いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

結果、ひとりきりになるとしても。

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ハワイのオアフ島にきた。シェリル・ストレイドの小説に影響を受け、自分も100キロ歩こうと思う。大阪で「本当に疲れたらホテルを使え」と魔法のカードをもらった。最終日に使おうと思った。これで安心してボロボロになれると思った。が、このカードを初日から使ってしまった。肉体は想像を超えて疲れていた。久しぶりに屋根のある部屋で寝た。ベッドもシャワーもテーブルも神々しく感じた。いまはワヒアワのマクドナルドで無料ワイファイを拾いながら1ドルのコーラをがぶがぶしている。この記事を書き終えたらハレイワに向かう。

 

 

日本ではブーツを履いていたけれど、これで徒歩はきついだろうなと思っていたら大阪で24センチのビーチサンダルをもらった。自分の足は27センチ。しかし、ブーツよりはましだろうと思った。が、オアフ島を歩き始めて40分程度で足のあらゆる皮が剥がれはじめた。私は「はじまったな」と思った。シェリル・ストレイドは女性にも関わらず足の爪が剥がれ落ちるまで歩いた。しかも荷物は30キロ相当。私の荷物は10キロ程度。シェリルは女性だ。それに比べればこの俺の痛みなぞ小粒。辛いのは最初の三日だけ。一皮向けた自分と出会えるのは、経験則上、四日目から。

 

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隠された悪を注意深く拒むこと。

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みんなに心配されたくて靴擦れを撮る。


関西空港で借りたレンタルワイファイを道中で落とした。画面が割れた。損害賠償はいくらになるのだろう。これは幸先が悪いなあと思った。日本に帰りたいと思った。が、同時に「最高だけを望むのもあれだ。最悪も受け入れて歩こう」と思い直した。1日に、最高が3個。最悪が3個。それならあと2個は最悪を受け入れられる。そう思ったら余裕が生まれた。不思議だ。気持ちも新たに歩き始める。と、目の前に大きな虹が出た。私は「おお!」と唸った。よく見ると二重だった。初日から幸先が良いと思った。幸先って何だろう。気持ちはコロコロ二転三転する。

 

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道中の自然になごむ。

 

マーケットでライオンコーヒーとガスボンベを買う。日光浴をしながら一服していると電話が鳴った。日本で問題が起きた。ハワイに来る度に日本で問題が起こる。私は、歩きながら「しがみつく生き方はやめよう」と思った。維持や持続を考えるから息詰まる。最悪、なにもかもなくなっていい。命は残る。残った命に俺は賭けよう。オアフ島にもごちゃまぜの家を!という名目で今回来たが、実質、できてもできなくてもいいのだと思う。私は、あらゆる生命に対して「いい感じで続いていて欲しい」と思う。無理をしてまでなにかを続けないで欲しいし、極論、いい感じが難しくなったら終わってもいいと思う。などと考えていたら、また、虹が出た。

 

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日本で貰った食料になごむ。

 

歩くと色々な記憶が蘇る。前に、家がなくて困っていた人を数ヶ月無償で滞在させたことがある。最初は「助かります!」と言っていたが、徐々に不満を並べるようになり、数ヶ月後に「あなたが優しくするから私は強くなる機会を失った」的なことを言っていなくなった。似たような体験は他にもある。よかれと思ってやったことが、逆恨みされて終わる。私は、これらの体験からひとつの教訓を得た。それは谷川俊太郎の詩にも出てくる言葉だ。『すべての美しいことに出会うこと。そして、隠された悪を注意深く拒むこと』。言葉の裏に、笑顔の裏に、善意の裏に、隠された悪を注意深く拒むこと。そのためには、しっかりと観察する視力を養わないといけない。すべては、そのための授業料なのだと思う。

 

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今日のゴール。

 

結果、ひとりきりになるとしても。

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言葉には二種類ある。祈りと呪いだ。他人に向けた言葉。自分に言い聞かせている言葉。どちらも『祈り』か『呪い』に分けることができる。そういう話を聞いた。自分は、どちらの言葉を使っているだろうか。いま、自分が意識している言葉は、祈りか。呪いか。祈りならば生き方に宿らせたいと思うが、呪いならば受け取り拒否をすること。できることならば、ブログ記事を書くときは『祈り』の言葉を用いたいと思う。誰かに対する憎悪、嫉妬、ある種の憂さ晴らしとして言葉を残したいとは思わない。できることならば、自分が想定できる『最高の相手』に向けて言葉を使っていたい。

 

シェリル・ストレイドは1600キロのロングトレイルを歩いた女性だ。道中、何度も何度も何度も諦めそうになる。が、もうダメだと思う直前、毎回『なにかしら自分の心を喜ばせてくれるもの』との出会いがある。それによって、彼女は歩き続けることができた。美しい自然の風景だったり、誰かと交わす挨拶だったり、湧き水の発見だったり。彼女の体験に比べれば、いま、自分がやっていることはささいなことに過ぎない。しかし、実際に歩くと、彼女の言っていることがより一層身にしみてわかる。諦めそうになるとき、必ず、それを食い止める力が働く。虹だったり、色彩の豊かな小鳥だったり、懐かしい音楽やユーモアや夕陽だったり、誰かから届くメールだったり。

 

昨日届いたメールには「あと、わたしはやっぱりさかつめさんが大好きなんだな、と思いました。充実した時間を過ごさなくても、元気じゃなくても、ただただ生きていてほしいなあ、と思いました」と書かれていた。ああ、これは祈りだ。これは完全に『祈り』だと思った。繰り返しになるが、私は、歩きながら「しがみつく生き方はやめよう」と思った。何かを失うことを恐れたり、ひとりきりになることを極端に恐れるような生き方はやめよう。持続させることより、維持をすることより、最後に残った命に賭けたい。自分自身に呪いをかけてしまうことも定期的にあるが、できることならば、自分自身のために祈ることができるように。結果、ひとりきりになったとしても、祈りをベースにした生き方を護りたいのだと思った。

 

 

圭吾さん、今日は本当にいい休日を過ごせました(^o^) あんなに素敵な空間で、ただ静かにボーッとできる時間は、私にとって大きな贈り物みたいでした! 子どもといると、公園でもあんなにボーッとできることはなくて、同じ1時間でも時間の流れ方がまったく違うんです。 私お母さんなんですけど、ただの「私」としていられる空間をもっと大事にしようと思いました。 「お母さん」じゃない時間って意識しないとなかなかつくれないんですよね。 圭吾さんといると、ただそこにいるだけで、なんだか言葉はなくてもただの「自分」でいられるような気がするんです。 だから昨日話した時間もそうですけど、今朝、圭吾さんとまた、ただの「私」として過ごせて、とっても幸せでした(^^) 帰りにお昼ごはんを買って、家で子どもと食べて、読みかけの本を全部読んで、眠くなったので昼寝をしました。 あったかい布団にくるまりながら、「あー、自分はこんなに心地の良い空間で寝ることができてしあわせだなぁ。圭吾さんが眠そうな時にこの環境があればなぁ…」なんてことを思いながら、眠りにつきました。 私が圭吾さんの代わりに眠って、私の代わりに圭吾さんがハワイでなにかを見つけるのかもしれませんね(^^;) 「たいらけく やすらけく」という本、とっても良かったです! 普段の圭吾さんが言われてるようなことがたくさん出てきます。 「平らけく 安らけく」と口に出して言うことで、言霊となって自分やまわりの全てが丸くなっていくそうです。 日本語の「いのり」という言葉の「い」は「威」らしいです。 「威」に「乗る」のが祈りだそうです。 その一文がなんだかすごく印象に残りました。 ちゃんと買って本を読んだのは久しぶりで、ことばの大事さをもう一度見つめてみたくなりました。 この本はぜひわたり文庫にしたいので、また圭吾さんにお渡しできると思って、帰国を楽しみにしていますね! それでは、残り少ない大阪の時間を楽しんでください(^^)/

 

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God bless me...

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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人生は思う通りにいかない。だから面白いのだ。

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有馬温泉近くのジョイフルで電源を借りまくっている。昨夜は有馬温泉の山中で寝た。必要は発明の母と言われるが、小生は「必要は成長の母」と言いたい。必要に駆られると人間は図々しくなる。明日からオアフ島。ハワイでも野営をする。私はヨガマットで眠るだろう。これに寝ていればもしも警察からお前はなにをしているのだとお咎めを受けても「ヨガです」と言い逃れできる。ふふふ。結局ハワイでは何も予定が入らないから空港からハレイワ界隈まで10時間程度歩く。靴擦れ対策に絆創膏が必要になる。

 

 

前にホノルル空港からワイキキビーチまで三時間歩いた。その様子を見て「あなたバカなんじゃないの!?」と言って車を出してくれた日本人女性と出会えた。まず、体を張る。すると「やばい、こいつこのままだとこのまま行っちゃう!」と思ってくれた心優しい方々が小生にストップをかけてくれる。私は、この『ストップ!』によって生かされてきた。が、自分が生かされるためには、まず、自分が最初に体を張ること。体を張ることなしに奇跡は起こらない気がする。起きたとしても、体を張っていなければ、よろこびも大したものにはならない。断食後のおかゆが美味いのも、凍えた体で風呂に飛び込むとたまらないことも、この摂理による。

 

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充実した日々を過ごす。

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原付移動も一旦終了。明日からオアフ島に飛ぶ。


今回の目的は「充実した日々を過ごす」ことと「ハワイを近所にする」こと。野営の日々だろうが私は修行僧ではないので、あくまでも『充実した日々を過ごすこと』にこだわりたい。内容はなんでもいい。自分が「今日はこれが最高だった!」と思える出来事を最低三個は見つけること。見つからなければ飛び込むこと。もう一つは『ハワイを近所にする』ことで、飛行機で片道八時間かかろうが、繰り返し足を運ぶことで「ああ、オアフ島ね。あれは俺の庭だね。感覚的には近所だね」程度にはなりたい。ハワイに対する身構えを取り除く。軽やかに、まるで散歩にでかけるように、誰もがハワイにふらっと出かけるようになれば嬉しい。身構えない。一泊二日でも全然いい。現地の風を浴びるだけでもかなりの威力があると思う。

 

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昨夜。イノシシの気配に怯えながら眠る。

 

昨日は暇だったので大阪駅で希望者の方々におはなを配った。野営明けでボロボロの自分が両手に花を抱えている状態は「美女と野獣…」みたいでいいなと感じた。気持ち100万本程度のバラを配りながら、バラのお返しにとしゃぶしゃぶをご馳走になったりカフェラテをご馳走になったりした。前回の記事でバイクを置かせていただける場所を募集したが、無事に見つかりホッとした。ある女性H様から、最初「神戸の私の家に置けますよ!」と連絡がきた。その直後「さっきのメールはちょっと待ってください!なんか、あんなメールを送った自分に腹が立って腹が立ってしかたがないのです!」というメールが来た。私は、お、と思った。一体彼女に何が起きているのだろうかと思った。数時間後、私は、グランフロント南館二階にあるコミンカフェの前でH様と合流した。

 

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夜明け前。星が綺麗だった。


H様は言う。「見つからなかったら、とか、困ってたら連絡ください、とか、なんか違うなと。なんなんだこの上から目線はと。私はただ坂爪さんに会いたいだけだと。坂爪さんの力になりたいだけだと。そう思ったので、もう、会えなくてもいいから行くだけ行こう!と思って大阪駅に来ました」とのこと。私は、ああ、こういう頭や言葉だけじゃなくて実際に行動に移せちゃう女性は最高に魅力的だなと思った。H様は謎に高級なブランデーを持っていた。聞いてください坂爪さん。H様は話す。数年前にこのブランデーを貰ったのですが、これ、非常に高級なヤツで売ると結構な値段になるらしいんです。これ、今から売りに行って、そのお金をハワイでの餞別にしてもらったら面白いかなとか思ったのですがいかがなものでしょうか。にやにや。H様は笑う。にやにや。私も笑う。にやにや。非常に素晴らしい時間が流れた。

 

人生は思う通りにいかない。だから面白いのだ。

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夜明け。


最近シングルマザーの方々とよく会う。小生、稀に「あなたはすごいですね!」などと言われるが、俺なんかより子育てをしているひとの方が五億倍すごいと思う。昨日お会いした方は「家事に育児に仕事もあって、こどももまだ小さいから、どうしても部屋が散らかる。ごちゃまぜの家の話を聞くと、そこにいるだけで落ち着くみたいなことを聞くから、私も自分の家を落ち着く家にしたい。だけど時間がなくって」と話していた。そりゃあそうだろうなあと思った。彼女は自分を責めるような感じで「もっと頑張らないと」みたいなことを言うので、私は「頑張らないでください!」と思った。そして、もし、マンパワーが必要になった時は私が掃除に行くので遠慮なく使ってくださいと言った。基本、男は女の役に立ちたいのだ。

 

また別の女性とも話した。彼女は「坂爪さんは、ひとを信じるってことをどう思いますか」と突然問うた。私は、突然そんなことを聞かれても困るぜ!と思って「あなたはどう思っているのですか?」と問い返して逃げた。ら、彼女は答えた。自分でもよくわからないのです。でも、坂爪さんの生き方は、人間を信じている人にしかできないことだと思って。と。彼女は続けて「昔から人間関係でつまずくことが多くて、とりわけ怒っている男性を目の前にすると硬直しちゃって。私がなにかいけないことをしたのかな、とか、このひとはいま帰りたいんだろうなとか思うといたたまれなくなってしまって」的なことを話した。

 

私は敏感に察し取る力を瞬間沸騰的に発揮して「それは違う」と言った。あなたはひとを信じることができないと言う。が、それは自分を信じていないだけだ。自分を信じていないというか、誰かに「あなたはここにいてもいいよ」と許可を求めているだけだ。でも、それを続ける必要はない。必要なことは、自分が、自分に対して『ここにいてもいいよ』と言ってあげることだ。あなたが生きていることに対して、誰の許可もいらない。許可もなにも、あなたはここにいてもいいに決まっている。だから、もう、周囲の顔色を伺ったり誰かに許可を求めるようなことをしないでもいい。ただ、自分が自分に『ここにいてもいいよ』と言ってやることだ。あなたはとっくに許されているのだ。と思う。と。私は言った。言いながら、ああ、本当にそうだなあと思った。しばしの間、自分に酔った。否、自分から出た『言葉』に酔った。凄いのは私ではない。凄いのは言葉である。言葉が、ただ、たまたま自分を通じて出て来ただけにすぎない。生きててもいいよ。ここにいてもいいよ。自分の好きなように生きていいよ。肯定的な力が、否定的な力をぶった切って、世の中に広く蔓延するためのツールとして自分が存在することができたらいいと思う。 

