじゃない。大事なことは「はじめること」「自分から動き出すこと」「未熟でもいいから、愚かでもいいから、やってみること」では、ないのだろうか。

 

あんた、結局、逃げているだけだよ。こう言われて「ドキッ!」とするひとは、健全な証拠だと思う。生きている限り、絶対、なにかから逃げている。いま、この瞬間も、あとまわしにしているものが誰にでもある。無論、自分にも、ある。しかし、人生とは逆説的なもので「自分が後回しにしてきたもののなかに、自分が『これをやるのはこわいなあ』とか『これはやりたくないなあ(でも本当はやってみたい)』と思うもののなかに、最も大きな、最も雄大な、人生の醍醐味が眠っている」のだと思う。だから、恐れずに、やっちまいなよ。生き方に正解はないのだから、生き方に間違いもないんだよ。と、私は、このようなメッセージを一見読者の方々に向けているように見せかけて、他の誰でもない『自分自身をけしかける』ために使っている。苦楽を共にした記憶が、絆を深めるのだ。ならば、私は、私に(よろこびだけではなく)苦しみをプレゼントしてあげたいと思う。言ったからには、やらなければならない。そういう類の、M度高めの、贈り物をするのである。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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無難に生きるより、やりたいことをやって死のうよ。

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京橋駅前のサンマルクカフェにいる。今日、明日、関西でおはなを配る。成功者になりたいわけじゃない。ただ、挑戦者ではありたい。闘って負けることと、闘わないで負けることの間には、天地の差がある。他人の視線以上に、自分が、自分を軽蔑する視線に耐えられない。私は、なにもしようとしない自分を、軽蔑する。血と汗と涙を流す自分を、いい感じだなと思う。そういうことを、昨日、考えていた。

 

 

おおまかなスケジュール

5月15日-16日 おはなをあげる@関西【おはな希望者募集中!】
5月17日 【満員御礼】EVENT@東京都杉並区西荻窪「hana」
5月18日以降、FREE!【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月26日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
6月2日 15時 EVENT@千葉県千葉市「N-HOTEL

SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

That's Entertainment.

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熱海の朝焼け


牛肉が好きだ。肉ばかり食っていると「野菜も食え」と言われる。牛は、草食だ。草食動物を食えば俺も草を食べたことになるじゃないか、と言うと「お前はバカか」と言われる。バカはどちらなのだろう。やはり、俺に、なるのだろう。先日、埼玉県にある三芳サービスエリアで定食を食べた。定食には、サラダとか、味噌汁とか、ついてくる。当たり前のように、最初にサラダを食べる自分を見て「つまらない人間になったな」と自分を軽蔑した。消化的にも、最初はサラダがいいと言われる。しかし、幼少期、わたしはサラダなんか嫌いだった。しかし、いまは、最初にサラダを食べ、なんなら「健康にいいと言われていることをやっている自分って素敵」とか、思ったりする。そこに、頭で食べる(頭で生きる)退屈さを覚えた。

 

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たまねぎをもらう


大げさな話になるが「奴隷根性」という言葉がある。例えば、就職の問題。正社員である自分はしっかり生きている人間だ、という前提がある限り「働いていない人間は無価値」とか「この年齢で日雇い労働者はやばい」とか「当たり前ができないことに罪悪感を覚える」みたいな現象が生まれる。私は思う。世間的に良いとされていることをして『誇り』を抱いたり、世間的に悪いとされていることをして『自分をすり減らす』こと、など、これ、全部、奴隷根性ではないだろうか。自分はダメな人間だ。とか。自分は自分に自信がない。とか。自分が悪い。とか。これらは、本当に自分が悪いのか、ただ、自分が悪いと思い込まされているだけなのか。

 

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熱海、時々、幽玄

 

生きてるだけで金がかかる。正直、こういった現状に、この年齢になっても苛立ちを覚える。苛立ちを感じるのは、自分が、ガキンチョだからなのか。苛立ちを押し殺し、苛立ちを受け入れ、世の中とうまく折り合いをつけることが、大人になるということか。どちらが正しいかは、わからない。しかし、自分のハートは、確実に憤りを覚えている。なにかがおかしいと思う。おかしいと思うことを「おかしい」と言うと、大概、たしなめられる。だって、仕方がないじゃないか。世の中は、そういう風にできているのだから。と。なにが正しいかは、知らない。しかし、なにが楽しいのか、ならば、わかる。私は、案外、怒りという感情が好きだ。怒りは、生きる力になる。最下層の人間に残された、最後の、エンターテイメントになる。

