いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

カラフルでご機嫌な世界を生きるために。

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「ここは楽園か!」と叫び出したくなるほどの絶景が広がっていた。標高3,000メートルに位置する、マウイ島ハレアカラ火山のキャンプサイトにテント道具を借りて向かう。結論から言うと最高で、静かな森の中にテントを張って横になるだけで「包まれている…」という多幸感を覚える。ごちゃまぜの家が実現をした暁には、希望者の方々にテント道具を無料で(願わくば車もセットで!)貸し出すことができたらいいなと思う。自分のこころが「いいな」と感じるひとやものやことを、自分ひとりだけで所有をするのではなくみんなで共有していけたらいいなと感じる気持ちは、多分、自分だけではないように思う。

 

 

わたしは『SAMO【サモ】』という素人集団を主宰している。SAMO【サモ】とは「まったくの初心者であるにも関わらず、さも、その道の達人のように振る舞う」ひとたちのことを意味する。今回、わたしはマウイ島で車を借りて運転をしまくっているのだけれど、実は、海外で車を運転するのは生まれてはじめての体験になる。しかし、ここでビビってしまっては男が廃るということで、さも、海外の運転は過去に何度もやり慣れていますよという体(てい)で、左ハンドルを陽気にぶいぶい言わせていた。ら、レンタル2日目にしてタイヤが派手にパンクをした。これには困った、が、トラブルは男を鍛える。近隣住民の助けを徹底的に借りまくりながら、どうにかこうにか、無料で代車を手配していただける形になってホッと胸をなでおろしている【おかげさまで異国における緊急事態対処法にも強くなりました!!】。

 

野営@Hosmer Glove

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テント道具を車に積んで、数百回のカーブを曲がってキャンプサイトに突撃する。標高3,000メートルともなると、南国ではなかなか見ることのできない植物が群生をしている。「ここはマウイ島の北軽井沢か!」みたいな感じで、非常に心地よい風が吹く空きスペースにテントを張る。テントを張る時間、バーナーでお湯を沸かす時間、簡単な料理を作る時間は、なぜ、こんなにも素晴らしい充実感を与えてくれるのだろうか。日本に戻ったらキャンプをしまくりたいと思う。そして、キャンプの素晴らしさを勝手に普及させるために「坂爪圭吾が持ち得る限りのキャンプ道具をオールセットで無料で貸し出す」的なサービス(?)を開始したいなあと思う【あと、熱海の家に誰も使っていないロードバイク(なんとツールドフランスの優勝者が使っていたもの!)が置かれているので、こちらの自転車もシェアをしていきたいと思います!!】。

 

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木陰にテントを張る。

 

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いい感じの木が密集している。

 

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木漏れ日が素晴らしい。

 

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眺めは爽快で、非常に静かである。

 

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昔、まだ新潟市内の海沿いの街で暮らしていた頃、日本海沿いの松林(防砂林)にテントを張って数日間暮らしていたことがある。森の中で眠ると、森林浴の効果があるのだろうか、寝て起きた時のスッキリ具合が半端ない。これは素晴らしい効果だと機嫌をよくしたわたしは、実家には食事をとるためだけに戻り、食べ終わると同時に「おやすみ!」と言って自宅の玄関を飛び出し、バイクで松林に向かう生活を続けていた。当時のわたしにとって、家とは「ごはんを食べるためだけの場所」に過ぎなかった。もっと言えば、「地球全体が自分の家である【今夜、テントを張る場所が自分の家になるのだ!】」と思っていた。キャンプ生活の日々を過ごすと、当時の感覚が鮮明に蘇る。家とはなんだろうか。それは、個別の建物を指すのではなく『地球全体』を指すのではないだろうか。普段、自分たちが「家」と呼んでいるものは、実は『寝床【あるいは、ただ、ごはんを食べるためだけの場所】』に過ぎないのかもしれない、なんていうことを思う。

 

【過去記事】 仕事なんてしている場合じゃない、遊べ! - いばや通信

 

朝日@Haleakala Summit

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早朝5時にテントを飛び出し、ハレアカラ火山の山頂を目指す。闇夜を突き抜け雲海を超えて山頂間際に辿り着く頃、明るみはじめた空から黄金色の光が差し込んでくる。本当に美しいものを目の前にした時、ああ、写真でも、言葉でも、いま目の前に広がっている素晴らしさを説明することはできないのだというある種の無力感にとらわれれる。それでも「これでもか!これでもか!」とシャッターを切り続けようとする手をどうにか止めて、ただ、自分の眼球に目の前の広大な風景を焼き付けようとする。

  

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朝がはじまる。

 

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光が差し込む。

 

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世界が目覚める。

 

カラフルでご機嫌な世界を生きるために。

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マウイ島は自然も街並みも非常にカラフルで、散歩をするだけで楽しくなる。建物の屋根もトタン一枚だけだったりするのに、カラフルな色々で彩られている。日本の場合、ペンキの色もそのままではダサいものが多い。自分好みの色を出すために、複数色を混ぜ合わせる必要があるのに対して、マウイ島などの海外諸国では「あらかじめお洒落な色が何種類も用意されている」ことが多い(気がする)。オーガニック専門のスーパーマーケットに陳列されている商品群のデザインセンスも抜群で、どれをとっても「おみやげに最高!」だと思えてテンションがあがる。カラフルであること、同時にセンスがあること【見るもののテンションをあげること】、これはとても大事なことであるような気がしていて、自分の正直な気持ちを恐れずに言うと「俺は、簡素【スタイリッシュ】は好きだけど、ダサいもの【アンスタイリッシュ】は嫌いだ!」ということを思う。

 

 

マウイ島では「オーガズミックバース【自然分娩】」というものがある。乱暴にまとめると「海の中で出産をする【痛みや苦しみを通して出産をするのではなく、歓びのエネルギーを通して出産をする】」というものになる。わたしは男性だから詳しいことはわからないけれど、病院の分娩台は「(医者にとっては都合がいいけれど)妊婦的には一番しんどいポジショニングを余儀なくされる」ものになるのだと聞いたことがある。これが絶対だというものはわからないけれど、出産方法ひとつとっても、これからは「多種多様!カラフルな時代!」になるのだと思う。様々な選択肢がある中で、自分好みの生き方をカスタマイズしていく。このような生き方が主流になる世の中では、他のひとがどのように思うかではなく「自分自身がどのように思うか」が、非常に重要になるのだということを思う【逆に言えば、自分の好みがいままで以上にすんなりと(それはもうビックリしちゃうくらいにすんなりと!)実現できちゃう時代にあるのだと思う】。

 

 

すべてのひとを好きになれなくてもいい。すべてのやり方を受け入れることはできなくてもいい。すべてのひとを肯定することはできなくてもいいし、すべてのひとに好かれる必要もない。いろいろなひとがいろいろなことを言うけれど、究極、まずは自分なのだと思う。カラフルな世の中をご機嫌に渡っていくためには、他人の好みを満たすように生きることよりも、自分自身の好みを明確にしていくこと、好きなものには好きだということと同じくらい、嫌いなものには「嫌いだ!」って言えちゃう勇気も、とっても大切なことになるのだと思う。自分の意思を明確にすることによって、世界の彩度もより鮮明なものになる(逆に言えば、自分のこころが「イヤだな」と思うものを受け入れてしまうと、精神が濁る)。みんなが同じ色になることで半ば強制的に調和が保たれる予定調和的な世界よりも、わたしは、それぞれの色をそれぞれのスタイルで生きながら、それでいて「空間全体の調和が保たれている」ような、そういうカラフルでご機嫌な世界を生きていきたいと思う。

 

 

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its a good day to die...

 

人生は続く。

 

413-0002
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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仕事なんてしている場合じゃない、遊べ!

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ホノルルを経由してマウイ島にはいる。奇跡的に、知り合いの知り合いの知り合いの旦那さんのお母さん【要するに他人さま!きゃー!】がマウイにご在住で、得体の知れないわたしのような人間の寝床は確保をされた。マウイ島のホテル代は高い。どうしたって一泊1万円はかかってしまうような中で、ご自宅に泊めていただけることはこんなにも有難いことなのかとうれし過ぎて涙が出る(本当にありがとうございます!)。ごちゃまぜの家が実現をした暁には、是非、外国人旅行者の方々にも気軽に無料で使ってもらえたらうれしいなあと思う(謎に国際的な空間になったらいいですね!)。

 


お世話になっている方のご自宅が物凄くて、マウイ島という自然豊かでネイチャー感溢れる土壌にありながら、家には3Dプリンターやドローンのような最先端のマシーンがゴロゴロ転がっている。屋根には当たり前のようにソーラーパネルが取り付けられていて、これらの景色を見た瞬間に「これが未来か!」と思った。ハイテクとローテクの共存、これこそ未来だと思って勝手にテンションがあがり、ああ、なんというか「里山とか地域おこしとか言っている場合じゃねえな!」ということを思った。昔はよかったとか、いまは大事なものが廃れてしまっているとか、そういう文脈で語られるものには「昔に戻ろう」的な雰囲気が漂いがちになるけれど、わたしは、昔に戻りたいのではなく「先に行きたい」のだと思う。

 

ハイテクとローテクの共存。

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マウイ島は日本の大阪府ほどの大きさで、歩くにはちょっと広すぎるためにレンタカーを借りた(9日間で250ドル程度だった)。車を借りる際に、受付の男性が「Welcome To Paradice!【楽園へようこそ!】」と満面の笑顔で言う。自国をこのように誇れる姿は最高だな!と思う。ナンバープレートには虹がかかっている。かわいい。これで最悪の場合は車中泊をできるという安堵感を胸に、あてもなくマウイ島を周遊する。すると、海辺に『COFFEE HERE!』と書かれた看板を発見する。ゆっくりと近づくと、大きな車に小さなログハウスが牽引をされているような形で、小屋の中からサングラスをかけた極めて健康そうな女性が「Hi!」と声をかけてくる。

 

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今回、わたしは「ごちゃまぜの家に使えるような土地はないかな」なんて思いでハワイに来た。小さな土地さえあれば「そこに誰でも自由に使えるタイニーハウスを作ったら面白そうだ」なんて思っていたのだけれど、こちらの女性は、自家用車で珈琲小屋を運びながら(多分)自分の好きな場所で自分の好きな時間に自分の好きなだけ珈琲を振る舞いながら生計を立てている(のだと思う)。わたしは、ああ、なんてフリーダムな発想なのだろうと嬉しくなってしまって、別に固有の土地はなくても「車内で寝泊まりできる(場合によっては何かしらの仕事をすることもできる)車さえあれば、世界の何処にいても意外とどうにかなるのかもしれない」ということを思った。 

 

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店主の女性の笑顔がとにかくよくて、その雰囲気に触れているだけで元気になる。ハワイに来てから、まだ、一回も日本円をドルに両替をしていない。多分、両替をする必要のない土台がすでにマウイ島には出来上がっている。このような小屋の珈琲店でさえも、アイパッドに特別な器具を取り付けて、カード払いも自由自在にできるようになっている。この便利さこそが「未来だ!」なんて感じてしまって、改めて「地域おこしとか言っている場合じゃねえな!」と思ってしまった。うまく言葉にすることができないのだけれど、昔に戻るだけでは肝心な何かが抜け落ちていて、おしゃれであることとか、最先端の要素が取り入れられていることとか、乱暴な言葉でまとめると「若いひとのテンションをあげる要素」が必要になるのだと思う(だからこそ、多分、いまの日本社会で一番求められていることは『世代交代【新陳代謝】』なのだと思う)。

 

最先端とは「好きなように生きること」 

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ハワイ名物の『POKE(ポケ)』を食べながら話をする。いまはまだ、移住とか定住とか多拠点生活などという言葉が持て囃されているけれど、数年後の未来では「まだそんなことを言っているの??」なんて思われる時代が、実は、すぐそこまで来ているような気がする。これは極論かもしれないけれど、移住とか定住という言葉にはある種の「重み」を感じる。これは結婚や離婚や転職や独立という言葉にも感じるけれど、生き方を大きく変えようとする時に使われる言葉には、何かこう「重っ!」と思わせる力がある。

 

もっと軽やかに生きることができたなら、と思う。いまはまだひとりひとりが特定の家を持つことが一般的だけれど、もしかしたら、これから先は「誰もが移動を続けながら暮らす時代」が来るかもしれない。あるいは、誰もが「家を持ち運ぶ時代」が来るかもしれない。定住という概念【土地に固定されるライフスタイル】そのものが吹き飛んで、誰もがその時々に自分の気分にあった場所に移動をしながら暮らすというスタイルが、メジャーになる時代が来るのかもしれない。そのため、自分がいまやっている仕事や、自分がいま住んでいる場所も「たまたま、いま、それをやっているだけ(そこに暮らしているだけ)」のものに過ぎず、すべては流動的なものになり、その時々の気分に合わせて変わっていく。いまはまだメジャーではないこのような考え方も、そう遠くない未来には「当たり前のこと」になっているのかもしれないと思う。

 

最先端とはなんだろうか。それは「好きなように生きること」ではないだろうか。世の中の常識と呼ばれているようなものを一旦無視して、とりあえず「自分の好きなように生きてみる!」ことを通じて、いまはまだ誰も試したことのない諸々のアクションを実際に行う。やがて、そのうちの何かが「これは新しい!」みたいな形で周囲のひとにも認められて、市民権を獲得しながらゆっくりと世界全体に広がっていく。あらゆる「新しいとされていること」も、最初は、名も知れない誰かの戯言【遊びごころ】からはじまっているものだと思う。生きるということが、もっと軽やかなものであればいいと思う。軽やかに生きるということは、多分、遊ぶように生きるということだ。遊ぶように生きるということは、成功だけではなく失敗も同時に楽しむ精神的な余裕を持つこと(ダメならダメで、その時はやり直せばいいいだけ!くらいのゆとりを持つこと)であり、あんまり深刻に考え過ぎないということ【流動的であること、あんまり重くならないこと!】だと思う。

 

閑話休題

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素晴らしかったので、是非!

 

仕事なんてしている場合じゃない、遊べ!

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最近、仕事をしている場合ではない【仕事と遊びを分けて考える必要はない】と思うことが多い。逆に言えば、仕事が遊びを内包していない限り、真の意味で「良い仕事」をすることは不可能であるような気がしている。いろいろなものが行き詰まりを見せているこの現代社会において、真の意味で突破口を与えるものは「(広い意味で)遊ぶこと」であるような気がしていて、これから様々な仕事を機械が代わりにやってくれることになるであろう世の中では、人間に残された最大の役割は「遊ぶこと」なのではないだろうかとさえ思う(遊びに遊んで遊び尽くした先に、いままでにはない『新しい仕事【いまはまだ名前の与えられていないこと】』が生まれるのではないだろうかと睨む)。

 

この前の4月7日でわたしは32歳を迎えた。32歳と言えば立派な『老害』である。わたしはすでに古い人間になったので、多分、これからは「自分を生かそうとすることよりも、若いひとを生かそうとすること」に注力をしたほうがいいのだと思う。必要とされていることは『世代交代【新陳代謝】』であり、年寄りがいつまでも自分の利権をがっちりつかんで離さないような真似をしてしまっては、育つものも育たない。わたしを含めた年寄りの役割は、自分を生かそうとすることではなく「若い人に、ごはんを出すかお金を出すこと」なのだと思う。飯を食わせること、お金をあげることは、端的に「もっと生きろ!」と伝える最高のツールになる(これは余談になるけれど、『金は出すけど口は出さない』ひとを粋と呼び、『口は出すけど金は出さない』ひとを無粋と呼ぶのだと思う)。

 

年寄りとしてのわたしは、「こいつだ!」と思ったひとを見つけては飯を食わせるかお金を出すかをすること。同じように、かろうじて若者としていられる間のわたしは「上の世代のひとから『お前に任せた!』と言ってもらえるような生き方をすること」こそが重要になるのだと思う。上の世代が何もしてくれない(がっちり掴んで離さない)などと嘆いたところで何もはじまらない、大事なことは「お前に任せた!」とすべてを委ねてもらえるような生き方を、いま、この瞬間において自分自身ができているかどうかなのだと思う。金も名誉も社会的な肩書きも何もないわたしには、カラダを張るしか道はない。それならば、張れるところまで張ってみたいとハワイで思う。海に沈む夕日が綺麗だった。見るひとのこころをときめかせながら沈む太陽のように、わたしも(できることならば)紅く美しく沈みたいと思う。 

 

 

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はわひ。。。(ハワイの夕日)

 

人生は続く。

 

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何か新しいことをやる時に、もっともらしい理由なんていらないんだ。

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暇だからブログを書いちゃう。昨日、東京で開催されたトークイベントに登壇(?)をした。ごちゃまぜの家を企画しているからなのだろうか、坂爪さんはどんな家庭で育ったのですかとか、両親や兄弟とは良好ですかとか、家族にまつわる質問を頻繁に受ける。こちらをご覧のみなさまは、さぁ、家族仲は良好でしょうか?お母様やお父様とはうまくいっているでしょうか??それとも、言いたいことをなかなか言えずに腹の内に抱えてお暮らしになられていらっしゃいますでしょうか???あらゆる問題の根源を遡ると「家庭環境」にたどり着くような気がする、稀に、そんな風に感じることがある。

 

 

昨日、イベント参加者の女性が「わたしは実家で両親と暮らしているのですが、家族仲があまりよくなくて家を出たい気持ちがあるのですが、家を出たら出たで罪悪感を感じてしまうし、どうすればいいのでしょうか」という話をしてくれた。わたしは、おお、これはなかなか難しい問題だなあと思いながら返答を濁した。家族や恋人は距離感が近すぎるために、自分の問題が相手の問題になったり、相手の問題が自分の問題になったりする。一度離れて見るのもいいことだとは思うけれど、なかなかそういうことができない場合、わたしたちはどうすればいいのだろうか。

 

正解は「(越後製菓!からの)ごちゃまぜの家」

極論、親子関係が問題になる最大の原因は「言いたいことがあるけれど言わずに我慢をしてきてしまった結果、溜め込んだ感情が自分のなかで腐り始めてあんまり良くない腐敗臭を発してしまうこと」にあるような気がする。 理想的な解決策は、実の両親に向かって「実はこれこれこういうことをずっと思っていた(自分はずっと寂しかったんだよとか、ちゃんと目を見て愛していると言って欲しかったなど)」と伝えることで、両者の間に長年蓄積されてきた氷の壁を溶かす作業に励むことだと思う。しかし、それができれば最初から悩まないよという話でもあると思いますので、そういう時に「ごちゃまぜの家」が前向きな効果を与える場所になったらうれしいなあなどということを思った。

 

基本的に、家族とは「血の繋がりのあるひとたち」とされているのが現代社会での常識になる。でも、たとえばシェアハウスの住人同士も家族のようなものであり、友達同士も職場も同僚も、見方によっては「すでに家族である」と言えるのではないだろうかとわたしは思う。家族という言葉には、表面的には「お互いに助け合える・支え合える・笑い合える最高の共同体」みたいなイメージがあるけれど、その裏側には「家族間の問題は家族間だけで解決をしなければいけない」という非常に閉鎖的、執着的、束縛的、密室的なイメージもつきまとっている(気がする)。わたしは、この、固定的で閉鎖的な関係性のなかに「ある種の風穴を開けたい!」みたいなことを思う。そこで、実験をしてみることにしたのが『ごちゃまぜの家』というアイデアであり、これをやったらどうなるのかということはまるでわかっていないけれど、これをやったらもしかしたらちょっとだけ面白い現象が起こるかもしれないという非常に曖昧な動機から、今回のプロジェクトは幕を開けた。

 

家族にまつわる問題を耳にする機会は多い。なぜ、家族にまつわる問題は後を絶たないのだろうか。わたしは、極論にも程があることは百も承知でそれは「シチューのCM」に原因があると思っている。シチューのCMに登場をする家族は、とにもかくにも常に笑顔で、美男美女の夫婦は仲良く、こどもも可愛い、なにかこう「家庭って最高だよね!」という雰囲気をこれでもかと醸し出している。別にそれはそれで構わないのだけれど、なにかこう、視聴者のみなさまに「家族とはこうでなければいけない」という幸福の圧力をかけている(気がする)。この『幸福の圧力【理想的な家族像の強制】』みたいなものは実は意外と厄介で、家庭を築くからには「常に笑顔にあふれた状態で食卓を囲まなければいけない(それができていない家族は家族失格である!)」みたいなことになるのではないだろうかと思うことがある。

 