 

 

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夕焼けに見せかけて朝焼け。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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誰一人置いていかない。全員引き連れて生きる。

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大阪府池田市にあるデニーズにいる。昨夜は伊丹市猪名川エディオンの裏)で野宿をした。今日は昼迄に大阪駅に行く。それ以降は何もない。「関西とハワイにごちゃまぜの家を!」とは言って見たものの、身の振り方がわからない。ボディは慢性的に疲れている。目がトロンとしている。野性味だけは無駄に増したが、人間界でうまくやっていく自信がない。都会にいると死にたくなる。土日は道路が混む。信号と渋滞は嫌いだ。逃げ場をなくした。終わった。人生が詰んだ。孫悟空風に言えば「オラにはもう鼻くそをほじる力も残っちゃいねぇや・・・」だがしかしブログ記事を更新する元気はある。

 

 

と、ここまで書いたら「なんだかあったまきた!」と思って関空ホノルル便を予約した。ふふふ。現地時刻11月3日12時から11月7日15時迄の五日間オアフ島にいることになった。誰か、オアフ島在住の方で「それならば会おうぜ!」とか思ってくださる方がいたらご連絡ください。巷では引き寄せの法則が話題になったが、小生、待つことが大の苦手である。「引き寄せよりも押し寄せ!」ということで、呼ばれてもいないのに勝手に飛び込み、そこで起きる清濁を併せ飲んで輝く。さて、そんなことはできるのだろうか。明後日の今頃はオアフ島にいます。私になにが起こるのだろうか。オアフ島在住の皆様、神様、仏様、小生に力を与えてください。

 

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男の日常

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夜明け前が一番暗い。

 

ここで問題が発生する。機内手荷物制限は7キロだ。私の現在の荷物は20キロ。バイクまである。さて、どうしよう。どなた様か関西在住の方で「家に原チャと荷物を置けるよ!」という方がいたらご連絡いただけましたら超絶幸いです(せめてものお返しにハワイ土産を買ってきます!!)。ああ、こうして書きながら俺はなにをやっているのだろうかと思う。後先のことを考えていない。否、考えるつもりがあんまりない。問題を起こし、問題を引き受け、それをひとりで解決することを放棄する。誰かに甘えることを通じてコミュニケーションを発生させ、結果、お互いが「なんだか結果的にとてもよかったですね!」となることを理想とする。

 

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川面に朝日。これが小生の心象風景である。


ここでひとつ提案がある。もしも「それならあたしもホノルル行っちゃおうかなー!」とか思ったあなた、仮に、あなたが車を借りてその辺をドライブすることがあれば、小生を適当な空き地に放り出していただけたら嬉しいです。ホノルル界隈は野宿できる場所がない(警察に超絶怒られる)。バスに乗って移動をするのもありだが、できることならばコミュニケーションを発生させたい。が、現在の私にはこんな程度の提案をすることしかできない。運転ならば私がやります。日本の免許があれば誰でも運転できます。あとはどんな方法があるのだろうか・・・ハワイに詳しい方がいたらご連絡ください。

 

連絡先・さかつめけいごっち

keigosakatsume@gmail.com

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荷物。比較的多い。


あとはもう、みなさまにこの生き様を楽しんでいただけたら嬉しい。ここで改めておさらいをすると、私がオアフ島に行く目的は「誰でも自由に使える家なり空間を確保すること」という超絶抽象的なものになります。モバイル茶室とかいいなあ、オアフ島でみなさまにお茶を振舞ったりしたいなあ、とかは思うのだけれど空想の域を超えていない。そうか。モバイルハウスを作って、それを置かせていただく場所さえどうにか確保できたら、一応「ハワイに家ができました!」と言えるのか。否か。わからない。やってみなければわからないことをやる前にわかろうとするのは無理だ。やりながら考えよう。脳内を垂れ流して生きていこう。

 

誰一人置いていかない。全員引き連れて生きる。

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日が昇ったよ、おかあさん。


移動生活を続けていると色々なひとにあう。稀に半端ない大富豪にも出会う。富裕層の方々も小生のような地底人間の生き様に関心を持ってくれることが非常にうれしい。感動を覚える。真の意味で豊かなひとは役職にとらわれていない。普通、不動産会社のひとは「不動産っぽい顔つき」になるし、広告会社のひとは「広告会社っぽい顔つき」になるし、主婦は「主婦っぽい顔つき」になる。が、豊かさを感じる人は、役職にとらわれた顔をしていない。なんと言えばいいのだろう。社長としての自分ではなく『自分という大きな円の中に、社長という小さな円も入っている』という雰囲気がある。だから余裕がある。社長であることがそのひとのすべてではないのだな、という余白を感じさせる。そこに私は魅力を覚える。黒柳徹子さんや松田聖子さんや所ジョージさんに感じる魅力と似ている(のかもしれない)。

 

昨日お会いした富裕層の女性が「私はお金に困ることはないと思っている。だから、お金に対してリラックスをしていられる」的なことを言っていた。素晴らしい言葉だなと思った。私は、数年前、龍の神様から「今世、お前は金に困ることはない。だから、金になるとかならないとか、そういうことで生き方を考えるな。そこは俺に任せておけ」的なことを言われた(という風に勘違いをして生きることに決めた)。だから、私も、お金はないくせにお金に対して割とリラックスをしている。あとはなんだろう。私は、金と、命と、愛に対してリラックスをしていると思う。根底で「どうにかなる」と思っているのだろう。だがしかし、今回のハワイ行きとかが決定すると、やっぱりちょっと恐ろしくなる。そうは言っても龍の神様、ねえ、俺は本当に大丈夫なのでしょうかなどと聞きたくなる。まだまだ信仰が足りない。信仰を深める旅路になればいいと願う。

 

最近「みんなで生きる」ということを考える。かつて、私はなんでも自分ひとりの力でやることをよしとするタイプの人間だった。その頃は目つきが今よりキツかった。精神的な余裕もなかった。が、いろいろなことに降伏をして「これは自分には無理です!」とパッパラパーのお手上げ状態を晒したら、全方位から助け舟が差し出された。みんなで生きる。これは外部だけの話じゃない『自分の内部の人格達』についても言える。たとえば、私は、最近ブログを書くたびに「いよいよ俺も嫌われたな。こんなことなら書かなきゃよかったな」などと思う。が、しかし、書かなくてもそう思ったことに変わりはないのだから、いいひとぶって「出していいのはここまで!」とか線引きをするより、よっぽど自分に正直だなと思った。なにより、確実にそう感じている自分を封印することは、自分に対する虐待になる。そう、なかったことにはできないのだ。だから、俺は、全員引き連れて生きる。自分の外側にいる全員、自分の内側にいる全員、みんなを引き連れて生きたいと思う。

 

 

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男の夜明けぜよ。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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我慢するなよ。好きなように生きなよ。

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長野県塩尻市から岐阜を経由し愛知にはいる。木曽川の紅葉が素晴らしい。名古屋が近づくほど、こころなしか空気が俗っぽくなる。昔から名古屋が苦手だった。誤解を恐れずに言うと『ガサツ』な印象がある。運転も荒い。こんな街は早く出よう、などと思いながらデニーズに来た。電源があったらからダメ元で「お借りしても大丈夫ですか?」と(絶対断られるだろうなあと思いながら)聞いたら、女性の店員さんが「よろしいですよ♡」と満面の笑顔。名古屋の印象が一転した。私は現金な人間だ。

 

 

これから兵庫県伊丹市を目指す。昨日の記事で『けいごっち』の話を書いた。早速、岐阜県多治見市にあるピアゴと、愛知県名古屋市にあるタリーズにて救援物資を得た。おにぎりやキムチや納豆やサンドイッチやマスクやホッカイロをもらった。私は、代わりに「お茶でもご馳走させてください」と言ってくら寿司にはいった。回転寿司はお茶としょうがが食べ放題(?)なので気に入っている。私にも社会性はあるので、申し訳程度に寿司を数皿食べ、同伴した女性はケーキを食べた。くら寿司は五皿食べるごとに謎のゲームが発生する。よくわからなかったが、それが当選した。女性は「母が喜びます!」と言って景品を嬉々として持ち帰った。

 

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なんだかんだ言ってハワイ。

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木曽川の紅葉。ため息が出た。


日本の四季は素晴らしい。この国に生まれてよかったと思う。しかし、日本にはないものも結構ある。全国各地をどれだけ探しても、あの、ハワイ島の日々で感じた「なんだかよくわからないけどそこにいるだけで幸せになっちゃうアトモスフィア」がない。当たり前だ。だって、ここはハワイではないのだから。ごちゃまぜの家を全国に!と鼻息を荒く生きているが、いま、私の本音は「関西にひとつ、そしてオアフ島にひとつ」という感じになっている。まだハワイに行ったことのない人を、強制的に連行したい。私の生業は人さらいだ。先入観でいろいろ思うことはあると思うけれど、ハワイは最高だ。私も、行くまでは「ケッ!」とか思っていた。が、実際に行ったら超絶よかった。仮に、オアフ島に「誰でも自由に使える家」があったら、幸せになる人々は増える気がする(なによりも自分が幸せになる)。

 

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思わず「うわあ」と声が漏れた。

 

関空ホノルル間の航空券を調べたら格安だった。11月と12月は往復(片道ではなく!)2万円強。下手な国内旅行より安い。ここで提案がある。誰か、私と一緒にハワイに行きませんか。あるいは、あなたの代わりにさかつめけいごっちをホノルルに派遣しませんか。あなたのお金で・・・(自分で言いながら「こいつ最低だな」とかいまちょっと思った)。小生、5万円あればホノルルで野営をしながら家探しの旅に出ることができる。周囲の友達にも声をかけたが、私の友達は『時間はあるけどお金がない』という生きづらさを抱えているので、なかなかすぐには飛べない。魅惑的なオファーを提供して、スポンサーを獲得する。それがオアフ島に飛ぶための最速ルートだと思った。が、いまいち魅力的なオファーをできていない。再考の必要性を感じている(こういうことを考えながらバイクを運転している)。

 

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昨夜は庄内川の河川敷で野営。テントがかわいい。


なにをしたらスポンサーを得られるのだろうか。毎日動画を送ります!とか。毎日近況報告をします!とか。毎日あなたに耳元で(音声メッセージを通じて)愛を囁きます!とか。私が楽しそうに生きていることがあなたの手によってであるということを実感できます!とか。ああ、こんな程度のことしか浮かばない。暖房の効いたデニーズに座っているとなんだかいろいろどうでもよくなる。このまま永遠に座っていたい。眠い。バイクなんてもう嫌だ。野宿も嫌いだ。俺は布団で眠りたいのだ。風呂にはいりたい。読書をしたい。落ち着いた環境で書き物をしたい。女の人にかわいいねとか言いたい。とか。いろいろな雑念がわく。だがしかし、私は知っているのだ。再びバイクにまたがった瞬間、即刻「バイク最高!自然最高!やっぱり人間風に吹かれないとね!」とか思っちゃうことを。続きはバイクで走りながら考えよう。風に吹かれたら、革新的なアイデアが舞い降りるかもしれない。

 

我慢するなよ。好きなように生きなよ。

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庄内川の朝焼け。名古屋を好きになった。


私は共有財産を増やしたいのかもしれない。いま使っているバイクも、いま使っている野営道具も、自分が使っていない時はどんどん他の人に使って欲しい。家も、車も、GoProも、ドローンも、ロードバイクも、その他全部、必要とする人々で共有できた方がいいと思う。その方が、道具を通じてコミュニケーションが生まれる。普通なら出会わない人々と出会う機会が生まれる。ひとと出会うと『風が吹く』と思う。自分に捕まっている瞬間は自由を感じ得ないが、他者とコミュニケーションを交わすことで逆に自分を発見する。自分が見た先々の風景を写真で公開するのも、根底には「みんなと楽しみたい」という思いがあるからだろう。人間、誰だってよろこびを分かち合いたいと思うものではないだろうか。ただ、その距離感がひとによって異なるだけだ。距離感が嫌いになることはあっても、人間を嫌いになることはない。

 

ハワイのいいところは108個くらいあるが、ひとつは「レジ打ちの女性さえも楽しそうに生きているところ」だ。店員とお客様という関係性ではない、あくまでも『人間と人間』という感じがする。お客さんにも「はーい、元気?」と気軽な感じだ。嫌味はない。私は「こういう感じでいいんだよな」と爽快になる。しかし、実際にこういう風に生きているひとを目の当たりにしなければ、私は、働くことイコール奴隷になることと思って生きていただろう。デニーズの店員さんは、申し訳ないけれど奴隷感が半端ない。過剰にペコペコする。あまりにもペコペコしすぎだろと思う。これじゃ無意識に自尊心がボロボロになる。きっと彼女もペコペコしないと上から怒られるのだろう。かわいそうに。でもしかし人間、あまりにもペコペコし過ぎてはいけないのだと思う。ペコペコしすぎている彼女をノーペコペコのハワイ諸島に『人さらい』したい。そこで彼女に「君はペコペコするために生まれてきた訳じゃないよ。幸せになるために生まれてきたんだよ」とか言いたい。

 

妄想が進み過ぎる。暖房は危険だ。脳みそがとろける。眠気がすごい。バイクに乗らなければならない。伊丹まで180キロある。原付だから8時間程度かかる。18時迄には伊丹に到着したい。私は進学校を出たいわゆる『優等生』タイプの人間だった。行動よりも知識ばかりが先行する、いまの自分から見たら嫌いなタイプの人間だった。知識と行動があるならば、いま、行動を重ねることで「ようやく知識に追いついてきたー!」みたいな感覚を得た。教科書じゃ学べない。本には書かれていない。話を聞くだけじゃわからない。自分の目で、自分の肌で、自分の肉体を通じて感じた手応えを信じる。1日の間に「最高だ!」と「最悪だ!」を何度も経験している。寒いと死にたくなる。あったかくなると生きたくなる。毎日しっかりボロボロになる。ボロボロになって眠れる喜び。これは「ああ、俺は生きた」と思いながら大往生する人間と、ちょっとだけ似ているのかもしれないと思った。

 

 

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人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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生きることが、生きがいになる。

