いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

悲しみにケリをつけに行こう。

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福島県会津若松市を経由して新潟県新潟市にはいる。新潟市は私の故郷で、良くも悪くも自分も一部なのだと思う。馴染みの道を歩くたびに、昔の傷が思い出されて精神がえぐられる(ような気持ちになる)。こちらのブログをご覧のみなさまは、ご自身の地元のことは好きだろうか。それともあまり好きではないだろうか。好きとか嫌いとかそんな言葉では表現しきれない複雑な感情をお持ちだろうか。新潟と私は因縁の関係にあり、最近の私のテーマは「新潟と仲直りをする」というものになっている。

 

 

ごちゃまぜの家の第一号を横浜に置き、現在、二軒目を求めている。当初は「札幌や福岡は街並みも綺麗だし最高だなあ!」などと思っていたが、否、ここは自分の故郷でもある新潟につくるべきではないのだろうかと思うようになった。どれだけ外側に世界を広げてみたところで、自分のコア的な部分である故郷との和解ができていなければ、何かしらの空洞を抱えたままで生きることになる(ような予感がする)。あてがあるわけではないから、テント生活を続けながら(新潟県民の方々と交流をかわしつつ)地道な探索を続けたいと思う。尚、今週末は岩手県宮城県に足を運ぶ予定で、『家族』をテーマにクロストークをする企画もある。お時間のある方は、是非、どなたでもお気軽に遊びに来てください。

 

【ごちゃまぜの寺?! feat. 坂爪圭吾さん!】〜かわいい自分に旅をさせよ!〜

 

最近思うことあれこれをまとめます。

 

1・悲しみにケリをつける。

 

ひどく抽象的な話になるけれど、多分、私は新潟を愛していたのだと思う。愛していたけれど「自分が思うように愛する【愛される】ことができなかった」ことをこじらせてしまい、何かこう変な感じになってしまったのだと思う。稀に、冗談として「俺は新潟に虐待を受けて育った」みたいなことを思うこともあるけれど、被害妄想が膨張しまくっているだけなのだと思う。悲しみにケリをつけるということ、それは「自分のコアを織り成すもの、自分の存在価値とダイレクトに結びつくようなものと、ガッツシ和解をすること」なのかもしれないと思う。

 

2・誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。

 

「新潟の魅力を世界に発信!」みたいな言葉を頻繁に耳にするけれど、多分、私はそういったものにまったく興味がないのだと思う。仮に新潟でごちゃまぜの家をやることになったとしても、新潟の魅力を誰かに知ってほしいとかあまり思わない。誤解を恐れずに言えば、新潟にはなにもない。米があるとか、酒があるとか、それらのものはすべて北海道が勝っている。自分にあるものを必死にアピールする【絞り出す的な】生き方はつらい。なにかあるから一緒にいるのではなく「なにもないけど一緒にいる(なにもないことを一緒に楽しむ)」ことができるひとと同じ時間を過ごした方が、楽だ。疲れない。

 

3・地域おこしより「自分おこし」。

 

地域おこしよりも「自分おこし」だと思う。超絶自分勝手な営みかもしれないけれど、私は新潟のために何かをやりたいとはあまり思っていない。完全に自分のため、自分の中にある未消化のサムシングにケリをつけるために、何かをやりたいと思った場所がたまたま新潟だったというだけの話なのだと思う。弁解がましいことを言えば、きっと、ひとは「自分が自分を救う【癒す】ようにしか、他人を救う【癒す】ことはできない」のだと思う。坂爪圭吾という小っぽけな一個人が己自身を救済する姿勢を晒すことが、結果として「それを見た他の誰かの何かもゆっくりと溶け出しちゃう」的な結末を迎える営みにできたら、それは「最高だな!」と思う。

 

4・自分を生きろ。

 

太陽みたいになりたいと思う。太陽というのは「あたたかい」とか「ひとを照らす」とか前向きな印象の強い言葉だけど、太陽としては別に何かを照らしているつもりもなければあたためているつもりもなく、ただ『強烈にそこにある』だけに過ぎない。近寄り過ぎれば火傷をするし、距離感を間違えるといろいろなものを死滅させる。自分が自分であるということの中で、いろいろと面倒なことが生じる場合もある。が、それはもう仕方のないことなのだと思う。自分は自分でしかないのだから、与えられたものを生かすということ、他人との軋轢の中で「自分を殺した方が楽になれるよ」なんて思うこともあるけれど、多分、そんなことはないのだ。自分が自分であることで(自分でも知らないところで)誰かの力になることがある。

 

5・ないものを嘆くのではなく、自分にあるものを思い出せ。

 

悩みを覚えるときは「一般的な誰かと自分を比べてしまっている時」だと思う。誰もが当たり前にできることを、自分だけはうまくやることができないと感じる瞬間はつらい。自分のことをダメな人間だと思ってしまうこともあるし、自分が無価値に思えることもある。が、ないものを嘆いていてもはじまらない。重要なことは『自分にあるものを思い出す』ことだと思う。与えられているものを生かすということ。大事なことだから(自分に言い聞かせる的な理由で)何回も書きたいと思う。与えられているものを生かすということ。誰の中にも力はある。ただ、それを出していないだけなのだと思う。

 

6・もう、良い人間の振りを続けることは終わりにしよう。

 

自分を守るために鎧を身にまとうことがある。親の機嫌を取るために自分を演じて見たり、周囲の評価を求めるあまりに自分を偽ることがある。それはいけないことではない。その時、その瞬間においては「生きていくためには必要なことだった」のだと思う。だが、時は流れてその時は過ぎた。生きるために必要としていたその鎧が、いま、この瞬間も必要なものとは限らない。否、むしろ「その鎧が重い足かせとなって、自分自身を生きる妨げになっている」ことは多いのだと思う。鎧を脱ぐ瞬間は怖い。自分のままで生きていくことなんてできないんじゃないだろうかという恐れも出る。が、冷静に考えてみよう。裸の自分で生きることと、重い鎧を纏って生きること。どちらの在り方を、どちらの生き方を、自身のハートは望んでいるのだろうか。

 

7・自分のこころに嘘はつけない。

 

死ぬほど月並みなことを言うけれど「自分のこころに嘘はつけない」のだと思う。それが一般的な常識とは異なるものであれ、自分の心が違うと思えばそれは違うのだし、自分の心がそれでいいと思うのならば、誰に何を言われたとしても「それでいい」のだと思う。胸の中にあるセンサーは非常に敏感に作られていて、何かが違うなと思う時は「それはほんとうにお前のやりたいことか??」という警告を毎度静かに発してくれる。その警告に耳をすませるもよし。その警告を無視して続けるもよし。別にどちらでもいいのだと思う。が、私は、もう、自分をごまかすような生き方を続けたくないと思う。

 

8・それはお前のやりたいことか?

 

自分がやっていることに、自分で飽きることがある。自分はいつまでこんな生活を続けるのだろうかと思う時、鈍い疲労感を覚えることがある。これは「いまの生き方を変える合図」なのだと思う。乱暴な言葉で言えば「手癖で生きるな」と告げる愛の鞭だと思う。これからやろうとしていること、それは「お前のほんとうにやりたいことか」と自分に問う。生きている限り、何かを間違えることはある。それは仕方のないことだ。問題なのは「間違っているとわかっていながら、間違いを重ねること」だと思う。ああ、間違った!いま、自分は間違っている!と感じた時に、できるだけ瞬時に『何か』を変えること。真の充足感は、多分、他者の承認を必要としない(己自身の承認「ああ、この瞬間に間違いはないな」的な感覚に満たされている)。

 

9・真面目なままでは踊れない。

 

自分は、多分、踊りたいのだと思う。生命のダンス的なものを、生きていることを喜ぶ踊りを踊りたいのだと思う。それが、いろいろな自意識が邪魔をして踊ることを妨げているだけなのだと思う。直近のキーワードは「解き放つ」である。真面目なままでは踊れない。もっと、自分のこころを解き放ってやりたいと思う。もっと自由に、もっと軽やかに、もっとたおやかに、My Little Lover往年の名曲ハローアゲイン風に言えば「ぼくはこの手伸ばして空に進み風を受けて生きていきたい」と思っているのだ(と思う)。

 

10・俺は勝手に輝く。その光で、勝手に救われてくれ。

 

日本海に沈む夕日が綺麗だった。夕日を眺めていると、ああ、今日も生きた、明日も生きようという気持ちになる。1日の終わりに、しっかりとピリオドを打てている感覚になる。そのとき、その瞬間、超絶傲慢な思いだけど「俺は勝手に輝く。俺は勝手に輝くから、その光で、あなたも勝手に救われてくれ」ということを思った。誰かのためにできることなんてないな。自分を生きることが何よりも雄弁だな。それならば、自分がイエスを出せることをやろう。自分がイエスを出せないものを、他人に差し出すなんてやっぱりおかしい。誰かのイエスに安心をする生き方ではなく「自分がイエスを出せる生き方をしよう」と思った。思う存分世界を照らして、海に還る夕日の赤は、別れ際の切なさと美しさにあふれていた。人生の終わりに、私は、しっかりとピリオドを打てる生き方をできているだろうか。わからない、わからないけれど「自分のイエスで自分を照らす、その光が、結果として誰かにとっての光にもなることができるような、そういう生き方をしていきたい」のだと思った。

 

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別れ際が、多分、一番切なくて美しいのだと思う。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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special thanks KIRINwOrld

 

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お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。

福岡を経由して鹿児島にはいり、昨夜、成田空港から車を飛ばして福島県会津若松市に到着した。福岡と鹿児島ではトークイベントを開催していただき、様々な方々と話をした。その際に「昔から坂爪さんは文章を書くことが好きだったのか」と問われ、私は「昔から自分の気持ちを伝えることが下手くそで、口頭で話していても『また今日も伝えることができなかったな』と感じることが多かった。だから、自分の欠落を埋め合わせるように言葉を紡ぐようになったのだと思う」ということを話した。

 

ibaya.hatenablog.com

 

私の中には「誰にもわかってもらえない」と感じている部分があった。死にたいなどと思っていた時期もあったが、正確に言えば「死にたいと思うこの気持ちについて、誰かと話がしたい」と思っていたのだと思う。そして、そういう相手を見つけることができなかった私は、言葉を綴ることで自分の『穴』を埋めようとしていた。不思議なことに、いまではその「誰にもわかってもらえない」部分こそが共感【つながり】を生み、ブログ読者の方々も増え、トークイベントなどで実際に知り合う方々も増えた。うまく言葉にすることはできないけれど、この「誰にもわかってもらえない部分」こそが、結果的に多くの人々と繋がる契機になっている現実を不思議に感じている。

 

生きたいと思うことは、何かを好きになるということ。

生きていてもロクなことはないと思っていた10代の頃、それでも、自分の好きな音楽を聴いている間だけは自由になることができた。生きていることは悪いことじゃないと思えたし、生きていればまた好きなアーティストの新譜を聞くことができるということが、大袈裟だけど「これからも生きたいと思う」希望になった。私にとって、大事なことは「生きることよりも生きたいと思うこと」であり、ただ、なんとなく生きているだけでは苦しかった。生きるだけでは足りなかった、生きたいと思うこころの躍動に焦がれていた。

 

多分、何かを好きになるということが「これからも生きたいと思う」希望を生み出していたのだと思う。私は、私が好きなものを通じて「生きててもいい」という許しを得ていたのだと思う。いろいろなことがうまくいかないこともあるけれど、自分なんてダメだと思ってしまうこともあるけれど、それでも「生きててもいいよ」と言ってくれるそれらは優しい温もりに溢れていて、これからも生きたいと思える力を与えてくれた。多分、その頃からなのだと思う。かつての自分自身が「自分の好きなものたち」によって何度も何度も助けられたように、自分自身も、自分自身の生き様を通じて「まだ見ぬ誰かに、温もりを伴った命の躍動を伝えることができたなら」ということを思うようになった。

 

生きることの意味はわからないけれど、生きたいと思うことの理由なら、少しだけわかってきたような気がする。それは「何かを好きになるということ」であり、誰かに好かれることではなく、誰かに愛されることでもなく、誰かに認められることでもなく、自分から「何かを好きになった」時の心の働きが、生きたいと思う力を生むのだと思う。生きている限り、さみしさのような感情に襲われることもある。愛されたいなどと願ってしまうこともあるけれど、多分、愛されることよりも『自分から何かを愛することができた』瞬間に、愛情は自分の内側から溢れ出して、自分自身を包み込むのだと思う。愛情は外側から与えられるものではない、多分、自分の内側から『あふれ出す』ものなのだと思う。あふれ出すということは、最初から自分に備わっていたということなのだと思う。

 

野垂れ死ぬことになっても。

自分を生きると決めた時、自分なりに決めた二つの覚悟を思い出した。ひとつは「ひとりでもいい」と言う覚悟で、もうひとつは「死んでもいい」という覚悟。ひとりでもいいと言う覚悟、その中には「周囲に理解を求めてしまうこともあるけれど、誰かにわかってもらうためにやるのではなく、誰にもわかってもらえなくてもやるという自身の純粋性を護りたい」という思いがあるのだろう。死んでもいいと言う覚悟、その中には「生き延びるために何かをやるのではなく、たとえ、それが通用をしなくなって野垂れ死ぬことになったとしても、それでも構わないと思えることに命を使おう」という思いがある。

 

不思議な話になるけれど、ひとりでもいいという覚悟を決めてからの方が、自分はひとりではないのだと思うようになった。死んでもいいという覚悟を決めてからの方が、生きていることの実感は膨らんでいるように思う。自分を生きるとか、本音を生きるとか、そう言う言葉を耳にする機会は多い。自分なりに思うことは「自分を生きると言うことは、決して生易しいことではないのだと思う。それは『生身で生きる』ということだから、常にヒリヒリしているし、喜びや感動もダイレクトに受ける代わりに、悲しみも苦しみもダイレクトに受けることになる」のだと思う。それは苦しいことかもしれないけれど、でも、それが『生きているということ』なのだとも思う。

 

もっと、自分を生き続けようと思った。たとえ自分が自分のまま生きて、最後には野垂れ死ぬことになっても、それでも自分を生きよう。社会に必要とされなくなり、道端で死ぬかもしれない。それでも、いい。自分には価値があると思わせてくれる出来事が起こる。それだけで今まで生きてこれたことに感謝をしたくなる。

 

数年前に出会った三森正道さんが、上記のような言葉を自身のブログで綴っていた。三森正道さんとの出会いは、数年前に遡る(詳細は過去記事をご参照ください)。素晴らしい出会いには、人生を肯定する力があるということを頻繁に思う。人と同じ生き方をすることができない自分をダメだと思うこともあるけれど、でも、この生き方をしていなければ出会うことのできなかった喜びがある。それが、これまでのすべてを肯定する。自分が辛さを覚えるとき、たとえば「三森正道さんのような人間が同じ時代に生きている」と思うことが、勇気をあたえてくれたり、前を向く元気をあたえてくれることがある。

 

ibaya.hatenablog.com

 

お前の生き方は美しいから、もっと生きろ。

どのような人生を望むかを考えた時に、ある人は「楽しいことだけをやる!」と言い、ある人は「ワクワクできることをやる!」と言い、ある人は「好きなことだけをやる!」などと言う。好きなことをやることは大事だとは思う(嫌なことをやりながら生きるよりは百億倍はましだと思う)けれど、正直に言えば「それだけでは足りない」と思う自分がいる。では、何が足りないのだろうか。自分の感覚に最も近い言葉を探しながら、ああ、それは『美しさ』なのかもしれないと思った。どれだけ素晴らしいとされているひとであっても、どれだけ素晴らしいとされているものであっても、そのもののあり方に「美しさ」を見出すことができない限り、自分のこころは反応をすることはできない(場合によっては「下品だな」と感じることもある)。 

 

 

自分を生きると言うことの、静謐さと苛烈さを見る。ひとと同じであることは、とても楽なことなのかもしれない。ただ、ひとと同じであるということは、時に「自分は自分である」と言うことの誇りや尊厳を奪う。価値判断が外側に置かれ、ひとと同じである限りOK、しかし『ひとと異なる限りNG』ということになってしまう。花には花の美しさがあり、空には空の美しさがあり、海には海の美しさがある。同じように、ひとにはひとの美しさがある。大事なことはきっと同じ、それは「与えられた生命を活かし切る」ことではないだろうか。その『生命をまっとうしようとするものの姿』の中に、同じ生命を共にするものを、静かに、熱く、強く魅きつける光は宿るのではないだろうか。

 

 

自分を出すと言うことは怖いことかもしれない。ただ、いつまでも自分を取り繕ったままで終わりを迎えることの方が、よっぽど怖いことだとも思う。自分のままでは愛されないと感じる不安や恐怖、日々はこれらの葛藤の連続だ。しかし、自分が好きなひとのことを思う時、ただただ『そのひとがそのひとでいてくれることのありがたさ』を思い出す。自分のままでは愛されないだなんて、多分、そんなことはないのだと思う。真逆で「自分のままでなければ愛されない。自分のままでなければ愛される意味がない」のだと思う。自分は自分でしかないのだから、これで生きる【自分を生かす】のだということ。自分が自分の生き方を見た時に「お前の生き方は美しいから、もっと生きろ」と思えるような、私は、そんな生き方をできているだろうか。わからない、わからないけれど「美しくありたい」と思う。最後には野垂れ死ぬことになったとしても、自分の心が美しいと感じる生涯を過ごすことができたのならば、それを本望だなと思う。 

 

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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俺の中の俺が「ぶっ飛ばせ」と言っている。

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俺の中の俺が「ぶっ飛ばせ」と言っている。ぶっ飛ばせとは、多分、物理的に何かをぶん殴るなどという意味ではなく「もっと自分を出してみろよ」とか「もっと自分を追い込んでみろよ」とか「いい子ぶってんじゃねえよ」とか「置きにいっているんじゃないよ」とか「(32歳の分際で)何かを知ったつもりになってんじゃねえよ」とか「もっとめちゃめちゃにやってしまえよ」的な意味合いの言葉で、なう、夏を勝手に終わらせてたまるか的な心境になっている。

 

ibaya.hatenablog.com

 

女性に生理があるように、男性にも(周期的に訪れるある種のリズムがあるという点に置いて)生理はあるのだと思う。私はこれを『男の生理』と呼んでいる。魂に性差はないとは思うものの、肉体には性差がある。男にはないものが女にはあり、女にはないものが男にはある。もちろん、一人の人間の中には男性的な部分もあれば女性的な部分もある。が、今世の私は男性として生まれてきたので、非常に感覚的な話になるけれど「生まれてきたことが嬉しい」とは別次元の喜びとして「男として生まれてきたことが嬉しい」的な喜びを覚えることがある。

 