 

note.mu

 

わたり文庫『旅へ』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、野田知佑著作『旅へ』です。人間は、さみしい生き物だと思う。だから、なにかを好きになれたときに、ああ、生きててよかったなと思うことができる。野田さんが好きだ。音楽が好きだ。旅が好きだ。野営が好きだ。熱海が好きだ。かっこいい人が好きだ。かわいい人が好きだ。楯突く人が好きだ。葛藤を抱えている人が好きだ。しがらみを抱えたクソガキが、時折かいま見せる摩擦熱が好きだ。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※

 

あの下らない、愚かしい大人たちのいう「人生」とかいうものに食われて堪るか。俺はあいつらのすすめる退屈な、どんよりと淀んだ人生には決して入らないぞ。そんな反抗心だけが唯一の支えである。狭いベッドの上でぼくは遠い日本の大人たちを想い浮かべ、しきりに腹を立てた。あの俗世にまみれた、手垢だらけの志の低い輩ども。俺を非難し、白い眼で見、得意な顔をして説教を垂れた馬鹿な大人たち。俺はただ「自由」でいたかっただけなのだ。誰にも迷惑をかけず、必死で生きる道を模索しているぼくに「真面目になって就職しろ」としかいえない奴ら。俺はあいつらより何倍も何十倍も真面目だぞ ーーー それから二十数年経った現在でも、ぼくはその頃の大人たちに怒っていて、決して許さんぞ、と思っている。当時、ぼくをバイキンのように見ていた親類の者に会うことがある。彼等は今や年老い(ぼくと余り年齢は違わないのだが)、病気の動物のような哀しい顔と眼つきをしてヨボヨボという形容がぴったりである。ザマ見ろ。

野田知佑『旅へ 新・放浪記1』【文春文庫】

 

無難に生きるより、やりたいことをやって死のうよ。

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日は昇る

 

私たちはきっと勘違いをしている。人並み外れたエネルギーがあるから、なにかをやれるんじゃない。なにかをやるから、エネルギーが湧き出すのだ。何かをやろうと決意するから、具体的に動き出すから、エネルギーが生まれるのだ。自信があるからやるのではない。自信なんかない。だが、とにかくやる。そこからはじまる。エネルギーを強くする方法なんかない。必要なものは、自分の目の前を絶えず飛び散る、エネルギーの源を狩猟する『瞬発力』だ。実際にやる。成否なんか問わない。成功すればラッキーだし、失敗すれば、何かを学ぶ。どう転んでも、何かを得る。成功者になることが目的ではない。ただ、挑戦者でありたいだけなのである。

 

おととい、バイク乗りの女性に出会った。私は、原チャに乗っていた。ひょんなきっかけで一緒に走ることになり、原チャ乗りの私は「ついてきな」と話すライダースジャケットが最高に似合う女性がかっ飛ばすバイクのうしろに、必死に喰らいついた。法定速度を微塵も気にしない彼女の後ろ姿を眺めながら、ああ、なんてかっこういいのだと思った。誰にも届かない声で「あねごー!」と叫んだ。あねごの後ろ姿は本当にかっこよかった。ああ、俺に、かっこいいと思わせてくれてありがとうと思った。シンプルな話だ。男は、かっこういいものに惹かれる。かっこういいものに出会い、ああ、自分もこんな感じの人間になりたいと思えるとき、グイッ!っと潜在能力が引き出される。願望と、潜在能力は、セットだ。そこに正しさなんか微塵もなくとも、震えさせてくれるものがあれば、人間は「生きたい」と思う。

 

誤解を恐れながら言えば、いま、足りないものは『かっこよさ』だと思う。世の中が合理的になればなるほど、どうすれば得か、どうすれば儲かるか、どうすれば安心安全か、みたいなことばかりが語られる。手垢まみれの『ラブ&ピース(あるいはエコ的な暮らし)』が横行し、空々しい概念ばかりが宙を舞う。愛とはなにか、とか、正しさとはなにか、とか、そういうものでは吹き飛ばせない憂鬱が、現代人(というか、自分自身)のこころに堆積している。私は、悩みやすいタイプの人間だから、しばしば「生きるとはなにか」みたいなことを考える。しかし、最終的に着地する地点は、いつも同じだ。それは『無難に生きるより、やりたいことをやって死のうよ』という、ひどく単純で、ひどく頭の悪い言葉で、表現することができる。損得勘定と呼ばれているものの、得は、本当に得なのか。わたしには、わからない。損の中に、最大の得が眠っている。そのように感じることは、頻繁にある。

