いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

あさになったのでまどをあけますよ。

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素晴らしい本に出会うとうれしくなる。多分、登場人物の人柄に「生きたい自分【このようにありたいと思う自分】」を見るからだと思う。現実世界も同じことだ。素晴らしい人物との出会いは、ただ、それだけのことで「生きよう」と思う力を与えてくれる。ここ最近、歴史物の小説を読んでいた。現代社会とは比べものにならないくらい貧しい生活のなかで、それでも、前を向いて生きようとするひとたちの姿に触れると、ああ、あまったれたことを言っている場合ではないなと思う。

 

自分がどれだけ恵まれているのかわかっていない。諸々の不幸は、このような無知から生まれているように思う。家族がダメだとか、恋人がダメだとか、学校がダメだとか、職場がダメだとか、社会がダメだとか、自分が置かれている環境に対する不満や愚痴を述べるあまり、自分に残されている「恵まれた部分」を忘れてしまう。不満や愚痴を吐くことを悪いことだとは思わない。それによって発散されるストレスもある。ただ、人生がそればかりになってしまうのは、非常にもったいないことだと思う。自分を偉い人間だと思うことが傲慢ならば、自分をダメな人間だと思うことも、同じように傲慢【思い上がり】な行為だと思う。

 

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わたり文庫【循環型の図書館】

数年前から『わたり文庫』という活動をしている。昔、自分の家の本棚に並べられている書籍の数々を眺めながら「自分がこの本をここで独占していたら、この本は自分しか読めないじゃないか!」という非常に当たり前のことを思った。自分が素晴らしいと思うものは、自分ひとりだけではなく、それを同じように素晴らしいと感じてくれるひととわかちあったほうが数倍良いのではないか。そういう単純な理由から、自分がいいなと思った本を「読みたい!」と思ってくれたひとにわたらせていくようになった。

 

最高に感銘を受けた本でさえ、一年に数回読み直せばいいほうだ。それ以外の時間は、どれだけ素晴らしい本であったとしても「本棚で眠っている」状態になる。蓄えるばかりでまったく活用されない金を『死に金』と呼ぶならば、読まれない本は『死に本』になる。これは非常にもったいない話(本に対して無礼な話)である。使われてこそ本領を発揮するものがモノの真髄である。読みたくなったら、そのときはまた買えばいいのである。本棚で眠らせているよりも、その本に触れたことでなにかしら前向きな気持ちになるひとが増えたのであれば、その方が「なんだかちょっと世界的にいいことのような気がする」と思う。

 

なんの説明にもなっていないと思うけれど、2018年も坂爪圭吾は「本を開放する」「家を開放する」「自分自身を開放する」というよくわからない生き方を続けて行きます。私物を開放するとストックは減る。ストックは減るが、フローが生まれる。フローが生まれると「この本が最高なので坂爪さんも読んでください!」とか「この本をわたり文庫に是非!」とか「本を買ったり贈ったりするお金に使ってください(!)」みたいな感じで、予期せぬところから予期せぬものが舞い込むことが如実に増える。わたしは多分、この、予測不可能性が嬉しくてフローな日々を過ごしているのだと思います。

 

わたり文庫『あさになったのでまどをあけますよ』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、荒井良二著作『あさになったのでまどをあけますよ』です。こちらの絵本は、熊本在住の方が贈ってくれた一冊になります。新年一発目にふさわしい、文句なしの最高傑作になります。これは余談でありただのお願いになるのですが、わたり文庫に限りましては、読み終えたあとに所有をするのではなくて「あ、このひともこの本を気に入ってくれそうだな」的な方に続々とまわしていただけたらうれしいなあと勝手に思っています。が、(これはただのお願いに過ぎないので)ストックを選ぶかフローを選ぶかは、あなた様の判断に完全に委ねます!!ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

 

あさになったので まどをあけますよ

 

うみは やっぱり そこにいて

そらは やっぱり そこにある

だから ぼくは ここがすき

 

きみのまちは はれてるかな?

 

荒井良二『あさになったのでまどをあけますよ』【偕成社

 

素晴らしいものを分かち合う。

元旦の夜、私は岐阜県長良川温泉の旅館に呼ばれて足を運んだ。優しさのかたまりのような方が「ゆっくり過ごしてください」とわざわざ手配をしてくれた宿になる。満月を眺めながら、露天風呂に浸かる。金もなにもない自分がこのような時間を過ごせていることは「この世の奇跡だ…」と震えた。これは決して「どうだ!おれはすごいだろう!」と言いたい訳ではなくて、自分自身の存在を「どうぞご自由にお使いください」とフロー状態に置くことによって、驚天動地の出来事に遭遇することがある不思議について、少しでもみなさまに伝わればいいなあと思いながら書いている次第であります。

 

生きていると、どうしても何かを勝手に決めつけてしまう【思い込んでしまう】ことがある。人間なんてこんなものだとか、世の中なんてこんなものだとか、生きるなんてこんなものだとか、自分の人生はこんな感じでこれからも続いてくのだろうとか、わかりもしないものを「わかったつもり」になることがある。これはもう本当にダサいことだなあと思う。当たり前すぎることだけれど、世界にはまだまだ自分の知らないことがたくさんある。自分が生きている人生は「世界のほんの片隅程度」のものに過ぎない。まだまだ知らない素晴らしい風景、まだまだ知らない素晴らしいひとたち、まだまだ知らない素晴らしい体験は、この世界【内面・外面】に無限に散らばっているのだと思う。

 

素晴らしいものを分かち合いたいと願う感覚は、多分、誰の中にもあるものだと思う。誰かが分け与えてくれた素晴らしいものが自分の世界を広げてくれたように、自分が分け与えることのできる素晴らしいものが、誰かの世界を広げることにつながるかもしれない。生きているこの世界を、生きていこうとするこの自分を、知ったつもりにならないこと。決めつけてしまわないこと。残されている可能性に目を向ける余裕を、勇気を、笑い飛ばせるだけのユーモアを、常に胸に抱き続けること。生きたいと思うことの意味は、もしかすると非常にシンプルなものでできているのかもしれない。それは「素晴らしいと思えるものを見つけること。見つからなければ作り出すこと。そして、それを周囲のひとびとと分かち合うこと」という、単純な言葉で言えるのかもしれないと思う。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu   

 

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してもらうことを考えると失望が生まれ、してあげられることを考えると希望が生まれる。

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現在、ごちゃまぜの家では「大晦日だよ!もらいもんスペシャル」を開催しています。これは「大晦日だよ!ドラえもんスペシャル」にかけているのですが、多分、こうして説明をしている時点でダメなんだろうなあと思います。連日の移動で無事に体調を壊し、ようやく神様からストップサインが出たぜということで、家で療養をしています。もしも「しかたがないから差し入れでももっていってやるか」的な神様がいらっしゃいましたら、いつでもお気軽にご連絡ください。

 

 

ついさきほど、高校生の家出少女が「16時間かけて家から歩いて来ました」ということで、ごちゃまぜの家に登場しました。カバンが重すぎて大変だったとのこと、カバンにはなにがはいっているのかと尋ねましたら「途中多摩川で野宿をしようと思って寝袋をもってきたのですが、寝袋のしたに敷くシートがないから布団をいれてもったきたのが敗因でした」とのこと。彼女の大胆な発想を前に「なんだかこういうのはすごいいいなあ」と思いました。

 

ibaya.hatenablog.com

 

おはなしをつくろう。

ミヒャエルエンデの本を読んでからというもの、生まれて初めての感覚なのですが「自分でも童話みたいなものをつくってみたい!」という願望が芽生えてきました。いままでは、たとえばこのブログ記事とかで「自分が思ったことを思ったままに書く」ということをしていたのですが、思ったままに書くのではなく「自分が言いたいことを物語に込めてみる」という行為は、なんだか新鮮で楽しくて暇なときに「どんな物語をつくったら面白いだろうか」などと考えています。

 

先日、この世の中で一番怖いことはなんだろう?みたいなことを考えていました。怖いことは108個くらいあると思うのですが、その時、パッと閃いたことは「誰にあっても『あなたは誰ですか?』と言われちゃうこと」かなあと思いました。昨日まで友達だったひとにあっても「え、あなたは誰ですか?」と言われてしまう。昨日まで同僚だったひとにあっても、昨日まで家族だったひとにも、なんならコンビニの店員さんにも「え、あなたは誰ですか?」と言われてしまう。この世の中に、自分を認識してくれるひとがひとりもいなくなる。これはとても怖いことだなあと思いました。

 

そんなことを友達と話していたら、なんといいましょうか、こうして「自分を認識してくれるひとが目の前にいる」という非常に当たり前のことが、なんだかとても輝いて見えてきたのでした。そして、自分は自分だと思っているその部分も、他者の視線のうえになりたっているものであり、自分なんていうものは非常に脆い存在【他者なくしてはありえない存在】なのだなあとも感じました。そして、現代社会、もしかしたら「わたしはあなたのことは知りません」という視線が、徐々に蔓延しつつあるのではないだろうか・・・キャー!みたいなことも思いました。そのあたりのことは、昨夜おこなったツイキャス音声配信のなかで話したりしましたので、お時間のあります方は、いつでもひまなときに聞いて見てください。

 

twitcasting.tv

 

【追記】12月29日収録分も公開しました!

 

twitcasting.tv

 

【追記】12月30日収録分も公開しました!

 

twitcasting.tv

 

わたり文庫『星の王子さま

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、サン=テグジュペリ著作『星の王子さま』です。おととい、神戸でお会いさせていただいた方が「うまれてはじめて星の王子さまを読んだのですがこれは素晴らしいですね!さかつめさんに託します!」ということで、お譲りいただいた一冊になります。横浜に戻る新幹線の中で読み終えたのですが、この本は本当に何回読んでも(読む時期によって染みる部分も毎回異なり)こころがあらわれるような素晴らしい本だなあと思います。死ぬまでに、こんな本を書けたら本望じゃなあなんて思いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、愛知県にわたりました ※※※

 

「ぼくはあのころ、なんにもわかっていなかった!ことばじゃなくて、してくれたことで、あの花を見るべきだった。あの花はぼくをいい香りでつつんでくれたし、ぼくの星を明るくしてくれたんだ。ぼくは、逃げだしたりしちゃいけなかった!あれこれ言うかげには愛情があったことを、見ぬくべきだった。花って、ほんとに矛盾してるんだね!でもぼくはまだ、あまりに子どもで、あの花を愛することができなかった」

 

サン=テグジュペリ星の王子さま』【新潮文庫】 

 

してもらうことを考えると失望が生まれるけれど、してあげられることを考えると希望が生まれる。

この前、ごちゃまぜの家に遊びに来てくれた女性がこんな話を聞かせてくれました。わたしの両親はすでに他界をしていて、実家も売りにだしてしまったので、自分には実家と呼べる場所がありません。実家がないから『ただいまを言える場所』が自分にはないことをたまーにさみしいなあと思うこともあったのですが、ごちゃまぜの家にはじめて来た時、昔暮らしていた実家にすごい似ている感じをうけて、なんだか『ただいまを言える場所』が自分にも与えられたように勝手に思っちゃて、それがすごいうれしいです。

 

この話を聞いたときに、わたしはなんだかじいんとしてしまって「それならもういつでも好きなときに好きなだけ来てください!」と思いました。同時に、自分がやっていることがこんな感じで誰かの役に立つ(?)ことがあるものなのかと、非常に驚いたことを覚えています。その時に、わたしは「誰もが(自分の意図を超えたところで)誰かの役に立っている」ということを思いました。自分や、自分のやっていることの価値なり意義深さを決めるものは、必ずしも自分だけではないということ。逆に言えば、自分では「ダメだ、ダメだ、ダメだ」と思い塞ぎ込んでしまっているときでさえ、思わぬところで「誰かの役に立っている」可能性は常に残されているのだということを静かに思いました。

 

自分がやっていることが誰かの力になれているのだという実感、これは非常にうれしいものなのだなあと思いました。最近思うことは「してもらうことを考えると失望が生まれるけれど、してあげられることを考えると希望が生まれる」ということです。誰かになにかをしてもらいたいと思うと、さみしくなったり、がっかりしたり、みじめになります。慰められることよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを私が求めますように。私たちは与えることで多くを受け、許すことによって許され、ひとのために命をささげることによって本当の命をいただくのですから。そのような祈りの言葉がキリスト教にはあったように記憶をしています。誰かになにかをしてもらうことではなく、ただ、自分にできることを考えはじめたときに、毎回というわけではないけれど「希望の火種」のようなものが胸に宿り、生きようとする力になるのだと思いました。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BdRG42EDVeY/