おまえと俺のキャッチボール。

愛媛で男性の友人3人と車で合流をして四国圏域をぶっ飛ばす。徳島の山奥にある祖谷温泉はイカれていて「世界にこんなヤバい場所があったのか!」と震える。道後温泉で購買をした郷土品のタワシで全身をこすると肌がトゥルトゥルになって「これはいいぞ!」と表皮の薄い顔面をこすり続けていたら肌が擦り剥けて痛い。松山市内にあるうどんダイニングばっちこいさん釜玉うどん(特盛)が暫定一位のうどん屋さんだねなどと車内で話しながら迷い込んだ山道の川辺で男同士のキャッチボールをする。

 

友達「この前、彼女に『私と7億円とどっちが大事??』って聞かれたんですよ」(パシッ)←ボールをキャッチする音

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「ロトシックスの話なんですけどね」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「で、マジで愚問だなと思いまして」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「どっちもに決まってんだろ!って答えました」(パシッ)

 

私「おお!」(パシッ)

 

友達「ははは」(パシッ)

 

私「どっちもに決まってんだろ、って、いいね」(パシッ)

 

友達「ははは」(パシッ)

 

ー 鈍川温泉を経由してライトアップされた夜の今治城でキャッチボールをする。

 

友達「圭吾さん聞いてください」(パシッ)

 

私「はい!」(パシッ)

 

友達「今、100のやりたくないことリストっていうのを書いているんですけれども」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「やりたいことリストよりも、やりたくないことリストを見せ合った方がですね」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「なんだかお互いのことがよくわかるような気がすると言いますか」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「書いていると楽しいんですよね」(パシッ)

 

私「それは楽しそうだね」(パシッ)

 

友達「圭吾さんは、やりたくないことってありますか?」(パシッ)

 

私「そうだねぇ、食べ過ぎちゃうことかなぁ」(パシッ)

 

友達「わかるぅ〜!」(パシッ)

 

ー 隙間時間を見つけてはキャッチボールをする。

 

私「ありのままでとかいう言葉あるじゃん」(パシッ)

 

友達「はい、ありますね」(パシッ)

 

私「明らかに覇気のない人が『ありのままで』とか言っているのを見るとさぁ」(パシッ)

 

友達「はい」(パシッ)

 

私「ありのままでいい訳ねーだろ!って、思っちゃうんだよねぇ」(パシッ)

 

友達「わかるぅ〜!」(パシッ)

 

ー キャッチボールをする。

 

友達「この前、新潟の焼肉屋で男友達四人で焼肉を食べながらセックスの話をしていたんですけどね」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「隣の席に男女のカップルが座っていて」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「彼氏がトイレで席を立った時に、これは多分僕がシックスナインとかそういう言葉を大きな声で話していたからだと思うのですが、隣の席の女性が突然声をかけてきて」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「ねえねえ、あなた、女をなめているの??って」(パシッ)

 

私「おお」(パシッ)

 

友達「いえいえ、全然なめていませんって僕は答えたんですけど」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「なんて聞いたんだっけなぁ、僕は、その女の人に『さみしくないですか?』ってことを聞いたんです」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「そうしたら、その女の人は『さみしくなんてないよ。今、幸せだよ』って言ったんです」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「で、そうですかって答えた後に」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「僕はもう一回『本当ですか?』って聞いたんです」(パシッ)

 

私「聞くねえ」(パシッ)

 

友達「多分それがよくなかったのかもしれないのですが」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「その後、レジで会計を済ませる時もセックスの話をしていたら、奥の方からもう一回その女の人が僕の方に向かってきて『お前、マジで女をなめるんじゃねえよゴルァ!!』って胸ぐら掴む感じで言ったんです」(パシッ)

 

私「おお、それはすごいね」(パシッ)

 

友達「なんだかすごいなあと思って」(パシッ)

 

私「うん」(パシッ)

 

友達「その後、帰りの車内で『この現状をどのように思うか』という話題で盛り上がったんです」(パシッ)

 

私「それは盛り上がりそうな時間だね」(パシッ)

 

「本当ですか?」という問いは最高だなと思った。

 

俺の中の俺が「ぶっ飛ばせ」と言っている。

男友達と過ごしていると「ああ、俺は男なんだな」ということを思う。女性と過ごしている時には味わえない感覚が、男友達と過ごしている時間の中にはある。逆に言えば、男友達と過ごしている時には感じることのできない感覚が、女性と過ごしている時間の中にはある(それは安らぎであったり抱擁されている感覚であったりする)。こんなことを言うとバカみたいだと思われてしまうかもしれないけれど、女が女でいてくれると、自分も安心をして男でいることができる的な感覚になることがある。男の子的な「かっこよさ」と、女の子的な「かわいさ」。私はわかりやすいものが好きだから、男の子として生まれてきたからには「うおー!これはかっこいい!」と思ったものなり道なり人なりを見つけた時は、やっぱり興奮をする(全然関係ないけれど、横浜のごちゃまぜの家でなう積極的ジェノサイドが行なわれようとしているので、お時間のある方はよろしくお願いいたします!!)。

 

tpd.hateblo.jp

 

と、ここまで書いたところで19日(火)の20時から鹿児島市内で開催されるイベントに招待をしていただけることになってとても嬉しい。今は福岡市内のタリーズの無料Wi-Fiを拾いながらこの記事を書いていて、実は(先日奇跡的な流れで購買をした)MacBook Proを使って書いているのだけれどタイピングが全然慣れなくて変な文章になる。鹿児島市内のイベントは誰でも参加できる内容になりますので、興味のある方は是非遊びにきてください(鹿児島在住の方で「いばや通信」などを読んでいてくださる方はいるのだろうか。いてくれたとしたらものすごい嬉しい。リアルでお会いできた際には、是非、握手をしていただけたら嬉しいです!)。

 

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俺の中の俺が「ぶっ飛ばせ」と言っている(多分、これは『生き急げ』という言葉のニュアンスに近いのかもしれない。誰も生き急げなんて言ってくれない。が、個人的には「普通の人が10年かけてやるようなことを三日でやりたい」などと思うことがある…)。これはもう何かが溜まっているのかもしれない。溜まっているものは吐き出さないといけない。でも、どうやって・・・と。タイピングに慣れるために隙間時間を見つけてはメモ帳機能に思いの丈を綴っていた。昨日、あまりにも暇過ぎたので最寄りのカフェで自分の思いをパソコンに乱れ打ちしていた。ら、こんな言葉を書き殴っていて「ああ、俺はこんなことを思っているのか」と思った。

 

美しい文章を綴りたいものだ。


人の心の中にある美しい部分を引き出すことができるような、


美しい文章を綴りたいと思う。

 

弾丸も言葉も同じだ、俺たちは命のやり取りをしているのだ。剥き出しの人間でありたいと思う。多分、言葉と剣は似ている。人を殺す道具にもなれば、人を生かす道具にもなる。言葉という生身の剣を振るうのは、人間を殺すためではなく「人間を生かすため」でありたいと思う。時には誰かを斬り落とす(斬り落とされる)こともあるかもしれない。が、それは「お前はそんなもんじゃないだろう」という、相手【己】の生命を信頼する(根源的な力を導き出す)からこその行為であるということを、忘れずにいたいと思う。

 

 

 

https://www.instagram.com/p/BZKu55wlpHT/

夏の朝にキャッチボールを。

 

人生は続く。

  

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

photographed by Chiaki Toyozumi

それで生きていこうと思えば、生きていけないことはないんだよ。

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小倉港から松山港にはいり、いま、道後温泉駅前の喫茶店にいる。来週の18日以降は再び福岡に戻り、対談形式のトークイベントに出演をさせていただくことになった。稀に、出会う方々から「坂爪さんは講演活動で飯を食べているのですか?」と尋ねられることもあるけれど、講演と呼ばれるようなものは過去に一度もしたことはない。一方的に話すことがあまり好きではないので、教える・教えられるという関係性よりも「互いに引き出し合う」的な、あくまでもフェアな状態で「講演というよりは会話」をしたいと思っている。

 

ameblo.jp

 

最近思うことあれこれをまとめます。

 

1・「家のない生活」のはじまり。

2013年のバレンタインデー、東京で記録的な豪雪を記録した日に私は能動的にホームをレスした(当時、同棲をしていた彼女と別れたことがきっかけ)。あの頃は、林修先生の「いつやるの?いまでしょ!」という言葉が流行っていて、別れることが決まった私たちは「一緒に住むのも変だよね」ということになり、荷物の少ない私が家を出ることになった。当時の彼女は、私に「いつ出るの?」と尋ねた。私は、ああ、これはなんか聞いたことがある流れだなと思って「いまでしょ!」と答えた。別れても一緒に暮らすというのは個人的になんかこういろいろとアレだなと思ったので、一時間程度で荷物をまとめて「元気でね」と言って家を出た。

 

これが、わたしの「家のない生活」のはじまりになる。

 

2・家のない生活は「おいしい生活」だと勘違いをする。

ホームをレスした私は、まず、最寄りの喫茶店にはいって彼女と過ごした日々を思い出しながら感傷に浸っていた。が、20分くらい感傷に浸ったのちに「そんなことよりも今夜の家はどうするのだろうか」という現実的な問題にぶち当たった。私は、私の数少ない友達A君に連絡をした。事情を伝えると、友達は「それは大変だったな。今夜はうちに泊まるといい。肉でも食うか?」ということになって、焼肉をご馳走してくれた。翌日、さすがに連泊をするのも迷惑だと思い「まじでありがとう。すごい助かったよ」と感謝を伝えて家を出た。私は、もうひとりの数少ない友達B君に連絡をした。すると、B君は「それは大変だったな。今夜はうちに泊まるといい。肉でも食うか?」ということを言ってくれて、私は二日連続で焼肉を食べた。

 

この時、愚かな私の頭の中で「家がないと焼肉が食える!」という方程式が成立をした。

 

3・家がなくなると、家がある時よりもいいものが食える。

基本的に貧乏生活が長かった私は、ひとりでご飯を食べる時は納豆ご飯(山盛り)とかで済ませることが多い。家を失った当時、私を哀れんでくれる様々な方々から様々な物資を受けた。心根が腐っている私は「これはいろいろなものが食えるから美味しい!」みたいなことを思うようになり、よし、ここはいっちょ家のない生活がどこまで通用するのかを自分を使って試してみようと思うようになった。もともと、東京の家賃は高すぎるとも思っていた(家賃のために働く必要があるなんてちょっと自分にはかなりしんどいぞ、的なことを感じていた)ので「仮に家がなくても生きていけるようであれば、生きるハードルも下がるからハッピー!」みたいな軽めのノリで、ダメならダメでダメになった時に考えればいい、あとは野となれ山となれであれ的な感覚で「家のない生活」をはじめた。

 

結果的に、この生活は2年間続くことになる。

 

4・坂爪圭吾を泊めるための予約待ち状態が発生をする。

もともと友達が少ない私は「友達の家を渡り歩くにも限界がある。さて、どうしよう」ということを考えた後に「徹底的に自分を出せ」という言葉【神のお告げ】が脳裏をよぎるのを感じた。自分を出せば絶対にうまくいくとは限らない、でも、自分を出したらもしかしたらうまくいくかもしれないという非常に抽象的な予感を感じて、よし、それならば自分の置かれている現状なり己の人間性や所持金や各種連絡先などもすべてオープンにして「これが私です。こんな私を面白がってくれる人はお気軽に連絡をください」的なことをした。ら、非常に驚いたことに(多分、私は猛烈に幸運な星のもとに生まれているのだと思う)まだ出会ったこともない様々な方々から「渋谷に来たらラーメンをおごるよ」とか「川崎に家があるから自由に使っていいよ」などといった連絡が届いた。

 

そして、いつの間にか「坂爪圭吾を泊めるための予約待ち状態」が発生をすることになる。

 

5・バイトリーダーがシフトを組む。

私は「なんだこれは!」と思った。己の電話番号なども公開をしていたので、いろいろな人から連絡が来る。あるひとは「もしもし、坂爪さんですか?おうちがないんですよね?今夜、うちに泊まりますか?」と電話をくれる。私は「非常に申し訳ないことに今夜は他の方の家に泊まる予定になっているのです。が、明後日の22時以降ならお伺いできるのですがご都合はいかがでしょうか??」みたいな感じで、さながら『バイトリーダーがシフトを組む』的な感覚で己の宿泊先が埋まっていった。私は、家がなければ人間は生きていけないものだと思っていた。が、家がなくなると「家が増える(いつでも泊まりに来てくださいと言ってくれる人が増える)」という謎の逆転現象に、生きていることの奥深さを見た。

 

「この生活には、なにかヒントがありそうだ」と思って、私はこの生活を続けた。

 

 6・人間はいつも成長している。

家なし生活の醍醐味は「普段は出会わないひとに出会いまくる」ことにあると思う。私の敬愛するブルース・リー氏も「人間はいつも成長している。しかし、人間はパターン化された思考や行動によって行動を制限されると、成長を止めるものだ」的なことを言う。型にはまると、小さな世界でしか物事を考えられないようになり、生命全体の広がりを感じることがなかなかどうして難しくなる。家がないということは非常に心もとないことでもあるけれど、自分の人生から「帰宅をする」という動詞が消え失せるために、普通の人が帰る分だけ「前に進む」ことができる。これがいいことなのか悪いことなのかはわからないけれど、当時、28歳の若造だった私には「その日の朝には想像もしていない夜を過ごす」ことができているという事実に、何かこう静かな興奮を覚えていた。

 

やがて、全国各地からも声がかかるようになる。

 

7・人生は何が起こるかわからない。

「君の生き方は面白いね。よかったら、交通費を出すから○○までおいでよ」的な連絡が届くようになる。最初に呼ばれたのは佐賀県武雄市で、以来、結果的に家のない生活をはじめてから日本全国47都道府県全てに足を運ぶことになり、2年目にいたっては海外からも声がかかるようになって20カ国近くに足を運んだ。誤解をされると困るが、私は「どうだ!俺の生き方はすごいだろう!わっはっは!」みたいなことが言いたい訳ではない。自慢をしたい訳ではなくて、自分の身に起きている謎の現象をみなさまと一緒に考えることができたら嬉しいと思っている。これがなければ生きていけないと思っていたものを手放した先に、それがあった時にはとてもじゃないけれど想像もすることができなかった世界が展開されることが(人生には時折)ある。

 

ー 生きるために必要なものは、多分、それほど多くはない

 

8・増やすな。捨てろ。

「最近思うことあれこれ」とか言っておきながら、過去の話ばかりをしてしまった。結局何が言いたかったのかというと「増やすな。捨てろ。」ということを最近は強く感じているということで、自分の生き方なり日々の生活の中に閉塞感や停滞感を覚える時は、何かを得ること【増やすこと】よりも『捨てること』とか『手放すこと』とか『終わりにすること』に焦点を絞った方が結果的にうまくいくことは多いのではないだろうか、と、そういうことを思っている。それは「執着を捨てる」ということで、多分、最大の執着とは「己の命に対する執着」なのだと思っている。

 

ー 軽い荷物で、遠くに行こう。 

 

9・柔らかに、たおやかに、自分自身であれ。

何か新しいことに挑戦をしようと思う時、新しい世界に飛び込みたいと思う時、希望や期待と同じくらい「恐れ」にも似た感覚を抱くことがある。自分が変わってしまうのではないだろうかという恐れ、もとには戻ることができないのだという恐れ、ひとからおかしく思われてしまうのではないだろうかという恐れや、自分が壊れてしまうのではないだろうかという恐れなど、恐れには様々なものがある。しかし、私は思う。命は、多分、壊れてしまうようには作られていない。命はもっと柔らかく、命はもっとたおやかで、それは「固定されること」や「限定づけられること」を好まない。

 

ー 命は雲のように、命は水のように、命は風のように流れている。

 

10・それで生きていこうと思えば、生きていけないことはないんだよ。

先日、18日&19日に博多で開催されるイベント主催者の方から「なにぶんはじめたばかりの活動で、集客力などといった面でも力になれることがあまりないので、坂爪さんからも告知をしてもらえたら助かります」という連絡をもらった。両日ともに残席はあるとのことなので、興味のある方はお気軽に遊びにいらしていただければ幸いです。主催者側からすると「ちゃんと人は来てくれるだろうか」とか「みんなに楽しんでもらえるだろうか」などといったことを考える気持ちはわかる。でも、一番大切なことは「主催者自身がその日が来ることを楽しみにできているか」だと思う。多分、楽しさは伝染する。しっかりとやろうとすること以上に、誰よりも自分が一番楽しんでやるんだくらいの気持ちがあれば、たとえ人が集まることはなくても「いい時間になる」のだと思う。

 

 

その営みの素晴らしさは、どれだけ沢山の人が集まったかとか、どれだけ多くのお金を動かしたかとか、どれだけ社会的に認知される活動になったかとか、多分、そういう相対的なもので決まるものではないと思う。規模が膨らむほどに、人間を人間として見ることができなくなっている環境や活動を、過去にたくさん見た。大事なことは「人間が人間として扱われること」だと私は思うし、社会システムの犠牲になって「自分が自分を人間として扱うことができなくなる」なんてことになってしまったら、それこそ生きていることが苦しいことになってしまう。

 

 

常に自分自身であるということ。ひとに合わせようとするばかりに、自分を殺すような真似だけはしないこと。たとえ嫌われるようなことがあったとしても、笑われても、馬鹿にされても、周囲と同じでいることができない自分を駄目だと思うことがあったとしても、それでも「自分は自分である」ことの品格と尊厳を護ること。自分は自分でしかないのだから、自分は自分でいいのだと、自分はこれで生きるのだと、完璧な人間になることのできない自分を責めることよりも、完璧な自分であることを願うように。何者かになりたいとは思わない。ただ、自分でありたいと思う。

 

 

 

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それで生きていこうと思えば、生きていけないことはないんだよ。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

誰かの期待に応えるのではなく、己の期待に応えること。

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福岡県糸島市を経由して、いま、博多駅にいる。おとといの夜は福岡市在住T様(どちらもこの日が初対面)のご自宅に、昨夜は糸島市在住M様のご自宅に宿泊をさせていただいた。今夜21時55分小倉港発のフェリーに乗り、愛媛県松山市に向かう。ちょうどいま、福岡市内在住の男性から「会えませんか」という連絡が届いた。今日は何も予定がないので、その方とお会いしたのちに私は小倉に向かうだろう(そして、名物とされている焼うどんを食べるのだと思う)。

 

最近思うことあれこれをまとめます。

 

1・初日の夜、印象的な出来事があった。

寝床を提供してくれたT様は現在31歳の男性で、T様が18歳の時に父親は亡くなり、病院で働く母親と2人で暮らしている。小柄で可愛らしいお母様を前にした時、ああ、自分の母親と似ているなあと思った。お母様は「主人も、生前はひとを家に連れてくることが大好きなひとだったから、いま、こうしてまたひとと話せることが嬉しいです」ということを話してくれた。その日、お母様があまりにも楽しそうにこれまでの人生のことをあれこれ話してくれるものだから、私はひたすら話に耳を傾けた。一通り話し終えた後、お母様は「今日は私ばかり話してしまいましたね。明日も仕事なので私は先に寝ますが、どうぞゆっくりとお寛ぎください」と言って寝室に消えた。