 

 

 

 

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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LINE ID ibaya

目に見える成果と、目に見えない成果。

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菊名駅前のコロラドにいる。ごちゃまぜの家の離れの離れに、モバイル茶室を作った。躙口(にじりぐち)もある。2畳の広さである。横浜の住宅街とは思えない竹林感が素晴らしい。茶室にもなれば書斎にもなる。時には懺悔部屋にもなる(一応、内側から鍵もかかる)。総制作費は0円である。譲り受けたもの、拾ったもの、余っているものを活用して作った。5月12日に、このモバイル茶室で『心の冷たいホットサンド屋さん』を開店する。是非、お気軽に遊びにいらしてください。

 

 

おおまかなスケジュール

5月11日 野点カンタービレ群馬県伊勢崎市
5月12日 12時 心の冷たいホットサンド屋さん@モバイル茶室
5月13日-16日 FREE!【イベント出演依頼諸々募集中!】

5月17日 14時 EVENT@東京都杉並区西荻窪「hana」
5月18日-6月1日 FREE!【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月26日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
6月2日 15時 EVENT@千葉県千葉市「N-HOTEL

坂爪圭吾 SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

ごちゃまぜの家新規住人の募集!【追記・募集終了しました】

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知る人ぞ知る、ヘネシーハンモックもあります。


ごちゃまぜの家を乱暴に説明すると、共有スペースが「(住人だけではなく)世界の誰もが使えるようになっている」ことである。だから、一応、誰でも自由に使えることになっている。5月15日から、ごちゃまぜの家の二階の部屋が空く。そこで暮らしていたK様が、千葉県に引っ越すことになったからだ。そこで、ごちゃまぜの家では『新規入居者』を募集することになりました。家賃は光熱費込みで5万円。トイレ付きの個室。部屋の広さは6畳で、キッチンは3畳程度の1Kです。二階にも一階にも風呂があり、どちらでも好きな方を使えます。もし「令和になったし、生活を大きく変えてみるか!」と思われる方がいたら、お気軽にご連絡ください。ウィークリー利用など、ご要望にも(全身全霊フレキシブルに)対応します。

 

ごちゃまぜの家に暮らすメリットと、デメリットを列挙します。メリットは家賃節約・住宅街だけど裏に林がある・落ち着く・鳥の種類が豊富・普段出会わないひとと出会う率があがる(だけど基本的には家は静か)・タダ飯が食える・禅寺っぽい・共有スペースをイベント会場に使える・坂爪圭吾が出没する、です。デメリットは家が古い・築63年・壁が薄い・菊名駅まで徒歩10分の坂道がしんどい・人間関係のドラマが(良くも悪くも)絶えない・予測不可能な出来事が割と起こりやすい・坂爪圭吾が出没する、です。いかがでしょうか。暮らしてみたい!と思われた方はいるでしょうか。部屋を見てみないことにははじまらないと思うので、内乱(間違えた内覧)をご希望される方は、お気軽に坂爪圭吾までご連絡ください。

 

※※※ こちらの募集、無事に決まりました ※※※

 

連絡先・坂爪圭吾
keigosakatsume@gmail.com
LINE ID ibaya(LINEだとレスが早いです)

www.youtube.com

 

逆に、どんな人が暮らしたら面白いのだろうか。学校に行くことを拒否する10代の男女が「新手の下宿先としてごちゃまぜの家に暮らす」とかは面白い気がする。色々な人間と触れ合うことが、一番の社会勉強になる。6畳の部屋を「友達と一緒に共有する」とかでも、全然OK。基本的にいまは実家で暮らしているけれど、たまに個室が欲しいのよ。みたいな要望にも、応えたい。基本的に都会の家賃は高い。家賃のために嫌な仕事もやめることができない、みたいな現状はおかしいと思う。私が思う、最適な家賃は「一万円」だと思う。一万円で暮らせる家が増えたら、ひとり三軒くらい、全国各地に拠点を持てる。結果、移動が促進されて人生が軽やかになる。この場所を『いい感じの風が吹く』場所に、していきたいと思う。

 

note.mu

 