ごちゃまぜの家より愛を込めて。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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自分が思う誠実さのど真ん中を生きていれば、世界は素晴らしい展開を見せてくれる。

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効率ばかりが人生じゃない。という訳で、福岡から成田空港を経由して横浜に着いた翌日に、新横浜から広島に行くという「福岡から広島にいけばいいじゃねえか!」的な遠回りをして現在は福山駅にいる。いろいろ説明したいことが多すぎて、逆になにも説明できない。おはなを届けるためにこれから神戸に向かおうとしているいま、風邪をひいていて頭が朦朧としている。界隈でおはなを希望される方はお気軽にご連絡ください。

 

連絡先・坂爪圭吾

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keigosakatsume@gmail.com【データ制限中で返信できない場合があります!】

 

新種の自殺行為ということで、行く先々でおはなを配っている。福岡では8本配り、広島では2本配った。12月は時期的に落ちる。油断をしていると孤独感とか虚無感に襲われる。稀に「あれ、呼吸をすることさえ苦しいぞ」とかなることもある。こんな時は結構やばい。みんなは、孤独感や虚無感のようなものに襲われて呼吸をすることさえ苦しくなるなんてことはあるのだろうか。わたしにはある。これはある種の通過儀礼だと思うことにしている。深い孤独に陥るとき、普段だったら「これをやれば元気になれる!」的なことをやってもまったく元気にならない。が、多分、孤独なときというのは『これまでの自分をより深い部分から引き上げてくれる言葉なり行動なりを見つけ出すべき時がおとずれたサイン』なのだと思うことにして、闇の深淵に飲み込まれてしまわないように四苦八苦をしている。

 

ibaya.hatenablog.com

 

言葉を獲得するために動く。

基本、会いたいと連絡をくれた方には(時間の都合がつく限り)会うようにしている。クリスマスは福岡で開催された食事会に呼ばれ、諸々のハプニングを突き抜けた先に「行ってよかった」的な悦楽を得た。広島に来るまでの流れは、広島在住の方から「一緒にお酒を飲みたいという理由だけで坂爪さんを呼んでもいいのですか??」という連絡を25日の夜にいただき、もちろん!と答えて26日の夜には広島県の山間部にいた。なんの説明にもなっていないと思うけど、わたしはそういう生き方をしている。

 

こういう生き方をしていると「さかつめさんはひとが好きなのですね」と言われるけれどちょっと違う。多分、わたしは言葉を獲得するために動いているのだと思う。自分ひとりで考えているだけでは出てくることのなかった言葉が、ひとと話しているなかで出てくることがある。自分で話をしながら「ああ、おれはこんなことを思っていたのだな」と話しながら思い知ることは多い。多分、誰にでもそういう体験はあるのだと思う。自分から出てくる言葉を通じて、自分を知ることができる。目の前にいる誰かと深い部分で会話ができていると思うとき、あなたとわたしの間にある境界線は溶ける。あなたを知ることが自分を知ることになり、自分を知ることがあなたを知ることになる。

 

諸々の予定が終わり次第横浜のごちゃまぜの家に戻る。現在は稲村彰人さんが管理人をしてくれている。稲村彰人さんの素晴らしいところは108個くらいあるのだけれど、そのうちのひとつに「このひととなら会話をできている感を覚えることができる」というものがある。人間の三大欲求は、食欲と睡眠欲と性欲と言われているけれど、最後の性欲は(セックス欲求というよりも)コミュニケーション欲求だと思う。性欲を満たすものはセックスだけではない。誰かと深い部分で会話をすることができている、同じ時間を共有することができていると感じる瞬間の中には、多分、性欲は消えている。逆に言えば、自分は誰ともつながれていないという感覚が性欲となって外側に出てくるのだと思う。私も、特に誰からも呼ばれることがなければ年末は横浜に戻り、そこで年越しをする予定だ。誰かと話をしたいとか、誰かと話をすることで自分をもうちょっと知りたい的な感覚を覚えることがあるかたは、いつでも気軽にごちゃまぜの家まで遊びにきてください。人間はたくさんいるけれど、人間と話しているときに「ああ、自分は人間と話せている」とは思えないことは多い。話をするというのは、簡単なようで非常に難しいことだ。が、決して無理なことではないし、その中には最高のよろこびがある。この家はまだ住所を公開していないので、気になるかたはわたしか稲村彰人さんまでご連絡ください(長い文章だな!読んでいただきほんとうにありがとうございます)。

 

管理人・稲村彰人

[メール]akito.inamura@gmail.com

[LINE ID0reaki10

(その他、Facebookで「稲村彰人」と検索して友達申請していただいた後、Messengerでやり取りするという形でもOKです)

 

わたり文庫『はてしない物語

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、ミヒャエル・エンデ著作『はてしない物語』です。これはもうこの年末年始に時間のある方は全員読め!といいたくなるくらい、素晴らしい作品でした。この本を読んだ時間は決してあなたを裏切らないだろう(そして願わくばこの本に書かれている内容などを、あなたと語り合いたい)なんて思ってしまいました。物語は「虚無が世界を侵食する」ところからはじまる。なんとも現代的な話ではないだろうか、などと思ってしまうわたしは虚無に飲み込まれすぎているのだろうか。エンデの「モモ」もごちゃまぜの家にあるので、年末暇なひとは読書をするためだけでもごちゃまぜの家にお越しください。長くなりましたごめんなさい。こちらの本をご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

「わからない。」アトレーユは口ごもった。

 

「連中はな、人間の頭の中の妄想になるんだ。ほんとは怖れる必要なんかなんにもないのに、不安がっていろんな思いを持つようにさせたり、自分自身をだめにしちまうものなのに、まさにそれを欲しがる欲望を持たせたり、実のところ絶望する理由なんてないのに絶望だと思いこませたりするんだ。」

 

「われわれはみんな、そうなるのだろうか?」アトレーユはぞっとしてたずねた。

 

ミヒャエル・エンデはてしない物語』【岩波少年文庫】 

 

自分が思う誠実さのど真ん中を生きていれば、世界は素晴らしい展開を見せてくれる。

新幹線の中で赤ちゃんが泣き喚いていた。お母さんはどうにか赤ちゃんを泣き止ませるために必死で、周囲の乗客は迷惑そうな顔を浮かべるひともおおく、実際に「うるせえな!」と舌打ちをしているひともいた(自分の隣に座っていた男性がそれだった)。こういう場面に遭遇するといたたまれない気持ちになる。お母さんの大変さはどうすれば軽減するのだろうとか、そういうことを考える。そして「こんな感じのいたたまれなさがあるからこそ、ごちゃまぜの家をはじめたのだった!」なんてことを思い出した。

 

 

生きるために必要なもの、それは安心感だと思っている。だが、安心感にも二種類あるなあと思った。ひとつは「死なないための安心感」。自分がなんらかの事情で住居や仕事や健康を失ったとしても、周囲の誰か【それが行政の場合もある】がきっとなにかをしてくれるはずだ(自分の生活はどうにかなるのだ)と思える安心感。安心して働ける(逆に言えば、安心してカラダを壊すことができる)世の中であること。要するに『どのような状態に置かれても、自分は人間的な生活を営み続けることができる』のだと思える安心感【そのための土壌作り】。それに対して、もうひとつの安心感は「生きたいと思うための安心感」。言い換えるならば「自分が自分であることに対する安心感」だと思う。多分、人間には二種類の欲求がある。ひとつは「自分もあなたと同じ人間である」のだと、周囲の人々と対等に自分も扱われたいのだと願う欲求。もうひとつは「自分が『同じ人間だから』というそれだけの理由で大切に扱われるのではなく、自分が自分である【この世の中に唯一無二の代わりがきかない存在である】というまさに点において、良い部分も悪い部分も全部ひっくるめて対等に扱われたい(ありのままで生きていることを許されたい)」と願う欲求。人間、生きているだけ【死なないでいるだけ】では足りないのだと思う。死なないことではなく、その先にある『生きたいと思うこと』が重要なのだと思う。それも、ひとと同じことができることで「存在することを許される」的な許可ではない、なにかができるとかなにかができないとか、そういうことを飛び越えて「あなたがあなたであることが素晴らしい」のだと思わせてくれる他者からのまさざし、それが重要なのだと思う。

 

 

頭が朦朧としていることを言い訳に、長い、非常にまとまりのない文章になってしまった。私は「二種類のまなざしが必要」だと感じている。ひとつは「あなたがどのような状態に置かれても、あなたの生活は大丈夫だ」と思わせてくれる周囲からのまなざし。もうひとつは「他の誰でもない、あなたはあなたであるからこそ素晴らしいのだ」と思わせてくれる周囲からのまなざし。いまはまだ、この『二種類のまなざし』が希薄だと思う。自分自身、揺らぐことのない自分自身の価値を胸に抱き続けることはまだできていない。平気で揺らぐし、平気で闇に飲まれるし、平気で浮き沈みを繰り返している。ただ、不思議なことに「この二種類のまなざしを世の中に増やすことが多分大事で、自分がその一端を担うことができるのならばうれしい」と思うだけでも、不思議と力が出る。多分、これを「意志の力【言葉の力】」と呼ぶのだと思う。現状を突破するものは意志であり、孤独感や、得体の知れない虚無感に飲まれないために必要なものも『意志』なのだと思う。自分がこれからやろうとしていること、そこに自分なりの「美しさ」を感じることができたのであれば、恐れることはなにもないのだと思う。自分が思う誠実さのど真ん中を生きていれば、きっと、世界は素晴らしい展開を見せてくれるのだと思う。

 

 

 

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自分が思う誠実さのど真ん中を生きていれば、世界は素晴らしい展開を見せてくれる。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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永遠にそのままで行け。

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自分という肉体はひとつだけれど、自分という人格は複数個あるように思う。最近の自分は完全なるおじいちゃんで、縁側に座り日光浴をしていると「これだけでもう充分じゃないか」などと思ったりする。最近まで、1800キロの距離を自転車で移動していたのがウソみたいだ。こどものように落ち着きなくそこらじゅうを駆け回るのが自分ならば、余生を生きるおじいちゃんのような自分もまた、同じように自分なのだと思う。

 

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死ぬこと以外に予定なし。

ごちゃまぜの家に遊びに来てくれたT様に、ランチをご馳走していただく。菊名駅前の老舗の洋食屋さん『サンロード(従業員の方々が完膚なきまでに最高!)』にはいり、T様はオムライスを、私はナポリタンの大盛りを注文する。T様は言う。坂爪さんの文章が個人的にツボで、読んでいるとわたしはなんだかすごい笑っちゃうんです。これはすごいいい意味で言っているのですが、ああ、このひとはバカだなあって思うとうれしくなっちゃうんです。

 

バカだなあと言われたとき、お前に言われたくねえよと露骨にイラっとすることもあれば「あなたに笑ってもらえてわたしはうれしい!」とよろこびに溢れることもある。T様にバカだと言われてよろこびを覚えたわたしは「う、うれしい!」となり、ナポリタンに大量のタバスコをかける。「めちゃめちゃタバスコをかけますね」と突っ込むT様に「生きている実感が欲しくて…」と答える。タンスの角に足の小指をぶつけたときに「痛い!痛い!」って思うと痛みが強化されちゃうけれど、「生きてる!ああ、生きてるぅ!」って思うと痛みが歓喜に転化することってありますよね、的なことを話す。

 

T様が「これから先の予定とかあるのですか?」と問う。私は「死ぬまでひまです。これから先に待っていることは、死ぬことくらいしかありません」と答える。T様は「潔くていいですね!」と笑う。笑ってもらえると嬉しくなる。半分くらいはギャグで言ったつもりだったけれど、冷静に考えてみると「死ぬこと意外に予定なし」というのは意外に本質的だと思った。夢も目標も死ぬまでに成し遂げたいことも(ストックとしては)特にない。私は非常にからっぽである。なにかをやりたいと思うことはあるけれど、毎回、最終的には「やってもやらなくてもどちらでもいい」というポイントに着地をする。

 

人生は夢。

T様がごちゃまぜの家を気に入ってくれた。T様は茶道を嗜んでいる。茶道は禅とも通じるものがあり、過去、T様は禅寺で「無」という掛け軸を見て震えたことがあるのだと話してくれた。私も禅が好きで、老子的な考え方(無用の用)も好きなものだからよろこぶ。しばらくの間ごちゃまぜの家で歓談をして、T様を駅に送る。菊名駅までの道すがら、T様は言う。ごちゃまぜの家で過ごした時間は、うまく言えないのですが、なんだか夢のような感じでした。この街並みの風景も、映画のセットみたいなものなんじゃないのかなって感じます。

