いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

人生とは、ファナティッククライシスである。

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前回の記事で「人生とは、純度の勝負である」と書いた。純度界における最大のライバルは赤ちゃんの頃の自分自身だと思っている。見よ、このクリクリッと麗しい瞳。ぽっちゃりとした頬。ぷるんと艶やかな唇。これから髪の毛を切られようとしている現状に対するまったくの理解のなさと、それに伴う新鮮な驚き。さあ、わたしはコイツよりも可愛くなることができるのだろうか、わたしはコイツよりも世界を透明に見ることができるのだろうか。いまのところは完敗であるものの、けいご坊やの果てしなき挑戦は続く。

 

【過去記事】人生とは、純度の勝負である。 - いばや通信

 

最近は「お金の悩み」的な話を耳にする機会が多い。おそらく、現代に生きる多くの人は大なり小なりお金の悩みを持っているのだと思う。多分、みんな、わたしよりはお金を持っていると思う。わたしは、ついさっきまで所持金202円という軽い経済的なクライシスに見舞われていた(最近いろいろとあって出費が嵩んだ)状態で静岡県で開催されたトークイベントに登壇(?)をしたのだけれど、わたしよりもお金を持っているひとがお金をもっていないわたしに「お金に対する悩みや不安」を相談してくれるという、この現状はちょっとしたギャグみたいなものだと思っている。さあ、お金とはいったいどのようなものなのだろうか。隙間時間ができたのでちょっとだけ考えてみたい(わたしはこのブログ記事を毎回一時間で「うおおおおおお!!」と一気に書くようにしている。暇な時間に書いているのだけれど、19時に予定があるから無事に書き上げられるかちょっと不安である)と思います。

 

「お金がないとやりたいことができない」は真実か?

ひとまえで話す前にわたしは軽い自己紹介をする。内容はこんな感じだ。「家賃を払うために稼がないといけない生活は正直しんどいと思ったので、三年前から家のない生活をはじめました。そのことをブログ記事にして全世界に向けて発信をしたら、非常にありがたいことにいろいろな方が『泊まりにおいでよ』と声をかけてくれました。最初は東京都内の方が、やがては『交通費を出すから◯◯県まで泊まりに来てよ』とか『きみは面白いからイベントに出演してよ』みたいな感じで、あれよあれよというまに一年間で47都道府県を制覇することになりました」

 

「一年後も相変わらず家はなかったのですが、二年目からは『航空券代は出すからわたしが住んでいる国まで来てよ』と、海外からも声がかかるようになって結果的に20カ国くらい行きました。家のない生活も二年目を終えようとしている頃に、熱海に住んでいる方が『さすがに家のない生活は大変でしょう。熱海でもよければ住む家をご用意しますよ』という連絡をくださり、結果的にその方が熱海に家を買ってくれたのがいまから一年前です。みなさまの善意で生かされているので、この家も、自分ひとりで独占するのも違うなと思ったので全開放しながら様々な取り組みを(気が向いた時だけになってしまうのですが)行なっております」

 

「わたしは決して自慢をしたい訳ではなくて、昔は『お金がなければ海外旅行なんていけない』とか『お金がなければ欲しいものも買えない』って思っていたのですが、お金や家や仕事がなくなってからの方が確実に海外旅行にいっているこの現実、お金や家や仕事がなくなってから(フットワークが軽くなったからなのかなんなのか)確実に自分一人の力だけでは味わうことのできなかった体験をさせてもらっている(結果的に家までもらってしまった!0この現実は、いったい、なんなのでしょうか。お金がなければできないと思っていたことは、いったい、どこまでが本当でどこまでがただの思い込みだったのでしょうかなんてことを思うようになりました」みたいな感じの自己紹介をする。

 

「お金がないと死ぬ」のか?

自己紹介は続く。「わたしは家がなければ生きていけないと思っていました。しかし、実際に家をなくしてみたら『意外とどうにかなるばかりか、意外と楽しい!』ということを知りました。そのため、わたしは『こうでなければならないとされていることの、果たしてどこまでが本当にそうで、どこまでが全然そんなことはなかったのか』ということに興味を持つようになり、自分を使っていろいろと試すようになりました。お金も同じような感じで、昔は『お金がなければ死ぬ!』と思っていました。まるで自分の命がお金と密接にリンクをしているみたいで、貯金額が減るほどに自分の命も余命僅かになるような感覚、所持金が減るほどに自分の価値や存在意義まで見失ってしまうような、そんな感覚を覚えていました」

 

「でも、あら不思議。実際にお金をなくしてみると、それでも普通に生きている自分の存在に気がつきます。わたしは『あれ!おかしいなー!』と思いました。お金がないと死ぬはずなのに、お金がないのに平気で生きているこの俺の存在はなんだ。おれは何を恐れていたのだろう。そこでわたしは『ハッ!』と気がつきます。多分、人間を殺してしまうのはお金や家や仕事の欠如ではなくて『恐怖心』なのだということを思いました。自分を開いている限り人間は死なないが、自分を閉じたら【恐怖心に捕まってしまった途端に】死ぬのだと。説明が下手くそで非常に申し訳ないのですが、そういうことを考えている人間です」と、こんな感じのことを話す。

 

お金とはなんなのだろうか。大前提として「わからない」というのがいまのわたしの正直な気持ちである。ただ、最近では「表面的にはお金の問題に見えるようなことでも、実は『安心感の欠如』みたいなものがそのひとの根底にあって、お金を通じて安心感を得ようとしている(欠落感を埋め合わせようとしている)だけなんじゃないだろうか」ということを思う。根底に安心感があれば「お金があれば嬉しいけれど、なければないでどうにかなる」的な心持ちになれるが、世界全体に対する安心感がなければ「お金がなければ死ぬ!」という恐怖心にとらわれてしまう(結果的に、溜めこもうとする気持ちが逆作用をして循環を濁す)。

 

【過去記事】生きるために必要なもの、それは安心感だと思う。 - いばや通信

 

「お金の問題は安心感の問題」か?

前回の記事で「勇気を出すということは、自分を出すということだ。自分を出すということは、そのときそのときの自分の気持ちを、恐れることなく真っ直ぐに出すということだ」的なことを書いた。この言葉は、我ながら的を得ていると思う。嫌われてしまうことは怖い。できることなら好かれたい。しかし、 言いたいことを言わないでいると病気になる(自分の好き嫌いさえもがわからなくなる)からこそ、勇気を出して自分の思いを口にした時、意外と、世界は優しく受け止めてくれる(本音を口にしてもコミュニケーションは続くのだ)という実体験を通じて、ああ、意外と世界は受け止めてくれるのだという喜びにも似た手応えが、多分、自分を出しても大丈夫なのだという安心感を生む(のだと思う)。

 

わたしの所持金は少ない。しかし、なぜなのだろうか、お金に対する不安がない。なぜ不安がないのだろうか。なぜ、わたしよりもお金をもっているひとがお金の不安を抱えていて、みんなよりもお金を持っていない自分が「お金の悩み」を抱えていないのか。理由はわからない。想像をすることしかできない。だからわたしは想像をする。そして、ひとつの「これかな?」というものに思い当たる。多分、わたしはあらゆる物事を「自分ひとりだけの力で解決しようとしていない」のだと思う。極端な言い方をすると、自分がお金をもっていなくても別の誰かが持っているから大丈夫なのだと思っている。お金というものは誰が持っているかの違いでしかなく、自分がいま持っているこのお金も、たまたま自分の手元にあるだけのものであり、ない時はあるひとに頼ればいいのだと思っている(自分があるときは気前よく出していけばいいのだと思っている)。

 

極論に極論を重ねると、わたしは「(広い意味において)地球にお財布はひとつ!」だと思っている。この感覚は、多分、人類皆兄弟的なニュアンスを含んでいるのだと思う。お金は常に流動を続けているけれど、世界全体の総額は(多分)同じだ。誰が持っているかの違いでしかないのであれば、必ずしも自分が持っている必要はない。言うなれば「あのひとが代わりに持っていてくれる(管理をしてくれている)」くらいの気持ちで、なんだろう、近所のスーパーマーケットを「あれがぼくの冷蔵庫だから」と言っちゃうようなあの感覚に似ているのだろうか、必ずしも自分の手元になくても「自分が必要なときにそこに行けば手に入るもの」くらいの気持ちで思っているのかもしれない(説明が下手くそでごめんなさい!)。

 

『ゆっくり、いそげ』

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このタイミングでわたり文庫無料郵送のご案内です。今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、影山知明著作『ゆっくり、いそげ《カフェからはじめる人を手段化しない経済》』になります。先日、東京の西国分寺にありますこちらのカフェにご招待をしていただいた際に、カフェの愛用者の方から「この本は(ビジネス本として書かれているけれど)いいよ〜」とわたり文庫に寄贈をいただきました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※

 

経済とは元々、中国の古典に登場する言葉で「経世済人(=世をおさめ、民をすくう)」の意であるとされる。国内でも江戸時代には使われていたようだ。言葉としては、政治屋生活も含めて「社会をつくる」というニュアンスすらそこには感じられる。

 

それがいつからか「ビジネス」という言葉に置き換えられていった。ビジネスの由来は、bising+ness。bisingは古い英語で、ここから派生した形容詞形がbusyだから、「忙しさ」をその語源に持つことになる。時間をかけず、労力をかけず、コストをかけず、できるだけ効率よく商品・サービスを生産し、お金を稼ぐ。「経済」は、「ビジネス」という語を経由して、気が付けば「お金儲け」の意で使われるようにさえなってきた。

 

対局には、「スロー」を旗印としたムーブメントもある。「ファーストフード」に対する形での「スローフード」が火付け役となり、スローライフ、スローシティ等・・・。ベースとしては、進展するグローバル資本主義へのアンチテーゼがあると言っていいだろう。また、少しトーンは違うものの、近年では「降りていく行き方」「減速生活者(ダウンシフターズ)」といった言葉まで登場し、競争社会から離れ、少ない消費で、少ない収入でも等身大の充足感を実現する暮らし方の提唱も起こっている。

 

ぼくは常々、この中間がいいなと思ってきた。

 

影山知明『ゆっくり、いそげ』【大和書房】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫  

 

人生とは、ファナティッククライシスである。

お金について書きたかったのだけれどまとめることが苦手だ。わたしはまだ、お金のなんたるかを知らない。個人的に興味深いと思っていることは「お金がないとできないと思っていたあれこれを、お金がなくなってからのほうが圧倒的な速度でできているこの現象はなんだ???」という、自分自身に対する謎である。先日、東京のイベントに登壇をした際に「これからは所有から共有などと言われていますが、その点についてはどう思いますか」と問われた。わたしは、ちゃんと答えることができるだろうかと緊張をしながら、多分、下記のような返答をした(ような気がする)。

 

「所有の根底には『人間に対する不信感』が、共有には『人間に対する信頼感』があるような気がします。多分、わたしは、およそ二年間の家のない生活を通じて『ひとは優しい』という当たり前のことを、頭ではなく身体で理解することができたのだと思います。わたしを泊めようとしてくれるひと、わたしにご飯をご馳走しようとしてくれるひとは、この世の中にほんとうにたくさんいました。もちろん、人間的に合う・合わないなどはあるとは思いますが、根本的に『みんないいひとなんだ(そのひとなりの優しさを示そうとしているのだ)』ということに変わりはありません。だから、人間に対する視点とでも言えばいいのでしょうか、ひとは優しいのだという共通認識が増えていけば、簡単に世の中は共有へと移行するんじゃないのかなと思います(だって、真の喜びは『喜びを分かち合うこと』の中にこそあるのですから!!)」

 

お金がないとか、家がないとか、仕事がないとか、友達や恋人や家族や身寄りがいないとか、考えようによっては「いくらでも重く考えることはできる話題」だと思う。しかし、必ずしも重く考える必要はないのかもしれないとも思う。よし、この時点でこのブログ記事を書くのに40分程度しかかかっていない。いい調子だ。19時の予定に間に合うぞ。あとは最後に「もっともらしいオチをつけてまとめるだけ」だ。よし、まとめよう。もっともらしいことを言いたいのだけれど、ああ、もっともらしいことが浮かばないまま時が流れてしまいそうだ。わたしが言いたいことは「多分、どうにかなるから大丈夫だよ」という非常に抽象的な一言にまとめることができる。少なくとも、いま、ここにどうにかなっている男がいるということが、(これからどうなるかはわからないけれど、これからどうなるかわからないことはみんな一緒だから)あなたの癒しになれたらうれしいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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人生とは、純度の勝負である。