わたり文庫『かもめ食堂

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、群ようこ著作『かもめ食堂』です。わたり文庫とはなにか。改めて説明をすると「返却する必要のない循環型の図書館」みたいなものです。ご希望される方に、本を贈り、贈られた人は、読み終わり次第次の誰かに(気が向いたら)まわす。そういう感じの、図書館とも言えない図書館です。一応、わたり文庫の部屋が、ごちゃまぜの家一階の母屋の部分にあります(読みたい!と思う本を見つけたひとは、ごちゃまぜの家にある本はどれでも自由にお持ち帰りいただけます)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

「ああいうのもいいけど、本当に人が食べる毎日の食事って違う」

それがサチエのテーマになった。母が漬けていた糠味噌漬けもひきついだはいいが、どんどん味が悪くなっていって、あせった時期もあった。それでも試行錯誤して糠床に昆布を足したり、ときには魚の頭もいれたりして、何とか元に戻した。

「私、おいしい御飯とお新香とお味噌汁があれば、何もいらないな」

と学校でいったら、

「おばあさんみたい」

と笑われた。サチエにとっての究極の食事はこれだった。研究がてら、いろいろな店で食事をしても、素材を油や調味料でごまかしているものが多くて、サチエにとって濃い味付けが多かったが、クラスメートはそういう味の濃いものを、おいしいと喜んで食べていた。みんな薄味よりも濃い味のほうがずっと好きで、食物科に通っていながら、自分の食事はいつもカップ麺という子さえいた。

「華やかな盛りつけじゃなくていい。素朴でいいから、ちゃんとした食事を食べてもらえるような店を作りたい」

勉強をしていくうちに、だんだんサチエの夢はふくらんでいった。

群ようこかもめ食堂』【幻冬舎文庫

 

目に見える成果と、目に見えない成果。

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篠原八幡神社

 

一歳年下のいとこに、耳に障害を持つ「あかねちゃん」という女の子がいる。母親の、妹の、娘になる。昔、新潟の実家で一緒に暮らしている時期がある。あかねちゃんは常に補聴器をつけていて、耳の障害のせいなのか、話す言葉も聞き取りづらい。そのため、普通に生活をしていても、自分の気持ちをなかなか上手に相手に伝えることができない。相当なストレスを、あかねちゃんは抱えていたと思う。しかし、あかねちゃんは、それでも「自分の思いを伝えること」をやめなかった。短い言葉で、相手に聞き取りやすい言葉を選んで、一生懸命に自分の思いを伝えようとする姿をみていると、理由はわからないが、涙が出てきそうになる瞬間があった。

 

言葉を話す。普通の人から見れば、なんの変哲もない、日常的な行為だ。しかし、あかねちゃんにとっては「誰もが当たり前にできることだけれど、自分にとっては非常に大変な営み」だった。私たちは、よく、世間的な基準に照らし合わせて「お前はいい」とか「お前は悪い」とか、そういう価値判断をしてしまう。そういうとき、あかねちゃんの苦労は、話にもならないということになるのだろう。目に見える成果を求められる世の中では、あかねちゃんの「自分の言葉を相手に伝える」という当たり前の行為は、なんの価値も生まない。なんの役にも立たない。そんなことより、一円でも多く金でもなんでも稼いでこい、みたいな話になる。しかし、私は、目に見える成果だけを、すべてにしてはいけないと思う。周囲から見れば「なんでそんなこともできないのか」とか「お前はなまけている」と思われるような人々も、内面では、血の滲むようなとんでもない頑張りをしている場合がある。

 

何もしていない自分には価値がないと感じる時、生きているだけではいいと思えなくなる。生きているだけではダメということになり、生きていることそのものが負い目になる。しかし、私達が自然を美しいと思う時、それは「そのままの姿でそこに在る」からだ。目に見える成果と、目には見えない成果がある。それは、他人からの目だけではない、自分の目にも映らない「自分の成果」が、必ず、ある。だから、自分を責めてはいけないのだと思う。生きているだけで、充分、頑張っている。人生は、他人を蹴落とすなんてけち臭いものじゃない。長所は人の役に立つために、短所は愛されるために、あるのだろう。自然を美しいと思う時、それは「そのままの姿でそこに在る」からだ。自然を愛するように、自分を愛したいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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LINE ID ibaya