 

人生は夢だ。お互いにそのように感じることがあるという話をしながら、駅までを歩いた。別れ際、T様は言う。坂爪さんは、洋服も和服も似合うとは思うのですが、一番似合うのは裸だと思います。槍をもって海に突撃する、みたいな。わたしは「それはうれしいお言葉です」と返事をする。私は、動物を見るたびに「こいつらは全員全裸で偉いな」と頻繁に思う。海に突撃しないでも、裸で蓮華座を組んだり、裸で立っているだけでも、それなりのインパクトはあるのだと思う。素っ裸の似合う男になりたいと思う。

 

ここ最近、ひとつの思いをずっと胸に抱き続けることができなくなっている。自分にはなにもないし、俺はからっぽだなと感じることが頻繁にある。T様から「ごちゃまぜの家を全国各地にもつくりたいとか言っていましたよね」と言われたとき、ごくごく自然な感じで「昔はそんなことも思っていましたねえ…」などと遠い目をしてしまった。過去は過去であり、現在は現在である。人間の気持ちは変わる。先のことはわからない。気持ちは変わることの方が自然であり、変わらない気持ちを抱き続ける【固定する/される】ことには無理があるのではないかとさえ、最近では感じるようになっている。

 

わたり文庫『女は毎月生まれかわる』 

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、高岡英夫・三砂ちづる著作『女は毎月生まれかわる』です。こちらの本は、福岡在住の女性N様から「ごちゃまぜの家には女性の方もたくさんいらっしゃると思うので、この本を是非」とご献本いただいた一冊になります。正直に言うと、私は男性なので女性の生理現象的なものにうとい。ただ、このストレスと死ぬまで共にしなければならないと思っていたものが「実は意外とどうにかなる」道があるのだとしたら、これほど素晴らしいことはないなあと思う。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※

 

皆さんは「月経血コントロール」と聞いたとき、どう思われたでしょうか?「何それ?」「信じられない?」とびっくりされましたか。「まさか」「できるわけない」と首を横にふったでしょうか。それとも「授業中や仕事中に血がモレないかと心配だったので、ぜひやってみたい」と興味をもっていただけましたか。

 

[中略]

 

この「月経血コントロール」は、実はそんなにびっくりするような、あるいは、画期的なものではないのです。いま、95歳以上くらいの日本女性の多くが、自然に行なっていたことです。簡単にひと言でいうなら「月経中は下半身を自分で締めて、月経血をため、一定の時間をおいて腹圧をかけてトイレなどで出す」ということです。下着をつけずに着物を着て、姿勢を正して正座し、しゃがむ姿勢の多かった日本の伝統的な生活の中では、自然にできていたからだの所作なので、あえて言語にされていなかったものです。ことさら言葉にする必要もなく、きちんと伝えられていたのでしょう。 

 

高岡英夫・三砂ちづる『女は毎月生まれかわる』【ビジネス社】

  

永遠にそのままで行け。

この世の中で『善い』とされていることの、果たして何処までが「本当に善い」ことで、果たして何処からが「実は全然善くない」ことなのだろうか。考えてみてもよくわからないことを、それでもなお、性懲りもなく考え続けている自分がいる。どのように生きるのが『善い』ことなのか。正解を求めてみても答えはない。本を読んでもわからない。ひとと話したところで謎は深まる。ただ、ひとつだけ常に感じていることがある。それは「命は生きたがっている」ということで、小さなこどもを見るたびにそのことを思う。

 

私は小さなこどもが好きだ。人間の根源はここにあるように思う。誰だって小さな頃は、無条件に命を爆発させて(無駄に弾んだり、無駄に雄叫びをあげながら)天真爛漫に世界を駆け回っていたのだと思う。世の中で善いとされているから弾むのではなく、世の中で善いとされているから大声をあげて走り回る訳でもない。あくまでも無条件・無目的な行為であり、ただ、そうしたいからそうしている(そうしないではいられない)透明なエネルギーの純粋な爆発。生きようとしているエネルギーを全身にまとい、瞬間瞬間に開ききる命。そのようなものに触れたとき、ああ、最高だなあとわたしは思う。

 

私はまだ、生きることの意味や目的はわからない。ただ、自分が口にする言葉や、自分がやっているものに触れたひとのこころが「よっしゃ、生きてやるぜ」という方向に振れたのであれば、それだけで大成功だなあと思う。誰もが当たり前にできることが自分には無理で、いろいろなことを【今世は無理だなと】諦めた結果が現在の自分である。こんな自分でも生きることができている現状に強い感謝を抱きながら、もしも、社会やみんなが押し付けてくる「こうあるべき」的なものに苦しめられているひとがいたとしたら、そんなことはないぜって言えるほどの逞しさを、自分の存在に宿らせていけたらと思う。

 

 

  

https://www.instagram.com/p/Bcy8O-QDGGU/

このままでいい。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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神様は我々に成功を望まない。ただ、挑戦することだけを望んでいる。

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昔、多分違法だと思うけど新潟市内の海岸沿いにテントを張って暮らしていた時期がある。風呂がないから知人に借りる。夜は防砂林から松の木などを拾い、焚き火を囲む。最初は変態扱いされていたけれど、徐々にひとが集まるようになり、食糧も勝手に集まった。釣りをしたり楽器を弾いたりベリーダンスを披露してもらったりなど、結構賑やかでそれなりに楽しい日々を過ごしていた。わざわざ車で県外から訪れるひともいた。

 

最悪の場合、また、ここでテント生活をすればいいのだと思うことで精神を落ち着かせている。生きていると、いつの間にか『守りの姿勢』みたいなものを覚える。なにも持っていないくせに、失うことを恐れてみたりする。「違うだろ」と自分に突っ込む。持たざるものがなにを恐れる。お前の強みは、もたないものの軽やかさだろう。もたないものの潔さだろう。もたないものの激しさだろう。恐れることはなかろうもん。そういうことを言い聞かせるとき、ああ、その通りだなあと明朗さを取り戻す。

 

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最大の不幸は、自分は必要のない人間だと感じること。

新潟での予定を終え、横浜にあるごちゃまぜの家に戻る。管理人のあきとさんにお願いをして、今月中は、自分(坂爪圭吾)ひとりで管理人をさせてもらうことになった。管理人役を務めながら、家の掃除をして、訪問客がある場合は対応をさせていただき、なにもなければ生まれて初めての執筆活動に専念をする。過去に家のない生活を2年間程度していた。2018年を迎える前に、過去の自分が経験してきたことを(別に出版の予定もなにもないけれど)一回文章にまとめてみたい気持ちがある。

 

この世の中で最大の不幸は、多分、金がないことでも家がないことでも仕事がないことでもない。それは「自分は誰にも必要とされていないと感じること」だと思う。飢えているのは、なにも貧しい国の人々だけではない。マザーテレサは言う。この世界は食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです。導いてくれるひとを待っていてはいけません。あなたが人々を導いていくのです。所有すればするほど、とらわれてしまうのです。より少なく所有すれば、より自由でいられます。もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人を愛していないからではなく、あなたが、そして私が、与えなかったからです。

 

自分がマザーテレサのような慈悲深さを持っているとは思わない。それでも、自分なりにできることをやろうと思ってはじめた活動が「ごちゃまぜの家」になる。自分に愛があるのかどうかはわからない。ただの独善的な思いかもしれない。それでも、自分には「熱」があることを感じている。昔、家も金も仕事もいろいろなものを同時にうしなったとき、まだ、自分には体温が残されていると感じたことがある。それならば、この熱を、この体温を、なにかに繋げていくことができたならいいなあと思う。ごちゃまぜの家は常に開放をされているのですが、住所を公開していないために、興味のある方は坂爪圭吾まで直接ご連絡ください。

 

連絡先・坂爪圭吾

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神様は我々に成功を望まない。ただ、挑戦することだけを望んでいる。

生きるために必要なもの、それは金でも勇気でも名誉でもなければ特別な才能でもない、安心感だと思う。失敗しても良いという安心感、自分は護られているのだという安心感、ダメな時は元気が出るまでゆっくりしていればいいのだという安心感があれば、多分、人間は何度でもやり直せる。ごちゃまぜの家は、あらゆるものが完備されている完全無欠の最強空間というわけではまったくない。が、ごちゃまぜの家【最悪の場合はここに行けばどうにかなる的な場所】があるということが、少しだけでも、自分の人生を大胆に生きることができる一助になったら素敵だなあと思う。

 

極論、どれだけ社会福祉的なシェルターが増えたとて、究極の安心感とは「外部環境に左右をされるものではなく、自分の内側に(己の力で)築き上げていくもの」なのだと思う。新潟市内の海岸沿いを歩きながら、私は「最悪の場合はここに戻ろう」という僅かながらの安心感を取り戻した。これは、多分、自分が海辺にテントを張って暮らすという実際の体験があったからこそ、どうにかこうにか覚えることのできた安心感なのだと思う。安心感とは、きっと、誰かに用意をしてもらうものではない。自分の体験を通じて、自分の中に築き上げていくものなのだと思う。

 

周囲の人間にできることは、そのひとが自分の力で歩き出すためのサポートまでだ。実際に大地を踏みしめるものは、ほかの誰でもない、そのひと自身の両足になる。マザーテレサは言う。神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ、と。なにかに挑戦をしている人間は、それだけである種の熱を帯びる。その熱は周囲に伝染をして、生きる力を引き出し合う。なにかをすれば、なにかを学ぶ。意外とどうにかなることを掴む。うまくいくとかうまくいかないとか、そんなことよりも大切なこと。それは「自分は生きているのだ」という手応えであり、ひとつひとつのその手応えが、やがて、生きていくうえでの安心感【生きる力】を醸成するのだと思う。

 

 

 

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神様は我々に成功を望まない。ただ、挑戦することだけを望んでいる。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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まずは自分を殺せ。

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家の中でじっと座って考える時と、屋外を歩きながら考える時と、考えている内容も質も明らかに異なることを感じる。わたしの場合、長い間屋内で考え事をしていると「なにかが停滞していく」感覚を覚える。歩きながら考えると、風が吹き抜けるからなのだろうか、余分なものが削ぎ落とされる。思考がクリアになる。じっくりと腰を据えて考えたいこともあるので、明日から、新潟に向けて徒歩で移動をしてみることになった。

 

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先日、働く無職をテーマに音声配信をおこなった。この中で、無職とは「お金では動けなくなったひとたち」のことなのではないだろうかと思った。歩きながら考えたい内容とは、その続きになる。わたしは思う。ひとは「死にたくない」と思う。死なないために(時には嫌なことを嫌々やりながらでも)生活費を稼ぐ。が、同時に「現代人は、生き延びるためだけに生きることに疲れている」とも感じることがある。誤解を恐れずに言うと、死なないために生きるのではなく「これのためなら命を捨てても構わない」と思えるものを必要としているのではないだろうか。

 

 

 

 

死ぬことはいつでもできる。肝心なことは、生きることだ。

昔から「いい大学にはいり、いい企業に就職する」的なレールに違和感があった。経済的な安定と精神的な安定が、必ずしもイコールになるとは思えなかった。そして、誤解を恐れずに言うと「自分が有利になることしか考えられない人間を量産することになる」と思っていた。しかし、当時の自分は(現在もだけど)別にたいした影響力も発言力もある訳ではないので、まあ、自分は自分が思うような人生を送ろうと思って生きてきた。

 

いま、周囲を見渡してみる。もしかしたら自分と似たような気持ちを抱いているひとは、少なからずいるのではないだろうかと思うようになった。資格を取るとか、手に職を持つとか、英語を話せるようになるとか、学歴がとか、多拠点生活がとか、複数の収入源がとか、巷では「こうすれば有利に豊かに楽しく暮らせますよ」的な情報は溢れている。これらの情報は、結局、いい大学にはいる的なアレと同じことだと思う。自分が有利になることを最上の価値としている限り、幸せを感じることは難しいのではないだろうかと思う。

 

なぜそう思うのか。それは「自分というものにとらわれてしまうから」だと思う。有利な道を進むほど、得になる道を進むほど、自分というものにとらわれていく【他者から切り離されていく】。自分さえよければそれでいいという思考は、短期的には充足感やある種の優越感を与えるかもしれないけれど、多分、最終的には「周囲から切り離された痛み」を与える。なにかを得ると守りたくなる。得た瞬間から、失う不安や恐怖がはじまる。そして、失うことを恐れるあまりに「がっちりそれをホールドする」的な心理状態になり、両手は埋まり、新しいなにかを掴むことができなくなる【この世界に散らばる無数の宝物を受け取る機会を失っていく(ように思う)】。

