ハワイのオアフ島にきた。シェリル・ストレイドの小説に影響を受け、自分も100キロ歩こうと思う。大阪で「本当に疲れたらホテルを使え」と魔法のカードをもらった。最終日に使おうと思った。これで安心してボロボロになれると思った。が、このカードを初日から使ってしまった。肉体は想像を超えて疲れていた。久しぶりに屋根のある部屋で寝た。ベッドもシャワーもテーブルも神々しく感じた。いまはワヒアワのマクドナルドで無料ワイファイを拾いながら1ドルのコーラをがぶがぶしている。この記事を書き終えたらハレイワに向かう。
なにかしなきゃとか思わなくていいよ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年11月2日
からっぽなまんまでいいよ。自分にはなにもなくてもいいよ。何者かになれないことが苦しいんじゃなくて、何者かになりたいと思うことが苦しいんだよ。全部それでいいよ。
人生は思う通りにいかない。だから面白いのだ。 - いばや通信 https://t.co/Nvn6dQ7Qoz
日本ではブーツを履いていたけれど、これで徒歩はきついだろうなと思っていたら大阪で24センチのビーチサンダルをもらった。自分の足は27センチ。しかし、ブーツよりはましだろうと思った。が、オアフ島を歩き始めて40分程度で足のあらゆる皮が剥がれはじめた。私は「はじまったな」と思った。シェリル・ストレイドは女性にも関わらず足の爪が剥がれ落ちるまで歩いた。しかも荷物は30キロ相当。私の荷物は10キロ程度。シェリルは女性だ。それに比べればこの俺の痛みなぞ小粒。辛いのは最初の三日だけ。一皮向けた自分と出会えるのは、経験則上、四日目から。
隠された悪を注意深く拒むこと。
関西空港で借りたレンタルワイファイを道中で落とした。画面が割れた。損害賠償はいくらになるのだろう。これは幸先が悪いなあと思った。日本に帰りたいと思った。が、同時に「最高だけを望むのもあれだ。最悪も受け入れて歩こう」と思い直した。1日に、最高が3個。最悪が3個。それならあと2個は最悪を受け入れられる。そう思ったら余裕が生まれた。不思議だ。気持ちも新たに歩き始める。と、目の前に大きな虹が出た。私は「おお!」と唸った。よく見ると二重だった。初日から幸先が良いと思った。幸先って何だろう。気持ちはコロコロ二転三転する。
マーケットでライオンコーヒーとガスボンベを買う。日光浴をしながら一服していると電話が鳴った。日本で問題が起きた。ハワイに来る度に日本で問題が起こる。私は、歩きながら「しがみつく生き方はやめよう」と思った。維持や持続を考えるから息詰まる。最悪、なにもかもなくなっていい。命は残る。残った命に俺は賭けよう。オアフ島にもごちゃまぜの家を!という名目で今回来たが、実質、できてもできなくてもいいのだと思う。私は、あらゆる生命に対して「いい感じで続いていて欲しい」と思う。無理をしてまでなにかを続けないで欲しいし、極論、いい感じが難しくなったら終わってもいいと思う。などと考えていたら、また、虹が出た。
歩くと色々な記憶が蘇る。前に、家がなくて困っていた人を数ヶ月無償で滞在させたことがある。最初は「助かります!」と言っていたが、徐々に不満を並べるようになり、数ヶ月後に「あなたが優しくするから私は強くなる機会を失った」的なことを言っていなくなった。似たような体験は他にもある。よかれと思ってやったことが、逆恨みされて終わる。私は、これらの体験からひとつの教訓を得た。それは谷川俊太郎の詩にも出てくる言葉だ。『すべての美しいことに出会うこと。そして、隠された悪を注意深く拒むこと』。言葉の裏に、笑顔の裏に、善意の裏に、隠された悪を注意深く拒むこと。そのためには、しっかりと観察する視力を養わないといけない。すべては、そのための授業料なのだと思う。
結果、ひとりきりになるとしても。
言葉には二種類ある。祈りと呪いだ。他人に向けた言葉。自分に言い聞かせている言葉。どちらも『祈り』か『呪い』に分けることができる。そういう話を聞いた。自分は、どちらの言葉を使っているだろうか。いま、自分が意識している言葉は、祈りか。呪いか。祈りならば生き方に宿らせたいと思うが、呪いならば受け取り拒否をすること。できることならば、ブログ記事を書くときは『祈り』の言葉を用いたいと思う。誰かに対する憎悪、嫉妬、ある種の憂さ晴らしとして言葉を残したいとは思わない。できることならば、自分が想定できる『最高の相手』に向けて言葉を使っていたい。