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初対面の女性から「キスをしてください!」と言われたことははじめてだった。トークイベントなどに出演をした後、参加者の方から「握手をしてください!」とか「ハグをしてください!」などと言っていただけることは頻繁にある。こういう瞬間はうれしい。握手でもハグでも、こんな自分でもよろしければいくらでもいたします!という気持ちになる。だがしかし、先日、ある女性の方とお会いをした時の帰り際に「キスをしてもいいですか?」とまっすぐに問われた。わたしは、え、こんなことって現実にあるの???と、なんだか非常にドキマギしてしまってうっはーーーーみたいなことになってしまった。一言で言うと照れた。「これは問われている!」と思った。こういう時に、女性のまっすぐさには完敗をする(そして乾杯をする。嫌な気持ちにはなることはない)。

 

わたしは自分自身をフリー素材として開放している。基本的にはあらゆる要望に応えていきたいスタンスで生きているのだけれど、先日、ある女性の方から「1日彼氏になってください」という連絡が届いた。わたしは「よし、やりましょう!何かご希望の内容などはありますか??」と軽い気持ちで尋ねましたところ、なんと、その女性からは「一緒にデートをして欲しいとか、話を聞いて欲しいとか、そういうことではなくて(こんなことを言うのはとっても恥ずかしいことなのですが)一緒にいちゃいちゃしたいです。そして、そのままエッチをしたいです」という返信が届いた。わたしは強い衝撃を受けた後に「これは問われている…!!!」と思った。はい、この出来事がどのような結末を迎えたのかはまたの機会のお楽しじみ・・・(ブログ記事には書けない内容はイベント出演時などに【個人が特定されることのない範囲内で】お話します!)。

 

見え透いた明日が一番くだらない。 

わたしは家を開放している。鍵もかけていないし、玄関の一番目立つところには「みんなの財布」などと言って財布をデカデカと掲げている。家に遊びに来てくれた一般の方や郵便局員さんや配達員さんなど、家の玄関を開けるたびにざわざわしているんじゃないのかなと思う。これはわたしなりの問いで、もしも、この世の中に「誰でも自由に出し入れをしてもいいですよ」的な財布が登場した時に、果たしてどのような現象が起こるのかを実際に試して見たいという思いから生まれた。そんなことをしたら盗まれちゃうんじゃないですかなどと心配をしていただけることもあるけれど、みんなの財布を置いてから一年余りの月日が流れたいま、この財布からお金が一円もなくなったことは一回もない(なんならちょっと増えている)。 

 

昨日、東京の国立市で開催されたイベントに参加をしてくれた方が「さかつめさんはいろいろと開放をしているけれど、どうしてそんなにひとを信頼できるのですか」と尋ねてくれた。わたしは「非常に良い問いをありがとうございます!」と答えた。多分、わたしはひとを信頼しているというよりも「これをやったらどうなっちゃうのだろう??」という謎の好奇心がまず先にあって、あとは野となれ山となれの精神でとりあえずなんでもやっちゃう教の信者なのだと思う。盗まれたのなら盗まれたで「盗まれちゃった!」とネタになる。こういうことを話すと「このひとは馬鹿なのかな」という目で見られることが多いけれど、多分、馬鹿なのだと思う。

 

家を開放していると危ない目に遭うことはないのですかと問われる。わたしは「いまのところありません」と答える。そして、あ、そういえば朝起きた時に知らないひと(女性)が隣にいたことはありますと答えた。そんなことを言うと「え!それって怖くないですか!その女性はそこでなにをしていたのですか??」と尋ねられたので、わたしは「ボクのことを見ていました」と答えた。CHEMISTRYの「PIECES OF A  DREAM」という曲の中に月がボクたちを見ているという歌詞があるけれど、わたしの場合は「知らない女のひとがボクを見ている」ということになる(全然どうでもいい話だけれど、わたしはこの曲の歌詞にある「見え透いた明日が一番くだらない」という部分が好きです)。このような出来事が続くと、それなりに腹が据わる。生きているといろいろなことがあるよねという気持ちになり、ちょっとやそっとじゃ動揺をしない精神になる(しかしながら色恋沙汰にはまだまだ弱いです!)。

 

じっとしていられるか選手権。 

今日は恵比寿で開催されるイベントに登壇をして、明日は静岡県掛川市で開催されるイベントに登壇をした後に、浜松市在住の方から「ごはんを食べに来てください!」という連絡をいただいたので浜松市に行く。20日から25日までの予定は皆無で、浜松界隈でも浜松界隈以外でも声がかかる限り何処にでも行きたいと思っている。わたしは多動症なので、 熱海の自宅でじっとしていることができない。本当は、最近「オフグリッド」と呼ばれるものに興味があって熱海の家にも取り入れたいと思っているのだけれど、自分ひとりで取り組む気力がわたしにはない。あと、クォンタムタッチという「ひとのカラダに触るだけでひとを癒す」という手法を最近覚えた(覚えたというのはまっ赤な嘘で、それにまつわる本を読んだ時に「これは俺でもいけそうな気がする!」と思った)ので、誰かに試したい【誰かに試してもらいたい】と思っているけれど被験者がいない。

 

ここら辺から余談になるのですが、調子が良いときのわたしには「(会話を交わすことや同じ空間を共有することで)ひとのこころをセンターに戻す」才能があると思う。ややや、わかります、わかります、こんなことを言うと調子に乗るなと怒られてしまいそうだけれど、多分、そんな能力が自分にはあるんじゃないのかななんて思っている(ただし調子が良いときに限る)。昨日も「さかつめさんは温泉みたいですね」とか「声を聞いているだけで気持ちよかったです」とか「小動物を眺めているみたいで、いつまでも見ていたいと思いました」などと言ってもらえた。わたしは三人兄弟の末っ子として生まれたので、こんな風に言ってもらえると簡単に調子に乗る。わたしがサンシャイン池崎さんだったら「イエエエエエエエエエエエエイ!!!」などと叫び出すのだと思う。

 

【スケジュール】坂爪圭吾

 

こちらがわたしのスケジュールになります。「FREE!」と書かれている箇所や空欄は何も予定がありませんので、何かありましたらいつでもお気軽にお声かけください。先日、神奈川県横浜市でオフグリッド生活をされているサトウチカさんにお会いしたのですが、チカさんがあまりにも魅力的過ぎたので「俺もオフグリッドを生活に取り入れることでチカさんにお近づきになりたい!」と思ったことが、オフグリッドに強い関心を抱いた最大の経緯になります。26日(日)には熱海の自宅でわたり食堂【0円食堂】を開催するので、料理が好きな方や、食べることが好きな方や、ちょっと人前でなにかを試してみたいことがある方や、オフグリッド技術をお持ちの方(実は小さな家【折り畳んで運ぶこともできる三畳以下の小さな家】を予算五万円でつくりたいと思っているのですが、その能力がないので助っ人を探しています)など、どなたでもお気軽に遊びにいらしてください。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

『日々のことば』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、マザーテレサ著作『日々のことば』です。最近のブログ記事においてマザーテレサの言葉の引用が多かったのは、何を隠そう、この本を読みまくっていたからです。365日、その日その日の言葉が書かれているので、普段は本を読まない方にも読みやすい一冊になります。ちなみに、わたしの誕生日でもあります4月7日(もうすぐですね!)には、以下のような言葉が書かれていました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

4月7日

 

どんな国であれ、信仰のあるところでは、

わたしたちが働くのに困ったことは、まったくありません。

わたしたちは、すべての人を神の子どもと考えています。

みんな、わたしたちの兄弟、姉妹です。

わたしたちは深い尊敬をもって接します。

わたしたちの仕事は、

クリスチャンも、ノンクリスチャンも同じに、

彼らをいっそう勇気づけます。

心からあふれる愛の働きはどんなものであっても、

人々を神に近づけるものなのです。

 

マザーテレサ『日々のことば』【女子パウロ会】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫 

 

人生とは、純度の勝負である。

わたしの誕生日にこのような言葉が書かれていたことはうれしい。わたしも、わたしの両親も特定の信仰を持っていた訳ではないけれど、多分、わたしはある種の信仰を持っているのだと思う。それは、先述をしたように「あとは野となれ山となれの精神でとりあえずなんでもやっちゃう教」の信者ということであり、付け加えて言うなれば「自分の純度を高めていれば、多分、そのひとは絶対に死なないであろう教」の信者でもある。純度という言葉はあまりにも抽象的だけれど、しかし、人間には「純度」としか呼ぶことのできない部分が確実にあると思う【純度とは「濁りのない」ことであり、濁りとは「嘘とか見栄とか驕り」から生まれるものだと思う】。

 

うまく言葉にすることができないのだけれど、わたしみたいな人間が生きていることができているのは、わたしの存在を発見してくれたひとが「お前の生き方は面白いから、もっと生きろ」的な意味合いを込めて後ろからサポートをしてくれることによって成り立っているように感じる。逆に言えば、わたしは自分ひとりの力だけではとてもじゃないけれど生きることはできない。みなさまの支えがあってこその自分であり、生きているのではなく「生かされている」のだと感じている。この感覚は、自分は自分の力だけで生きているのだと思い上がっていた20代前半には感じることのできなかった「うれしさ」や「安心感」や「ある種のつながり【ブラザー感】」を与えてくれる。

 

どうすれば自分の純度を高めることができるのか。わたしにはまだその答えはわからない。ただ、好きなひとには好きだということ、ハグをしたくなった時は「ハグをしたいです!」と言うこと(時にはキスも!)。自分の真っ直ぐな気持ちを恐れずに出すという、ただ、それだけのことが自分の純度を高めることにつながるのだと思う。時には嫌われてしまうこともあるかもしれない。でも、嫌われてしまったら、嫌われてしまったで仕方がないのだ。嫌われることがあったとしても、自分はこういう人間ですということをまっすぐに表明するひとの姿には、ある種の清々しさが宿る。逆に、嫌われないためにやっていること(愛想笑いとか一般的な社交辞令とか)の方が、周囲の顰蹙や不快感を引き出すものだ。勇気を出すということは、自分を出すということだ。生きているのはこの瞬間だけ、明日にはもう、今日の自分を取り戻すことはできないのだから、わたしは「今日の自分を出し尽くしていきたい」と思う。

 

 

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人生は続く。

 

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人生とは、自分を楽しませることである。

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神奈川県秦野市で開催されたトークイベントに登壇をした。会場になりました「手打そば くりはら」さんの雰囲気とお蕎麦が最高で、半人前【私】が一人前を三人前も食べてしまった。誰かに無理やりでも食べさせたい蕎麦屋さんを尋ねられた時は「くりはら!」と叫びたいと思った。もしも「行ってみたい!」と思われた方がいらっしゃいましたら、わたしが同行をいたしますので遠慮なくお声かけください。明日17日(金)は、東京都国立市で開催されるトークイベントに登壇をします。昨日確信したのですが、わたしは(偉そうに話をすることではなく)みなさまと対等に話をすることが大好きみたいなので、是非、お時間のある方はどなたでもお気軽に遊びにいらしてください。

 

【イベント詳細】坂爪圭吾さんトークイベント

 

最近のマイブームは土下座をすることで、暇さえあれば土下座をしています。おはなを配り続けるという自主企画を敢行中の身ではあるのですが、本来であれば「与える側」であるはずの自分が、いく先々でほんとうに様々なものをいただいております。昨日も、参加者の方々から両手に抱えきれないほどの手土産をいただいてしまって、わたしは「いまだ!」と思って土下座をしました。イベント最中にどのような話をしたのかがまるで思い出せないのですが、会場のみなさまが笑ってくれたときはうれしかった。多分、わたしはある種のコメディアンになりたいのだと思う。自分のような人間が生きているということを「笑ってもらえたらうれしい【一緒に面白がってもらえたらうれしい】」と思っている。 

 

人生とは、自分を楽しませることである。

わたしの信条のひとつに「人生とは、自分を楽しませることである」というものがある。自分の人生に行き詰まりを感じた時に、最も有効な解決策のひとつに「誰かをよろこばせること」があると思う。自分のことばかりを考えていると、逆説的になるけれど「自分自身さえも見失ってしまう」ことは多い。仏教的に言えば、わたしたちは無限の網の目の中で生きているのだから、究極的には「誰かに善を為す時、それは自分に最善を為している【自分と他人の間に境界はない】」のだと言える。自分を楽しませることができない時は、多分、誰かをよろこばせることに集中をする(自分を消し去る)のが良いのだと思う。