 

自分というものをどこまでなくせるだろうか。

自分自身にとらわれない方法は、多分、複数個ある。大自然の中を歩くときなど、誰にだって「自然と溶け合って一体になる」的な感覚を覚えることがある。この瞬間、自分というものは溶け出している。その瞬間の中によろこびがあり、その瞬間のなかに自由がある。これは『自分が消えるパターン』だと思う。そしてもう一種類、自分が消えるパターンに対して『自分を超えるパターン』もあると思う。それはどのようなことか。

 

私利私欲を捨てよという言葉がある。世のためひとのために生きることは素晴らしいとする価値観だ。清貧の思想と近いのかもしれない。清く、貧しく、美しく。そのように生きることができる人間は素晴らしい。人間の鑑である。が、多くの人々にとって清貧を維持することは(多分)難しい。頑張っても「清く、『豊かに』、美しく」くらいには言い換えないと誰も聞く耳を持たないだろう。ということで、そこで登場するのが『自分を超えるパターン』になる。

 

欲望を完全に捨て去ることは難しい。自我を完全に捨て去ることも難しい。それならば、自分だけの幸せを願うようなチャチな状態を蹴飛ばして、『小欲よりも大欲』を胸に抱き、『小我よりも大我』のど真ん中を生きるといった感じで、大袈裟な言葉で言えば「自分を通じて人類全体の幸福も同時に実現できてしまうような生き方をする」ということ。ちっぽけな自分【独立している自分】を生きるのではなく、おおきい自分【人類全体としての自分】を生きるということ。それが、ここで言うところの『自分を超えるパターン』ということになる。

 

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わたり文庫『リヤカー引いて世界の果てまで』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、吉田正仁著作『リヤカー引いて世界の果てまで 地球一周4万キロ、時速5キロのひとり旅』です。これだけの距離を実際に歩き通したひとの話を聞くと、自分がこれからやろうとしていることは小学生の夏休みの自由研究レベルだなと、非常に爽やかな敗北感(?)を抱くことができます。私の場合、頭で考えただけの話よりも「実際にやったひとの話」が好きなのだなと再認識しました。頑張れと言われるよりも、実際に頑張っているひとを目の当たりにする方が五億倍励まされる。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

ダメな自分と決別すべく、愛車(リヤカー)とともに旅に出た。ブルガリアで凍傷による指切断の危機に直面し、東ティモールでは警官からケツバットを食らい、カナダでは熊と一戦交え・・・波乱万丈の、遅々として終わりなき旅。「遅ければ遅いほどいい」とリヤカーを引いて歩き続けることにこだわった著者が見た、時速5キロの旅の絶景。

 

吉田正仁『リヤカー引いて世界の果てまで』【幻冬舎文庫

 

歩きながら、考えよう。

明日には横浜を出て、一旦東京に向かう。それからひたすら北上をして、特段何も予定がはいらなければ、福島界隈から左折をする【新潟に向かう】。道中、一緒に歩きたいと思ってくださる方がいれば、どなた様でもお気軽にご連絡ください。話し相手ができることは貴重です。道中、誰かと話をすることで「自分ひとりでは出てこなかった言葉」に出会うこともあります。宿もなにも決めていないので、もしもなにかあればお気軽にご連絡ください(毎日歩いては休み、歩いては休みを繰り返して、最終的には漫画喫茶で横になる流れになるのだと思います)。

 

歩きながら自分はなにを思うのだろうか。歩き出す前の自分は「つまらない私利私欲にとらわれるのではなく、どうせならでかいことを考えろ」ということを思っている。ちっぽけな私利私欲にとらわれるから、苦しみと呼ばれているものが生まれるのだろう。どうせ抱くなら「小欲より大欲」「小我より大我」ということで、自分をどれだけなくすことができるのだろう【自分をどれだけ乗り越えることができるのだろう】ということを思いながら、新潟までの道を歩く。

 

実はもうひとつだけ猛烈に考えたいことがあるのだけれど、それはまだまったくまとまっていない。最近の自分に感じていることは「まずは自分を殺せ」ということで、ちっぽけな自分にとらわれそうになるときこそ、つまらない自分を蹴飛ばしてやれと思う。寒い、寒い、などと愚痴を言っていつまでも家にいるようでは、精神も肉体も醜悪になる。なにもすることがないときほど、体力と精神力の培養に励もう。歩きながら体力も培い、思考もまとまり、なんだったら「道中で出会う方々と最高の時間を過ごす」なんてことができたのならば、もう、ほかになにも言うことはないなあと思う。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BcZa86wD5Ty/

本当に大事なことは、先延ばしにしないで、いまやらなくちゃいけない。


 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。

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銀河系の施しを受けて横浜【ごちゃまぜの家】に戻る。広島で死にかけていたのが嘘みたいだ。22日間の自転車移動の中で、本当に様々な方々から恩恵を受けた。次は自分が返す番だ。これからしばらくはごちゃまぜの家にいる。家は24時間開放をしているので、興味のある方はお気軽にご連絡ください。ごちゃまぜの家とは何か。以下のリンク先をご覧いただけましたら、ちょっとくらいはわかっていただけるのかなあと思います。

 

 

自転車移動の日々の中でいろいろなことを感じた。自分のためだけに生きるのは虚しい。そんな風に感じることもあれば、誰かのために生きることにも限界があるとも感じる。いい仕事をした1日とは、多分、誰かと心を通わせることができた1日のことだ。金も名誉も命もいらない。そういう人間は最高だなと思う。愚かでもいい。あいつはアホだと後ろ指をさされても気にすることはない。金では動かない人間を動かすことができるもの、多分、それが『心』になるのだと思う。

 

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死なないために生きている訳じゃない。

昔から「自分がやっていることが(たとえ経済的な価値を生まなくとも)未来にとって必要なものであれば、なにかしらの形で自分は生かされるだろう。しかし、自分がやっていることが誰にとっても必要のないものであれば、その時は、自分は野垂れ死ぬのだろう」と思っている。あとはもう、自分【自分のセンス】に賭けるしかない。ダメならダメで仕方ない。その時は潔く死のう。しかし、別に死にたいと思っている訳ではないので、これからも(手を替え品を替え)やっていきたいと思う。

 

おかげさまでごちゃまぜの家も存続できている。いつまで続くかはわからない。久しぶりにごちゃまぜの家に戻ると、様々な差し入れが届いていて驚いた。未開封のダンボール箱を開けたらホッカイロが180個はいっていて「なんじゃこりゃ!」と震えた。台所には大量の果物と野菜が置かれている。私と、管理人の稲村彰人は料理ができない(正確には「怠惰ゆえに料理をさぼる」)。だから、誰か料理ができるひとに(台所にあるものは自由に使ってくれて構わないから)料理をしてもらえたらうれしいなあと思う。

 

正月も、実家に帰りたくないとか、そもそもで実家がないという方々はごちゃまぜの家に来たらいいと思う。私と一緒にビリーズブートキャンプをやるもよし、誰かと話すもよし、話さないもよし、料理をするのも読書をするのも昼寝をするのも縁側でひなたぼっこをするのもよし、みんな好きにしたらいいのだと思う(稀に、坂爪圭吾が説教をすることがあります)。管理人の連絡先は以下になります。興味のある方は稲村彰人さんか、坂爪圭吾まで直接ご連絡ください(昨日、奇跡的にぶっ壊れていたスマホが蘇生しました!!)。

 

管理人・稲村彰人(いなむらあきと)

[メール]akito.inamura@gmail.com
[LINE ID]0reaki10

 

わたり文庫「ロックンロールバイブル」

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、アーサーホーランド著作『ロックンロールバイブル』です。こちらの本は、札幌で死ぬほどお世話になっている女性S様がおすすめをしてくれた一冊になります。アーサーホーランドさんのサイン入りになります。素晴らしい本です。S様も非常に素晴らしい女性で、素晴らしい人柄に触れると「まだまだ生きていけそうだ!」という晴れやかな気持ちになります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

できた人ではなく、できない奴でいい。

格好いい人ではなく、格好悪い奴でもいいのだ。

常識をわきまえた人ではなく、わきまえないだらしない奴で結構なのである。

 

THE BIBLEには「大いなる方は愚かな者を通して知恵あるものをいましめる」とある。

賢いと思われている人が世を変えるのではない。

愚かさを認めている奴を通して世は変えられるのだ。

 

常識的な人間ではなく、愚か者と思われる人を通して

見たことのないことあ起きるのである。

世間受けする人が世間に影響を与えるのではない。

世間から捨てられたどうしようもない愚か者が世間に慰めと癒しを与えるのである。

 

アーサーホーランド『ロックンロールバイブル』【小学館スクウェア

 

崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。

横浜は快晴。縁側に座る。珈琲を飲む。日光浴をしながら読書をする。なんだかもう、これだけで充分なんじゃないだろうかという気持ちになる。わたしには夢や目標と呼べるものがまったくない。生きているだけで充分だと思ってしまう。それ以外はおまけみたいなものであり、あったらあったでいいものなのかもしれないけれど、なければないでどうにかなるものだと思う。この瞬間は余生であり、残された日々はボーナスタイムみたいなものだと思う。

 

ただ、同時に「自分はこれからなにか大きなことに着手をすることになりそうだ」という予感もある。根拠はない。ただ、静かな予感だけがある。執着と呼ばれているものがある。執着を手放すと楽になるということは、あちらこちらで言われている。多分、最大の執着は「生きていることに対する執着」と「自分自身に対する執着」の二つだと思う。命を惜しむ気持ちが薄まれば、自分を守ろうとする気持ちが薄まれば、もしかすると、この世の中に恐れることなどなにもないのかもしれない。

 

崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。「有利か不利か」とか「損か得か」とか、多分、大事なことはそういうことではないのだと思う。自分のこころが『美しい』と感じる道を選ぶこと。守るべきは世間的な評価などではない自分自身【魂】の純度だと思う。周りはどうあれば自分だけは、気高さを感じる道を選ぶこと。なにか新しいことをはじめるときに、必要になるものは「崇高な精神」だけだと思う。それ以外は、きっと、あとから全部ついてくる。そこに一筋の光を見たのであれば、もう、心配をすることなどなにもないのだと思う。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BcT3nITjg4M/

崇高な道を選べば、必要なものは与えられる。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu  

 

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俺たちはどこまで行けるのだろう。

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金輪島のイベントを終えて広島駅界隈にいる。金輪島のイベントでは、30名を超える参加者ひとりひとりと10分間の面談をする、的な時間が設けられた。「これは死ねる!」と思い、みっつに救済を求めた。多分、みっつがいなければ今頃死んでいたと思う。主催者の方が用意してくれた交通費を、みっつに浄財した。「お年玉だよ」などと格好をつけたが、いまいち決定打に欠けた。いまごろみっつは何をしているのだろうか。わたしはこれからどうするつもりなのだろうか。

 

www.mitz3.com

 

スマホが壊れた(見ることはできるけれど返信ができない)。この数日間の移動で色々なものが壊れた。服や靴やパソコンや自転車の鍵も壊れた(背中に大きな傷もできた)。22日間の自転車移動を終えて「これは32歳のすることじゃないな」と思った。日本一周とかそういうことは、多分、20代のうちに済ませるものだ。自転車を漕ぎ続ければ体力もつくものだと思っていたが、逆で、疲労は蓄積をした。そして、いま、見事に身動きがとれなくなった(多分、問題は金じゃない。根元は「精神性の問題」だと思う)。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BcMRSmrD0n9/

金輪島へ。

 

 

おはなを配りながら「これは新手の自殺だな」と思う。

訪れる先々で花を配っていた。花を配りながら「これは新手の自殺だな」とか考えていた。自分の動きを見ていると、俺は生きたいのか死にたいのかがよくわからなくなる。花を配れば配るほどに所持金は減る。死に近づく。でも配る。半ばやけくそになっている時もある。なにかが行き過ぎた時などは「俺を殺してくれ」とか思いながら花を配ることもある(が、心の底から『花を配っていて本当によかった』と感じる瞬間もある)。

 

昨日、みっつとラーメンを食べながら「俺たちはクソだね」という話をした。多分、私たちは飲食店等で8時間働く代わりに1万円をあげると言われても「できません」と答える。3時間働く代わりに1万円と言われても「できません」と答える。それをするくらいなら道端で野垂れ死ぬ方を選びますとか、割と、本気で答えてしまうタイプの人間だ。しかし、大好きなひとが営むお店がピンチで「1日手伝ってくれたら死ぬほど助かる!」などと言われた場合は、無給だろうがなんだろうが喜びとともに馳せ参じるのだろう。この差はなんだ。そういう感じの話をした。