大切なものは、大切にするほど、大切になる。

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渋谷区松濤のカフェ・ベローチェで、コーヒーフロートを食べている。先刻まで「おはなをあげる」と銘打ち、希望者におはなを配る営みをした。渋谷在住の女性から「おはなをください!」と連絡をもらい、手渡しをしたら「実は最近仕事がつらくて心も体も荒み、おおげさだけど『死にたい』と思っていたのですがおはなを貰ったら『生きたい』と思えました。生まれて初めて、渋谷に住んでいてよかったと思いました!」と言われた。これはうれしかった。「いい仕事をしたな」感に包まれながら食うコーヒーフロートは美味い。人間、いい仕事をしてなんぼである。

 

 

おおまかなスケジュール

5月6日-10日 FREE!【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月11日 昼・群馬県伊勢崎市 夜・FREE!
5月12日-16日 FREE!【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月17日 14時 EVENT@東京都杉並区西荻窪「hana」
5月18日以降、FREE!【イベント出演依頼諸々募集中!】
5月26日 15時 定期演奏会@神奈川県横浜市「わたり食堂」
6月2日 15時 EVENT@千葉県千葉市「N-HOTEL

坂爪圭吾 SCHEDULE on http://urx2.nu/xkMu

 

ibaya.hatenablog.com

 

多拠点生活じゃない。無拠点生活。

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生まれて初めてサーフィンをした。これが良すぎた。波が来る。必死で乗ろうとする。逃す。溺れる。「うおー!」とか絶叫する。ふと、後ろを見ると次の波が来ている。逃した先に、もっと大きな波が来る。そういうことが連発する。人生も似ている。逃した波の先に、もっと良い波が来る。しかし、ボケっと生きているとそれを逃す。逃した波を悔やんでも、なにも生まれない。次の波。次の波だ。反省もしない。後悔もしない。ただ、波に乗る。懲りずに、何度も、懲りずに、懲りずに。

 

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頻繁に聞かれる質問のひとつに「普段はどこを拠点にしているのですか?」というものがある。過去に五億回は聞かれた。多拠点生活、という言葉もある。しかし、私が採用しているのは『無拠点生活』であり、私に拠点はない。居場所もない。居場所がないことを悲しいと思うこともある。が、調子がいいときは「最高に自由だ」と思う。拠点なんかない。居場所なんかない。そんなものはいらない。ただ、サーフィンをしているときは「海が俺の居場所だ」と思う。日光浴をしているときは「太陽の下が俺の居場所だ」と思う。野営をしているときは「地球全体が俺の居場所だ」と思う。要するに、自分がなにかを好きだと思うとき、世界全体が居場所になる。居場所とは、場所ではない。人間だ。なにかを愛する自分の『心』だ。

 

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サーフボードはまあまあ重い。これを担ぎながら「お前の命はサーフボードより軽い」と、誰かに言ってみたくなった。巷には「命は地球より重い」という言葉がある。こんな手垢まみれの言葉に、感動する人間がいるのだろうか。あなたの命は地球より重いのよ!だから生きなさい!などと言われて、自殺をやめる人間がいるだろうか。私だったら「うるせえよ」と思う。だから、私は「お前の命はサーフボードより軽い」と、誰かに言いたい。それで怒られるなら、怒られたいと思った。もっと怒りを引き出したいと思った。私は、人間の中にある『感情のスイッチ』を押したいと思う。怒りを通じてなのか、涙を通じてなのか、形はなんでもいい。相手の生身の感情を引き出したいと思う。表面的なやりとりに、微塵も関心がない。人間、常に、目の前にはふたつの道がある。無難な道と、危険な道。無難な道を選べば、無難な人生が続く。無難な人生の先に、ガッツポーズをできる瞬間がまっている予感は希薄だ。だから、私は、危険に賭けたい。危険な道を選びたいと思う。そんな思いで、私は、意図的に相手の感情を逆撫でしたくなることがある生き物だ。

 

note.mu

 

わたり文庫『自分の中に毒を持て』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、岡本太郎著作『自分の中に毒を持て』です。音楽活動をはじめて以来、周囲から「うまくなれ」とか「うまくなければ音楽をやる資格はない」みたいなことを、散々に言われた。しかし、私は、絶対に言うことを聞かないことにした。なぜなら、そう言う人の顔が「幸せそうに見えなかった」から。幸せそうじゃないひとの言うことを聞いたら、自分まで、同じ人間になってしまうと思ったから。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、沖縄県にわたりました ※※※

 