家族を溶かす。

でも、別に、そんなことはないんじゃないのかなと思う。常に笑顔にあふれている必要はないし、常に食卓を共に囲む必要もないし(インドネシアのバリではそれが日常で、でも、家族仲は良好である)、なんなら「必ずしも同じ家に暮らす必要はない」とさえも思う。問題なのは、親子が一緒に暮らしていないことではなく「親子が一緒に暮らしていないことを問題だと思う」その意識であり、別に、それで誰も問題だと感じていないのであればそれで全然構わないのだと思う。逆に言えば、周囲の余計なお世話が爆発をして、普通に快適にやっていたはずの当事者が得体の知れない不安や恐怖心を埋め込まれてしまって、結果的に「こうでなくちゃいけない!」という強迫的な感覚にとらわれてしまう、そういう『同調圧力』が発生することの方が、わたしには怖いことに思える。

 

家族とは言え相手は他人で、血の繋がりがあるとは言え「(自分と同じ)ひとりの人間」であることに変わりはない。こんな風にいうとなんだか冷たく響くかもしれないけれど、でも、その通りなんじゃないのかなと思う。親は親。こどもはこども。親の考えは親の考えであり、それは決して『こどもの考え』にはならない。そこをしっかりと「分けて考える」ことが非常に大切であるような気がしていて、そこが訳のわからないことになってしまうと、いつの間にか「親【自分以外の誰か】の操り人形」みたいなことになってしまう。親は親であり、自分は自分である。以上!【それ以上でもなければ、それ以下でもありません!ありがとうございます!】という感じで、スパッと切り分けて考えることが大切であるように感じることは多い(ここを分けて考えることができないと、相手の問題を自分の問題として背負ってしまうことになる気がする)。

 

下手くそな話が長くなってしまった。その辺の詳細は過去記事にも書いたのだけれど、わたしは「(家族をつくりたいのではなく)家族を溶かしたい」のだと思う。なんていうか、もう、ひとりひとりの人間が『みんなの父親であり、みんなの母親であり、みんなのこどもである』ということでいいんじゃないだろうかと思う。家族とは何か。それは、いま、あなたの目の前にいるひとのことである。なんだかもう、それだけでいいのではないだろうかと思う。血の繋がりというものは、実は、それほどたいした問題ではない(実際、母と父の間に血の繋がりはない)。家族だから無理をしてまで仲良くする必要もない、家族だからおもてなしを用意する必要もない、家族だから過剰に気を遣う必要もない(それは「お客さん」にすることだ)。愛想笑いの必要もない、自分を大きく見せる必要もない、そんなことよりも「自分の素の状態に一番近づける」空間、誰もが自然体で無理のない態勢でいながらも同時に全体の調和は謎にとれてしまっているような、ごちゃまぜの家がそのような場所として機能をすればいいと思う。

 

【過去記事】一夫多妻制を凌駕するネオ概念「一夫八百万妻制(通称『やおよろぷ』)とは何か。 - いばや通信

 

『奇跡の絶景』

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今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、講談社刊行『奇跡の絶景』です。こちらの本は、ベリーズ中央アメリカ北東部、ユカタン半島の付け根に位置する国】で旅行会社を経営していらっしゃる日本人女性から「ベリーズの自然は素晴らしいので、是非!」ということで譲り受けた一冊になります。この広い世界にはまだまだ、見たこともない素晴らしい景色が無限に広がっているのだということを思い出させてくれる壮麗な風景の数々に、小生、圧倒されっぱなしでございました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、マウイ島にわたりました ※※※

 

なぜ、これほど完璧な円を描いているのか。なぜ、これほど濃い青色を湛えているのか。まるで隕石が落ちた穴のような巨大な青い正円を眼前にすると、この疑問が当たり前のように頭に浮かぶ。

 

世界有数の透明な海を穿ったように開いた巨大な「穴」。穴の直径はおよそ300m、深さ120mを超える大穴だ。その深さは太陽の光が届く水深100mをはるかに超えている。さらに外周に広がる浅瀬のサンゴ礁とのコントラストがあいまって、この穴はひときわ深い青色に輝いている。ライトブルーのカリブ海で群を抜いた存在感を放つ正円は、「カリブ海の宝石」と讃えられる一方で、土地の人からは「怪物の寝床」とも呼ばれており、得体の知れない恐ろしさをも感じさせている。真の美というものは、そんな両面を備えるものなのかもしれない。

 

『奇跡の絶景 Miracle Planet 7』【講談社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

何か新しいことをやる時に、もっともらしい理由なんていらないんだ。

花を贈る。手料理をつくる。手紙を書く。わたしは、これらの営みを愛している。しかし、これらの行為は、効率至上主義的な現代社会においては、ともすると「やるだけ無駄【花を飾っても1円の得にもならないし、手料理は手間ひまがかかるし、手書きよりもタイピングの方が圧倒的に早い】」ということになるのかもしれない。ただ、ごちゃまぜの家が実現をした暁には、どうしてなのだろうか「このような非効率なものこそを取り入れて行きたい!」という思いがある。理由は単純で、多分、花をもらうと嬉しいからだ。手料理をつくってもらうと嬉しいからだ。手紙をもらうと嬉しいからだ。家に帰ってポストを開ける。ポストの中に手紙がある。宛名を見る。手書きの文字が書かれている。贈り主の名前が書かれている。手紙を抱えて家にはいる。椅子に座る。封筒を開ける。書かれている文章を読む。こころが温かな気持ちになる。こころが温かな気持ちになりながら「返事を書こう」という気持ちになる。こういうこころの働きを、こういう人間的なつながりを、わたしのこころは「いいな」と思う。

 


クラウドファンディングの御礼として、支援者の方々と電話で話をする。この前、ひとりの女性と話をした。その方は「これまでとは違うお金の使い方をしたいと思って、今回ご支援をさせていただきました。自分でもうまく言葉にできないのですが、消費ではないお金の使い方をしたいって思っていて、このプロジェクトを見たときに『これだ!』と思ったんです」と話してくれた。この言葉は、なんだかほんとうにうれしかった。この言葉を聞くために(そして『あなたに出会うため』に)この企画をやっているのだと言っても過言ではないのだという、そういう気持ちになった。今回のプロジェクトをはじめてほんとうによかったと思えることの理由のひとつに、支援者の方々が「正しさではなく『楽しさ』で反応をしてくれている」というものがある。それは、言い方を変えると「支援をする側と支援をされる側に分割されるものではなく、境界線を超えて『一緒に遊んでいる』だけなのだ」という感覚に近い。わたしたちは、何か社会的な問題を解決するために一致団結をしようとしているのではない、ただ、ごちゃまぜの家を通じて『一緒に遊ぼうとしている』だけなのだというこの感覚が、わたしには、とてもうれしいものとして響いてくる。

 

 

自分の中に「採算の取れないことをやろう!」という思いがある。わたしは、採算性のあることを考えることが非常に苦手なタイプの人間で、活動を維持するためには月額これくらいのお金が必要になるからそのためにはこれとこれとこれをやって、みたいなことを考えることができない。だからこそ「採算の取れないことをやろう!【その活動が必要とされるものであれば必ず誰かに生かされるだろうし、必要とされることがなければその時は潔く散ろう!】」という初期衝動から、今回の企画をはじめた。誰かに笑ってもらえたらそれだけでも嬉しいと思ってはじめたものの、蓋を開けたらこれほどまでの支援と恩恵を受けることができている。これはもう、支援者の方からも「どんどんやれ!」と言われているのだなと思うことにした。何か新しいことをやる時に、多分、もっともらしい理由なんていらなんだ。こころない人の声にダメージを受けまくることもあるけれど、他の誰でもない自分自身の直感が「これをやったら面白そうだ!」と感じる方向に、自分の内部に宿るナビゲーターが「こっちだ!」と導く方向に、思い切り舵を取っていきたいのだと思う。

 

 

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何か新しいことをやる時に、もっともらしい理由なんていらないんだ。。。

 

人生は続く。

 

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クソガキのままでいたいよ。

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月曜日の夜に羽田空港を出てハワイのマウイ島に向かう。当方、ごちゃまぜの家なるものを企画している身としては、マウイ島でも「(家は無理でも)自由に使わせていただける土地」と奇跡的に出会うことができたら最高にうれしいなあと思う(あてはありません!)。奇跡的に土地を使わせていただけることになった暁には、ハワイのホームセンターで木材を購買してキュートなタイニーハウスを複数個ドロップすれば、意外とどうにかなるのではないだろうかなどと思う。日本以外にも「ここにいけばとりあえず寝る場所と食べるものはどうにかなる」的な場所があれば、なんというのだろう、乱暴にまとめると「生きるためのハードルが下がる【安心感が増す】」ような気がしている。

 

 

ハワイは物価が高いから、タイやマレーシアなどの近隣諸国(海外初心者も安心な場所!)にごちゃまぜの家を作ることも楽しそうだなあと思う。タイの首都バンコクなどでは、すでに大量の日本人がいる(一説によると10万人近い)ために、いろいろと融通が効くのかもしれない。同時に、バンコクの日本人コミュニティは日本以上にムラ社会化が激烈なので「これは溶かし甲斐がある」とも思った。東南アジアにごちゃまぜの家がひとつでもあれば、わたしの大好きなドラゴンフルーツやパパイヤをいつでも食べることができる。それだけでも「家が欲しい!」なんて思ってしまう。また、全国各地で引きこもり生活をしている方々なども、日本はちょっと家賃が高いから「とりあえず海外に行ってみんなで一緒に引きこもりましょう!」みたいなこともできる気がする。

 

生きるハードルを下げる。

思えば「生きるハードルを下げる」ためのここ数年間の日々だったなあと思う。家のない生活をはじめた最大の理由も、家賃を払う経済的・社会的な余裕が自分にはなかったから(根本的にダメ人間だったから)であり、わたしの意識は「どれだけ多くのお金を集められるか」というものから「どれだけお金がなくても生きることができる土壌を開墾することができるか」に変容を遂げた。いまでも、多分、その気持ちはあまり変わってはいない。お金というものはどれだけ集めてもどれだけ稼いでも多分きっとキリがないから、お金がなくても生きることができる(明るく楽しく生きることができる)土壌を開墾する方向にわたしの興味は向かっている。

 

昨日、熱海の家に海外周遊組3名が遊びに来た。ひとりは短期労働をしながら世界各地を渡り歩き、この前まで熱海のリゾートホテルで仕事をしていたものの、契約期間を終えたので今度は南米の農場で仕事をする予定なのだと話してくれた。もう2人は男女のペアで、先週までインドのバラナシで「声のヨガ」なるものの習得合宿に通っていたのだと話してくれた(こちらの女性とは、過去にバンコクでお会いしたことがある)。熱海の家には様々な来訪者が訪れてくれるのだけれど、すでに「ごちゃまぜの家」の試験場みたいな役割を果たしてくれている。わたしがハワイに行っている間も家の鍵は開けてありますので、興味のある方はお気軽に足を運んでみてください(宿泊希望の方に限り、事前にご連絡をいただけると助かります【理由は、すでに宿泊予定のひとがいるかもしれない(用意できる布団の数に限りがある)からです!】)。

 

世界周遊組の3名から「日本人は明日の話ばかりをする」のだという話を聞いた。日本人のその在り方が海外のひとから見ると不思議で不思議でならなくて、なぜ、いまという瞬間をもっと大切にしないのかというツッコミをされることは多い。なんだかこれは、ちょっとだけわかるような気がする。もしもの時のための貯金とか、もしもの時のための資格とか、もしもの時のための保険とか、何かあったときのために万全の備えることをよしとし過ぎるあまりに「肝心の『いま、ここ』がおろそかになる」ということは多い。過去や未来に現在を汚されてしまうことは、非常に勿体無いことだと思う。いまだけが生きている時間なのだ【明日死ぬかもしれない】ということ、そのことをはっきりと実感することができた時に、ひとは「この瞬間における命の充溢」を覚えるのだと思う。

 

悪態日記【クソガキのままでいたいよ】

最近、ことあるごとに悪態をついている自分を鑑みて「それってどうなのだろう」と思うことは多い。先日、栃木県のリゾートホテルで断食合宿に招待をしていただいた時、あまりにも退屈だったのでブログに「誰でも遊びに来てください!」的な投稿をした。すると、それを見てくれた65歳の男性が遠いところを車を飛ばして会いに来てくれた。わたしは、正直に告白をすると自分から声をかけておきながら「うわっ!本当に来るんだ!」なんて軽く引いてしまった。ああ、俺は何をやっているのだろうかと思った。わたしたちはホテルのロビーで落ち合う。初対面を交わす。軽い挨拶をする。ロビーの椅子に座る。男性は語る。坂爪さんに相談をしたいことがあるのだと語る、その内容は以下のようなものになる。

 

わたしはこうして65年生きてきたのですがまだ人生のなんたるかを何もわかっていなくて、最近になってやっとちょっとだけわかってきたのかななんてようやく思えるようにはなってきたのですが、坂爪さんのブログ記事を拝読していると年齢はまだまだ全然お若いのにわたしなんかよりもずっと人生の真理をすでに体得しているかのように感じることが多くてですね、ペラペラペラ、ペラペラペラ、ペラペラペラペラペラ……(以下省略)今日、こうしてお会いさせていただいたのはまだまだ人生のなんたるかをなんにも知らないわたしのために何かアドバイスをいただけたら嬉しいのですが、坂爪さん、人生の先輩としてわたしに何かアドバイスをいただけませんか?

 

わたしは、このお願いに対して速攻で「イヤです」と答えた。まさか自分が自分の親くらいの年齢のひとに真っ向から「イヤです」なんて最小限の言葉に最大限の熱量を込めて口にする日が来るとは思わなかった(ちょっと感激した)。言葉だけでうまく説明をできている自信がまったくないのだけれど、わたしは人生相談の類が苦手だ。聖人君子みたいな存在になりたいとは思わないし、誰かのための救世主になることよりも「クソガキのままでいたいよ」と思う。誤解を恐れずに言うと、自分の親くらいの年齢の方から人生相談を受けると「頼むからしっかりとしてくれ!」という気持ちになる。怒りにも似た愛情を込めつつ、わたしが「イヤです」と真っ正面から口にした時、65歳の男性は(多分ものすごい驚いたのだと思う)上下に軽く振動をした。ああ、これは悪いことをしたなあと思ったけれど、これ以上に有効なアドバイスはないのではないだろうかとも思った(「イヤです」なんてはっきりと口にしたことは生まれてはじめての体験だったので、ああ、これはこれで非常に素晴らしい時間になったなあと後から清々しい充足感が溢れてきた)。 

 

【過去記事】罵倒されても大丈夫。ひとを罵倒するひとよりも、面白い目に遭えている自信はある。 - いばや通信

 

『現代坐禅講義 ー只管打坐への道』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、藤田一照著作『現代坐禅講義 ー只管打坐への道』です。こちらの本は、ミャンマーで出会った女性N様が「帰国して以来禅にはまりまくっているのですが、とりわけこちらの本は最高です!」という言葉と共にわたり文庫に託してくれた、禅の真髄が凝縮されている最高の一冊になります(N様談!)。ハワイに向かう飛行機の中で、マウイ島の砂浜の上で、わたしはこの本を読むことになるでしょう(実は、マウイ島の宿も予定も何も決まっていません!)。そして、読後【帰国後】、必要としてくださる方の手元に贈り届けることになるのでしょう。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

パスカルは、遊戯、狩猟、賭け事、異性との交際、多忙な日々の仕事や職務といった様々な活動に没頭することで自分を見失い、しかもそれで平然と生きている(かのような)世間の人々の日常をその透徹した眼で深く観察しました。そして人間のあらゆる行為の裏に潜む隠された動機を鋭く見抜いたのです。パスカルはそれを「気晴らし」と表現しました。

 

当時のわたしは、こうした気晴らしをめぐるかれの考えにも深く納得させられました。そして、「おれはパスカルのように神への信仰などとても持てそうにないから、気晴らしで一生を終えるしかないのかもしれない。もしそうなら、なるべくなら長続きする、そしてできるだけ高尚な気晴らしを探さなければいけないな・・・」などと思いながら生きていました。

 

それから約十年後に全く思いがけない縁に導かれて、坐禅という行法を伝承してきた禅の伝統に出会うことができ、「自分で作り出した幻影を追ったり、それから追われたり、そういう一人相撲のような空しい生き方ではなく、今ここの自己を充実させて深く生きることを教えている確かな道がここにあった!」と眼からうろこが落ちるような思いをしました。そのとき、人間の最大の悲惨そして最大の不幸を「部屋のなかでじっと安静にしていることができず、様々な気晴らしに時間を費やしているあいだに空しく一生を終えてしまう」ところに見出した、あのパスカルのことを思い出しました。かれはキリスト教が説く神への信仰に悲惨と不幸からの救いを求めましたが、わたしはそんなかれに「坐禅が、仏教からの贈り物としてわれわれのような者のためにあったんだよ」と教えてあげたいと強く思ったのでした。そのときからずっと、「もしパスカルが禅や坐禅のことを知っていたらどうだっただろう?」という思いがわたしの胸のなかにありました。ですから、わたしのなかでは「坐禅パスカル」というのはそう突拍子もない組み合わせではないのです。

 

藤田一照『現代坐禅講義』【佼成出版社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

何も心配することはない。

部屋のなかでじっと安静にしていることができず、様々な気晴らしに時間を費やしているあいだに空しく一生を終えてしまうというパスカルさんの指摘は耳が痛く、わたしのような多動症の人間にとっては死活問題(?)でもある。わたしがこうしてブログを書くのも、ひとと会うのも、単純に「暇だから(そして寂しいから)」なのではないだろうかと思うことは多い。ただ、自分を弁護するみたいな形になるけれど、こうしてひとと出会わなければ絶対に発生をすることのなかった「素晴らしい瞬間」も確実にあるような感覚もあり、小生、32歳になるのですがまるで落ち着きのない日々を過ごしています(そして、その人生を結構気に入っています)。

 

 

昨日、日本に帰国をしたばかりの女性が「これからマッサージの仕事もしたいと思っていて、その時には資格もあったほうが有利(お客さんの信頼感にも繋がる)かと思うので、資格取得の学校に通う」ということを話してくれた。 その言葉を聞きながら、わたしは、正直に言うと「資格ってなんなのだろう」ということを思った。資格があれば、正社員になれば、恋人がいれば、結婚をすれば、家族を築いたらホッと安心をすることができる、などという言葉を耳にする機会は多い。わたしは、そういう言葉を耳にするたびに「所属先や自分の外側に張り付いているものを通じてではなく、自分が自分であることに安心を覚えることはできないのだろうか」ということを思う。何かを通じて自分自身を誇るのではなく、自分が自分であることをストレートに誇れないものだろうかと思う。そうでなければ「ブレてしまう」のではないだろうかと思う。もちろん、目の前の何かをこころの底からやりたいと思っているのならば、そこに何も問題はない。ただ、自身の不安やある種の無価値観を埋めるための対処療法的な解決策は、何かこう「違うんじゃないのかな」なんて思ってしまう自分がいる。

 

 

金の悩みや仕事の悩みなど、生き方の悩みの根本は「安心感の欠如」にあると思う。安心感を埋め合わせるために、ひとは金を求めたり仕事を求めたり社会的な肩書きや他者の承認を求めたりするのだと思う。しかし、真の安心感とは「自分自身を自分の居場所にすることができた時【自分自身に還るとき】」に得ることができるものだとわたしは思う。自分の外側にあるもので、自分の内面を埋めることは難しい。逆にいえば、自分の内面の問題ならば「自分の意識ひとつで、いつだって簡単に変えることができる」ものだとわたしは思う。自由になるためにお金はいらない。ただ、自由であることを認めるだけでいいのだ。必要なことは「自分は自分でいいのだ」と認めること、人並みにならなくてもいいのだと、他人の顔色を伺わなくてもいいのだと、誰にも認められなくてもいいのだと、誰にもわかってもらえなくてもいいのだと、何も心配しなくてもいいのだと、ただ、自分は自分でいいのだと認めることができたとき、その瞬間から、居場所だと思える空間は内側からゆっくりと拡張をしていくものだとわたしは思う。そのように感じることができる場所、自分は自分でいいのだと認めることができる場所、これからどのような形になるのかはわからないことばかりだけれど、ごちゃまぜの家がそんな感じの場所になればいいと思っている。