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昔、たまごっちというゲームが爆発的に流行した。プレイヤーは、たまごっちに食事をあげたり、夜になったら電気を消したり、一緒に遊ぶことでご機嫌を伺ったりする。いま、私は「俺もけいごっちになれないかな」と思っている。プレイヤー(ここでいうとブロク読者のみなさま!そう、目の前のあなた!)は、さかつめけいごっちに餌をあげたり、しつけをしたり、一緒に遊ぶことでご機嫌を伺う。けいごっちが幸せになると、あなたも幸せになる。けいごっちが不幸になると、あなたはとっても不幸になる。

 

 

昔、タモリさんは「芸能人は国民のおもちゃ」と言った。ある程度有名になると、この言葉の意味がより強く沁みる。私は芸能人でもなければ著名人でもなんでもないが、好むと好まざるとに関わらず、周囲からおもちゃ扱いされることは頻繁にある。ならば、自分から「俺というゲームの楽しみ方」を提示するのは有効だ。私は末っ子なので、基本的に常に誰かになにかをしてもらいたい。連日の野宿でちょっとでも大変になると、すぐに「死んじゃう」とか言って周囲の悲哀を誘う。それによって生き残ろうとする、非常に小賢しい人間だ。

 

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乱世に備える。

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長野の空き地。こどもができたら野放しにしたい。


昨日は長野県大町市にある空き地を見学させていただき、その景観に度肝を抜かれた。ああ、ここを使わせていただける日がきたら(そして自分にこどもができたら)野放しにして思い切り遊ばせたいと思った。息子が生まれたら、一緒にキャッチボールをしたい。娘が生まれたら『日本アルプスの少女ハイジ』に仕込みたい。ブランコに乗りながら、あの、有名なオープニングソングを熱唱するくらいには熱い女性に育つように・・・その後は長野県松本市にある河川敷の薮の中で野宿をした。なにもやることがなかったので、動画を撮影して、パブリックに公開する遊びをした。

 

 

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河川敷(というか薮)で野営。凍死するかと思った。

 

私は愚かなので、常に「乱世に備えて生きる」的な癖がある。もしもこの先生きることに迷うことがあったら、LINEやメッセンジャーから音声メッセージや動画メッセージを希望者に送り届け、それを「よし」としてくださる方々から救援物資などをいただきながら生きよう。毎朝「おはよう!○○ちゃん!今日も元気にいってらっしゃい!」とか「はーい、○○、どうしたんだい。そんな顔してさ!」とか「○○、愛してるよ」とか、バリエーションを増やしてみなさまに幸福を届ける(名前を呼ぶことがポイントだと思っている)のだ。

 

 

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鞄が凍った。

 

冬の長野では「着れるだけ着て、更にもう一枚着なさい!」という伝統的な教訓がある。現在の私は、シームレスのパンツ、スキンズ、オムニヒート、ジーンズ、その上にダウンパンツと、下半身だけでも五枚着ている。というのは嘘で、スキンズを履いてくることを怠った。横浜を出る時に「これだけ履けば大丈夫だろ!」と思ったのが甘かった。長野はまじで寒い。昨日は鞄が凍った。半ヘルで来たことも愚かだった。時速50キロを超えると涙と鼻水が止まらない。嗚咽しながら移動をしている。「着れるだけ着て、もう一枚着なさい」とは素晴らしい教えだ。応用が効く。断捨離の時は「捨てるだけ捨てて、もう一個捨てなさい!」とか。筋トレの時は「やれるだけやって、もう一回やりなさい!」とか。

 

 

生きることが、生きがいになる。

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都市に救われた。。。


長野で鍛錬された野営スキルと肉体を生かすべく、これから関西を目指す。今日は名古屋あたりまで着きたい。なぜか「奈良の天川村に行け」と神様から言われた気がした。道中、与える喜びを与える喜びツアーというふざけた名前の企画を自主開催する。これは、要するに『リアル版けいごっち』ということなのだけれど、連日の野営でろくなものを食べていないさかつめけいごっちに「食べ物を与える」とか「なにかしらのプレゼントを与える」ことを通じて、けいごっちの喜びを自分のよろこびにしてしまおうという企画になる。興味のある方(そんなひとっているのかな??)はご連絡ください。お互いのタイミングがあったら会いましょう!!

 

連絡先・さかつめけいごっち

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関西でもごちゃまぜの家を作ってください!と、非常に多くの方々から言ってもらって光栄である。自分も、できることならば関西に作りたいとは思うのだけれど空き地も空き家もなにもあてがない。こういう時こそ肉弾戦である。まずは、野営を繰り返すことで自分の体を土地になじませ、土地と会話をする。はいはいはい、君はこんなことを思っているのだね的なことを土地から聞き出し、その土地に見合ったやり方なり生き方を見出す。なんてことができたらいいのだけれど、このスキルは目下鍛錬中である。だから、誰かに「あなたはどんな家が欲しいの?」とか聞かれても困る。順番が違う。まず先に家なり土地があって、はじめて「ここをどんな風に使ったら面白いか?」という問いが成り立つのだ。が、こういう説明をしても大抵ポカンとされてしまうので、ごちゃまぜの家@関西計画はまったく進展をしていない。

 

だがしかし、懲りることなく私は関西に向かう。こういうのは場数である。繰り返し足を運ぶことで土地の雰囲気を肉体に染み込ませる。人間も同じだ。一回や二回あっただけで、真の友好が深められるとは思わない。苦楽を共にした経験が、愛情や友情を深めるのだ。それにしても野営は楽しい。過酷だけど楽しい。寒いけど楽しい。ここ数日(というか33年間の日々の中で)生産的と呼べるようなことはなにひとつしなかった。そのことに負い目を感じる時期は過ぎ去った。生産性なんてきっと考えなくていいのだ。人間である前に、我々は動物である。野営をしているとわかる。それは「生きることが、生きがいになる」ということだ。ただ生きる。ただお湯を沸かす。ただテントを張る。ただ星空を見る。ただ寝袋で寝る。ただ生きる。それだけのことが、どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく楽しいのだ。

 

 

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野垂れ死ぬならこの場所で。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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束縛からの自由。

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バイク移動をしていると、どうしてもアメリカ映画『イージーライダー』を思い出す。自由と、自由であることの代償が描かれている有名な映画だ。映画の中に、こんな感じのセリフが出てくる。アメリカという国は、こどもから老人まで『自由』『自由』と口にする。しかし、本当に自由に生きる人間を見るのは怖いんだ。と。この言葉を聞いた時は衝撃を覚えた。映画のラストで、自由奔放に生きる主人公たちは最終的に(自由を愛する一般的なアメリカ人たちによって)撃ち殺される。

 

 

昨日は長野県佐久市にある空き家を見学させていただいた。掃除さえすればすぐに使える状態だと言う。いまは安曇野にいて、これから大町にある空き地を見学させていただく。昨日、佐久市にある温泉にはいった。湯質は最高だったが、客層のほとんどがオーバー70歳で「ここにいたら生気が吸われる」と感じた。全国、どこに行ってもこんな感じだ。高齢化が蔓延をしている。誤解を恐れずに言えば、おじいちゃんの9割は死んだ魚の目をしていた。残り1割は「いい感じの表情(生きている顔)」をしていた。女風呂からは、おしゃべりが盛り上がっているおばあちゃん達の声が聞こえる。年齢を重ねても女は元気だ。問題は男だ。やることをなくした男は、生気を失い、愚痴が増え、毎日テレビばかりを見るようになって、急速に老ける。

 

ibaya.hatenablog.com

 

自由と、自由であることの代償

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風光明媚だが。。ダムはファック。。


バイクを走らせながら「愛は女に任せた。俺は自由を求める」的なことを思った。なぜだろう、最近『愛』というワードを聞くたびに違和感を覚える。数年前、愛する(は!私も『愛』を使ってしまった!)三森正道さんが「男は真理を求めて生きているような気がするけれど、女性は真理そのものを生きているのだと思う」と言っていた。これは半端ないコメントだと思った。感覚的に、愛を考え始めると湿る。なよなよする。振り返った時に「ああ、あれは愛だったんだな」などと思う瞬間は好きだ。しかし、愛を求めたり、愛をどうのこうのと考え始めてしまった時、私はなんだか自分を生かせていない感覚を覚える。

 

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紅葉を迎える山々。


幼き頃、母親の愛情がうざくて「俺は、愛よりも自由を選ぶ」と反抗期に突撃した時期があった。男には、愛よりも自由を選びたいときがあるのだ(女性もそうだとは思うけど)。イージーライダーを評する際、井筒監督は「自由には二種類ある」と話した。ひとつはリバティ【liberty】で、ひとつはフリーダム【freedom】。libertyには「選択の自由」という意味合いがあり、freedomには「束縛からの自由」という意味合いがある。イージーライダーが描き出そうとした自由は完全にフリーダムの方で、社会が認める自由がリバティならば、あらゆる一切の制約を超えて自由でありたいと願う姿、それに手を伸ばす姿、そのど真ん中を生きる姿、その状態がフリーダムになる。結果、フリーダム愛好家たち(映画の主人公たち)はリバティ愛好家(一般人)の手によって射殺される。

 

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燃える炎に安寧を見出す。

 

映画『イージーライダー』のキャッチコピーは「彼らはアメリカ(自由)を見つけに旅に出た。しかし、そんなものはどこにもなかった。」というものになる。真の自由を求める旅に出た果てに、射殺をされた彼らは間違っていたのだろうか。10代の頃、はじめてこの映画を見たとき、私は「間違いでもいい」と思った。アメリカという国は、こどもから老人まで『自由』『自由』と口にする。しかし、本当に自由に生きる人間を見るのは怖いんだ。これは、日本だって同じことだ。もしかすると、自由であることの代償と、愛を選ぶことの代償は似ているのかもしれない。誰もがそれを欲しいと思いながら、実際に手にしているひとを見ると怖くてたまらなくなる。そして、そいつを世の中から抹殺する。『自由』『自由』と言いながら、『愛』『愛』と言いながら、それを手にした人を見ると殺したくなる。そういう心理が人間にはあるのだろう。それでもなお、自由に舵をとるか。愛に舵をとるか。否か。崇高な精神は、たとえば、こういう時に宿るものだと思う。

 

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月を望む。

 

束縛からの自由。

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清澄な自然に囲まれれば、薄汚れた自分も少しは清澄になれるだろうか。そう思って自然の中を滑走している。自然の素晴らしさは「朝は朝!」とか「夜は夜!」とか、四季や昼夜の変化をモロに体感できることだ。夜は夜だから暗い。だから夜を楽しめる。焚き火。星空。虫の声。朝は朝だから明るい。あれだけ暗かった世の中が、途端に光に包まれる。小鳥のさえずりが1日のはじまりを告げる。朝だ。さあ、新しい1日がはじまるのだ。気持ちの切り替えがビシッ!とできる。太陽を拝みたい気持ちにもなる。思わず「神様ありがとう」とか口にしてしまう。実際に拝む。自分以上のなにか大きなものに降伏することの幸福を思ったりする。

 

穏やかさに包まれると、気持ちにもゆとりが生まれる。私は、頻繁に物事を二者択一の二元論で考えてしまう。リバティかフリーダムか。愛か自由か。自分軸か他人軸か。個性か社会性か。善か悪か。白か黒か。など。きっと、これらの概念は両立できるものだ。自分を生きることが、すなわち「俗世から離れて生きる」とか「変質者になること」とか「周囲の迷惑になること」にはならない。自分を生きながら、同時に社会からも歓迎されるようなあり方。そういうあり方を、生きとし生けるものすべての生命が見出すことができたならば、ひとりひとりがもっとのびのびと生きれる世の中になればいい、などと思いながら朝日を眺めていた。

 

紅葉の山々を走りながら「コンクリートジャングルにお住いのみなさま。世界は、いま、こんなにも綺麗な景色を見せてくれますよ!」と大声で叫びたくなった。言葉にできない素晴らしさだ。できることならば、いますぐ予定帳を開いて「この日は紅葉を見に行く!」と早速予定を固めちゃって欲しい。車ではなくバイクか自転車で、紅葉の山々を走り回って見て欲しい。きっといろいろなことがどうでもよくなるはずだ。善人だろうが、悪人だろうが、きっと「うわあ」と思わず声をあげてしまうような風景に出会えると思う。そう、この世の中の素晴らしいものは、善人だろうが、悪人だろうが、そういう垣根を吹っ飛ばして『人間を』感動をさせてしまう力がある。私が欲しいと思う力は、例えば、そういう類のものなのである。 

 

 

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紅葉の山々を駆け抜ける喜び。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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来た時よりも『逞しく』

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初日の段階で7回くらい「もう帰ろう」と思った。夜の峠が極寒だったり、道路が渋滞していたり、忘れものを思い出したり。だがしかし、私は私に言い聞かせる。俺はこいつを知っている。新しい世界に向かう時、必ず、古い世界に引き戻そうとする力が働く。そんなことをやってなんになるとか、家でゆっくりしていた方がいいとか、特別なことをやらなくても平々凡々な日々でいいじゃないかとか。7回。7回。7回だ。7回「こういう感じの引き戻す声」を振り払うことができた先に、新しい世界、新しい愉悦がある。

 

 

埼玉県の秩父にある武甲温泉に突撃した。峠越えで身体は芯から冷えた。寒いと最初は笑っちゃう。そして、最終的に固まる。途中、道を間違えたりしながら極寒の夜道を走ること二時間、その直後にどぼんした温泉は最高だった。じゅわあと身体が温まる。寒いのは嫌いだが、寒さを経由した温もりは大好きだ。空腹は嫌いだが、空腹時のおかゆが大好きなのと似ている。温泉客を見渡す。ちっぽけな優越感に酔う。いま、ここに大勢の男性衆が温泉にはいっているが、自分ほど気持ちよく温泉にはいれている人間はおるまい。そう思うことで、私は、優越感を獲得する。

 

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世界をぼくらの遊び場に。

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野営。軽量化のため、ハンモックに眠る。


長野は寒い。天気予報を見ると明け方の気温は3度とある。昨夜、夜の峠越えをしながら「これで3度なのかな!」とか思っていたが、道路上にあった温度計を見ると12度と出ていた。まじか。この寒さで12度か。3度だったら凍傷になるんじゃないのかと怯えた。数年前の1月頃、生まれてはじめてマレーシアに足を運ぶ直前に、インターネットで現地の天気予報を見たら『35度』と出ていてビビったことを思い出した。一体、どんな格好をしていけばいいのかわからなくて怯えた。が、実際に現地に行って見たら「意外とどうにかなる」ことがわかった。この、意外とどうにかなると実感した出来事のひとつひとつが、生きる知恵、大胆に生きる勇気や度胸になるのかもしれない。