 

マザーテレサさんが「遠くの誰かを愛することは簡単です。大事なことは、家族、同僚、あなたがいまいる場所のひとたちを愛することです」と言っていた。わたしは「まさに!全然できていない俺!」と思ったので、ホワイトデーに熱海の家の近所の方々(主に高齢のおばあちゃま方)におはなを配った。すると、なんということでしょう!自分が想像をしていた以上にみなさまものすごいよろこんでくださり、隣にお住いのU様(86歳の麗しいおばあちゃま。趣味はジャズピアノで、ピアノの横には「なるようになる」という張り紙をしている)は「あらまー!孫が増えたみたいでうれしいわあ!」と、なんと、わたしの頭を撫でてくれた。わたしはとてもうれしかった。熱海の家の周辺は過疎化が進んでいて、大きな家にひとりで暮らしているおばあちゃんがたくさんいる。いっそのこと、わたしは「これからは、ぼくを孫だと思って思う存分可愛がってください」とお願いをしたくなった。

 

調子に乗ったわたしは、その後、お世話になっている郵便局員のお姉さんや饅頭屋さんの看板娘におはなをあげた。こうして、改めて自分が暮らしている地域を眺めて見ると「誰かをよろこばせるチャンスは無数に転がっている!」ということを思う。そんな時に、おはなの存在は大活躍を果たす。アメリカでは、花屋さんには男性ばかりが集まるのだと聞く。花は「男性が女性に贈るもの」なのだ。これは素晴らしい習慣だと思う。日本人のみなさまもどんどんおはなを配ってみてほしいと思う。おはなは、一輪数百円程度で小さな楽園を与えてくれる。多分、おはなをもらって嬉しくないひとはいない(いたとしたらそれは贈り方のセンスがなかったからか、あるいはその人自身が自分のことを嫌いだからなのだと思う)。

 

言葉の奥に「音楽」がある。

過去記事で、わたしは「風になりたい」と書いた。その後、日本の妖怪に『かまいたち』というものがあることを思い出した。Wikipediaによると「鎌鼬かまいたち)は、日本に伝えられる妖怪、もしくはそれが起こすとされた怪異である。つむじ風に乗って現われて人を切りつける。これに出遭った人は刃物で切られたような鋭い傷を受けるが、痛みはなく、傷からは血も出ないともされる」とある。わたしは、これを読んで「格好いい!(特に『つむじ風に乗って現われて人を切りつける』という部分!)」と思った。辻斬りである。しかし、痛みはない。血も出ない。切られた側も、切られたことに気がつかない。ああ、なんて素晴らしい存在なのだろうかと思った。

 

【過去記事】自分を殺してひとに好かれるくらいなら、自分を出してひとに嫌われるほうがずっといい。 - いばや通信

 

誤解を恐れずにいうと、わたしは、ひととひととが本当の意味で語り合うということは「お互いに斬り合う」ことと似ていると思う。井上雄彦著作『バガボンド』の中に、斬り合いを交わす二人の剣士が「俺たちは、抱き締める代わりに斬るんだな」と述懐をする場面がある。殺し合うために切るのではなく、お互いを生かし合うために斬る。そういうやりとりを交わせたあとには、相手がどのようなものであれ、勝敗がどのようなものであれ、空間全体に清々しい風が吹く。私は、ひとと話す時に「斬りたい(そして斬られたい)」と思う。斬られてパカっと割れた相手【自分】から、新しい自分が出てくる瞬間に触れたいと思う。

 

斬り合いを必要としない会話もある。それは音楽に似ている。わたしは、そのひとが何を話しているかよりも「どのような気持ちで話しているか」に注意をしながら聞く。言葉そのものではなく、言葉の裏にあるそのひと自身の本音を聞きたいと思う。言葉と本音が一致したとき、多分、言葉は音楽になる。素晴らしい音楽を聴いているときのようなある種の恍惚感、正直なひとが話す正直な言葉には「素晴らしい音楽を聴いているときのような気持ち」にさせる力がある。斬り合いを終えて、たどり着きたいと思う境地はここにある。ほんとうは、多分、言葉はいらないのだと思う。余計な言葉を削ぎ落とすため【お互いの中に眠る音楽に触れるため】に、時には斬り合うことも必要になるのだと思う。

 

『東京百景』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、又吉直樹著作『東京百景』です。こちらの本は、昨夜の神奈川県秦野市で開催されたイベントに遊びに来てくれた女性が「先入観を持たずに読んでいただければ、きっとお楽しみいただけるのではないかなと思います」というお言葉と共に、わたしに託してくださった一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。 

 

※※※ こちらの本は、岩手県にわたりました ※※※

 

井之頭公園を歩くことが日課のようになっていた。「お前どこにいんだよ!」と携帯電話で喧嘩をしている男性がいた。待ち合わせ場所が解らずに激昂しているようだった。男性は鬼のような表情で「だから俺は池のほとりにいるって言ってんだろ!」と叫んだ。しかし、井之頭公園は池を中心として周囲に公園が広がっているので、どこもかしこも『池のほとり』なのだ。二人は永遠に会えないと思った。ー 又吉直樹『東京百景』【ヨシモトブックス

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

神は「どれだけ愛したか」を問う。

様々な方々とお話をさせていただく機会を通じて、もしかしたら、この世の中には「このままのあなたじゃダメだ!」という情報があまりにも氾濫しているのかもしれないと思った。あなたには足りないところがある、だからこれをしなければいけない。いまのままのあなたには価値【愛される資格】がない、だからこれをすることによって自分に価値を与えましょう、など。そういう情報や世間の声を耳にする機会は多い。しかし、ほんとうにそうなのだろうか。わたしは「価値」と「功績」は別物だと思う。価値は存在に宿り、功績は行動に宿るものだと思う。何もしていないからといって、そのひとから価値が消える訳ではない【人間の価値は不増不減である】と思う。

 

 

自分に価値を与える(何かを埋め合わせる)ために必死になることは、現時点の自分には価値がないのだと認めることになってしまう。わたしは、そんなことはないんじゃないのかなと思う。いまのままでも充分に魅力的な存在であり、ただ、外野の声に惑わされて自分を見失ってしまっているだけなんじゃないのかなと思う。これがあるから自分には愛される資格があるだなんて、愛は、そんなに狭量でケチ臭い概念ではないと思う。だからこそ、なにかをしなければいけないという強迫的な考え方によって、自分のこころの底から湧き上がる「なにかをしたくなる」その気持ちを殺さないでほしいなと、わたしは、自分自身に対しても言い聞かせるように願う。

 


大袈裟な言葉になるけれど、多分、神様と呼ばれるものがいたとしたら、それは「どれだけたくさんのものを集めたか」とか「どれだけたくさんの金を稼いだか」とか「どれだけたくさんの本を読んだか」とか「どれだけたくさんの社会的な名声を獲得したか」なんてことは問わないと思う。死ぬ間際、わたしたちが問われることは「どれだけたくさんのものを愛したか」という、ただ、それだけのことだと思う。言い方を変えるならば「どれだけたくさんのことをやれたかではなく、どれだけ自分の気持ちを込めることができたのか」だと思う。それならば、と思う。何かを否定することにエネルギーを使うのではなく、自分を含めた世界全体を肯定する方向に、生きる方向に、遊ぶ方向に、よろこびに触れる方向に、難しい場合もあるけれど「自分を楽しませる方向に」舵を切っていきたいのだと、わたしは思う。

 

 

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人生は続く。

 

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どうにかなるから大丈夫だよ。

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熱海から車で長野県松本市に向かう。前回のブログ記事で「長野県松本市に行くので、おはなが欲しい方はご連絡をください!」的な投稿をいたしましたところ、非常に驚いたことに10名近くの方から連絡をいただきました。わたしは、大量の連絡がくるとすぐにパニック症候文みたいなことになってしまうので、みなさまには非常に申し訳ないかたちになってしまうのですが「全員、14時に松本駅スターバックスに来てください!」と返信をいたしました。結果的に(ダブルブッキングをはるかに凌駕する)シックスブッキングみたいなことになってしっちゃかめっちゃかしていたのですが、同時にドラマティックないくつかの出来事にも恵まれました。

 

【過去記事】自分を殺してひとに好かれるくらいなら、自分を出してひとに嫌われるほうがずっといい。 - いばや通信

 

これは余談になるのですが、熱海から松本に向かう途中、山梨県甲府市にあります道の駅に立ち寄りました。そこでは、地元の野菜や果物と一緒にちょっとだけおはなも売られていたので、わたしは「何かあったときのために」と、この日に会う予定の方のため以外にももうひとつだけ、余計に花束を購買しました。これが、結果的に最高の結実を見せることにになってくれるとは(この時点では)つゆ知らず、わたしたちはルンルンで一路松本市街地へと向かいました。

 

生理を呼ぶ男。

松本駅スターバックスに来てくれた男性Y様は、富成伍郎(日本一旨い豆腐屋さん)の絹ごし豆腐やプリンやドーナッツのお土産と一緒に「少ないけれど使ってください」と、ぜんぜん少なくなんてないお金を同封してくれました。松本駅までやって来たものはいいものの、帰りの手段がなにも決まっていなかったわたしは「非常に助かります!現実的に救われます!」と、即身成仏に手をあわせた。お心付けをいただけたことはもちろんうれしいことだけれど、なによりもY様のお気持ち(そして渡す時のさりげなさっぷり)がほんとうにうれしかった。その後、松本市内でお会いさせていただいた女性からは、お別れしたあとに、このようなうれしい言葉の数々をいただきました。

 

坂爪圭吾さん

 

先程は、お花を受け取らせていただきまして、ありがとうございました。
好きな色の可愛らしいお花、とってもうれしかったです(*^^*)

 

お別れしました後、綺麗でよい強いエネルギーに触れさせていただいたからか、
理由のわからない涙が止まらなくなり、そして生理になりびっくりしました。

(ハートが開くと生理が来るのです。変なお話ですみません(笑))

 

「背伸びしないこのまんまの私で、私は私を生~きよっ」と思いました^^
いっぱい遊ぼう~♪

 

またどこかでお会いさせていただく機会がございましたら、うれしく思います。
私にとってベストタイミングで松本に足を運んでくださいまして、本当にありがとうございました^^


それでは、よい旅をお続けくださいね♪
ありがとうございました!

 

わたしは男性であるために女性の身体については想像をすることしかできないのですが、実は、わたしとお会いしてくださった女性の方から「生理が来ました!」とか「原因不明の涙があふれてきました!」というご連絡をいただいたことは過去に数回ありまして、わたしとしてはどのようなリアクションをすることが正解なのかまるでわからない(そして、こんなことを言うとおまえは確実に調子に乗っていると殺されてしまいそうな気持ちになる)のですが、これはもう「俺はなにかもっているのかもしれない」とかなんとかごめんなさい、そういうことを軽く思ってしまいました(ごめんなさい!)。

 

なんておバカなひとたちなんだろう。

東京在住の女性M様(まだ実際にはお会いしたことのない方)から「長野県辰野町にNさんという男性が住んでいて、そのひとが非常に素晴らしい方なので是非泊まりに行ってください!」という旨の連絡をいただきました。この日の宿が決まっていなかったわたしは「それではお願いいたします!」とお返事をさせていただき、結果的にN様が車で松本駅まで迎えに来てくださることになりました。夕方16時頃に松本駅前で初対面を果たしたわたしとN様は、辰野町に向かう道中の車内で、このような会話を交わしました。

 

Nさん「明日の予定は決まっているのですか?」

 

さかつめ「なにも決まっていないのですが、なにもなければ東京方面に向かう予定です」

 

Nさん「ああ、そうでしたか、わたしが明日仕事が休みだったら一緒に車で東京まで行けたんだけどなあ」

 

さかつめ「そうですか…(5秒くらい考える)。あの、これは全然無視をしてくれて構わないのですが、これから東京に暮らしているM様のところまで我々が一緒におはなをお届けにあがったらM様も笑ってくれるような気がしたので、いまから一緒に東京まで車をかっ飛ばすのはどうでしょうか??実はさきほど松本駅でお会いした方からお布施をいただきましたので、往復の高速代金とガソリン代は負担をします!(負担をしますとか偉そうなことを言っておりますが、わたしのお金ではありません!)」

 

Nさん「なんと…」

 