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

罵倒されても大丈夫。ひとを罵倒するひとよりも、面白い目に遭えている自信はある。

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13日(木)に菊名駅の物件を10名の同行者と共に、14日(金)に大阪府豊能郡能勢町の物件を20名の同行者と共に内覧をした。どちらもロケーション的には最高の環境だったけれど、確定するまでははっきりとしたことは何も言えない。平日の昼間にこれだけの参加者が集まるとはすごいな!(みんなヒマなんだな!←失礼!)ということを思った。わたしは、時間とエネルギーのあるひとが大好きです。物件の素晴らしさもさることながら、一緒に同行をした方々の人柄が素晴らしくて「これは既に家族なんじゃないだろうか」ということを思った。そして、昔、クリスチャンの方が言っていた印象的な言葉を思い出した。

 

 

クリスチャンの方曰く「教会っていうのは建物のことじゃなくて、そもそもが『教え合う会』って意味だから、キリストの名のもとに集まりひとたちがいる限り、建物じゃなくて、その『ひとの集まり』を教会っていうんだよ」とのこと。それを聞いたわたしは「なるほどー!」なんて唸ってしまった。家族というものも似たようなもので、家【建物】がベースにあるように見えて、実は『目には見えないもの【ひとの集まり】』がベースになっているのではないだろうか、なんてことをおぼろげに感じていた。今月30日(日)には、毎月最終日曜日に恒例となりました「わたり食堂【0円食堂】」を開催する。わたり食堂の雰囲気を言葉で説明することは非常に難しいけれど、空間全体にある種の『家族感』を感じることは頻繁にある(どなたでもお気軽に遊びにいらしてください!)。 

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

嫌々生きると「魂が腐る」

菊名の物件は非常に素晴らしくてすべてがスムーズに進んだものの、能勢町の物件ではひと悶着あった。最初は「家賃も光熱費も無料でOK!自由に使ってください!」という話だったのだけれど、蓋をあけたらあらビックリ、やっぱり家賃も払え、光熱費も払え、トイレや風呂や壁や床の修繕費なども自腹でやれ(10年程度空き家だったので、多分、相当な金額がかかる)ということになって我々一同は「あれ?」となった。諸々の事情は割愛するけれど、多分、こういうことは往々にしてあることなのだと思う。理由を尋ねると、わたしに声をかけてくれたひと的には無料で使ってほしい気持ちに変わりはないのだけれど、実の父親でもある家の持ち主が「やっぱり得体の知れない奴らに使わせるのはダメだ。何をやるのか、金はあるのか、信用できるやつなのか、その辺のことを試したい」と心境が変わったのだと言う。

 

その後、わたしとお父様による地獄の直接対決(?)の時間が設けられた。なんだかお父様はずっとお怒りの様子だったので、ああ、これはコミュニケーションをとることは難しいだろうなと思った。わたしは「自分の話を理解してもらうことよりも、お父様の話を聞くことに徹底しよう」と丹田に力を込めた。お父様が9割話し、わたしは1割の相槌を打つ。滝行僧の如く忍耐強く話を聞いていたのだけれど、途中、お父様がわたしのことを何度も何度も「あんた」と呼ぶことに軽い違和感を覚えたので、わたしは、はっきりとした口調で「あんたと呼ばないでください」と伝えた。この瞬間、この言葉が、空間にガラガラガッシャーン!と亀裂を生んだ。いままではお父様が『上』でわたしが『下』の立場みたいななことになっていたけれど、多分、この瞬間に我々の立場は『圧倒的フェア』になることができた(気がする)。

 

わたしは「ごちゃまぜの家」に使わせていただける家を求めている。ただ、家が手に入ればなんでもいいとは全然思わない。お前に使わせてやるという感じではなく、あなたに使っていただけることがうれしいと言ってくださる方々と出会いたいと思う。何よりも大切にしたいと思うことは「ひととの結びつき」であり、根本的に「あなたと一緒にやれることがうれしい」という感覚をお互いに持てないひとと付き合うこと(損得勘定だけの繋がり)は、長期的に見て莫大な精神的・肉体的なロスを招く結果になると思っている。何をやるのか、そんなこと以上に「誰とやるのか」は、わたしの場合は死活問題になる。乱暴にまとめるならば「自分のこころが『いいな』と感じるひと』と付き合うこと。自分のこころが「いやだな」と感じることを受け入れてしまうと魂が腐る。この点だけは絶対に妥協をしてはいけないのだということを改めて思った。

 

悪態日記【いい子ぶってんじゃないよ】

能勢町の物件を内覧した後、箕面市に住む方から「わたしもこの辺でごちゃまぜの家みたいなことをやっているので是非遊びに来てください!」という連絡をいただき、その方のご自宅にお邪魔をした。時間的に厳しかったのだけれど「坂爪さんに会いたいってひともいるので、30分だけでも!是非!カレーもあります!」と言われたので、おお、カレーはわたしの大好物だということでお邪魔をした。が、実際にご自宅にお伺いすると「あれ、別に誰にも歓迎をされている雰囲気はないぞ」ということを咄嗟に嗅ぎ取り、カレーもこれからつくるということで出来上がるまでに1時間はかかるだろうと睨んだわたしは、あまりにも空腹だったために、誠に申し訳ありませんが我々【坂爪圭吾&レンタカーを用意してくれた23歳のたくちゃん】は先に帰ります(レンタカーの返却の時間もありますので)と家主の方に伝えた。

 

すると「えー!帰るのですか!では、帰る前にみんなで写真を撮りましょう!」ということになった。わたしは「時間がかかるから嫌だな(こころの底から写真を撮りたいと思っているのならば超絶大歓迎なのだけれど、なにかこう『SNSにあげるため』程度のミーハーな理由ならお断りだな)」と感じたので、わたしは「時間がないので、写真はなしで!」と逃げた。が、なかなか自分の意向がうまく伝わらなかったみたいで、その方は「写真を撮りたいひとは家の外に出てください!」と周囲の方々にアナウンスをした。ああ、これはやばい流れだなと思いながら、私たちは何も聞かなかったことにして一足先に外に出た。が、その一足先が遅かった。私たちが外に出るのに合わせて、その場にいた何名もの方々も同時に外に出てしまった。

 

家主の方が「ほらほら坂爪さん、みんなもこうして外に出ていることですし、写真の一枚だけでも是非!」みたいなことを言う。が、ここはこころを鬼にする最高のタイミングだと思って「(再び丹田に力を込めながら)写真はなしで!」と繰り返し伝えた。俺の中の俺が俺に「いい子ぶってんじゃねえよ!」と耳元で囁くので、この瞬間ばかりは気持ちをギュッと引き締めて、そそくさと車に乗り込み早々とその場を離れた。車を出す直前、後方から「写真はいやなんだってぇ〜」と漏らす家主の声が聞こえてきた。写真を撮らなかったことは悪いことをしたなと思うと同時に、普段だったら流れに任せて写真を撮っちゃっていた自分をぶち壊すことができた爽快感に、わたしは軽い「いい仕事をしたな」感を覚えた。そして、ああ、悪態をつくということは(世間的にはあまりよいこととはされていないみたいだけれど)ほんとうに素晴らしいことだな、なんていうことを思った(過去の「悪態日記」は下記リンクよりご覧ください!)。

 

【過去記事】誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。 - いばや通信

 

『日々のことば』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、マザーテレサ著作『日々のことば』です。過去にも紹介したことのある一冊になるのですが、その時の応募総数が半端ないことになったので、よし、これからは手に入る限りこの本を無限に手に入れまくり、手に入った瞬間に無料でばら撒き続けよう!!ということを思い立ちました。わたしも大好きな、マザーテレサ入門にも最高の一冊【日めくりの名言集みたいな感じ】になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、北海道にわたりました ※※※

 

4月7日【筆者註・坂爪圭吾の誕生日!】

 

どんな国であれ、信仰のあるところでは、

わたしたちが働くのに困ったことは、まったくありません。

わたしたちは、すべての人を神の子どもと考えています。

みんな、わたしたちの兄弟、姉妹です。

わたしたちは深い尊敬をもって接します。

わたしたちの仕事は、

クリスチャンも、ノンクリスチャンも同じに、

彼らをいっそう勇気づけます。

心からあふれる愛の働きはどんなものであっても、

人々を神に近づけるものなのです。

 

マザーテレサ『日々のことば』【女子パウロ会】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

罵倒されても大丈夫。ひとを罵倒するひとよりも、面白い目に遭えている自信はある。

クラウドファンディングの企画をはじめてから、支援者の数々が増えると同時に、言われなき誹謗中傷を受ける機会も増えた。ひとの目に触れるということは、多分、そういうことなのだと思う。たとえ99人から称賛の声を受けたとしても、たった1人からでも罵詈雑言の類を浴びた瞬間は、99人の声も吹き飛んでしまうほどの精神的ダメージを受けてしまうこともある。でも、そういう声に惑わされてはいけないのだと思う。自分の意識をどこに向けるのかということは、多分、自分の意思で選択できることなのだと思う。

 

 

ひとにためにできることは何もないな、ひとのために言えることは何もないな、自分を生きることが何よりも雄弁だな。そういうことを思う時がある。誰かのニーズを満たすために生きるのではなく、自分のニーズを満たすために生きること。言葉ではない、その姿に、その佇まいに、その生き様に説得力を宿らせる人間は最高に格好いいとわたしは思う。誰かのために生きるのではなく、自分のために生きること。自分のために生きることが、結果として誰かの力にもなっているような、そういう生き方をできる人間になりたいと思うし、そういう生き方をできる人間でありたいと思う。

 


菊名の物件や大阪の物件、大袈裟な言葉で言えば「自分の人生」を通じてわたしは様々な人々と出会った。大変な時期もあったけれど、振り返って見ればすべてが美しい時の重なりによって形成をされているような、そういう気持ちになることがある。そして、わたしは思う。罵倒されても大丈夫。ひとを罵倒するひとよりも、面白い目に遭えている自信はある。自分の人生を支えるものは、他人の評価でもなければ世間的な肩書きでもない、自分のこころの中にある「美しい記憶」なのだと思う。自分は面白い人生を生きることができている、少なくとも「あの瞬間は最高だった」と思えるものが胸の中にある限り、きっと、何度でも人生に立ち向かう勇気のようなものは内面から湧きあがる。自分の正当性を主張するでもなく、良い格好をしたい訳でもない、ただ、これまでの人生を振り返ってみた時に「いい人生だったな」と静かに深く思える自分がいる。そのように思えるハートがあるのならば、きっと、俺たちは大丈夫なのだということを思う。

 

 

https://www.instagram.com/p/BS14IchjQwo/

あたひ。。。(熱海の朝日)

 

人生は続く。

 

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一夫多妻制を凌駕するネオ概念「一夫八百万妻制(通称『やおよろぷ』)とは何か。

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今回の記事は基本的にギャグなのであまり深刻に受け止めないでください(でも本人的には結構真面目です!)。クラウドファンディングの支援金額が300万円を突破して「これはいよいよ来るところまで来たな」的な気持ちになっている。今日は菊名の物件を、明日は大阪の物件を見る予定になる(長野県松本市にも自由に使わせていただける家の話が舞い込みました!)。何かをすると何かが起こるというのは世の常で、この企画を立案していなければ絶対に出会うことのできなかった数々の感動的な瞬間に立ち会うことができている現状を、いま、非常に気に入っている(春ですね!)。

 

 

前回の記事で「13日は菊名の物件を、14日は大阪の物件を見ます!」的な投稿をしたら、ブログ読者の方々から「もしよろしかったら同行をさせてください!」という非常にありがたいご連絡を立て続けにいただいた。結果的に、菊名の物件は総勢10名で、大阪の物件は総勢20名(車を出してくださる方も5名集まりました!)で内覧をすることになった。なんというか、もう、この時点で謎の軍団が形成をされつつあることがとても嬉しい(なんだか「大人の遠足」に行く前みたいな気持ちになる)。わたしの場合、新しい家が欲しかったというよりも「家を通じてこれまでにはなかった人間的なつながりが発生したらうれしい」などと思っていたので、あれ、あれ、あれ、これはもうすでにゴールをしているんじゃないだろうか(それ以外はおまけだよ【さあ、いよいよボーナスタイムのはじまりだよ!】)みたいな気持ちになる。

 

【過去記事】百点満点のテストで、一万点くらい取りたいんだ。 - いばや通信

 

みんなで母親になり、みんなで父親になる。

昨日、一夫多妻制を超える「一夫八百万妻制(いっぷやおよろずせい【通称・やおよろぷ】)」という新時代を生き抜くネオ概念を発明した。内容的には一夫多妻制(あるいは多夫多妻制)と同じになるのだけれど、わたしは大袈裟な言い回しを好むタイプの人間なので「わたしは生きとし生けるもののすべての父親【母親】である」的な意味を込めて、八百万(やおよろず)という言葉を採用した。一夫八百万妻制でも一妻八百万夫制でも別にどちらもでいいのだけれど、わたしは、この『やおよろぷ』という言葉の響きを気に入った(多分、やおよろぷと言いたいだけなのだと思う)。どうしても重く考えがちになることの多い恋愛や結婚や家族というものの在り方を、なんとなく、気分的に軽やかなものに変えてくれる力が言葉にはある。

 

先日、クラウドファンディング支援者の方から下記のような連絡をいただいた(ご支援いただいているみなさま、ほんっっっっっっっっとうにありがとうございます!わたしがクラウドファンディングの管理画面をまったく使いこなせていないために、直接ご連絡をいただいた方にしか返信をできていないことをお詫びいたします!ごめんなさい!!!!!【何かしらのご連絡を希望される方はkeigosakatsume@gmail.comかLINE『ibaya(電話番号「07055527106」で検索!)』まで直接ご連絡いただけましたら幸いです!特別ご連絡のなかった支援者の方々には、クラウドファンディングの募集期限が終了次第こちらからご連絡をさせていただきますのでご安心ください(多分五月以降になると思います!!!】)。

 

圭吾さん 遅くなりましたが、とっっても嬉しいお返事ありがとうございました。

 

そして突然ですが、、、、ごちゃまぜの家のことと、”家族とはなんぞ?”が、ふと頭をよぎりまして。

 

私は、今の一般的な結婚と育児のスタイルが、直感的に言うと、本当の幸せとは真逆に向かっている気がしてます。(前提として、子供も夫もいないくせに言える口ではないのですが)結婚する→核家族になる→閉鎖、執着、束縛、密室的になるイメージで、特にその閉じられた家での子育てって根本的に難しく感じます。

 

単純に、みんなで母親になり、みんなで父親になって、みんなの子供を育てる、そんなゆる〜い場所ないかな、と思う時がありました。圭吾さんがごちゃまぜの家の話をしてくれて、あ…ちょっとこれなのかな?と、支援に至った次第です。

 

”他人の子だけど自分の子”的な感覚とか、”あなた=わたし”的な感覚が時々あります。なんだか、その関係性とか境なしにみんなでハグすればいいじゃないって思う時があるのです。そんなハグのような家、もっとあったらな〜なんて勝手に思いました。ともあれ、どんな場所になっても面白くなりそうですね。

 

長くなりました! めちゃんこ平凡ですが心をこめた手料理ならできますので、圭吾さんがゆっくりできそうな時に改めてご招待させてください^^。

 

大好きです! ✨素敵な1日を!✨

 

なんて素晴らしい文章なのだろうかと小刻みに震えた。誤解されると困っちゃうのだけれど、わたしは、決して現在の婚姻制度をまるごと否定したい訳ではない(ご連絡をいただいた方も、きっと、同じような気持ちだと察する)。既存の何かを否定するのではなく、単純に「もうちょっといろいろな在り方があってもいいよね!」ということを思っていて、従来通りの結婚がしたいひとは従来通りの結婚をすればいいし、従来通りの生き方は息が詰まっちゃう部分があるからちょっとだけ新しい形にチャレンジをしてみたいひとはちょっとだけ新しい形にチャレンジをしてみればいいだけの話で、わたしは後者の人間(ちょっとだけチャレンジをしてみたい側の人間)だから、このメールをもらった時はなんだかちょっと(実はかなり!)嬉しくなってしまった。自分のこどもとか、自分の奥さん【旦那】とか、自分の家族とか、そういうある種の垣根を飛び越えて『(ひとりひとりの人間は)みんなの父親であり、みんなの母親であり、みんなのこどもである』というように捉え直すことができた時、果たして、世界はどのような見え方をするのだろうかと思うことがある。

 

まなざしに宿る力。

広島県在住の支援者の方からは、このようなメールをいただいた(支援者の方とメールや電話【やっぱり電話は最高!電話をしたからこれでおしまいという一時的な関係性ではなく、これからも続いていくものであればうれしいと思う】で直接連絡を取り会えることがいまはとても楽しくて、わたしはまだ子育てを経験したことがないのだけれど、絶賛子育て中のお母様の方々とお話をできることが半端なく勉強になる。たとえば「洋室よりも和室の方が子育て的には楽!(床に直接座れるから)」などという、一見するとささいな情報ほど「うおー!そうなのか!非常に勉強になります!!!」とあがる。世の中のお母様方はわたしの大大大先輩である。ご指導ご鞭撻のほど、今後ともよろしくお願いいたします!!!)。

 

圭吾さん

 

こんばんは!
お久しぶりです、広島の◯◯◯◯です。

遅ればせながらお誕生日おめでとうございます(*^^*)

 

件名のとおり、ごちゃまぜの家、支援しました!
クラウドファンディングのページに載っている圭吾さんと
チビちゃんの写真がほほえましすぎてこれまたいいですね~(´∀`)

 

「ごちゃまぜの家」、なんて素敵なアイディアなんでしょう。
つながって、はなれて、流れるようにゆるゆると、人と人とが過ごす家。
ああもう想像するだけでワクワクが止まりません!

 

去年わが家に来てもらった時に、「子どもを他人に預けられる??

この人なら大丈夫。この人は不安、、、の境目って何??」
という話をした気がするんですが・・・

 

「圭吾さん、まゆさん、ちあきさんなら信頼して預けられると思う」と、その時答えたと記憶しています。
今思うに、子どもたちへのまなざし、が大きいと思います。
まなざしにポジティブな感情を宿してくれている人には預けても大丈夫、という気がします。

 

ごちゃまぜの家を訪れる人は子どもたちにどんなまなざしを向けるんだろう?
キラキラした目で見てくれる方がたくさんいる、そんな予感がします。
完成したら長女も次女も連れて遊びに行きたいです♪

 

楽しい化学反応がいっぱい生まれますように!