 

2・次の日の朝。

目覚めると同時にその家を出ることにしている私は「お世話になりました。おかげさまで最高の時間を過ごすことができました」と御礼を伝えると、お母様は「こちらこそ、是非また遊びに来てください。久しぶりにひとと話せて嬉しかったです」という言葉をくれた。この言葉、この『久しぶりにひとと話せて嬉しかったです』という言葉が、いまでも強く印象に残っている。

 

3・人間よりも機械に近い。

いま、私は博多駅にあるドトールの店内にいる。誤解を恐れずに言えば、チェーン店の店員さんはマニュアルに忠実で、人間であるというよりも機械に近い印象を受ける。ドトールの店員さんは、多分、毎日いろいろなひとに会っている。自分【坂爪圭吾】なんかよりもずっと、毎日大量のひとびとと出会っているはずだ。これは病院で働くお母様も同じだと思う。毎日たくさんの患者さんと接しているはずのお母様が、別れ際、久しぶりにひとと話せて嬉しかったですという言葉をくれたことを「面白いなあ」と思った。

 

4・これだけのひとが暮らしているのに、なぜ、孤独という気持ちは発生するのか。

日本には現在1億人を超える人々が暮らしているとされていて、生きている限り、仕事をしている限り、大量のひとびとと出会う。それなのに、なぜ、孤独という気持ちは発生するのだろうか。そういうことを思うことがある。いまいる場所を見渡してみても思う。隣の席にはサラリーマンのおじさんが座っていて、奥の席にはスマホをいじっているお姉さんが座っている。すぐそばに人間はいるが、私とあなたの間にある接点は皆無で、ひととひととの結びつきのようなものはない。孤独は、多分、当たり前のことだけれど満員電車に乗ることでは解決できない。ひとがいるということと、孤独ではないということは同義ではない。

 

5・ほんとうのことを話しているか。

ひとと話をするときに、みんな、どれだけ『自分の本音』を口にしているのだろうか。生きている限り、普通の生活を続けている限り、会話は大量に発生をする。誤解を恐れずに言えば、自分を含めた多くの人々は、表面的な会話のやり取りに終始をしていて、ひとと話をしていても「ほんとうに話したいこと」は何も話されていないと感じることは多い。別に、誰にでも自分の本音を話す必要はないと思う。が、いざという時(このひとには自分の本音を伝えたいと思った時)に、自分の思いを口にすることに慣れていない場合、重要ななにかを伝えるということができなくなる。

 

6・真実は、多分、短い言葉で語ることができる。 

私は「話の長いひと」や「声が大きいひと」があまり得意ではない。どれだけいいことを言っていたとしても、話が長いと緊張感が薄れ(多分、話しすぎることで大事な部分が薄まっていくのだと思う)、眠くなる。同じように、声が大きい人も「うるさいなあ」という思いが先に立ち、会話の内容が頭にはいってこなくなる。私は思う。真実と呼ばれているものは、多分、叫ばれるものではなく「短い言葉でささやかれるもの」だと思う。話が長くなるほど・声が大きくなるほど真理【本音】からは遠ざかる。正義を主張するひとに対する違和感も、これと同じことだと思う。自分は正しいのだということを声高に主張をしているひとを見るほど、誰かの間違いを必死になって糾弾しているひとを見るほど、私は「つらそうだなあ」ということを思う。

 

7・主語を取り戻す。

自分の本音がわからないと話すひとは多い。自分自身も例外ではなく、俺はなにがやりたかったのだろうかとか、俺はなにが言いたかったのだろうとか、日々悶々とすることは多い。我が身を振り返ると、自分が悶々とする時は「主語が自分以外になっている時」が多いのだと思った。あのひとにわかってもらいたい【認められたい】とか、あのひとは楽しんでいるだろうか【喜ばせたい】とか、どうすればあのひとを幸せにすることができるだろうか【幸せにしたい】とか、自分以外の人間が主語になっていることを考えている時間は、なにかこう、軸を見失いがちでブレる。誰かのことを考える時間を、決して、無駄だとは思わない。ひとがひとを思う気持ちほど、この世の中に尊いものはないとさえ思う。が、そのことで「自分を見失う」結果になることが多いのも事実で、この辺の精度を高めたいと思う。

 

8・誰かを救おうとしないこと。

SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】や文章を綴る営みを続けていると、稀に「あなたのおかげで救われました」的なことを言っていただけることがある。このように言ってもらえることはとても嬉しい。とても嬉しいことだけれど、でも、あくまでも「他者の喜びは副産物である」ということを忘れたくない。私は、自分の中で決めたルールがひとつだけある。それは「誰かを救おうとしないこと」というもので、それがどれだけ素晴らしい考え方だとしても、他者に押し付けた瞬間に暴力になると思っている。が、気をつけていないと、情にもろい私はすぐに「自分でも力になれることがうれしい!誰かのために◯◯をやろう!」みたいな感じで、問題解決型の人間になる方向に舵を取りがちになることがある。

 

9・問題解決型ではなく、いつの間にか「問題が問題ではなくなっていた型」の方が自分には合っている。

私には「問題解決型」の生き方は合わない。最初は「よし、やるぞ!」みたいな感じで意気込むものの、その勢いも翌朝には消えている。多分、誰かのために生きるという考え方は『美しいけれど疲れる』ものだと思う。自分に正直になって考えて見ると、意外と、自分は自分勝手な生き物でそれほど他人のことを思うことはできていないということを知る。それならば、もう、自分は徹底的に自分を生きることなのだなと毎回思う。目の前にある問題を解決するためになにかをやるというよりも、とにかく自分のやりたいことをやっていたら勝手に元気になったり勝手に救われたり勝手に勇気をもらうひとたちが続出をして、いつの間にか「問題とされていたことが問題ではなくなっていた」みたいな状態になることを理想としている。家のない生活をしていた頃も、同じようなことを思っていた。家のない生活を「問題だ!」と思ってしまうとかわいそうな自分の完成だけれど、家のない生活を面白がって続けてみたら、結果的に訳がわからない生活に突入をしている(この生活を、自分自身トータルで気に入っている)。

 

10・その日の朝には想像していない夜を。

「趣味は自爆です」と言える位には自爆を続けている今世だけれど、小生、大事なことは「誰かの期待に応えることよりも、己の期待に応えること」なのだなあということを頻繁に思う。誰かのためになることは素晴らしい。誰かの役に立てるということの中には「生まれてきてよかった」とさえ思える嬉しさがある。が、そればかりがメインになると、俺はなにがやりたかのだろう的な意味で自分自身を見失う(端的に「疲れる」)。私がブログを書く理由、私が諸々の営みを続ける最大の理由は「それをしていなければ絶対に出会うことのなかったヒト・モノ・コトがあるから」なのだと思う。その日の朝には想像もしていなかった夜がある。だからこそ、自爆を続けながらも「もっと生きたい!」などと思ったりもするのだと思う。

 

 

 

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誰かの期待に応えるのではなく、己の期待に応えること。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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もう、良い人間の振りを続けることは終わりにしよう。

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爆発しがちな諸事情が爆発して、これから13時30分成田空港発の便で福岡空港に飛ぶ。が、福岡で予定がある訳でもなく、単純に、同じ場所に長いこといることができないという己【坂爪圭吾】のカルマに依るところが大きい。定期的に訪れる「ここではない何処かに…(行きたい!)」願望にまかせて横浜の家を飛び出したものの、行き先で予定も何もある訳でもないから「福岡界隈【九州全域】の方で暇な方がいたら声をかけてもらえたら(交通手段さえどうにかなれば何処でも行けるから)嬉しいなあ…」などと思っている。基本的に移動は徒歩になるために、取り急ぎ福岡空港から筥崎宮まで(腑抜けた自分に鞭打つために)歩きたいと思う。

 

 

SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】に関する悩みも無限にある。責任者(?)であるわたしが多動症であるために管理能力は皆無で、誰か、適格な方に(たとえば一週間とか期日を決めて交代制で)管理人的なことをやってもらえたら半端なく助かる。いま、菊名の家にはそれなりの食材があるのだけれど、すべてを放置したまま家を出てきてしまった。多分、ある程度のひとの出入りが生まれれば、管理人など設けなくても(自然の摂理的なアレで)どうにかなるのだろうとは思うのだけれど、さて、どうしたものかと思っている。おととい、小さなこどもを連れたお母さんが菊名の家に遊びに来た。子育て中のおかあさんは、どうしたってこどもと(密室の中で)一対一の激烈ロングタイムを過ごすことになるから、多分、必要なことは「他者がいる中にこどもをぶん投げて、ひとりの時間を死守すること」だと思った。時間のあるひとが菊名の家に遊びに来て、子育て中のおかあさんはその中に愛しい我が子をぶん投げる。単なるジャストアイデアに過ぎないけれど、子育てに行き詰っているお母さんがいたら「試しにごちゃまぜの家で一週間程度暮らしてみる」的なスタイルは面白いのかもしれないと思いました(興味のある方はお気軽にご連絡ください!)。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

生命は、それ自体が欠落を抱えている。

昨夜、長文をフェイスブックに投稿した。

 

【最近思うことあれこれ】

 

1・先日、札幌でお会いした方が「自分はこどもをひとりで育てている、生活のため、嫌なことでも仕事はやらなくちゃいけない。職場で違和感を覚えることもあるけれど、自分の力でなにかを変えられるとも思えないし、やることが多くて常に疲れている。やりたいことを探さなくちゃいけないとも思うけれど、目の前のことをこなすことだけで精一杯で、考える気力も奪われている。毎月安定した収入がはいってくることに安堵感もあるけれど、時折、なんのために生きているのだろうかと思うこともある」と話してくれました。

 

2・このように感じているひとは、もしかしたらものすごい多いのかもしれない。そのひとの身になって考える、なんて言葉にするとウルトラ安っぽいし嘘臭いしそんなことは不可能なことだとも思うけれど、話を聞きながら「それはものすごい大変だろうなあ…(自分も同じ状態になったら、多分、そうなるだろうなあ…)」と思いました。

 

3・こんな時に、果たして自分になにができるのだろうか。なにを言えるのだろうか。そんなことを考えながら、ただ、そのひとの話を聞いていました。一通り話を聞いたあと、そのひとは「どうすればいいんでしょうね」と泣き顔にも似た笑顔を浮かべながら尋ねました。私は「なにも言えねえな。こういう時に言葉はまじで無力だな」的なことを思いまして、こういう時は言葉よりも温度感だということに相成りまして「ハグをしましょう!(照)」となってハグ(照)をしました。

 

4・ハグという言葉はあっちこっちで使われているけれど、正直、この言葉を使うのは非常に小っ恥ずかしい気持ちになるから本当はあんまり使いたくない。かと言って、抱き締めるとかなんとか言っちゃうと言葉が重過ぎるから、ほかになにか適当な言葉はないだろうかなあと考えた結果「ダグ」という言葉を開発しました。

 

5・思うに、現代社会の問題点は「深刻なダグ不足(!)」にあるのではないだろうかと睨みました。言葉も確かに大切だけれど、言葉はコミュニケーションの一手段に過ぎなくて、多分、言葉だけじゃない(頭だけではない身体的な)やりとりというのはこの世の中に無限にあるのだと思います。これだけ文明が発達しているというのに、なぜ、戦死者以上の自殺者を毎年輩出しているのだろうか、ということを稀に考えることがあります。

 

6・原因は108個くらいあると思うけど、そのひとつに「なんでも自分ひとりの力でやらなくちゃいけない病」みたいなものが蔓延していて、こどもを育てるのもお母さんがひとりでやらなくちゃいけない、自分の悩みは自分ひとりの力で解決しなくちゃいけない、自分ひとりの力で生きていけるようになって一人前(誰かの力を借りるのは半人前)みたいな厳し目のルールが大前提にあるから、多分、それができなくなった時に(誰にも頼ることができなくなって)ウルトラしんどくなる、ということを思いました。

 

7・生命は、多分、それ自体が「欠落」と呼ばれるようなものを抱えていて、自分ひとりで生きられるようには作られていないのだろうなあと思うことがあります。男だけ(女だけ)ではこどもを産めないし、動植物がなければ人間は食べるものさえ確保できないし、人間だけではない、花粉を運ぶ虫や風がなければ花だって子孫を残すことはできない。各々が各々に欠落を抱えていて、その欠落を補い合うように、世界はまわっているのだとでも言いましょうかそんなことを思います。

 

8・欠落という言葉にはネガティブな雰囲気があるから「完璧にならなくちゃいけない!」みたいなことになって、完璧になれない自分を責める。完璧になれるようになんて作られていないのに、各々が各々で完璧になれるように努めてしまうから、結果的に(不可能すぎることに挑戦させられているから)余裕を失い、孤立感や分離感が生まれ、全体的になんかこうギスギスした世の中になる。

 

9・SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】という活動をやっていて思うのは、自分ひとりで完璧になろうとするのではなく「他者に頼る力」とか「他者に委ねる力」とか「他者に甘える力」を養う、そういう機会としてこの場所が機能をすればいいなあということです。なんだろう、全然うまく言えないけれど「よろこびとは、補い合うことである」ということを最近は感じていて、まじで人間はひとりで生きられるようにはできていない。のに、いまの世の中は「ひとりで生きろ!」と言われている風に感じることがあって、それが割と無理目に感じることが多いということです。

 

10・もちろん、自分ひとりの力でやらなくちゃいけないこともある。他者に委ねちゃいけない自分自身の聖域みたいな部分も確実にあるとは思うけれど、でも、単純に思うのは「抱き締めあった時のよろこびは、絶対に、自分ひとりでは感じることのできないものである」ということです。当たり前のことだけれど、抱き締めるという行為は、自分ひとりでは絶対にすることはできない。

 

繰り返しになるけれど、最近は「生命は、それ自体が欠落を抱えている」ということを強く感じていて、完璧になることなんてできない(そもそもでなる必要がない)はずなのに、完璧であることを要求する(自分自身に強制してしまう)から苦しくなるのではないだろうか、ということを感じています。なんのために他者はいるのか、それは「お互いに足りない部分を補い合う」ためなんじゃないのだろうかと、別に綺麗事を言いたい訳じゃなくて、ただ、そっちの方が自然である【理に適っている】のではないだろうかと思いました。

 

写真はとある森の中の風景です。巷では「あなたを幸せにできるのはあなただけ。あなたを不幸にできるのもあなただけ」みたいな言葉を耳にすることもありますが、否、意外と「誰かがいなければ絶対に感じることのできない幸福もあるんじゃないだろうか」などと思います。だからこそ、ひととひとが出逢うということの中には、これまでの自分を別人に変えてしまう力【人生を大きく動かす力】があるのだろうなあと思いました。

 

その後、コメント欄にこのように書いた。

 

自分が自分であるということの品格や尊厳を保ちながら、他者【世界】を信頼する勇気を持つ。堅苦しい表現になるけれど、そういうことなのかなと思いました。

 

私は言葉が下手くそだから、細かいニュアンスを適切に伝えることができない。毎度、文章を書いた後は「ええいままよ…全然言いたいことが言えていないじゃない…が、あとは読み手の受け取り能力に委ねる!頼む、届け!(わかってくれとは言わないけれど、わかってもらえたら物凄いうれしい)」みたいな気持ちになる。行間を読むという言葉もあるけれど、言葉とは、言葉にされていることそのものではなく「言葉にされていない部分を浮き彫りにする」ために、語られているのではないだろうかとさえ思う。自然が表現者として優れているのは、多分、語らずして語るという極上レベルの表現を為し得ているからだと思う。大事なことは、語られていることよりも「語られていない部分」なんじゃないだろうか、と、暇なわたしは(たとえばこういうことを歩きながら&ひとと話しながら&ロングタイムの移動を繰り返しながら)考えたりしている。

 

【過去記事】星に願いを、花に祈りを。 - いばや通信

 

お前、前のめりに愛せるか?

最近のテーマは「前のめりに愛せるか?」ということで、多分、自分が好きなことと自分が得意なことは違う。わたしは、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】のような空間をつくることは得意だし好きだけれど、そこに長居をすることは苦手だ。ひとと話をすることは好きだけれどうるさい環境や表面的なコミュニケーションや人混みは嫌いで、愛想笑いをすると死にたくなる。何が言いたいのかというと「いま、お前がやろうとしていることに、お前は前のめりになって愛せているか?」ということを自分に対して物凄い思っているということです。言葉を変えるなら「このひとでいいや」と思うひとと付き合うのではなく、「このひとがいい」と思うひとと付き合うということ。なにかを誤魔化すために誰かといる時間を選ぶくらいなら、ひとりの時間を選びたいということです(とか言いながら、声がかかる限り誰にでも会うようにしている生活を続けている自分が不思議だ)。

 

 

「ひとと会う」ことの重要性を思う。自分の輪郭をはっきりさせるためにも、他者の存在は必要不可欠になる。ただ会うということだけでは、多分、足りない。難しい場合もあるけれど、できる限り「自分の本音を伝えること」だと思う。自分の話に価値はないだとか、相手の時間を奪ってしまうのは申し訳ないだとか、そういう余計な思いを排除して、瞬間瞬間における自分の思いを(勇気を出して)言葉にすること。自分の本音はダイヤモンドの原石みたいなもので、他者の本音とぶつかることで磨き上げられてより一層の輝きを放つ。本音から遠く離れた会話を続けている(ひとに合わせて生きている)と、自分自身を見失う。この世の中に、自分を見失うこと以上の悲劇はあるだろうか。本音を話すことで自分を取り戻し、本音を話すことで自分のコアを精製する。

 

 

誰かになにかをしてもらいたい【可哀想な自分!】とか、誰かになにかをしてもらえない【ダメな自分!】とか、そんな思いばかりを溜め込んでいると、あっという間に被害者意識の出来上がりになる。慣れ親しんだ『不幸な自分』に酔うことは、さぞかし居心地の良いものなのだろう。が、そんなことよりもきっともっとずっと気持ちの良いことが、この世の中には無限にあるのだと思う。だからこそ、大切なことは「動き出すこと」だと私は思う。動き出すことで、自分の想像を遥かに凌駕する出来事を世界は展開してくれる(ものだと思う)。自分の中にある限られた知識や経験の範囲を超えた世界、そこに触れたいと思うからこそ、懲りずに移動を繰り返しているのだと思う(という言い訳を用意して、これから成田空港に急ぎます!!)。

 

 

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もう、良い人間の振りを続けることは終わりにしよう。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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星に願いを、花に祈りを。