さかつめ「無理は禁物です!」

 

Nさん「東京までは片道三時間くらいだから…」

 

さかつめ「無理は禁物です!」

 

Nさん「がんばれば明日の仕事にも影響はない…」

 

さかつめ「無理は禁物です!」

 

Nさん「ぼくも人生はドラマだと思っている人間だから…」

 

さかつめ「無理は禁物です!」

 

Nさん「よし、行きましょう!」

 

さかつめ「無理は禁物です!(でたー!)」

 

Nさん「ほら、こういうのは勢いだから!」

 

さかつめ「ががーん!(思考は現実化する!)」

 

という訳で、長野県松本市から辰野町に向かう予定の車は、急遽予定を変更して東京都練馬区に向けて駆け出しました。21時頃、我々は無事にM様との合流を果たし(わたしとM様も実はこの瞬間が初対面でした)、実際におはな【山梨県甲府市の道の駅で「何かあったときのため」に購買をしていたあのおはな!】を手渡しさせていただくことに成功しました。M様曰く「わざわざ長野から一緒に東京まで来るなんて、なんておバカなひとたちなんだろうって思いました」とのこと。わたしは、ああ、これはもう最高の褒め言葉じゃないかと思いました。別れ際、わたしとNさんは「おれたち、今日、とても良い仕事をしたね」的な思いでお互いの肩をがっちりと抱き合い、わたしは鈍行で熱海へ、Nさんは車で辰野町に戻りました。

 

『画家 - AN ARTIST』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ゴフスタイン著作『画家 - AN ARTIST(訳・谷川俊太郎)』です。ワシントンポスト紙は、作家・ゴフスタインを「我々の時代の最も洗練された絵本作家である。彼女の仕事は、ちょうど磁器のように、ちょっと見ただけでは解らない味わいがある。表面の繊細さと壊れやすさの奥に隠れている芯は、驚くほど強い」とたたえています。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

つつましく、強く、

だが限られた日々。

 

あたえられたいのちを

彼は使いはたす

 

絵の具箱に。

 

色をえらび

色をぬり、

 

画家は絵の具を

うたわせようとする。

 

ゴフスタイン『画家 - AN ARTIST(訳・谷川俊太郎)』【G.C.PRESS】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

どうにかなるから大丈夫だよ。

朝7時半頃に車で熱海を出て、山梨県甲府市の道の駅に立ち寄り、お昼頃に長野県松本市内で信州蕎麦をいただき、14時に松本駅スターバックスで軽いパニック障害に陥ったあとに(松本市内の温泉を経由して)東京の練馬区まで車を飛ばし、東京在住のM様におはなを渡す。おはなを渡して比較的強めのハグを交わしたのちに、電車に揺られて熱海に戻る。なかなか移動の多い1日になったけれど、日付も変わる頃、無事に帰宅した時には「今日は生きた!」という充足感でぐっすりと眠ることができた。熱海に戻る道中、松本で一緒に蕎麦を食べた女性E様がご自身のフェイスブックにこんな投稿をしてくださいました(勝手に引用をさせていただきます!)。

 

松本に坂爪圭吾さんが来ると、昨日の『いばや通信』読んで知り、震えた。

 

「もはや、ここまで。」と思う時(←結構、頻繁に思います。)人生笑ってなんぼだと、「私は金のお米粒。」と呪文のように唱えて生かされてきた感がある。

 

直接会って、自分の言葉で「ありがとうございます。」を伝えたいなぁと思っていたら、坂爪さんから松本に来るとか奇跡じゃないかと。

 

同時に、何ごとも取り繕わない坂爪さんゆえに、私が嫌いなタイプだったら申し訳ないとか妄想も始まったけど、「傷つく前に傷つくな。」という坂爪さんの言葉を胸に、そうなったらそうなったで、それでも坂爪さんにありがとうと言うんだという気持ちが湧いてきて、メッセージしたら、ランチの機会をいただいた。

 

結果、杞憂で、何というか、そのまんまの自分で居られて、とても初対面とは思えませんでした。

 

目がキレイで、何でも見透かされそうだけど、何を見透かしたところで放っておいてくれるような心地よさがあり、ただ、一緒に居られて、あー、生きてて良かったなぁと。

 

何かをしたいとお渡しした以上に、同行のお友だちからもお土産たっぷりで帰していただいて、この人たちは神様かと思いつつ、ありがたくいただきました。

 

いただいたお花は、お花屋さんで売っている花の中で一番好きな黄色のガーベラ。

 

見ては、ああ、本当にこの世に存在してくれているんだ、夢じゃないんだー♪という気持ちで、幸せです。

 

何のためにとか、そういうのもいいけれど、やりたいからやるって、お花を渡して風のように去っていくって、最高にかっこいいなと思う。

 

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福島県出身のEさんは、東北大震災の影響で家も仕事もなにもかもを失い、一時的に埼玉県に移り住んだのちに、現在は長野県松本市内で農業をしながら自分の生業を築いている。一見するとカラッと元気そうに見えるひとでも、内面では人知れない思い出を抱えているもので、わたしは「誰もががんばって生きているのだ」ということを感じた。そして、「自分の苦しみや自分の悲しみだけを特別なものだなんて思ってしまってはいけないのだ。それでは傲慢の種を生み出してしまう。自分だけが特別な存在なのではなく、かといって自分が特別な存在ではないということでもなく、自分が特別な存在であるように他のひとも特別な存在なんだ」ということを思った。

 

巷には「こうすれば成功できる!」とか「こうすれば幸せになれる!」とか、手元にあるものを慈しむことよりも「遠くにある幸せを追い求める」ように仕向ける扇動的な情報があふれている。しかし、わたしは「この世界に生まれてきた時点で誰もが勝ち組であり、誰もがすでに成功をしているのではないだろうか」と思う。遠くにある幸せを追い求めるあまり、いま、生きているということのうれしさを見失ってしまうことはあまりにも酷だ。松本駅でお会いしたY様から、その日の夜、下記のようなメールをもらった。素晴らしい文章だと思った。大事なことは、遠くの何かを追い求めることだけではないはずだ。自分の手元にあるものを味わうこと、たとえばそれは「明日食う金に困らないこと」とか「雨の音を聞いたり、路上の花を眺めること」とか「衣食住のある生活をできていること」など、この世界にすでに備わっているものに対して静かな感動を覚えることができた時、同時に、夢や目標などの外的な興味はおのずから湧き出して来るものだと思う。こうしなければいけないという強迫観念的な罪悪感に負けてしまうのではなく、こうしていきたいと思える前向きな気持ちを大切にすること。生きとし生けるものが「どうか存分にこの世界を愉しんで」生きることができるようにと、わたしも勝手に祈りました。

 

 

坂爪さん、
こちらこそ、今日も素敵なご縁、
貴重なお時間を頂いて感謝しています。
豆腐を購買するついでみたいですみません…(._.)
お金についてはお気になさらず。
最近ちゃんと礼拝にも行けていなくて献金をしていないので、
宗旨が合っているのか分かりませんが「喜捨」と思っていただけますと幸いです。

 

先日の、わたり食堂にお邪魔した際や、今日お会い出来たときにも感じたことなのですが、
坂爪さんのブログを読まれて、
坂爪さんを慕って集まった方々の、
なんというか空気感の優しさ、であったり、
時に哀しみを内包しているとき、
或いは何かしらの「救い」を求めているのかもしれない瞬間、であったり、
というものが垣間見られたとき、
私などが言うのは憚られますが、
「あぁ、このひとも戦っているんだな」って、
自分ひとりでない安心感といいますか、
改めて、現実と向き合う覚悟を
密かに肚の底に堅められているような気持ちになれる、んだろうな、って感じました。

これこそ、坂爪さんが「いばや通信」で仰るように、
「自分の中の誠実さの真ん中を貫く」っていうことなのかな、
なんて感じられる自分をなんというか「誇れる」のかな、って嬉しくなるんです。

坂爪さんの発する言葉には、
そんな不思議なちからが宿っているんだなぁ、と、
半端なクリスチャンなりに救いのちからを感じているんだな、って
今日、改めて、そんな風に腑に落ちたおもいがしています。

ぼくなどが言うのもなんですが、

どうか存分にこの世界を愉しんでくださいね!
その姿がきっと誰かの背中を押したり、
存在を肯定出来たり
赦す、ことに繋がるのだと思います。

また機会がございましたら、
坂爪さんの聖書の読み解き方などお話し頂けましたら、幸甚です。
こちらこそ、とりとめもなく
乱文を書き込むばかりですみません。
またお会い出来る日を楽しみにしてます!
ありがとうございます!

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

自分を殺してひとに好かれるくらいなら、自分を出してひとに嫌われるほうがずっといい。

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明日3月13日(月)に長野県松本市までおはなを届けにいくだけに行くことになりました。熱海から松本までの交通費が手元になくて(最近の爆買いでいろいろなくなった)どうしようかなと思っていたら、ロゼカンパニーの嘉向徹さんと保科亮太さんが車を出してくれることになったので、とりあえず松本市内まではいけることになりました。なるようになるのだな人生…その後の予定は未定になります(ロゼカンパニーのおふたりは私を松本市内まで護送をしたのちに新潟県に向かいます)ので、長野県松本市界隈にお住いの方で「わたしにもおはなをちょーだい!」的な方がいらっしゃいましたらお気軽にご連絡ください。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

本日3月12日(日)の17時以降は新宿駅周辺で暇をしております。東京都内で「おはなをちょーだい!」的な方がいらっしゃいましたら、こちらもお気軽にご連絡ください。今週はトークライブに呼ばれる機会が非常に多く、3月15日(水)は神奈川県秦野市、17日(金)は東京都国立市、18日(土)は東京都内某所【詳細未定】 、19日(日)は静岡県掛川市で開催されるイベントに出演をします。基本的に呼ばれたものには内容を問わずすべて足を運ぶようにしている(稀に変な企画に呼ばれることもあるのが逆に楽しい)ので、もしも「坂爪圭吾を何かしらの企画で呼んでみたい!」と思ってくださる奇特な方がいらっしゃいましたら、どなたでもお気軽にご連絡いただけたら幸いです。合言葉は『タンポポの綿毛のようなフットワーク!』ということで、意外とどこにでも行きます。

 

【出演情報などはこちらにまとめました】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

スイマグエースの効力がすごい。

前回のブログ記事で紹介した『スイマグエース』を数日間試している。結論から言うと最高で、私のように神経が非常に繊細ですぐに胃腸を痛めたり便秘がち(感情を溜め込みがちなひとは便秘になりやすいらしい)になってしまうあなたに、無料でスイマグエースをプレゼント【限定1名!坂爪圭吾が送料を100%負担!】したいと思います。自分が好きなものを見つけては、同じように「いいね!」と思ってくださるあなた様にものを贈るのは完全なる私の趣味になりますので、興味のある方はお気軽にご連絡ください。

 

※※※ こちらの逸品は、東京都にわたりました ※※※

 

【過去記事】生きるために必要なもの、それは安心感だと思う。 - いばや通信

 

軽やかさ、というのは大事な言葉だと思う。ひとりで考え過ぎると深刻になりがちなことでも、誰かと話すことで笑いのネタになることもある。ロゼカンパニーの保科さんは「根本的にギャグなんだと言いたい」と言っている。私の活動も、いばやの活動も、根本的には『ギャグ【遊び】』なのだと思う。無料でおはなや本やスイマグエースを配り続けるということ、呼ばれたイベントにはなんでも顔を出すということ、自宅を完全に開放するということ、玄関に財布を掲げて共有をするということ、自分をフリー素材にして(自分の使い方を自分で定めるのではなく)みなさまに自由な使い方をしてもらうということ。これらの全部はギャグであり、これらの全部は遊びである。このギャグを、この遊びを、一緒に笑ってくれるひとがいたらそれだけでうれしいのだと思う。

 

 

私は風になりたいと思う。何をしているのか(どうやって生きているのか)よくわからない謎の人物が突然目の前に現れて、おはなを渡して去る、スイマグエースをお届けして去る、自宅を開放したままで去る、ひとまえで軽い話をした後に颯爽と去る、こうした過程の中で「普段はなかなか吹くことのない風が、あなたのこころに吹けばいい」的なことを思う。多分、私は「ひとのこころが軽くなるような瞬間」が好きなのだ。あれはいったいなんだったのだろうかと、自分でもよくわからない状況に置かれた後に吹きあげるある種の風、あの、なんだかよくわからないけれど楽しかったなとふわりと思えるあの瞬間。自分のこころが「いいな」と思えるものに出会えた時、多分、ひとは自由を感じているのだと思う。