 

2030年頃には、認知症保有する金融資産が200兆円を突破する見込みらしい。現実味のないほどの金額だ。私はこれから長野県佐久市大町市にある空き家&空き地に向かう。日本には空き地や空き家が年々増えている(らしい)。連絡をくださった女性はこう言った。使われていない土地や建物、車、工場、倉庫、その他もろもろ。寂しいなあと泣いている感じがします。ろくに掃除もしてもらえないし、温めてももらえないし。日本は高齢化が進んで、遊休資産がどんどん増えてくると思います。現金でさえ、認知症になると引き出せない。使えない。持つことにこだわらず、使ってあげるって大事だと思います。そんなんで坂爪さんのされていることを、すごく興味を持って見ています。と。

 

私の実家は新潟にある。所有者は父親だ。しかし、仮に父親から「この家をお前にあげるよ」と言われても、私はおそらく断るだろう。感覚的に、我々の世代は所有すること(維持費・固定費・各種メンテナンス費用)の恐ろしさ・面倒臭さ・不自由さを知っている。 こうなると、資産が本当に資産なのか、自由を奪う邪魔者【負債】なのかがわからなくなる。これまでの時代は「競って奪い合う」世の中だったが、これからは「競って与え合う」世の中になるのかもしれない。なぜならば、もてあますことは余裕ではなく負担だからだ。空き地や空き家活用に関して、私のような人間は社会的信頼が足りない。だから、空き家や空き地の所有者からして見ても「なんだお前は」となる。では、行政がやればいいのか。多分、ダメだと思う。行政や役所に信頼性はあるのかもしれないが、確実に足りていないものがある。それは『エッジ』だ。ここに矛盾が生まれる。新しいことを成すにはエッジが必要だが、尖るほどに信頼性を失う。行政とエッジを持った人間が手を組めば最高なのかもしれないが、おそらく、そんな時は来ないだろう。だから、私は『個』として動く。

 

【動画】坂爪圭吾 - 明日28日(日)@長野県予告動画

 

来た時よりも『逞しく』

いま、考えていることは「日本中の空き家と空き地を活用して、たとえば月額10000円のメンバーみたいなのを募って、メンバーは全国にある家や土地を横断的に自由に使うことができる」みたいな状態を作ることだ。家賃は家計を圧迫する。仮に月額10000円で家に困ることはないとすれば、とりわけ若者たちは、より一層大胆に人生を歩めるように思う。これはまだ構想段階。やりながら理想の着地点を見出していきたい。ハワイ計画が夢に終わったことは前回の記事に書いたが、ベトナムホイアンエストニアのタリン、アラスカのアンカレッジとかにも家があったら幅はグン!と広がるだろう。先日、バイクが寒すぎて中古屋で分厚い真っ赤なセーターを500円で買った。私は中古屋が好きだ。単に金がないだけだが、自分には中古品で充分だと感じる。誰かが使わなくなったものを、自分なりのスタイルで活用するセンスを研磨すること。そこに楽しさやよろこびを見出す人間だ。

 

『0から1』の人間と『1から100』の人間がいる(っぽい)。私は前者で、極論、自分のためには家も土地も必要ないと感じる。そこらへんの山や森を勝手に使って野営をすることに喜びを見出すし、そもそもで『土地を所有する』という西洋的な考え方が気に入らない。土地は誰のものでもないし、極論、この世の中に自分のものだと言えるものはひとつもない。ただ、自分がそれを使わせてもらっているだけに過ぎない。自分のために家は必要ないなどと書いたが、若干訂正をする。自分のためにはいらないが、やがて、自分が築くかもしれない家族のため【自分『たち』のため】に必要なものだ。前回の記事で『生きるために必要なものは火・水・食糧・シェルターの4つ』と書いた。これは、言い換えれば残りのすべては贅沢品ということになる。車も、自転車も、バイクも、家具も、電化製品も、友達も、恋人も、要するに贅沢品なのだ。必需品ではない。ただの贅沢品である。私は、そう思うことで心の安寧を得る。ああ、それを楽しむ分にはいくらでも楽しめばいいのだけれど、それがないからと言って嘆く必要はないのだと。ないならないでどうにかなるのだと。それを「それがなければ生きていけない(生きている値打ちがない)」などと思うから、人生が複雑怪奇の厄介なものになるのだろう。と。

 

シンプルな暮らしは、そういうことに思い至らせてくれる。無論、私は、これからも欲しいものは自分の手で獲りに行く。バイクがないなら最悪の場合は歩くが、バイクがある限りその恩恵を全身でめいっぱい浴びたい。女性や友達と過ごしたいとも思うし、温泉があれば入るし、布団があればもぐりこむし、お湯が出るならお湯を使うし、うまいものが食えるならうまいものを食いたい。昨夜、野営をしながらコーヒーを淹れて、ごちゃまぜの家からかっぱらってきた乾パンをばりぼり食いながら星空を眺めた。乾パンとか「戦時中か」とも思ったが、この固さが楽しかった。多分、食糧が乾パンしか手元に残されていないとき、これらを悲壮感を漂わせながらうつむいて食うことも、楽しみながら「長い人生、たまにはこういう時期があってもいいよね!」と思えるかが、人生を明るく生き延びる根本的な要素になるのだろう。文句を言わず、受け入れることだ。寒さの中にも楽しさはあり、空腹のなかにも楽しさはある。生きる楽しみは、そこら中に転がっているのだと思う。

 

 

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おやすみなさい。。#hennesyhammock #snowpeak #prettycold #lifeisgood

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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あると思って生きてみな。金も、時間も、才能も。

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今年一番楽しかったのは4月にハワイ島をテント泊で移動したこと。キラウェア火山の国立公園で寝たり、ウォームポンドという無料の天然温泉で泳いだ記憶は生涯の宝物になった。ハワイ島には「誰でも自由に使える家なり土地」を探しに行った。奇跡に奇跡が重なり、とある場所の土地を自由に使わせていただけることになった。が、その直後、キラウェア火山が大噴火をかまし、すべてが白紙になった。半端ない量の溶岩がすべてを流し去ったからだ。国立公園は立ち入り禁止になり、溶岩に飲み込まれたウォームポンドは、地図上から姿を消した(もう、我々の記憶の中にしかない)。

 

 

大事なものがいつまでもあるとは限らない。この、当たり前の事実に愕然とした。ウォームポンドがなくなったことは悲しすぎるが、実際に目の当たりにしたおかげで、ウォームポンドがどのような場所なのかを記憶に刻むことができた。あれほどの楽園がこの世界に存在したということ。それを体感できたこと。夢でもなんでもいい、一回、楽園を実感したことがあるのならば、それに負けずとも劣らない楽園を「自ら創出する」こともできる。前に、ある女性が話していた。私は、過去に、半端なく気持ちいいセックスの夢を見た。夢だったけれど、あまりにも生々しい実感を伴う夢だった。この夢は、私に、世界にはこれほどまでに気持ちよくなれる瞬間があるのだということを教えてくれた。だから、自分が自分に求める『幸福の基準』みたいなものは、常にそこに定められている。と。

 

ibaya.hatenablog.com

 

お米2.0

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俺なりのスタンディングデスク。

 

実はこの記事を東京都青梅市のポストの上からこの記事をポストしている。なぜ青梅市にいるのか。野営道具を積んだ原チャで長野に向かっているからだ。なぜ長野に向かうのか。それは「誰でも自由に使える家なり土地」を見つけるためだ。ハワイ島のリベンジという訳ではないけれど、小生、焚き火を愛している。長野の自然に囲まれた山や土地でテントを張ったり小屋を建てて、毎日焚き火をして、自給自足をする代わりに「誰かお米か野菜をもってきていただけたらとっても嬉しいです」などとヘルプ【コミュニケーション】を求めたりしたら、充実した日々を過ごせるような気がした。かの歴史的名著『森の生活』の中で、著者ソローは自給自足の日々を過ごす。しかし、私は自給自足よりも他給他足に関心がある。全部を自分でやりたいとは思わない。なんなら、言葉を綴ること以外はすべて「それが得意なひと」や「それを楽しみながらやってくれるひと」にお願いをしたい。

 

33年間生きてきて、自分が金を稼ぐことが苦手なことは重々承知した。かと言って、農作業や一定の職業に従事できるほどの落ち着きもない。しかし『米をつくることはできないが、米をもらうことならばできる』長所が自分にあることを発見した。私は、稼ぐことも、生み出すことも苦手である。しかし『(あまっているものを)もらう』ことにおいてはこれまでの人生、結構な品々をもらってきた。米。野菜。畑。家。家具。テント。寝袋。調理器具。自転車。スーパーカブ。ポルシェ。豪華クルーザー。など。私は、これらの品々を所有することはなにかが違うと思い、超絶大開放をして『共有』することにした。家も、車も、自転車も、使いたいひとがいれば誰でも自由に使えるように無料で開放をしている。そういう場所(誰でも自由に使えるスペース)を、長野県に見つけることができたらうれしいと思っている。

 

そういうことをSNSから投稿した。すると、非常にありがたいことに「長野県佐久市に空き家があります」というお話と「長野県大町市に空いている土地があります」というお話をいただいた(本当にありがとうございます!)。いま、佐久市方面に向かっている。しかし、道のりが寒すぎていま、東京都青梅市のコンビニ前で震えながら立ち往生をしている。温泉を見つけたのであとで入ろうと思う。私は思う。自分が住む場所を「自然か、都会か」とか「これか、あれか」とか、二者択一的な生き方をする必要はないのだと思う。ここにずっといなければいけないと思うからつらくなる。しかし、もっと柔軟性に富んだ状態で「自然と都会を往復する生活」とか「複数の拠点、複数の仕事、複数の家族を横断する生き方」みたいなものが主流になれば、生き方の幅もグン!と広がるのではないだろうか。移動。共有。複数。分散。このあたりはキーワード感がある。まずは、自分を使って実験をしてみたいと思う。テーマは「最低限の費用で、どれだけ『快適な生活』と『充実した日々』を過ごせるのかを探求する」というものになります。

 

 

【動画】坂爪圭吾 - 明日28日(日)@長野県予告動画

 

あると思って生きてみな。金も、時間も、才能も。

横浜から長野に向かう途中、相模原の丸亀製麺に立ち寄った。店内は猛烈激混みで大繁盛をしていた。店員さんのお母様たちがバシバシと動き回っている。私は、こういう風景を見ると「このお母さんたちは幸せなのだろうか」などと考えてしまう。疲れて家に帰ったらこどもたちに「お金を稼ぐのは大変なのよ」みたいなことを言うのだろうか。それを聞いてこどもは何を思うのだろうか。とか。そういうことをいちいち考えてしまう。私は、高校時代、近所のコンビニで時給630円で働いていた。5時間働いても3000円程度にしかならず、ああ、金を稼ぐのはこんなに大変なのかと強烈に思った。もし、私が時給で働き続けていたら、自分のこどもたちにも「金を稼ぐのは大変なんだぞ」と言い聞かせていたと思う。しかし、いま、私は(世間一般で言われている意味での)仕事をしていない。昔は、生きるためには仕事をしなければならないものだと思っていた。が、いまでは「生きる方法は無限にある。だから、嫌なことを我慢してまで仕事をする必要はない」と思っている。

 

人間が生きるために必要なものは4つ。それは「火・水・食糧・シェルター」だとサバイバルのプロが話していた。仮にあなたが山に遭難したときなど、最優先に求めるべきは(火でもなく、水でもなく、食糧でもなく)シェルターだと言う。冷静に考えると、いま、日本では蛇口をひねれば水が出て、アウトドアショップに行けば泥水を飲み水に帰る道具が売られていて、ガスコンロなどを使えば火も用意できるし、テントなんて中古で2000円くらいで売られている。別に、これさえあれば人間は死なない。残るは食糧。これは私の弱点である。断食が体にいいと聞いてから、私は朝食を抜くようになった。一応、1日1食で生きていけるようにはなったが、米や野菜をつくるスキルが自分にはない。家にはもらいものの米が50キロくらいある。米だけ食っていれば取り急ぎ死なない。あとは『快適な生活』と『充実した日々』をどこに見出すかだ。罠猟師の免許を取るとか、食べられる野草を研究したり、渓流釣りを極めたら楽しいのかもしれない。と、ここまで書いたら支離滅裂になってきたことを感じる。要するに「火・水・食糧・シェルター」の4つを、悲壮感を漂わせながらではなく『楽しみながら』自分たちの手であっちこっちに創造することができたら、結構楽しい日々を過ごせるのではないだろうかと思っている。

 

大学時代、私は、生活費を自分でアルバイトをしながら捻出して生きていた。周囲の学生は、親から大量の仕送りをもらっていたために「飲みにいこーぜ!」とか気軽な感じで誘ってくる。私は「お前の5000円と、俺の5000円には雲泥の差があるのだぞ」と密かに思っていた。結果、私は飲み会を断り、友達も減った。そんななか、同じような苦学生の友達にたもつという男性がいた。我々は法学部で、たもつは自分で貯めた金を使って弁護士になるための予備校に通っていた。私は尋ねた。おい。たもつよ。みんなが両親からの仕送りで予備校に通っているなか、お前は自分でアルバイトをしながら予備校に通っている。この状態をハンディキャップだとは思わないのか。と。たもつは答えた。いや、俺はそうは思わない。この経験が、やがて、弁護士になった時に必ず役に立つような気がしている。だから、俺は、いい経験をさせてもらっているのだと思っているよ。と。私は「見上げた男だ」と思った。たもつを誇りに感じたのだ。その後、私は大学を退学してストリートで生きる道を選び、たもつは司法試験に現役合格をした。青梅街道でバイクをガタガタ走らせながら、ふと、そんな昔話を思い出していた。

 

 

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#熱海 #朝日 #lifeisgood

 

人生は続く。 

 

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自分の『好き』を貫く勇気。

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昨夜の徹くんの話が超よかった。僕は昔から全力を出させてくれるものが好きだった。僕は新潟の海の家で育った。海も、砂も、どれだけ僕が全力を出しても壊れないからとてもよく遊んだ。6歳年上のお兄ちゃんも「徹、いまから俺の腹を10分殴れ。俺が痛いと言ったら俺の負け、俺が痛いと言わなければお前の負けだ」という遊びをした。お兄ちゃんにはいつもボコボコにされた。ボコボコにされることは悔しいけれど嬉しさもあった。それは『納得できる』という嬉しさだ。いま、僕にはちあきという大切な女性がいる。ちあきも、僕の全力を引き出してくれる。最強で最愛の女性だ。