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明日土曜日の11時新千歳空港発の便で羽田に飛ぶ。現在は定山渓にいて、午後には札幌市内に戻るけれども何も予定はない。もしも「どうせなら会いましょう!」という方がいらっしゃいましたら、いつでもお気軽にご連絡ください。札幌での日々が素晴らし過ぎて、これはもう是非とも札幌に(最初はどれだけ小さくても構わないから)拠点を構えたい気持ちになっている。もしも「空いている部屋なり庭なりスペースがあるよ!」的な方がいらっしゃいましたら、こちらもお気軽にご連絡をいただけましたら飛び跳ねて喜びます。私は現在、神奈川県横浜市でSCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】なる活動(?)をやっている。小規模でもいいから、札幌市内でも同じようなことをはじめることができたら「いい感じの人生だなあ…!」と思う。

 

 

昨日、札幌市内でお会いした方が「ごちゃまぜの家を札幌でもやることになったら、その時は、手伝わせて欲しい。その理由はたくさんあるけれど、坂爪さんの文章を読んでいると『本当のことが書かれている』ような気がして、年齢を重ねるにつれて(自分も含めて)誰も本当のことを言ってくれなくなり、自分自身も『話したいことを話せている』感覚を覚えることは難しくなっている。そういう日々を過ごしていると、胸の奥底になにかが詰まっていくような感覚になる。この『胸の詰まり』を話す【離す】ことができるような場所があったら、どれだけ励みになるのだろうかと思う」というようなことを話してくれた。わたしは「ああ、わかるような気がするなあ」と思った。昨日の夜、定山渓の宿からひとりきりでツイキャス音声配信を行なった。その中で「話すという行為は『離す』という効果があり、言えるという行為は『癒える』という効果があるのではないか」といった内容の話を(ちょろっとだけ)した。

 

【音声配信】不幸でいる暇はNIGHT - TwitCasting

 

話すは『離す』、言えるは『癒える』

音声配信の中では「これまでのやり方が通用しなくなる」とか「世界はあなたの表面しか見ない。世界はあなたの内側を見ることはない。しかし、あなたが世界の内側を見ることはできる」とか「欲望の根源は、ただ、さみしかっただけ」など、そういう類の話をした。『さみしさ』は私自身も感じる部分が多大にあり、強い関心の対象になる。これを読んでいるひとは、さみしい時、その『さみしさ』とどのように向き合っているのだろうか。寝て忘れるのだろうか。食べて忘れるのだろうか。買い物をして忘れるのだろうか。それとも、(それがどういう意味なのかはわからないけれど)さみしさを味わうのだろうか。過去に「さみしさは、同じさみしさに出会う時、温もりを生む」という内容のツイートをしたことがある。問題なのは『さみしさ』などの感情を覚えることではなく、それを分かち合うひとが近くにいないということではないのだろうか、ということを思っていた。

 

 

下手くそでも構わないから自分の思いを言葉にする【話す】ということは、その感情を「自分自身から離す」効果がある。逆に言えば、思考がまとまってから話そうとか、こういう思いを感じること自体を恥ずかしいことだと思って感情を打ち消そうとすると、その感情は自分の内部に蓄積をされて(最悪の場合は)腐敗臭を放つ。自分の思いを正直に『言える』ことの中には、多分、自分自身の思いが『癒える』効果がある。自分の本音を口にする機会が少なくなるほど、自分自身が表面的な存在になり、自分の本音を見失い、ひとと会う度に鈍い疲労感を覚え、誰とも『本当の会話』ができないような感覚に陥り、振り返ってみた時に『自分はなんのために生きていたのだろうか』的な最悪の感情を覚えることがある。

 

 

できることならば『本当の会話』を交わしたいと思う。からっぽで薄っぺらい言葉のやり取りではない、時に血【涙】を流すことになったとしても、温度感のある人間的な言葉のやり取りを交わしたいと思う。ここまで書きながら「勇気とはなんだろうか」ということを思った。多分、この世の中には様々な勇気があるのだと思う。いま、私が大事にしたいと思う勇気は『恥ずかしさを克服する勇気』なのだと思う。言葉にすれば幼稚な思いだ。幼稚で拙い思いだが、でも、かなりの効果がある言葉だと思う。自分のこころが「こんなことは恥ずかしいからできない!(BUT、本当はすごいやってみたい)」と思うことを、勇気を出してやってみる。恥ずかしいという理由でやめそうになったことを、実際に言う【実際にやる】ことの中には、多分、『胸の詰まり』を少なからず霧消する浄化作用があるのだと思う。

 

【過去記事】ひとりひとりの中に神様はいて、それは「大丈夫だよ」と言っている。 - いばや通信

 

神のおぼし(あふれ)飯。 

毎度唐突の告知になってしまうのですが、明日9日(土)の午後から『神のおぼしめし』 なる無料炊き出し系の企画をSCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】で開催します。乱暴にまとめると「SCRAMBLE HOUSE TOKYOでは365日炊き出しが行われているような状態になれば楽しそうだなあと思っていて、料理を作りたいひとと料理を食べたいひとが適当に集まればいい感じのバランスが生まれて勝手にいい感じになるだろうし、営利活動としてやっている訳でもないのだから誰も来なければ誰も来なかったで何も問題はないのだからやろう」的な思いで開催をしています。詳細はリンク先のページをご覧いただけたら幸いなのですが、昨日、下記のような素晴らしいメールをいただいた(ことが開催の決定打になりました!!)。 

 

【梨🍐を贈りたいです!】


坂爪さん、こんにちは!


ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしょうか?


坂爪さんの予定を見たところ、明後日に「おぼし飯」なるイベントをやられるんですか?


どういうものかわかりませんが、このタイミングでうちの梨🍐をお送りしたいと思いまして!(本当は自分が行くのが一番良いんですが、都合が合わずで💦)


前に写真で送った梨の花たちが見事に実ってるんです今♪


ぜひ食べていただきたいので、宜しければ住所を教えていただきたいです(*^o^*)

 

世界は優しさにあふれている・・・ということで、梨を食べたい方(あるいは「時間もあるし手料理でもつくっちゃおうっかな!」と思われた神様)は、いつでもお気軽にご連絡をいただけましたら幸いです(夜にはアコースティックあふれライブが開催される予定なので、遅目の参加も問題ありません)。家にあるものはなんでも使っていいということになっています。いつ来ていつ帰ってもいいし、言うまでもないことだけれど横になるのに誰の許可も要りません。話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなければいいのだと思います。ひとが来すぎるとやばいという理由からまだ住所を公開できないでいるのですが、近日中には、住所も公開できちゃったらいいなあと思っています。

 

【EVENT詳細】【神のおぼしめし −GOD WILLING-】

 

今月は11日から九州、15日から四国、18日から再び九州、23日から東北界隈に足を運びます。近隣【半径5億キロメートル圏内】にお住いの方で「さかつめが来るなら何かをやるか」的な感覚になってくれた方は、いつでもお気軽にご連絡をください。月末の岩手県ではトークイベントに登壇(?)をすることになっているので、これを機会に「東北に行ってみるか!」と思われた方は、是非、来てください。そして「〇〇から来ました!」と当日話しかけてくれたら、小生、とても嬉しいです。軽やかな気持ちで、身軽な荷物で、長距離をふわっと移動をすると「爽やかな風が吹く」ように思います。

 

【EVENT詳細】 ごちゃまぜ茶会

 

星に願いを、花に祈りを。

長ったらしいこのブログ記事をここまで読んでくださったあなたのことが大好きです。わたしの趣味【カルマ】のひとつに「おはなをあげる」というものがあり、昨日も札幌市内で隙を見てはおはなを配った。おはなをあげると、自分で言うのもなんだけれど、こんなにもよろこんでもらえるのですね!とこちらの方がびっくりをすることは多い。みさなまにも、是非、おはなを配るということを日常的な習慣に取り入れてもらえたらこれ幸いと思う。おはなをあげるのに理由はいらない。出会い頭に「はい」と言って、ただ、真っ直ぐに差し出せばいいのだと思う。理由を聞かれた時も「おはなをあげたくなったから」と答えるだけで充分だと思う。多分、たったそれだけのことで空間全体が『いい感じ』になる。余裕がある時はメッセージカードのひとつでも添えて、是非、今日でも明日でも(騙されたと思って)おはなを配ってみてください。あわよくば、おはなを渡すという体験だけではなく「おはなを買う」という体験も、同時に味わって見てもらえたら幸いです。

 

昨日、札幌市内のドトールで待ち合わせた女性E様に一輪のはなをあげた。なんだかその方が想像以上に「おはな」の存在をよろこんでくれて、その日の夜に、E様からLINEでメッセージが届いた。そこには「お花をいただいて、生まれて初めて生まれてきたことを祝福されたと感じました」と書かれていた。この言葉を読んだ時に、ああ、俺は(最近は自分で自分のことをクソだとか俺がいない方が世の中はいい感じにまとまるのかもしれないなどと思う日々の連続だったりもしたけれど)意外といい仕事ができているのかもしれない、などと思った。最近は感情の激動の日々を過ごしていて、自分みたいな人間はいない方がみんな【周囲の人々】も幸福に生きれるのではないだろうかと、自分はただただ周囲を引っ掻き回しているだけなのではないだろうか、などと思うモードのど真ん中にいた。が、どれだけダメな自分でも「ひとの幸せを祈ることはできる」という思いに立ち返ることで、心の均衡を保っていた(節がある)。

 

おはなをあげるということは、祈りを形にした行為なのかもしれない。あなたが生きていることが嬉しいのだということを、目に見えない言葉だけではなく、目に見える形にして相手の目の前に差し出すということが、なにかこう『いい感じ』を生み出しているのかもしれない(と思った)。これまで出版社の方から「本を出しませんか」というオファーをいただいてもピンと来なくて依頼を受けることはなかったのだけれど、ふと、本を書きたいなあと思った。インターネット上の文字は、紙媒体とは違って「触れることができない」からこそちょっとアレだなと思っていた。本という形に乗せて自分の祈りを具現化しようと思う時、わたしは、そこにどのような祈りを込めるのだろうか。自分自身、自分が生む出すものに興味がある。わたしはパソコンを持っていない(手元にはスマホしかない)ために、さすがにスマホで長文を綴ることはできないからすぐに何かを書き始めることはできないけれど、何かしらの流れで「MacBookの薄くて軽い持ち運びもできる最新型のパソコン!」を入手することができた暁には、それは「書け」という合図【神のおぼしめし】だと思い、移動先のあちこちで一冊の本にまとめることができたらいいなあと思う。わたしにあるものは、多分、わたしはわたしであるということの一点に尽きるのだと思う。自分という個人の体験を『人類全体の体験として共有をする』域まで昇華できるように、家のない生活に突入をしてから(2年間各地を転々とした後に)家をもらうまでの流れ【ホームレスからホームモアまでの経緯】を、一冊の本にまとめてみたいと思う。

 

 

こんばんは!

 

お花をいただいた嬉しさをお伝えしたくて、LINEしました。

 

私は、お花をいただいて、生まれて初めて生まれてきたことを祝福されたと感じました。

 

なにもなくても、そこにいていい。
なにもなくても、生きていていい。

 

どこがどうだからじゃなく。
私まるごと、そこにいてよくて、生きていてよくて。

 

突然、くす玉が割れて、全世界から、祝福されている気分なのです。


今、世界が「いかったねー」って、私に微笑んでいます。

 

今、猛烈に、生きたい、生きていたい。生きててよかった。生きていることを楽しみたいと思うのです。


そして、また坂爪さんと、同じ空を見上げ、同じ空気を吸いたいと思うのです。

 

今日、お会いできて、ほんとによかったです。

 

おやすみなさい🌙

 

https://www.instagram.com/p/BYw19rhjsLd/

平和の滝。。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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ひとりひとりの中に神様はいて、それは「大丈夫だよ」と言っている。

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西表島から淡路島を経由して、関西空港から新千歳空港に向かう。各種SNSから「新千歳空港に行きます」という投稿をしたところ、札幌在住の男性から「空港まで迎えに行きますよ」というご連絡をいただき、お言葉に甘えて車に乗せていただく。北海道神宮前にあるスープカレー屋さん『SAMA』でスープカレーをご馳走になり、男性の友達を含めて総勢6人で話をする。札幌での予定は、宿も何も決まっていなかった。関西在住の方から「札幌で定宿にしているホテルがあるので、もしよろしかったら私がとりますよ」というご連絡をいただき、いま、そのホテルにあるWiFiを拾いながらこの記事を書いている。11時には車で迎えに来てくださる方がいるので、残り時間30分程度でこの記事を書けたら最高だなあと思う。本当に、いろいろな人の世話になりながら『運ばれている』日々のど真ん中を過ごしている。

 

恩返しという言葉がある。わたしによくしてくださる方々に対して、なにか少しでも恩返しをできたらと思う。でも、冷静になると「いままで受けた恩をすべて返すことなんてできない」ということを知る。自分にできることは、かつて、様々な人々がわたしによくしてくださったように、自分も「目の前にいるひとにできることがあれば、その都度、ささやかでもそれを実際にやっていくこと」なのかなと思う。そして、全然関係ないようにも見えるけれど「自分が自分の命をまっとうしようとすること。自分を生きるということ。生きようとする姿を示すこと。最後の瞬間まで自分を生かし尽くそうとすること」が、巡り巡って恩返しにつながることもあるのではないだろうかと、そういうことを考えている。

 

 

この数日間、感情が激動する日々を過ごしていた。多分、これは自分だけではないんじゃないのかなと思う。これが自分だと思っていた自分自身や自分の信念のようなものがグラつき、これまでの日々を疑ってしまうようなことや、自分や他人に対する自信のようなものを疑ってしまったり、虚しさにも似た感情を覚えて自暴自棄になりかけてみたり、忙しない日々を過ごしていた。生きているといろいろな感情になるのだなあと、どこか、遠くから自分を観察しては笑っているような自分の存在も感じる。このブログを読んでくださっているみなさまは、果たして、どのような日々を過ごしているのだろうか。調子は良いだろうか。それとも、激動の日々を過ごしているのだろうか。誰もがみな、表面的にはそれなりにうまく日々をやりくりしているように見えながら、でも、その内実は「いろいろな気持ちになりながら、誰もがこの瞬間をどうにかこうにか生きているのだ」と思えば、同じ人間なんだなあという親しみを覚える。

 

生きていることが嬉しい。

わたしは、自分の好きなひとに対して「生きているだけで嬉しい」という気持ちを抱く。もちろん、一緒の時間を過ごしているときはそれだけではない、この時間を有意義なものにしなくちゃとか、楽しいものにしなくちゃとか、いい感じのものにしなくちゃとか、頼まれてもいないのに勝手に肩肘を張って、そして、勝手に自爆をする(気を使いすぎて自滅をする)ことがある。でも、ひとりの時間を持ち、落ち着きを取り戻した時には「ああ、このひとと一緒にいられるということが、それだけで最高に素晴らしいことなんだな」という位置に立ち戻る。なにをするからではない、ただ、そのひとが生きているということが嬉しいのだと、瞬間に、空間に、温かな眼差しを向けることができる。優しい気持ちになる。一緒にいるこちらまで「生きていることが嬉しいのだ」と、そんな風に感じることができる。 

 

ひとと出会うことの醍醐味は、まだ、自分自身でも知ることのなかった自分自身に出会うということだと思う。淡路島での日々は、自分の中でも革命的な瞬間の連続で、これまで「自分はこういう人間だ」と思っていたいくつものことが柔らかに崩壊をした。ブログ記事にできること、言葉にして説明をできることは本当に僅かなものになるけれど、自分という存在は「もしかしたらもっと柔らかいものなのかもしれない」ということを思った。最近は、溶かすとか解れる【ほぐれる】とか、そういう感覚について考えたり実感をする機会が多かった。感覚的な話になるけれど、自分のこころが好きだと思うひとと過ごす時間は、自分のこころもほぐれ、穏やかな気持ちになり、大袈裟な言葉になるけれど「世界と融解をする」ような感覚になる。この感覚は『全体性』という言葉で言い換えることができるのかもしれない。

 

稀に、ひとの身体に触れながらマッサージのようなことをする時がある。その時、相手のことを思えば思うほど【相手の身体に没入(?)するほど】、わたしは「命をあげる」という気持ちになる。この感覚を説明することはとても難しいけれど、俺の命をあなたの身体に注ぎますと、俺の命なんてどうなってもいいのだから、それによってあなたの命が開くのであればこんなに嬉しいことはないのだと、そんなことを思う(ことがある)。これは、多分、自己犠牲的な意味でのそれとは大きく異なる。「命をあげる」という感覚になっている時、わたしは、不思議な話になるけれど「最高の命を使い方をできているなあ」という風に思う。自分なんてどうなってもいいのだから、この身体を、この命を、これのために使いたいのだと思わせてくれる対象との出会い。死ぬほど大袈裟な話になるけれど、あなたのためならば死んでしまっても構わない、むしろ本望であると思えるひととの出会いは、人生観を大きく変える。自分のために使っていた命を、自分以外の他のものに使いたいと思う時、この命は「自分だけのもの」ではなくなるのだと思う。

 

【過去記事】光の記憶 - Love is always with you - - いばや通信

 

足りないものはなにもない。

弱気になる時、それは様々なことが原因ではあると思うけれど、そのひとつに「自分にないものばかりを数え上げてしまっている」というものがあると思う。巷では、よく、やりたいことがわからないとかそういう話を耳にすることは多い。事実、自分自身も「俺はなにがやりたいのだろうか」と思い悩むことはそれなりにある。しかし、毎度のことながら、やりたいことを考えても思い浮かぶことは少なく、夢も目標も理想も特にないままに生きてきた(そして、これからも生きていくのだと思う)。昨日、ふと思った。やりたいことがわからないのは、欲しいものがわからないのは、それは「すでに自分のなかに備わっているものが大量にあるから」なのだと思った。自分の中にあらゆるものがすでに備わっているからこそ、自分の外側に「自分にないもの」を探したところで、見つかることは少ない。なぜなら、自分が欲しいと思っていたものは、すでに、自分のなかにはじめから存在していたから。外側に探しても見つけることができないものは、多分、それがすでに自分の内側にあるからなのだということを思った。

 

 

ー 迷い、悩む時、それは「自分にあるものを適切に使えていない合図」なのかもしれない。

 

 

大事なことは「探す」とか「見つける」とか「発見をする」とかそういうことではなくて、自分の内側にある【自分にすでに備わっている】ものを活かすことなのだと思った。そこで、わたしは紙とペンを用意して、自分にあるものを箇条書きでひたすら書いた。自分にあるもの、それは『自然』『花』『珈琲』『音楽』『海』『空』『森』『本』『友達』『落ち着き』『五感』『声』『切り替える力』『家』『勇気』『ユーモア』などなど。そして、最後に『言葉』と書いた。紙に書かれた言葉の羅列を眺めながら、ああ、俺は「自分にあるもの」ではなくて「自分の好きなもの(自分の中にある好きな部分)」を書いているなあと思った。そして、自分にあるものと自分が好きなものは、もしかしたら同義なのかもしれないと思った。これは大事なことだと思ったので、何度でも書きたい。自分にあるものと自分の好きなものは、もしかしたら、同義なのかもしれないということ。海とか空とか森とか、とてもじゃないけれど俺の中にあるもの【自分のもの】とは言えない。ただ、自分がそれを好きだと思っている間だけは、それは自分の内側でたしかに息吹き、自分の体の一部となって、自分を支える【自分を活かす】ものになるのかもしれない。 