 

船で酔う。

私は自分自身をフリー素材【わたり人間】として開放をしている。乱暴にまとめると「こんなことをやりたいと思っているのだけれど、付き合ってくれるひとがいないからあなたちょっとお供してよ」的なご依頼に応え続ける日々を過ごしているのだけれど、昨日、熱海の港から漁船に乗って一緒に釣りをするというご依頼に応えた。開始五分にして船長さんもびっくりの巨大なアジを釣ることに成功をした私は、しかし乗船前に大量のカレーライスを食べ過ぎたためにこの時点で物凄いグロッキーだった。

 

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おひとつどうぞ。。。(めっちゃ船酔いした)

 

『なんていいんだぼくのせかい』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、荒井良二著作『なんていいんだぼくのせかい』です。こちらの本は、坂爪おすすめ(一年前に茅ヶ崎在住の方にこの絵本の存在を教えてもらった)の最高の絵本のひとつです。誰かに無理矢理にでも読ませたい本は何かと問われたら、私はまず間違いなくこの本と『おくりものはナンニモナイ』と『くまとやまねこ』だと答えると思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、石川県にわたりました ※※※

 

それから それから

こどもが わらっていった

なんていいんだ ぼくのせかい

 

それから それから

こどもが おどろいた

なんておいしいんだ ぼくのせかい

 

それから それから

こどもが はしった

なんておおきいんだ ぼくのせかい

 

なんておおきいんだ ぼくのせかい

 

なんていいんだ ぼくのせかい

 

荒井良二『なんていいんだぼくのせかい』【集英社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

自分を殺してひとに好かれるくらいなら、自分を出してひとに嫌われるほうがずっといい。

船酔いをした後は「もう二度と釣りなんてするか!」とか「もう二度と船になんか乗るか!」とか「もう二度とスパイスの効いたカレーライスなんて食うか!」などと悪態を吐いてしまったけれど、ああ、いけないいけない、俺はまた極端な思考をしてしまっている(また自分以外のなにかのせいにしてしまっている)ことに思い至って恥じた。船や乗り物は好きだ。自然の中で釣りや料理をすることも好きだ。カレーライスを食べることも大好きだ。海面を照りつける太陽は気持ちよく、酔う前に全身を吹き抜けた風は最高に気持ちよかった。海に浮かぶカモメの表情もよかった。船長さんの人柄もよかった。ただ、たまたま諸々のタイミングが悪かっただけのこと、勝手に自分自身で記憶をいじくりまわして「勝手にトラウマをつくる」ような真似をしてしまうことは愚かにもほどがあるのだと恥じた。

 

ひとつのことがうまくいかなかったからといって、すべてのことがうまくいかなかった訳ではない。船酔いをしている最中は絶望的な気持ちに陥り「俺を殺してくれ…」とすぐに死にたくなってしまう私だけれど、陸にあがれた時のよろこびは格別だった。海面は激揺れをしているのに対して、大地は揺れていない。大地は揺れていないというこの当たり前の真実が、これほどまでにもうれしいことだとは思わなかった。私はまた、新しいひとつのことに感謝をできるようになった。揺れのない大地に、いま、こうして立つことができているということ。一度骨折をして寝たきりになったひとが、再び歩けるようになった時に感じるよろこびがあるように、特別なことではない、当たり前のことに対してどれだけ感謝できるのかということが、人生の豊かさを決めるのかもしれない。

 

私は、多分、生きていることをもっと喜べるのだと思う。誰かを抱きしめることができる腕があるということ、どこまでも歩いていける足があるということ、好きな景色を見つめる目があるということ、好きな音楽をとらえる耳があるということ、家族や友達がいるということ、こうしてブログを読んでくれるあなた様がいるということ、明日も朝日が昇るということ、など、そのことをもっとよろこべるはずだ。荒井良二さんの絵本『なんていいんだぼくのせかい』では、生きていることそのものをダイレクトによろこんでいるこどもがちが登場する。その姿がまぶしくて、私は、自分もこんな風に生きたいのだと願うのだろう。他人の目線が気になって何かを躊躇することもあるけれど、自分を殺してひとに好かれるくらいなら自分を出してひとに嫌われるほうがずっといいのだと、私たちがこどもたちを愛するように、好きも嫌いも、喜怒哀楽のすべてを全身で表現をしている人間を、ひとは嫌いになることはできないのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

生きるために必要なもの、それは安心感だと思う。

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女性物の下着はどれくらいの値段がするのですかと聞いてみたいけれど聞けない。昨日、100%シルクの真っ赤なふんどしを購買した。五千円近くもしたので、全身をぷるぷるさせながら購買をした。先日、関東在住の女神K様から「さかつめさんの活動を応援したいので、よろしかったら銀行口座を教えてください」というご連絡をいただいた。こころの奥の方から感動をした私は「ありがとうございます!ありがとうございます!大切に、大切に、大切に使わせていただきます!」と返信をした。すると、その方から「何を言ってますか!無駄遣いをしてください\\٩( 'ω' )و ////」という返信が届いた。

 

私は「うおおおーーー!!」となった。結論から言うと、真っ赤なふんどしに加えて、私はドルツの携帯用電動ハブラシ(デザインがおしゃれ!)・COCOONの100%シルクトラベルシーツ(シルクは全身の病気・邪気を吸い取るらしい!)・日本国産の木枕(首の骨が矯正されて顔面の諸々が良好になるらしい!)・極め付けにはスイマグエース3本(目指せ腸美人的な副作用のない下剤。なう、人体実験中!)の5点セットを購買した。睡眠環境が大きく変わる予感がする。数年前まで、私は、普通の布団で普通に眠っていた。しかし、家のない生活をはじめた頃から「硬い布団で寝たほうが逆にカラダにもいいっていうし!」と開き直り、積極的に床や廊下や適当な路地裏で眠ってきたことが功を奏している。これからの時代は、シルクで野宿だ。薄汚れた生活をしているように見られがちな私の生活は、ソフトからハードに(かつ、ラグジュアリーに)静かなランディングを続けている。

 

あってもいいし、なくてもいい。

家のない生活をはじめた頃、荷物を減らす作業が楽しかった。シャンプーやリンスは荷物になる、さあ、どうしようなどと思っていたら「世の中には湯シャン(お湯だけで頭を洗うこと)なるものをしているひとたちがいる」ということを知り、それならばシャンプーもリンスも石鹸も、宿泊先とか銭湯に置いてあるときだけでいいやということになって荷物から消えた。バスタオルはかさばる。しかし、この国には手拭いという非常に速乾性の高い逸品があることを知る。食事も睡眠も同じで、断食が効果的であるように「食べないほうが逆にカラダにいい(硬い床で寝たほうがカラダにいい)」という情報を事前に知っているだけでも、食べるものがない(まともに寝る場所がない)時も「逆にヘルシー!」と思うことができた(もちろん、そんな風に思えない時もあった)。

 

これらの経験から、私は「あってもいいし、なくてもいい」という境地が事実上最強なのだと思うようになった。現在の私は、静岡県熱海市に家がある。家はあるほうがいい。帰る場所があるという安心感は大きい。しかし「家がなくてもどうにかなる」のだと経験則的に思えることは、現在の私を強く支えている。仮になにかしらの事態が発生して再び家のない生活に戻る日が来ても、仕方ない、またやり直すかというだけの話だ。誤解されると困るが、私は「家はいらない」などと思っている訳ではない。ただ、家がなくてもどうにかなる(家や金や仕事がなくなったからといってすぐに死ぬ訳ではない)のだと知っているということは、生きることに対する不安や恐怖心を和らげる力(安心感を生む力)があると感じている。

 

インドの哲人・クリシュナムルティは「恐怖はそれがいかなるかたちであっても、精神を活動不能にし、感受性を破壊し、感覚を縮めてしまう」と言う。私は、この言葉の意味がものすごくよくわかる。あらゆるものが溢れているこの日本社会において、人間を殺すものは貧困でもなければ家や金や仕事の欠如でもない「自分自身の恐怖心【安心感の欠如】」だということ。私は、家のない生活をはじめるまでは「家(金・仕事など)がなければ生きていけない」ものだと思っていた。しかし、実際に家のない生活をはじめてみると「生きていけないばかりか、あれ、おかしいな、比較的面白いぞ」ということになった。この辺のことは、私よりも五億倍文才に長けた高知県在住の若きカリスマ・イケダハヤトさんの記事をご参照いただけましたら幸いです。

 

【参考記事】坂爪圭吾さんが語る「家をなくしてわかった5つのこと」が面白すぎて価値観ぶっ壊れた : まだ東京で消耗してるの?

 

私を神の道具としてお使いください。

私は、特定の仕事をしていないために暇だ。2017年からは自分自身をフリー素材として開放し、みなさまに自由に好き勝手に使っていただきながら「さあ、なにが起こるのだろう」ということを観察している。先日、横浜在住の整体師Y様にお声をかけていただき、横浜市内のご自宅にお邪魔をした。その時の様子を、Y様がブログ記事にしてくれた。この記事がすこぶる素晴らしいもので、私は、素晴らしすぎる!!!!!と月夜に吠えた(昨夜は月の明かりがすさまじかった)。

 

【参考記事】思考を裏切れ! - 藤山家においでよ

 

ブログ記事内にこんな言葉が登場する。

 

『あー私の技術や知識や感覚ってやっぱり割といいかも…ん…てかさ、“私がやってる”って感覚がない時がやっぱり一番いい状態なんだ!』

 

私は、人間の本領が発揮される瞬間は「自分がある種の管【パイプ】になっている時」だと思っている。愛するマザー・テレサも「私を神の道具としてお使いください」と祈るように、私は、私が文章を書くのではなく「(なにか大きなものに)書かされている」と感じる時の方が、感覚的に、良い文章を書けているような気がする。自分をすごく見せるために書く文章には醜いエゴが宿り、普遍的な力は削ぎ落とされる。しかし、自分のすごさを証明するためではなく『自分を含めた人類全体のすごさ』を賞賛するために書かれたものには、なにか、普遍的な力が宿る。私は「不幸とは分離感」で「幸福とは一体感」だと思っている。俺は俺はとなってしまうほどに、私の場合、周囲から切り離される痛みを覚える。私たちが暮らしているこの世界の素晴らしさ、人類全体の潜在的な美しさを証明しようとする時は、自分も含めた世界全体に対する強い親愛の感覚、シンパシー、ある種の全体感につながるから良いのだと思う(話が大きく逸れてしまった)。

 

五億年振りの家庭の味。

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横浜在住のH様から「よかったら晩御飯を食べに来てください」というご連絡をいただいた。結論から言うと最高で、玄関にはこどもたちが書いてくれた「さかつめさん、ようこそ!」という張り紙が掲げられていた。私はこどもが大好きだ。なぜ走るのか。なぜ叫ぶのか。なぜ跳ねるのか。きっと、ただ、そうしたくなったからそうしただけのことなのだろう。謎に動き続けるこどもたちを眺めていると、ああ、こいつらはいいなあ、常にフルマックスで全開だな!!!!!と、頬が痛くなるほどに笑顔になる。

 

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ここは天国かと思いました(坂爪圭吾はいくらが大好きです!)。愛するマザー・テレサは「この世の中にある飢えは、なにも食糧に限った話ではありません。どれだけ多くのものに囲まれていても、愛に飢えているひとはたくさんいます」と言う。私は、この瞬間、たしかな愛に包まれたのだと思う。愛に包まれた時は「愛に包まれている!」と思う。そして、この愛を誰かと共有したい(誰かと一緒にいくらを食べたい)と思う。ひとは、多分、なにかを分かち合いたいと願う生き物なのだろう。そして、何かを分かち合えたと思える時に湧き上がる感情、その気持ちを「愛」と呼ぶのだと思う(H様、ほんとうにありがとうございました!!)。

 

『おくりものはナンニモナイ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、パトリック・マクドネル著作『おくりものはナンニモナイ(訳・谷川俊太郎)』です。私が愛する絵本はこの世の中に五冊ほどあるのですが、こちらの本は、その中の一冊になります(他には『なんていいんだぼくのせかい』とか『画家』とか『くまとやまねこ』などがあります)。私、買いました。こちらの絵本を買いました。関東在住の女神K様の強力なサポートにより、あまったお金をすべて絵本に交換いたしました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。 