 

 

徹くんは話す。僕は、昔から『美しい』と思える生き方をしたいと思っていた。格好良い自分でありたいと思い、格好悪い自分は出さないようにしていた。でも、今回、ちあきとの件で自分の中にある極悪な部分がものすごい出た。極悪の自分が出ると、同時に『極善』の自分も出ることがわかった。自分はこんなにもちあきのことが好きなのかと思った。自分はちあきが好きだという気持ちに対する信頼が半端ではない。自分が更新されたように感じた。極悪と極善がタッグを組んで、一緒に生きていくことができたら最高だと思った。全部を脱ぎ捨てて生きること。『裸の太陽』という言葉が浮かんだ時、ああ、この言葉を口に出したら俺は泣いてしまうと思いながらけいごさんと電話していた時に「裸の太陽」と言ってしまって、僕は泣いた。

 

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悪態日記

私は徹くんの気持ちがとてもよくわかるから聞いている途中何回も感動をしてしまった。自分が本気になれる対象を見つけた人間は幸いだ。私は、正直に「徹くんとちーちゃんの関係性が羨ましい」と感じた。自分の本気をぶつけさせてくれる相手。一回や二回などではなく、生きている限り常に全開でお互いをぶつけあい、愛情とも友情とも括りきれない(まるで鋼が溶け合う的な)融合を何度も何度も重ねていく間柄。素晴らしい。これぞ、愛。そう思った。愛を目の当たりにした私は、しばらくの間呆然としてしまった。人間は、誰かをこれほどまでに思い抜くことができるのだという生きた実例は希望だと思った。

 

私が呆然としていると、参加者のひとりが「一緒に写真撮ってください」と言ってきた。私は、いままであなたとは一言も会話を交わしていないのに突然どうしたとイラッときた。言葉のトーンから察するに「俺と写真を撮りたいんじゃなくて、俺と撮った写真をSNSで周囲にひけらかしたいだけだろ」と感じた。ので、悪態をついてしまった。数日前、まだ、一回もあったことのないひとからフェイスブックで友達になってくださいと連絡がきた。こういう連絡は頻繁に届く。私は「友達になってどうするんだ」と思った。友達ってなんだ。俺はお前のことをなんにも知らないぞ。友達になりたければ実際に会うのが筋だろう。そう思って「友達って、お願いされてなるものでも、私たち友達だよねって確認しあうものでもないと思う。苦楽を重ねた回数が、愛情や友情を深めるのだと思う」的なことを伝えたら、そのひとは消えた。この程度で消える人間と、わたしは友達になることはできない。

 

前に、イベント終了後に「坂爪さんこんにちは。私は天才合宿をやっているのですが・・・」みたいな感じでいきなり語りはじめた女性がいた。私は、なぜ、自分が天才合宿を知っている(しかもその趣旨に賛同をしている)前提で話しはじめられているのかが謎過ぎたから「天才合宿なんて知りません」と断った。実は、天才合宿のことは前々から知っていたのだけれど、違和感もあったためにこれを機会に悪態をついた。こういうことばかりをやっているから、周囲からどんどん人が離れていく。しかし、悪態をつくことを抜きに自分は自分でいることができない。そして、悪態をついている自分を結構気に入っている。こういうことを書くと「いいぞ、いいぞ、もっとやれ!」とかまだ会ったことのない人から言われたりする。こう言う人々にも「うるせえ。お前がやれ。」などと思ってしまう。

 

わたり文庫『ミュータント・メッセージ』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、マルロ・モーガン著作『ミュータント・メッセージ』です。こちらの本は「わたり文庫に是非!わたしの人生を変えた一冊です」とご郵送をしていただいた一冊になります。小生も読ませていただきました。素晴らしい一冊だと思いました。とりわけ、誕生日というイベントに対するアボリジニたちの言及には「まったくもってその通り!」だなあと、思わず膝を打ちました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。 

 

※※※ こちらの本は、岐阜県にわたりました ※※※

 

バースデー・パーティーの話になると彼ら(オーストラリアの原住民たち)は熱心に聞き入った。私はケーキや歌やプレゼントについて話し、年をとるたびにキャンドルが一本ずつ増えると説明した。「なぜそんなことをするのか?」彼らは質問した。「われわれにとって祝いとは特別なことにたいしてするものだ。歳をとることは特別なことではない。なにも努力しなくても自然に歳をとっていくではないか!」

「歳をとることを祝わないとしたら、なにを祝うの?」私は言った。


「よくなること」という答えが返ってきた。「去年より今年のほうがさらに賢くていい人間になったら、それを祝うんだ。それは自分だけしか知らないことだから、自分でパーティの時期がきたとみんなに告げるんだ」。そうだったのか、これはきちんと覚えておこうと私は思った。

マルロ・モーガン『ミュータント・メッセージ』【角川書店

 

自分の『好き』を貫く勇気。

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柿の木に登る。なかなかの笑顔。


人間関係で守り抜きたいと思う言葉がふたつある。ひとつは『知らん』。ひとつは『うるせえ』。このように思うことを自分に禁止してしまった瞬間から、人生の風通しは悪くなる。身の上話などを聞いていると、家庭環境がどうのとか、職場環境がどうのとか、恋愛相手がどうのという流れになることが多い。しかし、私は、話を聞きながら「それって全部言い訳だよね」とか思う。身の上相談にあまりにも親身になりすぎると、話しても聴き手も一緒になって苦しみの沼で溺死をするリスクが高まる。だから、程よく「知らん」とスパッと断ち切れる自分でありたい。過去のことは過去のこと。これまでがこれからを決めるのではなく、これからがこれまでを決める(過去は変えられないけれど、過去の意味ならば変えていける)のだ。

 

誤解されると困るが、わたしは誰かの身の上話を聞きたくないわけじゃない。素直なそのひとの思いを聞かせていただけた時は、ああ、俺はひとつの人生に触れさせていただいているのだ(このひとは、自分の代わりに生きてくださっているのだ)などと思って感動する。昨日、イベント終了後に、ある女性の話を聞いていた。彼女は、話しながら、途中何回か泣いた。私は「泣くのもたまには必要ですよね」とか思いながら、体育座りをしながら黙って話を聞いていた。ら、彼女は、ごめんなさい、いま、私は坂爪さんの貴重な時間を奪っていますよね的なことを言いはじめた。私は「それは違う」と思ってこう言った。俺の時間を無駄にするのか、無駄にしないのか、それを決めるのはあなたではなく俺自身である。この程度で、わたしの時間は無駄にはならない。だから、わたしを言い訳に使わないで欲しい。わたしは、この時間を無駄だとは思っていない。この場を立ち去りたいなら、ただ、立ち去りたいとだけ言ってください。続けたければ、続けてください。ただ、俺のせいにするな。と。

 

我ながら「俺はいいことを言うなあ。今日のMVPは俺だなあ」とか思った。言いたいと思ったから言う。やりたいと思ったからやる。これだけでいいんじゃないかなと思う。たとえ「お前はとんでもない利己的な人間だな」などと責められようが、おいおいおい、この世の中に利己的じゃない行為なんてものがあるとでもお前は思っているのかいと問えばいい。帰り際、彼女とは玄関で軽い抱擁を交わした。よい時間だと思った。私は思う。あんまり難しく考えないでいいのだと思う。ただ、自分が好きなものには「あなたが好きです!」と真っ直ぐに自分の思いを伝える。自分の好きを出し惜しみしたり、こんなことを言われたら迷惑かなとか考えて思いをひっこめたりする経験を何度も重ねると、自分の本音がわからなくなる。死ぬ前に伝えたいことなんて、あなたのことが好きでした以上のことなんてさほどない。だから、自分が好きなものを見つけたら、裸一貫でぶつかって行って「あなたのことが大好きです!」と真っ向勝負で思いを伝える。自分の『好き』を貫く勇気。それだけのことで、意外と、清々しい人生を過ごせるのではないだろうかと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BpLteIhnMxw/

みんなありがとう。。。 #柿泥棒

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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退屈なのは、野生が足りないから。

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お金とはなんだろう。いまの私に定職はない。このブログも広告を張っていない。だから、一円にもならない。出会う方々から「どうやって生きているのですか」と頻繁に問われる。私も、なぜ、自分が生きているのかがわからない。もらっているもので生かされている、というのが正直なところだ。昨日、熱海から横浜まで原付で移動をした。この原付(スーパーカブ)も、読者の方から譲り受けたものになる。熱海の朝日が綺麗だった。私は、なぜ、こんな生き方をしているのだろうか。

 

 

私は本が好きだ。だから、読む本がなくなると本屋さんにいく。しかし、多くの場合、自分が買った本よりももっと面白い本を、本を購買した直後に出会う方々がくれたりする。あまりにもそういう出来事が続くものだから、最近、いよいよ「もらい物だけで生きてみろ」的なことを自分に思う。本屋さんに行けば、自分が読みたいと思う本を、自分が読みたいと思うタイミングで買える。逆に、誰かからのもらいもので生きる場合、その辺のコントロールがまったく効かない。大事なことは、多分、どれだけ『わからないこと』を信じられるか・そこに飛び込めるかなのかなと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

お金とはコミュニケーションコストを0にしたもの。

前に家も金も仕事もない状態で、二年間放浪の日々を過ごした。あの頃、わたしは何を学んだかってそれは『謙虚さ』だと思う。ある人が、私の生き方を見て「お金って、コミュニケーションコストを0にしたものなんですね」と言った。これ、非常に興味深い指摘だと思う。お金があれば、ホテルに泊まることも食事をとることもすぐにできる。誰に会うか、誰を避けるか、それを選ぶことができる。逆に、お金がない場合、誰かに「食べ物をください」とか「家に泊めてください」などとお願いをする必要がある。誰に会うか、誰を避けるか、などを選んでいる場合ではなくなる。結果、あらゆるひとを受け入れる度量を持つ必要が生まれる。結果、私は、前よりも少しだけ謙虚になれた。

 

note.mu

 

お金がある限り、誰一人必要とすることはない。お金がないとき、私は『他者を必要とせざるを得ない』状態に置かれた。結果、これが功を奏したのだと思う。私は、全国各地に様々な人々とのつながりが生まれた。お金がなくても、コミュニケーションさえとれたなら、ひとは死なない(もっと言えば想像を超えて面白い展開を生むこともある)ことを肌感覚で学んだ。しかし、常にコミュニケーションをとらなければならない状態というのは、それなりのストレスもかかってくる。だから、私は、稀にもらったお金でホテルに泊まったりもした。誰の顔色を伺う必要もない。誰に気を使う必要もない。そういう『閉ざされた空間』が、自分の心身の状態によっては、最高に居心地のよい空間にもなった。

 

note.mu

 

だが、いま、私は「ホテルに泊まることは退屈だ」と感じている。ホテルは、結果がわかりきっている。わかりきっていることは退屈で、わからないことのなかに楽しさを覚える。結果、野営を連発する日々を過ごしている。野営をしていると自然とのコネクト感がすごい。わたしは、この日々を気に入っている。多くの人々は、いま、生活のため(要するにお金のため)に働いていると思う。では、そのお金でなにをやりたいと思っているのかというと、ずばり、それは『コミュニケーション』なんじゃないだろうか。今時、豪華な家や高級車をゲットするために汗水流して働いているひとは少ないと思う。充実したコミュニケーションさえとれていれば、ひとは、多くのものを求めなくとも安定する。一旦、冷静になってみませんかと周囲に問いたい。コミュニケーションコストを0にしたもの【金】をかき集めて、それを使ってコミュニケーションをとりたいと思っているこの現状には、小生、結構な歪みがあるような気がするのだ。もっと俗っぽい言い方をすれば「お金なんてなくても簡単に幸せになれるよ」的なことを言いたいのだと思う。

 

坂爪圭吾 - 【貨幣経済を考えよう!】...

 

退屈なのは、野生が足りないから。 

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朝日は無料。夕日も無料。気前がよろしい。


私の大好きなエピソードがある。余命半年だったら何をする??という問いに対して、ある日、26歳の女性は「私、死ぬ前に一発ヤりたい」と強く思った。そして、驚いたことにその旨をインターネット上に公開して『SHALL WE SEX???』とセックスの相手の募集をはじめた。自分の連絡先情報も添えて。すると、開始早々30名を超える男性から連絡が届いた。事の顛末は彼女のブログ記事を見ていただきたい(くりちゃん勝手にごめんね!)のだけれど、私は、こういう生き方をしている人間が好きだ。ここには『正しい』とか『正しくない』とかはない。あるのは、ただ、強烈にそうだったのだという実体験だけだ。私は、彼女の生き様を美しいと思う。この強度を、この実体験を、生きている実感と呼びたいと思う。

 

kurikuu.hatenablog.com


大好きなエピソードはもうひとつある。T君は、自分の彼女が別の男と風呂にはいっている場面を目撃した。T君はその男をぶん殴り、彼女は「やめてー!」と絶叫する。これだけ聞いたらかなりの修羅場だと思われるが、すごいことに、すったもんだの挙句、彼らは最終的に『三人で仲良くお風呂にはいる』という衝撃の展開を迎えた。いったい、彼らの間でどのようなコミュニケーションが交わされたのだろうか。この辺の謎は、今夜ごちゃまぜの家で開催されるイベントで紐解かれる予定です。私は思う。自分の体を張った人間の実体験は、どんな教科書より、どんな哲学書より、生々しいから面白い。『生きている人間』の話に触れると、ああ、自分ももっと生きようみたいな原始的な力がむくむくっと湧き上がってくる。

 

toruquqlia.hatenablog.com

 

私は経済を考えるのが苦手だ。「資本主義の次は何がくると思いますか??」などと問われても、まるでピンとこない。贈与交換とか、評価経済とか、AIとか、サステナブルとか、パーマカルチャーとか、ベーシックインカムとか、正直どうでもいいと思っている。そんなことよりも「いま、この瞬間、本当の意味で生きているか」の方が、五億倍重要だと思っている。私の愛する人々、彼らのぶっ飛ばした生き様に触れたとき、私の生命は露骨に反応する。「ああ、いいなあ、すげえいいなあ」って恍惚となる。私は、最近、謎に焚き火にはまっていて「この、小枝をポキっとやる瞬間がたまらないんだよなあ」とか思ったりしている。火を眺めながら酒を飲んだりメシを食ったりしていると、街中の飲食店が退屈に思える。もし、いま、人生につらさを覚えているひとがいたとしたら、僭越ながら言いたい。それは、つらいんじゃなくて『つまらないだけ』だと思う。自分の生き方に飽きたとき、それは、野性が足りていない合図なのだと思う。獣になりましょう。がおー。

 

 

https://www.instagram.com/p/BpSptWkHCPe/

あたひ。。 #熱海 #朝日 #lifeisgood

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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あなたが楽しく生きることを、喜ぶ人と一緒にいなさい。

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大阪のイベントで100%のムートンマットを貰った。心臓が破裂するほどうれしい。会場にあったムートンを見たとき、超高速で「欲しい!」となった。心の底から欲しがれば与えられるんじゃないかと思い、この手触りは最高だなあ、ムートン大好きなんです、どこで買えるんですか、あまり使ってないと聞きましたが普段は押入れの中にあるのですか、最高だなあ、最高だなあ、こんなものが家にあったら天国だなあ、とか、散々駄々をこねた。ら、持ち主の方から「いりますか…??」と与えられた。私は、両手を上げて「やったー!」とガッツポーズをした。

 

 

梅田駅のかっぱ横丁にある魚屋で、一昨日、夕食をご馳走になった。そしたら数時間後に猛烈な腹痛に襲われて悪寒と冷や汗と目眩が止まらなくなってトイレに籠城した。本気で救急車を呼ぼうかなと思うくらいの腹痛に襲われることが、私には、年に数回ある。インディアンの教えによると、身体の痛みや不調は神様のサインらしい。私は、トイレにこもりながら「神様ごめんなさい、神様ごめんなさい、悪いことはもうしませんから許してください」とか五億回祈った。普段、強気に生きている(いつ死んでもいいとかイキっている)割に、一回の腹痛で私の意思はこんなにも崩れる。冷や汗でびしょびしょになりながら、ああ、神様は俺に何を伝えようとしているのかを考えた。ら、直後に「調子に乗るなよ」という言葉が天から舞い降り小生の身体はビクッ!となった。

 

ibaya.hatenablog.com

 

調子に乗ったら即死する。

私はできるだけ素直に生きたいと思う。嫌なものには嫌だと言いたいし、好きなものには遠慮なく好きだと言いたい。鏡の法則とやらがある。相手の嫌な部分は、自分の嫌な部分を反映しているだけに過ぎないという例のあれだ。私はこれを信じない。自分の中にあろうがなかろうが、嫌なものには嫌だと言いたい。たとえば、私はテレビが嫌いだ。それに対して「あなたはあなたの中にあるテレビが嫌いなんですよ」とか言われてもピンとこない。逆に、嫌いなものを嫌いと言わない自分を、私は嫌う。石頭の教条主義者達、おかしな形で心理学や謎のセラピーを学んだひとほど、そのひと自身はまったく幸せそうに見えないのに「幸せになるにはこうすればいいのですよ」とか言いたがる。セルフブランディングを教えます!とか言ってる人のフォロワー数が15人だったりするのを見ると、こいつはギャグなのかと思う。童貞が恋愛を語ることと同じだ。言葉に、生き方が追いついていない。

 

勘違いされると困るが、私は童貞を軽蔑している訳ではない。単純に「できもしないことを言っている」本人自身の捻れが気になるのだ。たとえば、私はヨガの先生が苦手だ。マクロビにどはまりしてる人々と似た近寄りがたさを感じる。彼らには、多分、一様に信じている『正義』があるのだろう。私は、平和主義者でもなんでもないくせに自分のことを平和主義者だと思っているひとの目が怖い。選挙活動や核廃絶系の運動をしている人々にも、同じ匂いを感じる。彼らは正しさで動く。が、正しさの反対は『また別の正しさ』であることを引き合いに出すまでもなく、私は、こういう人々の臭さを嫌う。ああ、関わりたくねえなと思う。お前は褒められたいだけだろう、お前の中にあるさみしさを活動を通じて埋め合わせたいだけだろう、とかちょっと思う。私のボディは、正しさよりも楽しさに反応をする。楽しそうに生きているならば、正しかろうが正しくなかろうが、私はそういう人々と同じ時間を過ごしたいと思う(稀に、悟りを開いた賢者みたいなひとに出会う。こういう時、私は、その人を前に土下座をしたくなる。私が悪ぅございました的な気持ちになる。こういう人種を真の平和主義と言うのだろう。彼らは、言葉ではなく雰囲気でその場を包む。語るものではない。体現するものなのだろう)。

 

幸福感と降伏感は似ている。腹痛に襲われた私は、健康であることの尊さを思い知った。金も家も仕事もなくても別にいいけど、健康がなくなったらアウトだと痛感した。おかげさまで腹痛は1時間程度で過ぎ去り、私は起死回生を果たした。一回殺していただいてありがとうございますと神様に思った。最近の私は調子に乗っていたのかもしれない。もっと感謝できるものに対する感謝が(いまいち)足りなかったかもしれない。いま、ムートンマットを膝掛けにさわさわさわりながらこの記事を新幹線の中から書いている。名古屋を過ぎ、次の新横浜で降りたら私はごちゃまぜの家に向かう。今日からしばらく関東界隈で暇をしている。みなさまのお力添えにより、存続の危機に喘いでいたごちゃまぜの家も続けることができそうだ。調子に乗ったら即死する。死ぬことも悪くはないが、この言葉を肝に銘じたい。自分を疑う落ち着きを、常に携えていたい。

 
🌸🌸🌸筆者に「あなたはすでに可愛いです!」と伝えたい!🌸🌸🌸

tenshinohashigo.hatenadiary.jp

 

あなたが楽しく生きることを、喜ぶ人と一緒にいなさい。

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能勢の森。紅葉の時期は迫っている。


最近はいかに自分純度を保つかに真剣である。数日前、ある女性から「渡したいものがあるから会えませんか」と連絡をもらった。私は「5分くらいなら会えるな」と思ってOKです!と返信した。ら、彼女から「野営開けでしょ。お風呂はいってないなら家でシャワーを浴びていきなよ。タクシー代も出すから。」と提案された。私は、正直、なんだか面倒臭くなってしまって「ごめんなさいそれはちょっと無理です!」と返信をしかけた。が、私は、なんで俺がごめんなさいとか謝らなきゃいけないんだ(こういうところから自分軸はブレて行くのだ!)と思ってその文章をどりゃーと消して、一旦携帯を置いて深呼吸した。そして、意を決し、嫌われても構わないのだとぷるぷる震えた指先で「最初は受け取るくらいなら5分くらいで終わるから大丈夫かなと思ったのですが、いま、正直あんまり会いたくない気持ちになっています!」とラインを返した。

 

ああ、これで俺もいよいよ嫌われたなとか思っていた数秒後、彼女から「正直!」と返信がきた。そして「では、わたしから行きますね」ということになって我々は会った。お互い言いたいことを言えたからなのか、実際に会ったら会話も弾んで結局1時間くらい一緒にいた。別れ際も爽やかで「なんだか話せてうれしかったです!」とか私は言った。会話の途中、彼女から「男の人は格好いいとか格好悪いとかを気にするけど、そんなことより嘘がないことが大事なのよ」と言われた。私は、ああ、これはめちゃめちゃ大事なことだと思った。相手を傷つけたくない的な『優しくない優しさ』で、私は、安易にごめんなさいを安易に使う。しかし、これでは距離があるままだ。お互いの本音をぶつけあいながら、それでもなお一緒にいることができる関係性。これを理想だなと思う。本音で傷つくのならば構わない。しかし、嘘で傷つくのならばいたたまれない。正面突破。爽快な言葉である。

 

私の求愛方法を定めたいと思う。これは、もう、ひとえに『自分が幸せそうに生きていることを、お前の喜びとして受け取ってくれ』というものになる。間違っても、私は、お前を幸せにするために生まれた訳じゃない。これは、逆の場合も同じ。俺のために生きるな。お前はお前のために生きろ。それが俺の喜びになる。的なことを思う。言葉にするとウルトラ亭主関白みたいに聞こえるかもしれないけれど、結構、純愛だと思う。私は、私の器から溢れ出すものを、周囲の人々に与えたいと思う。間違っても、自分がカラカラに乾いているくせに、無理をしてまで自分を絞り出して『絞りカス』みたいな愛情を振りまきたいとは思わない。自分に娘が生まれたら、私は、こんな風に洗脳をしたいと思う。あなたが楽しそうに生きてることを、よろこんでくれる人と一緒にいなさい。あなたの喜びが、みんなの喜びになるのよ。だから、恐れることなく幸せになっちゃいなさい。と。とかなんとか言いながら、また、腹痛に襲われたりしたら「絞りカスでもなんでもいいから、俺に優しくしてください」とか思うのだろうなあ。まだまだだなあ。精進が足りないなあ。たくましくなりたいなあ。沖縄、福岡、大阪で出会ったみなさま、本当にありがとうございました(これは本音!ありがとうございますと書きながら、俺は、悪態をつかずにはいられないけれど根本的に人間を愛しているのだなと思った)。

 

 

「 苦しみを越えて 」

大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、 謙遜を学ぶように弱い者とされた。

より偉大なことができるように健康を求めたのに、 よりよいことができるようにと病気を戴いた。

幸せになろうとして富を求めたのに、 賢明であるようにと貧しさを授かった。

世の中の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、 神を求め続けるようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、 あらゆることを喜べるようにと命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、 願いはすべて聞き届けられた。 神の意に添わぬものであるにも拘わらず、 心の中の言い表わせない祈りはすべて叶えられた。 私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。


Creed for Those Who Have Suffered

I asked God for strength, that I might achieve

I was made weak, that I might learn humbly to obey...

I asked for health, that I might do greater things

I was given infirmity, that I might do better things...

I asked for riches, that I might be happy

I was given poverty, that I might be wise...

I asked for power, that I might have the praise of men

I was given weakness, that I might feel the need of God...

I asked for all things, that I might enjoy life

I was given life, that I might enjoy all things...

I got nothing that I asked for-but everything I had hoped for Almost despite myself, my unspoken prayers were answered. I am among all men, most richly blessed!

 

https://www.instagram.com/p/BpLNVvQHP2m/

能勢の森。光彩が素晴らしい。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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油断すると大人になっちまう。

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朝はGRAPEVINEの真昼の子供たちを聴きながらはじまる。その曲のなかに『油断すると大人になっちまう』という歌詞があり、ああ、まじでそうだなと思う。最近の小生、男と女の違いに対する研究に余念がない。男とか女とかで括ると、必ず、ある一定の層から「そういうカテゴライズはしないでください!」と怒られる。しかし、私はそれをガン無視する。だって、やっぱり、男と女はまったく違うと思うから。違いを認識することが、結果的に『愉快に生きる秘訣となる』と思うから。

 

 

野営をしていると「俺は、男であることの特権をフルに活かしてるな」と思う。しかし、同じことを女子にやらせたいとは思わない。女子が連日野宿とかしたら生理が止まると思う。多分、肉体が、そういう風にできていない。こういう時、私は、男女差って確実にあるよなと思う。最近、私は、現代社会は『無性社会(男も女もない社会)』なんじゃないかということを考えているのだけれど、これは説明が長くなるので死ぬまでに論文に書きあげてまとめたい。昨日、私は、男女差において非常に秀逸な例え話ができるようになった。それを『男は桃太郎。女はきびだんご。理論』と名付けた。

 

ibaya.hatenablog.com

 

男は桃太郎。女はきびだんご。

桃太郎という童話がある。一見、主人公は桃太郎っぽいが、真の主人公はきびだんごである。きびだんごがなければ、桃太郎は犬・猿・キジなどの仲間を得ることはできない。では、このきびだんごを作ったのは誰か。そう、おばあちゃんである。おばあちゃん【女】がいなければ、桃太郎【男】は「よっしゃ!これから鬼を倒すぜ!」となったところで返り討ちあって痛い目に遭っていたかもしれない。最悪の場合は殺されていたかもしれないのだ。が、おばあちゃんがいたからこそ、きびだんごがあったからこそ、桃太郎は『鬼を退治する』という手柄を獲得することができた。真の主人公はおばあちゃんである。

 

🌸🌸🌸全然関係ないけど20日の大阪イベント。来てね!🌸🌸🌸 

坂爪圭吾×堀口雅司「これからの生き方を考えよう!」@大阪府能勢町

 

男は桃太郎。女はきびだんご。私が、女性を見ていてすごいなと思うところは、自分の手柄をまったく外側にひけらかすことをしないことだ。もし、私があれほどの痛みを伴った出産を経験したならば、あたりかまわず「俺、まじで頑張った!まじで生き抜いた!誰かほめて!この苦しみを乗り越えた俺を讃えて!」ってなる。しかし、女性は違う。出産のこと??あー、あれね、うん、すごい痛かったよ。でもねえ、みんなやっていることだしねえ。別に普通かな。みたいな感じでケロっとしている。私は、こういう女性に触れた時に「半端ねえな」と思う。絶対に勝てないと思う。男が女に勝てるのは、多分、腕力だけだ。女は最初から強い。だから、強さを求める必要はあんまりない。

 

🌸🌸🌸全然関係ないけど25日の横浜イベント。来てね!🌸🌸🌸 

ごちゃまぜの話 feat.とよずみちあき&かむきとおる love 坂爪圭吾

 

男は『外』に出ることに喜びを見出す。鬼を退治した『手柄』を欲しがる。それに比べると、女性は「自分が作ったきびだんごを食べながら、桃太郎(男)が楽しそうに生きていたり、やりたいことをやっている姿を見ることに満ち足りた充足感を覚える」生き物なんじゃないのかなと思う。あれ。全然まったくうまく書けていないぞ。どうした俺。別に「女は男を支えるべきである」とか、そういうことを言いたいわけじゃない。私という人間は、すぐに手柄をひけらかしたくなる男の弱さを持っている。そんな時、きびだんごを作ったおばあちゃんのように『実は相当なことを成し遂げているのに、まったくそのことをひけらかそうとしない(真の裏方に徹した)女性に対して、相当なリスペクトを感じている』ということが書きたかったのだ。イチローはすごいけど、イチロー奥さんもすごいよね。とか、そういうことを言いたいのだ。が、私は失敗をしてしまいました。出直してきます。

 

🌸🌸🌸全然関係ないけどごちゃまぜの家日誌。見てね!🌸🌸🌸

【10月18日】キクナキャフェやったー!(ほしな) - ごちゃまぜの家日誌

 