 

素晴らしすぎる御言葉の数々に「ああ、このひとは神様や…八百万の神様や…」と崇拝をした。メールの文中にもある通り『まなざしにポジティブな感情を宿してくれている人には預けても大丈夫』という感覚は、まだこどもを育てたことのないわたしでさえも、なんだか物凄いわかるような気がする。こども達を観察していると「ああ、こいつらは視聴率さえあれば勝手にテンションがあがりまくって騒ぎまくるのだな」ということを思うことがわかる。この感覚は多分、こどもに限らずおとなも同じだ。自分のことを見ていてくれてるひとがいる、ただ、それだけのことが生きる力を与えてくれることがある。

 

今回、クラウドファンディングを通じてご支援をお願いして本当に良かったと思う。支援者の方々から応援のコメントを観れるページがあるのだけれど(実はこのページの存在に気づいたのは数日前の出来事で、確認が遅れに遅れまくっていてごめんなさい!!皆様からのコメントの数々に気づいた瞬間は震えました!!)、支援者の方々は、絶対に成功することを企画者のわたしに求めているというよりも「この企画に関われたことを一緒によろこんでくれている」ように感じられて、ああ、自分はなんて幸せな人間なのだろうかと強く思った。社交辞令を言いたい訳ではなく、心底「いいひとばかりが集まっているなあ!」と胸が震える。みなさま、ほんとうにありがとうございます!!(引き続き、ご支援いただいた方々へのスペシャルえこひいきグッズの作成に励みます!!)。

 

【過去記事】ちゃんとしなさいの「ちゃんと」とは何か。 - いばや通信

 

宇宙船地球号操縦マニュアル』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、バックミンスター・フラー著作『宇宙船地球号操縦マニュアル』です。こちらの本は、諸悪の根源は「専門分化」にあると喝破するバックミンスター・フラー先生の世界的にもあまりにも有名な一冊になるのですが、Amazonのレビューの中に、この本の内容を見事に要約されていらっしゃる方がおりましたので、下記にまるごと引用させていただきます(A・Y様素晴らしい要約をありがとうございます!!)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※

 

人間の失敗には多くの要因があるが、最も大きな要因のひとつは、専門分化が包括的な思考を妨げ、社会が専門分化こそが成功の鍵だと考えている点である。

 

専門分化とは、事実上、奴隷状態のおしゃれな変形にすぎない。そこでは、専門家は社会的、文化的に見て好ましくて、生涯続く安全な地位にあると幻想を持たされて、その奴隷状態を受け入れることになる。

 

学校の始まりとは、大航海時代に、王様が自分の部下に専門分野を学ばせるために試験を課して、その勉強をする場所として始まった。王族や貴族は、この手法によって各分野のエキスパートの人材を養成し、自分は全体の頭脳となることで自分の領土内でさらに大きな権力を手に入れた。

 

1960年代、フィラデルフィアで開かれた全米科学復興教会の年次学会で、二つの論文が異なる分野で発表された。1つは人類学で、もう1つは生物学。人類学者の方は、絶滅した種族について、知られている全ての事例史を調査していた。生物学者の方は、絶滅した生物種について知られている全ての事例史を研究していた。この二つの論文は、異なる分野で別々の研究をまとめたものだが、その結論はほとんど同じだった。つまり、絶滅したのは過度に専門分化したのが原因であった。(Amazonより「A・Y」様のカスタマーレビューより引用)

 

バックミンスター・フラー宇宙船地球号操縦マニュアル』【ちくま学芸文庫】 

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

世界の優しさを信じること。

今回の企画の肝は「なんでもひとりで背負い込み過ぎないこと」にあるのだと思う。菊名の物件も、大阪の物件も、自分ひとりだけで内覧をして、自分ひとりだけでどのような使い方をするのかを考え、自分ひとりだけの力で整備をしたり環境を整えるような真似をしていたら、多分、ぶっ倒れてしまうのは時間の問題になるのだと思う。 わたしの役割は、多分、0から1を生むことだ。1を100に育てることまで自分の力でやろうとしてしまうと、多分、簡単に崩れる。アフリカの諺に「FAST ALONE,FAR TOGETHER【速く行きたければひとりで行け、遠くまで行きたければみんなで行け】」というものがある。自分の身の程を自覚して、どれだけひとに頼ることができるのか、どれだけひとを信頼することができるのかが、今回の活動の成否を決めるような予感がしている。

 

なんのための他人なのか。時折、そういうことを考えることがある。多分、人間はひとりで生きられるようにはつくられていない。自分ひとりだけの力でできることなんて程度が知れていて、いま、こうしてブログ記事を書くことができているのも「ブログを発明した先人の知恵」「スマホを発明した先人の知恵」「Bluetoothキーボードを発明した先人の知恵」「インターネットを発明した先人の知恵」「(遡れば)日本語を発明した先人の知恵」の肩に乗っている(乗らせていただいている)からこそであり、何よりも「この記事を読んでくれているひと【ITS YOU‼︎‼︎‼︎】」の存在がなければ、このブログ記事にはなんの意味もなければなんの価値も宿ることもない。わたしの価値を決めるもの、それは自分自身の能力ではなく他人の存在であり、改めて、自分は「無限の網の目【無限の関係性】の中で生きているのだ」ということを思う。

 

ごちゃまぜの家を通じて、わたしは「世界は信頼に値する」ということを目に見える形で立証したいと思っているのかもしれない。自分のすごさを立証するためではない(ほめらえるために生きている訳ではない)、でも、自分を含めた「人類全体のすごさ」を立証するためならば、何度でもそれを試してみたいと思う。自分が思うほどに世間は冷たいものではないのだということを、自分を閉じれば世界も閉じるが、自分を開けば世界も同じように開いてくれるものだということを、目に見える形で示したいのだと思っているのかもしれない。そういうことを考える時、ああ、人間はひとりで生きられるようにはつくられていないのだなあということを思う。必要とされているものは、自分ひとりだけの力で生き延びるためのスキル【他人を出し抜いてでも現代社会を生き抜くスキル】ではない、そんなことよりも、お互いにもっと助け合っていくためのスキルであり、必要とされているものは『明るくて楽しい、且つ、センスを感じる(比較的鋭利になることも多いけれど)優しいアイデア』なのだと感じている。

 

 

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春ですね!

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

百点満点のテストで、一万点くらい取りたいんだ。

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ごちゃまぜの家が新しい展開を迎えた。神奈川県の菊名駅と、大阪府豊能郡に最高の空き家があるという情報をいただき、13日(木)に菊名駅、14日(金)に大阪の物件を内覧させていただける運びになった。大阪の家は30人以上は泊まれる広さがあり、山や畑もあるために農作業もできるという。整備をすればキャンプ場にもなるということで、アウトドアが大好きな人間として夢がエクスパンドしている。わたしの愛するスノーピークの山井社長(同じ新潟県出身!)は「テントで眠ると人生観が変わる」と話す。社長の言いたいことはものすごいわかる気がする。数年前、家のない生活をしていた頃に「洞窟にテントを張って暮らす」という日々を過ごしていた。あの日々は、意外と人間はどこでも生きていけるのだという前向きな自信【生きる力】を、そして、わたしの人生に消えることのない彩りを与えてくれた。

 

 

大阪の家について、このようなご連絡をいただいた。

 

こんばんは。
はじめまして、◯◯◯◯と申します。
知人から坂爪さんのブログを教えて頂き、いつも拝読させていただいています。
お誕生日、おめでとうございます。

 

突然なのですが、本題です。
ごちゃまぜの家という試みをされるという事で、私にもお役に立てることがあるかな? と考えました。というか使って頂きたい家があります。
東京ではありませんが、大阪府です。2階建で30人以上は宿泊もできます。駐車スペースも30〜40台くらいは大丈夫。平坦な山も畑もあるので、整備すればキャンプなんかも出来ると思います。

ボロボロだけどビニールハウス的な物もあるので利用できます。

お譲りする事は出来ませんが、お家賃、光熱費なしで使っていただいても大丈夫です。
住所は 大阪府豊能郡能勢町◯◯
田舎ですが、車で大阪梅田まで1時間かかりません。


いかがでしょうか?ご検討くださいませ。

 

ツイキャスラジオ配信【定期報告会】でもお話しさせていただいたように、多分、大阪の物件には大量のマンパワーが必要になる。14日(金)の日中、一緒に物件を内覧に行ける関西近辺在住の方々を募集します。同時に、梅田駅から車を出してくださる方を募集します(車を出してくれたら神様です!)。理想を言えば、11時くらいに梅田駅に集合をして、そのまま車で豊能郡まで一緒に行けたらと思っています。車を出してくださる方がいればその方の車で、そうではない場合は『ニコニコレンタカー』の大活躍になります!【なにかありましたらkeigosakatsume@gmail.comまでお気軽にご連絡ください!】

 

【音声配信】ごちゃまぜの家の作り方 - TwitCasting

 

名前のないことがやりたいんだ。

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昨夜まで、東京都内の伊豆諸島最南部にある青ヶ島という島にいた。わたしは自分を開放して「みなさまに自由に好き勝手に使ってもらう」という生き方をしているのだけれど、それを見てくれた方が「交通費などはすべて負担をするので、青ヶ島まで一緒に絶景の星空を見に行きましょう!【これが長年の夢でした!】」というご連絡をくれた。東京都内に青ヶ島なんて島があることを、わたしは何も知らなかった。自分を開放することの最大のメリットのひとつに「自分ひとりでは絶対に発想することのできないような、稀有な体験をすることができる」というものがある。青ヶ島の存在を知らない人間が、青ヶ島に行きたいという発想を持つことはできない。ひとは知っているものにしかなれないという言葉もあるけれど、多分、わたしは「自分がすでに知っているものやことに対して、さほど信頼を置いていない【既知ではなく『未知』に触れていたい】」のだと思う。

 

家についても同じだ。誤解を恐れずに言うと、わたしは『居場所』とか『コミュニティ』とか『ひとりひとりが自分らしくいられる空間』みたいな言葉が(何かを誤魔化しているように感じることが多いから)苦手だ。わたしは別に、居場所をつくりたい訳でもなければコミュニティをつくりたい訳でもなく【どちらかと言えば『溶かしたい』と思っている】、ひとりひとりが自分らしくいられる空間をつくりたいとも思わない。では、何がやりたいのかというと、現在の言葉では表現することのできないもの、いまはまだ名前が与えられていないこと、概念として新し過ぎるためにまだまだ言葉が追いついていないこと、既存の言葉では括ることのできないもの、理解できることではなく理解できないこと(理解できないけれどなんだか面白くなりそうだと感じること)、そういうものをやりたいと思っている。疲れた人に対する処方箋【シェルター】のような空間をつくりたい訳ではない、ただ、次に行きたいと思っている。

 

次とは何か。それは「未来」で、多分、これから世の中は大きく変わる。これまでは当たり前とされてきた常識も、数十年後には「うわっ!まだまだそんなことをやっていた時代があったのか!」なんて、新鮮な驚きと共に思い出される時が来るのだろう。家族という形態、家という形態、恋愛という形態、結婚という形態、働き方や生き方という形態、これらは多様に変化をしていくのだと思う。その過渡期において、羅針盤になるものは「自分のこころはどっちに行きたいと思っているか?」と感じるこころだと思う。そして、いま、わたしのこころは「こっちだ!【ごちゃまぜの家だ!】」と言っている。このことが何を意味するのかはわからない。ただ、これをすればこうなるということがわかるからやりたいと思うのではなく、これをしたらどうなるのかわからないけれど直感的に面白くなりそうな予感があるからやりたいと思う、わたしは『そういうこと』をやりたいと思う。


【過去記事】無難な道を選んではいないか。こころの底から「これは最高だ!」と思えてはいるか。 - いばや通信

 

自分で決めない(みんなで考える)。

クラウドファンディング支援者の方々に、前祝いと称して電話で御礼を伝えている(まだまだ全員にできていなくてごめんなさい!)。 御礼を伝え続けて確信をしたのだけれど、「電話は最高だな!」と心の底から思う【クラウドファンディング企画者の方々には熱烈におすすめします!】。声のなかには、メールの文面だけでは絶対に伝えることのできない温度がある。支援者の方からは「こうして実際に電話をすると、ああ、さかつめさんって実在したんだ!って思います!」なんて言ってもらえる。わたし自身も「ああ、俺は、こんな方から支援をしていただいているのか!」といううれしさの実感が急上昇する。電話を通じて、お互いの実在を確認することができることが何よりも楽しく、また、一度電話をすることで次に連絡をするときのハードルが下がる(気軽に連絡を取り合うことができる関係性に繋がる)ことも最高にうれしい。 

 

わたしの今世のテーマに「自分で決めない」というものがある。ごちゃまぜの家に関しても、これこれこういう家をやりたいからみなさま支援をお願いしますというものではなく、こんな感じのことを漠然とやりたいと思っているのですがまだまだ全然甘々なので、みなさまの力を貸してください!という感じの企画になる。言い方を変えると『自力ではなく他力』にフォーカスをしたものになり、自分ひとりだけの力で何かを成し遂げることよりも『人類全体の力を合わせた時に、果たしてどのような現象が起こるのだろうか』ということに興味がある。逆に言えば、わたしは、わたしひとりが発想できることに対してたいした信頼を置いていない。自分の程度なんてたかが知れている。しかし、誰かと力を合わせた時に、人間はとんでもないことをやってのけるような気もしている。

 

だからこそ、電話やメールを通じて「こんな風になるといいですね!」なんて支援者の方の声をいただけると、わたし自身も「おおお…なんて素晴らしいアイデアなのでしょう!あなたは天才だ!最高だ!この惑星の宝だ!そうしていけるように邁進をします!」というようなことになる。これまでの人生を振り返って見た時に、坂爪圭吾という人間は「0から1をつくるのは大好きだけど、1から100に育てることは苦手みたいだ」ということがわかる。わたしは、何か新しいことに手を出すことは得意だけれど、それを育てるとか管理をするとか整理をするということが非常に苦手だ。そういう時、わたしは、みなさまの力によって生かされてきた【自分ひとりだけの力で生きてきた訳ではない】のだということを強烈に思う。わたしは「0から1」をやる。同じように「0から1」を好むひととはその部分を一緒に、あるいは「1から100」が得意なひとには、是非、是非、是非、無力なわたしを支えて欲しい。わたしは弱い人間で、自分ひとりだけの力では何もすることはできない。みなさまがあってこその自分なのだということを、日々、痛感している。

 

『モバイルハウス 三万円で家をつくる』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、坂口恭平著作『モバイルハウス 三万円で家をつくる』です。端的に、三万円で家を建てるための方法論が書かれています。それと同時に「家とは何か」という根源的な問いも示されている、非常に素晴らしい一冊になります。これは完全に余談になるのですが、小生、今月中旬頃からハワイに行くことになっているのですが(ハワイ在住の方はお気軽にご連絡ください!)、奇跡的にハワイ島周辺で自由に使える土地を貸していただける日が来たら、このような家を建てて「誰でも自由に使ってちょーだい!〜ごちゃまぜの家@ハワイ編〜」だなんて開放をできたら面白そうだななんて思います【大阪府豊能郡の広大なスペースに小さな家を建てまくることも楽しそう!】。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、北海道にわたりました ※※※

 

オーストリアリンツという都市に、その名も「ピクセルホテル」という宿泊施設がある。ホテルといっても、このピクセルホテルには格調の高い建物なんて一つもない。建物自体存在していないのだ。ならば、人はどこに泊まるのかというと、それぞれの部屋が街全体に散らばっているのである。

 

水上に浮かぶ一室、庭園内につくられた部屋、工場の一部を改装したもの。美術ギャラリーの中に置かれた美術作品のようなベッドに寝たりするところもある。

 

宿泊者はホテルに泊まるというよりも、リンツという街全体に住み込んでいるような体験ができる。ピクセルホテルには、もちろんレストランもバーもない。そのかわり、手渡されたチケットを使えば周辺に点在するかフェやレストランを使えるのである。

 

とても賢い方法だ。通常のホテルのような巨大建築物を建てる必要がなく、それでいて小さく縮こまるのではなく、街全体を宿泊空間として利用することができる。

 

(中略)こうやって僕たちは都市という公共空間の中で、無意識にプライベートな空間をつくり出しているのである。もちろん、ここが私の空間ですよと名前を書いたり、壁で囲んだりしない。そこは自分だけがプライベートであると認識できる空間なのだ。他の誰かが使っていても、文句を言うこともない。他の誰かのものであっても、勝手に頭の中で所有することができる。このような都市の捉え方をもっと具体的に推し進めていくことで、僕たちは何も建てることなく「空間をつくり出す」ことができるのだ。

 

坂口恭平『モバイルハウス 三万円で家をつくる』【集英社新書

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

百点満点のテストで、一万点くらい取りたいんだ。

4月12日(水)19時から東京都国立市で開催されるトークイベントに出演をする。わたしは、リアルの場面を通じて『面と向かって対話をする』時間が大好きだ。集団的知性【集合知】という言葉もあるけれど、もう、自分ひとりだけの力で何かを解決するような時代は終焉を迎えたのかもしれない。これからの時代のリーダーに求められるものは、何もかもを自分ひとりだけの力で解決するスーパーマン的な役割よりも、集団的な知性を総括する『編集力【ひとびとの思いを編集する力】』や『翻訳力【ひとびとの内面の声を言語化する力】』、そのようなものになるのかもしれないと思う。別に、そんな堅苦しい理由なんて抜きにして、端的に「ひとと話をすること以上にクリエイティブな瞬間はない!」ということを思う(イベント参加はどなたでもご自由にどうぞ!)。

 

 【イベント詳細】坂爪圭吾さんトークlive!!!

 

甲本ヒロトさんの言葉に「百点満点のテストで、一万点くらい取りたいんだ」というものがある。わたしはヒロトさんが大好きで、彼が話したり歌っている姿を見るだけで「いやーん!もう、なんでこんなにこの人を見るだけで幸せな気持ちになっちゃうのかしら!」だなんて思ってしまうのだけれど、多分、生きていることをよろこんでいることが(言葉ではなく)全存在から伝わってくるからなのだとわたしは睨む。百点満点のテストがあるとしたら、 他の教科は二点とか三点とかしか取れなくてもいいから、たったひとつの教科(それは『自分』という科目になるのかもしれない)だけは一万点を取りたいのだと願う。もしかしたら、このような心理を現代社会は「中二病【ちゅうにびょう】」などと揶揄をするのかもしれない。でも、もう、中二病ならば中二病で構わない。90点を95点にするための努力よりも、人並みの点数【平均点】を取るための努力よりも、わたしは、0点から1000000万点の大胆な幅を(規定の枠を完全に無視して)ダイナミックに移動をする、そういう瞬間が大好物な人間になるのだと思う。

 

固定の枠にはめられるのではなく、人間全体として生きるということ。様々な出来事が「お前はこれしかできないのだから、これだけをやっていればいいのだ」的な感じで枠にはめようとしてくる【ただの部品になるように仕向けてくる】けれど、ほんとうはなんだってできるし、ほんとうはなんにだってなれるのだとわたしは思う。まわりの声や情報ばかりを気にしていると、こころの調子は簡単に狂う。でも、それでも、もっと奥の方にある内面の部分は「大丈夫だよ」と囁いている。その声に耳をすませること。真ん中の自分は、常に気持ちをぎゅっとしておくこと。こころは答えを知っていて、多分、人間の想像力に限界はない。自分が本当の意味でなりたいものを、自分が本当の意味でやりたいことを、こころはすでに知っている。自分のハートが「これだ!」と思うものを見つけたならば、頭はクールに、腹はホットに、なりふり構わず突き進むこと。多分、その先に出会うものが真の意味での仲間であり、その先に「ああ、この瞬間は一万点だったな」と思える最高の瞬間があるのだと思う。 

 

 

https://www.instagram.com/p/BSsCx8Cj9yh/

廃墟でギター。

 

人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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無難な道を選んではいないか。こころの底から「これは最高だ!」と思えてはいるか。

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クラウドファンディングがとんでもないことになっていて震えた。昨日はわたしの32歳の誕生日だったのだけれど、なんと、100万円をダンクしてくれた神様が登場した。こんなに大金をダンクしてくれたにも関わらず、その方は「誕生日おめでと〜!面白いことになりそうだね!」という極めて軽い(軽過ぎる!)言葉をわたしに告げた。大きなことを、軽い気持ちでやってしまうひとの存在にわたしのハートは痺れる。のちほど、神様の正体が判明をしたのだけれども、わたしと同じ1985年生まれの男性だった(K様、あなたは今日から神様です!)。

 

 

予告通り、これから「東京&日本を含めた世界の何処か」にごちゃまぜの家を生み出すべく、実際的な物件探しの日々がはじまる。いままでは「東京都内にごちゃまぜの家をつくりたい!」というだけの話だったことが、神様の登場により「二軒目もつくれることになりました!」ということになった。もしも、奇跡的にこちらのブログをご覧の方で「わたしが住んでいる地域に適当な家があるよ!」という情報をお持ちの方が いらっしゃいましたら、お気軽にご連絡をいただけましたら幸いです。わたくし、世界の何処でも実際にお伺いをさせていただく時間と体力だけはあります!(不動産屋さんで家を借りるのも何かが違うような気がするので、使われていない空き家の有効活用などと言ってしまうと少々アレですが、東京都内の適当な家情報もこころからお待ちしております!)