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

そしてふたりは

 

ただじっとして

 

たのしんだ、

 

ナンニモナイを

 

そしてなにもかもを。

 

パトリック・マクドネル『おくりものはナンニモナイ(訳・谷川俊太郎)』【あすなろ書房

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

生きるために必要なもの、それは安心感だと思う。

スイマグエースを購買するために、昨日、新宿区神楽坂駅前にある薬局に足を運んだ。お店の扉を開けると、これほどまでに柔和な笑顔のひとが東京にいたのか!!!!!と度肝を抜かされそうになるほどに、素晴らしい雰囲気を漂わせた女性が迎えてくれた。年代は私の親くらいになるのだけれど、肌ツヤは最高で、白衣を通り抜ける雰囲気がマリアがかっていた。私は、なんだかもう、それだけで「このお店で買う商品はなにがあっても間違いはないだろう」という気持ちになってしまって、軽い世間話を交わしたのちに、お目当の商品を購買してお店を後にした。外に出たあとも、清々しい気持ちは続いていた。あたたかな笑顔に触れるということ、ただそれだけのことがこんなにも持続するよろこびを与えくれるものなのかと、私は、強いうれしさを噛み締めながら熱海に向かう電車に乗った。

 

その後、品川駅構内で職質を受けることになるのだけれど(多分、この時期に裸足で下駄を履いていたからだと思う。警察官の方々も、ひとを疑うことが日常になるのだとしたらそれは大変なことだなと思う)、その後もよろこびは持続をしていた。ひとと違う生き方をしているだけ、それだけのことで「お前は間違っている」と言われることは多い。しかし、自分のこころが「こっちだな」と思ったものがあるのならば、何を憎むでもなく、誰を恨むでもなく、平気な顔で、明朗と(稀に職質を受けながらでも)自分の道を進んでいけばいいのだと思う。生きていれば嫌だなと思う目にあうこともある。それと同じくらいに、これは最高だなと思える瞬間もある。その瞬間の中には、いままでの「いやだな」をまるごと吹き飛ばしてくれる肯定的な力がある。 

 

【過去記事】まずは自分を救え。 - いばや通信

 

生きるために必要なもの、それは安心感だと思う。失敗しても良いという安心感、自分は護られているのだという安心感、ダメな時は元気が出るまでゆっくりしていればいいのだという安心感、など。私にとって、これまでの日々は「自分の中にある安心感を築く」ために必要なステップだったのだと思う。恐怖はそれがいかなるかたちであっても、精神を活動不能にし、感受性を破壊し、感覚を縮めてしまう。マイナスの感情に飲み込まれそうになる時に、立ち戻れる場所を抱くということ。私にとって、たとえばそれは神楽坂の薬剤師さんの笑顔であり、強力なサポートを与えてくれる女神様の存在であり、整体師のY様や家庭の味をご馳走してくれたH様の存在になる。多分、未来に必要なことをやっている限り人間は死なない。こういうひとたちがいる限り世界はきっと大丈夫なのだと、自分は自分が思う最善【自分の純度を保ち続けること】を尽くしていれば、きっと私たちは大丈夫なのだと思う。

 

 

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人生は続く。


413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

「センスのある無駄」をする奴が新しい。

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若干13歳のえりか姫は学校に通う代わりに喫茶店の仕事を手伝い、そこで美味しい珈琲の淹れ方を習得した。現在は「どこでも必要とあらばスーツケースに珈琲道具を詰めて淹れに行きます‼︎イェア‼︎」的なことをはじめていて、今月末のわたり食堂にも遊びに来てくれることになった。私は、こういうことを平気でやってのける若いひとたち(俺もまだ若いけど)のことが大好きだ。えりか姫は神奈川県在住だけれど、私がFacebookで「えりか姫がこんなことをはじめたので誰か連れて来てください!」的な投稿をしたところ、それを見てくれた神奈川県在住のひとが「なんて面白いことをするひとなの!是非、お連れさせてください!」的な流れになり、ああ、こういうのは見ているだけでも楽しいからいいなあと思った。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

最近は「平気」という言葉が好きだ。それと「無駄」という言葉も好きだ。根本的に、私には無駄こそJOYだと思っている節がある。意味とか考えはじめると、あらゆるスポーツ【生活全般】を真っ向から否定することになる。私は学生時代に野球をしていたけれど、誰よりもバットを早く振ったら健康保険が無料になる訳でもないし、誰よりも遠くまでボールを投げたら内閣総理大臣になることができる訳でもないし、誰よりも華麗なスライディングを決めたら地球上の二酸化炭素が減少して緑が蘇る訳でもない。昇る朝日を眺めることも同じだ。美しい朝日を眺めていると気分が良い。ただ、それだけのことだ。気分が良いというただそれだけのことがいいのだ。意味とかじゃない、意味とか考えはじめると「結局、全部無意味なんじゃないだろうか」というところに着地をする。無意味でもいいのだ。無意味でも平気でいる、それこそがJOY【人生を楽しく生きる秘訣】だと思っている。

 

無駄だと思うこと、それこそがJOY。

昨夜、桜木町でおはなを渡した女性が「いまはちょっと仕事がつらくて、あと5年しか生きられないとしたら絶対にいまの仕事は辞めているのですが、先のことを考えるといろいろと思うことがあってふぎゃー!」的なことを話してくれた。私は、軽はずみに「それでは、あと5年を10回やるなんてどうでしょう??」的な提案をした。とりあえず、いま、あと5年しか生きられないことにする。その後、5年後になってもしもまだ生きていたとしたら非常にラッキー、その時にはまた「あと5年しか生きられないとしたらなにをやろう??」と再度考える。これをあと10回くらい続ける頃には寿命も来るからいつでも死ねると思います、的な回答をした。こんな生き方はどうなのだろうか。ダメなのだろうか。多分ダメなのだと思う。でも、多分、私たち(勝手に私たちと括るけれど「いばや界隈のひとたち」)は、そんな感じの生き方をしているのだと思う。

 

このような生き方を刹那主義と切り捨てることは簡単だけれど、多分、違うんじゃないかなと思う。夢や目標をもって、強靭な意志と共にそれの実現に向けて生きることができるひとは素敵だ。それができるひとは、どんどんどんどん、それを続けていればいいのだと思う。しかし、我々のような「固定的な夢や目標をもつこと」が非常に苦手なタイプの人間は、今日の目標が明日の重荷になる。昨日は確かにそうしたいと思っていた、でも、それは昨日の時点の話であり、今日は変わるかもしれないのだという精神的な余白がなければ、息が詰まって死にそうになってしまう類の人間が、この世の中にはいる。こういう人種にとっては、固定的な夢や目標を持つことよりも、瞬間沸騰的に「これをやりたい!」と思ったことを即座にやるという生き方(これをひとは刹那主義だと罵倒することもあるけれど)が似合うのだ。

 

ポイントは「瞬間瞬間に自分を出し切る」ということで、仮に刹那主義的な生き方に見られたとしても、その行為に自分なりの最大限のこころを込めることができたのならば、その行いは必ず未来に繋がる。誤解されると困るが、私は決して自暴自棄になることを勧めている訳でもなければ、開き直って「俺は正しい!」と自分たちの正当性を主張したい訳でもない。ただ、やりたいことがわからないと嘆いて貴重な時間を無駄にするくらいなら、瞬間瞬間に「これをやりたい!」と思ったその気持ちに殉じること、自分の内側から湧き上がる気持ちを大事に扱うこと、それが、結果的に『自分でもまるで想像することのできなかった、ユーモラスで予測不可能な未来に繋がることがある』と思っている。

 

思考は現実化する。

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前回の記事で「おはなもいいけど大根もいいのね!」的な投稿をいたしましたところ、なんと、神奈川県は大船駅でおはなをお渡しさせていただいたN様から「これ!」と、超絶プリチーな大根を2本プレゼントしていただきました。

 

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赤と青のリボンまで…素晴らしい…早速このひとつを先ほど横浜でお会いした女性の方にプレゼントをいたしました。その方はご自宅で整体師をしていらっしゃる方なのですが、坂爪さんもお疲れだと思いますから整体でも受けてゆっくりしていってくださいと、あろうことか私に整体の施術をしてくれた。結果的に「坂爪圭吾は首と腰の骨がバッキバキ」ということが判明し、この時期、冬から春にかけて閉じていた関節が開くときには身体の不調が全面に出やすいからいま調整できたことは非常にグッドタイミングでしたね!ということを聞いて整体師の方に大感謝をした。多分、相性が良かったのだと思う。物凄い気持ちよくて「相性ってあるんだな」と思った。

 

【過去記事】自分を生きる人間を、神様は困らせたりしない。 - いばや通信

 

これは完全に余談になるけれど、昨夜は横浜の日の出町でラーメン屋さんを営む方から「よかったらラーメンをご馳走させていただきますので遊びに来てください」と連絡をもらった。私はラーメンが大好物なので、ものすごい嬉しかった。実際に遊びにいくと、その方は「さかつめさん、前にスマナサーラ長老と対談をされていらっしゃいましたが、どうでしたか?僕の大好きな長老のエピソードがあるのですが、長老は執着を手放すなどというお話をされていらっしゃいますが、新しいiPhoneとかが出ると物凄い興味をもたれるそうなんですよ!」とのこと。私は、一見すると厳格そうな方のこういう一面を知ると「人間味があっていいなあ!」と思う。本当の話かどうかはわからないけれど、私は、こういうところがある(ある種の矛盾を抱えている)ひとのことが好きだ。

 

バリアフリーのその先へ! 車いすの3.11』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、朝霧裕著作『バリアフリーのその先へ! 車いすの3.11』です。朝霧裕さんとは、先日、埼玉市内までおはなを届けにあがった際に、奇跡的な巡り合わせで食事の席をご一緒させていただきました。後日、わざわざ熱海の家にご自身の本を郵送してくださり(手書きのメッセージも添えて!)、私自身も本を読みましたところ「HOW BEAUTIFUL SHE IS!!!!!【なんて素晴らしい女性なんだ!】」と、改めて出会えたことのうれしさを思いました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。

 

※※※ こちらの本は、熊本県にわたりました ※※※

 

「もう嫌だ!」

 

これが私の声なのだと思った。心に心が、なだれ込んできた。そして、一度叫ぶことができると、カラカラのコップに水が戻るように、私に、「私」が戻ってきた。

 

なぜ、自分で選んだのではない不運によって苦しんできた当事者が、さらに苦しみ続けなければならないのか。この身体で生まれたために私が受けてきた差別や偏見は、ひとり暮らしを始めてからも、何度もあった。

 

「ラッシュの時間に車いすで来られては困ります」。

 

「音楽ライブに出るために介助が必要だなんて、わがまま。病院か区役所へ行く以外の外出には介助は付けられませんから」。

 

「障害者は家の中か福祉施設でおとなしくしていることが当たり前」という社会通念を打ち壊すため、私は建物の階段よりも遥かに険しい、差別の壁と闘いながら生きてきた。

 

(難病の身体を持って生まれてきたり、何がしかのハンディを負った人間は、幸せになってはいけないのか。「健常者の温情で生かしておいてやっている」と蔑まれ続けなければならないのか。「生きていて申し訳ない」と萎縮して、一生、家で床を見ながら死んでいけばいいのか)。

 

湧き上がる問いに、ノーを突きつけながら。

 

朝霧裕『バリアフリーのその先へ! 車いすの3.11』【岩波書店

 

 【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

「センスのある無駄」をする奴が新しい。

ここ数日間で東京&埼玉&神奈川&静岡を行ったり来たりしている。先日、静岡県でどうしても会いたかったひとがいたので「おはなを届けにあがってもよろしいでしょうか!」的な連絡をしたら、その方は「明日は仕事が17時に終わるので、その後なら大丈夫です!」とのこと。私はよろこび勇んで(この前の土曜日にもらった青春18切符を片手に)静岡県まで鈍行に揺られ、そのひとが住む町に来た。駅まで迎えに来てくれたK様は、その後、私を回転寿司に連れて行ってくれたばかりか、帰り際に「これ!」と言って、お洒落なブリザードフラワーとお年玉(!)を与えてくれた。私は「なんということでしょう!」と叫び出しそうになり、事実、叫んだ。

 