 

自分が何かしらのサービスを提供して、受け取った対価で生活をしているひとをみると「まじですごい!」と心底思う。自分にはそれができない。自分がやることに対して、一定の対価を要求することができない。多分、労働が苦手なのだと思う。が、労働が苦手なんて言っていると「そんなんじゃ生きていけないよ」的なことを言われる。が、そんなんじゃ生きていけないよと言われてしまうと「そうまでしなくちゃ生きていけないのならば、生きていたいとは思いません」とか思ってしまう程度には、自分たちはクソなんだねと話をした。

 

 

https://www.instagram.com/p/BcJQvseD2v4/

西へ。

 

  

「ただ聞く」ことの難しさと、「ただ聞いてもらう」ことの得難さ。

ひとの話を聞くということは、死ぬほど簡単なように見えて、多分、死ぬほど難しい。多くの場合、相手が話している途中で余計なアドバイスや自分の意見を挟む。が、みっつはそれをしない。ただ、ただ、話を聞いてくれる。それが嬉しい。だからわたしはみっつに話をしてしまう。普段は話すことのない愚痴や弱音も話しまくる。そして、話し終えたあとには非常に爽快になり、よし、これからも生きよう的な元気を取り戻す。

 

ー 聞き手が不足している。

 

30名の方々と連続面談をしながら「聞き手が不足しているのだな」ということを思った。誰もが話したいことを抱えている。が、聞き手がいない。自分がその一助を担えたら、とは思ったけれど完膚なきまでに無力だった。ヘビーな話を連続して聞いていると、首から肘にかけて徐々に重みを感じるようになり、最終的にくたばった。自分はもっと「受け流す」ということを覚えないといけない。相手のエネルギーのようなものをまっすぐに受け取ってしまう(引っ張られてしまう)自分は、かなりの未熟者だと反省をした。

 

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俺たちはどこまで行けるのだろう。

わたしはみっつを生かしたいと思う。たとえ世間的にはあれだこれだと言われようが、わたしにとってみっつの存在は救いなので、なにかしらみっつが苦境に陥った時は「なんとかせねば!」的なことを思う。生かしたいと思うひとがいる限り、多分、そのひとは死なない。逆に言えば、誰も自分のことを生かしたいと思うひとがいなくなったとき、それが自分の散り時なのかなと思う(最近、生きることに対する執着が徐々に薄れてきているように思う)。

 

うまく文章を綴ることができない。疲労があれなのだろうか。手足が痺れる。背中が痛い。銭湯に向かう。今夜は漫画喫茶で眠るのだろうか。明日は行けるところまで自転車で行こう。鞄の中には金輪島でもらったアーモンドがある。どのような状態に置かれたとしても、忘れちゃいけないのはユーモアだよなとか自分に言い聞かせる。笑う道を選ぶのか。泣く道を選ぶのか。泣くのはダサい。できることならば、笑う道を選びたいと思う。笑うためには余裕が必要。余裕がなくなると精神が乾く。精神が乾くと魂が腐る(ような気がする)。

 

魂を腐らせてはいけないのだと思う。これもひとつの試練みたいなものだと思えば、ふんがとやる気も少しは湧き出す。雑な生き方には、雑な精神が宿る。雑な精神に負けてはいけないのだと思う。一匹の動物であることの勇ましさ、品格、野性味を忘れてはいけないのだと思う。高潔さを守ることが難しいときは、高潔さを感じる人物を思い出すことが力になる。闇【雑な精神】に呑まれてはいけない。生きる力とは、要するに「闇の中でも光を見ること」なのだと思う。口にするのは簡単だ。大切なことは、多分、生き様に言葉を宿らせることなのだと思う。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BcJ2cPrDSt4/

水面に雲。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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横を見るな。縦を見ろ。

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広島県福山市を経由して、三原市の民宿にいる。瀬戸内海は綺麗だ。自転車を走らせていると、忘れたい思い出が記憶の底から蘇り「あああああああああああああああ!!」となることがある。感情のアップダウンは定期的に訪れるが、これもある種の浄化体験(?)だと決め込むことにする。生きていると濁る。自分の未熟さが浮き彫りになる。多分、幸福は全体感で、不幸は分離感だと思う。「俺が、俺が」となるほどに、幸福【全体性】から離れていく感覚を覚える。

 

孤独やさみしさに捕まることがある。いまもそうだ。正確には「さっきまでそうだった」。ぬくもりを求めたり、ふれあいを求めたり、愛されることを求めたりする。自分がやっていることを疑うこともある。こんなことをしてなにになるのかとか、意味はあるのか、価値はあるのか、最悪の場合は「こんな自分はいない方がいいのではないだろうか」とか。どれもこれも「俺の」さみしさであり、「俺の」孤独であり、「俺が」生きていることの意味であり、『俺が、俺が【俺の、俺の】』に捕まってしまっている時の思考の癖だ。

 

風になれ。

自分の役割を決めるものは、自分だと思っていた。が、どうやら違うみたいだ。私はおはなを配る。そして移動をする。その場にとどまることはない。時折、流れ着いたさきで「おれはなにをやっているのだろう」などと思ったりする。が、あとから「坂爪さんからおはなをもらったように、今日、あるひとに花をあげたらすごいよろこんでもらえました。なんだかそのことをすごい伝えたくなりました!!」という連絡をもらうことがある。

 

風になりたいと思う。風が吹く。タネが飛ぶ。周囲に何かしらの実りをもたらす。もしかしたら、風にも「俺はなにをやっているのだろう」なんて思う瞬間はあるのかもしれない。が、風がなければタネが飛ぶこともなかった。風は、風の知らないところで、何かの役に立っている。ひとりの人間が生きているということも、多分、同じようなことなのだと思う。

 

出会う人から見たら、わたしは只の流れ者に過ぎない。が、自分が生きているということが、ほかの誰かにとって「こころに風が吹き抜ける【たとえ一時的なものだとしても、こころがふわっと軽くなる】」ような、そういう効果を生み出せたならうれしい。これは、多分、狙って生み出すような効果ではない。あくまでも結果的なことであり、副産物にすぎない。もちろん、風はタネを飛ばすために吹く訳ではない。あくまでも「結果として」タネを飛ばすこともあるというだけの話で、風は、ただ風であるだけに過ぎない。

 

横を見るな。縦を見ろ。

西郷隆盛の言葉に「人を相手にせず、天を相手にせよ」というものがある。人を咎めるようなことをせず、自分が出来る限りの真心を尽くすこと。問題を感じることがあったとしても、環境【他人】の責任にするのではなく、自分の誠の至らなさを知ること。他人から認められるとか、他人からどう見られるとか、一般的な常識や世間体に合わせた生き方をするのではない、天【自分】に恥じない生き方をするということ。

 

さみしい時、孤独を覚える時、私は「横を見るな、縦を見ろ」と自分に言い聞かせることがある。人との繋がりが横ならば、天との繋がりは縦になる。誰かに自分のさみしさをどうにかしてもらおうと思うな。誰かに自分の孤独をどうにかしてもらおうと思うな。人との繋がりを求めるのではなく、天との繋がりを思い出せ。横を見るな。縦を見ろ。天は、どのような状態に置かれていても、常にお前を見ている。そのことを忘れてはいけない。

 

横の繋がりを求めるほどに、さみしさや孤独は際立っていく。しかし、横ではなくて縦を見るとき、人との繋がりではなく『天との繋がり』を意識するとき、さみしさや孤独の感覚が薄らいでいることを感じる。自分の中心に、一本の幹が通る。天地万物一体。多分、すべては繋がっている。そして思う。自分にはこの肉体とこの精神しかないのだから、それならば、これを生かしてやりたいと思う。自分の命をまっとうすることが、結果として誰かの力になることがある。そのようなことを、時折、祈るように思うことがある。

 

 

 

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虹と夕日。

 

 

人生は続く。

 

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やるかやらないかをお金で決めてはいけない。

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諸事情が爆発をして、なう、愛媛県松山市にあるジョイフルにいる。昨日、福岡県は小倉駅にて所持金が尽きて「終わったな」と思った。が、銀河系の施しにより生き延び、小倉港を発つフェリーの中で眠ることができた。目を覚ましたら愛媛にいた。今夜は今治を目指す。目的地の広島駅は近い。明日以降の予定はない。多分、尾道香川県に行く。

 

 

三森さんが非常に良いことを言っていた。三人兄弟の末っ子として生まれたわたしは、幼少時代から兄弟の所有物【本や服やCD】を勝手にぱくって見たり着たり聴いたりしては殴られてきたので、ぱくることに対する抵抗は薄い。12月3日に広島でイベントがある。これに三森さんも来てくれたらうれしいな(誰か三森さんを召喚してくれないかな)と思う。三森さんは素晴らしい人間だ。私は、彼ほどの聞き上手な人間を見たことがない。

 

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🌹🌹🌹 三森さんとの奇跡的な邂逅はこちらです 🌹🌹🌹

 

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運動に呼吸をあわせるのではなく、運動を呼吸にあわせる。 

先日、佐賀県でシステマというロシアの武術を習っている方と話した。過去にボクシングの国体で入賞を果たしたこともある男性で、ロシアのヒョードル選手を尊敬していると話す。システマは世界最強の武術とも言われていて、その特徴は『呼吸法』にある。坂爪さんも、自転車を漕ぎながら呼吸を意識してみるといいですよとのご教示をもらった。早速、自転車を漕ぎながら呼吸を意識してみたところ、いくつかの発見があった。

 

最大の発見は「運動に呼吸をあわせるのではなく、運動を呼吸にあわせる」ということ。登り坂を走るときなど、これまでは「うおー!」とか叫びながら必死にペダルを漕ぎ、呼吸も乱れがちになることが常だった。が、どのような状態に置かれたとしても常に呼吸を一定に保ち、呼吸にあわせて足を動かす。そのことにより、以前よりも疲労感なく坂道を登れる。瞑想効果も高い。持久力を維持するのにも役立っている(ような気がする)。

 

ペダルは足で漕ぐものではない。全身で漕ぐものだということを学んだ。多分、これはすべての動きに言えるのだと思う。システマの極意は「呼吸」「姿勢」「脱力」「動き続けること」の四つ。過去に、ベルギーで出逢ったプロのダンサーが「人間のパフォーマンスが最大限に発揮されるのは、リラックスをしている時だ」と話していたことを思い出した。肩の力を抜くことは、人生の極意なのかもしれない。システマ【呼吸法】については、このあたりの記事が参考になるかもしれない。

 

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怠け者には強制チェックアウトを。

自転車を走らせながら、どうしようもない田舎道にあるコンビニに立ち寄って飲み物を買い、日光を全身に浴びながら広い駐車場で横になり「あああああああ」とかなっている瞬間が好きだ。今回、私は「連泊をしない」というルールを設けた。長居をすると執着が生まれる。逆に言えば、常に移動を続けることで「執着を置いてくる」ことができる。

 

私の本質は怠惰なので、常に家にいるとYOUTUBEとかばかりを見てしまう。結果「クソみたいな時間を過ごしてしまった」と自分を責めることになりかねないので、現状、連泊禁止のルール【強制チェックアウト】は功を奏している。家があるからダメになる。家を出たら、なにかをしないではいられなくなる。なにかをしているうちに、多くの場合はなにかに出会う。それが新しい展開を運んでくる。その繰り返しの日々だ。

 

ひきこもりの息子を抱えているひとは、自転車を与えて「これでどっか行ってこい」と強制チェックアウトを申告すればいいのだと思う。多分、息子は強くなって帰ってくるだろう。花には水を。怠け者には強制チェックアウトを。自転車移動を三週間程度続けて得た最高の教訓、それは「行けばどうにかなる」ということだった。特別な準備も用意も経験もなにもなくても、多分、行けばどうにかなる。(もちろんそれなりに面倒くさいこともあるけれど)体を動かすことはよろこびを伴う。そのことを実感する日々だ。

 

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やるかやらないかをお金で決めてはいけない。

移動を続けながら現地の人々と会う。私は自身の連絡先とスケジュールをWEB上に公開している。稀に「会いたい」と連絡をいただくことがある。連絡が届くことは嬉しい。都合がつく限り会うようにしている。そのすべてに応えることはできていないけれど(返信できていないみなさまごめんなさい!)、坂爪圭吾という得体の知れない人間に連絡をくれるひとの勇気をすごいなと思う。

 