油断すると大人になっちまう。

私は、いい感じの女性を見ると「このひとは潤っているな」と思う。逆に、不幸そうな女性を見ると「このひとは湿っているな」と思う。水分の話をしているはずなのに、潤っていると湿っているの間には結構な違いがある。あまりにも頑張りすぎている女性を見ると「お前、ゴリラみたいになっているぞ」と思う。ゴリラは、なんと言えばいいのだろう、もはやあらゆる水分を吹き飛ばして蒸発しきっている乾燥状態に似ている。女性が筋肉隆々だと、なんか、違うんじゃないのかなと思う。あれ、私は悪口を書いてしまっているのだろうか。別に悪口を言いたいわけじゃない。ただ、男である自分には、女性の魅力は『潤い』にあると思っていることを書きたいのだ。男に潤いは出せない。だから、潤っている女性を見ると最高だなあとか思う。が、それ(潤い)が悪く出ると『湿っている』みたいな感じになり、女たちが群れると『(潤いを通り越して)どろどろの沼』みたいに見えたりもする。潤っている女性は魅力的だが、湿っている女性は不幸そうだ。一体、何が違うのだろう。女の沼を見ると、私は速攻で逃げたくなる。

 

私は男だ。男としてなにか停滞していると感じる時に、野営をしたり筋トレをしたりバイクに乗って遠くに行くと、なんだか自分を取り戻せる感覚がある。多分、これは男のやり方である。では、女性の場合はどうなのだろう。男としての喜びがあるとしたら、女としての喜びはどこにあるのだろう。そういうことを考えていた時に、先ほどの『男は桃太郎。女はきびだんご。』理論を思いついた。私は、別に女性を手放しで賞賛したいわけではない。例えば、私は、大前提として母親のことは大好きだけれど、小さな頃から「風呂に入れ」だの「歯を磨け」だの「飯を食え」だの、母親の小言を聞くたびにうるせえなと感じていた。いまでも、目の前の女性から『母親的なうざさ』を嗅ぎ取った瞬間は、一二の三で逃げたくなる。男は、愛より自由を選びたい時があるのだ。女の愛は、時に重い。愛に殺されそうになることがある。だから、私は(TPOによるけれど)愛から逃げる。好きな言葉は『長居は無用』である。なかなか家に帰ってこない旦那の心理は、多分、こんな感じなんだろうなと思う。 

 

とかなんとか言いながら、ずっとひとりでいると「誰かといたい」などと思う。自分は勝手な人間だ。男友達に会いたい時もあれば「女性に癒されたい」などと思うこともある。昨日、私は、大阪でお世話になっている女性S様から豪華なしゃぶしゃぶとお寿司をご馳走になってしまった。別れ際、S様は言った。「私はあなたが好きだ。好きなひとに何かをしてあげたいと思うことは、自分にとって自然なことだ。だがしかし、今回、生まれて初めての感覚を覚えた。あなたに優しくしたいと思うように、自分にも優しくしてやりたいなと、生まれてはじめてそんなことを思った。ねえ、これっていい話だと思いませんか?」。と。私は、ああ、これはめちゃめちゃいい話じゃないかと思った。私は、男として「目の前にいる女性が、自分と会う前より、自分と会った後の方がいい表情をするようになった」ことを目撃できた時、俺はいい仕事をしたな的な気持ちになる。これは、決して自分はすごいと言いたい訳ではなく、なんだろう、女性を通じて『いい仕事をさせていただいた』的な謙虚な気持ちになる。この瞬間も、男は、女によって生かされているのであろう。そう思う時、私は、自分の心にいい感じの風が吹いていることを感じる。

 

When childhood dies, its corpses are called adults.

子供らしさが死んだとき、その死体を大人と呼ぶ。 - オールディス

 

 

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関西空港。。

 

人生は続く。 

 

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俺達、もっといい感じになれるよ。

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俺はイタリア人になりたいのかもしれない。女性と会う前に花を買う癖がある。たくさんの花束ではなく一輪に入魂するスタイル。花を片手に街を歩くと「いまの俺、なんだかいい感じなんじゃないの!?」と思う。花屋さんの店員さんは、結構不機嫌なひとが多い。薄利だし、水が冷たいからだと思う。前に、フローリストの女性から「私は現実主義者だから、綺麗事は信じないけれどあなたの生き方には興味がある」と言われた。この時、あれ、この女性は「無料で人間に刈り取られている花のこと(それによって自分が生きていること)を、一体、どう思っているのだろう??」とか疑問に思った。

 

 

昨日は福岡のイベントに登壇した。これから関西空港に飛ぶ。坂爪圭吾をはじめて知ったと話す方々も来てくれて、私は、私の生き方を説明した。が、これがまたまったくうまくいかなくて、不信感を与えた。私は、私を知らない人に私の生き方を説明すると、大概「きょとんとされる」か「お前は人生を舐めているのか」と言って怒られる。自分を説明しながら、同時に「説明なんてできるものか。俺は、説明をできないことをやりたかったのだ!」とか思う。もう、誰かに理解をしてもらうことは諦めよう。だって、自分でもよくわからないのだから。ただ、一言「俺の生き方を見てください」とだけ言おう。俺は何をしたいのか自分でもまったくわからない。というか、説明できることにあんまり興味がない。私は、言葉の外側に行きたいのだ。言葉にならないこと、説明することはできないけれど『なぜだかどうしてもそれをやりたくなってしまうこと』をやりたいのだ。

 

ibaya.hatenablog.com

 

知性と野生。マーキング・マイ・ライフ。

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野営道具を乾かしている時間は幸せ


食事中の方にはごめんだけど「男ならスタンディング・ユリネーション(通称SU。要するに立ちション)」と思う。馬鹿にされることは承知だけれど、屋外SUの開放感は半端ない。SUをした場所に男は過剰な愛着を抱く。犬の気持ちがものすごいわかる。私はマーキングをしているのだ。全国各地で野営をすると、必然的にSUポイントが増す。福岡に来たときは「ああ、俺はこの場所でSUをしたなあ。。」みたいな慕情を覚える。森羅万象にお近づきになれる。トイレの水は水を使いすぎている気がするから、私はあまり好きじゃない。前に、海外に一緒に行った女性がトイレがなくて困っていたから、適当な草むらを見つけて「ここ、どう?」と聞いた。最初は彼女も逡巡していたものの、やがて、意を決して草むらに進軍した。数分後、草むらから出て来た彼女はものすごい晴れやかな顔をしながら頬を染めてこう言った。「なんだかすごい自由を感じました」。

 

 

知性と野生。この両輪が大事だと思う。知性だけでは石頭の教条主義者になるし、野生だけでは下品な野蛮人になる。私は進学校を出たので知性優先型の人間だった。そんな自分に「野性味が足りない!野性味が足りない人間はツマラナイ!」と思っているのが最近で、能動的に野性味を獲得するようにしている。都会はどんどん整備をされる。普通に生きている限り野性味を獲得する機会は皆無に等しい。昨日、福岡のイベントで格闘技を長年続けている男性M様とお会いした。私はM様が大好きだ。男的に「格闘技をやっている(強い)男に惹かれる」部分って、誰にでもあると思う。M様は言う。本当に強い男は常にリラックスをしている。我の強い人間は弱い。稀に、ヤンキーが「おらおら」みたいな感じでリングにあがるが、大抵、そういう人間は音速でボコボコにされる。そして、翌日にはジムから消える。逆に、大人しそうな陰気な青年ほど、どれだけボコボコにされても、ジムに通うことを諦めない。こういう人間は強くなる。格闘技をやっていると、強い人間ほど『過剰なまでの恐怖心』を持っていることがわかる。強い人間ほど、実際は様々なことにビビっている。ビビっているからこそ、備えることを覚える。恐れがないことが強さではない。恐れや弱さを自覚することが強さなのだ。

 

 

私は、毎回、ブログ記事を書きながら超絶ビビっている。今度こそはみんなから嫌われるだろうなと、ビビりながら書いている。言いたいことを言うときも、結構全身を震わせながら言っている。勇気があるから普通に言えるのではなく、毎回、渾身の勇気を振り絞っているのだ。これはみんなと同じである。だって、嫌われたくないという思いが自分にもあるから。野営をするときも「今夜はちょっと寒いかな・・・体調もちょっとあれだし・・・やめておこうかな・・・」とか、その程度の次元で幾度も逡巡する。そんな自分が肯定された気がして嬉しかった。江戸時代の医学者・貝原益軒先生も「最良の薬は恐れである」的なことを言っている。エベレストなどの高山も、自信満々の奴より『ビビり』の方が登頂率は高いと聞いた。恐れるから、ビビるから、それに対する現実的な用意を周到に行う。私の過去記事『世間体を捨てると楽になる』に対して、先日、北海道でライダーハウスを運営している男性が記事を書いてくれた。この記事が良かった。人を縛ろうとするのは弱い人間のすることだ。紳士たれ。知性と野生の両輪を感じる、力強い、美しい言葉だ。

 

サカツメさんのブログで野田ともすけの「ルールに対する考え」のようなものが紹介されていた。野田さんはカヌーをする人なら知らない人はいないパイオニアで、とにかくルールが嫌いな人だ。「ここでキャンプをしてはいけません」という公務員を川にブン投げていたという。

世間体を捨てると楽になる。 - いばや通信

ブログでは「人を縛ろうとするのは弱い人間のすることだ」とバッサリしていた。野田節全開である。強い人の言葉だ。

 

(中略)

 

ルールに関して、とても好きな逸話がある。それは北大の前身である学校を創設するとき、道民はクラーク博士に校則案を見てもらった時の話だ。

まだ教育なんて金持ちの道楽に近い存在だった時だ。あれをするな、これをするなと校則はとても細かく設定されていた。博士はそれを全部投げ捨てて「これだけでいい」と言った。「紳士たれ」とても強く、美しい言葉だ。

紳士とは自分の正義を実行できる人であると思う。誰かが困っているのを助ける、集団でおこなわれる不正義にNOという、それらの行動ができる人を紳士と呼ぶのだ。

 

hatinoyado.hatenablog.jp

 

俺達、もっといい感じになれるよ。

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嘉向さんと豊住さん。喧嘩と仲直りを繰り返している。

 

知性と野生。この両輪を感じることができる人間との出会いは宝物だ。私の友人に嘉向徹&豊住千明という稀有なカップルがいる。彼らは野生がちょっと強めの(だけどしっかり品性もある)最高のカップルだ。彼らが10月25日(木)、横浜にあるごちゃまぜの家でトーク企画を開催する。私の過去記事で「修羅場っくれている人々の話」を何度か紹介したけれど、実際、これらの修羅場は全部彼らの実話になる。彼らほど、本気で生々しい生涯を送っている人々を私は知らない。本気で生きている人間に触れると、いかに自分が本気を出し渋っているけち臭い人間であったかを思い知る。そして「俺ももっと生きたい!生きてやるぜ!」的な、生きる力がむくむくする。お時間のある方も、お時間のない方も、是非、彼らを(職場や学校や家事を一旦全部放り投げて)目撃してください。

 

ごちゃまぜの話 feat.とよずみちあき&かむきとおる love 坂爪圭吾

 

徹さんから「ごちゃまぜの話をシリーズ化できたらいいなと思って見たり見たり!」をご連絡をいただいた。超絶いいなと思った。私は離婚式をコーディネートしたいと思った。別れたいけれどなかなかふんぎりがつかないカップルに、スカッと晴れやかに別れていただく企画。破壊や終焉を祝うデスアニバーサリー。新しい人生に踏み出すひとが醸し出す雰囲気は素晴らしい。離婚届に捺印したり、結婚指輪を粉砕したり、思い出の写真をみんなで一緒に焼却したら、やる側ももちろんのこと、見ている側にもグッ!と来るものがあるだろう。連帯感も生まれると思う。結婚相手とか、パートナーとか、そういう関係性ではいられなくなった二人も、デスアニバーサリーを通じて「出会えて良かった」最高の二人になる。少なくとも、二人の関係がなかったことには絶対にならない。風化することのない、確かに『あった』ことが強烈に刻まれる。

 

ごちゃまぜの話 feat.とよずみちあき&かむきとおる love 坂爪圭吾

 

最近思う。まず、大前提に愛がある。その上に好き嫌いがあるのだと思う。家族間とかもろにそうだと思う。愛しているから好きな時期もあれば、愛しているけど嫌いな時期もある。でも、どちらの場合も、等しく『愛の土俵の上での話』である。嫌いになったからといって、それは「愛していない」とはならない。超絶余計なお世話な話だが、女性と話している時、ある種の違和感を覚えることがある。この違和感は、その女性自身が「過去に、自分が女であることを煩わしく感じていた時期があったのではないか」的なことを私に推測させる。男に比べられて悔しい思いをしたとか、過去に男に酷い目に遭わされたとか、女であることに嫌気が差したとか。その記憶が、自分の女の部分を封印させる。そんな過去があったのだろうかなどと推測をする。私は思う。女が女の部分を封印すると、女は乾く。罪悪感や憎しみで生きるゴリラになる。そんな姿を見ると「あんた、もっと綺麗になれるよ」とか思っちゃう。ゴリラは男の役割である。自分がかわいくあることを自分に許すことができたとき、女は自分で自分を潤わせることができる(とか言うとなんかめっちゃ嫌な言い方になる。だけど本当にそう思う)。男も同じ。自分が格好良くあることを自分に許すことができたとき、男は、自分で自分を律することができる。昨日見たジョン・レノンの言葉がよかった。別に、特別な人間になろうと思わなくてもいい。そんなことよりも、私は、動物的なよろこびを大事にしろと(自分に)言いたい。いい感じの男が増えれば、勝手に女もいい感じになる。いい感じの女が増えれば、勝手に男もいい感じになる。それが、いい感じの循環になればいい。

 

When I was 5 years old, my mother always told me that happiness was the key to life. When I went to school, they asked me what I wanted to be when I grew up. I wrote down ‘happy’. They told me I didn’t understand the assignment, and I told them they didn’t understand life.