K様曰く「坂爪さんから連絡が来るまではプライベートでもいろいろなことがあって思い悩んでいたのですが、坂爪さんから『お花をあげたい!』って連絡が来た時に、なんだかいろいろなことがどうでもいいことのように思えてきて、悩みとかそういうものがぜーんぶ吹っ飛びました」とのこと。私は、なんて素晴らしい言葉なのだろうかと感動をした。もしかすると、大概のことは「どうでもいいこと」なのかもしれない。わたしの悩みも、あなたの悩みも、実は「どうでもいいことを悩んでいるだけ」なのかもしれないと思った。どうでもいいことを親身になって一緒に悩んでくれるひとの存在に救われることもあれば、どうでもいいことに対して「どうでもいいじゃないか」と言ってくれるひとの存在も、同じように救いになることがある。

 

私は、多分、完全に後者だ。深刻になることよりも「面白がって一緒に遊んでいるうちに、いつの間にか悩みが悩みではなくなっていた」というような状態を好むタイプの人間だ。ひとつひとつのことに眉間にしわを寄せながら対面することよりも、大概のことは「どうでもいいじゃないか」と割り切ること、意味や価値を求めることよりも「どうでもいいこと、それこそがJOY」と開き直って自分なりの遊びを完遂する。生きていれば、そりゃあ、嫌な気持ちになることもある。しかし、嫌な気持ちになることばかりではないのが人生だ。生きていればいいこともある。嫌な気持ちに包まれている時は、その瞬間を忘れてしまっているだけだ。あんまり先のことを考え過ぎて疲弊をしてしまう前に、こんなことをやってなんの意味があるのだろうかと思い悩む前に、「これだ!」と思った瞬間瞬間に自分を出し尽くすこと。ただそれだけのことが、笑って、泣ける、いくつもの素晴らしい瞬間を運ぶ布石になるのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

自分を生きる人間を、神様は困らせたりしない。

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Facebookで突然イベントの招待を送りつけてくるひとはいったいどういう神経をしているのだろうか、心を込めて個別に連絡をしたほうが信頼を損なわずに済むんじゃないのだろうかと、おお、おお、おおおおっといけない、こんなことを言ってしまっては世間的な好感度がさがってしまうからそとには出さずに自分の胸の中にそっとしまっておこう的なひとりごとを呟きつつ、いま、静岡県沼津市に向かっている。引き続き、呼んでくださる方々がいらっしゃるままにおはなを配る日々を過ごしている。明後日8日(水)の夕刻、横浜在住の方におはなを届けた後にご自宅で一緒に晩御飯をいただくことになっている以外は、何も予定がない。何も予定がない間は熱海か熱海以外の場所におりますので、何かある方も、何もない方も、どなたでもお気軽にご連絡ください。

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

この前の土曜日に、普段、S&Mの女王様と言いますか『緊縛セラピー(一般人を吊り上げることで逆に精神を解放させる営み)』なるものを生&業としてやっていらっしゃる女性E様のセカンドハウス兼事務所的な場所におはなを届けた。おはなを届けてそれでおしまい、かと思いきや「お風呂をご用意してありますのでよかったら寛いでいきませんか?」的なお誘いを受け、私の精神は、軽く緊縛をした。お風呂だなんてこれからいったいなにがはじまるのだろうか、どきどき、どきどき、もしかしたら私はこのままアナザーワールドに突入をしてしまうのかもしれないと勝手な妄&想をしながら誘われるままにお風呂にはいったのけれど、結論から言うと「特製の檜風呂という非常に良い感じの湯船でゆっくりと積年の疲れをとることができた」こと以外には何もなかった。私は、余計な偏見にまみれている自分を恥じた。E様、この場をお借りしてお詫び(懺悔)いたします。

 

続きはリアルで。

インターネットを飛び出して現実世界でおはなを配り続ける日々を通じて「リアルに勝るやりとりはない。実際に面と向かって会わない限りわからないことは確実にある」ということを実感する。数ヶ月前、家庭の主婦の方におはなを届けた際に「おはな以外にもらって嬉しいものって何か思い浮かびますか?」と尋ねたところ、その方は「大根!この時期だと大根だね!」とのこと。私は、ああ、大根は俺も大好きだからいいかもしれない(家庭の主婦的には大根なのか、よし、それならばリボンを括り付けた大根を配り歩いたら絵的に面白いかもしれない)という着想を得た。ひとと話をすると、自分ではなかなか思い浮かばない切り口をもらえるから楽しい。横浜在住の方からは、先ほど、なんだかとっても嬉しくなっちゃうメールをいただいた(多少の修正を加えています)。

 

坂爪さん、おはようございます。


お花の件なのですが、もし◯日か◯日の夕方頃ご都合宜しければお花をお願い出来ませんか(^^)?

 

突然ですが私、片付けや掃除が苦手で人を呼ぶ事も出来なかったのですが、今年に入ってやっと物と向き合う事が出来て家が片付いたのでお花を飾りたくなったのです。


もし宜しければ片付いたおうちに一人目のお客様としてお招きしたいとも思っていまして、、、これからは人を呼べるようにしたいのです。子供達もきっと喜びます☆

 

ご検討よろしくお願いいたします。

 

「素晴らしい!これは行くしかないヤツだ!」とわたしは思った。お金がなくなるその瞬間までおはな(これからは大根になるかもしれない)を配り続けるこの無意味・無価値・無目的なある種の死亡遊戯に、意味や価値や目的を与えてくれるものは受け手の存在【its YOU‼︎】だ。この素晴らしい瞬間(最初のお客様を自宅に迎えるということ)をわたしにも是非見届けさせていただきたいということで、明後日、横浜に行く。このような感じで、自分ではまるで予期をしていない展開のど真ん中にいる(この前の土曜日に、おはなを届けた女性から「何をあげたらさかつめさんが面白くなるだろうかなって考えた結果、これになりました」と、青春18切符【JR乗り放題の切符】を与えてくれた。私は「これは死にに行けということだな」という彼女の真意を汲み取った)ことを、面白いなあと思う。何が起こるかわからない、真の意味で面白い出来事はネットの中ではない、常に現実世界で起きている。続きはウェブでという時代は終焉を迎え、これからは「(はじまりはウェブで)続きはリアルで」になるのだと思う。

 

熱海の家にサルが来た。

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サルは自分を生きている。。。

 

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its our GRANDFATHER。。。

 

『宇宙からの手紙 - Notes from the Universe

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、マイク・ドゥーリー著作『宇宙からの手紙』です。こちらの本は、北海道在住の方から「軽く目を通すだけでホッとしたり、支えになったり、新しい勇気と視点をもらえる大好きな本になりますので、是非、わたり文庫に加えていただけたら嬉しいです」と、わざわざ郵送をしていただいた一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、埼玉県にわたりました ※※※

 

この人の助けになってあげて下さい。どうか少しの間、あなたの手の平を上にさし出して、手の平を見て下さい。その手の平の上にあなたの愛する人のミニチュア版が気持ち良さそうに休んでいると想像してみて下さい。あなたの愛が波のようにこの大切な人をおおってゆきます。あなたの手の平の上で展開するその人の人生を見守りながら、あなたは彼の喜び、彼の悲しみを感じます。彼の心のうちを読んで、あなたは彼に何の要求もせずに、彼の夢がかなうようにと願っています。

 

そしてあなたは誇りと喜びをもって、明るくほほ笑みます。手の平の上の彼はいつも安全で、いつも守られていて、独りぼっちになることはなく、自分の真実を自分で学びとるように運命づけられていることをあなたは知っています。彼の目覚めの日はどんどん近づいていて、同時に彼のとほうもない夢がかない、最高の喜びにひたる日がもうすぐそばまでやってきていることをあなたは知っているので、ほほ笑んでいるのです。

 

よろしい、もうビジョンはそのぐらいで十分でしょう。

 

さて、今この瞬間にも「誰か」が、あなたを自分の手の平の上において、ほほ笑んでいることを想像できますか?

 

では、お元気で。

 

マイク・ドゥーリー『宇宙からの手紙 - Notes from the Universe』【角川文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

自分を生きる人間を、神様は困らせたりしない。

ひとと会うときに悩み相談みたいなことになることがあるけれど、大概の悩みは「得体の知れない『普通』との比較」から起きているような気がする。仕事をするとはこういうこと、恋愛をするとはこういうこと、家庭を持つとはこういうこと、など、得体の知れない謎の雛形【これだけが幸せとされている固定的なモデル】のようなものがまず先にあって、自分をその型に合わせるような生き方をしている限り、つらさを覚えることは自明の理だと思う。何事においても「答えが先にあって自分をそれに合わせて生きる【答えを生きる】のではなく、いろいろな人間がいるのだから、各々が試行錯誤をした結果に見出されるものが答えになる【自分が生きた結果が答えになる】」のだと思う。

 

こうでなければいけないということは、多分、ひとつもないのだと思う。世間的な常識とは違っても、自分がこれだと思った道を進むこと。ひとと同じでないことを悩むこともあるかもしれないけれど、でも、冷静に考えると「ひとと同じでありたい訳ではない」と思っているこの世にひとりだけの自分を感じる。多くの人にとっての幸せが自分にとっても幸せになるとは限らないように、ひとから見ればただのゴミだと笑われるような生き方の中にも、宝石のような輝きはある。だからこそ、自分を責めてはいけないのだと思う。自分を責めることにエネルギーを使うくらいなら、今世はダメになっても構わないから「自分は自分を続けること」「自分は自分の筋を貫くこと」「自分は自分自身になるということ」に、そのままの姿で生きることにエネルギーを使った方がいいのだとわたしは思う。

 

幸せのモデルは無限にある。家庭はなくても金はなくても社会的な肩書きはなくてもいまはまだひとりきりだとしても、多分、幸せになる道は無数にある。これだけがただひとつの幸せになれる道だなんて、幸福とはそんな固定的・排他的・画一的なケチ臭いものではない、もっと多面的なものだろう。だからこそ、否定的な考え方にとらわれちゃいけないのだと思う。自分で自分の目を覆ってしまっては、世界の素晴らしい側面を見落としてしまう。自分で自分の耳を塞いでしまっては、新しい知恵と勇気を与える音楽を聞き逃してしまう。自分で自分の心を閉ざしてしまっては、はいってくるものもはいってこなくなってしまう。常に自分を開き続けること、自分以外の何者かになろうとするのではない、ただ、ひたむきに自分自身であろうとする人間を、多分、神様は困らせたりはしないのだと思う。

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
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居場所とは、場所ではなくて人間だ。

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私の故郷は新潟県で、高校の同窓会などでは「坂爪たちはおかしなことをやっているけれど、あのひとたちの頭は大丈夫なのだろうか」と心配をされているらしい。私は、もう、同窓会に呼ばれるような存在ではなくなってしまったために、久方振りの世間の声的なものに触れて「おお、心配をされている!」と、なんだか感動をしてしまった。 私は、新潟高校という名前の(新潟では一番頭が良いとされている)進学校を卒業した。普通、この高校を出たひとは、今頃はそれなりの企業につとめて家庭を築いて車を買ってこどもを育ててローンを組んで一軒家を建てたりしている。私の最終学歴は高卒で、現在も世間的には完膚なきまでの無職、安定した収入もなければ未来の展望も皆無(多分ローンを組むこともできない)で、ただ、熱海に家はある。この家はプレゼントをしていただいたのものになるために、ローンを支払うために自分の心を撲殺してまで嫌な仕事をする必要はない。

 

昔から「自分を殺して生きるくらいなら、自分を出して死にたい」的な思考に包まれていたので、20代の後半から家のない生活を始めた頃には「もう、今世は諦めよう。ひとと同じであることは捨ててしまおう」と腹を括っていたのだと思う。結果的に、ひとと同じような生き方をすることは現在もまるでできていないけれど、奇跡的にこの瞬間も健やかに生き続けることができていて、なんなら「31歳にして熱海に自分の家を構える」という、世間的・相対的・映画的にラグジュアリー(?)な現状に置かれている。私は、この現象を『奇跡のJ字回復』と名付けていて、私のようなどうしようもない人間でも自分の筋を貫いて生きていれば必ずそれを見てくれている心の優しいひとたちが世界には確実にいて、きっと、人生はどうにかなるようにできているのだということを思う。

 