シェリル・ストレイドは1600キロのロングトレイルを歩いた女性だ。道中、何度も何度も何度も諦めそうになる。が、もうダメだと思う直前、毎回『なにかしら自分の心を喜ばせてくれるもの』との出会いがある。それによって、彼女は歩き続けることができた。美しい自然の風景だったり、誰かと交わす挨拶だったり、湧き水の発見だったり。彼女の体験に比べれば、いま、自分がやっていることはささいなことに過ぎない。しかし、実際に歩くと、彼女の言っていることがより一層身にしみてわかる。諦めそうになるとき、必ず、それを食い止める力が働く。虹だったり、色彩の豊かな小鳥だったり、懐かしい音楽やユーモアや夕陽だったり、誰かから届くメールだったり。
昨日届いたメールには「あと、わたしはやっぱりさかつめさんが大好きなんだな、と思いました。充実した時間を過ごさなくても、元気じゃなくても、ただただ生きていてほしいなあ、と思いました」と書かれていた。ああ、これは祈りだ。これは完全に『祈り』だと思った。繰り返しになるが、私は、歩きながら「しがみつく生き方はやめよう」と思った。何かを失うことを恐れたり、ひとりきりになることを極端に恐れるような生き方はやめよう。持続させることより、維持をすることより、最後に残った命に賭けたい。自分自身に呪いをかけてしまうことも定期的にあるが、できることならば、自分自身のために祈ることができるように。結果、ひとりきりになったとしても、祈りをベースにした生き方を護りたいのだと思った。
本当に大事なことは、誰にも相談しちゃいけない。どんなに信頼している人でも、どんなに成功している人でも、彼らの答えが自分の答えにはなるとは限らない。多くの場合、答えにはならない。わからないからと、専門家に相談することは一番まずい。本当に大事なことは、自分で決めなくちゃいけないんだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2018年10月8日
圭吾さん、今日は本当にいい休日を過ごせました(^o^) あんなに素敵な空間で、ただ静かにボーッとできる時間は、私にとって大きな贈り物みたいでした! 子どもといると、公園でもあんなにボーッとできることはなくて、同じ1時間でも時間の流れ方がまったく違うんです。 私お母さんなんですけど、ただの「私」としていられる空間をもっと大事にしようと思いました。 「お母さん」じゃない時間って意識しないとなかなかつくれないんですよね。 圭吾さんといると、ただそこにいるだけで、なんだか言葉はなくてもただの「自分」でいられるような気がするんです。 だから昨日話した時間もそうですけど、今朝、圭吾さんとまた、ただの「私」として過ごせて、とっても幸せでした(^^) 帰りにお昼ごはんを買って、家で子どもと食べて、読みかけの本を全部読んで、眠くなったので昼寝をしました。 あったかい布団にくるまりながら、「あー、自分はこんなに心地の良い空間で寝ることができてしあわせだなぁ。圭吾さんが眠そうな時にこの環境があればなぁ…」なんてことを思いながら、眠りにつきました。 私が圭吾さんの代わりに眠って、私の代わりに圭吾さんがハワイでなにかを見つけるのかもしれませんね(^^;) 「たいらけく やすらけく」という本、とっても良かったです! 普段の圭吾さんが言われてるようなことがたくさん出てきます。 「平らけく 安らけく」と口に出して言うことで、言霊となって自分やまわりの全てが丸くなっていくそうです。 日本語の「いのり」という言葉の「い」は「威」らしいです。 「威」に「乗る」のが祈りだそうです。 その一文がなんだかすごく印象に残りました。 ちゃんと買って本を読んだのは久しぶりで、ことばの大事さをもう一度見つめてみたくなりました。 この本はぜひわたり文庫にしたいので、また圭吾さんにお渡しできると思って、帰国を楽しみにしていますね! それでは、残り少ない大阪の時間を楽しんでください(^^)/
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu