いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

馬鹿のままでいい。馬鹿のままがいい。

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岐阜県多治見のデニーズにいる。県境を超えると「うおー!」となる。今日はイエローモンキーばかりを聞いている。頻繁に思い出す歌詞に『せめて身体だけはキレイに』というものがある。野性を取り戻すだとか獣になるだとか、そういうことをテーマに日々を生きている。しかし、獣になればなろうとするほど、獣になりきれない自分を見る。美女と野獣。多分、一人の人間のなかには両面がある。獣になればなろうとするほど、自分のなかにある美しさを知る。獣のままではいられないし、美しいままでもいられない。その屹立が『人間であること』の証明だと思う。

 

 

どれだけ社会から弾き出されても、身体だけはキレイにしておきたいと思う。そう思うことで、かろうじて人間でいられる気がする。強制収容所無人島に漂着した人々の中で、生存率が高いのは『身だしなみを整え続けた人々』だったと聞く。人間であることを投げ出した時、人間は、人間以外のものになる。そういう話を昨日出会った男性にしたら、彼は言った。昔、どこにでもいるような普通の女の子と付き合っていたことがある。ある日、彼女は『せめて手だけはキレイにしておきたいと思って』と、手の手入れだけは毎日しっかりしているのだと聞かせてくれた。その話が、私にはなんだか物凄いグッときて、彼女がとてもかけがえのないものに思えた。」と。身体をキレイにすること。それは、言い換えれるならば『慈しむ』ということだ。自分自身を慈しむ。祈りにも似ている。人間的な行為だと思う。

 

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敬虔さを取り戻す。

長野県では複数の登山家と出会った。私は、登山家の雰囲気が好きだ。地に足がついている落ち着き。物腰は柔らかく穏やかだが、言葉のひとつひとつが静謐で深い。巨木と話している感覚になる。ある登山家は言った。私は山が好きだ。山に行くことで自分がひとつの生命体であることを思い出す。森林限界に足を運ぶと、こんな世界もあるのかと厳粛な気持ちになる。しかし、最近は忙しいためにあまり山を登れていない。具体的に次はあの山を登りたいと目指す気持ちもあるが、実際、大事なことは『自分の山を登れているか』どうかだと思う。と。私は、ああ、いいなあと思った。自分の山を登るということ。自分は、自分の山を登れているだろうか。その後、登山家に問われた。坂爪さんは自然が好きなように見える。では、なぜ、自然に足を運ぶのだと思いますか。

 

私はしばらく考えた。自然に足を運ぶことと、本を読むこと、音楽を聞くこと、ひとと話すことは似ている。それは『敬虔さ』を取り戻すことだ。自然の中に足を運ぶと、時折、どうしようもない感動に打ち震えて何も言葉が出てこない瞬間がある。大げさだが『神に触れた』としか形容ができないような瞬間。その時、私は敬虔さを胸に抱く。ひとと話している時も同じだ。いま、自分は魂に触れることができたと思える瞬間の中には、たまらない喜びを覚える。逆に言えば、敬虔さから遠く離れた日々を過ごすと、自分の内側に『驕り』が蓄積する。俺が、俺が、の思考にまみれて、結果つまらない人間になる。競争・優劣・比較などの相対的評価の中でしか自分自身を確認することができない、頼りない矮小な存在になる。目の前にある自然に対するリスペクトを失い、転じて、自分自身に対するリスペクトを失う。慈悲を失う。慈悲のない誇りは傲慢である。そのことを容易に忘れてしまう。

 

私は連絡先を公開している。様々な方々から連絡が届く。頻繁に感じることは「自己受容度の圧倒的低さ」で、これだけ物質的に豊かな日本で健全な自己肯定感を抱けている人間は圧倒的に少ない。なぜだろう。幼少期から、勇気をくじかれるような体験を重ねたからだろうか。なにが人間の勇気をくじくのか。なにが『そのひとが、そのひとであることを阻害する』のか。自身の無さや無価値観は、大きな何かと切り離されている感覚を生む。自然に足を運ぶと、大きな何かとのつながりを取り戻す。何かに対して敬虔な気持ちを抱くとき、自分自身もまた、同じ創造物のひとつであることを知る。自分が尊いように、他のすべても尊いのだ。そう思えた時、ひとは健全な自己肯定感を胸に抱く。が、いま、この世の中ではそれを抱くことがとても難しいことになっている(ように思う)。否、難しいと書いたが「難しいことはない」と思う。ちょっとしか考え方の切り替えで、ひとは簡単に自分【世界】を肯定することができる。では、そのスイッチはどこにあるのだろうか。

 

わたり文庫『はたらく動物と』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、金井真紀著作『はたらく動物と』です。長野県辰野町でお会いした女性Y様から「この本は素晴らしいので、友人に配るために大量に購買したのでわたり文庫にもぜひ!」とお譲りいただいたい一冊です。まだ半分しか読めていないのですが、名著の香りがぷんぷんします。Y様には、その日、辰野町名物『まつくぼ』の爆盛りソースカツ丼もご馳走していただきました。最高だったので辰野町に行く機会があれば是非。ながたの湯の回数券までいただきました。こちらの本をご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな

 

芭蕉先生もそうおっしゃっている。

鵜ががんばってとった鮎を人間サマがかすめとる。それを、やんややんやとはやしたてる鵜舟のお客。愉快な夏の風物詩だ。でも、なぜだろう。はじめはおもしろいんだけど、だんだんかなしくなってくるのである。

 

(中略)

 

どんな人もその人にしかできない経験をしていて、その経験ゆえの物の見方や物語をもっている。わたしは、その断片を拾い集めるのが好きだ。それも教訓めいた立派なものじゃなく、すこし間が抜けているもの、にんまりできるおmの、癖のあるものにひかれる。

 

今回、拾い集めたのは、犬、ニワトリ、馬、そして鵜といったはたらく動物とその周辺に生きる人たちの物語。

 

はたして、鵜はかなしかったのか ー

 

金井真紀『はたらく動物と』【ころから】

 

馬鹿のままでいい。馬鹿のままがいい。

犬の調教師曰く「凶暴な犬も、多くの人に触ってもらうことでおとなしい犬になる」らしい。人間も同じだ。私は男で、女性と抱き合っている時にエネルギーの循環を感じる。よく「エネルギーが充電されるぅ」とか言うが、違う。エネルギーはすでにある。ただ、停滞しているだけだ。抱き合うことでエネルギーが循環する。循環の感覚をいいなと思う。愛するムラキテルミさんのブログを見たら「逆立ちをしたらハゲが治った」的な驚愕の話を聞いた。ハゲに悩む企業の社長さんが、あらゆるハゲ対策を試した結果『要するに頭に血を流せばいいのだ』と思って逆立ちをしながら読書をした結果、毛が生えた。ふさふさである。逆立ちは最高だ。踊りとかもいいのだと思う。自転車移動中、疲れた時に腕をぶんぶん振ると結構元気になる。要するに血流だ。腕も、腰も、人生も、ぶんぶん振り回していくことが大事なのだ。

 

突然だけど今月末に一緒に関東から長野県大町市に行けるひとを募集する。11月28日〜30日のどこかで、目的は「長野県大町市にある土地の件について、実際に大家さんに会って具体的なお話を聞く」というものになる。何度か足を運んだものの、大家さんも非常に忙しい所ジョージさんのような人柄であるためにまだ会えていない。が、この日程なら時間を作ってくださるとのこと。大家さんという呼称だと「堅苦しい人なのか…」って身構えちゃう部分もあるかもしれないけど、恐れるなかれ、半端なくいいひとであること間違いなしです(なんて偉そうに書いてしまって超絶ごめんなさい…!!)。日帰りでもいいし、野営道具などを持参して数日長野に滞在してもいい。理想は車で行けることなのだけれど、いま、ごちゃまぜの家に車はない。誰か「車を出すよ!」とか「レンタカー借りるからみんなでいくか!」とか、フレキシブルに対応できる方がいたらご連絡をいただけましたら超絶うれしいです。人数が集まり次第、日程や待ち合わせ場所を決めていけたらと思います。場合によっては、速攻で『森ジム』作りにはいるかもしれません(インディアンのテントを張って、焚き火をして、とりあえず暮らせるようにしたい)。

 

連絡先・坂爪圭吾

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これから一応名古屋に向けて自転車を漕ぐが、宿のあてもなにもない。俺はどこに行くのだろうか。一回休むと歩き出すためにエネルギーを要するが、一回、自転車を漕ぎはじめたら野生アゲインである。ゴリラみたいな顔をして自転車を漕ぐと「大概のことは、どうでもいいことだ」みたいな気持ちになる。宿がない。飯がない。金がない。仕事がない。夢がない。目標がない。友達がいない。彼女がいない。社会的信用がない。希望がない。未来が見えない。それがどうした。それがなんだっていうんだ。そんなこと、どうでもいいじゃないか。目の前に壁があるとする。壁を前に嘆くことは簡単だ。しかし、簡単なことに価値はない。壁に落書きをするのも、壁をぶち壊すことに楽しさを覚えるのも、壁をすり抜ける忍術を覚えるのも、生き方はそれぞれの自由だ。今朝、長野を出たときは小雨が降っていた。しかし、現在の岐阜は快晴である。雲間から太陽が覗く。それだけでたまらない開放感に包まれたりする。そんな単純無欠の自分を、いいな、などと思ったりする。

 

 

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俺はどこに行くんだろう。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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楽しいなら、正しい。

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筋トレも兼ねて、長野県を自転車で移動している。松本駅から走り出して数分後「なんで俺はこんなことをやってるんだろう」と思った。毎回、新しいことをやるときは「もう帰りたい」と何回も思う。引き戻そうとする力が働くのだ。だがしかし、この声に負けてはいけない。こんなことをやっても無駄だよと囁く悪魔の声に対し、私は言う。俺はお前を知っている。お前の声を聞いたら俺はうだつのあがらない人生を送ることになるだろう。しかし、お前の声を突破した先にまだ見たことのない快楽が待っていることを知っている。

 

 

天国と地獄を反復横跳びする日々を過ごしている。長野の紅葉は最高だ。悪魔の声に屈しないで良かった。別に特段用事があるわけではないので、今は、長野県箕輪町で呆然としている。昨夜は大町市在住の方にお世話になり、数週間ぶりに布団で寝た。すごい寝た。今日は、松本駅で合流した方に箕輪まで車で送っていただき、温泉をご馳走になった。今日はどうしようか。野営道具はない。最悪漫画喫茶で寝るが、なんか嫌だ。奇跡が降臨することを待ちながら、いま、みのわ温泉の休憩所で横になりながらこの記事を書いている。筋肉痛が痛い。

 

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プロテイン片手に未来を語り合う。

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長野県大町市でもしかしたら自由に使わせていただけるかもしれない空き地がある。整地されていないため、土地というより完全に森だ。仮に森が与えられたら何をしたら面白いのか。そうだ、森にジムを作るのはどうだろう。最近は筋トレがブームだ。が、ジムには行く気が起こらない。人間、狭いところに押し込まれるとどうしても闘争心や競争心が芽生える。俺の方が筋肉がすごいとか、やわな自分はジムに足を運ぶ資格がないとか。多分、ジムの弱点は「屋内であること」だと思う。私は、風が吹かない場所が嫌いだ。それならば、森にジムを作って『森ジム』とか作ったらどうだろう。最初は懸垂棒一個でもいい。懸垂棒一個(もはや木)しかないのに「ジムです」といえば、そこはジムになる。言ったもの勝ちだ。あとは廃タイヤなどを器用に使えば、手作りのジムを生み出せるかもしれない。鶏も飼ったら素敵だと思う。

 

アラスカの住人は『フルライフ』という言葉を使う。体全体をフルに使って生きる生活を彼等はフルライフと呼ぶ。都会に暮らしていると、頭ばかりを使って嫌な感じの疲労感が溜まる。肉体労働をする機会も少ないから、毎日2〜3割程度の力しか出し切っていない感覚がある。私は、人間全体、肉体全体で生きたいと思う。仮に森が与えられ、野営生活をしながらジムを作ったり渓流釣りをしたり農作業をうんちゃらかんちゃらしていたら、晩飯は酷く美味いものになるだろう。夜もすやすや眠れそうだ。自転車を漕いでいると少しだけ野性味が蘇る。もう漕げない、もう終わりだと思った時にブランキージェットシティの『PUNKY BAD HIP』という曲を流すと踏ん張りが効く。古い世代の奴らは金でなんでも買い漁った。だけど俺たちは自然の掟の中で生きるケダモノの世代さ。となる。

 

もう帰りたいと囁く声に従わないで良かった。長野の自然は格別だし、疲労後の温泉や食事や睡眠も最高だ。登山家の方は「毎回登り始めは、なんでこんなことやってんだろうって思う」と話していた。筋トレも同じだ。最初はやらない言い訳が大量に生まれる。しかし、やった後は確実に「やってよかった!」となる。数日前に会った女性は、極度のカナヅチだったが沖縄の海を泳ぎたいという熱烈な情熱を実現させるべく、大人のスイミングスクールに通ってクロールを覚え、先日久米島の海に潜って素晴らしい写真を撮影してきた。苦手を克服する姿はまじで素晴らしい。仮に、私が自転車を途中で諦めていたら「自転車で走るなんて馬鹿らしいからやめなよ」みたいなことを周囲に言ったりするのだろう。やりきったことのない人間が、周囲にネガティブな情報を振りまきはじめる。やりきった人間は『やりきった感動』を語る。エネルギーの質が異なる。私はやりきった人間が好きだ。感動を語れる人間が好きだ。北アルプスを登りたいと思う。小柄な女性も20キロ近い荷物を背負って山頂を目指す。その姿を、私は猛烈に美しいと思う。

 

森を開墾してジムを作る。森ビルに対抗しない形で「森ジム」を手伝りするのはどうだろう。気温0度。寒いです。 #みんなでプリケツ #北アルプリケツ

 