自分の思いを全力でぶつけてきてくれるひとには、こちらも全力でこたえたいと思う。一対一で話すことが理想だ。友達を引き連れて来るひととは、経験上、深い話をすることはできない。ひとと話をするとき、私は「(レスリングのポーズをとっているような感覚で)かかってこいや」とか思いながら話を聞いている。表面的な言葉、場を盛り上げるための営み、何かをごまかしているような発言を見ると「それは要らない」と思う。話したいことを話せ(話したいことがないときは、無理をしてまで話をするな)と思う。

 

そんなこんなで愛媛県にいる。これからどうなるのだろう。みんながまだ眠っているであろう時間帯に自転車を走らせていると「ああ、いまの時間帯に外を走っているのは世界で自分くらいだろう」などと100パーセント勘違いの幻想に酔える。人生は夢だ。この瞬間は幻想だ。これはお釈迦様も言っている(真意はまったく異なるのかもしれない)。万物は流転する。身も心も無常である。それならば、身を縛るだけのこだわり【しきたり】は捨ててしまおう。愚かでもいい、愚かなら愚かなほどいいのかもしれない、自分を酔わせることができるくらいの夢を見ていたいのだと思う。

 

 

 

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おはよう日本。。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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自分を開けば人間は死なない。

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佐賀県武雄温泉から長崎県小浜温泉に移動をする。道中、諸事情で靴下を「しゃらくしゃー!」と投げて捨ててしまい、現在は裸足で自転車を漕いでいる。どうにかなるだろうと思っていたけれど、ふんが、どうにかなってはいるのだけれど足先が冷える。九州の冬を舐めていた。普通に寒い。寒いというか痛い。足が凍る。靴下を買うか逡巡し続けたものの、極真空手の開祖でおなじみ大山倍達さん曰く「裸足で過ごせば毎日が修行になる」との言葉を思い出して(あとはエコノミックな理由で)、まだ、靴下を買わないでいる。

 

道中で出会う方々が優しすぎて涙が出る。長崎は坂が多い。雲仙市にはいり「これは無理だ!」と自転車を押していたわたしに、さだまさしさん激似のおじさまが声をかけてくれた。どこにいくのですか。小浜温泉に向かっています。あら、すごいね、どこから来たの。東京です(どや)。東京!すごいねー!この先は上り坂が続くよ。そうみたいですね。道はわかるの。多分、大丈夫だと思います。気をつけてね。はい。ありがとうございます。

 

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神の末裔と握手をする。

一旦おじさまと別れて、引き続き自転車を押す。渡り鳥の群れを眺めながら「お前たちは集団行動ができて偉いなあ」とかなんとか思っていたら、後方から白い軽自動車がブブブブーンと走ってくる。さきほどのおじさまが乗っている。仕草で「乗れ」と言う。自転車を折りたたみ車に乗る。おじさまは言う。やっぱり自転車は大変でしょ。この先は上り坂が続くから、下り坂になるところまで送るよ。死ぬほど柔和なおじさまの瞳は、死ぬほど輝いていた。

 

途中まで、という約束だったのに小浜温泉まで護送してもらった。道中、橘神社という軍神・橘周太を祀る場所まで連行をしていただく。ギネス公認の巨大な門松が新年に飾られることで有名な神社だ。おじさまは長崎の歴史を交えながらものすごい量の話をしてくれる。わたしは「勉強になります」とこうべを垂れる。おじさまは言う。私と出会ったおかげで今日は余計に勉強になりましたね。よかったね。あはははは。この瞬間の瞳の輝きは瞬間最大風速を記録していた。嫌味がない。屈託がない。こどもみたいな表情で笑う。

 

橘神社では、年末年始に向けた巨大門松制作をしていた。作業員の親分的【ウルグアイ元大統領ムヒカさんに激似。瞳の輝きが尋常ではない】おじちゃんが近寄ってくる。お兄ちゃんどこからきたの。東京です(どや)。すごいねえ。この神社もすごいんだぞ。巨大門松はギネス記録だ。門松は俺(たちの仕事)だ。登録するのに60万もってかれた。大事な竹だ。佐賀の嬉野から運ぶんだ。車の中に門松の写真がある。写真を見ろ。あそこに橘さんの子孫もいる。あの橘(橘周太)さんの子孫だぞ。紹介する。握手をしろ。ここにいる全員と握手をしろ。お前の自転車を見せてやれ。明日はどこに行くんだ。明日も来い。誰かといるなら一緒に来い。昼に来ればメシもあるよ。がはははは。

 

心を開く。

小浜温泉に到着する。さだまさし様と別れる。時間があったので、喫茶店に立ち寄る。お客さんは誰もいない。珈琲を頼む。店主のおじさまが話しかけてくださる。その瞳を見て驚く。澄み渡り具合が半端ない。長崎はなんなのだろうかと思いきり好きになった。いろいろと話を聞かせてくれた後に、おじさまはご自慢のピザをご馳走してくれた(!)後にクラシックギター生演奏を三曲披露してくれる。スペインの音楽だ。異国情緒と哀愁が漂う。宿のチェックイン時刻が近づいていたので、後ろ髪を引かれる思いで店を出る。店主さんは「また来てね」と言う。

 

小浜温泉の宿は、心ある方が「宿をおとりしますよ」と手配をしてださった。素晴らしすぎる宿に身悶えする。温泉にはいる。佐賀から定期的に来ていると言うひとが話す。ここの温泉は日本一だよ。その後、宿を手配してくださったM様と合流をして小料理屋に向かう。すべての料理が最高で身悶えする。小料理屋さんの名前は橘。神様と一致をする。M様に喫茶店での出来事を話す。M様は言う。あの喫茶店のご主人がお客さんに対してこころを開くことは滅多にないことだと思います。坂爪さんは何かを持っているのかもしれませんね。

 

小料理屋さんもご馳走していただいた。申し訳ない思いと、それを上回る感謝の思いに包まれる。今日の長崎は雨。自転車移動をすることはできない。が、長崎在住の方が車で周辺を案内してくださることになった。昨日のうちに、おはなをこっそり用意しておいた。自分にできることはおはなを渡すことくらいだ。あとはもう、自分の身を捧げることくらいしかない。首の皮一枚で繋がっているような日々だ。この先もなにも予定はない。いよいよ野垂れ死ぬのだろうかなどと思いながら、いまのところは死なずに生きている。これからの日々がどうなるのかは未知数だけれど、稀に、自分は「なんとかなることを検証するために生きている」んじゃないだろうかと思うことがある。

 

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自分を開けば人間は死なない。

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いいひとに出会うと、こころが洗われる感覚を覚える。変な言い方になるけれど、いいひとと過ごしていると「自分までいいひとになれそうな気がする」と思う。長崎のひとは、品があってチャーミングなひとが多い。私の地元は新潟県で、現在は横浜でごちゃまぜの家をやっている。長崎との共通点は「港町である」ということ。函館、新潟、横浜、神戸、長崎の五都市でなにかをすることができたらば、五港を結ぶことができるのではないだろうかと妄想を膨らませた。

 

 

月並みなアレかもしれないけれど、目の前にいるひとを「このひとはいい人に違いない!」と思って接すると、そのひとのいい面が全面に出てくる(ような気がする)。ゲーテの言葉に『現在の姿を見て接すれば、人は現在のままだろう。人のあるべき姿を見て接すれば、あるべき姿に成長していくだろう』というものがある。好きな言葉だ。が、成長という言葉にはちょっとだけ違和感があって、これを自分なりに言い換えると『人のあるべき姿を見て接すれば、あるべき姿が《引き出されていく》だろう』という風に思う。成長するというよりは、何かを得るというよりは、思い出す【余計なものを削ぎ落とす】という感覚に近い。

 

 

善性と呼ばれているもの、人間の善性や世界の美しさと言われているようなものは、多分、見るものの視点にかかっている。ひとは優しいと思っているひとにとって、他者は仲間であり協力者である。ひとは優しくないと思っているひとにとって、他者は敵であり憎しみの対象にさえなる。所持金が3桁になった時、閉じそうになる自分のマインドを感じる。が、そこで踏ん張りを決めて「まだ慌てるような時間じゃない」と意識を整えると、不思議なことにどうにかなる。自分を開いている限り人間は死なない。多分、閉じた瞬間に死ぬのだと思う。閉じるな。開け。開け、オレ(ゴマ的なアレで)。試される場面は無数にあれど、開き続けていきたいと思う。

 

 

 

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武雄神社。。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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説明のできないことをやりたいんだ。

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福岡を経由して佐賀にはいり、いま、佐賀市内にあるジョイフルでこの記事を書く。東日本在住の方には馴染みのない名前かもしれないが、ジョイフルとは大分県発のファミリーレストランで、非常に素晴らしいことにすべての店舗にWi-Fiが(時にはコンセントまで)常設されている。ネーミングセンスも素晴らしく、ゴリラみたいな顔をしながら自転車を走らせているときに「24時間ジョイフル」という看板を目にすると、ああ、おれも24時間ジョイフルでいられたらどれだけ素晴らしいだろうかみたいなことを思う。

 

昨日は博多在住の方の家にお世話になり、今夜は佐賀県武雄市在住の方の家にお世話になる。明日以降の予定は皆無なので、多分、長崎方面に向かう。12月2日までに広島に着けばいいのだけれど、完全に時間を持て余している。自転車を漕いでいると体力がつく。昨日お世話になった方に「前よりも格好良くなっていますね」と言われたときは照れた。これで料理もできたら完璧ですね的なことを言われたので「昔は料理教室の先生的なことをしていました」と言ったら驚かれた。昔の話をしながら、ふと、久しぶりに自分の半生を振り返りたくなった。

 

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私の名前は坂爪圭吾。住所不定。職業無職。

1985年4月7日生まれの牡羊座で、現在は32歳。血液型はO型。三人兄弟の末っ子で、5歳年上の姉と4歳年上の兄がいる。両親は自営業で、新潟市内で床屋をしている。自営業の家庭で育ったためか、自分が会社員になるイメージを抱くことができず「俺は俺で俺なりのアレをアレするのだろう」的なことを思いながら育つ。学校の勉強は昔からできたものの、テストで100点を取っても「授業態度が悪いから」と五段階評価で四をつけられた瞬間、ああ、学校というシステムはクソだな的なことを思って反抗期に突入をする。多分、この頃から『権威』と呼ばれているものを敵視するようになる。

 

 

その後、新潟高校という進学校に入学をするものの、みんな優秀なひとばかりだったので「IQで勝負をする道はえぐい」ということを思ってその道を降りる。その後、高校を退学するとかしないとかで一悶着あったものの、親と教師の罠にはまって高校を卒業。東京の大学に進学するものの「やっぱりおれには無理だ」ということで退学。晴れて学歴もなくなったことだし、おれはおれで生きる道をさがそうと思うものの、なかなか見つかることはなくアルバイトを三十種類くらい経験する。どれも長続きしない。いよいよおれはクズなのかもしれないと思い込みかけていたところで不幸が重なり、躁鬱病統合失調症椎間板ヘルニアのトリプルパンチで半年間寝込むものの、奇跡のJ字回復を見せる。

 

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料理教室の先生になるものの「お客様満足なんてクソだ!」と逆ギレをする。

ジャムパンの食べ過ぎで一ヶ月に20キロ近く太り「おれの人生は終わった」と死にかけていたものの、その後、カロリー制限のために(普通のパンはカロリーが高くて太るからこそ小麦粉を豆腐で代用する)お豆腐ベーグルを自分でつくるようになってから「料理って楽しい!」ということを思い、みんなで料理を行うイベント的なものを主宰するようになってからいつの間にかそれだけで自分1人は食べていけるくらいの収益(?)があがるようになった。人生はなにが起こるかわからない。ぶっ倒れた瞬間は「おれの人生は終わった」と思っていたものの、これははじまりの合図に過ぎなかったのかもしれない。

 

 

が、もともと料理が得意なわけでもなければ詳しいわけでもないので、細かい調理方法を問われても答えられるわけがない。何を聞かれても「おれに聞かないでください」と逃げ続け、それでもいいと思ってくれる人たちが定期的に足を運んでくれたものの、最終的に「おれは別に料理が好きではない」ということを認めて活動を終始。イベントなどをやっていると「お客さんは楽しんでくれているだろうか」みたいなことをすぐに気にしてしまう私は、やがて「お客様満足なんてクソだ!おれが楽しませたいのは他の誰でもないおれ自身なのだ」みたいなことを叫ぶようになり、2013年頃に「とにかくやばいことだけをやる(自分を楽しませることだけをやる)」というコンセプトで『いばや』という合同会社を設立した。

 