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

えこひいきグッズ。

支援者の方々をえこひいきするための「えこひいきグッズ」なるものを制作したい。諸々の場面で支援者の方々を圧倒的に優遇しつつ、わたしは「ユーモアたっぷりで、実用的で、おしゃれなもの」が大好きだから、そういう形に残る何かを追加でプレゼントできたらいいなって思う。支援者の勲章になるばかりか、それを身につけているだけで「新しい形でのコミュニケーションが発生をしてしまうようなもの」、たとえば特定のロゴのTシャツを着ることで『いつでも話しかけてOKですよ』というサインになるようなTシャツとか、とか、そういうもののアイデアを煮詰めたいと思う【最近、「お金では買うことのできない商品をつくりたい」という思いがある。わたしは「売る・買う」よりも「あげる・もらう」という関係性を愛していて、お金では買えない商品を開発できたら面白くなりそうだなあと考えている】。

 

コミュニティ【境界線】を溶かしたい。

昨日、東京都内でお会いした女性が「わたしもコミュニティ作りをやっているので、坂爪さんと同じような活動をしています」ということを話してくれた。わたしは、これはまったく違うと思ったために「コミュニティをつくりたいだなんて思ったことはありません」と答えた。コミュニティなんてものをつくってしまうから、 そうであるものと、そうではないものとの間に断絶の境界線ができてしまう(それが無駄な差別感情などに繋がる)のだと思う。なぜ、分ける。なぜ、隔てる。なぜ、片方の側だけにつく。ごちゃまぜのままでいいじゃないか。そう思ってはじめたいと思ったものがごちゃまぜの家の構想であり、これはコミュニティをつくるためのものではなく「コミュニティなどと呼ばれているつまらない既存の枠(人間の全体性を奪うような境界線)を溶かしたい」という思いがある(気がする)。

 

先日、お会いしたコミュニティ運営者の方は「ニートさんは日本の未来です。彼らは21世紀型の思考の持ち主なので、20世紀の常識を無意識に拒んでいる純粋な生命体なのです。なので、私たちの活動にニートさん達に手伝っていただくことで、輝ける場所を提供できたらと思っているのです」などと話していた。わたしは、なんだか綺麗なことを言っているのかもしれないけれど「ニートさんの『さん』ってなんやねん!」とか「輝ける場所を提供したいとか言っているお前は何様か!(それは、ニートは輝いていないと言っていることと同じではないのか!)」などと思った。ので、そのままの言葉で伝えた。すると、その方は「そんなことは思っていません」と言うので、わたしは「でも、いま、自分の口からそう言っちゃっているじゃないですか」と問うた。すると、そのひとは「ああ…そうかもしれません」的なことになり、わたしは(ほんとうは大人気ないことなのかもしれないけれど)なんだか非常にスカッとした。

 

善意の押し売りほど醜いものはない。自分は正しいと信じている、そのことまではいいのだけれど、誰かに押し付けた瞬間にそれは「暴力」になる。と、ここまで書きながら「あれ?俺も、結局自分の考えをそのひとに押し付けてはいないか?」などと思った(自分の意見を表明しただけだからセーフかな??や、やっぱりアウトかな??)。とにもかくにも気をつけよう。誰かを救いたいと話すひとほど、そのひと自身がまったく救われていない場合は多い。他人を救うことを通じて自分を救うだなんて、なんだか、とっても不潔である。わたしは、ごちゃまぜの家の活動を『支援活動的なサムシング』にしたいとは思わない。福祉的な活動でもなければソーシャルアクションなどと呼ばれる活動でもない、単純に「自分を(自分と似た感性のひとを)楽しませるため」のものでありたいと思う。まずは自分に集中をすること、自分以外の誰かでごまかすのではなく「まずは自分を救え」ということを思う。

 

【過去記事】まずは自分を救え。 - いばや通信

 

俺らはエンタメでありたいんだよ。一目見ただけで、思わず幸せになっちゃうような、そういうことをやりたいんだよ。

昨日、新潟在住の男性T様から連絡をいただいた。

 

坂爪さんの生き様を拝見していると、エンタメってこう言う風な起源で始まったのかなと思わされる瞬間があります。

 

芝居と言う言葉は芝に座って見世物を見るところから芝居と呼ばれたそうです。

 

坂爪さんは芝に座るスケールを越えて世界に座っているスケールに私には見えます。 

 

わたしは「なんて嬉しい言葉を言ってくださる方なのだろう!」と感動した。そして、俺たちはエンタメでありたいんだということを思った。何をやるにしても、その活動の根底には「このような生き方をしている人間がいるんだぜ」ということを感じてもらえたらうれしい、少しでもこころがフワっと軽くなってもらえたらうれしいという、ただ、それだけのことなのだと思う。笑えたら、きっと、それだけで既にゴールをしているのだ。難しいことはなにもない、そう、俺たちはエンタメでありたいんだ。一目見ただけで、思わず幸せになっちゃうような、そういうことをやりたいんだ。これはある種の魔法【マジック】みたいなもので、俺たちは、魔法使いのようなものになりたいんだ。世界にある種の魔法を振り撒いて、それを見たひとが「なんだこれは…マジックみたいだ!」なんて驚きと共によろこんでくれた瞬間の中に、たまらないよろこびを覚えるタイプの人間みたいだ。

 

『ひとり言セラピー』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、あな田さゆり著作『ひとり言セラピー』です。こちらの本は、著者の方がわざわざ坂爪圭吾に会いに来てくださり「もしよろしければ、お読みいただけましたらうれしいです」というお言葉と共に、わたり文庫に寄贈をしてくれた一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

嵐のように荒れ狂う心を

外から見る冷静な目を持ちなさい。

 

その目は

それがすべてではなく

全体のなかのごく一部で一時であることを

あたなに教えてくれるでしょう。

 

荒れ狂う心のなかにとどまり

嵐を感じる勇気を持ちなさい。

 

その勇気は

あなたが誰で

何を求めているのかを

教えてくれるでしょう。

 

あな田さゆり『ひとり言セラピー』【かんき出版】 

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

無難な道を選んではいないか。こころの底から「これは最高だ!」と思えてはいるか。

数日前、静岡県富士市にあるホームセンターに足を運んだ。わたしは、常々「熱海の家の台所に適当な大きさのスツールがあればいいなあ」などと思っていたのだけれど、ちょうどよく、安価で手頃な椅子がホームセンターで売られていた。わたしは、一瞬、その椅子を買いかけてしまったものの、レジに並ぶ直前のところで「あぶねー!」と購買を思いとどまることに成功した。取るに足らない些細な出来事のようで、こういうひとつひとつの行動が、結果的に人生全体のあり方を決める重要な舵取りの要素を担うような気がして、購買をやめた。

 

何が言いたいのかと言うと「丸よりも『三重丸』を選ぼう!」ということです。言い換えるならば「これでいいという思いではなく、『これがいい!』と前のめりに思えるものを選ぶこと」であり、多分、中途半端なものばかりを選び続けていると、人生全般が中途半端なものになる。これでいいではなく「これがいい!」と思える道を選ぶこと。ごちゃまぜの家の活動ひとつとって見ても、これでいいやという適当な態度で選ぶのではなく、しっかりと「俺はこの選択にこころの底から『最高だ!』と思えているか?」と問いたいと思う。自分との関係も人間関係であり、コミュニケーションに失敗をすると自分の行きたくない場所に連れていかれてしまうことは多い。

 

【過去記事】「ひととの繋がり」があれば人間は死なない。 - いばや通信

 

前回の記事で「社会不適合者」などという言葉を取り上げたけれど、そんなことはどうでもいいから「自分適合者になること」の方が何億倍も大切だと思う。自分の道を選ぶ時、最大のナビゲーターになるものは『自分のこころ』以外には何もないはずだ。誰がなんと言おうとも、自分のこころが「最高だ!」と思える道を選ぶこと。真の仲間や理解者は、歩き出す前に出会うものではない、きっと、歩き出す先に出会うものだとわたしは思う。理解されなくても、何も説明できなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも、自分の道を進み続けること。周囲の無理解に苦しむことがあったとしても、自分自身だけは「お前は最高だ!」と思うことができるような、そんな『最高の自分』でありたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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「ひととの繋がり」があれば人間は死なない。

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昨日は「愛知県名古屋市在住のそこはかとなく風邪気味の女性のために柑橘系の果物を届ける」というミッションを遂行した。わたしは自分自身を開放する(お願いされたことはできる限りやるようにしている)日々を過ごしているのだけれど、この日も「おおおおお、なんて無茶な!」という依頼が届いた。別に報酬をもらえる訳ではないのだけれど、たったそれだけのために貴重な1日を費やすことはなんだかとっても尊いことのように思えてきたので、向かった。道中、あまりにもバタバタしてしまったために肝心の果物を購買することを忘れて手ぶらで到着をしてしまったのだけれど、ここはひとつ「坂爪圭吾も柑橘系みたいなものですから」という逆転の発想(?)で、無事、事なきを得た(ということにしている)。

 

 

クラウドファンディング支援者の女性から「わたしは名古屋在住の23歳で、数ヶ月前に仕事を辞めて貯金も10万円を切っているところなのですがこの企画を見た瞬間に『これ以上に最高のお金の使い方はない!』と思って支援させていただきました!」という最高のご連絡をいただいた。わたしは、なんだかたまらなく嬉しい気持ちになってしまったので「ちょうど4日【昨日のこと】に名古屋に行くので、奇跡的に実際にお会いできましたら直接御礼を伝えたいです!」と返事をした。結果的に、我々はサクラ舞い散る鶴舞公園で念願の対面を果たし、様々な話の展開があった末に彼女を(7日に東京で開催される生誕祭に強制参加をさせるために)熱海に拉致をすることに成功した。お金はないけど時間と元気と瞬発力はある、そんな『明るい無職』は最高だな(それと「実際に対面してコミュニケーションを交わすことは最高だな」)と心から思った。

 

【過去記事】世界平和は「はな歌」から。 - いばや通信

 

生きていることを実感したければ死ね。

急遽、熱海行きが決まった女性H様に「いまの心境は、どのような感じですか?」と尋ねた。すると、H様は「ラプンツェルになったみたいです!」とのこと。わたしはラプンツェルの物語をあまりよくわかっていないのだけれど、彼女の説明によると「情緒不安定の女の子が喜怒哀楽を繰り返しながら旅に出て結果的にいい感じになる」というものらしい。おお、これは非常に素晴らしいなと思ったわたしは、予測不可能な出来事に見舞われて人生がいい感じに翻弄されはじめていく現象を『ラプンツェる』と呼びたいと思う。H様は現在無職で特に今後の予定も決めていないために、臨機応変にあらゆる事態に対応することができる。最低限の生活必需品を詰めたキャリーバッグを転がして登場をしたH様を見て、ああ、H様自身もいい感じに神の手に転がされてしまいますようにと願った。

 

わたしは非常に真面目な人間なので、気がつくと目の前の物事を深刻に捉えがちになることは多い。そんな自分の目を覚ますために「正しさよりも『楽しさ』だ!」とか「傷つく前に傷つくな!」とか「生きていることを実感したければ死ね!」だとか、比較的強めの言葉を投げつけては自分自身を叱咤激励している。そんな中で、『ラプンツェる』という言葉はとてもいいなあと改めて思った。言葉の響きもポップであり、いろいろあるけれど悲壮感はない。情緒不安定であることに対して非常に寛容的で、全体的に「いろいろなことがあるけれど、きっとうまく行くよ」的なニュアンスがある。そうだ、きっと、すべてのことはきっとうまくいくようにできているのだと、そういうことを思い出すことができる。

 

何が起こるかわからない未来と、何が起こるかあらかじめ決められている未来と、どちらの未来を生きたいと思うだろうか。わたしの場合、人生の醍醐味は「何が起こるかわからない」というその予測不可能性にある。こんな目的を果たすためにこれをやっているというような、頭の良い思考をすることはできない。それよりも「これをしたらどうなるんだろう?」とか「こんなことってできるのかな?」という、答えよりも『問い』に突き動かされて生きるタイプの人間だ。どうなるかわかるからやるのではなく、どうなるかわからないからやりたいのだ。だからこそ、わたし自身の活動も「答えではなく『問い』でありたい」ということを思う。ごちゃまぜの家の活動をとっても、これからの世の中はこうなるからこれをやる的なある種の答えを提示したい訳でない、そんなことよりも『人間とは何か』とか『家族とは何か』とか『生きるということはどういうことなのか』という、根本的な問いを提示する【一緒に考えていく】ことができたら嬉しいと思っている。

 

人類全体の末っ子から、人類全体の父へ。

最近、自分の心境の変化を感じる。家のない生活をしていた頃は、言うなれば「人類全体の末っ子」的な生き方をしていた。みなさまに愛される【宿や食事や交通費などを負担していただく】ことで、どうにかこうにか生き延びさせていただく日々を過ごしていたのだけれど、なう、最近の自分は「人類全体の末っ子から、『人類全体の父』に移行をする時期に来ているのではないだろうか」と思うことは多い。先日、クラウドファンディング支援者の方から以下のような連絡をもらった。なんだか非常に嬉しくなると同時に、こうしてメールをしてくださる方々は「まるで人類全体の母のようだ!」とも思った。 

 

坂爪さん、こんにちは


先日、快楽主義...を送って頂いた◯◯です。

 

【註】誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。 - いばや通信

 

先ほど送金してきました。

 

順調に思いが集まってますね。これからどうなるか、わからないことだけど、坂爪さんの思いに私の思いも引っ付けたい。私だけではないたくさんの思いがこんなに目に見えるなんて楽しく嬉しいです。

 

でも形になろうが、ならなかろうがどっちでもよく。今回、心から浄財(笑)できたことが本当に気持ち良かったです。

 

私事ですが、夫は脱サラ、娘は脱高校、義父母は認知症、私は末期ガン(でも元気)。そんなことなどはどっちでもよく、今、こんなにワクワクできている。ありがとうございます。

 

この気持ち、ずっと忘れていた清々しさがあります。この思いのまま、これからやりたいことをやっていこうと思いました。

 

坂爪さんと電話ができる♪となると緊張しますが、やはり喜びのが大きくて。明日6日(木)は1日中どこでも大丈夫です。ご都合悪ければ、また別の日にします。

 

横浜在住のY様からも連絡をいただいた。

 

坂爪さんこんばんは!


いつも素敵な文章をありがとうございますm(_ _)m


先日はお忙しい中お花を届けてくださって子供と遊んでくださってありがとうございました!

 

クラウドファンディング楽しみにしていました♪
坂爪さんらしい思いのこもった熱いクラファンの文章にやっぱりこの人素敵だなぁ~~!!大好きだわーーー!!!と思いました。

 

一口分ですが、想いは100万分の応援です☆

 

ごちゃまぜのお家にも子供と行けるの楽しみにしていますし、お料理作らせてください♪


オムツとかも置いておいても良ければ用意させてください♪

 

出来れば、、子連れでも行きやすい場所が良いです。。

 

良い不動産屋さんと出会えると良いですね(^^)

 

それもブログ読まれている方の中から聞いてみてはどうでしょうか?とでしゃばってすみません。

 

とにかく応援していますので、また6月頃うちにも遊びに来てください(^^)

 

坂爪さんも応援している皆さんも楽しめますように☆

 

秋田在住のS様からも連絡をいただいた。

 

坂爪さんこんにちは、


度々ご連絡するのも気が引けるのですが、「パトロンになりました〜」というご連絡をば。

そもそもわたり文庫がきっかけとなり、坂爪さんに初めてご連絡したのですが、おかしな話しになるのですが…実は、その数日前に天啓がありまして(笑)
正確には、自室の天井20センチ下くらいの空間から、電波的通信?がきまして。
(たぶん頭は大丈夫なはずです)昨夜のクラウドファンディング立ち上げ記事を読み、
こーのーこーとーかーー

と。

 

説明は端折りますが、そんな訳で10万円を支援金としてお送り致しました。

時間があれば、お会いした時にでも、経緯をお話できればなと思います(大した事ではありませんが)。
ただ、不思議な事ってあるよね!!って事です(笑)


大金を集める、期待を寄せられる、それに恐怖心を感じるのは正常な感覚だと思います。
私としては、成功(世間的な意味で)を期待してお金を預けた訳ではありません。他人の思惑に左右される事なく、左右される事があったとしても、
「わたしはこうしたい!」という、ご自身の想いと感覚を信じて下さい。
私も、「こうしたい!」という想いと感覚に従い、提供しております。
面白くなってきましたね!

楽しみましょう!

あ、それと、おたんじょうび玉もお贈りしました。
心がウキウキする事に使ってもらえたらと思います♪
では〜(。-ω-人)✧*。

 

わたしは、ああ、神様はいるのだなと思った(ご連絡をいただいたみなさま、本当にありがとうございます!!)。自分で言っちゃうけれど、今回の企画が最高な理由は『あらかじめこちら側ですべてを決めてある企画に対して、みなさまにイエス・ノーで答えていただく』ものではまったくないということだ。そんなことよりも、みなさまとのやりとりを通じて『大きなイエスを築いていく』というものになる。この点が、わたしは、心の底から気に入っている。このような連絡を立て続けにいただいていたら、恐怖を感じる空白は消えた。そんなことよりも「せっかく支援をしてくれた人に対して、もっと大きなリターン【言うなれば『えこひいきグッズ』的なサムシング】を用意したいという感慨に満ちた。誤解を恐れずにいうと、わたしは「えこひいきをすること」が好きだ。支援者の方々には、勝手に追加でえこひいきグッズを届けたいと思う。詳細は後日!(実はまだ何も決めていません!)。

 

ママはテンパリスト

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、東村アキコ著作『ママはテンパリスト』です。こちらの本は、千葉県在住の女性から「わたしが子育ての時にものすごい助けられた漫画になるので、同じように子育てで悩まれている方の手にわたればうれしいです!」というお言葉と共に、託していただいた一冊になります。なんて素晴らしい方なのだろう!と、わたしは感動をしてしまいました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

この物語は29歳で出産し、日々の育児の大変さにテンパりながらも、あらゆる困難を人に頼って乗り越え、母親としての自己を確立したようなしないような一漫画家とその息子ごっちゃんの記録である・・・・・。ー 東村アキコママはテンパリスト』【集英社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

「ひととの繋がり」があれば人間は死なない。

わたしの好きな言葉に『開墾』というものがある。多分、わたしには「いまの世の中を軽く開墾してみたい」という欲求があるのだと思う。たとえば、日本という国の中には社会不適合者という言葉がある。いまの世の中にうまく馴染むことのできないひとたちのことを指すのだとは思うのだけれど、わたしは「自殺者が3万人いて、鬱病患者が100万人いるとか言われている世の中に適応をしたら、おかしくならないほうがおかしいのではないだろうか。いろいろとおかしいことの多い世の中に合わせて自分を変えることよりも、自分でも生きていくことのできる世の中を『開墾』することのほうが急務(というか単純に面白い)ではないだろうか」などと思う。

 

 

これからの世界を面白いものにするひとは、時間があって、エネルギーがある人間【要するに『明るいニート』】だと思うことは多い。既存の社会システムなどからは程良い感じに距離を置きつつ、普通だったらもっと不安になってもいいような状況(例えば「金がない」とか「仕事がない」とか「未来予想図は何も描けていない」とか)に置かれているにも関わらず、謎に元気なひとたちの存在。明るいふりをしている訳でも、自分の正当性を主張している訳でもない、ただ、そのままの姿でそこにあることができるひと。ニートとは、多分、職に就ていないということではなく「何者でもなくそこにあることができるひと」のことを指すのだろう。仕事の有無に関わらず、所属先を通してではなく『個として元気』な存在は、一緒に何かをやるにはもってこいの逸材であるように思う。

 

 

およそ2年間の家のない生活を通じて、わたしは「ひととの繋がりがあれば人間は死なない」ということを学んだ。ひととの繋がりと、ほんのちょっとの勇気と行動力さえあれば、人生はいくらでも素晴らしい方向に転がっていく。そういったことを、今回のクラウドファンディングのプロジェクトを通じて「目に見える形で世の中にポンっ!と発生をさせる」ことができたら楽しいと思う。そして、無限の網の目の中でコロコロコロコロと転がっていった先に、果たして、どのような素晴らしい景色が広がっているのかということ【わかることではなく『わからないこと』】に対して、わたしの胸は静かな躍動を続けている。

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

世界平和は「はな歌」から。

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昨夜、クラウドファンディングを公開した。翌朝には既に30万円を超える支援が集まっていて、嬉しさと、それを超える驚きを感じた。この驚きの感情は別の何かに似ているなと思って、あ、この感情は「恐怖だ」と思った。ひとは、自分でも気づかない内に自分の内側に限界の壁を設けてしまっていて、夢が実現する時、思いもかけなかったギフトが舞い込んでくる時【側からみると千載一遇のチャンスに見えるような時】ほど、よろこびをはるかに上回る「恐怖」を感じるものだと前に聞いたことがある。ひとのこころの中には、失敗することを恐れる気持ちがあるように、成功することを恐れる気持ちがあるのだと聞いたことがある(「はうはうはう、これがコレか!これなのか!」って思いました!!)。

 

 

プロジェクト公開後、大阪在住の方から「ごちゃまぜの家という試みをされるということで、私にもお役に立てることはあるかな?と思い、ご連絡をさせていただきました。東京ではないのですが大阪府内に使っていない家がありますので、もしよろしかったらご検討ください」というご連絡をいただいた。このような形を通じて、この企画がなければ生まれることのなかった新しい結びつきが生まれて行くことの中には、純粋なよろこびを覚える。この瞬間に感じるよろこびの中に「恐怖」のような感情はなにひとつない、ただ、ひとの思いに触れることができたうれしさだけが残る。まだどのような形になるのかは何も決まっていないけれど、ひとつひとつの出来事を、大切につなげていきたいと思う【4月7日(金)三軒茶屋で開催される生誕祭の折りにも、今回の企画に関するお話をみんなでできたらいいなと思っています】。

 

【イベント詳細】【Rosé company / 勝手に生誕祭 〜生きとし生けるものの一粒万倍日〜】

 

クラウドファンディングの奇跡。

プロジェクトを公開してまだ間もないけれど、何名かの方から「経済的な支援は難しいけれど、人手が必要になった時にはいつでも声をかけてください!」というご連絡をいただいた。このような連絡をいただけることはとっても嬉しい。わたしも「その時は、是非、馬車馬になっていただきます!」とお返事をする。わたしは、多分、お金が集まることとか夢が実現すること以上に「それをしなければ絶対に発生することのなかった、人間的な結びつきが生まれること」に、最大の関心があるのだということを思った。支援者の方々にも、目標金額が達成したからリターンとして御礼のご連絡をさせていただくのではなく、支援をしてくれた(支援をしてくれるというボールを投げてくれた)というまさにそのことに対して、目標金額が達成しようがしなかろうが、いま、まさにこの瞬間に「ボールを投げてくれてありがとうございます!」というボールを投げ返したくなる。

 

という訳で(どういう訳なのだろう)、既に支援をしてくださった神様も、これから支援をしてやってもいいかなと思ってくださっている神様予備軍のみなさまも、お手間でなければ「支援したよー!」的な連絡を坂爪圭吾まで直接いただけましたらなんだかもうたまらなくうれしいです。多分、クラウドファンディングというシステムの性質上、御礼のリターンは実際にプロジェクトが達成された時にだけ発生するものだと思うのですが、ご自慢の自作ルール『勝手に前祝い!』と称しまして、目標金額が達成しなかろうがなんだろうがいまのこの瞬間における新鮮な気持ちを大切にしたいという思いが強いために、差し支えなければ、以下の連絡先までご連絡をいただけましたら幸いです(メールの返信が著しく遅れがちなわたしなのですが、何卒ご容赦いただけますと幸いです!!)。

 

わたしの信条のひとつに「魚もココロも鮮度が命!伝えたいことがあるならば、生きている間に伝えよう!」というものがあります。このような機会を通じて、何かしらのコミュニケーションが発生をするということ、ボールを投げたいと思わせてくれるひとがいるということ、ボールを受け取ってくれるひとがいるということ、最初は電話一本だけのつながりだとしても、そこに『そのひとの温度を感じることができる』ことができたのであれば、ああ、自分はこんなひとに見てもらえているのだという、たまらない活力を受け取る【与える】ことができます。ひととひとが出会うということ、それは、大袈裟な言葉で言えば「ひとつの奇跡」みたいなものなのだと思います。

 

坂爪圭吾・keigosakatsume
keigosakatsume@gmail.com
LINE ibaya(電話番号「07055527106」で検索!)