ほんとうに生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ。それを忘れちゃいけないと思う。

熟すということは、技能や熟練とは関係がないというのがぼくの信念だ。芸術は勿論、スポーツも歌も会話もすべて、下手なら、むしろ下手こそいいじゃないか。そう思って平気でやればいい。もっともっと下手にやろうと決心すれば、かえって人生がおもしろくなるかも知れない。むしろ、歌やスポーツや会話のうまいなんて奴にかぎって世間の型や基準のもとに決められちゃって、それに馴らされている人間だ。

だから、うまい奴ほど自分がどの辺の位置に入るのか、まず“基準”のほうを先に考える。

しかし、そんな基準なんて度外視して、下手なら下手なりに、自分は下手なんだと決意すれば、もっと自由な歌い方もできるし、スポーツにしても、ナリフリかまわず自由に動くことができるだろう。

下手ならなお結構、とはぼくが昔から言っていることだ。たとえば、うまいと評判の絵にろくな絵はないし、うまいといわれる歌にしても、ちっとも感動しない。

だからといって、自分からひき退って、ジメジメして下手であることを認めてはだめだ。そうじゃなく、自由に明るく、その人なりのユニークな下手さを押し出せば、逆に生きてくると思う。また、そのほうが人に魅力を感じさせる。たとえば、みんなから歌がうまいといわれている奴だって、自分はうまいけど、やはりあの人には劣っていると思っているものだ。

そういう人の前で、平気で下手に、明るく歌を歌ってやればきっとうらやましがられると思う。うまいという奴にかぎって、いまいったようにどこかにコンプレックスをもっているもので、むしろ下手なことを明るく自認すれば、コンプレックスをもたずにすむじゃないか。

岡本太郎『自分の中に毒を持て』【青春文庫】

 

大切なものは、大切にするほど、大切になる。

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過去に家なし生活をした。家も金も仕事もない状態で、人間は「楽しく快適に生きることはできるか」という問いを、自分を使って試した。結果、なくてもどうにかなることがわかった。当時の自分を、私は愛している。財産も名誉もあるから幸せ。これじゃ普通だ。財産も名誉も生きるために必要と言われているなにもかもがないのに、それなのに元気。そういう人間の方が、面白い。「あるから元気」は普通。「ないのに元気」が新しい。わたしは、逆が、好きだ。常識の逆を生きて、生きるために必要と言われていることのほとんどをガン無視して、それでも楽しく生きることができることを証明できたときに「ざまーみろ」と言ってやりたい。果たして、誰に、そんなことを言いたいと思うのか。謎だ。おそらく、自分を縛り付けてきた『何者』かに対し、クソガキな自分は、常に中指を立てているのだと思う。

 

音楽も似ている。「上手いから堂々としている」とか「受賞歴があるから堂々としているの」のは、普通だ。逆に「歌唱力がないくせに堂々としている」とか「半端なくヘタクソなのに死ぬほど楽しそうにしている」人間に、私は、魅力を覚える。なぜならば、その人自身が問いになっているからだ。普通、必要とされているものを備えていない人間が、それなのに『幸せそうに生きている』ことが、最高のカウンターパンチになる。そこを目指したいと思う。なんでこいつらは、こんなにダメなのに、楽しそうなんだ。幸せそうなんだ。と、そういう驚きを与えたい。公では歓迎されないこと、悪いとされているものを、肯定したい。自分のアイデンティティを『ある』ではなく『ない』に置きたい。なにかがあるからではなく、なにもないうえで『それでも人間は幸せに生きることができる』ことを、証明してみたい。

 

最高に素晴らしいGWを過ごした。野営をした。波に乗った。肉を大量に食った。涙をたくさん見た。友達の涙。自分の涙。初対面の人の涙。素晴らしい時間を過ごせば過ごすほど、あと、俺はどれくらい生きることができるのか、などと考える。人生は短い。すべてに終わりの瞬間がある。やりたくないことをやっている時間はない。死なないために生きるのではなく、自分を最大限に生かして、死にたいと思う。自分が生きている間に、残したいものはなにもない。ただ生きて、ただ死ぬ。それだけでいい。なにも残らなくていい。ただ、生きている時間、残された時間、どれだけ自分に深く刻みこめる『何か』に出逢うことができるか。それに関心がある。畢竟、面白ければ、なんでもいいのだ。大切なものは、大切にするほど、大切になる。長年愛用してきたものに『愛着』を覚えるように、自分という乗り物【感情】を、時にぞんざいに扱うこともありながらも、大切に扱って行きたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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