楽しいなら、正しい。

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去年の今頃、自転車で横浜から長崎まで1800キロ程度走った。なぜ走れたのかは謎だが、長崎に比べたらどこも近距離だなと思える。愚行の良い所【暇人の底力】は、謎の基準を増やせることだ。長野県大町市は寒く明け方は氷点下を記録した。これから岐阜を目指して南下するため、基本的には温かくなる。地獄を経るメリットは『相対的に世界が天国になる』ことだ。この前強盗に拳銃を突きつけられたから、拳銃以外ならもうなんでもいいやみたいにもなる。合言葉は『来た時よりも逞しく』である。昔なら血反吐を吐くほどのダメージを負っていたであろうことに、割と平気でいられる自分を発見した時に「俺って成長したんだな」と思える瞬間は楽しい。

 

楽しいなら、正しい。大町市で一晩お世話になった還暦を迎えたばかりの女性T様は言った。「私には息子が三人いる。親としては、どんな生き方をしてくれても構わないから、楽しそうに生きていて欲しいなあと思う。世間的にどうだとか、ちゃんとするとか、しないとか、そういうことはあまり気にしないでいい。どんな道でも、本人が『それを楽しめているならば』、それは正しい道なのだと思う」と話していた。素晴らしい言葉だ。楽しいなら、正しい。逆に言えば、どれだけ世間的には正しいことをしていたとしても、当人が苦しそうにしているのならばそれはとっても悲しいことだ。自分の体が感じる喜びを大切にすること。私は、私の大好きな人々には「どのような生き方だとしても構わないから、無論、不完全でも構わないから楽しそうに生きていて欲しい」と思う。同じように、自分自身に対しても楽しそうに生きていて欲しいと思う。

 

巷では「遊びで生きてるわけじゃない」などとそれが素晴らしいことのように言う人もいるけれど、私は、遊びで生きててなにが悪いのかがわからない。誤解を恐れずに言えば、私は「面白ければなんでもいい」と思っている。日本各地や世界各国を流転しながら、私は、面白いと思えるものを探している。しかし、最近頻繁に思う。面白いと思えるものなんて、世界にそれほどないのだ。この世で一番面白いもの、それは『自分自身』だ。受け身の自分、お客様である自分、その他大勢の自分であることを乗り越えて、創造する側にまわること。環境とは、自分の中にあるものを引き出す為の要因でしかない。あくまでも、主役は自分である。自分は、これからなにを生み出すのだろうか。自分は、自分に期待をしたいと思う。

 

 

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紅葉の長野を自転車で走る。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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自分に「いいね!」を出し続ける。

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神奈川県綱島デニーズにいる。ロードバイクを譲り受けたので、メットを買いにブックオフに向かう。中古でも高額で戦慄する。1500円のヤツを見つけたのでレジに並ぶ。行列。横浜。都会。店員のおばちゃんが猛烈なスピードで客をさばく。声は大きいが、声が死んでいる。機械だ。目が客を見ることはない。顔面も陰っている。覇気はない。死臭がする。一体、誰に向かって「ありがとうございました」と言っているのだろう。私は、対面相手からモロにエネルギーを受け取るために、息を止めた。自分の順番だ。私は、小刻みに鼻息を噴射し続けることで「お前の波動を絶対に俺の体内にいれてたまるものか」と抵抗し続けることでことなきを得た。

 

 

バイトリーダーらしき細身のヒョロい眼鏡の男性が「そろそろ休憩まわすからね!いいね!」とイキっていた。私がここで働くとしたら、彼に従わなければならないのだろうか。無理だ。集団で働いている人々を尊敬する。金のため、と割り切ることが自分にはできない。店内では音楽が流れている。私は、J-POP(とかテレビとかラジオ)を聞くと頭がおかしくなる。精神的にレイプをされている気持ちになる。耳が腐る。嫌いな先生の授業中も耳を塞いでいた。最近の流行歌手らしき女性が「出会いと別れを〜♩」と歌っている。私は、おい、このあとに『繰り返し』とかありきたりなことを歌うんじゃねえぞと思った。ら、大音量で「繰り返し〜♬」と流れてきて、ああ、この世の終わりだとか思いながらファックオフを出た。

 

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生きづらいったらありゃしない。

私は新潟高校という比較的進学校を卒業した。同級生で、小学校の先生になった女性がいる。彼女に「学校で一番大事だと教えていることはなに?」と尋ねたら、彼女は、冗談一切抜きで「空気を読むこと」と答えた。私は、率直に言うと「彼女に教えられたこどもたちはかわいそうだな」と思った。これが日本のスタンダードなのだろうか。私の友達にOという男性がいる。Oは、大学卒業後大手企業に就職した。職場の先輩に「どうすれば仕事になれることができますか?」とOは問うた。ら、職場の先輩は「自分を殺すことだよ」と答えた。これが日本のスタンダードなのだろうか。Oは、結局会社に馴染めず三年で辞めた。現在は台湾で会社を経営している。

 

昔から「俺は人間と話をしたいと思っている。だが、人間と話していても『人間と話している』と思えない」と感じることが頻繁にあった。ひとりひとり違う人間のはずなのに、大概、返ってくる言葉は紋切り型の退屈な定型句で、お前は誰かのコピーなのかと突っ込みたくなる。自分の意見を持つことは、多分、日本社会では『死に近くなる』ことを意味するのだろう。自分の意見を持つから生きづらくなる。疑問を抱いた人間から死んでいく。自分を殺して、周囲にあわせて生きることができれば、無駄に悩むことも少なくなる。だから、自分を殺した方が楽になれるよ。という、甘い(?)誘惑はそこらへんに転がっている。この誘惑に「うるせー!黙れ!」と抵抗し続けてきたのが私の33年間であり、だからこそ、たかだか買い物をするだけでもボロボロになる。「生きづらいなあ」などと思ったりする。

 

こんな時こそ筋トレである。健康は資本。体力は資本。私は痩せやすい体質だから、油断をしているとすぐに頬がこけて周囲から「死ぬの?」と心配される。ので、現在は『食べるトレーニング』をしている。1日3食。これが苦しい。太るのだって大変なのだ。が、面白い。カラダは最高のおもちゃになる。カラダで遊ぼう。男性とは筋トレを、女性とは柔軟を一緒にやりたい。スクワットをするとプリケツになることを知った。実際に、半端ないプリケツの女性を見て「プリケツってすごい!」と感動をした。昨日、筋トレ中に悩み相談の電話が来た。私は、スピーカー機能を使って「一緒に逆立ちやりましょう!頭の問題を、頭だけで解決することは無理です!」ということで一緒に遠隔逆立ちセラピー(?)をした。ら、電話相手も「うわー!逆立ちって面白いですね!」と元気になった。悩みに対する処方箋は二種類ある。ひとつは真剣に向き合うこと。ひとつは「問題なんてどうでもよくなるなにかをやること」であり、筋トレは後者だ。生きづらさが吹き飛びます。

 

自分に「いいね!」を出し続ける。 

前回の記事で「所有なんてクソだ!共有の時代だ!」的なことを書いたけれど、小生、譲り受けた自転車を熱烈に愛しはじめてしまった。もう、誰にもこの自転車を使わせてたまるかと思っている。所有を悪いとは思わない。モノを大事にするマインドはプレシャスだ。私は、多分、所有が嫌いなんじゃなくて「モノを大事に扱わない」ことが嫌いなのだ。ごちゃまぜの家を乱雑に扱う人々を見ると「出て行け」と思う。言葉も同じだ。言葉を粗雑に扱うと、自分自身が粗雑になる。そればかりではなく、周囲にソザモスフィア(粗雑なアトモスフィア)を蔓延させる。不機嫌も同じだ。不機嫌なひとがいると、それだけで空気はぶち壊される。ブックオフの店員を見ていたたまれなくなったのは、彼女が日本を象徴しているように見えたからだ。心のない言葉、心のない時間、心のない空間にあふれているように思う。

 

この前会った女性に、社交辞令風味の愛想笑いを感じた。私は「笑顔は好きだけど、その笑顔は嫌いだ」と言った。愛想笑いをしていることがバレていないとでも思っているのか。と。笑顔は好きだ。でも、その笑顔は好きじゃない。何かを取り繕うための笑顔なんだろうけど、その笑顔はお前を傷つけている。笑っているのに、泣いているように見える。自傷行為みたいな笑顔はやめなよ。俺は心からの笑顔が見たいんだよ。笑いたくないのに笑うなよ。笑いたいときだけ笑えよ。そうじゃないと、笑顔が曇る。せっかくの命が枯れ果ててしまう。そのようなことを思った。私は性格が歪んでいるのだろうか、女性と話していると「泣かせたい」とか「怒らせたい」などと思うことは多い。男性に対しても同じだ。なにかを取り繕っているひと、なにかをセーブしているひとを見ると、泣かせるような、怒らせるようなことを言ったりやったりして「おらおらおら。もっとお前を見せてみろよ」みたいなことをやってしまう。相手の懐にサッ!と飛び込んで、一番敏感で柔らかい部分をギュッ!と握る。そこからはじまるコミュニケーションに醍醐味を覚える。

 

誰にも認められなくてもいい。自分だけは「自分っていいなあ!」ってにっこり笑って、自分をまるごと肯定する。そうすれば、毎日は豊かだ。自分なんかに愛されても困るだろうとか、そういうことを考えない。自分を褒め上げ、自分を認め上げ、自分史上最高な自分自身を、惜しげも無くまるごと世界に捧げて生きる。自分に愛されたあなたはラッキーね!と、自分自身に胸を張る。自分の愛に胸を張る。自分の『好き』に胸を張る。巷でよく聞く「自分を愛する」とか「自分を受け入れる」とか、こういうものはゴールではなくスタートなのだ。大前提であり、出発点なのだ。そこから、さて、なにをして遊ぼうかといった感じなのだ。間違っても、自分を愛するために遊ぶとか、自分を受け入れるために遊ぶとか、そういうものではない。良い時も、悪い時も、自分をまるごと肯定する。花に水をやるように、自分に「いいね!」を出し続ける。そうすれば育つ。いつの日か、でかい愛が育っていることに気付く。騙されたと思ってやってみよう。自分をまるごと肯定する。自分に「いいね!」を出し続けよう。そうすれば育つ。たわわな愛が実るのである。

 

 

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自然に憧れている。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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握り締めることをやめるとき。

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東京で友達が個展を開催している。芸術の秋。彼女は、新潟の山奥に住居兼アトリエの一軒家を持つ。たしか、家賃は二万円。写真を見たら超絶素敵だった。「俺もこんな暮らしができたらなあ」と一瞬思ったあとに、あ、俺には家が二軒あった!と思い直した。熱海と横浜。が、私は多動症であるために両家共にガラ空きであることが多い。そこで、なにかできないかなと考えた時に『無料の展示会』に使えないかなと思った。今風に言えば『シェアアトリエ』ということになるのだろうか。

 

 

個展や展示会など発表の場をお探しのみなさま、朗報です。ごちゃまぜの家を展示場に使うメリットは(大きく言うと)ふたつあります。ひとつは『期限を問わず無料(0円!)』であること。これ、結構芸術家の卵的な方々にはいいことなんじゃないだろうか(自分だったらうれしい)。無料だから、いつもより大胆に行動できる。失敗してもOK。無論、商品の売り買いは自由にやってくれて結構。すべて主催者の取り分になる。もうひとつは『泊まり込みもOK』ということ。これ、なかなかないと思う。遠方の方とか嬉しいんじゃないだろうか。移動費や宿泊費用が浮く。ごちゃまぜの家は比較的広い。空部屋もある(風呂も布団もある)から、三日でも、一週間でも、実験的に家を離れてごちゃまぜの家にて作業をしたり展示をしたりできる。これ、芸術家の方々から見たら、どんな風に感じられるのだろうか。

 

ibaya.hatenablog.com

 

ごちゃまぜの家と逢初庵 

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ごちゃまぜの家の和室

 

「芸術家を応援したい」とか言うと超絶嘘臭いが、無料の空間があるのだから、自由に使っていただきたい。個展でも、グループ展でも、なにも芸術に限らなくてもやり方はいろいろある。興味のある方は一度、ごちゃまぜの家か逢初庵に実際に遊びにいらしてください。そこで詳細を決めましょう。多分、随分と融通は効くと思います。我々としても、ごちゃまぜの家(横浜の家)や逢初庵(熱海の家)に風が吹くことはうれしい。そもそもで「ごちゃまぜの家ってなんだ!?」と思われた方は、以下のリンクをご覧ください。ごちゃまぜの家は、2018年5月にクラウドファンディングを通じて生まれた『誰でも自由に立ち寄れる家』になります。

 

camp-fire.jp

 

家の雰囲気を収めた動画を貼ります(動画が古いので結構変わってきています)。基本、母屋一階部分&庭はすべてフリースペースになるため、どこもかしこも展示に使えます。和室は広く12畳ほどあるので、簡易ワークショップなども開催可能です。台所にあるもの(というか家にあるものすべて)は自由に使えます。逆に言えば、自由に使えるために「冷蔵庫にいれていたあれがなくなった!」的なことは日常茶飯事になります。この空間においては、所有という概念がゆらぎます。基本的に「ここに置かれているものは、置かれた瞬間に『人類全体の共有物になる』という宿命を負う」スタイルが1年以上貫かれています。本当に死守をしたいならば、名前を貼った付箋でも貼るか、自分の鞄にいれておく、などの対処法をします。家主に「みんなの心をざわっとさせたい」という趣向があるため、玄関に、出し入れ自由の財布を掲げてあります。取るのも自由。入れるのも自由。です。あんまり前例のない場所なので、なかなかうまい説明をすることができません。だから「実際にきてくれ。自分の目で確かめてくれ」としか言うことができません。

 

www.youtube.com

 