 

モンテロッソのピンクの壁』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、江國香織(作)荒井良二(絵)著作『モンテロッソのピンクの壁』です。わたしは荒井良二さんの絵が大好きなのですが、こちらの本はとりわけ大好きな(大好きなひとの誕生日プレゼントに贈りたくなるような、光の粒子にあふれている、小さな宝石のように素晴らしい)一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

 

出発の日は、またとないよいお天気でした。

 

「淋しくなるねえ」

 

年とったご婦人は言い、それはつらい別れでした。でもハスカップは弱味をみせず、お別れのしるしにご婦人の足をひとなめすると、港に向かって雄々しく歩きだしました。

 

うしろもふりかえらず、軽やかに。

 

私はモンテロッソにいかなくちゃ。何かを手にいれるためには何かをあきらめなきゃいけないってことくらい、私はよく知っている。

 

江國香織(作)荒井良二(絵)『モンテロッソのピンクの壁』【集英社文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

世界平和は「はな歌」から。

小沢健二さんの「流動体について」という曲が大好きすぎて、毎日、何回も何回も繰り返し聞いています。この音楽を流しながら街を歩くと、ひとも、景色も、目には見えない空気の中でさえも光の粒子が躍動をしているように世界が輝いて見えてくるような、そんな気持ちにさせてくれる魔法みたいな音楽です。この曲の中に「誓いは消えかけてないか 深い愛を抱けているか」という歌詞があるのですが、イヤホンを通じてそのフレーズが直接耳元で鳴り響くたびに、わたしは、ああ、という気持ちになります。なにかをやるはじめる時の理由と、なにかをやり続ける時の理由は、きっと、少しずつ変わっていくものなのだと思います。それでも、たとえ何もかも失うようなことがあったとしても、最初の気持ちさえ忘れていなければ、何度でもやり直せるのだということを思います。

 

今回のプロジェクトの中で「世界平和は『はな歌』から」というフレーズを、企画記事の最後に掲載しました。この言葉が、今回のプロジェクトにおける初心と呼ばれるようなものになるのですが、わたしの中には「女性のはな歌が聞こえている空間に、多分、間違いはないのだ」という謎に強烈な思いがあります。逆に言えば、はな歌が許されない職場や環境に漂う空気感は威圧的で、そんな中で自分の力を思う存分発揮することは、非常に難しいことであるように思います。たとえ、ごちゃまぜの家を実現することができる日が来たとしても、その空間から女性のはな歌が聞こえてくるようなことがないのだとしたら、わたしは「なにかしらやり方を間違ってしまっている」ということになります。

 

初心はひとつの軸になり、道に迷う時、恐怖を前におののく時、それはあたたかでやさしい北極星のような役割を担ってくれるものだと感じています。いまのわたしにある北極星は「はな歌が聞こえてくるような空間であること」と、小沢健二さんの曲にある「誓いは消えかけてはないか 深い愛を抱けているか」という、この2つの言葉の結晶体になるのだと思います。これから先、たとえどのような結果を迎えることになったとしても、瞬間瞬間における自分なりに精一杯の『深い愛を抱くことができている』限り、きっと、世界はうまくいくようにできているのだということを信じて、軽やかに【あまり重く考えすぎることなく!】、日々のど真ん中を歩いていけたらと思っています。

 

 

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人生は続く。

 

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誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。

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3泊4日のファスティングデイズも無事に終わり、いま、東京ドームのすぐ近くにあるデニーズにいる。非常に驚いたことに早朝7時からデニーズはほぼ満席で、おそらく、競馬が大好きなのであろう男性陣が新聞を片手にたむろしている。隣に座っているおじさんの体臭がすごい。清潔であるということは物凄い大切なことなのだなあと実感をする。しかし、清潔であること以上に「愛情不足である」ことの方が問題であるような気もしていて、なんだろう、うまく言葉にできないのだけれど「これまでの人生で誰にも優しくされることはありませんでした」という雰囲気がおじさんの全身から漏れ出している(気がする)。

 

3日間のファスティングで57キロだった体重は53キロ代(身長は175弱)にまで落ちた。わたしは痩せ型なので「大丈夫ですか!?」と心配をされることが多いのだけれど、小学生時代の野球部の練習が過酷過ぎたためにいまでも謎に腹筋は割れている(特別なトレーニングは何もしていない)。ファスティング中に空腹を覚えることはなかったけれど、2日目から排毒のためなのか鈍い頭痛が終日続いた。しかし、3日目になるとトンネルを抜けたような清々しさを覚えるようになり、尿検査的なものをすると「ケトン体が出ている」ことが判明をした。ファスティングの効果なのかは謎だけれど、ずっと痛かった右足首の痛みが完全に消えた。これでまた長距離を歩くことができるのだと思うと嬉しかった。ファスティング明けに食べたおかゆの旨さは格別で、食事ができること【生きていること】のありがたみを痛感した。

 

悪態日記。

昨夜、著名人が集まる宴に御招待をしていただき、場違いを覚悟で足を運んだ。誰もが着物やドレスやスーツでビシッと決めている中で、わたしひとりだけTシャツにジーパンにニット帽子だった。ここはもうやけ食いをするしかないということになり、サラダバーと会場の隅っこに置かれている椅子の反復横跳びを繰り返した。大量のサラダを貪りながら、隣人たちの会話が聞こえてくる。「わたしにはあのような方とも面識があって…」「今度本を出すことになりまして…」「現在はファンの方々も20000人を超えて…」などなど、どうしてなのだろうか、こういう言葉の数々を耳にする度に自分の中にある大切な部分が削られていくような気がして、なんだかいたたまれない気持ちになってしまった。

 

わたしは「自分は付き合う価値のある人間です」と必死にアピールをしなければいけない空間が苦手だ。このままだと環境に殺られる!と思ったわたしは、意識を別のところに向けるために「この会場の中で一番内面的な輝きを帯びているひとを探そう。そして、そのひとに『あなたに会えて良かったです!』ということを伝えて潔く散ろう!」と決めた。が、なんだかよくわからないひとたちに「さっきからずっとおひとりですが、ちゃんと楽しまれていますか?」などと囲まれてしまったものだから、わたしの自意識は暴走をして、ああ、これは楽しまなければいけないと言われていることと同じだ!となり、結果的に「楽しくないことを楽しんでいます」という最悪の捨て台詞を残してその場所を離れた。

 

結局、今回も30分程度しか人混みの中に滞在をすることができなかった。これまでの日々の中で少しは自分も成長をしたかななどと思ってこういう宴会の席に足を運んでみたのだけれど、見事にダメだった。参加者の方から「お名前は聞いたことがあるのですが、何をされている方なのですか?」と問われた時は「何もしていません」と答えてしまった。別の方から「わたしはまだブログを読んだことがないのですが、友達が絶賛をしていたので今度読んでみますね」と言われた時は「別に読まなくてもいいです」と答えてしまった。わたしは、なぜ、このような悪態をついてしまうのだろうか。多分、精神的に恐ろしく未熟なのだと思う(そして、そんな自分が好きなのだと思う)。この瞬間の動画を撮影していたらきっと読者の方々には爆笑してもらえるような気はしているのだけれど、多分、わたしのような人間は二度とこのような席に足を運んではいけないのだと実感した(主催者の方、本当に申し訳ありませんでした!)。

 

自分の外側に軸を求めるとブレる。

自分が感じた違和感を言語化したい。わたしは、財力があるとか権力があるとか諸々の実績があるとか、何かがあることを通じて自分を誇る限り、それはとても危ういことになるのではないだろうかと感じる。何かがあるからすごいということは、それがなくなった途端に「そのひとは無価値になる」ということになる。しかし、そんなことはないような気がする。ひとりひとりの人間の価値は『不増不減』のもので、誰かに悪く言われたからと言ってそのひとの価値が下がるわけではなく、誰かによく言われたからと言ってそのひとの価値が上がるわけでもない。逆に言えば、自分の自信を世間的な肩書きや他人の評価によって築いてしまうと、それがなくなってしまった瞬間に半端なく揺らぐ。世間の人々の評価などというものは所詮日和見的なものに過ぎず、ちょっとでも自分のイメージと異なる点を見つけた時は「なーんだ、がっかり」みたいな感じですぐに離れる。そんな頼りないものに自分の価値を預けてしまっては、死ぬまで揺らぎ続ける日々を過ごす羽目になる。

 

それでは、何に自分の基準を置けばいいのだろうか。どのような瞬間を通じて「自分に対する信頼」を築けばいいのだろうか。わたしの意見はシンプルで、多分、それは『自分のこころが感じるストレートな楽しさ』だと思う。言い方を変えると、誰かに認められるためにやることではなく「誰にも認められないとしてもやりたいと思うこと」の中に、金になるからやるのではなく「まったく金にならないとしてもやりたいと思うこと」の中に、そのひと自身の純粋な魅力は宿るのだと思う。自分のこころが感じる楽しさを、自分以外の誰かの責任にしないこと。世間的に素晴らしいとされていることをやるのではなく、自分のこころが素晴らしいと感じる瞬間を重ねること。誰に何と言われても、自分にとっては「これが最高だ!」と思える瞬間を積み重ねている人間には、そういう人間だけが獲得する生命の輝きが宿る。

 

生命の躍動、それは自分のこころが感じるストレートな楽しさの中に宿る。意味はなくていい、意義はなくていい、価値はなくていい、もっともらしい理由もなくていい、ただ、自分のこころがまっすぐに反応をしてしまうもの、どうしようもなく自分のこころが踊り出してしまうようなもの、そうしたものに捧げたいのちの時間だけ、生命は充溢するよろこびを覚えるものだとわたしは思う。生きている限り、誰の中にも「ああ、どうしようもなく、いま、楽しいや」と静かに強く感じた記憶はあるものだと思う。小さな頃、意味もなく駆け出していた時間。小さな頃、意味もなく跳ね飛びまわっていた時間。小さな頃、意味もなく広い世界の探索に出かけていた時間。その中に、楽しむことの中にこそ、自分【世界】を信用するための要素が隠されているのだと思う。

 

『スロー快楽主義宣言!』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、辻信一著作『スロー快楽主義宣言!- 愉しさ美しさ安らぎが世界を変える』です。森の生活の著者でもおなじみであります、アメリカの思想家ヘンリー・デイヴィッド・ソローさんは「どれだけのモノを手放すことができるかが、その人の豊かさを決める」などとおっしゃっておりますが、手に入れる量に比例をするのではなく、手を離した量に比例をするものが、豊かさであり『自由』ということなのかもしれないと思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、兵庫県にわたりました ※※※

 

ぼくは少し改まって、河野さんのビジネス哲学について探りを入れることにする。まずいきなり、あなたのは一体何のための商売なのか、と聞いてみる。すかさず「儲けるためよ」という答え。「そんなに儲けたいですか」という問いにはまずニヤリと笑った。

 

「儲けたいっていうとみんなギョッとするんだよね。でもやっぱり俺は儲けたい、と言う。だって社員の給料はまだまだ低いし、ボーナスもあげたいもん。でも俺のところに金を残そうなんてこれっぽっちも思っていない。企業者の良し悪しはいかに分配するかにかかっている。社員はみんなかわいくてしょうがないし、お得意さんもとても大切。商いってのは結局、人間関係であり、地域との関係なんだ。良い人間関係がつくれれば、モノは必ず売れる。地域の循環を大事にすれば、必ず良いものがつくれる。このふたつの関係を裏切らないような良いモノをつくる。それが良い商いだ。どっかでごまかせば、必ずいつかはバチがあたる」

 

「俺は借りの多い人間よりは、どっちかって言うと貸しの多い人間になりたい。その方が自由だよね、人間の生き方として。いろんなところに貸しをつくっておけば、いつか返って来る。でもまあ、返ってこなければそれも仕方がない。別に期待しているわけじゃない。それより大事なことは、ギスギスした世の中をつくらないことだ。貸しが返ってこなくても、嫌な世の中に暮らすよりはマシだもん」

 

辻信一『スロー快楽主義宣言!』【集英社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

自分が楽しませたいのは、自分なんだ。 

いま、第一弾は東京から(やがては世界各国に)「誰でも自由に使える家」をつくれないものだろうかと四苦八苦をしておりまして、近日中にはクラウドファンディングを通じてみなさまにも支援を呼びかけさせていただく流れになるかもしれません。「新しい何かを試す時は、どうしたって危険が伴うものなんだ」というのはスナフキン先輩の言葉で、それは、単純な言葉でまとめると「失敗をしたらどうしよう」というものになるのだと思う。しかし、よくよく考えてみると「失敗をしたら失敗をしたでいいじゃないか、駄目なら駄目でいいじゃないか、それをしなければ絶対に得ることのできなかった体感があるのだから、きっと無駄になることはない。無駄になったとしても構わない。何かをやったと思えるその実感こそが大事なのだ」などと、そのような言葉をつぶやきながら自分自身にハッパをかけている。

 

クラウドファンディングを公開しました!】ごちゃまぜの家をつくりたい! - CAMPFIRE(キャンプファイヤー)

 

わたしは数年前に「傷つく前に傷つくな」という言葉を吐いた。その意味は「実際に傷つく前に、傷つくことを恐れることで自分を傷つけてしまってはいけない」というものになる。多分、人間を駄目にするのは社会の厳しさでもなければ周囲の無理解や自分自身の能力の欠如や才能の欠如や自信の欠如でもない、それは「自分のこころが抱く恐怖心」だと思う。実際に試してみる前は到底無理だと思えるようなことでも、実際に試してみたら「意外とどうにかなった」ことは多い。わたしは、そのことを過去2年間に及ぶ家のない生活を通じて実感をした。ブルーハーツの情熱の薔薇という曲の中に「見てきたものや聞いたもの いままで覚えた全部 デタラメだったら面白い そんな気持ちわかるでしょう」という歌詞がある。これがなければ生きていけないと思っていたことのどれだけが真実で、どれだけが「実はまるでそんなことはなかった」のか。こうあるべきとされている外側の世界に触れた時、わたしは、いつだってその世界を爽やかに吹き抜ける自由の風に助けられてきた。

 

大切なことは自分の感覚を信じることなのだと思う。そのことが、結果的に自分を大切にすることに繋がり、ひいては自分に対する信頼を築く軸になるのだと思う。巷では「お客様満足」などという言葉もあるけれど、この世ランドに生きている限り、誰もが「自分にとって最高のお客様は『自分自身』である」のだと思う。自分を満たすことに成功をした者だけが、周囲にいる人間のこころも真の意味で満たすことができるのだろう。誰かのためとか言っていないで、自分のために生きること。自分が楽しませたいと思っているのは、他の誰でもない自分自身であるということを認めること。自分を真の意味で楽しませることができた時、それは決してひとりよがりなものにはならないと思う。悲しみは伝染をするように、よろこびは伝染をする。自己犠牲的な営みの先に築かれる調和ではない、各々の幸せの余剰として築かれる平和【作品】を生み出していきたいのだと、そういうことを考えている。

 

 

https://www.instagram.com/p/BSXOUo9jnGP/

飯田橋の朝日。。。

 

人生は続く。


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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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人生を楽しむコツは、どれだけバカなことを考えられるかなんだ。

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小生、坂爪圭吾は自分自身をフリー素材として開放をしてみなさまに自由に使っていただく「わたり人間」なるものを敢行しているのですが、先日、栃木県那須郡在住の女性N様から「坂爪さんにファスティング【リゾート断食】を体験していただきたいです!」という神的なご連絡をいただきまして、いま、那須塩原にあるアイランドホテル&リゾート那須の501号室におります。あろうことか3泊4日のプログラムに無料で(!)御招待をしていただいたのですが、部屋があまりにも豪華すぎて「これはとんでもないところに来てしまったぜ!」感が尋常ではありません。4月1日の昼頃まではホテルに缶詰状態になっておりますので、お近くにお住いの方はお気軽に遊びにいらしてください(来客の方であればラウンジや部屋で話をすることも可能とのこと!)。

 

【追記】おかげさまで満員(?)になりました!

 

昨日はびっくりする出来事が連続をしました。一緒にマウイ島に行きませんかと声をかけてくださる方の登場や、中米のベリーズという国で旅行会社を経営していらっしゃる方から「もしよかったらベリーズに来ませんか?」などと声をかけていただく、など、自分でも予期していなかった出来事が連続する(ベリーズって何処なの!と、その後速攻で調べました)この人生はいったいなんなのだろうかと思うことは多いです。昨夜、ホテルの自室から「ごちゃまぜの家の作り方」をテーマにツイキャスラジオ配信を行いました。乱暴にまとめると、クラウドファンディングを通じて誰でも自由に使える家をつくりたい(というのは良い子の仮面で、自分が自由に使える家が欲しい)というお話になります。その詳細は下記のリンク先よりご視聴いただけますので、是非、通勤途中の車内や料理の最中などお手隙の際に聞いてみていただけたら嬉しいです。

 

【ラジオ配信】ごちゃまぜの家の作り方 - TwitCasting 

※ 坂爪に問題発言があったようなので、現在は聞けません!(誠に申し訳ありませんでした!)