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もともと、わたしはお金を稼いだりお金の管理をすることが苦手だった。そこで「そうは言っても自分の会社をつくればしっかりとやるだろう」と思って起業をした。が、実際にやってみると「自分の会社をつくってでさえ、営業も広告も経理も事務も全然ちゃんとやろうとしない」自分の性癖というか超えられない壁のようなものを感じて、結果三年程度で会社は解散をする。あとの流れは以下の通り。いばやをはじめると同時に「同棲していた彼女と別れて家なし生活に突入する」形になり、結果2年程度の家なし生活を送る。その後、奇跡的に熱海に家が与えられ、奇跡的に横浜にも家が与えられたものの、自病【多動症】が発動をして現在は自転車移動をしながら西日本ではなを配っています。

 

 

説明のできないことをやりたいんだ。

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初対面のひとに「普段はなにをしているのですか」と問われると困る。一応、こうして文章を書いたりごちゃまぜの家などの活動(?)をしてはいるものの、それがメインという訳ではないし、定職と呼ばれているものに就いているわけでもなければい定期的な収入があるわけでもない。この記事で、少しは自分のことを説明できているのだろうか。説明できていないような気がする。と、ここまで書きながら「自分は説明できないことをやりたかったんだ」という初心的なものを思い出した。説明のできないこと、言葉で括ることのできないこと、いまはまだ言葉が与えられていないことをやりたかったのだということを思い出した。

 

突き立てている中指があるのだと思う。この世の中にあるしきたり的なものに対して「それって本当か?」と中指を突き立てることで、疑問を投げ続けているのだと思う。生きるためにはいやなことをやらなければいけないとか、学歴が、就職が、結婚が、貧困が、障害が、格差が、そういうものに対して「それって本当か?」と疑惑をかけているのだと思う。人間にとっての幸せはこれです的なことを言われると、自分はあまのじゃくだからなのだろうか「それがなくても幸せそうに生きている人間がいたらお前はどのように責任を取るのだ」みたいなことを思う。そして、自分という人間をひとつの実験材料みたいなものとして、展開をして生きたいと思っている(のかもしれない)。

 

汚い言葉になるけれど「ざまーみろ」って思うことがある。自分みたいな人間が、社会的に底辺とされているようななんの肩書きもない人間【幸せになんかなれるはずのない人間】が、なんの肩書きもないことによって比較的自由に生きることができることができているのであれば、それは非常に痛快なことだなと思う。正解と呼ばれているものに縛られることより、間違いだらけだとしてもこんな生き方もあるということを立証できるのであれば、これはもう「ざまーみろ」という感じである。常識や良識にとらわれて身動きがとれなくなることよりも、間違いだらけな道だとしても『生きている実感を感じる方向』に、自分は舵を取りたいタイプの人間なんだなと思う。

 

 

 

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説明のできないことをやりたいんだ。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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もっと自分を出してみろよ。

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高知県宿毛市の港から、大分県佐伯市の港にはいる。自転車で日本国内を巡っている。先週は大阪にいた。伊丹空港から高知空港に飛び、高知をひとしきり回っていまは別府にいる。なぜ、金もないくせに飛行機に乗ることができたのか。それは「さかつめけいごを召喚してくれたひとがいるから」である。別に自転車移動にこだわりはない。交通費さえどうにかなるなら、飛行機だって新幹線だって乗りたいと思っている。

 

多分、今夜は湯布院に行く。九州の神々は優しい。昨日は、佐伯港まで車で迎えに来てくれた神様と出逢った。別府在住とのことだったので、別府まで運んでいただいた。これから別の神様と合流をする。今夜は何処に眠るのだろうか。運ばれるままに身を委ねている。佐賀県在住の神様からは「車出せるからいつでも声かけてください」という連絡が届いた。長崎在住の神様からは「温泉宿をやっているので困った時はお声かけください」という連絡が届いた。感動した。これはもう、最高の人生じゃないかと思った。

 

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600円のダリアを買うか、250円のバラを買うかが人生を決める。

行く先々で花を配っている。先日、30人くらいに花を配る場面があった。毎回、花は最寄りの花屋さんで自腹で購買をしている。良心的な花屋さんでは一輪100円程度で素晴らしい花を手に入れることもできるけれど、都心部の花屋さんなどは比較的高級なお店が多く、金欠時などは「生きるか死ぬか花か」みたいなことになる。花屋さんに足を運んだら、閉店間際だったからなのだろうか在庫が少なく、250円のバラと600円のダリアくらいしか「いいな」と思う花はなかった。

 

一瞬、250円のバラを買いかけた。が、その後「これじゃ誰も幸せにならない」的な感覚が湧き出して来て、ええい、ままよ【よし、死のう】と600円のダリアをあるたけ購買した。バラを手にした瞬間、ああ、俺は「安い」という理由だけでこの瞬間にバラを買おうとしているなと思った。そして、そんな自分を死ぬほどダサいなと恥じた。私には、しりとり要素満載のおまじないがある。それは「落ち着け。ケチるな。なるようになる」というおまじないである。所持金は尽きかけていたが、ダリアを買えたことに後悔はなかった。

 

その後、ダリアを配りまくった。すると、奇跡が起きた。ダリアを渡した方から「あの、これ、少ないですけど活動の足しに使ってください」と、決して少なくないお金をちょうだいした。感動した。感動した後に「ダリアを選んでよかった」と割と本気で思った。非常に感覚的な話になるけれど、多分、あの瞬間の妥協を許して安いバラを買っていたら、多分、この奇跡は起きていなかったのだと思う。大袈裟な表現になるけれど、死ぬ気でなにかをやると「こいつを死なせてはいけない」的な力が銀河から降り注ぎ、生き延びる。逆に言えば、損得勘定で生きている限り、このような奇跡に出会うことはない(ような気がする)。

 

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許しちゃいなさい。

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DAHONという自転車メーカーの「カーブ」で移動をしている。カーブ男子である。16インチの小さなタイヤなので、あまりスピードが出ない。よくもまあこの自転車でここまで来たなあと思う。荷物は最小限度にとどめたかった(旅をしている感を極力出したくなかった。自転車で日本一周中!とか、あんな感じの張り紙は死んでも貼りたくない)ために、小さめのリュックに二日分の着替えだけを詰めた。が、全然足りなかった。全然足りなかったけれど「意外とどうにかなるもんだな」とも思った。

 

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おれはなぜ自転車移動をしているのだろうかと、稀にわからなくなる。それでも「ああ、この瞬間のためだったんだな」と思える瞬間がいくつもある。その瞬間があるだけで、いろいろな物事が肯定をされている感覚になる。多分、わたしは圧倒的肯定力のあるもの【大きなイエスを伴ったもの】が好きなのだと思う。それは「許す・許される」ことに似ている。多分、神様が人類に与えた最終兵器は「許すこと」だと思う。許せない何かを抱えている人間は、争いに向かう。争いに向かうと余裕が消える。余裕が消えると肉体的・精神的に無様になる。難しい場合もあるけれど、できることならば余裕を護りたい【許す方向に舵を取りたい】と思う。

 

 

黄金を抱いて翔べ。。。

 

 

わたり文庫『クローディアの秘密』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、E.L.カニグズバーグ著作『クローディアの秘密』です。こちらの本は、過去記事をご覧いただいた読者様が「死ぬまでに何度も読み直したい本とのことですが、この本は死ぬまでになんども読み直したい本です!」とゴリ押しをしてくださった一冊になります。随所随所に名言が散らばっている、グッドな本(小学校高学年の女の子に読んでもらいたいと思う本)です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

ばかね、なんにもわかっちゃいないんだから。だれかをだきしめれば、今までわからなかったことがわかってくるものなのよ。たいせつなことがね。

 

お金をもってると、なんとなくいい気もちで安心なものなのね。

 

でもね、クロード、ぼくたちは、安心てものと引き換えで、冒険のほうをとったのさ。さ、まいりましょう、クローディア姫。

 

E.L.カニグズバーグ『クローディアの秘密』【岩波少年文庫

 

もっと自分を出してみろよ。 

昨日、佐伯港から別府まで私を運んでくれた神様は、大学生の男の子だった。彼は言う。自分はどうしても他人の顔色を伺ってしまうから、これを言ったら相手に失礼になるんじゃないだろうかなどと考えてしまって表面的な会話をしてしまう。でも、本当は真っ直ぐ本音のやり取りを交わしたいのだ、と。私は答えた。失礼かどうかを気にして当たり障りのない【心のない】言葉を交わす、その行為こそが(自分にも相手にも)失礼なんじゃないだろうか。

 

 

人間関係で悩むことが多いから、卒業後は心理カウンセリングの資格的なものをとるためにお金を溜めていると彼は話す。私は「そんなものに金を使うくらいなら、俺を中南米に連れていってください」と思った(けど言わなかった)。誤解を恐れずに言うと、私は自己啓発セミナーやカウンセリング養成講座的なものに多額の費用を請求する人たちが嫌いだ。端的に不潔だなと思う。自信のないひとたちを悪用しているだけに見えるし、ひとの話くらい無料で聞いてやれよと思う。ひとと話をするのにも、金がかかる時代になったのかなんて暗澹たる気持ちになることもある(けどまあ別にいいや)。

 

 

と、まあ、上段で「許す」とか書いておきながら早速許せないものの話をしてしまった。自分はまだまだガキンチョなんだなと思う。しかしながら、実際に口にするだけで「言葉にしただけでなんかスッキリ!あとはもうどうでもいいや(俺は俺の人生を生きよう)」という気分になる。人間は矛盾を抱えた生き物である。まずはそれを肯定したい。矛盾を受け入れ、矛盾を晒し、矛盾を超える。自分を殺す方向ではなく、自分を出すことの先にある調和。融解して強くなる鋼のように、ほこほこたてたてぽよぽよしながら、ゆっくりでもいいから「世界と和解をする」道を歩みたいのだと思う。

 

 

 

 

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四万十川より愛を込めて。。。



人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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我々は、宇宙全体における偉大なる黄金色のお米粒なのだ。

京都を経由して大阪にはいる。今夜は(多分)大阪に泊まる。おはなを無料で配り続けている。なぜ無料なのか。無料のほうが「なんか素敵だから」と思うからだ。当然のことだけれど、配るほどに身銭はなくなる。しかし、この身銭も本来は自分のお金ではない。別に誰かに託されたもの、別の誰かから巡って来たものが「たまたま自分の手元にあるだけ」に過ぎない。問題は、これを「(いろいろ思うことはあるけれど)いかに素敵に潔く使うか」だと思う。

 

金銭に善悪も美醜もない。とは言うものの、嬉しい気持ちでもらったお金は「綺麗に使いたい」と思うし、あんまり嬉しくない気持ちでもらったお金は「汚く使ってしまう」ことが多い。綺麗なお金は「誰かをよろこばせるため」に使いたいと思うが、自分の時間【命】を犠牲にすることで手にしたお金は、やけ食いをしたり無駄な散財に使われることが多い。お金とはなんだろうか、などと思いながら今日もお金をおはなに変える。昨日は京都の山科在住の方のご自宅に宿泊をさせていただいた。家主の方が素敵すぎて最高の時間になった。京都で出会う人々は本当に良い人が多い。今日は13時頃に梅田駅に到着をする。それ以降は、梅田駅界隈で希望者の方々におはなを配りたいと思っているのでお時間のある方はお気軽にご連絡をください。

 

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「いい仕事をしたなあ」と思いながら死ね。

眠ることと死ぬことは似ている。1日の終わりに「今日はいい仕事をしたなあ」と思って眠れる夜は素敵だ。昨日は、京都駅で気持ち35本のおはなを気持ち38人の方に配った。(途中、あまりにも連絡が届きすぎてパニック障害になり携帯をかち割りかけたものの)素晴らしい出会いにも恵まれ、ああ、生きていてよかった【京都に来てよかった】と心底思った。みなさまは、いい仕事をしているだろうか。いい仕事をした1日とは、多分、誰かと心を通わせることができた1日だと思う。金も大事。時間も大事。見栄や礼節や世間体も大事。だけど、その五億倍は大切なものは「ひとりの人間の心」だと思う。

 

心がなければ、何をしても虚しい。逆に言えば、どれだけささやかなものであろうとも、そこに人間の心を感じることができるものは「最高だなあ」と思う。心のない時間を過ごしていると、端的に人間性が乾く。言葉遣いは殺伐になり、表情には諦めの雰囲気が漂い、人間も世界も見限りがちになる。乱暴にまとめると不細工になる。人間には二種類あると思う。乾いているひとと、潤っているひとの二種類だ。人間性が乾いたらアウトである。できることならば、潤っている状態を保ちたいとは思うけれど、自分自身も「ああ、いまのおれは乾いてしまっている」と思うことは多い。