私が五歳の時、母はいつも幸せが人生の鍵だと教えてくれた。学校に行くと、彼らは大きくなったら何になりたいかと訊いた。私は「幸せに」と書いた。彼らは私がその課題を理解していないと云い、私は彼らに貴方達は人生を理解していないと云った。ー ジョン・レノン

 

 

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これから人と会う前の俺。。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu  

 

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最悪の場合でも、死ぬだけ。

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群衆の中に孤独はある。夜の都会を歩くと薄ら虚しい気持ちになる。華原朋美のI'm proudの歌詞「街中で居る場所なんてどこにもない / 体中から愛がこぼれていた」が繰り返し流れる。福岡の薬院界隈で手頃な公園を見つけた。周囲は高級住宅街に囲まれている。「家賃すごいんだろうなあ」とか思いながらハンモックを張る。お湯をわかしてコーヒーを淹れる。木々の隙間から覗く星空を眺め、読書をする。静寂を手に入れて心が和む。私は、都会の隙間を見つけて野営をかまし、それなりにいい時間を過ごしながら「ざまーみろ」とか思っている時間が好きだ。

 

 

夜中3時、雨で目覚める。雨が降るなんて聞いてなかった。寝ぼけ眼でハンモックを出る。私は慌てることが大嫌いだから一旦お湯を沸かして冷静に考える。身体が芯から冷えている。お湯を飲む。「癒されるなあ」とか感じていたら雨足が強くなる。すべてが濡れる。慌ててハンモックの撤収に取りかかる。ずぶ濡れになりながら「金持ちはしない苦労を、貧乏人はするんだなあ」とかちょっとだけ思う。冷えた身体を温めるために夜の福岡を延々と歩く。群れた若者がなにやら大声をあげて騒いでいる。水たまりの上をタクシーが走り抜け、私に向かって「びしゃん!」と跳ね返った。

 

ibaya.hatenablog.com

 

孤独なとき、あなたはひとりではない。

今夜、福岡で『孤独の愉しみ方』をテーマにトーク企画がある。私は、昨日、ものの見事に孤独だった。孤独な時のしんどさは、まるで、自分だけが「周囲から切り離されている」ように感じることだ。誰からの眼差しも感じられない、誰も自分のことなんて見てくれていないのだと感じる時に、人間の心はあっという間に閉じる。逆に言えば、自分の心を開かせてくれるものに出会えたとき、孤独は緩和する。孤独が人間を磨き、孤独が人間に深みを与えることもある。孤独を経ていない優しさは、あまり頼り甲斐がない。

 

ここ数日サバイバル動画を見続けていたから「彼も頑張っていたのだから自分も頑張ろう!」みたいに思えた。実際に会ったことなどないけれど、彼は俺の友達だ。そう思えるひとが世界にたくさんいることは嬉しい。だから私は読書をするのだろう。読書をすると友達が増える。それは『戦友』という感覚に近い。世界にはこんなにも頑張って生きた人間がいる。そう思えるだけで力を得る。過酷な状況の時はエドを、月の夜は西行を、乞食の日々は良寛を、コーヒーを淹れる時は高知のS様を、逆境に置かれた時は中村久子を、空腹の時はガンジーを、雨に濡れた夜は徳永英明を、宝物を奪いに行く時はルパン三世を、都会の喧騒の中では華原朋美を思い出す。

 

孤独な時には「もしかしたら、いま、自分と同じように孤独なひとがいるかもしれない」と思うようにしている。すると、孤独がつながりを生む。人間、それを表に出さないだけで「孤独だな」と感じる瞬間は誰にでもあるだろう。渦中に置かれている時はしんどいが、少しでも、意識を外側に向けることができれば「自分と同じ人間がいる」と思える。自分はひとりではないことを掴む。自分はひとりではない。この感覚が力になる。どのような状態に置かれても、あなたは絶対にひとりではない。あなたと同じ孤独を、あなたと同じ苦しみを、ここに生きている人間がいる。などと、見えない誰かにそんな感じの温度を届けることができたらいいな、この孤独が自分を周囲から孤立させるためのものではなく、みんなとつながるためのものになればいいな、などと思いながら延々と歩いた。

 

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最悪の場合でも、死ぬだけ。

時間がある時に上の動画を見て欲しい。エドの表情が実に素晴らしい。なぜ、エドは自らを過酷な環境に投げ出すのか。彼の目標が最高だ。それは「(過酷な環境の中で)充実した日々を過ごすことだ」と彼は言う。その時の笑顔が素晴らしい。彼は、極論『楽しむ』ために生きているのだ。時に、迫り来る苦しみまでも友にして。過酷な環境にも慣れてきた頃、彼は言う。『今日は自分に試練を課します。充実感を得るために。』と。そして、危険極まりない川辺とかに自分から趣き、そこで獲得したムール貝とかを手に「うほー!最高だ!人生最高のムール貝だ!俺は最高に報われた人間だ!」などと感激をあらわにする。

 

彼を見ていると「俺なんてまだまだだな」となる。清々しい敗北感に包まれる。露骨に元気になる。私が男だからなのだろうか、どうしても人生を勝負事として捉えてしまう。調子に乗っているひとを見ると「これからお前をぶっつぶす」などと思うし、時の権力者に反発するようなことを積極的に採用して「ざまーみろ」などと悪態をついてしまう。そんな自分が好きだ。そんな自分を変えるつもりがない。こういう生き方を許されていることを、非常にありがたいことだなと思う。私は恵まれた人間だ。成功する自由もあれば、今回のように「雨にずぶ濡れて夜な夜な延々と歩き続ける無様な醜態を晒す自由」もある。成功する自由だけではない、時には『失敗する自由』を行使することができたとき、めちゃめちゃ言い訳めいて聞こえるとは思うけれど、真の意味で「俺は自由だ」とかちょっとだけ思ったりする。

 

野営をしていると時折警備員や警察官に怒られる。でも、逮捕をされることはない。最悪の場合でも怒られるだけなのだ。それならば怒られるまでやればいい。そんな腹の括り方をしている。同じように、人生全般に対しても『最悪の場合でも、死ぬだけ』と思っている節がある。最悪の場合でも死ぬだけなのだから、置かれた状態を楽しもう。悲愴感を漂わせるより、できる限り笑えるポイントを抽出しよう。そう思って生きてきた。こんな私の吐き出す言葉に、時折、ありがたいことに「救われました」とかいってくださる人がいる。そんな時、私はこっそり思う。『俺がお前を救ったんじゃない。お前を救ったものは言葉だ。言葉が、お前を救ったんだ。言葉は、誰のものでもない。ただ、俺と言う人間を通過して出てきただけのものだ。』とか、そんなことを思う。いま、私は、言葉を生業として生きている。言葉は誰のものでもない。強いて言えば『神様のもの』的なサムシングである。それによって生きていることを、ちょっとだけ誇りに思ったりする。

 

 

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都会で野宿。。俺なりの反骨。。。

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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世間体を捨てると楽になる。 

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『他人の修羅場は蜜の味』とはよく言ったもので、修羅場の話を聞くと興奮する。ある日、ある女性が、彼氏じゃない男性と一緒にお風呂にはいっていた。すると、そこに彼氏(私の友達)が登場をして「なにしとるんじゃああああ!!」という状態になった。彼氏は男をボコボコに殴る。彼女は「やめてーーー!」と絶叫する。彼氏は、悪鬼顔負けの形相を浮かべながら、恐ろしいほどに落ち着いた声で「誰が、なにをやめるというんだい??」と問い返す。鳥肌が泡立つほどの修羅場である。生々しい人間の姿に触れると、なにかこう、『グッ!』とくるものがある。

 

 

沖縄を経由して福岡にきた。福岡が想像以上に寒いから無印良品で毛布を買いそうになった。各種電子機器類の電池がなくなり、いま、慌てて最寄りのタリーズに駆け込み充電をしながら無料WiFiを拾ってディスカバリーチャンネルのサバイバル動画を見ている。ここにいると「タリーズは俺の別荘だな」とか思う。家はなくても、自分は貧しいままでも、世界は勝手に豊かになる。どこにいても、まるで自邸にいる時のように寛ぐ能力を磨くこと。寄生力とでも言えばいいだろうか。この能力を極めると、お金はなくても幸せになれる。

 

ibaya.hatenablog.com

 

管理事務所に火をつけろ。 

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自作の封筒と水引

 

さっきまで福岡空港近くの東平尾公園野点カンタービレをやっていた。久留米在住の女性Y様が福岡空港まで車で迎えに来てくださり、博多うどんをご馳走になり、御礼に東平尾公園でコーヒーを淹れた。公園に行くと看板がある。そこには「ボール遊びをするな」だの「寝るな」だの「焚き火をするな」だの管理事務所による規制規制のオンパレードが書かれてある。私は、こういう看板を見るとドロップキックをしたくなる。人間、規則で縛られているうちはまったく本当じゃないと思う。野田知佑さんが著書『本日順風(アウトドア人生相談)』のなかで、私の感じる違和感を見事に代弁してくれている。

 

Q・この前、あるカヌークラブに入ろうと思い、行ってみたら、その会は入会金も会則もなんにもなく、何をやってもよろしいという。いつ誰でも入れるし、いつ辞めてもいいという、とてもでたらめな会でした。そんなだらしない会に入る気はせず、早々に辞退してきました。北海道のカヌークラブでちゃんとしたクラブを知っていたら紹介してください。

 

A・君のような人間は死んだ方がいいと思う。会則のないクラブなんてとてもいいじゃないか。会則がないのなら罰則もないだろう。そういう会は理想だと思うがね。そういうのは「だらしがない」とはいわず「自由な」というのだ。

最近、方々にキャンプ場ができていて、そこに行った人の話を聞くと、ひどいものらしい。罰則だらけなのだ。

人を管理するのが好きという精神はそもそも病的なものであると知りたまえ。弱い人間は他人を管理したがり、規律やルールを好む。弱い人間ほど人間を拘束し、自分を縛るものがないと生きていけない。

ぼくはアウトドアにおけるあらゆる規則、制度に反対する。われわれの頭のなかにある人間としての良識で十分だ。それは「不文律」で、ことさら文章にしたりわめいたりする必要はなかろう。

規則や規律を強調する人間は、自分の良識のなさ、自制心のないことを告白しているのである。自分を縛る規律がないとやっていけない、というのはとても幼稚な精神だ。幼稚なガキは判断力や価値観がない。ルールがないと不安になる。だから自分の上に立って強く命令してくれる人を欲しがる、その結果、独裁者ができるという構図がある。自由になれない奴、石頭の教条主義者は死ね、というのが当、身の上相談の不文律である。


野田知佑『本日順風』【文春文庫】 より引用

 

東平尾公園で淹れたコーヒーが美味すぎてみんなで一緒に発狂した。愛用している珈琲ミルは、数年前、高知で非常にお世話になっている女性S様から譲り受けたものになる。今日、前回の投稿を読んだS様から「もし、この話に出てくるミルがあのミルなら、なんか良かったなあと思いながら読みました」とご連絡をいただいた。まさにそのミルを愛用している。S様を思うと胸がとってもホットになる。S様の胸にはどでかい太陽の刺青がはいっている。前、高知県で一緒に「ここの銭湯は刺青がはいっていても大丈夫なんよ」と、昔ながらの銭湯に連れてってもらった。私は「まさにそのミルを愛用しています!」とS様に返信をした。ら、S様は「ありがとう。なんでこんなバカに俺はコーヒーを飲ませたんだって後悔したらミルで殴っていいからな。」と言った。

 

公園に一緒に行ったY様は「はい!」と言って、自作(!)の封筒と水引を差し出した。すべて手作りとのこと。最近、Y様は紙に強い興味があって紙屋さんに行ったら楽しすぎてテンションがぶちあがった。Y様は言う。「前の記事で『自分の好きを貫く』って言ってたけど、それ、本当に大事だと思う。私も、離婚をして実家に戻ってから、ようやく自分の好きを取り戻すことができた。自分を笑顔にすることをやっていたら、お小遣い稼ぎもできるようになった。最近は農作業もはじめたのだけれど楽しい。坂爪さんは恩人です。」と。野点セラピー(?)、ここに極まれり。封筒の中にはなんと一万円札がはいっていた。最近「なんでもやります!」と息巻いている私の友人の嘉向徹さんに、このお金を使って、何か面白いことを頼んでくださいと頼まれた。

 

toruquqlia.hatenablog.com

 

世間体を捨てると楽になる。 

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東平尾公園

 

最近、ブログを更新するたびに「あなたにはがっかりしました」と言って去る人々が増えた。これでいいのだと思う。過度な期待をかけてくるひとほど、あとから「あなたにはがっかりしました」的なことを言う。大概、どんなひとがそうなりそうなのかが事前にわかるようになった。彼(女)らには、端的に「甘えるな」と言いたい。いまこそ、我らが阿部さん(いばや野球部キャプテン)の言葉を思い出す。自分の中に勝手な「こうあって欲しい」像をふくらませ、人に押し付けたあげく、望む通りに動いてくれないと勝手に落胆し、批判し、糾弾する。その先に一体何があるのか。はっきり言ってロクな未来はないだろう。この言葉を、彼(女)らの背中に強力接着剤で貼り付けてやりたい。

 

悩みの9割は世間体だと思う。世間体を捨てれば楽になる。昔は、キリスト教に入信するだけで、周囲から迫害されたり「耶蘇を捨てねばお前を殺す」とか言われたりした。頭髪が長いだけで学校を退学になったり、小説を書くだけで死刑になった。いま聞けば笑い話になりそうなことも、当時は真剣に行われていた。何が常識を決めるのか。それは、たまたまその時代の多くの人々が「そういうことになっている」と受け入れたことの集大成に過ぎない。常識が、あなたを幸せにするのならば従えばいい。常識が、あなたを不幸にするものであれば、それは違うと言えるだけの勇気を持たなくちゃいけない。誰が。自分が。自分が嫌だと思うことを受け入れることは、自分が嫌だと思うことに加担をすることになる。加担をする限り、悪習は続く。誰かになにかをやってもらうことを期待すると、前述した「あなたにはがっかりしました」とか言い出す人間が続出をする。自分が甘えていることに無自覚な人間が、雨後の筍のようにあらわれてくる。

 

人見知りという言葉がある。しかし、私は「人見知りな人間なんてこの世にいない」と思う。人見知りなんじゃなくて、ただ、目の前にいる人のことが嫌いなだけ。自分を出すには値しないと感じる人間がいるだけ。軽蔑している人間がいるだけ。コミュニケーションを取れない人間がいるだけ。だって、普通に会話が弾むひとは確実にいるのだから。わかり合おうと努力をしなくても、わかり合える人々が世界には無数にいるのだから。だから、自分のことを人見知りだなんて思う必要はない。コミュ障という言葉も最悪だ。そんな程度の低い言葉で自分をカテゴライズする必要はない。そんなことより、自分は「好き嫌いがはっきりしている、いい感じの人間なんだ」と思っている方がずっといい。たとえ、それが世間が定めた基準とはおおきくかけ離れたものだとしても、自分が「おかしい」と感じるならば、お湯に触ったら熱いと感じることと同じように、それは「おかしい」ものなのだ。

 

 

https://www.instagram.com/p/Bo-kIh2F86Y/

 

人生は続く。 

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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