 

ごちゃまぜの家の作り方。 

ごちゃまぜの家とは、自分でもあまりよくわかっていないのですが「誰でも自由に使うことができて、宿泊も無料、食事も無料、365日炊き出しが行われているような状態で、時には託児所的な役割も果たす」ようなイメージがあります。無料でどうやって維持をするのだというツッコミもあるとは思いますが、それは「この家はあったほうがいいと思ったひとが、何かしらの形で寄付なりなんなりをしてくださることによって生かされていく」という薄らぼんやりとしたイメージを持っています。乱暴にまとめると、この家を生かしたいと思ってくれるひとがいる限りこの家は残り、この家を生かしたいと思うひとが特にいないようであれば、その時は「潔く散る」ということになります。

 

個人的に大切にしたいと思っている信条のひとつに「無理をしてまで続けない」というものがあります。何か新しいことをはじめる時、たとえば会社であったり何かしらの活動をはじめる際に、どうしたって「どうやってこの活動を維持していくか」という問題にぶち当たることもあると思います。要するにお金【維持費】の問題だと思うのですが、活動を続けるためにお金を頑張って集め始めなければいけないという思いに苛まれてしまうと、やがて、いつの間にか「お金を得ること」そのものが目的になってしまって、活動そのものの純度が下がる(最悪の場合は活動を続けるプレッシャーに押し潰されてしまう)ような気がしています。そのため、ごちゃまぜの家では『散り際の美学』を大切にしたいと思っていて、ああ、これはもう続けるのは無理なのかもしれない(いまはまだ時ではなかったのかもしれない)と思った時は、潔く散る、潔く消え、潔く終わる。そして、また次の新しい何かに移るというスタンスで臨めたらいいなあと思っています。

 

いつ終わってもいいと思っているというこの感覚、これは、そこに執着がないからこそ自然な形で逆に続いていくことも多いような気がしています。昨日のツイキャスで「クラウドファンディングは支援者の方にお礼を用意しなければいけないのだけど、わたしには何も用意できるものがないから電話をかけて精一杯のありがとうございますを伝えたいと思っている」という話をしたら、それを聞いてくれたえりか姫が「そしたらわたしがリターンの代わりに珈琲を淹れにいきます!」とか、えりか姫のお母様も「わたしを一日自由に使える権利をリターンにします!」みたいなことを言ってくれて、ああ、楽しいなあ、こうやって自分には力がないということを正直に出すと、周囲のひとたちは助けてくれる【一緒に面白がってくれる】ものなんだなあということを思いました。

 

「いいことがしたい」訳じゃない。

この辺のニュアンスを伝えることはとても難しいのですが、わたしは、決して「いいことをしたい訳じゃない」のだということを思います。もちろん、無料で泊まれる家とか無料で食事ができる場所が増えたらそれによって結果的によろこんでくれるひとも出てくるとは思うのですが、自分のこころに耳をすませると「俺は別にいいことがしたい訳ではないみたいだ【褒められるために生きている訳じゃない】」ということを思います。では、なぜ、このようなごちゃまぜの家を作りたいと思うのでしょうか。その辺のことはラジオ配信の中でも軽く触れているのですが、わたしは、多分「ひとの思いに触れたいから」なのだと思います。そして、自分自身も「自分のこころを込めることができることをやりたい」と思っているみたいだという、そんな風なことを思いました。

 

もっと乱暴に言うと「一緒に遊びたい」と思っているだけなのかもしれません。完全に開放された家を東京にひとつポツンと置いて、そこでどのような現象が起こるのかをみんなで観察しながら遊び感覚で展開を楽しむ。時には自分が出演者になることもあるし、傍観者のままでいるのもOK、わたしには究極のところ「みんな好きにやっちゃえばいいのだ」と思っている節があるので、なんだかよくわからないけれど面白そうだと思ったひとは加わって、それ以外のひとには別に何を期待するでもない。ただ、個人的には「これはきっと面白い展開を生みそうな気がする」という謎の予感めいたものがあるために、あとはもう自分のセンスを信じて、考えすぎて動けなくなる前にやる!【やりながら考える】というスタンスを抱き締めていきたいと思っています。

 

詳しくは(非常にくどいですが)昨夜のラジオ配信を聞いてみてもらえると少しはニュアンスも伝わるのではないだろうかと思っています。わたしの誕生日は4月7日で、誕生日プレゼントに「みんなで使えるごちゃまぜの家」が欲しいと思っています。それをクラウドファンディングを通じて募集をしていけたらいいと思っていて、いま、那須塩原のホテルで大量の暇を持て余しているために企画を立てて近日中にみなさまにもご報告(?)できたらいいなあと思っています。みなさまのお知恵も貸していただけるととても嬉しいので、もしも「こんなのってどーよ!」的なものがありましたらいつでもお気軽にご連絡ください!!

 

【ラジオ配信】ごちゃまぜの家の作り方 - TwitCasting

※ 坂爪に問題発言があったようなので、現在は聞けません!(誠に申し訳ありませんでした!)

 

『物には心がある。』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、田中忠三郎著作『物には心がある。– 消えゆく生活道具と作り手の思いに魅せられた人生』です。こちらの本は、先日、新潟県で開催されたイベントに出演(?)した際に、数年前にもお世話になっている女性M様から「今日は坂爪さんにこの本を渡すために来ました」と、わたり文庫に託していただいた一冊になります。装丁が綺麗で、ああ、この本自体が作り手の思いに溢れていると思いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、福島県にわたりました ※※※

 

今、私も七十半ばとなり、こうして自分の人生を振り返ってみると、それが喜劇だったのかそれとも悲劇だったのか判然としない。しかし、とにもかくにも生きてきたことだけは確かである。

 

生前、祖母がよく話していた。ー 人は自分で何でもできると思ってはいけない。できないこともあるものだ。死んだら、誰かの手を借りて、焼かれて骨になり、その骨を土に還すため、埋葬してもらわなければならない ー 。

 

生前、周囲の人々に慕われ愛されていた人は、亡くなってからも近隣の人たちが集まってきて、その人をいたわり、別れを惜しむようにその体のあちこちを手のひらで撫でさするのだという。だから遺体が硬くならない、つまり死後硬直が起こらないので、丸い樽の形をしたお棺にも簡単に入れることができた。

 

ところが、生前は栄華を極めた人間であっても人々に好かれなかった者は、死んだら最後、さする者など誰もおらず、遺体は硬直し、棺桶に入れるだけでも一苦労で、金槌で遺体を叩いて入れなければならないのだ。

 

いまわの際に、「もっと金を稼いでおくべきだった」と嘆きながら死んでいく人間はいないという。人の本当の価値は、その人が死んだ時にわかる。だからこそ、普段から人様にやさしくしておかなければならない。人様を馬鹿にして笑ったり、罵ったりしてはならない。祖母は繰り返しそう語った。ー そうだ。私もそろそろ土に還る準備をしなければならないだろう。ー 田中忠三郎『物には心がある。』【アミューズ

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

人生を楽しむコツは、どれだけバカなことを考えられるかなんだ。 

先日、長野県松本市におはなを届けるためだけに足を運びました。その日、松本駅前のスターバックスには10名近くの長野県民の方々がお集まりいただいたのですが、わたしは、お集まりいただいたみなさまにおはなを渡して(割と時間もなかったので)颯爽とその場を離れる、みたいなことをしました。その様を見てくれていた男性M様が、後日、手紙で「あの時の坂爪さんは、僕の大好きなルパン三世にそっくりだなって思いました」というあまりにも嬉しすぎるお言葉を与えてくれました。わたしは褒められるとすぐに調子に乗ってしまうタイプの人間なので、その後、ルパン三世とは果たしてどのようなキャラクターなのかということを今一度確認する作業にはいりました。

 

ルパン三世の有名なセリフに「人生を楽しむコツは、どれだけバカなことを考えられるかなんだ」というものがあります。わたしは、ああ、なんて素晴らしいことを言う男なのだろうかと思いました。他にも名言はたくさんあるのですが、わたしは「これからはルパン感を出していこう」的なことを思いました。やっていることは結構とんでもないことではあるものの、常に一定の軽やかさをキープしつつ、なんというか生き様そのものが『粋である』。そういう男を見ると、わたしは「ああ、こういう人間が生きているこの世界はまったく捨てたものではない。そして、自分もこういう人間になりたいものだ」ということを思います(これは完全に余談になりますが、峰不二子さん曰く「いい女っていうのはね、自分で自分を守れる女よ」とのこと!!)。

 

軽やかであること、これはとても大事なことだと思います。いつの間にか深刻になり、ひとつひとつの出来事を重く考えてしまうこともあるとは思いますが、もっと軽く、もっとポップに、タンポポの綿毛のようなフットワークで羽のように軽やかに世界を飛びまわっていけたらいいなあと、そんなことを思います。恋をするときも、仕事をするときも、生き方を考えるときも。きっと、あんまり重く考えすぎてしまってはいけないのだと思う。もっと軽く、もっとポップに。羽のように軽やかな恋をしようじゃないか、と。羽のように軽やかな仕事をしようじゃないか、と。羽のように軽やかな生き方をしようじゃないかと、そんなことを思っています。

 

 

https://www.instagram.com/p/BSPMcraD4rY/

は、はんぱ那須🍆!!!!!

 

人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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自分の中にある「美しい部分」を信じること。

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日本のロンドンでおなじみ新潟県新潟市内に到着をした。わたしは「おしゃれであること」が非常に重要だと思っているタイプの人間で、新潟県もファッショナブルな和式都市になることに注力をすれば、充分にヨーロッパ諸国と張り合っていけるような気がする(いまはまだまだダサい)。新潟交通のバスに乗って万代シティに向かう途中、通勤途中の車に乗る人々の表情を観察していた。当たり前のことだけれど、みんな、四人乗りの車をたったひとりだけで運転している(そして渋滞も発生をしている)ので、毎日これだけの空きスペースが移動をしているのであれば、みんなで乗り合えば交流の幅も広がるし車の維持費やガソリン代を節約できるから色々と良いのではないだろうかなどと思った。が、多分、根本的な問題は『他人に対する信頼感』があるのだと思う。もしかしたら危険な目に遭うかもしれないという不安感や不信感がある限り、ひとは、所有から共有に移行をする【よろこびを分かち合う】ことはなかなか難しいのだと思う。

 

わたしの誕生日は4月7日で、この日は非常にありがたいことに東京都の世田谷区で生誕祭を開催していただけることになった。もしも何かしらの流れで自由に使える車をプレゼントしていただける日が来たら、誰でも自由に使ってください(使い方はみなさまに委ねます)と完全に解放をしてみたいと思う。あるいは、暇な時期は無料タクシーと銘打って「ちょっとあそこまで運んで欲しい」と願う人々を配達する役割を担ってみたいとも思う。カーシェアリングという概念が提唱されて久しいけれど、この世の中にあるあらゆるものは「所有をするよりも共有をした方が、結果的にいろいろと楽になる」んじゃないだろうかと思うことは多い。自分自身、いまのところは熱海の家と自分の財布を開放している。自宅を開放していると、わたしがいない間も他の利用者の方々が掃除をしたり花の世話をしたり食糧の調達などをしてくれるために、いろいろと助かっている部分は多い(財布の中のお金が減ることもない)。

 

【イベント詳細】【Rosé company / 勝手に生誕祭 〜生きとし生けるものの一粒万倍日〜】

 

最大の防犯はフルオープン【自己開示】

いばや関係者には新潟県出身者が多く、わたしは新潟県新潟市西区にある小針という場所で育った。冬の間は雪と雲に閉ざされる陰鬱な日々が続くからなのだろう、新潟県民は頭のネジが外れているひとが多い。表面的には優しく大人しそうに見えるひとでも、腹の裡ではとんでもないことを考えている変態が多い(この辺はロシアやフィンランドなどの北欧諸国の気質と似ている)。この前、大阪在住の女性E様から「わたしの元彼は新潟出身のひとだったのですが、繊細過ぎて面倒臭かったです」という証言が届いた。わたしはなんだか嬉しくなってしまって、どんなところが面倒臭かったのですかと尋ねた。すると、E様は「たとえばメールとかで白塗りの☆を使う時は何もないのだけれど、黒塗りの★を使うと、それだけで『ねえ、怒ってるの?』とかすぐになるから大変でした」とのこと。わたしは、男性の気持ちがとても良くわかるような気がした。そして、ああ、やっぱり俺達は面倒臭い存在なんだなあという認識を深めた(ものすごい楽しかった)。

 

そんなことはどうでもいいのだけれど、自宅を開放していると「危ない目にあうことはないのですか?」と頻繁に問われる。結論から言うと(いまのところは何も)無い。逆に、常時解放をしていた方が「いつ誰がくるかわからない状態だからこそ泥棒側も安心してものを盗むことはできないだろう」とさえ思う。たまに風呂上がりで素っ裸の時に来客が来て「きゃー!」みたいになることはあるけれど、あとは野となれ山となれ、最初に裸を見られるとその後のコミュニケーションが逆に円滑になったりもする。もっと言えば、自宅に鍵をかけるということは「ここに大事なものがありますよ!」という露骨なサインにもなり、だからこそ狙われてしまうのではないだろうかと思う。多分、泥棒は溜め込むひとを狙っている。人間的な心理に「隠されているものは暴きたくなる」的なものは確実にあるような気がしていて、最初から常にフルオープンにしていたら逆に狙われることはない【勝手に防犯効果も高まる】ような気がしている。

 

これは自己開示についても同じだと思う。自分はこういう人間ですということを最初からストレートに伝えることができている限り、その後に何があっても「まあ、あのひとはそういうひとだからね」ということで許される。しかし、自分を良く見せようとしたり、望まれているキャラクターを演じ続けるような日々を過ごしていると、必ず何処かで破綻が来る。何が言いたいのかというと「何かを隠すから苦しくなったり恥ずかしくなったりする訳で、最初からフルオープンで行けば楽になる【執着を手放す】」ということで、多分、苦しみの9割はただの執着なのだと思う。捨ててしまえば楽になること、手放してしまえば楽になること、自分のものにすることを諦めてしまえば楽になることは、多分、この世の中に無数にあるのだと思う(そして「手に入れた瞬間ではなく手放した瞬間に自由を得る」場合も多い)。

 

わたり食堂の事件。

先日、熱海の家でわたり食堂【0円食堂】なるものを開催した。大分県や福岡県や愛知県や群馬県富山県など、全国各地から30名を超える方々が遊びに来てくれて嬉しかった(北海道や長野県や大阪府からはクール便で大量の食糧が届いた)。基本的には平和でカオスティックな雰囲気に包まれていたのだけれど、ちょっとだけ事件が起きた。この日、珈琲を担当してくれた13歳のえりか姫(中学校に通うことを一時停止して、喫茶店で修行をしたり珈琲を淹れることを生業にしている女の子)が、わたり食堂に来てくれたおじさまから軽い説教を受けていた。わたしは「えりか姫ファイトだ!これが世間の洗礼ってやつだけど負けるな!」などと思いながら、遠くから眺めていた。その時の模様はえりか姫のブログ記事に詳しい。なんて素晴らしい対応をするのだろうかと、わたしは感動をしてしまった(えりか姫、君は天才だ!)。

 

【参考記事】その人のやり方 - * Erika blog *

 

その後、わたしも軽くからまれる(言葉が汚くてごめんなさい。他者に対して批判的・否定的になっている時、それは端的に『愛情不足』なのだと思う。充分な愛情を受けていると実感できる日々を過ごしている時は、他者に対しても優しくなれる。きっと、このおじさまも最近は辛い日々を過ごしていたのだと思う)ことになった。いろいろなことを言われたのだけど、おじさまの話を聞きながら「そういえば数年前にも、福島県で開催されたイベントで聴衆のみなさまからボコボコにされたことがあったなあ」などと思っていた。この世の中には、どうしてもコミュニケーションをとること自体を諦めてしまいそうになる瞬間がある。このひととはコミュニケーションができないなと思った時、わたしは「笑いを取る」ことに走る。

 

【過去記事】【FKS-福島県】火事場のユーモアと「試合はボロ負けしたけれど、今日のMVPは完全に俺だ」感。 - いばや通信

 

この前のわたり食堂にはわたしの愛するみっつという男性も来てくれた。そのため、わたしは「このおじさまに自分を理解をしてもらうことは早々と諦めて、このおじさんとの会話を通じてみっつを笑わせることだけに専念をしよう」と思った。結果は割愛するけれど、この日も無事にホームランをかっ飛ばすことに成功をした。とてもいい時間だと思った。みっつという男性は4月7日に開催されるわたしの生誕祭にもゲストとして参加をしてくれるので、是非、みなさまも一緒にわたしの誕生日をお祝いしてください。みっつをまだご存知のない方のために、わたしとみっつの出会いの記事を下記に転載します。正直、わたしの誕生日だなんていうことはどうでもいいから、みっつに会う【みっつという人間の存在に触れる】ためだけに来て欲しいとさえ思います。

 

【過去記事】人生を変える出会いについて。ー 本物の美しさや、本物の純粋さに触れると、自分の中から失われていた何かが再び蘇るような歓びを覚える。 - いばや通信

 

良寛物語- 手毬と鉢の子』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、新美南吉著作『良寛物語- 手毬と鉢の子』です。こちらの本は、わたり食堂にご参加いただいた男性が「わたしから見ると、坂爪さんの生き方は良寛さんのそれと物凄い通じるものがあるのです」という身に余るお言葉と共に、わたり文庫に託していただいた一冊になります。わたしも良寛さんのことが大好き(良寛さんも新潟生まれ!)なので、これはとても嬉しいお言葉になりました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、秋田県にわたりました ※※※

 

君たちは、この本を読んでいくうちに、不思議な気がするだろう。こんな坊さんのどこが偉いのだろうかと思うだろう。こんな乞食のような坊さんが偉いのなら、そのへんの乞食やルンペンは、みんな偉いじゃないかという者があるかもしれない。

 

そうだ、ひょっとすると君たちの方が、すばやくほんとうの良寛さんの偉さを、見ぬいてしまうかもしれない。大人たちが気がつかないでいることを、君たちの方が先にわかってしまうかもしれない。なにしろ、君たち子どもの眼は、ちっとも濁っていない、よく澄んでいるから。 

 

私はこの本のおしまいのところで、君たちに良寛さんの偉いところが、わかったかどうか、きくつもりである。その時君たちの誰も彼もが、ちょうど教室で算術や読み方の問題を、きかれたときのように、一斉に手をあげられることを望んでいる。

 

新美南吉良寛物語- 手毬と鉢の子』【中日新聞社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

自分の中にある「美しい部分」を信じること。

曇天が多い新潟市内の空は晴れ渡り、いま、空には真っ赤な太陽が輝いている。新潟の空は青く澄み渡る、わたしは青色が好きだ。わたしの母親は山形県の小国町という雪国育ちで、この時期になると常に「冬が長ければ長いほど、春が来たときはうれしいものだねえ」ということを言っていた。いやぁ、もう、ほんとうにその通りだねおかあさんという気持ちになる。太陽が顔を出すだけで嬉しくなる。好きな音楽を流しながら街を歩くこと、すれ違うひとと軽い挨拶を交わすこと、喫茶店で珈琲を頼むこと、こうしてブログに文章を綴るということ、ただそれだけのことが自分の気持ちを嬉しくさせる。優しい気持ちは次の優しい気持ちを運んでくれて、ああ、なんだか「誰かに優しくしたいなあ」とか「誰かと楽しくおしゃべりをしたいなあ」なんていう気持ちになる。

 

 

現在のわたしには定職もなければ所持金も少なく、社会的な肩書きも所属先も何もないために出会う方々からは「そのような生き方では、不安になることはないのですか」と頻繁に問われる。結論からいうと(いまのところは何も)無い。不安についてあまりにも頻繁に問われるものだから、わたしは「ああ、きっとみんな不安なんだろうなあ」的なことを思う。不安だからお金を稼ぐ、不安だから仕事を続ける、不安だからいやなことでもいやいや続けざるを得ない、など、そういう雰囲気を感じることは頻繁にある。でも、ほんとうにそうだろうか。生きるためには「いやなことをいやいや続けなければいけない」ものなのだろうか。わたしにはわからない。わかることと言えば「いまのところはわたしには不安はない。特別満ち足りているという訳ではないけれど、日常的に『幸せだなあ』と感じる瞬間は日に日に何回もあって、もちろんしんどいなあと感じる時もあるけれど、無事に生きることができている【生かされている】この人生を気に入っている」ということ位だ。

 

 

正しさを追い求めると重くなる。楽しさを追い求めると軽くなる。多分、ひとの心を動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」だ。生き方に正解はないのだから、生き方に間違いもないのだ。あまりにも「正しさ」にとらわれすぎてはいけないのだと思う。何をするのが正しいのか、何をするのがいけないのか、それだけのことに縛られてしまう(正しさを求める)のではなく、わたしは「自分の中にある『美しい部分』を信じて欲しい」なんて思ったりする。もちろん、不安や恐怖を消し去るための行動が必要な時もあるのだろう。しかし、自分の人生がそれだけになってしまうと、簡単にこころは乾いて生きる張り合いを見失ってしまう。損か得か、有利か不利か、それだけで生きる道を選んでしまうと「自分の好き嫌いがわかなくなってしまう」。意味とか意義とか価値とかもっともらしい理由とか、そういうものを取り払った後に感じるもの、自分のこころが「これは美しいな」と思ったものに命を捧げることができた時、多分、こころは充実を見る。時には投げやりになってしまいそうなこともあるかもしれないけれど、それでも、自分の中にある「美しい部分」を信じること【純粋な部分を守り抜くこと】。その部分を、その部分こそ、わたしは大切にしていきたいのだと思う。