不定期更新の日誌もあります。

 

gochamaze.hatenablog.com

 

ツイッターもあります。

 

 

熱海の家も同じ感じです。横浜に比べ、熱海の家は小さいです。動画を貼っておきます。芸術の秋。どちらの家も「試しに期間限定で無料の展示会に使いたい!と思う人を募集してみよう。そして、やりながらこの家の隠された使い方を見出していこう」というのが今の気持ちです。なかなか説明しきれていませんが、これらの情報をもとに「私が探していたのはこういう場所だ!」的な直感を得た方は、下記連絡先までお気軽にご連絡ください。家主(坂爪圭吾)は移動が多く、なかなか家にいないことが多いのですが、今日から5日間程度なら柔軟に対応できます。興味のある方は、私と連絡をとり、実際に家にきていただくか、遠方の方はラインなどでやり取りを交わせたらと思っています。どうぞよろしくお願いいたします(募集期間は、取り急ぎ、2018年いっぱいを予定しています。見事に「ハマった!」と手応えを得た場合に限り、募集期間を延期する可能性もあります)。

 

www.youtube.com

 

連絡先・坂爪圭吾

keigosakatsume@gmail.com

LINE ID ibaya

 

楽になる道が正解だよ。

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この自転車も茨城県在住N様からご提供いただいた『人類全体の共有財産』です。希望者は自由に使えます。みなさまの善意により、ごちゃまぜの家は成立をしています。

 

新潟県在住H様から新潟産こしひかりを大量に送っていただきました。これでしばらく飢えることがありません。もし、今、飢えているひとがいたら「とりあえずごちゃまぜの家に来い。玄米だけならたらふく食わせちゃる」と言えます。ここで甘えたことをほざかせていただくと「最近めっきり寒くなってきたから、冬用布団が欲しい…」などと思っています。奇跡的に「ちょうど使っていない冬用布団セットがあったのよ!」的な方がおりましたら、ご連絡をいただけましたら歓喜雀躍です。貰い物で生きる。それが坂爪圭吾の33年間の人生でした。これは今後も続きます。私は、今、ごちゃまぜの家の庭に張ったテントで暮らしています。なぜテントで寝るのかとみんなから異端視されます。理由は「テントが好きだから」です。寝袋で寝るのは寒いけれど、この寒いのがいいんだよ、などとひとりごちています。

 

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利用者の方からいただいた手紙・1

 

私は今も昔もたいして金がありません。しかし、金がないくせに「金がない」とは日常的に考えません。お金に対して謎にリラックスできています。なぜか。自分でもわかりません。ただ、ここ数年間の日々の中で「世界に財布はひとつなら、金は永遠に減ることはない」という阿呆みたいなことを割と本気で信じていることを感じています。俺の財布から消えた金は、誰かの財布にはいっていく。それならば、金の総量は同じままだ。と。金も家も同じ。世界がひとつの家ならば、どれだけ離れていようが、俺たちは同棲していることと同じだな。と。そういう阿呆みたいなことを割と本気で信じている(そういう風に思えている時の自分は調子が良い)ことを感じています。みなさまは、さて、所有というものをどのように考えているのでしょうか。どこまでが自分のもので、果たして、どこからが自分のものではなくなるのでしょうか。ごちゃまぜの家は、空気は、風は、太陽は、心臓は、血液は、音楽は、動物は、夜景は、花は、水は、命は、さて、誰のものになるのでしょうか。

 

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利用者の方からいただいた手紙・2

 

俺のものなんてひとつもない。そう思うと、不思議と、自分を生かそうと思う気持ちが湧く。自分のものだと思うから大事にしようと守りに入る。しかし、これは俺のものではないのだなと思えるとき、執着と呼ばれるようなものが薄れ、自分のためというよりも「みんなのため」に使おう(否、もっと前のめりに「使いたい」)という気持ちになります。自由とは、多分、自分が消えた状態だ。自分の命を、自分以外のものに使う行為を『愛』と呼ぶのかもしれない。そして、真の意味でなにかを愛することができたとき、そのひとは『自由』になる。と。非常に抽象的な話を失礼いたしました。ごちゃまぜの家や逢初庵でなにかをやってみたいと思われた方は、是非、お気軽にご連絡ください。現在の横浜は月が綺麗に輝いている。月は、当たり前のことだけれど誰のものでもない。でも、自分が見ている間だけは、月さえも『自分のもの』になるのだと。握り締めることをやめるとき、自由に羽ばたく『それ』を見て、同じように私の心もまた、自由に羽ばたくことができる。

 

 

GOCHAMAZE no IE

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu  

 

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人生はボーナスタイムである。

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熱海を経由して横浜に向かう。やっと晴れた。晴れると嬉しい。自分の社会不適合性が霧消する。ひとといれない。家にもいれない。大好きな熱海の家も1日で飽きる。長居できない。どれだけ好きな人とも「ずっと一緒にいたい」とはならない。それよりも「あなたが生きているだけで嬉しい」となる。本当に愛しているならば、必ずしも一緒にいる必要はない。そう考える自分はダメ人間なのだろうか。稀に悩む。しかし、晴れていると全部霧消する。小田原の川辺で飯を食う。でかい鳥が目の前を飛び交う。自分みたいな人間がひとりくらいいてもいいよね、となる。

 

 

愛の形は様々。私の愛は四角に近い。無論、四角以外の愛もある。三角の愛。まんまるの愛。幾何学の愛。四角だけを愛だと思っているうちはまだまだ。三角も愛。まんまるも愛。幾何学も愛。自分が思う愛だけが愛ではないのだ。そう思うと、愛の総量は増える。まゆちゃぱうぉにかは言う。どんな世界に生きていたとしても愛を見つけることができる才能は、そのまま極上のサバイバル能力になっていく。と。サバイバル能力とは衣食住を確保する能力だけではない。どのような状態に置かれても、そこにある愛を見つけ出す能力。愛即自由。愛と自由は、多分、同義だ。

 

ibaya.hatenablog.com

 

けいごエクスプレス

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明日明後日の関東の天気は晴れ。暇だ。そうだ。けいごエクスプレスをやろう。けいごエクスプレスとは何か。それは、坂爪圭吾が愛するパンダエクスプレスに対抗しない形で「自分なりの愛をエクスプレスする」営みになる。基本、私は乱世に備えた生き方をしたい。最悪の場合でも「これをすればどうにかなる」という生き方の選択肢を増やしたい。今、手元にバイクがある。人や荷物の輸送もできるし、それ以外の使い方もある(と思う)。だから、けいごエクスプレスを明日明後日限定でやりたい。基本料金は無料。なぜ無料なのか。それは、お金をもらうとややこしくなるからだ。交換感より循環感。内容は、たとえばこんな感じのものになる。

 

・希望する場所から場所までニケツで移動をする(関東圏限定)

・バイク便代わりに誰かになにかを贈り届ける(スピードは遅い)

・適当な公園で野点カンタービレ(野外でお茶やコーヒーを淹れる)

・ストレス発散にバイクで強風を浴びて「うおー!」と叫ぶ。涙を流す。

・坂爪が最近自炊している素麺を野外で食べる。

・野外で味噌汁を作るスキルを共に高め合う。

・あなたの得意料理を野外で作る(それを坂爪が食べる)。など。

 

※※※ 必要な道具類は、基本、坂爪圭吾が手配をする ※※※ 

 

野営を続けると「生きることが生きがいになる」。包丁ではなくナイフを使う。最初は慣れない。身体性を取り戻す。都市ガスではなくバーナーやアルコールストーブを使う。火を貴重に思う。屋外は寒い。だから温泉や銭湯が染みる。白湯の温もりを知る。すすきを集めて座布団にする。そこらへんのものを家具にする。綺麗な花を摘み取って飾ったりする。楽しい。別に特別なことはしていない。いつもの「便利な環境」から「ちょっとだけ不便な環境」に身を置くだけで、生活すべてが娯楽になる。安上がりだし、文化的な生活に対する感謝を抱く。不便を楽しむ。これがアウトドアの基本だ。不便を楽しむ時、人は、いつの間にか「不幸を楽しむ」スキルを養っている。そう。どんな世界に生きていたとしても愛【自由・楽しさ】を見つけることができる才能は、そのまま極上のサバイバル能力になっていく。不幸を楽しめたら、もう、こわいものはなくなる(などと勝手に考えている)。

 

連絡先・坂爪圭吾

keigosakatsume@gmail.com

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https://www.instagram.com/p/BqGVJ12nOpy/

🍽🍽🍽味噌煮込み鯖きしめん🍽🍽🍽

 

わたり文庫『ジョン万次郎』 

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、マーギー・ブロイス著作『ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂』です。非常に読みやすい名著だ。海外の人物が日本の人物を主役に小説を書いた。その事実に感動をする。それは、普遍的な魅力がジョンの生涯にあるからなのだろう。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、岡山県にわたりました ※※※

 

若き中には

随分不仕合せとなるがよし。

不仕合せの時

草臥れたる者は、

益に立たざるなり。


マーギー・ブロイス『ジョン万次郎』【集英社文庫】 

 

人生はボーナスタイムである。 

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神奈川県辻堂のデニーズにいる。道中何度も道に迷ったが、グーグルマップのおかげで基本どうにかなる。科学技術の発達に感謝をすると同時に、ああ、これが「人間が人間を必要としなくなる」的なあれか。と思う。一昔前なら、道に迷うたびに通行人に話しかける必要があった。煩わしさもあるが、それによる人間的なふれあいもあったのだろう。科学技術が進化するほど、機械がすべてを執り行い、人間が人間を必要とする機会が減る。その不足分を補うように、たとえば、私は『けいごエクスプレス』などをやるのだろう。生きるために、今後、人間が人間を必要とする機会は減る。しかし、生きていることを実感するために、人間は人間を必要とするだろう。車はガソリンで動く。機械は電気で動く。人間はコミュニケーションで動く。

 

生きていると色々なことを言われる。お前は間違っているとか、ダサいとか、嘘臭いとか、目障りだとか。一々傷つく。が、言い逃れはできない。人間、有名無名問わず、生きているだけで影響を生む。表現は「する」ものではない。いつの間にか「してしまっている」ものだ。だから、私は自分自身を作品にしたい。そして「これが私です」と差し出したい。良い面も、悪い面も、これが自分なのだから仕方がない。嫌うひともいる。好むひともいる。私は、ただ、私が思う最善を生きる。私は、私が思う「最高」を生きる。自分の心が「最高だ」と思う瞬間の中には、愛も、自由も、全部ある。そのことを信じる。私は、私の中にある『みんな』を生きる。自分が自分を生きる時、それは、個人的な体験を超えることを知っている。

 

おまけの人生。なにをやるか。ボーナスタイム。そう、人生はボーナスタイムなんだ。生きているだけで勝ち組だ。この世はなにをしてもいいなんでもありの極楽浄土。なにをやろう。どこに行こう。なにをしてもいいし、なにもしないでもいい。どこに行ってもいいし、どこにも行かないでもいい。私は、そうだ、好きなひとに好きだと言おう。残りの人生を、そういう風に捧げよう。色々なことを言われた時は複雑な気持ちにもなる。祈りよりも呪いの言葉ばかりが脳裏を過ぎることもある。が、最終的に「お前らも幸せになれよ」と思って眠りにつけた晩、ああ、この状態の自分はいいなと思った。誰のことも恨んじゃいない。誰のことも憎んじゃいない。みんなの幸せを祈れる自分を、私の心は「いい感じだな」と思う。

 

 

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I've heading GOCHAMAZE no IE※🍽🍽🍽素麺ばかり食ってる🍽🍽🍽※#素麺 #つけ麺 #ぼく無職 #全力素麺 #ぼく無職

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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超える。

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誰もが超サイヤ人みたいなものだ。死にかけるたびに強くなる。久しぶりに実家に顔を出した。母親はこのブログ読者だ。心配をかけているかもと思い、無事な姿を晒そうと思った。が、母親はまったく心配なんてしていなかった。お母さん、俺、ハワイで死にかけたんだよ(それなのに結構平気そうだね)と言うと、母親は「あんたらには何回も殺されたから、もう、心配なんてしないよ」とのこと。昔、母親にこう言われたことがある。あんたはみなさまから生かされる限り生きて、生かされなくなったら死ぬんだね。あとはもう、天にお任せするよ。と。母親は強い。

 

 

新潟から大阪に移動する。S様に預けていたバイクを回収する際、超絶暖かい軍用のズボンとバイク用の手袋を貰った。ボタンが外れかけているのを発見して私が泣きそうになっていたら、S様が裁縫道具をサッと取り出して縫ってくれた。私は、女性が裁縫をする姿に弱い。一瞬で悩殺される。電車で編み物をしている女性を見ると「平和だ…(守りたい…)」と思う。私はまったく裁縫ができない。ボタンが外れることはご臨終を意味する。が、S様が蘇らせてくれた。S様に別れを告げ、奈良県天川村に向かう。数週間前に「天川村に行け」と天啓を受けたからだ。

 

ibaya.hatenablog.com

 

悪態日記。

天の川温泉でM様と待ち合わせをする。天の川で待ち合わせなんて素敵だ。早めに到着する。全身が凍えている。先に温泉に入る。デザインが素敵な温泉だった。が、私は「デザインが素敵な温泉」が嫌いだ。デザイナーが噛み始めるとロクなことにならない。受付横におしゃれグッズが並びはじめたらアウトだ。五千円もする積み木が売られていた。作り手に対して、私は「お前は積み木を広めたいんじゃなくて、お前を広めたいだけだろ」と思った。積み木に対する愛を微塵も感じなかったのだ。ぷんすか。ぷんすか。一通り悪態をつきおえた頃、M様と合流をした。

 