 

 

ひとりひとりの中に神様はいて、それは「大丈夫だよ」と言っている。

自分はこんなものだとか、自分のことをわかってくれるひとはいないだとか、そんな感覚に捕まってしまうことがある。多分、これはスネてしまっている【スネちゃまになってしまっている】だけなのだと思う。でも、本当はわかっているのだと思う。こころの奥底で望んでいることは、決して卑屈なままで生涯を終えることではない。スネている時間はないのだということを、本当は「自分を生かし尽くして死にたい」のだと、こころの奥底では望んでいるのことをわかっている。自分のことをダメだと思う感覚に捕まりそうになることはある。でも、いつまでもそこにいてはいけないのだと思う。そのままでは、自分の命に対して申し訳ない気持ちになる。この命は、自分の命であるように見えて「自分だけの命ではない」のだと思う。生かされることを待っている命、自分に役割があるとすれば、それは「こんなにも生きたがっている生命をしっかりと生かしてやること」なのではないだろうかと、そういうことを思うことがある。

 

スネている時間はない。自分にないものを数え上げているうちは、永遠に幸せになることはできない。必要なものはすでに備わっているということ。いまあるもので充分に幸せになることはできるのだということを、もっと、私達は信じていけるような気がする。いろいろなひとがいろいろなことを言うからこそ、迷い、恐れ、不安などの感情が生まれる。でも、静けさを取り戻すことができればきっとわかる。自分の内側のずっと奥の方にある声は、決して「お前はダメだ」みたいなことは言わない。心臓のビートは『生きろ』と刻み、全身に温かな血液を送り続けている。身体は生きる【生き尽くす】ように作られていて、アスファルトを突き破る雑草のように、ひとつひとつの障害を突き破るために命を燃やしている。

 

この数日間の日々の中で「自分というものは、もしかしたらもっと柔らかいものなのかもしれない」ということを思った。そして、淡路島にある森の中を歩きながら「ひとりひとりの中に神様はいて、それは『大丈夫だよ』と言っている」ということを思った。現在は9月7日木曜日の10時40分。あと20分でホテルの前に迎えの車が来る。わたしはまだ服も着替えていなければ荷物の整理もできていないままだ。ここまで書いたブログ記事を投稿して、今日という一日がはじまる。終わることのない時の重なりの中で、わたしは、何度もあなたのことを思うのだろう。自分と『あなた』の間にある境界線を、できることならば取り払ってみたいなどと思うのだろう。北海道の9月は嘘のように涼しく、今年もまた、ひとつの季節が通り過ぎていったのだということを感じさせる。

 

 

https://www.instagram.com/p/BYuFOCnjEYF/

ひとりひとりの中に神様はいて、それは「大丈夫だよ」と言っている。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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光の記憶 - Love is always with you -

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宮古島を経由して石垣島にはいり、これから西表島に向かいます。昨日、Facebookから「これから石垣島に向かいます。所持金も枯れてきたので、ひたすら歩くかひたすら自転車に乗りながら野営をするつもりです」という投稿をしたところ、様々な方々から「ここに行くといいよ!」というご連絡をいただき、数年前、関東圏でお会いした方が現在は石垣島に住んでいることが発覚をして「よかったら泊まりに来ませんか」というご連絡もいただいた。昨夜は、関西在住の神様が「石垣島はわたしも頻繁に行くのですが、ご紹介できるホテルがあるのでそちらに泊まりませんか?宿泊代金は負担をいたします」という慈愛にあふれたご連絡をいただき、お言葉に甘え、自分にとっては豪華すぎるホテルの高速Wi-Fiを拾いながらこの記事を更新しています。

 

 

愛する三森正道さん(みっつ)がいいことを言っていました。自分を変えるということは「自分の好きなように世界を覗いてもいい」と気付くことだと、三森さんは指摘をする。素晴らしい指摘だなと思う。昨夜行ったツイキャス音声配信の中でも話したのですが、これまで、私は「自分ひとりの力で生きていけるようになるのが一人前。誰かに頼るのは半人前のやることだ」という前提で世界を生きて来たように思います。が、家のない生活をはじめてから、誰かに頼らざるを得ない状態に我が身は置かれ、結果的に様々な人々の力を借りながら「自分ひとりの力ではとてもじゃないけれど到達することのできなかった地点に立つ」ことができています。

 

【音声配信】迷惑かけて、ありがとう。 - TwitCasting

 

毒を抜く。

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宮古島では空港から市街地まで歩き、来間島から空港まで歩き、徹底的に歩いてみました。炎天下徒歩はしんどいかなと思っていたのですが、結論から言うと「猛烈に優しかった」ことが大発見で、カラダを動かすのはいいなあと思いました。ある程度の距離を歩いていると、自分の中にある毒が徐々に抜けて行く感覚を覚えます。毒の名前は「恐れ」とか「迷い」とか、きっと、そんな感じの感情になるのだと思います。

 

歩き出す前は「大変だなあ」とか「面倒臭いなあ」という気持ちになります。が、実際に歩き始めることを経て湧き出すエネルギーのようなものがあって、歩き出したことを後悔したことはほとんどありません。来間島から宮古空港に向かう道中で、来間大橋という長い橋を渡ります。そこから見える雲の白と海の青が素晴らしく、ああ、という声をあげながらしばらくの間見惚れてしまいました。美しさに感動を覚える時、わたしは、同時にある種のさみしさや悲しさを覚えているように思います。すべての美しいものは悲しみを内包しているということを思うのですが、それは「永遠にはそれを見ていることはできない」という悲しみなのかな、と思います。今日の自分はもう、明日には取り戻すことができない【二度と同じ場所に戻ることはできない】ということを無意識に理解しているからこそ、悲しみという感情が湧き上がるのだと思います。そして、昔のひとは『美しみ』と書いてかなしみと読み、『愛しみ』と書いてさえかなしみと読んだことを思い出していました。

 

歩き続けることで、自分の中にある毒が抜け、勘違いかもしれないけれど「自分が透明になる」ような感覚を覚えます。なにも歩き続けることに限らず、ものをつくることで毒を抜くひともいれば、ものを育てることで毒を抜くひとも、カラダを動かすこと、歌を歌うこと、踊りを踊ることで毒を抜くひともいれば、ひとと話すことで毒を抜くひともいる。毒の抜き方はたくさんあるけれど、その共通点は「自然に触れる」このとなのかもしれないと思いました。自然とは、なにも緑豊かな場所に足を運ぶと言うことではなくて『自分の中にある自然』を思い出すような、そんな感覚に近いのかなと思いました。

 

光の記憶。

すべてが移ろいゆくこの世の中に、確かなものなどあるのだろうか。あるのはこの瞬間だけ、否、この瞬間さえもないのかもしれない。ただ、生き続けるものは「光の記憶」なのかもしれないと、そういうことを考えていました。多かれ少なかれ、誰にでも「あの瞬間は最高だった。あの瞬間はほんとうに素晴らしかった」と思えた瞬間があると思います。そのとき、その瞬間、そのひとは確かに「光を見た」のだと思います。365日24時間、常に『光』を身近に感じることはとても難しいことかもしれないけれど、でも、それでもなお「生きていればまた、同じ光を見ることができるかもしれない」と思うことが、生きたいと思う希望を生むだということを考えていました。

 

https://www.instagram.com/p/BYaWMjCj0Nw/

光にあふれている。

 

現代社会にはあらゆるものが整っているからこそ、生きること【生き延びること】は、多分、それほど難しいことではないのだと思います。贅沢を言わなければ、仕事は無限にあるし、住居も無限、衣類も無限、暇潰しになる娯楽も無限、食糧品店に足を運べば試食品も大量にあり、飲み水に困ることはほとんどない。ただ、問題なのは生きることではなくて「生きたいと思うこと」なのだと感じていました。どれだけ多くのものが出揃っていたとしても、生きたいと思う純粋な熱情が内側から湧き出すことがなければ、とてもじゃないけれど『生きている』とは思えない。なかなか周囲にうまく馴染むことのできなかったわたしは、昔、そんなんじゃ生きていけないよ的なことを言われることが頻繁にありました。その度に、わたしは「自分を殺さなければ生きていけないなら、そんな世の中を生きていきたいとは思えないよ」と感じていました。何者かになりたいとは思わない、ただ、自分でありたいとは思う。この思いを護り抜くことは、簡単なように見えて、とても難しいことでもあり、この瞬間も揺れ動く日々のど真ん中にわたしはいます。

 

【過去記事】わからないことを「わからないまま」にしておける強さ。 - いばや通信

 

Let's keep it simple.

今回の遠征にはギタレレと呼ばれている小さなギターを携えています。自分の好きな道を歩くこと、自分の好きな自然に触れることと同じように、自分の好きな歌を歌うことは自由を与え、凝り固まっていた心身を優しくほぐす力を感じます。数日前、カーペンターズのI Need to Be in Love【青春の輝き】という曲を弾いていました。その歌詞の中に〝Let's keep it simple〟という箇所があり、ああ、なんだかいいフレーズだなあと思いました。Let's keep it simple ー 生きている間に、最初から本当はシンプルだったはずのものを、複雑に考え過ぎてしまう瞬間があります。ごちゃごちゃにこんがらがりかけていた自分の思考を、Let's keep it simple【シンプルなままにしておこう】という言葉に、静かな落ち着きと共に思考をまとめあげてくれる響きを感じました。

 

It's not difficult.

人生を難しく考え過ぎてはいけない。目の前の物事を複雑にし過ぎてはいけない。きっと、もっと、生きるということはシンプルなことなのだと思う。自分は自分であり続けるということ。どこでも言われているようなこのシンプルな営みが、時に、とても難しく感じることがあります。それでも自分であり続けたいと願うのは、自分が自分であることでしか出会えなかったよろこびがあったからこそ、自分が自分であったからこそ触れることのできた光があったからこそなのだと、そういうことを思います。難しく考え過ぎてはいけない。人生を複雑にし過ぎてはいけない。三森さんが言う通り「自分を変えるということは、自分の好きなような世界を覗いてもいいのだと気付くこと」なのだと、自分で自分を許すことなのだと、忘れるたびに何度でも自分に言い聞かせるように、思い出しては言葉に残し、言葉に残す作業を通じて、自分の細胞にきざみつけているのだと思います。

 

Love is always with you.

紙とペンを用意して、思い浮かぶままに言葉を綴る。Let's keep it simpleと書き、It's not difficultと書き、その後に〝Love is always with you〟と書いた。書こうと思って書いたものではなく、いつの間にか(まるで何かに書かされていたかのように)書いた言葉に、自分自身が励まされることがあります。Love is always with youという言葉に触れて、愛と呼ばれる感情は自分から遠く離れた場所にあるものではなく、常に自分と共にあるものだということを感じました。さみしさと呼ばれているもの、悲しみと呼ばれているものの中にさえ、愛と呼ばれているものは確実に内包をされている。Love is always with youという言葉は、ひとつのおまじないみたいなものだと思います。この言葉を唱えることで、自分の外側にあるものを求めてしまう気持ちから、自分の内側にあるものを最大限に生かしてやりたいのだと思う気持ちに、それは【自分で自分を慈しむ】ような気持ちになります。そして、自分で自分を慈しむということが、時を超えて、自分以外の誰か【同じ人間】を慈しむことにも繋がればいいのだという『祈り』になることを感じています。

 

 

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ー Love is always with you.

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
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わからないことを「わからないまま」にしておける強さ。

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栃木県日光市を経由して、これから宮古島に飛ぶ。奥日光にある湯滝界隈の自然が素晴らしく、往復40分の散歩道は「歩くだけで魂が浄化される」的な感覚を覚えた。自然に還るということは「自分に還る」ということと似ているみたいで、当たり前のことだけれど「人間も自然の一部なのだ」ということを実感する。私は、多分、余分なものを持ちすぎていたのだと思う。季節は巡り、すべては流れている。いつまでも同じ季節のままでいることはできない。夏が過ぎれば秋が来て、冬の後に春が来る。そして、再び夏は訪れる。目の前にある夏は終わりを迎えるけれど、夏が来るということ【生命のサイクル】に終わりはない。季節が巡るように、多分、私達自身も巡り続けているのだと思う。生まれて来て、生きて、死ぬということを、この瞬間も繰り返して続けているのだと思う。

 

 

70卍間テレビの鎮魂的な意味合いも込めて「お骨をひろいに、いかんばなんね」という小規模な企画を立てた。多分、この世の中には『自然の摂理』とでも呼ばれているようななにかがあって、自然な流れに従っていれば物事はおさまるところにおさまり、逆に、自然な流れに抗うことで余計な問題が生まれたりするのだと思う。巷では、頻繁に「人生を変える」とか「世界を変える」みたいな言葉が使われる。しかし、人生は「変える」ものではなく「勝手に変わってしまうもの」であり、人生を変えるという言い方よりも『人生は変わる』と表現をした方が的確であるように思う。的確な言葉に触れた時、自分の内側から「ああ…」という言葉にならない感嘆の吐息が漏れる。そして、なにかがおさまる【腑に落ちる】感覚を得る。その時に感じる静けさの中に、生きて在ることの「切なさにも似た躍動」を覚える。

 

【70卍間鎮魂企画】お骨をひろいに、いかんばなんね。

 

奥日光の景観。

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散歩道の木漏れ日が素晴らしかった。

 

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湧水で珈琲を淹れるのが好きで、 

 

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太陽が顔を出すと「祝福されているな」と思う。

 

「生きている」ということ。

強迫観念にも似た義務感を動機に、なにかをやりたくはないと思う。「これをしなければいけない」とか「あれをしなければいけない」というような精神状態の中で、なにか言葉を発したり、なにか行動を起こすようなことはできるだけやらないでいたいと思う。それは、多分、自然な流れに抗っているような感覚【不自然さ】を覚えるからなのだと思う。自分を変えるだとか、自分を変えたいだとか、そういうことではなく『自分は変わる』ものだと思う。季節は変わるように、世界は変わるように、この瞬間も自分自身【人生】は変わり続けているのだと思う。好むと好まざるとにかかわらず、私達は、いつまでも同じままでいることはできない。だからこそ、ほんの一瞬でもいいから「同じ気持ちになるために」言葉を発したりなにか行動を起こしたり、ひとと会いたいと思ったりするのではないだろうかと思う。

 

この文章を綴りながら「自分はなぜ、文章を綴るのだろうか」ということを考えた。私には言いたいことがあるのだろうか。私には訴えたいことがあるのだろうか。これだけはどうしても共有をしたいと思う出来事なり考え方なりがあるのだろうか。私は思う。私が文章を綴る理由はシンプルで、それは「生きていることを伝えたい」という単純な言葉で表現をすることができる。話していることの内容は、多分、実際はどうでもいいことなのだと思う。ただ、言葉を綴るという営みを通じて、いま、お互い【読み手と書き手】に同じ時代を生きているのだということを、自分は生きているのだということを、あなたは生きているのだということを、ただ、確認したいと思っているだけなのだと思う。私はあなたを見ている【あなたは私を見ている】ということに、ささやかな拠り所を見るのだと思う。そして、生きていることを確認し合う行為の総称として『コミュニケーション』という言葉はあるのだろうなということを思う。

 

小さなこどもと遊ぶ時、ああ、こいつらはおとなの視聴率さえあれば勝手にテンションがあがって勝手に満足をするんだなということを頻繁に思う。こどもたちは「見て、見て!」と自分の存在を猛烈にアピールする。なにかを言って欲しいとか、なにかをやって欲しいとか、多分、そういうことではなくて『純粋な視線(ただ、見ていてくれること)』を求める。誰かが自分のことを見てくれている、それだけのことが「生きる力」になることがある。これは多分、こどもだけに限らない【おとなも同じ】話だと思う。具体的になにか力を貸してくれるという訳ではない、ただ、誰かが自分のことを見てくれているのだと思えることが「生きる力【前に進むための力】」を生むことがある。逆に言えば、誰も自分のことなんて見てくれてはいないのだという感覚は、そのひとから生きる力を奪い、孤立する分離感を与え、冷えきった絶望感を残す。生きているということ、それは、自分のカラダの中にはあたたかな血が流れているということ。私は生きているということ。あなたは生きているのだということ。お互いの生存を確認する視線、私はここにいる【あなたはそこにいる】ということを確認する視線、それが「コミュニケーション」と呼ばれているものなのだと思う。 

 

わからないことを「わからないまま」にしておける強さ。

生きているとはどういうことだろうか。私にはわからない。この「わからない」ということが、前向きな探究心や好奇心となって生きる方向に舵を取らせることもあれば、後ろ向きな猜疑心になって生きることが難しくなる方向【自分の人生や自分自身の存在を疑ってしまう方向】に舵を取らせることもある。わからないということは壮大な冒険のはじまりで、わからないということは「なんにでもなれる」という無限大の可能性がある。同時に、わからないということは心許なくて頼りなく、わからないということは地に足がついていないような感覚【うわついた不安感】を運ぶ。わからないことをわかろうとする強さだけではない、わからないことを受け入れる強さを、わからないことをわからないままにしておける強さを培っていけたらと思う。

 

 

 

わからないことをわからないままにしておける強さ、これは「何者でもなく生きる強さ」でもあるのだと思う。世間的な役割や肩書きなどを通じて自分を確認するのではなく、自分の外側に張り付いているものを通じて自分を誇示するのではなく、なにもかもを取り払った後に残る『生身の人間の部分』で生きるということ。何者でもない自分に耐えることができない時、誰かに「お前の役割はこれだ」と言ってもらうことでつかの間の安心感を覚えることはできる。しかし、小さな枠内に限定づけられた生命は「それだけじゃない!」という痛切な叫び声をあげ、自分はこれだけではないのだと、もっと生命全体として生きていきたいのだという悲痛な訴えを起こす。その訴えは肉体的な病気や精神的な疾患を通じてあらわれることもあり、限定づけられた生命は「おれをそこから出してくれ!」と嘆き悲しむ暴動を起こす。

 

 

自由とは「心の状態」だと思う。多分、自由になる道は二つある。ひとつは『壊す』ということ。「これが自由になれない原因だ」と感じるものを、自分の意思で壊し【潰し・殺し】にかかること。普段恐れていることをやることだとか、無理をしてまでなにか新しいことに挑戦をするとか、意図的になにかをはじめたりなにかを手放すということ。そして、もうひとつは『溶かす』ということ。肩の力を抜くということ、落ち着いた空間の中で、落ち着けるひとと過ごす時間の中で、いつの間にか自分の中で硬く凝り固まっていた部分が氷解をして、気持ちがほぐれ、溶け出し、流れ出し、気がついたらいつの間にかなくなってしまうということ。どちらの道がいいとか悪いとか、多分、そういうことはない。ただ、来る日も来る日も「変わらなくちゃいけない!」という形で自分を追い込み続ける日々を過ごしてしまっては、ココロやカラダはちぎれてしまう。なにかをしなくちゃいけないという思いからではない、自然と「なにかをやりたくなった」その時の感覚を、直感を、あたたかな触感を信じたいと思う。

 

 

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わからないことを、わからないままにしておける強さを。

 

人生は続く。

   

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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GOOD MORNING BABIES 〜自分を救え〜

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昔、躁鬱病統合失調症椎間板ヘルニアのトリプルパンチで半年間寝たきりの生活を送っていた時期がある。あの時期は地獄だった。が、あの時期があったからこそいまの自分があるのだと割と心のそこから思う。そう思うと「一回死にそうな状態になる」ことも決して悪いことではないのだろうなと思う。半年間の寝たきり生活で体重は20キロ増え、金も家も友達も何もかも失ったつもりでいたつもりは「どのような方法で死のうか」ということばかりを考えていた。が、坂爪圭吾という人間は生まれながらに『奇跡のJ字回復』をするように作られているみたいで(神様ありがとう!)、現在はすこぶる元気に生きている。その辺の詳細は過去記事に詳しいのだけれど、昨日、数年前から行なっていた『GOOD MORNING BABIES』の活動について思いを巡らせていた。

 

【過去記事】【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信

 

GOOD MORNING BABIESの誕生。

精神的に病みすぎて(ヘルニアで体も動かないし)わたしは寝たきりの生活をしていた。が、時は流れまずは最初にヘルニアが治った。当時、わたしは新潟市内にある実家で療養をしていたのだけれど、自分の存在が誰かにとってのお邪魔虫になっているのだというほど辛い実感はない。そのしんどさを拭うために、ささやかすぎるけれど食器洗いなどをすることで軽い贖罪をしたつもりになっていた(けれど実際は全然しんどいままだった)。食器洗いをするうちに、ああ、これだけでは全然足りないなあと思って簡単な味噌汁などの料理も引き受けるようになった。多分、これがものすごいよかった。精神的に病んでいる時は、ほおっておくとマイナスなことばかりを考えてしまう。が、料理をしている間だけは無心になることができた。寝ているばかりの日々に達成感は皆無なので、せめて、今日はこの料理を作ることができたというささやかすぎる達成感が、自分のちっぽけな人生にわずかながらの「充実感」を与えてくれていた(ように思う)。

 

わたしはパンが好きなので、よし、時間もあるし自分でパンを焼いてみようということを思った。が、当時、わたしは愛するジャムパンの過剰摂取で一ヶ月に20キロも太るという醜態をさらしていた。パンは食べたい。が、パンは小麦粉を多用するためにめちゃんこ太る。さて、どうしたものだろうかと考えあぐねていた時に奇跡のパンと出会う。そのパンの名前は「お豆腐ベーグル」というもので、小麦粉の代わりに豆腐を使うことでウルトラヘルシー!まさに自分のためのパンだ!とわたしは興奮をして、WEB上にある適当なレシピを参考にしながら豆腐ベーグルを作った。ら、出来た。料理の素晴らしいところは「レシピ通りにやれば一応できる」ということで、わたしは「おお、こんな自分にも豆腐ベーグルを焼くことができた!」ということがあまりにも嬉しすぎてしばらくの間自分が精神的に病んでいるということを忘れた。

 

料理は素晴らしい。料理というか「なにかをつくること」「新しいことに挑戦をすること」は素晴らしいことなのだと感動をしたわたしは、よし、これは自分1人だけではなくみんなでつくったらきっと楽しいだろうなと思って『豆腐ベーグルをつくる会』的なものを企画した。非常にありがたいことに友達が友達を呼んでくれて開催日には20名近い男女が集まった。会は非常に和やかに進み、わたしはご満悦だった。別にこれを定期的なものにするつもりは皆無だったけれど、参加者のひとりが「すごい楽しかったです!次はなにをやりますか?」なんてことを尋ねてくれるものだから、わたしは「え!次なんてあるの!」と驚愕をした。次のことなんて考えてなかった。でも、みんなでなにかをやるのは楽しいなあと思って、以後、料理教室のようなものは定期的に開催されるようになり(ここら辺が自分はウルトラ幸福者だなあと思うのだけれど)呼んでもいないのに大量の参加者がぞろぞろ集まるようになり、やがて県外や国外からも謎のオファーが来るようになって『料理教室』はわたしの生業のひとつみたいなことになっていった。

 

GOOD MORNING BABIESの終焉。

これまでの日々で料理なんてまったくやったこともない人間が「料理教室のようなもの」をやることになる流れは愉快だなあと思った。が、わたしは別に料理が好きな訳ではなくて「普段はやらないことをやること」に対して強い興味があるだけだったので、料理教室の名前は『GOOD MORNING BABIES』という料理教室らしからぬ名前にした。精神的に病んでいたわたしは「ああ、俺は死んだんだな」と思っていた。鬱病のしんどいところは「普段は感動できるあらゆるものに対して自分の心がまるで反応をしなくなる」ことだと思うけれど、何をしてもつまらない、何をしても新鮮な感動を覚えることがない状態になっていたわたしは生きていても何もいいことはないだろうなと思っていた。が、料理をしている時間だけは「ああ、楽しいなあ」なんて思っていた。自分の中にまだ死んでいない部分があるということがものすごく嬉しくて、静かな感動を覚えていた。そこで名前は『GOOD MORNING BABIES』とした。バカっぽくていいなあと思うし、自分の中にある「まだ死んでなんかいなかったこどもの部分が目覚めるような時間や空間になればいい」という思いを乗せた。

 

結果的にGOOD MORNING BABIESの活動は3年程度続けた後に、わたしの自意識の暴走により解散をする。最大の理由は「いつの間にか、自分が楽しいからやっていたはずの活動が『お客さんは楽しんでいるだろうか??』なんてつまらないことを気にするようになってしまい、お客様満足が最優先されるようになってしまったから」というものになる。わたしが楽しませたい人間は他の誰でもない『自分自身』であったはずなのに、元来、まじめ気質が強めのわたしは「お客様が楽しんでくれてはじめて自分も楽しめる」なんて状態になってしまっていた。多分、楽しみには二種類ある。ひとつは「まずは自分が率先して楽しみ、その楽しさが周囲の人間にも伝染する」タイプの楽しさで、もうひとつは「まずは一緒にいるひとが楽しんでくれることを優先して、周囲のひとが楽しそうな姿を見てはじめて自分も楽しむことができる」というタイプの楽しさ。わたしは完全に後者に成り下がっていたが、これは楽しさというよりも『安心』に過ぎないことを悟った。安心の裏には「(お客様は楽しんでくれるだろうかという)不安」が常につきまとう。こんな生き方は嫌だと思った。ひとの顔色を伺い続ける自分を死ぬほどダサいと思ったので、GOOD MORNING BABIESの活動を一旦やめて(まずは自分を徹底的に楽しませるという意味合いを込めて「とにかくやばいことだけをやる」というコンセプトで)いばやという活動をはじめたのが今から四年ほど前のことになる(その後、わたしは家を失い『家のない生活』に突入をする)。

 

GOOD MORNING BABIESの復活。 

いま、再び「GOOD MORNING BABIESの活動を再開したい」ということを思う(もしかしたら、単純にGOOD MORNING BABIESと言いたいだけなのかもしれない)。BABIES【自分のなかにあるこどもの部分】がGOOD MORNINGをする【目覚める】ような時間や空間を創出したい。堅苦しい表現を抜きにすれば、いわゆる『童心』を再び取り戻して、社会的にどのような立場にいるとか一回全部取っ払って「一緒に遊ぶ」ことができたら嬉しいと思っている。多分、誰のなかにもこどもの部分は眠っている。どれだけ年齢を重ねたとしても、こころの中には小さなこどもが潜伏をしていて、それは外に飛び出せる瞬間を待っている。私達【おとな】の仕事は、自分のなかにいるこどもを楽しませること。綺麗な景色を見せてやること。広い世界を見せてやること。新しいことに挑戦をさせること。泣きそうなときはしっかりと抱き締めてやること。生きる希望を与えること。世界は生きるに値する場所なのだということを、柔らかに示すことなのだと思う。

 

GOOD MORNING BABIESの活動はなにも料理教室に限らない。そもそもで「(普段やらないことをやるのは好きだけど)俺は料理がそれほど好きではない」という非常に根本的な事実に(3年もかかって!)気がついて料理教室的な習慣を辞めた自分からすると、GOOD MORNING BABIESの活動内容はなんでもいい、ただ「その営みを通じて童心を目覚めさせること」さえできたら、それがゴールなのだと思う。前回の記事で『あふれちゃん』について軽く触れた。すると、ブログ読者の方から素晴らしすぎるご連絡が届いて驚愕をした。何気なく発した一言が、誰かの人生を大きく変えることがある(まったく変えないこともある)。それが人生の面白さであり、あの頃、半年間の寝たきり生活を経なければGOOD MORNING BABIESも何もなかったのだなと思うと、なにがどのように転んでどのような果実を実らせるものなのかわからないものだなあなんて不思議な気持ちになる(そして少しだけ『自由』を感じる)。

 

【過去記事】大袈裟だけど、生まれてきてよかったとか、地球最高だなとか、そんな風に思うDAYS! - いばや通信

 

自分を大事にするから弱くなる。最近はそういうことを思う。これが自分だ、なんて思う自分が固まってきたら、そんな自分を蹴飛ばしてやる。ひとの目が気になると思う時、それは「自分の目」を気にしているだけなのだろう。自分自身が凝り固まってきた時は、何度でも自分を打ち壊して、何度でも自分を更新する。多分、半年間の寝たきり生活の中で「自分は一回死んだ」のだと思う。一度死んだものだと思えば、恐れるものなどなにもない、残りの日々は神様から与えられた「おまけ(ボーナスタイム)」みたいなものなのだろう。昨日、静岡市内にある温泉にはいった。鏡に映る自分の裸と対峙をした時に「俺はこれで生きていくんだな」ということを思った。そして、嬉しさにも似た静かな感覚がこみ上げてきて「望むところだ」ということを思った。多分、幸福になるヒントは「付け足すことより、削ぎ落とすこと」の中にある。余計な見栄もプライドもかなぐり捨てた時、最後に残るものに自分の生涯を賭けていきたい【駆け抜けていきたい】のだと思った。

 

 

坂爪圭吾さま

 

単なるブログ読者の七海といいます。

 

あふれちゃんに関してあふれちゃんになったので
メールしています。

 

圭吾さんはラインのほうが楽とか前に書かれていたけれど
自分はラインをやってないし
お返事を期待して書いているわけじゃなく
あふれちゃんなのでその勢いで書いています。

 

わたしは「あふれちゃん」をずっと押さえて生きてきてしまいました。

 

ものすごーく強いあふれちゃんが自分のなかに沢山いたのに
いろんな状況・人・自分の役割などまわりのことを優先して
ずっとずっとあふれちゃんを抑え込んできてしまいました。

 

さっき、自分に謝りました、ごめんね、ごめんね、って。
ものすごく泣きました。

 

自分は乳がんが骨→肝臓へと転移してしまったのだけれど
あふれちゃんを大事にしてこなかったことも
その原因のひとつだと自分は分かりました。

 

3歳の息子が日々あふれちゃんで
そのお手本をずっとずっと見せていてくれてたのに
それに気づけませんでした。

 

でも、圭吾さんの記事を読んで気づけた。
今朝、すごく分かった。
今、打ちながらも涙を流しています。

 

あふれちゃんを教えてくれてありがとうございます。

 

あふれちゃんを教えてくれた圭吾さんに
わたしが感動・感謝した
何千倍ものハッピーが降りそそぐと信じています。

 

お体、お大事に!

 

あふれちゃんをキーワードに生きていくぞーい!!!
の○○○○より

 

https://www.instagram.com/p/BRZMqPyDFOH/

GOOD MORNING BABIES

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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大袈裟だけど、生まれてきてよかったとか、地球最高だなとか、そんな風に思うDAYS!

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完治一週間と見込んでいた怪我がまるで治っていなかったみたいで、ボロボロの状態で帰宅をしてから数日間寝込んだ。前回の記事で「おはなを配ります!」と豪語したものの、結果的に言うほど配れていない。カラダは資本である。人生を楽しむためには体力が必要だ、体力がなければ楽しめるはずの場面でも楽しめないばかりか、思考が内省的になり過ぎて自分に殺されてしまう(ことがある)。やっとこさ普通に動けるようになったことが半端なくうれしい。ゴリラみたいな顔をしながら自転車をこぎ続けていると、野生的な何かがオープンになるからなのだろうか、「俺はまだ闘える」という気持ちになる。鬱病自律神経失調症などの精神的な疾患は「運動不足か睡眠不足が原因の9割」だと聞いたことがある。多分、その通りなのだろうなと思う(写真はドローンの練習をしている)。

 

https://twitter.com/noname9kokotomo/status/898247124759920640

 

前回の記事で「ポップな棺桶で寝泊まりしたい!」的な投稿をした。ら、あろうことかこの記事を見てくださった方が「勤務先に大量の廃材があるのですが使いますか?捨てるのにもお金がかかるものですから…」というご連絡をいただき、廃材の下見をした。言葉で説明をするのは非常に難しいのだけれど、長さ2メートル強の杉の柱(?)が無限にあり、敷き詰めれば(重量はあるけれど)床にもなるし壁にもなるし屋根にもなる。タイヤをつければモバイルハウスにもなるということで、これは是非何かに使わせていただきたい!と思ったものの普通の乗用車ではこのサイズを運ぶことができない。もしも「自分も廃材に興味があるからトラックを出すよ!」的な神様がいらっしゃいましいたら、是非、一緒に廃材を受け取りにいきませんか??そして一緒に何かを作りましょう!!(あと、今週日曜日にはわたり食堂【0円食堂】があります!)

 

【イベント詳細】帰ってきた!わたり食堂【0円食堂】

 

紙とペンを用意する。

その日の出来事で一番印象に残ったことを絵に描いて、その時に思ったことを書く『絵日記』をつけると超いいよ!と聞いたので、早速真似た。わたしは絵がどヘタクソで絵を敬遠していた節があるのだけれど、描いてみたら超絶楽しく、何枚も何枚も描き続けてしまった。テーマは「自分の信条を絵に描いてみよう!」ということで、ひたすら描いていたら描いていた内容を誰かに話したくなったのでここに書きます。

 

【過去記事】毎日ひとつ、自分が恐れていることをやりなさい。 - いばや通信

 

木。

わたしたちひとりひとりは「別々の命」を生きているようで、実は、ひとつの大きな命を生きているのではないだろうか(と思うことがある)。そういう気持ちになれている時は、個人的に「いま、自分は非常にいい状態ですある」という風に思う。逆に、俺は、俺は、となっている時ほど「別々の命を生きてしまっている」感が増幅をしてしまい、結果的に満ち足りない気持ちになる。たとえるなら「木にある葉っぱ」みたいなもので、わたしたちひとりひとりは一枚一枚の葉っぱみたいなもので、多分、根本はみんな繋がっている。

 

稀に、トークイベントなどに出演をした際に「どうしたら坂爪さんみたいになれますか」と問われることがあり、わたしは困る。正直に言うと、わたしみたいになる必要は微塵もないと思うし、ならない方が絶対にいいと思う(色々あるから)。マヤ語の挨拶に「インラケチ」というものがあり、この言葉には『あなたはもうひとりの私です(私はもうひとりのあなたです)』という意味がある。わたしは、この意味が好きだ。言い換えるならば「あなたは私の代わりに生きている(私はあなたの代わりに生きている)」とも言えるような気がする。私は私の命を生きる。あなたはあなたの命を生きる。それは最高に素晴らしいことだと思うし、誰かになろうとする必要はないのだと思う(それは自殺行為だとさえ思う。

 

ベクトル。

私はツイッターをやっている。が、稀に自分が投稿したやつを(気に入らなくなって)すぐに消す時がある。思うに、私が消したくなるものは「矢印が外に向いている」場合が多い。矢印が外に向いているというのは、たとえば誰かの悪口が含まれていたり、他人の生き方にああだこうだと言ってみたり、誰かしらの何かしらの発言やアクションに刺激をされて言葉を発した時など、うまく言葉にできないけれど「内発的ではないもの」は、あとから消したくなることが多い。

 

逆に言えば、自分の内側から溢れ出すもの、誰かに対する返事や意見のやりとりではない、ただ、純粋に「自分はこう思った」という矢印が内側に向いている時の投稿は、なにかこう、自分の話をしているだけなのに「人類全体に通じるようなサムシング」に触れた的な手応えを覚えることがある。自分を徹底的に掘ることで、多分、人類全体に通じる何かを得る(ことができる場合がある)。ベクトルはあくまでも内側に。他人の生き方をああだこうだと言いたくなった時は、まず、自分は自分を真面目に生きることができているのかを確認すること。ひとのことをああだこうだと言うよりも、自分の精度を高めた方が諸々早い。

 

あふれちゃん。

最近「あふれちゃん」という言葉が好きで、あふれちゃんというキャラクターを作りたい気持ちがあふれている。喜びも、感謝も、幸福全般も、絞り出すものではなく『あふれだす』ものだと私は思う。だからこそ、感謝をしなくちゃみたいな気持ちから生まれる感謝には、どこかしら『無理がある』ように思う。プレゼントも同じだ。絞り出すようにプレゼントをするひとと、あふれだすようにプレゼントをするひとと、贈り物にも二種類ある。絞り出された贈り物は受け取りづらいが、あふれだした贈り物は喜びと共に受け取ることができる。人間はボロ雑巾ではないのだから、無理をしてまで(自分を絞り出してまで)誰かになにかをしてあげる必要はないと思う。ただ、自分がそれをしたくてたまらない!的な気持ちがあふれだした時にだけ、それをすればいいのだと思う。

 

大事なことだから何回も言いたい。幸せも、よろこびも、感謝も、誰かに強制をされてやることではなく「あふれだすもの」だと思う。あれをしなくちゃとか、これをしなくちゃとか、あのひとに感謝をしなくちゃとか、生きていることの幸せをちゃんと噛み締めなきゃとか、このような態度は(肩に力がはいりまくっているから)あまり自然ではないと思う。自然とは「気がついたらそうなっている」ことと同義で、自分の意思で「やる!」と決めてなにかをやることも素晴らしいことかもしれないけれど、自分を面白い場所に運んでくれるものは「やる」よりも「やっちゃっていること(自分でも無意識のうちにやってしまっていたこと)」だと思う。人生は、多分、自分でコントロールできるほど生易しいものではなく、だからこそ(想定外の場所に行くことができる)面白さを含んでいるものだと思う。

 

財布。

わたしの好きな言葉に「地球に財布はひとつ」というものがある(わたしの造語です)。わたしは数年前に「今世はお金に困ることはないから大丈夫!」だと勝手に決めた。いままでの人生もどうにかなってきたように、多分、これからもどうにかなっていくからお金のことで悩むことは今世はやめよう。なるようになるだろうから委ねよう、的なふうに思いながら日々を生きている。だから、お金に対する哲学とか考え方とか付き合い方とか、誰かに尋ねられても「あまり深く考えていません」としか答えることができない。わたしは、地球に財布はひとつだと思っている。自分が持っているとき、それは「たまたま自分の手元にお金があるだけ」的な感覚でいる。あまり「自分のもの!」とは思わないようにしている(その方が精神衛生上自分には良い)。

 

お金がない時も、あまり不安に思わなくなった。不謹慎な話かもしれないけれど「俺がなくても、誰かが持っている」という風に思っている。必ずしも常に自分が持っている必要はなくて、別に、困ったときは持っている誰かに頼めば大概の問題はどうにかなると思っている。この考え方は甘いかもしれない。しかし、苦いよりは甘い方がスイートな人生を送ることができる(ような気がする)。実際、あまりお金に困ることはない。地球に財布はひとつ。この考え方は是非みなさまにも勧めたいと思っている(本当はどっちでもいいと思っている)。同じように、多分、地球に命はひとつなのだと思う。わたしたちは別々の命を生きているように見えて、実は「ひとつの大きな命を生きている」のだと思う。担当が違うだけで、根本は同じなのだと思っている(詳細は『木』で書いたようなあの感じです)。

 

わたり文庫『山小舎を造ろうヨ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、西丸震哉著作『山小舎を造ろうヨ』です。西丸さんの口調は結構頻繁に毒舌で、読んでいると「ひでーな!」と楽しくなるます。詳細な山小屋の作り方やサイズなども紹介されているので、極論、あとはもう「やるかやらないか」だけなのだと思う。全然関係ないけれど、昨日神奈川県伊勢原市にある大山という山に行きました。標高が高いからなのか夜は涼しく「長野みたいだな!こんな場所に山小屋建てられたら別荘だな!」とアガりました。これはもう、是非、一緒に廃材をゲットして共にモバイル家屋的なサムシングの製作に携わってくださる有志のみなさまを募集いたします。どなた様か自由に使えるトラックをお持ちではないでしょうか・・・廃材(といっても二級品!)で家を建てられるなんてエコ!こちらの書籍をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

庶民の夢は一生のうちに家を一軒建てることだそうだが、一生かかってようやく家を建てて、ヤレヤレと安心して、その家をジックリ味わうひまもなくお迎えがきて連れていかれるなんて、そんな割のわるいつまらないことはない。

 

家が不動産なんかであるものか、火事や地震や空襲でアトカタもなくなる泡みたいなものだ。土地だって流れ去ったり、海没したりする。

 

不変、不動のものなんか大宇宙の中にはもともとないものだ。

 

泡みたいなものにこだわって、せっかくほんの一時期、この世に存在したことが確かであるらしい自分の一生を、やりたいこともろくにやらずに終らせ、後悔をすることにも気づかなきでガタガタ騒いだだけではつまらない。それではいやだということに気が付いた人は、気が付いたその瞬間から、自分の残る時間をどう有効に活用するか、まず計画を練るという楽しみ、そしてその計画を実行に移していう喜びを、出来るだけたくさん味わうように努力しないではいられない。

 

この本に出会った、その気になれる人は、束の間の人生を楽しい内容で充たすことが出来、夢を限りなく追いかけ、現実のものにしていくことになるはずだ。

 

西丸震哉『山小舎を造ろうヨ』【中公文庫】 

 

大袈裟だけど、生まれてきてよかったとか、地球最高だなとか、そんな風に思うDAYS!

なぜか大急ぎでこの記事を書いているのだけれど、いま、書き始めてから30分が過ぎた。何も考えずに思い浮かぶものをオラオラとキーボードを鬼連打しているとこれくらいの分量は稼げるのだということがわかった(内容の質は不問!)。交通事故の怪我で自宅療養をしていた時期は結構つらく、関東圏は謎の低気圧に包まれて気持ち的にもあがることが少ない日々を過ごした。が、いま、横浜界隈は快晴に恵まれている。やっと夏らしくなってきたことがとても嬉しい。一度「当たり前」をロストすると、普通に歩けることだとか、腕や足が痛まないことだとか、空が晴れていることだとか、当たり前のことがものすごく輝いて見える。動けるようになったことが本当に嬉しい。同じ場所にずっといると何かが停滞をしているような感覚になる。自分の日々に風を吹かせよう。カラダを動かし、機会を見つけては遠出をしよう(軽い装備で)。

 

 

観念的になり過ぎると「脳みそにカラダが乗っ突れる」感覚を覚える。考え過ぎは良くない。己の小規模な思考に囚われて精神的な自由をロストする。逆に言えば、どれだけ気分が乗らなくてもゴリラみたいな顔をしながら全力で自転車をこげば「カラダに脳みそが乗っ取られる」逆転現象が起こる。やる気が出たからやるのではなく、やったからやる気が出るのである(のだと思う)。なんでもいいからやっちゃえばいいのだと思う。カラダが壊れている時は「やりたいけどやれない」苦しさに悶えていた。が、なう、これだけ自由に動けるカラダを再び取り戻すことができてとても嬉しい。カラダにありがとうと言いたい。思えば、よく頑張ってくれているカラダだと思う。臓器も筋肉も視力も聴力も24時間フル稼働で働いている。坂爪圭吾のカラダありがとうという気持ちになる。そして「これからもよろしく」的な気持ちになる。

 

 

猛烈に雑な文章になってしまったけれど、更新が滞るよりも「下手でも出す!とにかく出す!」ことが今回のゴールだったのでなう非常に晴れやかな気持ちになっている。先日、菊名の家に遊びにきてくださったお母様から非常にありがたいメールが届いた。正直に言えば、わたしはあまりひとと話すのが得意ではないというか好きではない(ひとりが好きだし静かな環境が好き)であるにも関わらず、なぜ、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】のような活動をやっているのか自分でもわからなくなる時がある(結構頻繁にある)。が、最終的には「ああ、これをやっていなければ絶対に合うことができなかった面白い目にあうために、俺はこれをやっていたのだな」というところに着地をする。目的も、手段も、いろいろなものはごちゃまぜでいいのだと思う。その過程の中で「それをやっていなければ絶対に合うことができなかった面白い目」に合うことができていれば、それこそが『最高な人生を送れている最大の証明』になるのだと思う。

 

 

圭吾さんこんにちは!

 

いつもごちゃまぜの家へ遊びに行かせていただいてありがとうございます!

 

かなり前になってしまったのですが、○○さん達とのタコパーの楽しい時間に思ったのですが、ごちゃまぜの家って独身とか主婦とかママとか肩書き一切関係なく、一生命体として関われるから良いなぁって思ったんです。

 

もう猫や虫すら会話に入れるんじゃないかってくらい。

 

普段、ママサークルだとか、婚活だとか、共通の肩書きや目的が無ければ集まりってない気がするのですが、ごちゃまぜはそういう括りがないのが良いですよね☆

 

でも肩書き関係無く集まれるのも、圭吾さんが肩書き無くいてくれるからですよね♡

 

みんなその肩書きの人を求めて来ているわけじゃないから。。

 

それってすごい事だなぁ。と思って改めて感謝しています!

 

鉄砲玉もいっぱい増えて、個性溢れるメンバーでますます楽しいですね♪

 

本当にありがとうございます!!

 

お返事は大丈夫ですので、お怪我が早く良くなりますように。。

 

○○○○

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu 

 

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毎日ひとつ、自分が恐れていることをやりなさい。

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70万時間テレビの一環として「おはなをあげに、いかんばなんね」という己の財力が続く限りおはなをばら撒き続ける贖罪風味の企画を敢行しています。これまで32年間生きてきて「ああ、この習慣は死ぬまで続けたいなあ」と思える習慣が108個位あるのですが、そのうちのひとつが「おはなをあげる」というもので、植物のある空間はやっぱりそれだけでいい感じになるなあということを感じています。今日(※ と書いた時点で力尽き果て、実際は昨日になります)は、これから板橋経由で東京&秋葉原&吉祥寺&国領&仙川&新宿&渋谷界隈に向かう流れで、隙さえあらば各地を回遊している坂爪圭吾をひっ捕まえて「おはなをプリーズ!」とご連絡をいただけましたら(タイミングさえ合えば!)おはなを届けにあがります。当選倍率(?)はおよそ10倍ほどと言った感じになるのですが、そしてメールの返信がすごい苦手で結果的に無視をする形になってしまう可能性もおおいにあるのですが「それでも構わないよ!全然いいよ!」という器広めの方はお気軽にご連絡ください。

 

 

この企画を見てくれた女性N様から「12年間仲が悪かった兄に(仲直りの意味も込めて)おはなを届けてほしい」という依頼が届いた。なんだかいい話風の話にも思えたけれど、丹田にグッと力を込めて「それはあなたが直接やった方がいいと思います!」とお答えした。70万時間テレビの醍醐味は『積極的に死にに行く』ことにある(と思う)。毎日ひとつ、自分が恐れていることをやりなさいという地上最強のアドバイスがこの世の中にはあるのだけれど、ほんとうに重要なことは(たとえめちゃめちゃ怖いことだとしても)第三者を介することなく自分自身の全身を賭するに限る。わたしはN様を応援する。応援するということは「成功することを祈る」とは少し違う。応援するということは「成功をしても失敗をしても大丈夫!【生きても死んでも大丈夫!】」だと、ひとつの人生を包括的に見届けることだと思っている(そして、自分も自分の人生を生き切ることだと思っている)。

 

【EVENT詳細】【70万時間テレビ特別企画】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

喪中委員長喪主が「あなたの人生を弔う」。

70万時間テレビ開催にあたり、関係者各位に「企画内容をひとことで説明することはとても難しいのですが、ひとり1企画以上を勝手に立ち上げ、勝手に開催をして、勝手に死にに行く【有終の美を飾る】ような流れになればいいなあと思っています。そして、それを見た面々も『あいつ、逝ったな…(自分も負けてられないな…)』的な善循環が起こることを期待します」的な旨を伝えた。70万時間を年月に変換すると80年となり、これは、およそ平均的な人間の寿命と同じになる。70万時間テレビの趣旨のひとつは「いまなら死ねる!と思える瞬間に立ち会うこと」であり、やりたいと思っていたけれど諸々の事情でなかなかやれなかったことなど、そういうことを実行するための機会になればいいなあ(そして、それを見たひとも刺激を受けて触発をされていくような機会になればいい)ということを思う。

 

普通、生きているとどうしても「うまくやるためにはどうすればいいか」的な思考の罠に陥る。が、70万時間テレビを通して「生きても死んでも別に構わないのだ」的な気持ちを自分の掌に取り戻し、過去も未来も一旦全部放り出して、この瞬間に生命を注ぐ。自信があるからやるのではなく「自信はないけどやる」感覚、成功するためではなく「失敗をするためにやる」感覚、傷つかないためにやるのではなく「よし、傷ついてやろう」と突撃をする時のようなあの感覚、私は、そのようなものにある種の清々しさ【凛とした美しさ】を見る。どんなにささやかなことでも構わないから、自分史上「これをやるのはちょっと怖いなあ!でも、やりたいなあ!」と思うことをやる。頭意識でごちゃごちゃ考えるのではなく、カラダで突破する。先日、長野県でお会いした地域振興関連の方が「アイデアは要らない。必要なのは、やる奴だ」的なことを言っていて、その通りだなあと思った。やったひとの話【己の体験談】は面白いけれど、やりたいと思っているひとの話【噂話】はつまらない(と思うことがある)。

 

おはなをあげる水面下で『(子宮委員長はるちゃんに対抗をしない形で)喪中委員長喪主』なる動きも進めている。喪中委員長喪主とは「あなたの人生を弔う」ための活動(?)で、ああ、このひとは慰めるよりも励ますよりも勇気付けることよりも話を聞くことよりも「一回弔う」ことのほうが有効だなあと感じた時に、わたしの中で芽生える人格のひとつという設定で、まったくうまく言葉にできないけれど「敵を弔い、己を弔えば、70万時間危うからず」的な営みになる。昨今のスピリチュアル界隈やカウンセリング界隈や自己啓発系の流行で「癒され過ぎて腐っている」ひとは多い(ような印象を受ける)。喪中委員長喪主は別ベクトルから攻める。古い自分を一回殺して、新しい自分になって生まれ変わる。慰められることも気持ちいいし、励まされることも気持ちいいけれど、同じように「一回スパッと斬られる」ことの中にも清々しさはあると思う。自分で書いていても何が言いたいのかわからないけれど、根本的に「喪中委員長喪主って言いたかっただけ」なのだと思う。

 

【過去記事】まずは自分を救え。 - いばや通信

 

わたり文庫『ゴサインタン

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、篠田節子ゴサインタン』です。こちらの本は、2年ほど前に熱海の家に遊びに来てくれた女性から「素晴らしい小説なので是非!」とお譲りいただいた最高の一冊です。内容を超絶乱暴にまとめると「捨てな祭(さい)」ということで、宗教家的な女性はあらゆる悩み相談に対して一言「捨てなさい」とだけ答えます。あらゆる問題を解決する万能のアンサーだなあと思うのですが、道に迷った時は『捨てる』こと、職場や学校や人間関係に疲れた時は『捨てる』こと、捨てることで逆に開く命があるのだということを示唆してくれる、素敵な素敵な一冊になります(説明が雑でごめんなさい!)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

豪農の跡取り、柚木輝和はネパール人のカルバナと結婚したが、両親が相次いで死に、妻の奇異な行動で全財産を失う。怒り、悲しみ、恐れ、絶望…揺れ動き、さまよいながら、失踪した妻を探して辿り着いた場所は神の山ゴサインタンの麓だった。現代人の根源にある、魂の再生を力強く描く第10回山本周五郎賞受賞作。

 

篠田節子ゴサインタン』【文春文庫】

 

毎日ひとつ、自分が恐れていることをやりなさい。

家のない生活をしていた頃、なによりも辛かったことは「横になれない」ことだった。疲れ過ぎている時は「棺桶でもいいから横になりたい」と思うことが頻繁にあり、逆に言えば「男にとっては家なんて横になれれば充分で、もしかしたら棺桶サイズでも充分なのかもしれない」とも思っていた。棺桶で眠るというのはなんだかとっても示唆的で、寝る度に死に、目覚める度に生まれ変わる的な雰囲気を醸し出すことができそうな気がする。そういう話を、昨日、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】で行ったツイキャス配信でRちゃん(17歳の家出中男子)と話をした。家賃にお金をかけすぎると自由度は下がる(嫌な仕事もやめることができなくなる)。が、適当な家【寝床】を自作してそこに暮らせば、生きるために必要な金額は格段に下がる。仮に、17歳のRちゃんが折り畳み式のモバイル棺桶を自作して各地を遍歴し、出会った人々の風呂やトイレを使わせていただく日々を過ごした暁には、なにかこう「(普通だったら生まれない人間関係などを通じて)絵的に面白いものが撮れそうな気がする」ということを思った。

 

【音声配信】Recoded Radio まずは自分を救え。 - いばや #396081085 - TwitCasting

 

2017年の常識としては、まだ、親元を離れることはイコール「アパートを借りてひとり暮らしをする」とか「親戚の家にお世話になる」とか「就労先に住み込みで働く」などの手段が一般的になるのだと思う。が、これからは「親元を離れると同時にモバイルハウスを自作し、各地を遍歴しながら暮らし始める」的な若者は増えるような気がする。ひとり暮らしをするには親の仕送りを充てにする必要も出てくるが、そうなると「家族間の癒着を断ち切り難くなる」的な面倒臭さもある。そういう話をツイキャスでしたら、視聴者の方が「資材の面で協力できるかもしれません」という神様過ぎるコメントをくれた。これを聞いた我々は「貰い物だけで家を建てることはできないだろうか」と思い立ち、徐々に出来上がるモバイルハウス【モバイル棺桶?】の試作に取り組むことになった(もしも貰い物だけでそれなりにポップな家が作れるということがわかれば、Rちゃん的家出志願系男女も気軽に家出をしやすくなるような気がする)。

 

70万時間テレビの総合プロデューサー☆Pさんが、先日、70万時間テレビのオープニングソングなるものを作成した。歌詞を見た瞬間に「あほだなー!」とものすごい嬉しくなって、総合的に「全部ギャグなんだな」ということを思った。わたしは、多分、生きているということはコントみたいなものだと思っている(節がある)。家があるとかないとか、金があるとかないとか、仕事があるとかないとか、家族がいるとかいないとか、責任があるとかないだとか、そういうことは「実際はどうでもいい」ことなのだと思う。ただ、それらを(おままごと的な)おもちゃにして、笑ってみたりだとか、泣いてみたりだとか、怒ってみたりだとか、悲しんでみたりだとかをすることが好きな生き物が『人間』なのだと思う。社会的な役割なんていうものは実はただの幻想で、実際は「一匹の動物」に過ぎない我々ヒューマン。生きることで蓄積された執着やしがらみの薄皮を一枚一枚剥ぎ取るように、多分、今日も「恐れていることをやりなさい」という言葉を糧にするのだと思う。

 

 

 ◯70万時間テレビ2017オープニングソング

【TPD48 1st Albam / 700000HELP!!!!!!!】

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!
ひまわり笑顔で君に会いたい!

どこからともなくはじまった
ぼくの70万時間が進んでる
残りの時間で何をしよう?

 

“誰かのために”と頑張りすぎて
うまくいかない時は誰かのせいにしてた

 

やる気が出たからやるんじゃなくて
やってみるからやる気が出るんだと
海のお兄さんが言っていた

 

あれもやりたい これもやりたい?
イデアばかり出すのはもうやめて
頭だけの自分には飽き飽きしてたね
そうだ 靴選びなんていいから
走りだすことからはじめよう

 

だから

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!
ぼくの一番のファンになろう!

勝手に地球(ここ)からはじまった
きみの70万時間が進んでる
残りの時間をどう過ごす?

 

ホントは嫌なことだと思っていて
それを受ける自分すら嫌になってきてる

 

止まってもいいんだよ
だって心臓だけは動いてるから
何もしていないなんて嘘なんだ

 

ネガティブ好きな大人の噂
他人の失敗 蜜より甘い?
ポジティブ好きな若者増えた
永遠の幸せ それ造られた願い?
やっぱり波がある人生が楽しいよね

 

溺れたら

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!
魂使い切って死にたいね!

 

逝ってみよう

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!

 

助けて!
まずは自分を助けて!
自分を救える自分になろう!
助けて!
まずは自分を助けて!

 

自分を助けたら
誰かも一緒に助かった!

 

※TPD48の皆さんは辛くなったときなどにこの歌詞でThe Beatles の名曲「HELP!」ふうに歌ってみてください & 引き続きどこかでご奉仕させていただいた様子を下のコメント欄に写真や動画などを貼って70万回目指してください(今こそメンバー全員の力を合わせるとき!!!!!)

 

こどもに喰われたおとなたち。。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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まずは自分を救え。

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70万時間テレビとは、本家「24時間テレビ〜愛は地球を救う〜」に対抗をしない形で、いばや界隈の面々が停滞しがちな生命を発露する系の企画になる。根本に流れるテーマは「(愛は地球を救うとか言っている場合ではない!)まずは自分を救え」というものになる。この企画は、基本的に「まずは自分を救え」と言いたかっただけの内容になるので、この時点で既にゴールをしている【大きめの手応えを感じている】感はある。が、今年のテーマは「人類みな SCRAMBLE」ということになったので、俄然気合がはいっている。わたしは思う。固定されるからつまらない。限定されるからつまらない。コミュニティ【枠組み】なんてものを描こうとするからつまらない。もっとごちゃごちゃになればいいのだと思う。秩序を重んじるあまりに精神的な自由が奪われるくらいなら、多少破茶滅茶になっても構わないから、もっとめちゃめちゃに撹拌をしてしまえばいいのだと思う(ことがある)。

 

【EVENT詳細】70万時間テレビ 2017 〜まずは自分を救え〜

 

新陳代謝【古い自分を一回殺す】

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実は、この記事を書き上げて「よし、投稿!」という段階で全部消えた。20秒程度意気消沈をしたのちに、なう、音速で(要所だけかいつまみながら)書き直している。先日、長野県東御市に足を運んだ。10月に開催される天空の芸術祭の打ち合わせ(?)だ。我々いばやは「ごちゃまぜのアトリエ(仮)」的な作品を展示する予定になっているものの、人生はなにが起こるかわからないからもしかしたら全部おじゃんになる可能性もある。長野の夏はものすごく涼しく、蚊も少ないために最高だ。小諸のプルーンは絶品で、自然も美しく、道の駅などに売られている野菜も破格の値段(蕎麦屋ではナスが無料で配布されていた)で、ここで暮らしたいとさえ思った。

 

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森が綺麗で「宿っている…」と思った。地域おこしの一環として芸術祭が利用されることがある。いばや的な観点からものを言うと「(地域おこしとか言っている場合ではない!)まずは自分をおこせ」ということになる。私の中には「地域を元気に!」とか「日本を元気に!」という思いがほとんどない。そんなことよりも、端的に自分を楽しませ続けることさえできていれば、結果的に「自分がいる周辺のひとびとや地域全体は勝手に盛り上がる」と思っている。千葉県を盛り上げるためにディズニーランドにいくひとはいない(と思う)。ディズニーランドがたまたま千葉県にあったから足を運ぶだけで、けとして千葉県も潤う。そういうことなのだと思う(先日の怪我から鈍い痛みが続いていて、集中力が持続をしない。言葉をしっかりとまとめることができなくてごめんなさい!)。

 

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私とMAYUCHAPAWONICAの地元は新潟県で、過去に、東京えちごまつりという企画を一緒に開催していた。新潟をおもちゃにみんなで遊べたらいいなと思ってはじめたものの、参加者や関係者が増えまくった結果「なんだか真面目にやらなくちゃいけないアトモスフィア」が醸成されて、これはやばい方向に向かっているなあと思った。関係者のみなさまに「俺はあんまり新潟を盛り上げたいとか思っていなくて、ただ、自分が面白いと思うことをやりたいと思っている」的なことを伝えたら、見事に伝わらなくて「そんなことは無理だよ」とか「自分は公務員だから、そういう趣旨なら一緒にやることはできない」ということになって最終的にみんないなくなった、が、MAYUCHAPAWONICAさんだけは「いいじゃん、やろう!」という風に賛同をしてくれて、自分たちがやばいと思うことをやろうと思って『(やばいを逆から読んだだけの)いばや』という活動(?)をはじめることになった。開始当初はお前らはバカだとかクソだとか散々言われたけれど、なう、それでも元気に生きている。時代が追いついてきてくれたからなのか、いまでは理解してくれるひとも増えているけれど「自分たちが自分たちに最初に飽きる自分たちでいたいね」ということで、新陳代謝を繰り返している。

 

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多分、いばやの強み(というか醍醐味)は「死にに行くこと」にあるのだと思う。普通、町おこしでもなんでも「自分たちが滅びないために、どうすれば生き残ることができるか」的な思考をする。しかし、我々は『延命措置に未来はない』ということを思う。生き延びようとするよりも、死にに行く(自分を一回殺して、新しく生まれ変わる)方向に次世代の萌芽の可能性を見る。というか、端的にそっちの方が『面白い』と感じる。普通、生きている限り「死にたくない」と思う。が、一回死ぬことで未練タラタラだった何かが吹っ飛んで、結果として「清々しさ」を覚えることは多い。誰かを救うためとか、何かを元気にするための活動にはあまり興味を持つことはない。そんなことよりも「どうすればこの状態を遊べるか【笑えるか】」ということに、多分、私達の関心はあるのだと思う。

 

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ヤマトタケル感を意識した髪型。

 

わたり文庫『木を植えた男』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ジャン・ジオノ著作『木を植えた男』です。こちらの本は、愛するムラキテルミさんから数年前に譲り受けた最高の一冊になります。静けさを持つ、極上の一作になります。内容とは関係ないけれど、著者のジオノさんは十歳頃の時に父親から「これでできるだけ遠くまで旅をしてきなさい」と5フラン(当時としては大金)を渡された。このお金を使って、ジオノ青年は遠くまで旅をして結果最高の体験をすることになるのだけれど、このような子育ての方針は素晴らしいなと思いました。自分もこどもを持つ日がきたら、こういう形で(愛と共に)野に放ちたいと思う。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。 

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

かれ(ジャン・ジオノ)は晩年、あるインタビューに応えて、語っている。小説家の条件とは、「第一に歴史(イストワール)を語る人間であること、第二に創られた物語(イストワール)を語る人間であること、第三に創られた物語を語るときに崇高な人間であること」と。つまり、かれにとって、事実を敷き写しにすることは、真の作家の仕事ではなかった。

 

しかし、さらにかれはこうも語っている。「わたしはすべてを創作するように心がけた。しかし、実在した何らかのものを語ることによってである。なぜなら、無から創造するなど神さまにしかできないことなのだから」と。かれは現実のすぐ隣りに身を置き、時を隔てて見つめなおしたものを描いたのである。

 

ジャン・ジオノ『木を植えた男』【あすなろ書房】訳者あとがきより引用

 

まずは自分を救え。 

いま、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】で「交通事故で全治一週間のわたしを見舞いにきてくだ祭(さい)」という企画を敢行している。先ほど、これからカレーを20人前つくりにいきますという連絡が届いた。現在、菊名の家には大量の食材と岡山県から届いた(最高にうまい)大量の桃などの果物が転がっている。とてもじゃないけれど、自分ひとりでは食べきることはできない。この場所は足を運ぶのに普段は使わない勇気を必要とする場所だとは思うけれど、飛び込んでみたら飛び込んでみたで意外とどうにかなるのが坂爪圭吾という人間だと思う。時間のある方は、お気軽に遊びにいらしてください(連絡先はブログ末尾に記載をしてあります)。

 

【過去記事】変わらないために、変わり続けよう。 - いばや通信

 

 

療養中なのに、まるで療養できていない。ある程度の人の出入りがあり、いま、隣の部屋ではたこ焼きパーティーが行われている。が、いろいろな目に遭えることはうれしいことだなあと思う。SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】は70万時間テレビの事務局も兼ねる。今後は動画配信なども(遊びにきてくれたひとを道連れにしながら)やりたいと思う。SCRAMBLE HOUSE TOKYOにはルールがある。それは「無理をしない」ということだ。この場所は、何をしてもいいし、何もしなくてもいい場所になる。話したければ話せばいいし、話したくなければ話さなければいいし、何かを食べたければ何かを食べればいいし、横になりたければ(当たり前のことだけれど家主の許可を取ることなんて必要ないから)横になればいい。これまでの32年間生きてきて、自分をご機嫌に保つことの重要性を痛感している。わたしの役割は「自分をご機嫌に保つこと」であり、誰かをもてなすために自分のご機嫌を押し潰すようなことはしない。あなたが自由であるように、わたしも自由であるのだ(こうして一々言葉にしていないとすぐに忘れてしまう)と思っている。

 

 

何をしてもいいし、何もしなくてもいい。ただ、我慢だけはするなよと思う。そして「欲しいものは獲りに行け」とも思う。誰かに何かをしてもらうことを待たないこと。許可がなければ動けない人間にはならないこと。最初からすべては許されているのだということ。やめてほしいのならばやめてほしいのだとしっかり伝えることができる関係性であること。そのなかで「自分が(やらなきゃ!ではなく)やりたいとも思ったことをまっすぐに敢行できる場所」として、これから作り出す空間が機能をすればいいと思う。今日も人の出入りは多い。隣の部屋では謎に盛り上がっている声が聞こえる。わたしは隣室の個室にこもる。みんなで盛り上がりたい人はみんなで盛り上がるだろうし、坂爪と話したいと思っているひとは(ちょっと勇気がいるかもしれないけれど)個室の扉をノックしてくれることだろう。誰かに何かをしてもらうことを待たないこと。欲しいものは自分で獲りにいくこと。誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。まずは自分を救うこと。自分が自分を救う時、その副産物として、勝手に周囲の人も照らす光を帯びるようになるのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BXsGJ83DTtO/

残暑お見舞い申し上げます。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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変わらないために、変わり続けよう。

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日の出前に目覚めて顔を洗い、濃いめの珈琲を軽く飲み終えた後に自転車に乗るかジョギングをする。昇る朝日を眺めながら1時間ほど体を動かして家に戻り、水のシャワーを浴びて「うおー!」と叫ぶ。塩分補給にマグマ塩を舐めるか、庭に実っているきゅうりやトマトを丸かじりする。午前中は文章などの創作の時間に充て、午後はひとと会ったり街に出かけたりする。暗くなると同時に眠る準備にはいり、読書をしたり(焚き火ができるときは焚き火をしたり)ロウソクの灯りを眺めたりする。こんな感じで一日が終わる(なんて最高だなあとは思っているのですが、実際の達成率は20%程度です!)。今日、これから車で長野県東御市に向かう。まだ確定した訳ではないけれど、10月に開催される天空の芸術祭に我々いばやが「アーティスト集団」として召喚をされることになるかもしれない(ならないかもしれない)。

 

 

と、ここまで書いたところで交通事故に遭った。自転車に乗っていた最中、諸事情が爆発をして30メートル近く吹き飛ぶ出来事があって、全身打撲で歩くこともままらない(が、ブログを更新できる程度には元気です!)。全身が痛いと生きることが辛い。生きることが辛いと後ろ向きになりかねないために、これはもうネタにするしかないと開き直って「交通事故で全治一週間のわたしを見舞いにきてくだ祭(さい)」という平凡な企画を立ち上げた。昨日も早速複数名が遊びに来てくれて(貴重な差し入れを提供していただいて)九死に一生を得た。吹き飛んだ先に対向車が来ていたら確実に死んでいたような気がするので、生きていてよかったなあとこころから思う。死を強烈に意識すると、生が輝く。身体は痛いけれど生きていること(「まだまだ生きていられるのか!」と思えること)はとっても嬉しい。お盆のこの時期、親戚の人たちと会うのはちょっと面倒臭いし気がひけちゃうなあという貴殿のご参加(?)をお待ちしております!!

 

【EVENT詳細】交通事故で全治一週間のわたしを見舞いにきてくだ祭(さい)。

 

TPD48【鉄砲玉48】のいま。 

TPD48の活動も粛々と続いている。TPD48【鉄砲玉48】とは「あらゆる依頼に基本無償でお応えする捨て駒の集合体」のことで、金はないけど時間とエネルギーはあります!的な若者たちを集めて6月から実験的にはじめている試み(ある種のエンターテイメント的活動)になります。わたしは元々たけし軍団が好きで、自分の周辺にもこんな集団(?)があったら楽しくなるだろうなあと思っていたので、あとはやりながら考えよう!【見切り発車で死のう!】ということで出発した。最初はどうなることかと思っていたものの、意外とどうにかなっているみたいで「やるじゃん!」と思う。人生の醍醐味はなにが起こるかわからないことにあると思うのだけれど、あろうことか鉄砲玉のひろきさんは最近ツーシートのベンツ(オープンカー!)を乗り回していた。鉄砲玉の分際でベンツに乗るとは何事か!と、軽く嫉妬をした(こういう展開は見ていて楽しいので、ああ、いいなあという気持ちになります)。

 

 【BLOG】ふじわらひろき - ソンス(センスのある損)をしよう。 - Powered by LINE

 

鉄砲玉の核弾頭たくちゃんは、神奈川県で譲り受けた青春18切符を片手に現在は遠路はるばる熊本県にいる(らしい)。鈍行でよくやっているなあと思う。馬鹿みたいに移動を続けているひとを見ると、なんだかこっちまで移動をしているような風が吹く。実際にやっているひとを見ると「やってるねえ!」と思う。普段やらないことをやると、普段出会わないひとに出会う。ひととの出会いは「個人的なセフティネット」を織り成す網の目になり、最悪の場合はここに行けばなんとかなるという安心感を生む(ことがある)。自分がやりたいと思っていたことをやるのではなく「誰かがやって欲しいと思っていること」に応える形になるために、鉄砲玉のみなさまは『自分では発想をすることもなかった』作業をすることもある。結果、広範囲に渡るスキルを獲得する。自分の役割を限定付けないことで、結果、自分という存在の可能性が広がったりすることがある(まったく広がらないこともある)。

 

【BLOG】鉄砲玉依頼でスナックのカウンターの中に入って接客🍷: 2017.8.5 - 私は鉄砲玉。

 

極論、笑えたらいいのだと思う。どれだけ無駄、どれだけ非合理、どれだけ非生産的なことであっても「振り返った時に笑えたら」それでOKだと思う。鉄砲玉のメンバーは随時募集をしている。先日、SCRAMBLE HOUSE TOKYO【ごちゃまぜの家】に「鉄砲玉にはいりたいです!」と話す若者が来た。これは素晴らしい心意気だと思ったので、わたしは「鉄砲玉のことはわたしよりもたくちゃんやひろきさんが詳しいので、彼らを呼び出すなり実際に会いに行くなりして、詳しいことは彼らに聞いてみてください(そして「いけるな!」と思った場合は、あとは勝手にはじめてください)」とお願いをした。あと、全然関係ないけれど菊名の家は「365日炊き出しが行われている」ことを理想としているために、手始めにまずは週一回からでも「炊き出し系イベント【無料でメシが食える機会】」を創出していきたいと思っている。が、わたしは料理があまり得意ではない。どなた様か「料理が好きだけど食べてくれるひとがいないから普段あんまりできていないのだけど、食べてくれるひとがいるならこれはもう是非是非料理をしたいです!」的な方がいらっしゃいましたら、お気軽にご連絡いただけましたら幸いです。

 

【連絡先】LINE「ibaya」

 

わたり文庫『森と氷河と鯨』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、星野道夫著作『森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて』です。こちらの本は、SCRAMBLE HOUSE TOKYOに遊びに来てくれた方が「素晴らしい本なので、是非!」ということで贈呈してくださった一冊になります。星野道夫さんの文章に触れていると、なにか大きな自然につつまれているような感覚、自分の内面にある静けさ【自然】に還ることができるような感覚を覚えます。この感覚は素晴らしい。掲載されている写真も素晴らしく、焚き火を眺めているインディアン・ボブさんの表情にはやられてしまいました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、青森県にわたりました ※※※

 

ぼくは、深い森と氷河に覆われた太古の昔と何も変わらぬこの世界を、神話の時代に生きた人々と同じ視線で旅してみたい ー アラスカに伝わる“ワタリガラスの神話”に惹かれて始まった旅は、1人のインディアンとの出会いで思いもよらぬ方向へ導かれる。目に見えないものの価値を追い続けた著者による魂の記録。解説・池澤夏樹

 

星野道夫『森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて』【文春文庫】

 

変わらないために、変わり続けよう。

星野道夫さんの親友でもあるシリア・ハンターさんの言う通り「Life is what happen to you while you are making other plan.(人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと)」なのかもしれない。自分という人間は、自分の人生に対してあまり計画的になることができない。瞬間瞬間において、場当たり的、行き当たりばったり的な生き方を続けてきた。金も家も仕事もなくなった時は「それでも生きていけるか試してみよう!」と閃き、結構いろいろなひとに罵倒をされながらも『家のない生活』をはじめ、結果的に現在は熱海と菊名に二軒の家がある(テントも含めると三軒ある)。別に狙ってやった訳ではなく、ただただ、自分のこころが「こっちの方が面白そうだな」と思う道を選んで来ただけに過ぎない。この数年間の日々で学んだことは『人生とは、自分の意図でコントロールできるほど生易しいものではない』ということで、逆に言えば『自然な流れに抵抗することなく、身を委ねて生きればそれなりの出来事に遭遇できる』ものだと思った。

 

現在のわたし【坂爪圭吾】に肩書きはない。坂爪圭吾という人物を見たひとから、例えば「あなたはアーティストですね!」とか「あなたは吟遊詩人ですね!」とか「あなたの生き方はロックですね!」とか「あなたはダメ人間ですね!」とか「あなたは宗教家ですね!」とか、様々な言葉で形容をしていただける。わたしは、この状態をとても気に入っている。わたしの生き方には名前がない。名前がないということは、固定をされないことになる。わたしは何者でもないからこそ、わたしは何者にでもなることができる。自分が存在をしている場所、自分が置かれている状態【一緒にいるひと】によって肩書きが変わるような在り方、毎日職業が変わるような生き方は面白いなと思う。自分で自分を限定づけないこと、多分、何者でもないからこそ『何者にでもなることができる』のだと思う。

 

決めつけてはいけないのだと思う、自分も、他人も。自分はこういう人間だとか、あのひとはこういう人間だとか、限定的な職業や役割や関係性などの小さな枠にはめてしまうのではなく、人間全体として生きるということ、生命全体として生きるということ、固定的な枠組みを超えて『流動的な存在である』ということ。生きるということは、多分、動いているということだ。動いているということは、多分、流れているということだ。わたしたちの身体は『水』でできている。淀まないように、濁らないように、ひとりひとりの身体の中を血液の川が流れている。星々の流れと同じように、歳月の流れと同じように、変わらないことがあるとすれば、それは「変わり続けていく」ということになるのだと思う。変わり続けていくのだというこの一点に支えられて、今日も、この星は回り続けているのだと思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BXlxUGfDnY6/

変わり続けよう。

 

人生は続く。

 

坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

 

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