 

 

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人生は続く。 

 

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本音の中に音楽がある。

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Cymbals「I’m A Believer」を聴きながら街を歩く。昔から、どうして本音とは『本当の音色』と書くのだろうかとか、どうして闇という漢字の中には『音』がはいっているのだろうかとか、考えても仕方のないことを考えることが好きだった。わたしは音楽が好きだ。自分の好きな音楽を聴きながら街を歩く、ただそれだけのことで幸せを感じることができる。この曲の歌詞の中にも「Happy Life, Happy Song」というフレーズが出てくるけれど、わたしはハッピーな音楽が好きだ。その音楽を聞いているだけで、聞いているこちらもつられて幸せになってしまうような、大袈裟な言葉で言えば「よろこび【世界をまるごと肯定しようとしている力】」に満ち溢れているような音楽が好きだ。

 

【参考動画】Cymbals_I'm_A_Believer - YouTube

 

明日26日(日)は、熱海の自宅でわたり食堂【0円食堂】を開催します。毎月最終日曜日に開催されるこのイベントでは、基本的にあらゆるサービスを無償で受けることができます。理由は単純で「みなさまの善意によって運営をされているから」になります。ほんとうはもっとうまい言葉で説明できたらいいのですが、毎回、言葉で説明することは不可能なレベルの出来事が頻発するために、最近では「説明なんて無理!逆に、説明できないことをやろう(俺は説明できないことがやりたかったんだ!)」と開き直っています。どなたでもご参加いただける内容になりますので、興味のある方はお気軽に遊びにいらしてください。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】 

 

LOVE&CHAOS【愛と混沌】

わたしは常々「ごちゃまぜがいい」と思っていた。小学校には小学生だけ、老人ホームには老人だけ、障害者施設には障害者だけ、など、そういう環境を見ると「どうして隔離をするのだろう」と疑問に思っていた。我々はひとつの同じ社会に生きているのだから、別居をするのではなく同棲をする方向に仕向けた方が、お互いに楽になれる(お互いの持ち味を発揮することができる)ような気がしている。現在のわたしは熱海に家がある。熱海ももれなく過疎化が激烈に進んでいるために、家の周囲にはお年寄りしかいない。お年寄りしかいない環境の中に長いこといると、たまに小さなこどもとか若い女性が家に遊びに来てくれると爆裂にうれしくなる。

 

東京に「ごちゃまぜの家があればいい」と思う。過去記事に、誕生日プレゼント(わたしの誕生日は4月7日です)に自由に使える家をもらえたらどれだけ素晴らしいことになるのだろうか的なことを書いた。非常にありがたいことに、わたしのブログを読んでくださる方々は10代の方々から70代の方々まで、非常に幅が広い。イベントなどに呼ばれて足を運んだ際、参加者の方々の年齢層や職業の幅に驚かされる。わたしはこの現状をものすごい気に入っていて、仮に東京に自由に使える家があったら「あらゆる人種の人間が自由に出入りすることができる、ごちゃまぜの家があればいい」と考えるようになった。

 

【過去記事】居場所とは、場所ではなくて人間だ。 - いばや通信

 

ごちゃまぜの家のイメージは、時間のあるひとがそこに集まって料理をつくりたいひとは料理をつくる、こどもの面倒を見る時間のあるひとはこどもの面倒を見て、こどもを預かってもらえたお母様方は久しぶりの「ひとりの時間」を楽しむこともできる。お年寄りは若者に料理や裁縫などの生活の知恵を授け、若者はお年寄りに存在の活力【若い力】を与える。基本的に「365日炊き出しが行われている」ような状態になり、とりあえずそこに行けば食うものと寝る場所はどうにかなる。人間の三大欲求は食欲・性欲【コミュニケーション欲】・睡眠欲などと言われているけれど、わたしは「あれ、もしかするとこれって全部家で実現することができるやつじゃないか」と思う。多分、人間はひとりで生きるようにはできていない。わたしは、ごちゃまぜの家を通じて「家族という固定概念をもっと曖昧にしたい」のだと思う。

 

手紙を書く。

わたしは、過去に躁鬱病統合失調症椎間板ヘルニアのトリプルパンチで半年間の寝たきり生活を送っていた時期がある。あの頃は「俺の人生は終わった」などと絶望の淵に佇んでおりましたけれど、振り返って見るといくつもの素晴らしい体験を得た。ぶっ倒れる直前のわたしは東京都内でアルバイトに明け暮れる日々を過ごしていたのだけれど、精神的にかなりキツく参りそうになっていた時、新潟市内にある実家に電話をしたことがある。電話をすると、珍しく父親が出た。母親と話をすることは頻繁にあるけれど、父親と会話をすることは(男同士という照れもあるのか)それまでの人生でそれほどなかった。わたしは、電話越しに「実はいまちょっと弱気になっていてしんどい」みたいなことを父親に正直に話した。すると、いつもとは違う何かを察してくれたのだろうか、父親は「なにかあったらいつでも戻ってこい。お前は俺の子供なんだから」ということを話した。 

 

【過去記事】【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信

 

わたしと父親は決して仲が悪いということはないのだけれど、でも、このようなことをはっきりと言葉にして伝えてもらったことは生まれてはじめての経験だった。雰囲気では「父親はおれのことを別に嫌いではない(ちゃんとこどもとして見てくれている)」ということはわかっていたのだけれど、いざ、実際にこうして言葉にして伝えてもらったことは本当に大きな力になった。大袈裟な言葉になるけれど、ああ、自分は父親に愛されていたのだなと思った。まさかこのようなタイミングで、そのような言葉を聞けるとは思ってもいなかったので、わたしはふいをつかれたように胸をつかれてしまった。そして、ある種のうれしさ(報われたような感覚)を覚えた。自分は父親【母親】に愛されているのだという思いは、時に大きな力になる。逆に、自分は父親【母親】に愛されているのだろうか(愛されていないのかもしれない)という不信感は、生きる力【自分自身の存在価値】を朧げなものにする。

 

家族との確執で苦しんでいると話す方々と出会うことは多い。あらゆる問題の根源は幼少期からの家族関係にあるのではないだろうか、などと思うこともある。そのような方々と出会った時、わたしはひとつの提案をする。それは「手紙を書く」ということだ。自分の気持ちを正直に手紙に書く、長くなってもいいから、不器用な文章になってもいいから、とにかく精一杯の心を込めて自分の気持ちを手紙に綴る。そして、勇気を出して相手に渡す(時には手紙を書くだけで気持ちが楽になることもある)。愛していると言って欲しかったのならば、ただ、それだけのことをシンプルに言葉にする。ほんとうはずっとさみしかったのならば、ただ、それだけのことをシンプルに言葉にする。自分の本音を言葉にすること、自分の本音を相手に伝えようとするその態度が、時に「両者の間にある確執の氷を、あたたかく溶かす」ことがある。言いたいことを言えていないとき、聞きたいことを聞けていないとき、きっと、大切なことは「自分から率先をして本音を言葉にする」ことなのだと思う。

 

『TOKYO 0円ハウス 0円生活』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、坂口恭平著作『TOKYO 0円ハウス 0円生活』です。誰もいないビルの屋上にキャンプ道具一式を持ち込んで「ルーフトップキャンプだぜ!」などと叫びながら警備員のひとに通報をされた経験は誰にでもあると思うのですが、いまから数年前、ホームをレスした際に非常に参考にさせていただいたこちらの一冊には、現代社会を楽しく生きぬく(「楽しく」←これはものすごい大切な考え方だと思う)知恵が大量に詰まっていると思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※

 

 「東京では1円もかけずに暮らすことができる」ー 住まいは23区内、総工費0円、生活費0円。釘も電池も全てタダ!?隅田川のブルーシートハウスに住む“都市の達人”鈴木さんに学ぶ、理想の家と生活とは?人間のサイズに心地良い未来の暮らしを提案する、新しいサバイバルの知恵がここに。

 

坂口恭平『TOKYO 0円ハウス 0円生活』【河出文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

本音の中に音楽がある。

言葉を扱うとき、大切になることは「何を言うか」ではなく「どのような気持ちで言うか」なのだと思う。わたしは、ひとの言葉を聞く時に「この言葉はこのひとの頭から出ている言葉なのだろうか、それとも腹から出ている言葉なのだろうか」を見る。多くの場合、頭から出ている言葉がひとのこころを動かすことはない。逆に言えば、そのひとの腹から出ている言葉であれば、それがどのようなものであれ「それに触れるひとのこころを動かす」ものになるのだとわたしは思う。

 

 

自分はいま、自分を大切に扱うことができていないと感じる時、それは「言葉を大切に扱うことができていない」時が多い。表面的な言葉遣い、乱暴な言葉遣い、自暴自棄でヤケクソな言葉遣い、乾いた言葉遣いをしてしまっている時、わたしは『わたしの心が乾いている』ことを知る。ひとを傷つける言葉を使っている時、そのひとは自分自身も傷つけている。ひとを軽く扱っているとき、いまという瞬間を軽く扱っているとき、そのひとは自分自身を軽く扱っている。この世界は自分が投げたものが返ってくるようにつくられていて、多分、境界線はない。だからこそ、目の前にいるひとを愛するようにつとめることは、そのまま、自分自身を愛することにもつながっていく。

 

 

Cymbals「I’m A Believer」を聴きながら街を歩く。昔から、どうして本音とは『本当の音色』と書くのだろうかとか、どうして闇という漢字の中には『音』がはいっているのだろうかとか、考えても仕方のないことを考えることが好きだった。わたしは音楽が好きだ。その音楽を聞いているだけで、聞いているこちらもつられて幸せになってしまうような、大袈裟な言葉で言えば「よろこび【世界をまるごと肯定しようとしている力】」に満ち溢れているような音楽が好きだ。音楽の力は言葉を超える。好きな音楽を聴きながら街を歩き、わたしは「音楽のように話をしたい」と思う。きっと、誰の中にも音楽は流れていて、幾重にも重なり合う旋律が素晴らしいオーケストラを生み出すように、その音楽は溢れ出す瞬間を待っているのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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いいひとをやめると楽になる。

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伊勢神宮を経由して大阪にはいる。おとといの夜、伊勢神宮の内宮の真ん前にある宿に宿泊をさせていただいた。ほんとうは朝の6時頃に鳥居から登る朝日を眺める予定だったのだけれど、朝5時頃に一旦目覚めたものの「美しい風景よりもいまは睡眠を大事にしたい」という気持ちが勝り、寝た。8時過ぎに再び目覚めたものの、その日は昼から大阪で予定があったために結局伊勢神宮には一歩も足を踏み入れることなく三重県を離れた。最近、自分の精神年齢は高校生で止まっていることがわかり、自分に正直に考えてみたら「俺は神社や仏閣にはあまり興味がないみたいだ」ということが発覚をした。眼前に国宝級の何かがあるのにまったく行こうとしない自分を見て、ああ、こんな自分も悪くないなと自分のことを好きになった。

 

今週土曜日25日の11時から、東京都内でプロギャンブラーのぶきさんとの対談企画(?)に声をかけていただいた。荷物はバックパックひとつだけ、世界中のカジノを渡り歩き、地球6周分もの総移動距離を重ねながらブラックジャックとポーカーだけで飯を食っているプロギャンブラーののぶきさん。このような方の存在に触れると「この世の中にはいろいろな生き方があるのだなあ」と感慨深い気持ちになる。この日は、わたしの大好きなロゼカンパニーのおふたり【保科亮太さん&嘉向徹さん】もはるばる新潟県から下道を高速で飛ばして遊びに来てくれることになりましたので、お時間のある方はどなたでもお気軽に遊びにいらしてください(ロゼカンパニーのおふたりは最高におすすめです!)。

 

【イベント詳細】【緊急開催】いばや通信・坂爪圭吾×ギャンブラ=トーク!

 

花を買う前は死ぬ気で行く。

花を抱えている男性は素敵だと思う。海外などでは、花屋さんのお客さんの大半は男性で、女性が花屋さんに来ることは少ない。世間的にも「花は男性が女性に贈るもの」という認識が共有されているために、男性自身も花を買う(花を贈る)ことに対する抵抗が少ないと聞く。わたしは、この風習を「とてもいいことじゃないか!」と思うので、隙さえあれば誰かに会う前に近場の花屋さんで一輪の花を調達する。何度も書いていることだけれど、花を買うと「これから会うひとに会う楽しみが倍増する」ように思う(想像以上によろこんでもらえるので、男性のみなさまにはオススメです!)。

 

しかし、ひとつのトラップがある。全国各地の花屋さんを巡りながらわかったことがあるのだけれど、花屋さんの店員さんには悲しいことに疲れ切っているひとが多い。冬場の水作業などは地獄の沙汰なのだろうとは思うのだけれど、花を扱っているひとが枯れているという皮肉的な現実がある。わたしは、疲れているひと(チェーン店に多い)に接客をされると死にたくなっちゃうという病気を抱えているために、花屋さんに足を運ぶ前には大袈裟な言葉になるけれど「死ぬ覚悟をする(あるいは店内にいる間はひたすら呼吸をとめ続ける)」必要がある。花屋さんの前に到着をしても、すぐにはお店に入ることはできない。どうか店員さんの顔面が枯れ散らかしていませんようにと軽く願い、呼吸を整えてから、お店にはいる。

 

こんなことを言うと女性蔑視的な発言だと殴られてしまうかもしれないけれど、女性を潤わせるのは男性の役割だと思う。女性が潤えば日本も活気を取り戻し、日本も活気を取り戻せば、花屋さんに行く前に死ぬ覚悟をする(呼吸を止め続ける)必要はなくなる。男性陣には、これもひとつの社会貢献だと思って女性陣に花を配りまくって欲しいと思う(本当に!)。家のない生活をしていた頃、ああ、このひとは豊かな暮らしをしているなあと感じるひとのご自宅には必ず植物や生花が置かれていた。このひとはちょっと乾いているのかなと感じるひとのご自宅には、植物も生花も置かれていないことが多かった。多分、おはなを買うお金がないのではなく「おはなを飾る精神的な余裕がない」ことが、ある種の貧しさを生むのだと思う(逆に言えば、おはなを飾ることである種の豊かを生むのだと思う)。

 

「頑張る」必要はない。

 何かしらの機会でお会いした方々から、帰り際に「なんだか元気をもらいました!明日からも頑張ります!」と言ってもらえることは頻繁にある。しかし、わたしはこれまでの人生で頑張ったことがないので「頑張らないでください!」と返す。頑張ると言う言葉には、どこか「いやなことを無理をしてでも頑張る」的なニュアンスを感じる。頑張ることよりも頑張らないで済むことの中に、頑張ろうとしなくても自然とカラダが勝手にやってしまっていること(周囲からは謎に頑張っていると見られることもあるけれど、本人的にはまったくその気のないこと)の中に、そのひと自身の魅力は宿るのだと思う。

 

昔から「頑張る」という言葉が苦手だった。頑張るという言葉には「枯れた井戸を掘る」的な徒労感を覚える。多分、その井戸はすでに枯れているのだと思う。頑張りを必要としている時点で「すでにオワコン【八方塞がり】である」ような気がしていて、嫌なことを無理をしてまで続ける努力をする必要はないと思う。そんなことよりも、わたしは「今世は諦めてください!【人並みであることは捨てましょう!】」と思う。もっと言えば「ダメな自分を認めてください!【いいひと振るのはおわりにしましょう!】」と思う。頑張りたいけれどどうにもこうにも頑張れないということは、多分、本音の部分では「まったくやりたいと思っていない」からなのだと思う。ここはひとつ、潔く、晴れ晴れと、明朗に、自分にはできませんと諦めた方が楽になれるような気がする。

 

【過去記事】今世は諦めてください。 - いばや通信

 

損か得か、有利か不利か、それだけで道を選ぶと、いつの間にか「自分の好き嫌いがわからなくなる」という最悪の罠に嵌る。家庭教育や学校教育などでは「大学に行った方が得だ」とか「大企業に入った方が得だ」などと、自分の好き嫌いではなく世間的な損得勘定が基準になっていることが多いために、それを間に受けてしまうと「自分にとって有利か不利か」ばかりが行動の指針になってしまう。わたしの信条のひとつに「やりたいが『やらなきゃ』になったらゲームオーバー!」というものがあるのだけれど、多分、頑張りはじめているということは間違いはじめているということのサインなのだと思う(人間の最大のパフォーマンスが発揮される瞬間は『リラックスをしている時』だとわたしは思う)。

 

『森の絵本』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、長田弘(作)・荒井良二(絵)著作『森の絵本』です。こちらの本は、昨日、天王寺駅前でお会いした方から「わたしは好きなひとに絵本を贈ることが大好きなのですが、よかったらわたり文庫に加えてください」と託していただいた一冊になります。荒井良二さんの絵本はわたしも大好きなのですが、こちらの本の存在は生まれてはじめて知りました。そして、最初のページをめくった瞬間に「ああ、これは自分に大切な一冊になるんだろうなあ」という、温かな予感に包まれました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※

 

「ほら、あの 水のかがやき」と その声は いいました。

声のむこうを きらきら光る

おおきな川が ゆっくりと 流れてゆきます。

「だいじなものは あの 水のかがやき」

 

「ほら、あの 花々のいろ」と その声は いいました。

たくさんの花々が 咲きみだれています

そっと季節が ほほえんだみたいに。

「たいせつなものは あの たくさんの 花々のいろ」

 

「ほら、あの わらいごえ」その声は いいました。

公園の 木だちのあいだから

子どもたちの はじけるようなわらいごえが きこえてきます。

「あの 明るい わらいごえを わすれてはいけない」

 

長田弘(作)・荒井良二(絵)『森の絵本』【講談社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫 

 

いいひとをやめると楽になる。

何かをしなきゃいけないとか、何もしていない自分には価値がないという考え方からは、できるだけ距離を置いていたいと思う。何かをしなくちゃいけないという思いから何かをやるのではない、わたしは、あくまでも「やらなきゃではなく『やりたい』と思ったことをやりたい」と思う。語尾は「〜しなくちゃ」ではない、常に「〜したい」でありたいと思う。わたしは弱い。すぐに何かの影響を受ける(すぐに自分以外の何かの責任にしてしまう)。弱い自分を護るためには、最新の注意を払う必要がある。自分は本当にそれをやりたいと思っているのか。実際は「やらなきゃいけない(やってあげなくちゃいけない)」とは思っていないか。強迫的な感情にとわれていると気づいた時は、勇気を出して、できるだけその声を無視するようにしている(そうでもしなければ、簡単に自分を見失ってしまいそうな気がしている)。

 

 

これはただのお願いになるのだけれど、わたしは「やらなきゃよりも『やりたい』の声を聞いて欲しい」と願う。様々な方々と会う中で、自分を含めた多くの人たちが「こうでなければいけない」という檻の中に閉じ込められていて、そして、そのことによって苦しまれているように感じることは多い。でも、これをしなくちゃいけないという強迫的・懲罰的な気持ちに負けてはいけないのだと思う。これをしなくちゃいけないという思いの先に、必ず、自分の内側から湧き上がる「これをしたい」と思う前向きな気持ちはあるのだと思う。汚れていない純粋な声に耳を澄ませること、純粋な思いが湧き上がることを信じるということが、きっと「自分を信じる【自分を生きる】」ということなのだと思う。

 

 

金や名誉を求めることも、結婚相手や恋人を求めることも、人並みであることを求めることも、それによって「愛されることを求めている」だけなのだと思う。しかし、これさえあれば誰かに愛されることができるということは、これがなければ自分には愛される資格はないということになってしまう。しかし、わたしは「そんなことはないぜ」と思う。愛と呼ばれるものがあるのならば、それはそんなに器の小さなケチ臭いものではないと思う。そのひとが素晴らしいのは「そのひとがそのひとであるから」に他ならない、自分が自分そのものの部分を認めることができなければ、どれだけ多くの金を集めても、どれだけ多くの名声を集めたとしても、どれだけ素晴らしい装飾で着飾ったとしても、多分、虚しさを取り払うことは永遠にできないだろう。何かを通じた自分を誇りにする【自分以外の何者かになろうとする】のではなく、何もかもを取り払った後に残るもの、何者でもない自分そのものに胸を張れるような在り方を、多くのひとびとができるようになればいいと願う。

 

 

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人生は続く。

 

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