詳細は省くが最高の時間を過ごした。天啓に間違いはなかった。私は、ここ数日間「俺の人生のメインは俺自身だ」と思っていた。仮に私が作家であっても、仮に私が音楽家であっても、仮に私が陶芸家であっても、それは唯の副産物にすぎない。自分の本領が発揮される部分は、あくまでも『生身の自分』だと思う。うまく説明できないが、自分の作品を通じて自分を誇るのではなく、自分に向けられた評価や賞賛や社会的成功を通じて自分を誇るのではなく、ただ、自分が自分であることに誇りを持ちたいと思う。いい作品を作れた自分は素晴らしい存在だ、とかじゃない。自分の存在価値に、何物も介在させない。いい作品をつくれようが、いい作れなかろうが、大前提として「自分は素晴らしい存在だ」という前提に立ちたい。

 

デートだって同じだ。人気のあの場所に行こうとか、美味しいあの料理を食べようとか、夜景の綺麗な場所に行こうとか、こういうのは全部おまけ。メインは「二人が同じ空間にいること」であり、両者の存在である。あとはおまけだ。何をしようとか、どこに行こうとか、そういうことじゃない。今以外の時間じゃない。ここ以外の場所じゃない。今、ここにあるすべてに意識を向ける。なにもなくていい。なにもないからこそ、なにもかもを味わうことができる。両者の存在を強く意識できる。二人の間に、何物も介在させない。一切の不純物がなくなる。まるで世界にふたりきりみたいだね。「いいね。」私が言う。「なにが?」M様は言う。「なにもかもが。」私が言う。「うん、同じことを思っていたよ。」M様は言う。私達は笑う。

 

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ふたりは、たがいにさりげなく敬意をはらいあい、そのくせふたりとも、自分の世界をしっかり保っていました。相手のためになにかをしてあげるなんてことはなく、わかりあおうともしなければ、気にいられようともしませんでした。こういうのも、居心地よくいっしょにすごす、一つの方法ではないでしょうか。#ムーミン谷の名言集

 

超える。

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奈良県宇陀市で野営をして、三重県名張市にいる。貰ったカップ焼きそばを食べる。カップ焼きそばって、焼くというより煮て食っているよなあと思う。これから俺はどこに向かうのだろう。錨をなくした難破船みたいだ。死ぬまでなんにも予定がない。一生懸命に生きるということ。先日、新潟で開催された素人のライブ企画に呼ばれた。音楽が大好きで、下手なりに一生懸命やろうとしている人々の集いだった。一生懸命って素敵だなと思った。一生懸命なひとを見ると、自分も一生懸命に生きたいと思う。その姿勢に感動をする。懸命に生きようとする姿勢。命を燃やそうとする姿勢。美しいと思う。真っ直ぐに、透明に、美しくありたいと思う。

 

一生懸命になる対象は、きっと、なんでもいいのだと思う。「やりたいことが見つからない」なんてどうでもいい。なんでもいいから、ただ、いまの自分にはちょっと無理だなと思うことを、勇気を出してやってみる。連休に100キロ歩くとか、好きなひとに手紙を書くとか、作品を発表するとか、言いたいことを言ってみるとか。上手とか下手じゃない。金になるとかならないじゃない。大事なことは「心を込めること」であり、自分の本気を出すことだ。なんでもいいから「今日だけは一生懸命にやってみる」こと。すると、自分の未確認な部分がひょこっと出てくる。あれ、自分の中にはこんな部分もあったのかと、自分に感動することができる。

 

M様は言った。最近、前よりも新しいことに挑戦できるようになっている。でも、なにかをやろうとすると、同じくらい『恐い』と感じる気持ちが湧いてくる。でも、この恐いって言う感情は、自分のことばかり考えている時に出てくる感情なんだって気づきました。自分がやろうとしていることが、きっと、自分以外の誰かにとって力になることなんだって、自分がそれを信じることができたとき、その恐さは消えます。圭吾さんが、ブログで『言いたいことを言う』とか『やりたいことをやる』姿を見せてくれることが、私の生きる力にもなっています。だから、ありがとうございます。と。おい。なんだこれは。素晴らしすぎるじゃないかと私は思った。自分が自分を生きること。それが、結果として誰かの力になることもあるのだと。それならば、生きよう。御心のままに。テントを出る。朝露。清澄な空気。朝日が昇る。新しい1日がはじまる。まだ、誰にも汚されていない1日がはじまる。

 

 

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朝 #snowpeak #lafuma #lifeisgood

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生きることを諦めない。

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幼少期の記憶がある場所を歩くのはえぐい。忘れていた記憶が蘇る。新潟は私の故郷だ。暗黒の青春時代を過ごしたため「俺は新潟に疎外された」とか「会いたいと思う同級生は皆無だ」とか「ここを逃げたくて東京に行ったんだよな」とか、のけものとしての自分を思い出す。新潟の空は青い。泣けるほど青い。新潟駅から鳥屋野潟まで実際に泣きそうになりながら歩いていたら、通行人の男性が「坂爪さんですか?ブログ読んでいます!!」と声をかけてくれた。私は、ああ、新潟にもつながりがあった!!!と思って胸が震えた。消えてしまいたい感覚が消えた。

 

 

地獄の曇天が続く。11月頃から「あ、きたな」となる。この時期になると、青年期に刻まれたバイオリズムが目覚めるのか、自然、鬱っぽくなる。油断をしていると闇や鬱に襲われる。暗黒時代に聞いていた音楽を繰り返し聴くようになったら危険だ。1000のタンバリンをエンドレスリピートで流し始めたあたりから、私は鬱気味の自傷気味の自暴自棄気味のメンタルになっていた。が、来年で私も34歳になる。昔よりは自分のことがわかってきたから「おっと危ない!」と思って軌道修正をした。私には、文学的に散りたいと思っている夢見がちな部分がある。カート・コバーンの死に様に憧れてしまう的なアレだ。が、私の実態は爆死である。

 

ibaya.hatenablog.com

 

悲しみに寄り添わない。

昔、躁鬱病統合失調症椎間板ヘルニアのトリプルパンチで半年寝たきりになったことがある。医者からは「完治までに三年かかる」と言われた程度には強度の鬱を発症していた。しかし、私はこの苦境を『ビリーズブートキャンプをやること』を通じて半年間で乗り越えた。今にしてみれば、もっと文学的な美しい理由で復活できたらよかったのにと思う。なにかこう、脳天をかち割られてしまうような半端ない女性に出会ったとか、檸檬を書店に置くことで世界観をぶち壊すことができた、とか。しかし、私は、結果的に『ビリーズブートキャンプをやる』という、文学的とは程遠い現実的で世俗的なやり方で回復を遂げ(てしまっ)た。

 

ibaya.hatenablog.com

 

この「文学的に散りたいと思っている自分」は周期的に顔を出す。しかし、私の本質は爆死だと前述した。できることならば文学的に美しく散りたいと思う。が、実際の私には「散る前に病む」という致命的な弱さがある。病むことを美しさに転換できればいいのだが、自分の場合、ただ病む。病んで終わる。これではいけない。退廃の美とか、それはそれで素晴らしいのかもしれないけれど「自分には無理!」みたいだ。だから、もう、私は退廃の中に美を見出すことをやめた。少なくとも、自分の人生に退廃を宿らせることをやめた。ビリーズブートキャンプでU字回復を遂げたように、家なし生活の果てに家を購買してもらったように、今世の私には「まるでギャグみたいな本当のおはなし」が似合う。美しくはないけれど、クスッと笑えること。常識がとろけること。西行は「願わくば花の下に春死なんその如月の望月の頃」と詠み、実際にその通りに死んだ。奇跡だ。私は、間違っても西行のようには散れないだろう。タイムボカン的な爆死が似合う。爆発をして、ドクロマークが出る。それでおしまい。それくらいの終え方が自分に似合っている。

 

note.mu

 

悲しみに寄り添うことをやめた。私は、もう、誰の悲しみにも寄り添わない。誤解されると困るけれど、悲しみに寄り添うというやり方を否定したいわけではない。悲しみが悲しみを中和することもあるだろうし、心理カウンセラーは立派な職業だと思う。しかし、私は、悲しい話を聴き続けていると体が冷える。こちらまで飲み込まれる。私は悲しみに寄り添うことをやめた。人間、誰だって心の奥底に悲しみはあると思う。抱きしめてほしかったとか、親に愛されたかったとか、友達がほしかったとか。が、私はこれらの悲しみやさみしさをガン無視する。こういうことは「さみしさ業界の人々」や「悲しみ業界の人々」におまかせをする。私は、悲しみよりももっと奥にある本音に寄り添いたい。抱きしめてほしかったとか、親に愛されたかったとか、友達がほしかったとか、そういうことのもっと先にある本音。それは『生きていたい』だと思う。どれだけ死にたいと連呼するような人だって、本当は『生きていたい』のではないだろうか。違うかもしれない。しかし、私はそこに賭けたいと思う。生きていたいと思う部分、この部分にこそ寄り添いたいと思う。

 

https://www.instagram.com/p/Bp8GlCUHOja/

Do your best, untill you die.

 

生きることを諦めない。

ハワイで強盗にあって拳銃をつきつけられた直後、私は「まだ結論は出さない」と思った。強盗に遭った出来事(そもそもでハワイに足を運んだこと)を、良い出来事にするのか、悪い出来事にするのか、決めるのは自分だ。しかし、結論を急がない。強盗に遭ったことが自分にとってどういう意味を持つのか、腰を据えて考えたいと思った。その数時間後、私は「被害者にはならねえ」と思った。加害者と被害者がいるとしたら、私は、加害者でいたい。そういうことを考えたとき、ああ、俺も強盗側の人間なんだなと思った。強盗が、たまたま強盗にあっただけの話だ。そう思ったら、不思議と、拳銃をつきつけた強盗に対して親近感に似た感覚を抱いた。

 

ジョン万次郎にまつわる書籍を読んでいる。難破の果てにホノルルまで流されたジョン万次郎は「神にいかなる運命を与えられようと、人は最善をつくさねばならない。そうすればあとに続く者の励みになる」という詩に感銘を受ける。結果、彼はアメリカで様々な技術や学問を吸収し、日本に持ち帰った。彼の生き様を見ていると思う。人間が生きる上で、良い道とか、正しい道なんてものはないのだ。あるものは、自分が選んだ道を、良い道にしていこうとする人間の意思、正しい道にしていこうとする人間の意思だけだ。ジョン万次郎にはそれがあった。だから、私は、彼の生き様に感動をする。彼の生き様に励ましをもらう。同時に、自分の生き方が問われているように思った。お前は、今、お前が選んだ道を「良い道にする意思はあるか」「正しい道にする意志はあるか」と、問われているように思った。

 

昔は言葉にできなかったことが、何年も経って、ようやく言葉になることがある。おれはずっと悲しかったんだなとか、さみしかったんだなとか、友達がほしかっただけなんだなとか。でも、そのもっと奥、そういうことのもっと奥の奥の奥には『生きていたい』と願う部分が、常に、常に、常に、蠢いていた。私のハートを何よりも強く震わせるものは、その部分、その『生きていたい』と願う部分に向かって言葉をくれた。それは『生きててもいいよ』という言葉だった。その言葉は、どうしようもなく優しくて、どうしようもなくあたたかかった。私は、もう、嘘でも構わないと思った。冷たい現実より、あたたかい嘘を生きたいと思った。私は、生きててもいいよという嘘に騙されて、これまでを生きることができた。そして、これからも自分を騙し続けたいと思う。どれだけ現実が「お前には無理だ」と崖から自分を突き落としても、何度も、何度も、そういう言葉に拾い上げられてきたように。自分は、自分の中にある「生きていたい」に寄り添って生きたいと思う。

 

 

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すごいいい帽子買った!#fjallraven

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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軽やかにいけるよ。いまよりももっと。

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GT400を聴きながらホノルルを歩く。幽閉。下手な動きができないため海岸でずっと寝ていた。拳銃を見た瞬間は怖かった。しかし、強盗を怖いとは思わなかった。脅している彼の顔が、何かにすがっているように見えた。拳銃と犯人に一致感がなかった。ホノルルは大都会だ。インディアンやアボリジニアルコール中毒になって堕落する理由がわかる。自然の中では生きるためにやることがたくさんあるが、都市の中では「金がなければ」なにもできない。結果、彼らは酒に溺れる。私は、多分、暗黒の青春時代を過ごしながらロックンロールに溺れていたのだと思う。反骨。それだけが「何もすることのできない」無力な自分を支えていたのだと思う。

 

 

東京出身ホノルル在住歴7年のN様と会う。もう、大阪よりもホノルルを近くに感じると話す。「飛行機の中でちょっと寝ていればすぐ着くからね」と。素敵だな。私はこれからホノルル空港まで歩く。飛行機の中で眠りたいから。体を疲れさせたいのです。私は、まだ、飛行機でハワイに来ることに慣れていない。だからN様の境地はまだまだ遠いが、徒歩移動なら慣れた。ここからホノルル空港は徒歩三時間程度だが「近いな」と思える。N様は飛行機移動に慣れていて、私は徒歩移動に慣れた。自分の中で(何㎞進むにはどれくらい時間がかかってどれくらい疲れるのか)基準ができることは嬉しいことだし、楽しいことだ。そういうことを話した。

 

ibaya.hatenablog.com

 

悲しみは力。

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これからホノルルを出て関西空港に飛ぶ。関西空港到着は8日午後20時。翌日9日11時発新潟行きの飛行機に乗るため、多分、今夜は関西空港界隈で野営(?)する。9日は新潟市内で暇。10日昼過ぎは長岡駅界隈で暇。10日夜は、ドラム歴数ヶ月目の女性から「この日、私は生まれて初めてステージに出る。多分、死ぬと思う。骨を拾いにきてください」と呼ばれたライブに足を運ぶ。その後、夜行バスで大阪に向かう。11日早朝、大阪駅界隈到着。その後、預けていたバイクを回収に伺い、関東方面に向かって下道を高速で帰る予定だが、どれだけ体力が続くかわからない。これもひとつの基準になるのか。マグマ塩を舐めていると血液を舐めているみたいだ。元気になる。

 

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N様から東ティモールの話を聞いた。東ティモールは、かつて、インドネシア側から「三人に一人は殺された」大虐殺を受けた過去がある。しかし、東ティモールの人々はやり返すと言う選択肢を選ばなかった。銃を握る代わりに、敵対視する代わりに、彼らは『両手をつないで歌を歌う』という道を選んだ。この逸話を聞いた時、N様はひどく心を打たれたと話した。N様がハワイに移住をしたのは、ちょうど、東日本大震災が起きた時期と重なる。大震災などのカタストロフィを前にすると、人は、自分にはなにもすることができないという無力感や虚無感に襲われる。N様も例外ではなかった。しかし、この話を聞いた時に「自分にもできることがある」と思ったのだ。と。キーワードは『悲しみ』と『分断』だった。

 

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分断。このワードは、個人的にも感じることの多い言葉だ。分断。分断。分断。分断するほど、人々は団結する力を失う。私が、私が、となり「私の得が」「私の得が」となる。自分の利益だけを考えると、短期的には得をするかもしれないが、全体感を喪失する。虚無感を生み、終わることのない欲求不満をもたらす。そして『悲しみ』について。N様は、grief(悲嘆)と言う言葉を聞いた時に「ここになら、私も力になれるかもしれない」と思った。N様は、心理セラピストとしてカウンセラーのような働きをしている。N様の恩師は言う。悲しみは力。その言葉に、N様は強い励ましを得たと言う。悲しみは力。悲しみは力。悲しみは力。まだ、自分の中で消化しきれていない、でも、とても重要な要素が『悲しみ』と『分断』のなかにはあるように感じた。飛行機の中、考えがいのあるテーマを与えられた。

 

わたり文庫『わたしに会うまでの1600キロ』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、シェリル・ストレイド著作『わたしに会うまでの1600キロ』です。この本は、この数週間、常に隣にありました。自分がしんどい時、本を開くと、シェリルがその何倍もしんどい目に遭っている。そのことがどれだけ励みになったことか。帯も表紙もないボロボロに擦り切れた状態だけど、ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。最悪な邦題。最高な内容。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、兵庫県にわたりました ※※※

 

私は母をとても愛して尊敬してたが、子供の頃から母のようにはなるまいと思っていた。母が父と結婚したのは十九歳。妊娠となけなしの愛だけで結婚した。この話は母にせがんでようやく聞き出した。「どうしてそんなことを知りたいの?」母は首を横に振り続けたが、私はあきらめず、最後は母が折れた。妊娠がわかったとき、母はふたつの選択肢を考えた。デンバーで違法な中絶をするか、あるいは遠くの町でこっそり子供を産み、自分の母親に託すか。母親は赤ん坊を自分の子供として育ててもいいと言っていた。でも、母はどちらも選ばなかった。自分の子供として産もうと決め、父と結婚したのだ。彼女はカレンの母親となり、私の母親となって、リーフの母親になった。

 

私たちの母親に。

 

「人生の運転席に座ったことは一度もなかったわ」自分がもうすぐ死ぬと知った数日後、母は泣きながら私に言った。「いつも誰かの言いなりだった。誰かの娘か、母親か、妻でしかなかった。私自身でいたことがないの」

 

「お母さん」私はそう言って、彼女の手をなでることしかできなかった。

 

何かを言うには、私は若すぎた。

 

シェリル・ストレイド『わたしに会うまでの1600キロ』【静山社】

 

軽やかにいけるよ。いまよりももっと。

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飛行機に乗った。出発まであと五分しかない。急いで書き上げなければ。ここ数日間、心がざわざわしてなかなか寝付けない夜があった。そんな時、私は、聞き手役に神様を選ぶ。神様。神に語りかける。今日はこんなことがあったんだ。とか。こんな時はどうすればいいのか。とか。が、その後に、そう言えば祈る時はまず最初に感謝を捧げるものだったよなと思い直す。手当たり次第、思い浮かぶ順番に感謝をする。五体満足であること。ハワイに来れたこと。サポートしてくれるひとがいること。日本に行けば家があること。今夜眠る場所があること。明日食うに困らないカネがあること。こんなに生きたのにまだまだ33歳であること。余命があること。生きていること。私はハッ!と我に還る。なんだ、あるじゃないか。悩み事が消え、神に聞いてほしいことも消える。恐れることはない。足りないものはなにもなかった。

 

「傷ついた?」私は言葉を振り絞った。

 

「そうよ。あなたも同じ場所が傷ついているわ。父親が自分の傷を癒さないと、子供の同じ場所が傷つくの」

 

「ふーん」私は無表情で言った。「六歳から今まで、父には三回しか会っていないわ」

 

「父親の仕事は、子供に戦い方を教えることよ。戦わなければならないときに、馬に乗って戦場に出る自信を与えること。それを父親から教わらなかった人は、自分で学ばなければいけない」

 

「でも ー 私はもう強いわ。立ち向かっている。だって私は ー 」

 

「強いかどうかじゃないの。今はまだわからないかもしれないけれど、時が来ればきっとわかる。何年も先かもしれない。馬に乗って戦いに行かなければならないときに、あなたはためらうかもしれない。ひるんでしまうかも。お父さんがつけた傷を癒すために、あなたは馬に乗って戦士のように挑まなければならないのよ」

 

シェリル・ストレイド『わたしに会うまでの1600キロ』【静山社】

 

私の父親だったことは一度もない人、それが私の父親だ。何回考えても理解できなかった。世の中に最悪のことはたくさんあるけれど、彼が父親として愛すべきように私を愛さなかったことを、私はずっと最悪だと思って来た。でも、PCT(パシフィッククレストトレイル)を歩き始めて五十数回目のこの夜、暗い大地を見つめながら気がついた。父に愛されなかったことにこだわる必要は、もうないのだ。

 

シェリル・ストレイド『わたしに会うまでの1600キロ』【静山社】

 

長距離を歩くと不思議な感覚になる。歩けば歩くほど透明になれる。歩くことと浄化することがイコールになる。もちろん、最初は、くだらないことをああだこうだと考える。が、やがて、歩くことがすべてになる。一歩一歩を踏み出すということ。ただ、それだけのことが自分になる。自分という感覚さえも消えて、境界線が曖昧になる。世界が自分になり、自分が世界になる。どこまでも歩いて行けそうな気持ちになる。そうだ。自分にはこの足があるのだ。関西空港に着いた。空港まで迎えに来て来れたひとがいる。これから合流をすることになった。小さな旅は終わるが、人生は続く。歩くことが浄化されることとイコールになるように、生きることが浄化されることとイコールになるような、そういう生き方をできたらと思う。

 

 

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flower #hawaii #lifeisgood

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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完璧な楽園は存在しない。完璧な地獄が存在しないようにね。

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拳銃をつきつけられ、所持金をもっていかれた。日本円とパスポートは無傷だ。実質的な損失は100ドルにも満たない。だから、ダメージとしては少ないのだけれどまさか自分が拳銃を突きつけられる日が来るとは思わなかった。ププケア界隈のサンセットビーチにある木陰でカップヌードルを食べていたら、突如、にこやかな青年がサッと近づいてきた。隣にあった巨木に彼も座りこみ、5分後、ロングタオルの下に隠してあった拳銃をつきつけて「金を出せ」と迫ってきた。

 

 

いろいろあって有り金80ドル程度を差し出して終わった。彼も彼で「これだけのはずないだろ!もっと出せ!」などと言う。しかし、実際、これしかなかった。ので、これしかないのだよと惨めなイエローモンキー全開で答えた。ら、彼は「時計を出せ」と言った。ああ、パスポートとか他の金品とかじゃなくて時計なんだなと思った。が、この時計は私の大切な時計なので、ちょっといやだなと思って抵抗をした。ら、彼は怒り心頭に「出せ!でも、声は出すな!」と叫んだ。お前が大声を出しているじゃないかとか思ったけれど、拳銃がとても恐ろしかったので私は抵抗することをやめた。

 

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それから。

時計のやりとりをしている最中、誰か来たのだろうか、突然青年は逃げ出した。私は、あれ、また戻って来るのかなと気が気でなかった。が、逃げるならいまがチャンス!と思って大急ぎで荷物をまとめて彼が逃げた逆方向に逃げた。結果、一応、いまは無事だ。ちょうど先刻、オアフ島在住の女性K様から「やばくなったら連絡ください」と連絡をもらっていた。まさにやばくなったので連絡をさせていただいた。これからK様が車で来てくださることになった。K様の存在に救われた。もう、一連の出来事を誰かに話したくて仕方がない。聞き手がいるだけで精神は癒える。聞き手を失うと消化しきれない記憶の数々が五臓六腑に蓄積して変な感じになる。

 

K様と合流する。警察を呼ぶ。詳細を伝える。警察官から「犯人がつかまった場合、証人として君を日本から召喚する可能性があるが大丈夫か」と問われる。渡航費はハワイ州が出すと言う。その場合は日帰りじゃないといいなと思う。K様が言う。大変だったね。でももう大丈夫。最近はあんまりろくなものを食べていないのでしょう。贅沢もたまには大切ですよ。美味しいものでも食べにいきましょう。パンダエクスプレスをリクエストする。私の大好きな中華料理屋だ。ケイゴエクスプレス。日本に戻ったら飛脚をやりたい。車に乗る。徒歩十時間かかった道を数十分で戻る。文明の利器に感動する。パンダエクスプレスに到着する。天下一武道会直後の孫悟空を意識した食事をする。コーラを飲む。目の前に虹が出る。「生きててよかったー!」と多幸感に包まれる。生きてこそ。命あっての物種だ。

 

不思議と犯人を憎む気持ちはない。金では買えない経験をした。ひとつの博士号を取得したくらいの勉強になった。本当は、今夜、カフクにあるキャンプ場で寝る予定だったが警察官が「デンジャラス」と言って制止した。キャンプ場だからと言って安全な訳ではないらしい。ホノルルに戻る。エアビーで二泊一万円の宿をとった。警察官に私の滞在地を告げる必要がある。ともすると、数日の間に犯人が捕まるかもしれないからそのときは連絡をする。警官はそう言った。宿泊先ホストの男性がやたら元気でアメリカの良い風が吹いた。拳銃をつきつけられたものの、現実味がなさすぎていまだに実感がない。君が見た拳銃はリボルバーだったか。単発式か。警官が問う。銃の種類を聞かれても困る。この、一連の出来事を誰かに話したくて仕方がない気持ちになる。そこらへんを歩いている日本人をひっ捕まえて「ねえねえ、俺、さっき殺されかけたんだよ!」と言ってまわりたい気持ちになる。

 

オアフ島の風景をお楽しみください。

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この写真を撮った直後に襲われました。

 

愛と服従は違う。 

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俺、ピストルつきつけられても「クソッタレ」とは言えなかった

 

夜、再び刑事から呼び出しがかかる。私とK様と刑事の三人で会う。会話が音声録音される。詳細を事細かに聞き出される。結構ヘロヘロになる。今回の事件は無傷でよかったが、これ、レイプ被害を受けた女性とかまじで大変だろうなと思う。詳細を何度も話すことによって脳裏に記憶が刻み込まれる。犯人はどんな顔か。どんな言葉を言って、どんな体勢で襲ってきて、その時あなたはなにを言って、どんな気持ちになったのか。そういうことを事細かに問われる。説明するほどに深いトラウマとなるだろう。男性から恐怖体験を受けた女性がそれ以降セックスそのものに恐怖心を抱く。そういう事例を過去に経験者から聞いたことがある。そりゃあそうなるよねと思った。私も、この事件を語り続けたら木陰恐怖症の拳銃恐怖症の徒歩恐怖症の海外旅行恐怖症の人間全般恐怖症の『生きること全般恐怖症』になるだろう。

 

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この期に及んで虹。。。。。

 

愛と服従は違う。言うことを全部聞いてあげるとか、そのひとがよろこぶことならなんでもしてあげたいと思うことは、愛に見せかけた服従に近い。親への服従。恋人への服従。など。愛と服従の違い。服従の裏には『脅迫』があると思う。これをしなければお前は生きている値打ちがない的な脅迫。私の場合、言うことを聞かなければお前を殺すという脅迫を受けた。脅迫をすれば人間は動く。確実に。正確に。しかし、それは愛によってではない。実は、いま、日本でも似たような脅迫を受けている。脅迫をしてくる当人は『愛』や『正義』のつもりでそれをやっているのかもしれないけれど、私から見ると『脅迫』を感じる。あなたが私を愛してくれないなら、私は自殺をする。とか。自分を器用に人質にして、身代金【身代愛】を要求する。あなたがいなければ自分はダメになるのだと泣きつく。とか。あなたのせいで私はこうなったのだからあなたには私を救う責任がある。とか。私を見捨てるのか。とか。こういう愛(に見せかけた脅迫と服従)は世界的に多いと思う。

 

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PANDA EXPRESS IS GOOD

 

人間をコントロールすることは簡単。恐怖心を植え付けること。それだけだ。逆に言えば、恐怖心を直視することで、徐々に自由になることができる。恐怖心に従ったままでは、いつまでも牢獄に繋がれたまま。自分が何かに怯むとき、この恐怖心はどこから来たものなのか。一旦立ち止まって考える。これはきっと有効だと思う。当たり前の話だが、いい男もいれば悪い男もいる。いい女もいれば悪い女もいる。いい警察官もいれば悪い警察官もいる。全員が悪いなんてこともないし、全員がいいということもない。それを踏まえた上で、恐怖心にとらわれず、真実を見抜く目を養うこと。経験を通じてその精度を高めること。恐怖を覚える瞬間は足がすくむが、恐怖心を越えた先に、新しい世界が広がっていることも事実だと感じる。良い勉強になった。慎重に、大胆に、ここにある命を楽しんで生きたいと思う。 

 

 

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walking around north shore

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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結果、ひとりきりになるとしても。

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ハワイのオアフ島にきた。シェリル・ストレイドの小説に影響を受け、自分も100キロ歩こうと思う。大阪で「本当に疲れたらホテルを使え」と魔法のカードをもらった。最終日に使おうと思った。これで安心してボロボロになれると思った。が、このカードを初日から使ってしまった。肉体は想像を超えて疲れていた。久しぶりに屋根のある部屋で寝た。ベッドもシャワーもテーブルも神々しく感じた。いまはワヒアワのマクドナルドで無料ワイファイを拾いながら1ドルのコーラをがぶがぶしている。この記事を書き終えたらハレイワに向かう。

 

 

日本ではブーツを履いていたけれど、これで徒歩はきついだろうなと思っていたら大阪で24センチのビーチサンダルをもらった。自分の足は27センチ。しかし、ブーツよりはましだろうと思った。が、オアフ島を歩き始めて40分程度で足のあらゆる皮が剥がれはじめた。私は「はじまったな」と思った。シェリル・ストレイドは女性にも関わらず足の爪が剥がれ落ちるまで歩いた。しかも荷物は30キロ相当。私の荷物は10キロ程度。シェリルは女性だ。それに比べればこの俺の痛みなぞ小粒。辛いのは最初の三日だけ。一皮向けた自分と出会えるのは、経験則上、四日目から。

 

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隠された悪を注意深く拒むこと。

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みんなに心配されたくて靴擦れを撮る。


関西空港で借りたレンタルワイファイを道中で落とした。画面が割れた。損害賠償はいくらになるのだろう。これは幸先が悪いなあと思った。日本に帰りたいと思った。が、同時に「最高だけを望むのもあれだ。最悪も受け入れて歩こう」と思い直した。1日に、最高が3個。最悪が3個。それならあと2個は最悪を受け入れられる。そう思ったら余裕が生まれた。不思議だ。気持ちも新たに歩き始める。と、目の前に大きな虹が出た。私は「おお!」と唸った。よく見ると二重だった。初日から幸先が良いと思った。幸先って何だろう。気持ちはコロコロ二転三転する。

 

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道中の自然になごむ。

 

マーケットでライオンコーヒーとガスボンベを買う。日光浴をしながら一服していると電話が鳴った。日本で問題が起きた。ハワイに来る度に日本で問題が起こる。私は、歩きながら「しがみつく生き方はやめよう」と思った。維持や持続を考えるから息詰まる。最悪、なにもかもなくなっていい。命は残る。残った命に俺は賭けよう。オアフ島にもごちゃまぜの家を!という名目で今回来たが、実質、できてもできなくてもいいのだと思う。私は、あらゆる生命に対して「いい感じで続いていて欲しい」と思う。無理をしてまでなにかを続けないで欲しいし、極論、いい感じが難しくなったら終わってもいいと思う。などと考えていたら、また、虹が出た。

 

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日本で貰った食料になごむ。

 

歩くと色々な記憶が蘇る。前に、家がなくて困っていた人を数ヶ月無償で滞在させたことがある。最初は「助かります!」と言っていたが、徐々に不満を並べるようになり、数ヶ月後に「あなたが優しくするから私は強くなる機会を失った」的なことを言っていなくなった。似たような体験は他にもある。よかれと思ってやったことが、逆恨みされて終わる。私は、これらの体験からひとつの教訓を得た。それは谷川俊太郎の詩にも出てくる言葉だ。『すべての美しいことに出会うこと。そして、隠された悪を注意深く拒むこと』。言葉の裏に、笑顔の裏に、善意の裏に、隠された悪を注意深く拒むこと。そのためには、しっかりと観察する視力を養わないといけない。すべては、そのための授業料なのだと思う。

 

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今日のゴール。

 

結果、ひとりきりになるとしても。

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言葉には二種類ある。祈りと呪いだ。他人に向けた言葉。自分に言い聞かせている言葉。どちらも『祈り』か『呪い』に分けることができる。そういう話を聞いた。自分は、どちらの言葉を使っているだろうか。いま、自分が意識している言葉は、祈りか。呪いか。祈りならば生き方に宿らせたいと思うが、呪いならば受け取り拒否をすること。できることならば、ブログ記事を書くときは『祈り』の言葉を用いたいと思う。誰かに対する憎悪、嫉妬、ある種の憂さ晴らしとして言葉を残したいとは思わない。できることならば、自分が想定できる『最高の相手』に向けて言葉を使っていたい。

 

シェリル・ストレイドは1600キロのロングトレイルを歩いた女性だ。道中、何度も何度も何度も諦めそうになる。が、もうダメだと思う直前、毎回『なにかしら自分の心を喜ばせてくれるもの』との出会いがある。それによって、彼女は歩き続けることができた。美しい自然の風景だったり、誰かと交わす挨拶だったり、湧き水の発見だったり。彼女の体験に比べれば、いま、自分がやっていることはささいなことに過ぎない。しかし、実際に歩くと、彼女の言っていることがより一層身にしみてわかる。諦めそうになるとき、必ず、それを食い止める力が働く。虹だったり、色彩の豊かな小鳥だったり、懐かしい音楽やユーモアや夕陽だったり、誰かから届くメールだったり。

 

昨日届いたメールには「あと、わたしはやっぱりさかつめさんが大好きなんだな、と思いました。充実した時間を過ごさなくても、元気じゃなくても、ただただ生きていてほしいなあ、と思いました」と書かれていた。ああ、これは祈りだ。これは完全に『祈り』だと思った。繰り返しになるが、私は、歩きながら「しがみつく生き方はやめよう」と思った。何かを失うことを恐れたり、ひとりきりになることを極端に恐れるような生き方はやめよう。持続させることより、維持をすることより、最後に残った命に賭けたい。自分自身に呪いをかけてしまうことも定期的にあるが、できることならば、自分自身のために祈ることができるように。結果、ひとりきりになったとしても、祈りをベースにした生き方を護りたいのだと思った。

 

 

圭吾さん、今日は本当にいい休日を過ごせました(^o^) あんなに素敵な空間で、ただ静かにボーッとできる時間は、私にとって大きな贈り物みたいでした! 子どもといると、公園でもあんなにボーッとできることはなくて、同じ1時間でも時間の流れ方がまったく違うんです。 私お母さんなんですけど、ただの「私」としていられる空間をもっと大事にしようと思いました。 「お母さん」じゃない時間って意識しないとなかなかつくれないんですよね。 圭吾さんといると、ただそこにいるだけで、なんだか言葉はなくてもただの「自分」でいられるような気がするんです。 だから昨日話した時間もそうですけど、今朝、圭吾さんとまた、ただの「私」として過ごせて、とっても幸せでした(^^) 帰りにお昼ごはんを買って、家で子どもと食べて、読みかけの本を全部読んで、眠くなったので昼寝をしました。 あったかい布団にくるまりながら、「あー、自分はこんなに心地の良い空間で寝ることができてしあわせだなぁ。圭吾さんが眠そうな時にこの環境があればなぁ…」なんてことを思いながら、眠りにつきました。 私が圭吾さんの代わりに眠って、私の代わりに圭吾さんがハワイでなにかを見つけるのかもしれませんね(^^;) 「たいらけく やすらけく」という本、とっても良かったです! 普段の圭吾さんが言われてるようなことがたくさん出てきます。 「平らけく 安らけく」と口に出して言うことで、言霊となって自分やまわりの全てが丸くなっていくそうです。 日本語の「いのり」という言葉の「い」は「威」らしいです。 「威」に「乗る」のが祈りだそうです。 その一文がなんだかすごく印象に残りました。 ちゃんと買って本を読んだのは久しぶりで、ことばの大事さをもう一度見つめてみたくなりました。 この本はぜひわたり文庫にしたいので、また圭吾さんにお渡しできると思って、帰国を楽しみにしていますね! それでは、残り少ない大阪の時間を楽しんでください(^^)/

 

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God bless me...

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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人生は思う通りにいかない。だから面白いのだ。

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有馬温泉近くのジョイフルで電源を借りまくっている。昨夜は有馬温泉の山中で寝た。必要は発明の母と言われるが、小生は「必要は成長の母」と言いたい。必要に駆られると人間は図々しくなる。明日からオアフ島。ハワイでも野営をする。私はヨガマットで眠るだろう。これに寝ていればもしも警察からお前はなにをしているのだとお咎めを受けても「ヨガです」と言い逃れできる。ふふふ。結局ハワイでは何も予定が入らないから空港からハレイワ界隈まで10時間程度歩く。靴擦れ対策に絆創膏が必要になる。

 

 

前にホノルル空港からワイキキビーチまで三時間歩いた。その様子を見て「あなたバカなんじゃないの!?」と言って車を出してくれた日本人女性と出会えた。まず、体を張る。すると「やばい、こいつこのままだとこのまま行っちゃう!」と思ってくれた心優しい方々が小生にストップをかけてくれる。私は、この『ストップ!』によって生かされてきた。が、自分が生かされるためには、まず、自分が最初に体を張ること。体を張ることなしに奇跡は起こらない気がする。起きたとしても、体を張っていなければ、よろこびも大したものにはならない。断食後のおかゆが美味いのも、凍えた体で風呂に飛び込むとたまらないことも、この摂理による。

 

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充実した日々を過ごす。

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原付移動も一旦終了。明日からオアフ島に飛ぶ。


今回の目的は「充実した日々を過ごす」ことと「ハワイを近所にする」こと。野営の日々だろうが私は修行僧ではないので、あくまでも『充実した日々を過ごすこと』にこだわりたい。内容はなんでもいい。自分が「今日はこれが最高だった!」と思える出来事を最低三個は見つけること。見つからなければ飛び込むこと。もう一つは『ハワイを近所にする』ことで、飛行機で片道八時間かかろうが、繰り返し足を運ぶことで「ああ、オアフ島ね。あれは俺の庭だね。感覚的には近所だね」程度にはなりたい。ハワイに対する身構えを取り除く。軽やかに、まるで散歩にでかけるように、誰もがハワイにふらっと出かけるようになれば嬉しい。身構えない。一泊二日でも全然いい。現地の風を浴びるだけでもかなりの威力があると思う。

 

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昨夜。イノシシの気配に怯えながら眠る。

 

昨日は暇だったので大阪駅で希望者の方々におはなを配った。野営明けでボロボロの自分が両手に花を抱えている状態は「美女と野獣…」みたいでいいなと感じた。気持ち100万本程度のバラを配りながら、バラのお返しにとしゃぶしゃぶをご馳走になったりカフェラテをご馳走になったりした。前回の記事でバイクを置かせていただける場所を募集したが、無事に見つかりホッとした。ある女性H様から、最初「神戸の私の家に置けますよ!」と連絡がきた。その直後「さっきのメールはちょっと待ってください!なんか、あんなメールを送った自分に腹が立って腹が立ってしかたがないのです!」というメールが来た。私は、お、と思った。一体彼女に何が起きているのだろうかと思った。数時間後、私は、グランフロント南館二階にあるコミンカフェの前でH様と合流した。

 

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夜明け前。星が綺麗だった。


H様は言う。「見つからなかったら、とか、困ってたら連絡ください、とか、なんか違うなと。なんなんだこの上から目線はと。私はただ坂爪さんに会いたいだけだと。坂爪さんの力になりたいだけだと。そう思ったので、もう、会えなくてもいいから行くだけ行こう!と思って大阪駅に来ました」とのこと。私は、ああ、こういう頭や言葉だけじゃなくて実際に行動に移せちゃう女性は最高に魅力的だなと思った。H様は謎に高級なブランデーを持っていた。聞いてください坂爪さん。H様は話す。数年前にこのブランデーを貰ったのですが、これ、非常に高級なヤツで売ると結構な値段になるらしいんです。これ、今から売りに行って、そのお金をハワイでの餞別にしてもらったら面白いかなとか思ったのですがいかがなものでしょうか。にやにや。H様は笑う。にやにや。私も笑う。にやにや。非常に素晴らしい時間が流れた。

 

人生は思う通りにいかない。だから面白いのだ。

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夜明け。


最近シングルマザーの方々とよく会う。小生、稀に「あなたはすごいですね!」などと言われるが、俺なんかより子育てをしているひとの方が五億倍すごいと思う。昨日お会いした方は「家事に育児に仕事もあって、こどももまだ小さいから、どうしても部屋が散らかる。ごちゃまぜの家の話を聞くと、そこにいるだけで落ち着くみたいなことを聞くから、私も自分の家を落ち着く家にしたい。だけど時間がなくって」と話していた。そりゃあそうだろうなあと思った。彼女は自分を責めるような感じで「もっと頑張らないと」みたいなことを言うので、私は「頑張らないでください!」と思った。そして、もし、マンパワーが必要になった時は私が掃除に行くので遠慮なく使ってくださいと言った。基本、男は女の役に立ちたいのだ。

 

また別の女性とも話した。彼女は「坂爪さんは、ひとを信じるってことをどう思いますか」と突然問うた。私は、突然そんなことを聞かれても困るぜ!と思って「あなたはどう思っているのですか?」と問い返して逃げた。ら、彼女は答えた。自分でもよくわからないのです。でも、坂爪さんの生き方は、人間を信じている人にしかできないことだと思って。と。彼女は続けて「昔から人間関係でつまずくことが多くて、とりわけ怒っている男性を目の前にすると硬直しちゃって。私がなにかいけないことをしたのかな、とか、このひとはいま帰りたいんだろうなとか思うといたたまれなくなってしまって」的なことを話した。

 

私は敏感に察し取る力を瞬間沸騰的に発揮して「それは違う」と言った。あなたはひとを信じることができないと言う。が、それは自分を信じていないだけだ。自分を信じていないというか、誰かに「あなたはここにいてもいいよ」と許可を求めているだけだ。でも、それを続ける必要はない。必要なことは、自分が、自分に対して『ここにいてもいいよ』と言ってあげることだ。あなたが生きていることに対して、誰の許可もいらない。許可もなにも、あなたはここにいてもいいに決まっている。だから、もう、周囲の顔色を伺ったり誰かに許可を求めるようなことをしないでもいい。ただ、自分が自分に『ここにいてもいいよ』と言ってやることだ。あなたはとっくに許されているのだ。と思う。と。私は言った。言いながら、ああ、本当にそうだなあと思った。しばしの間、自分に酔った。否、自分から出た『言葉』に酔った。凄いのは私ではない。凄いのは言葉である。言葉が、ただ、たまたま自分を通じて出て来ただけにすぎない。生きててもいいよ。ここにいてもいいよ。自分の好きなように生きていいよ。肯定的な力が、否定的な力をぶった切って、世の中に広く蔓延するためのツールとして自分が存在することができたらいいと思う。 

 

 

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夕焼けに見せかけて朝焼け。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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誰一人置いていかない。全員引き連れて生きる。

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大阪府池田市にあるデニーズにいる。昨夜は伊丹市猪名川エディオンの裏)で野宿をした。今日は昼迄に大阪駅に行く。それ以降は何もない。「関西とハワイにごちゃまぜの家を!」とは言って見たものの、身の振り方がわからない。ボディは慢性的に疲れている。目がトロンとしている。野性味だけは無駄に増したが、人間界でうまくやっていく自信がない。都会にいると死にたくなる。土日は道路が混む。信号と渋滞は嫌いだ。逃げ場をなくした。終わった。人生が詰んだ。孫悟空風に言えば「オラにはもう鼻くそをほじる力も残っちゃいねぇや・・・」だがしかしブログ記事を更新する元気はある。

 

 

と、ここまで書いたら「なんだかあったまきた!」と思って関空ホノルル便を予約した。ふふふ。現地時刻11月3日12時から11月7日15時迄の五日間オアフ島にいることになった。誰か、オアフ島在住の方で「それならば会おうぜ!」とか思ってくださる方がいたらご連絡ください。巷では引き寄せの法則が話題になったが、小生、待つことが大の苦手である。「引き寄せよりも押し寄せ!」ということで、呼ばれてもいないのに勝手に飛び込み、そこで起きる清濁を併せ飲んで輝く。さて、そんなことはできるのだろうか。明後日の今頃はオアフ島にいます。私になにが起こるのだろうか。オアフ島在住の皆様、神様、仏様、小生に力を与えてください。

 

ibaya.hatenablog.com

 

男の日常

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夜明け前が一番暗い。

 

ここで問題が発生する。機内手荷物制限は7キロだ。私の現在の荷物は20キロ。バイクまである。さて、どうしよう。どなた様か関西在住の方で「家に原チャと荷物を置けるよ!」という方がいたらご連絡いただけましたら超絶幸いです(せめてものお返しにハワイ土産を買ってきます!!)。ああ、こうして書きながら俺はなにをやっているのだろうかと思う。後先のことを考えていない。否、考えるつもりがあんまりない。問題を起こし、問題を引き受け、それをひとりで解決することを放棄する。誰かに甘えることを通じてコミュニケーションを発生させ、結果、お互いが「なんだか結果的にとてもよかったですね!」となることを理想とする。

 

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川面に朝日。これが小生の心象風景である。


ここでひとつ提案がある。もしも「それならあたしもホノルル行っちゃおうかなー!」とか思ったあなた、仮に、あなたが車を借りてその辺をドライブすることがあれば、小生を適当な空き地に放り出していただけたら嬉しいです。ホノルル界隈は野宿できる場所がない(警察に超絶怒られる)。バスに乗って移動をするのもありだが、できることならばコミュニケーションを発生させたい。が、現在の私にはこんな程度の提案をすることしかできない。運転ならば私がやります。日本の免許があれば誰でも運転できます。あとはどんな方法があるのだろうか・・・ハワイに詳しい方がいたらご連絡ください。

 

連絡先・さかつめけいごっち

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荷物。比較的多い。


あとはもう、みなさまにこの生き様を楽しんでいただけたら嬉しい。ここで改めておさらいをすると、私がオアフ島に行く目的は「誰でも自由に使える家なり空間を確保すること」という超絶抽象的なものになります。モバイル茶室とかいいなあ、オアフ島でみなさまにお茶を振舞ったりしたいなあ、とかは思うのだけれど空想の域を超えていない。そうか。モバイルハウスを作って、それを置かせていただく場所さえどうにか確保できたら、一応「ハワイに家ができました!」と言えるのか。否か。わからない。やってみなければわからないことをやる前にわかろうとするのは無理だ。やりながら考えよう。脳内を垂れ流して生きていこう。

 

誰一人置いていかない。全員引き連れて生きる。

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日が昇ったよ、おかあさん。


移動生活を続けていると色々なひとにあう。稀に半端ない大富豪にも出会う。富裕層の方々も小生のような地底人間の生き様に関心を持ってくれることが非常にうれしい。感動を覚える。真の意味で豊かなひとは役職にとらわれていない。普通、不動産会社のひとは「不動産っぽい顔つき」になるし、広告会社のひとは「広告会社っぽい顔つき」になるし、主婦は「主婦っぽい顔つき」になる。が、豊かさを感じる人は、役職にとらわれた顔をしていない。なんと言えばいいのだろう。社長としての自分ではなく『自分という大きな円の中に、社長という小さな円も入っている』という雰囲気がある。だから余裕がある。社長であることがそのひとのすべてではないのだな、という余白を感じさせる。そこに私は魅力を覚える。黒柳徹子さんや松田聖子さんや所ジョージさんに感じる魅力と似ている(のかもしれない)。

 

昨日お会いした富裕層の女性が「私はお金に困ることはないと思っている。だから、お金に対してリラックスをしていられる」的なことを言っていた。素晴らしい言葉だなと思った。私は、数年前、龍の神様から「今世、お前は金に困ることはない。だから、金になるとかならないとか、そういうことで生き方を考えるな。そこは俺に任せておけ」的なことを言われた(という風に勘違いをして生きることに決めた)。だから、私も、お金はないくせにお金に対して割とリラックスをしている。あとはなんだろう。私は、金と、命と、愛に対してリラックスをしていると思う。根底で「どうにかなる」と思っているのだろう。だがしかし、今回のハワイ行きとかが決定すると、やっぱりちょっと恐ろしくなる。そうは言っても龍の神様、ねえ、俺は本当に大丈夫なのでしょうかなどと聞きたくなる。まだまだ信仰が足りない。信仰を深める旅路になればいいと願う。

 

最近「みんなで生きる」ということを考える。かつて、私はなんでも自分ひとりの力でやることをよしとするタイプの人間だった。その頃は目つきが今よりキツかった。精神的な余裕もなかった。が、いろいろなことに降伏をして「これは自分には無理です!」とパッパラパーのお手上げ状態を晒したら、全方位から助け舟が差し出された。みんなで生きる。これは外部だけの話じゃない『自分の内部の人格達』についても言える。たとえば、私は、最近ブログを書くたびに「いよいよ俺も嫌われたな。こんなことなら書かなきゃよかったな」などと思う。が、しかし、書かなくてもそう思ったことに変わりはないのだから、いいひとぶって「出していいのはここまで!」とか線引きをするより、よっぽど自分に正直だなと思った。なにより、確実にそう感じている自分を封印することは、自分に対する虐待になる。そう、なかったことにはできないのだ。だから、俺は、全員引き連れて生きる。自分の外側にいる全員、自分の内側にいる全員、みんなを引き連れて生きたいと思う。

 

 

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男の夜明けぜよ。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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我慢するなよ。好きなように生きなよ。

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長野県塩尻市から岐阜を経由し愛知にはいる。木曽川の紅葉が素晴らしい。名古屋が近づくほど、こころなしか空気が俗っぽくなる。昔から名古屋が苦手だった。誤解を恐れずに言うと『ガサツ』な印象がある。運転も荒い。こんな街は早く出よう、などと思いながらデニーズに来た。電源があったらからダメ元で「お借りしても大丈夫ですか?」と(絶対断られるだろうなあと思いながら)聞いたら、女性の店員さんが「よろしいですよ♡」と満面の笑顔。名古屋の印象が一転した。私は現金な人間だ。

 

 

これから兵庫県伊丹市を目指す。昨日の記事で『けいごっち』の話を書いた。早速、岐阜県多治見市にあるピアゴと、愛知県名古屋市にあるタリーズにて救援物資を得た。おにぎりやキムチや納豆やサンドイッチやマスクやホッカイロをもらった。私は、代わりに「お茶でもご馳走させてください」と言ってくら寿司にはいった。回転寿司はお茶としょうがが食べ放題(?)なので気に入っている。私にも社会性はあるので、申し訳程度に寿司を数皿食べ、同伴した女性はケーキを食べた。くら寿司は五皿食べるごとに謎のゲームが発生する。よくわからなかったが、それが当選した。女性は「母が喜びます!」と言って景品を嬉々として持ち帰った。

 

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なんだかんだ言ってハワイ。

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木曽川の紅葉。ため息が出た。


日本の四季は素晴らしい。この国に生まれてよかったと思う。しかし、日本にはないものも結構ある。全国各地をどれだけ探しても、あの、ハワイ島の日々で感じた「なんだかよくわからないけどそこにいるだけで幸せになっちゃうアトモスフィア」がない。当たり前だ。だって、ここはハワイではないのだから。ごちゃまぜの家を全国に!と鼻息を荒く生きているが、いま、私の本音は「関西にひとつ、そしてオアフ島にひとつ」という感じになっている。まだハワイに行ったことのない人を、強制的に連行したい。私の生業は人さらいだ。先入観でいろいろ思うことはあると思うけれど、ハワイは最高だ。私も、行くまでは「ケッ!」とか思っていた。が、実際に行ったら超絶よかった。仮に、オアフ島に「誰でも自由に使える家」があったら、幸せになる人々は増える気がする(なによりも自分が幸せになる)。

 

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思わず「うわあ」と声が漏れた。

 

関空ホノルル間の航空券を調べたら格安だった。11月と12月は往復(片道ではなく!)2万円強。下手な国内旅行より安い。ここで提案がある。誰か、私と一緒にハワイに行きませんか。あるいは、あなたの代わりにさかつめけいごっちをホノルルに派遣しませんか。あなたのお金で・・・(自分で言いながら「こいつ最低だな」とかいまちょっと思った)。小生、5万円あればホノルルで野営をしながら家探しの旅に出ることができる。周囲の友達にも声をかけたが、私の友達は『時間はあるけどお金がない』という生きづらさを抱えているので、なかなかすぐには飛べない。魅惑的なオファーを提供して、スポンサーを獲得する。それがオアフ島に飛ぶための最速ルートだと思った。が、いまいち魅力的なオファーをできていない。再考の必要性を感じている(こういうことを考えながらバイクを運転している)。

 

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昨夜は庄内川の河川敷で野営。テントがかわいい。


なにをしたらスポンサーを得られるのだろうか。毎日動画を送ります!とか。毎日近況報告をします!とか。毎日あなたに耳元で(音声メッセージを通じて)愛を囁きます!とか。私が楽しそうに生きていることがあなたの手によってであるということを実感できます!とか。ああ、こんな程度のことしか浮かばない。暖房の効いたデニーズに座っているとなんだかいろいろどうでもよくなる。このまま永遠に座っていたい。眠い。バイクなんてもう嫌だ。野宿も嫌いだ。俺は布団で眠りたいのだ。風呂にはいりたい。読書をしたい。落ち着いた環境で書き物をしたい。女の人にかわいいねとか言いたい。とか。いろいろな雑念がわく。だがしかし、私は知っているのだ。再びバイクにまたがった瞬間、即刻「バイク最高!自然最高!やっぱり人間風に吹かれないとね!」とか思っちゃうことを。続きはバイクで走りながら考えよう。風に吹かれたら、革新的なアイデアが舞い降りるかもしれない。

 

我慢するなよ。好きなように生きなよ。

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庄内川の朝焼け。名古屋を好きになった。


私は共有財産を増やしたいのかもしれない。いま使っているバイクも、いま使っている野営道具も、自分が使っていない時はどんどん他の人に使って欲しい。家も、車も、GoProも、ドローンも、ロードバイクも、その他全部、必要とする人々で共有できた方がいいと思う。その方が、道具を通じてコミュニケーションが生まれる。普通なら出会わない人々と出会う機会が生まれる。ひとと出会うと『風が吹く』と思う。自分に捕まっている瞬間は自由を感じ得ないが、他者とコミュニケーションを交わすことで逆に自分を発見する。自分が見た先々の風景を写真で公開するのも、根底には「みんなと楽しみたい」という思いがあるからだろう。人間、誰だってよろこびを分かち合いたいと思うものではないだろうか。ただ、その距離感がひとによって異なるだけだ。距離感が嫌いになることはあっても、人間を嫌いになることはない。

 

ハワイのいいところは108個くらいあるが、ひとつは「レジ打ちの女性さえも楽しそうに生きているところ」だ。店員とお客様という関係性ではない、あくまでも『人間と人間』という感じがする。お客さんにも「はーい、元気?」と気軽な感じだ。嫌味はない。私は「こういう感じでいいんだよな」と爽快になる。しかし、実際にこういう風に生きているひとを目の当たりにしなければ、私は、働くことイコール奴隷になることと思って生きていただろう。デニーズの店員さんは、申し訳ないけれど奴隷感が半端ない。過剰にペコペコする。あまりにもペコペコしすぎだろと思う。これじゃ無意識に自尊心がボロボロになる。きっと彼女もペコペコしないと上から怒られるのだろう。かわいそうに。でもしかし人間、あまりにもペコペコし過ぎてはいけないのだと思う。ペコペコしすぎている彼女をノーペコペコのハワイ諸島に『人さらい』したい。そこで彼女に「君はペコペコするために生まれてきた訳じゃないよ。幸せになるために生まれてきたんだよ」とか言いたい。

 

妄想が進み過ぎる。暖房は危険だ。脳みそがとろける。眠気がすごい。バイクに乗らなければならない。伊丹まで180キロある。原付だから8時間程度かかる。18時迄には伊丹に到着したい。私は進学校を出たいわゆる『優等生』タイプの人間だった。行動よりも知識ばかりが先行する、いまの自分から見たら嫌いなタイプの人間だった。知識と行動があるならば、いま、行動を重ねることで「ようやく知識に追いついてきたー!」みたいな感覚を得た。教科書じゃ学べない。本には書かれていない。話を聞くだけじゃわからない。自分の目で、自分の肌で、自分の肉体を通じて感じた手応えを信じる。1日の間に「最高だ!」と「最悪だ!」を何度も経験している。寒いと死にたくなる。あったかくなると生きたくなる。毎日しっかりボロボロになる。ボロボロになって眠れる喜び。これは「ああ、俺は生きた」と思いながら大往生する人間と、ちょっとだけ似ているのかもしれないと思った。

 

 

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人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生きることが、生きがいになる。

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昔、たまごっちというゲームが爆発的に流行した。プレイヤーは、たまごっちに食事をあげたり、夜になったら電気を消したり、一緒に遊ぶことでご機嫌を伺ったりする。いま、私は「俺もけいごっちになれないかな」と思っている。プレイヤー(ここでいうとブロク読者のみなさま!そう、目の前のあなた!)は、さかつめけいごっちに餌をあげたり、しつけをしたり、一緒に遊ぶことでご機嫌を伺う。けいごっちが幸せになると、あなたも幸せになる。けいごっちが不幸になると、あなたはとっても不幸になる。

 

 

昔、タモリさんは「芸能人は国民のおもちゃ」と言った。ある程度有名になると、この言葉の意味がより強く沁みる。私は芸能人でもなければ著名人でもなんでもないが、好むと好まざるとに関わらず、周囲からおもちゃ扱いされることは頻繁にある。ならば、自分から「俺というゲームの楽しみ方」を提示するのは有効だ。私は末っ子なので、基本的に常に誰かになにかをしてもらいたい。連日の野宿でちょっとでも大変になると、すぐに「死んじゃう」とか言って周囲の悲哀を誘う。それによって生き残ろうとする、非常に小賢しい人間だ。

 

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乱世に備える。

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長野の空き地。こどもができたら野放しにしたい。


昨日は長野県大町市にある空き地を見学させていただき、その景観に度肝を抜かれた。ああ、ここを使わせていただける日がきたら(そして自分にこどもができたら)野放しにして思い切り遊ばせたいと思った。息子が生まれたら、一緒にキャッチボールをしたい。娘が生まれたら『日本アルプスの少女ハイジ』に仕込みたい。ブランコに乗りながら、あの、有名なオープニングソングを熱唱するくらいには熱い女性に育つように・・・その後は長野県松本市にある河川敷の薮の中で野宿をした。なにもやることがなかったので、動画を撮影して、パブリックに公開する遊びをした。

 

 

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河川敷(というか薮)で野営。凍死するかと思った。

 

私は愚かなので、常に「乱世に備えて生きる」的な癖がある。もしもこの先生きることに迷うことがあったら、LINEやメッセンジャーから音声メッセージや動画メッセージを希望者に送り届け、それを「よし」としてくださる方々から救援物資などをいただきながら生きよう。毎朝「おはよう!○○ちゃん!今日も元気にいってらっしゃい!」とか「はーい、○○、どうしたんだい。そんな顔してさ!」とか「○○、愛してるよ」とか、バリエーションを増やしてみなさまに幸福を届ける(名前を呼ぶことがポイントだと思っている)のだ。

 

 

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鞄が凍った。

 

冬の長野では「着れるだけ着て、更にもう一枚着なさい!」という伝統的な教訓がある。現在の私は、シームレスのパンツ、スキンズ、オムニヒート、ジーンズ、その上にダウンパンツと、下半身だけでも五枚着ている。というのは嘘で、スキンズを履いてくることを怠った。横浜を出る時に「これだけ履けば大丈夫だろ!」と思ったのが甘かった。長野はまじで寒い。昨日は鞄が凍った。半ヘルで来たことも愚かだった。時速50キロを超えると涙と鼻水が止まらない。嗚咽しながら移動をしている。「着れるだけ着て、もう一枚着なさい」とは素晴らしい教えだ。応用が効く。断捨離の時は「捨てるだけ捨てて、もう一個捨てなさい!」とか。筋トレの時は「やれるだけやって、もう一回やりなさい!」とか。

 

 

生きることが、生きがいになる。

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都市に救われた。。。


長野で鍛錬された野営スキルと肉体を生かすべく、これから関西を目指す。今日は名古屋あたりまで着きたい。なぜか「奈良の天川村に行け」と神様から言われた気がした。道中、与える喜びを与える喜びツアーというふざけた名前の企画を自主開催する。これは、要するに『リアル版けいごっち』ということなのだけれど、連日の野営でろくなものを食べていないさかつめけいごっちに「食べ物を与える」とか「なにかしらのプレゼントを与える」ことを通じて、けいごっちの喜びを自分のよろこびにしてしまおうという企画になる。興味のある方(そんなひとっているのかな??)はご連絡ください。お互いのタイミングがあったら会いましょう!!

 

連絡先・さかつめけいごっち

keigosakatsume@gmail.com

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関西でもごちゃまぜの家を作ってください!と、非常に多くの方々から言ってもらって光栄である。自分も、できることならば関西に作りたいとは思うのだけれど空き地も空き家もなにもあてがない。こういう時こそ肉弾戦である。まずは、野営を繰り返すことで自分の体を土地になじませ、土地と会話をする。はいはいはい、君はこんなことを思っているのだね的なことを土地から聞き出し、その土地に見合ったやり方なり生き方を見出す。なんてことができたらいいのだけれど、このスキルは目下鍛錬中である。だから、誰かに「あなたはどんな家が欲しいの?」とか聞かれても困る。順番が違う。まず先に家なり土地があって、はじめて「ここをどんな風に使ったら面白いか?」という問いが成り立つのだ。が、こういう説明をしても大抵ポカンとされてしまうので、ごちゃまぜの家@関西計画はまったく進展をしていない。

 

だがしかし、懲りることなく私は関西に向かう。こういうのは場数である。繰り返し足を運ぶことで土地の雰囲気を肉体に染み込ませる。人間も同じだ。一回や二回あっただけで、真の友好が深められるとは思わない。苦楽を共にした経験が、愛情や友情を深めるのだ。それにしても野営は楽しい。過酷だけど楽しい。寒いけど楽しい。ここ数日(というか33年間の日々の中で)生産的と呼べるようなことはなにひとつしなかった。そのことに負い目を感じる時期は過ぎ去った。生産性なんてきっと考えなくていいのだ。人間である前に、我々は動物である。野営をしているとわかる。それは「生きることが、生きがいになる」ということだ。ただ生きる。ただお湯を沸かす。ただテントを張る。ただ星空を見る。ただ寝袋で寝る。ただ生きる。それだけのことが、どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく楽しいのだ。

 

 

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野垂れ死ぬならこの場所で。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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束縛からの自由。

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バイク移動をしていると、どうしてもアメリカ映画『イージーライダー』を思い出す。自由と、自由であることの代償が描かれている有名な映画だ。映画の中に、こんな感じのセリフが出てくる。アメリカという国は、こどもから老人まで『自由』『自由』と口にする。しかし、本当に自由に生きる人間を見るのは怖いんだ。と。この言葉を聞いた時は衝撃を覚えた。映画のラストで、自由奔放に生きる主人公たちは最終的に(自由を愛する一般的なアメリカ人たちによって)撃ち殺される。

 

 

昨日は長野県佐久市にある空き家を見学させていただいた。掃除さえすればすぐに使える状態だと言う。いまは安曇野にいて、これから大町にある空き地を見学させていただく。昨日、佐久市にある温泉にはいった。湯質は最高だったが、客層のほとんどがオーバー70歳で「ここにいたら生気が吸われる」と感じた。全国、どこに行ってもこんな感じだ。高齢化が蔓延をしている。誤解を恐れずに言えば、おじいちゃんの9割は死んだ魚の目をしていた。残り1割は「いい感じの表情(生きている顔)」をしていた。女風呂からは、おしゃべりが盛り上がっているおばあちゃん達の声が聞こえる。年齢を重ねても女は元気だ。問題は男だ。やることをなくした男は、生気を失い、愚痴が増え、毎日テレビばかりを見るようになって、急速に老ける。

 

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自由と、自由であることの代償

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風光明媚だが。。ダムはファック。。


バイクを走らせながら「愛は女に任せた。俺は自由を求める」的なことを思った。なぜだろう、最近『愛』というワードを聞くたびに違和感を覚える。数年前、愛する(は!私も『愛』を使ってしまった!)三森正道さんが「男は真理を求めて生きているような気がするけれど、女性は真理そのものを生きているのだと思う」と言っていた。これは半端ないコメントだと思った。感覚的に、愛を考え始めると湿る。なよなよする。振り返った時に「ああ、あれは愛だったんだな」などと思う瞬間は好きだ。しかし、愛を求めたり、愛をどうのこうのと考え始めてしまった時、私はなんだか自分を生かせていない感覚を覚える。

 

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紅葉を迎える山々。


幼き頃、母親の愛情がうざくて「俺は、愛よりも自由を選ぶ」と反抗期に突撃した時期があった。男には、愛よりも自由を選びたいときがあるのだ(女性もそうだとは思うけど)。イージーライダーを評する際、井筒監督は「自由には二種類ある」と話した。ひとつはリバティ【liberty】で、ひとつはフリーダム【freedom】。libertyには「選択の自由」という意味合いがあり、freedomには「束縛からの自由」という意味合いがある。イージーライダーが描き出そうとした自由は完全にフリーダムの方で、社会が認める自由がリバティならば、あらゆる一切の制約を超えて自由でありたいと願う姿、それに手を伸ばす姿、そのど真ん中を生きる姿、その状態がフリーダムになる。結果、フリーダム愛好家たち(映画の主人公たち)はリバティ愛好家(一般人)の手によって射殺される。

 

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燃える炎に安寧を見出す。

 

映画『イージーライダー』のキャッチコピーは「彼らはアメリカ(自由)を見つけに旅に出た。しかし、そんなものはどこにもなかった。」というものになる。真の自由を求める旅に出た果てに、射殺をされた彼らは間違っていたのだろうか。10代の頃、はじめてこの映画を見たとき、私は「間違いでもいい」と思った。アメリカという国は、こどもから老人まで『自由』『自由』と口にする。しかし、本当に自由に生きる人間を見るのは怖いんだ。これは、日本だって同じことだ。もしかすると、自由であることの代償と、愛を選ぶことの代償は似ているのかもしれない。誰もがそれを欲しいと思いながら、実際に手にしているひとを見ると怖くてたまらなくなる。そして、そいつを世の中から抹殺する。『自由』『自由』と言いながら、『愛』『愛』と言いながら、それを手にした人を見ると殺したくなる。そういう心理が人間にはあるのだろう。それでもなお、自由に舵をとるか。愛に舵をとるか。否か。崇高な精神は、たとえば、こういう時に宿るものだと思う。

 

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月を望む。

 

束縛からの自由。

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清澄な自然に囲まれれば、薄汚れた自分も少しは清澄になれるだろうか。そう思って自然の中を滑走している。自然の素晴らしさは「朝は朝!」とか「夜は夜!」とか、四季や昼夜の変化をモロに体感できることだ。夜は夜だから暗い。だから夜を楽しめる。焚き火。星空。虫の声。朝は朝だから明るい。あれだけ暗かった世の中が、途端に光に包まれる。小鳥のさえずりが1日のはじまりを告げる。朝だ。さあ、新しい1日がはじまるのだ。気持ちの切り替えがビシッ!とできる。太陽を拝みたい気持ちにもなる。思わず「神様ありがとう」とか口にしてしまう。実際に拝む。自分以上のなにか大きなものに降伏することの幸福を思ったりする。

 

穏やかさに包まれると、気持ちにもゆとりが生まれる。私は、頻繁に物事を二者択一の二元論で考えてしまう。リバティかフリーダムか。愛か自由か。自分軸か他人軸か。個性か社会性か。善か悪か。白か黒か。など。きっと、これらの概念は両立できるものだ。自分を生きることが、すなわち「俗世から離れて生きる」とか「変質者になること」とか「周囲の迷惑になること」にはならない。自分を生きながら、同時に社会からも歓迎されるようなあり方。そういうあり方を、生きとし生けるものすべての生命が見出すことができたならば、ひとりひとりがもっとのびのびと生きれる世の中になればいい、などと思いながら朝日を眺めていた。

 

紅葉の山々を走りながら「コンクリートジャングルにお住いのみなさま。世界は、いま、こんなにも綺麗な景色を見せてくれますよ!」と大声で叫びたくなった。言葉にできない素晴らしさだ。できることならば、いますぐ予定帳を開いて「この日は紅葉を見に行く!」と早速予定を固めちゃって欲しい。車ではなくバイクか自転車で、紅葉の山々を走り回って見て欲しい。きっといろいろなことがどうでもよくなるはずだ。善人だろうが、悪人だろうが、きっと「うわあ」と思わず声をあげてしまうような風景に出会えると思う。そう、この世の中の素晴らしいものは、善人だろうが、悪人だろうが、そういう垣根を吹っ飛ばして『人間を』感動をさせてしまう力がある。私が欲しいと思う力は、例えば、そういう類のものなのである。 

 

 

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紅葉の山々を駆け抜ける喜び。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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