 

「いい仕事をしたなあ」と思える実感は潤いにあふれている。人間の心は、まるで一輪の花のようだなと思う。水やりを怠れば枯れるが、しっかりと水を与えれば生きている限り必ず蘇る。水は一回やればいいというものではない。今日の水は今日の水であり、明日の水にはならない。今日には今日の水が、明日には明日の水が必要だ。多分、人間にとっての水は「感動」だと思う。感動がなければ人間は枯れる。感動と呼ばれるものには様々な種類があるけれど、ああ、いまおれは目の前にいるひとと心を通わせることができているという種類の感動は最強だと思う。逆に言えば、心のない言葉を使えば使うほどに、使い手の心は乾いていく(心の潤いは、乾いた言葉に吸い取られていく)。

 

有意義より無意義。

自転車を走らせながら「もっとめちゃめちゃにやってしまえよ」と思った。おれはなんで寒空のなか自転車を漕いでおはなを配ったりなんだりしているのだろうか、とか、こんなことをやっていったいなにになると言うのだろうか、とか、そういうことを思うことは多い。が、しかし、こんなことをやっていなければ絶対に出会うことのなかった素晴らしい出来事が起こるたびに「俺の生き方は間違いだらけかもしれないけれど、間違っていない」的な肯定感を覚える。

 

「おれはなにをやっているのだろうか」と思った瞬間ほど、多分、そのひとはいい感じのことをしている。これは自分を肯定するために言いたい。「おれはなにをやっているのだろうか」と思ったらチャンスだ。多分、どんどんやったほうがいいのだと思う。もっともらしい理由があるひとよりも、よくわからないけれどやりたいからやっているひとの方が(私の中では圧倒的に)好感度が高い。意味不明な人間は素敵だ。あなたくらいの才能があればいくらでも働き先があるであろうに、なぜ、そんなことをやっているのか(もったいない!)と周囲から問われまくるくらいになったら『一人前』だと思う。

 

有意義より無意義。大勢の人が「何か有意義なことを」的なことを考える中で、我々「無意義に賭ける」少数民族は無意義街道を爆走する。有意義街道は大渋滞を起こしているので、遠くまで行きたくてもなかなか進むことはできない。が、無意義街道は「誰もそんなところを通りたくねえよ!」的に感じるひとが多いためにこの瞬間もガラガラだ。無意義上等。無意義上等、と書いて「なんだかいい言葉だな」と思った。社会的にはなんのアレもないから周囲からボロクソに言われることも多いこの道だけれど、有意義街道ではなかなか得ることのできないよろこび、誰もいない道路を「おらおらおらー!」と爆走するよろこび【生きている実感】を得ることはできる(おれはなにを言っているのだろうか)。

 

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我々は、宇宙全体における偉大なる黄金色のお米粒なのだ。

生きているといろいろなことが起こる。離婚や死別や犯罪や虐待、家族関係性や学校【職場】での人間関係など、この世の中で「不幸」とされているものをあげたらきりがない。人生が旅なら、人間のカラダは乗り物で、いまいる場所は幹線道路の真っ只中みたいなものである。そりゃあ、生きていれば誰でも一度は(割と酷目の)交通事故に遭うこともありゃあと思う。その瞬間、多分、我々は試されている。それは「どのような瞬間であれ、お前はお前であることの矜持を保つことはできているか?」という試練だと思う。

 

学歴の有無、収入の上下、交友関係の広狭など、社会的なランクづけはあらゆる場所で行われている。私は思う。そんなものに負けてしまってはいけないのだと思う。生きていればトラブルは起こる。自分のことをクソムシだと罵り倒したくなる瞬間もある。が、いつまでも自分を責めて卑屈に塞ぎ込んだままでいてはいけないのだと思う。ある程度塞ぎ切ったら、あとはもう開くだけだ。過去を変えることはできない。しかし、未来を選ぶことはできる。過去は過去。もう、充分に過去を過去し尽くす【嘆き尽くす】ことを終えたら、あとはもう「自分の好きなように未来をカスタマイズしていく」方向に舵をとる。

 

所詮、生まれて死ぬだけの人生である。なんて言うと若干厭世的に響くかもしれないけれど、違う。我々はなにももたずに生まれて来て、なにももたずに死んでいく。裸で生まれて裸で死ぬということ、そのことのなんという圧倒的な安心感【平等感】たるや!!なんだかよくわからないテンションになってしまった。夜明け前から自転車を走らせたために、いまだに指がかじかんでいる。寒い。寒いけれど気持ちいい。これからまた自転車を飛ばして、花の都大大阪に向かう。今日も素敵な出会いがあればいいなと思う。この記事をご覧のみなさまにも、憂鬱を軽く吹き飛ばすほどの素敵な出会いがありますことをお祈りしております。

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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行く道は違えど、共に進もう。

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自転車移動も五日目にはいる。静岡県湖西市にあるコメダ珈琲に来た。私は軟弱者だと思う。チェーン店の従業員の笑顔が硬直的(接客が機械的)なだけで「死にたい」とか思う。もしも、たとえば自分の母親が死んだ顔でスーパーのレジを打っている様子を見たら、わたしは「この世の中に希望なんてないな」とか思っちゃうのだろう。笑いたくないときでも笑わなくちゃいけないし、思ってもいないことを口にしなくちゃいけないこともある、それが生きるということなのよとか言われたら「それをするくらいなら死にたい」と思う。

 

これから愛知県の一宮を目指す。一宮在住のA様が「よかったら、良い宿があるのでおとりします!」と連絡をくれた。ものすごいありがたい。うれしい。夕方までに着きたい。それ以降は関西にはいる。特段予定も何もないので、和歌山経由で徳島に行こうかなと思う。自転車を漕ぎ続けていると、己を鼓舞するために歌を歌ったりなにかを叫び出している自分を見る。この前は「うおー!」とか「だるあー!」などと叫びながら峠を超えたのちに、あいらぶゆー(ハアハア)、あいらぶゆー(ハアハア)、とかつぶやきながら漕ぎ出したときは「俺はこんなことを言いながら走るような男だったのだな」と感心した。

 

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「生きづらいな」と思う。

生きづらいなと思うことがある。ひとと話している時に、そう感じることは多い。誰かに何かを聞かれたときに「なんでそんなことを聞くのだろう?」と思うことは多く、誰かが何かを話しているときに「なんでそんなことを話すのだろう?」と思うことも多い。表面的なもの【どうでもいいこと】に、多分、わたしは反応することができないのだと思う。どうしてもそれが話したいから話すというものではなく、ただ、なんとなく話されているものに対してうまい反応をすることができない。

 

この前、ある女性と話した。その女性は「最近は調子がいいんですよー、あはは」と話していたけれど、目がうつろだなと思った。目がうつろなひとを見ると「このひとは自分の喜怒哀楽を無視している【自分自身を蔑ろにしている】のではないだろうか」とわたしは感じる。世間的な風潮がそうさせるのだろうか、常に明るくいなくちゃいけないとか、元気でいなくちゃいけないとか、幸せに生きている風に見せなくちゃいけないとか、ポジティブ風に装っていなければいけないみたいなものを感じることがある。そういうひとと過ごすと疲れる。全部バレているのだから「嘘をつくな」と思う。

 

だからわたしは「嘘をつくな」と言う。そういうことを言ってしまうからなのだろうか、嫌われることも多い。嫌われすぎてしまって生きるのがつらくなる。ギリギリもちこたえることができているのは、そんな自分でも好きだと言ってくれるひとの存在である。みんなどうやって生きているのだろうか。思ってもいないことを口にしていると病気になるし、思ってもいないことを口にしないでいると(結構な確率で)嫌われる。まさに八方塞がりである。だからわたしは自転車を漕ぐ。自転車を漕いでいる時間だけは、自由でいることができる。

 

人間と出会う。

それでも稀に「人間を見つけた!」的なよろこびを覚えることがある。わたしは「ひとと話したい」と思っている。が、ひとと話しているときも「ひとと話しているとは思えない」と感じることは多い。日本だけでも一億人を超える人間が暮らしているというのに(毎日すれ違うひとは大量にいるのに)、心を通わせることができたと実感できる瞬間は猛烈に少ない。

 

これはどういうことなのだろうか。せっかくひとと話をするのであれば、わたしは「お互いの本音をやりとりしたい」的なことを思う。社交辞令とか無駄な世間話は不要だ。真剣勝負という言葉がある。わたしは大袈裟な人間だからなのだろうか、常に「斬るか・斬られるか」みたいな瞬間を理想としている。別にひとを傷つけたい願望があるわけではない。ただ「斬られたい」と思うことはある。ひとと話すことの最大のメリット、それは「自分の旧態依然な価値観の殻がパカッと割れて、新しい自分がひょっこり顔を出す」ことにある(と思う)。

 

人間と話をしたいと思う。人間を見つける旅をしているのだといっても過言ではない。人間みたいなひとはたくさんいるけれど、人間と出会うことは少ない。これはどういうことなのだろうか。おれの目が節穴だからなのだろうか。おれの性格が悪いからなのだろうか。幸せそうに生きている人が少ないと感じるのは、わたしの性格がひねくれているからなのだろうか。それとも「実際にその通り!」なのだろうか。まあいいや。他のひとのことは知らない。ひとの言葉に期待をするより、ひとの生き様に期待をするより、いまの自分がやるべきことは「己の生き様に言葉を宿らせること」なのだと思う。

 

ibaya.hatenablog.com

 

わたり文庫『ザ・ロード

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、コーマック・マッカーシー著作『ザ・ロード』です。自転車移動はそれなりに疲れるのですが、この本を読んでいると「おれよりも五兆倍つらそうな主人公がこの瞬間も頑張って生きている!(頑張るってレベルじゃない!)」的なことを思って励まされます。内容がダークなのですべてのひとにおすすめすることはできないのですが、ちょっとくらいたい方には良い本なのかなと思います【ピュリッツァー賞受賞作】。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

あの男の子のことを憶えてる、パパ?

ああ。憶えてるよ。

今でも元気でいると思う?

ああもちろん。元気でいると思うな。

でも迷子になっちゃったかな。

いや。迷子にはならなかったと思うよ。

迷子になったんじゃないかって心配なんだ。

あの子はきっと無事だよ。

でももし迷子になったら誰が見つけてくれるの?あの子を誰が見つけてくれるの?

善意が見つけてくれるんだ。いつだってそうだった。これからもそうだよ。

 

コーマック・マッカーシーザ・ロード』【早川書房

 

行く道は違えど、共に進もう。

ひとと話していてわかったことがある。わたしは、多分、ひとの話を真剣に聞き過ぎている。相手としてはなんとなく話していることでも、必要以上に真剣に聞いてしまうから、勝手に真剣に考えて、勝手に相手の身になって、勝手に想像力を働かせて、勝手に疲弊をしたりなんかして、勝手に「人間関係に疲れた!」と自爆をすることが多い。あるひとは「わたしはこういうことがやりたいのです」的なことを言う。しかし、多くの場合は「やりたいのではなく、ただ、やりたいと言いたいだけ」なのだとようやくわかった。

 

ほんとうにやりたい人間は、話す前にやる。話し続けている時点で、多分、そのひとは「やりたいのではなく言いたいだけ」なのだと思う。だからこそ、多分、その時点ですでにゴールをしているのだと思う。やりたいひとはやるし、話したいひとは話す。ひとの生き方をああだこうだと言って見たり、他人の人生に余計なアドバイスをする暇があったら「お前はお前の人生を生きろ、バカ!」と自分に思う。他人の言葉に反応をしている場合ではない。反応するな。行動をしろ。言葉で語るな。背中で語れ。説明をするな。理解者を求めるな。みんなでやろうなんて甘えるな。ひとりで生きろ。ひとりで生きることをはじめたとき、仲間も理解も応援も、あとから勝手についてくる(ものだと思う)。

 

自転車を漕いでいると、無様な自分が浮き彫りになる。俺はクソムシだなと思う。俺はクソムシだなと思いながら、俺は俺でしかないのだから「この俺で生きよう」とも思う。自分が自分であったからこそ、出会うことのできた人間がいる。それならば、俺は俺を続けよう。自分は自分を続けることが、巡り巡って「あなたはあなたを続けること」の連結になったら最高だ。静岡の天気は晴れ。愛知県との県境に向かう。この前、ちょっと切ない別れがあった。また会いたいと思えるひととまた会えたとき、恥ずかしくない自分でありたいと思う。その時は、胸を張って「久しぶりだね」と笑いあえればいいなと思う。

 

 

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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