神様、誕生日プレゼントに家をください。

私の誕生日は4月7日で、一ヶ月後には32歳になる。先日、誕生日プレゼントに欲しいものを尋ねらた時に「家!【東京や大阪や北海道などで自由に使える部屋的なもの】」と即答をした。私は、いま、熱海の家を開放している。鍵はかけていないので誰でも自由にはいれる状態になっており、希望者は宿泊もできる。玄関には自由に出し入れをできる財布【みんなの財布】を掲げていて、家にあるものは基本的に何を使ってもOK、近所に海と山と温泉があるので療養にもそれなりに適していて、伊豆山神社に続く長い参道は足腰を鍛えるためにも最高になる。ただ、熱海の家は都心からちょっと距離があるために、このような家【自由に出入りができる空間】が東京のど真ん中にもあったらいいなあと思った。

 

先日、横浜在住の一歳の赤ちゃんを子育て中のA様と話をした。A様は「ひとりでこどもを育てていると、たまに『うあー!!!』って何もかもを投げ出したくなる瞬間があるのですが、そういう時に熱海に誰でも自由に使える場所、ちょっと逃げ込める場所、そこに行けば誰かがいる(他にも子育て中のおとなたちがいる)という場所があるのだと思うだけでも、ホッと気持ちが楽になることがあります。いまはまだこどもも小さいのでなかなか遊びに行くことができないのですが、いつか、熱海の家にもお邪魔をさせてください」と話してくれた。私は、ああ、これはもう熱海までははるばる来てもらうことを待っている場合ではない、熱海のこの家があなたの家のすぐ近くまで瞬間移動をする必要があるのだと思った。

 

また、昨日お会いした男性R様は「私はいま都内で一人暮らしをしているのですが、家に帰っても誰もいないというのはやはりさみしいものがあります。私は独身なので『結婚したら変わるのかな』などと思ったりもするのですが、仕事などの利害関係ではないところで誰かと話せる時間があるということは、大袈裟な言葉になるけれど気持ちの支えにもなります」的なことを話してくれた。私は、わかる、わかるよと思った。人間の三大欲求は食欲と睡眠欲と性欲と言われているけれど、多分、性欲とは『コミュニケーション欲【誰かに何かを伝えたいと願う感情】』のことなのだと思う。単純にセックスだけを意味するのではない、ただ、誰かとつながりを持ちたいという欲求。私は、ああ、このような時代だからこそ誰でも自由に使える家というものが(熱海などの地方都市ではなく)東京や大阪や北海道などのど真ん中にこそ必要なのではないだろうかということを思った。

 

行き場所をなくした迷い子よ、自分自身に還れ。

私に潤沢な資金があれば「恵比寿にある一軒家を購買しておいたから、これを自由に使ってちょんまげ!」みたいな形で世界にまる投げをできたのだけれど、悲しいことに所持金は5桁だ(明日には4桁になる)。みんなでお金を出し合って家を借りればできないこともないのだろうけれど、なにかこう、そういうのとは違う形で「ちょうどこの場所が使われていなくて困っていたから、有効活用をしてもらえたらうれしい!」みたいな展開を迎えることができたら嬉しいと思う。私を含め、お金はないけれど時間はあるという人間は、多分、無数にいる。そういうひとたちが「カラダで払います!」的な一致団結を見せることができたのならば、も、も、も、もしかすると非常に素晴らしい展開を迎えることができるのではないだろうかと睨んでいる(熱海の家は別荘【セカンドハウス】的な役割として利用をしてもらえたら嬉しい)。

 

都市には都市の魅力があり、田舎には田舎の魅力がある。どちらか一方だけに偏ってしまうと、やはり、もう片方の魅力が恋しくなる。これからの時代は「都市と田舎の多拠点生活だ!」などと叫ぶひとたちもいるけれど、言いたいことはわかるような気がする。私はまだ31歳で、熱海の空気感は素晴らしい(熱海そのものは実は大したことはないのだけれど、私が住んでいる伊豆山という地域は最高!)とは思うものの、誤解を恐れずにいうと「ずっと自然の中にいるとさすがに飽きる。やっぱり刺激が欲しくなる」のが正直な感想だ。私は多動症なので、いろいろな場所に家があると、結果的に移動も促進をされて精神の新陳代謝が活発になる。自然の中で隠居をするのは、60歳を超えてからでもいいのかもしれないと思う。

 

逆に、都心部などで長い時間を過ごしていると「静けさに還れる場所が必要だ!」という気持ちになり、熱海の時間が恋しくなる。私は、様々な刺激や興奮を求めて街中をさまよい、こころの隙間を埋めようとする。しかし、私は、昨日渋谷のベローチェでひとりブレンド珈琲を飲みながら「いつまで俺は刺激を求めてさまよい続けるつもりなのだろうか。退屈やさみしさを覚えてはまた別の刺激を求めるような生き方は、多分、しんどいぞ。本当の充足感は自分自身の中にある。行き場所をなくしてさまよい続ける迷い子【俺】よ、自分自身に還れ」的なことを思っていた。都会のど真ん中だからこそ、過剰な情報や余計な装飾や騒々しい喧騒から少しだけ離れることができる場所、何もなくてもいい、簡素な空間があればいい、ただ、静けさに還れる場所があれば充分に『都会のオアシス』になり得るのだと思う。

 

『太郎に訊け!2 岡本太郎流熱血人生相談』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、岡本太郎著作『太郎に訊け!2 岡本太郎流熱血人生相談』です。岡本太郎さんの言葉は、生きているといいますか、躍動をしているといいますか、無条件に開きたがっているといいますか、明朗で、清々しく、根底に力強い愛情にも似たサムシンを感じることができるからほんとうに大好きです。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、岡山県にわたりました ※※※

 

きみはほんとうは激しく生きたいんだよ。

 

〝ほんもの〟なんてものはない。絶対的な生き方を求め、それに自分を賭けるってことがあるだけだ。

 

血を流してニッコリ笑っている、それが命がけのぼくの遊びさ。

 

どんな女性でも、奥底ではとても優しい。ぼくを許して、包んでくれる。

 

感動的に何かの色、形を眺めるとき、音が胸の底にもりあがってくる。また激しく鳴り響く音に共感するとき、心の中にすばらしい線がはしり、なまなましい形が浮かんでいる。それは同時に、からだ全体を踊りあがらせ、あるいは回転させ、ふきあげさせるような歓びだ。視覚だけとか聴覚だけの感動なんて、ほんとうじゃない。自分のいのち全体、からだ全体で、あらゆる響きと色彩をもってひらききる。いつも、瞬間瞬間に。だからぼくは、ただの音だけ、形だけの気どった音楽会や展覧会には無関心なんだ。ー 岡本太郎『太郎に訊け!2』【青林工藝社】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

居場所とは、場所ではなくて人間だ。

引き続きおはなを配り続ける日々を過ごしている。(少なくとも)今日は東京都内をうろうろしている予定なので、東京でも世界の何処でも「この場所がいまは使われていないから、よかったら見学においでよ!」的な場所があれば、どなたでもお気軽にご連絡ください(普通に「おはなが欲しいです!」というご連絡も常時受け付けております)。3月26日には熱海の家でわたり食堂【0円食堂】を開催する予定なので、熱海の家が果たしてどのような雰囲気のもとに回転をしているのかなど、もしも興味を持ってくださった方がおりましたらどなたでもお気軽に遊びにいらしてください。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

居場所が欲しいとか、居場所をつくりたいとか、そういう言葉を耳にする機会は多い。居場所とは、多分、場所ではなくて人間だ。私にとって、居場所とは「何かを愛する自分の心」だと思っている。自分のことを愛してくれるひと、自分のことを受け入れてくれる場所を求めているという感覚よりも、それは「自分から進んで愛していける何かを見つけること」だと思っている。愛される前に愛することができるようになった時、受け入れられることよりも自分から受け入れることができるようになった時、きっと、そこが自分の居場所になるのだと思っている。

 

新しい何かを求めてさまようほどに、すでに、誰もがあらかじめ自分の内に備わっていたものを見落としてしまう。「行き場所をなくした迷い子よ、自分自身に還れ」というお告げ(?)を受けた私は、多分、これから先に何度も何度もこの言葉を思い出すような気がしている。昔、日本人には3つの心があるのだと聞いた。ひとつは「建前」と呼ばれるようなもの(世間的に使われる言葉)、ひとつは「本音」と呼ばれるようなもの(ごく親しい間柄でのみかわされる言葉)、ひとつは「建前とも本音とも違う、本当の言葉」と呼ばれるもの(誰にも話されることのない、しかし、確実に心の奥底にあるどっしりとした力強い感覚)。生きている限り不安や迷いを覚えることもある。しかし、本当の本当の本当に奥底のところにある、魂と呼ばれる部分は「何があっても大丈夫だよ」という信頼の響きが鳴り響いている。その声に、その音楽に耳を傾けることができた時、きっと、そこが自分の居場所になるのだと思う。

 

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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まずは自分を救え。

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神戸の挙式に参列をする。教会に向かう。音楽がかかり、扉が開く。ウェディングドレス姿の花嫁と白いスーツの花婿が入場をする。それぞれの視点から、ひとりひとりが見つめている。ゆっくりと歩く。この日限りの光の粒子が、空間全体を包み込む。微笑もうとして微笑むのではない、自然な微笑みにあふれる。私はいろいろな気持ちになる。そして、同時に「いろいろなことがあったね、でも、これでよかったんだよね」と思う。いま、兵庫を離れて奈良にいる。昼過ぎには京都に向かい、何も予定がなければ夕方のうちには熱海か東京に移動をする。この日限りの光の粒子を、感じることができたら嬉しいと思う。

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

最近思うことあれこれをまとめます。 

 

1・生き様に宿る説得力は、言葉を超える。

 

幸せそうな花嫁の姿を見て、見ているこちらまで幸せな気持ちになった。どれだけ口先で「頑張れ」と言われることよりも、そのひと自身が頑張っているまさにその姿を実際に目撃した時の方が、私は、よほど「俺も頑張ろう」という気持ちになる。生き様に宿る説得力は、多分、言葉を超える。世界平和を望むなら、まずは自分の平和を実現することだ。世界が平和になれば自分も平和になることができるというのは、多分、順番が逆になるのだろう。昨日から「まずは自分を救え」という言葉が、頭の中でこだまをしている。この命は、生きたがっている【踊りたがっている】ことを感じている。

 

2・深く話を聞くことは、人を導く力がある。

 

誰もがこころの中に詩人を抱えている。この詩人は、騒がしい頭意識が前面に押し出ている時は、何も語ることはない。何も語ることはできない。騒がしい頭意識が黙る時、くだらないおしゃべりを辞めた時、詩人は静かに語り始める。詩人の声に耳を傾けるためには、余計なノイズ【自分を含めた外野の声】から離れる必要がある。静けさの中に身を置いて、自分の中から湧き上がる声に耳を澄ませる。その声は、難しい言葉で語りかけることは滅多にない。常にシンプルな言葉で私たちに何かをささやきかける。たとえばそれは「いまをしっかりと生きるんだよ」とか「捨てなさい」とか「自分の好きなように生きなさい」とか、必ず一度は聞いたことのある言葉だったりする。

 

3・自分のために生きることが、誰かの力になることがある。

 

自分で決めたルールのひとつに「誰かを救おうとしない」というものがある。行き過ぎた正義感や使命感は、他人に押し付けた瞬間に暴力に変わる。私は、誰かに対して「自分のように生きてほしい」とは思わない。ただ、私はこのように生きている【私はここにいる】ということを、誰かに知ってもらいたいとは思う。言葉を通じて、身体を通じて、存在を通じて、生きていることを確認したいと思っている。誰かを変えるため【誰かに認められるため】にエネルギーを使うのではない、ただ、自分を変えるため【自分を認めるため】にエネルギーを使いたいと思う。誰かのためではない、ただ、自分のために生きることが、結果として誰かの力になることがあるのだと思う。

 

4・責任を逃れている間は、自分を見ないで済む。

 

家族でも環境でも社会でも年齢でも性別でも、なんでもいい、自分以外の「何かのせいにしている間は楽なんだよ、自分を見ないで済むから」と思う。誰かのせいにすることを悪いことだとは思わない。誰かのせいにしなければやっていられない時もある、ただ、私は「いつまでもそこにいたくない」と思う。誰かに何かをしてもらえないことを嘆くことより、私は、自分が持っているものを最大限に生かしたいと願う人間が好きだ。他人の生き方にああだこうだと口を出すことより、自分を真剣に生きようとしている人間が好きだ。一般的な常識と比べてどうのこうのではない、ただ、自分は自分であることを引き受けている人間が好きだ。

 

5・花は散ることを嘆かず、雲は流れることを厭わない。

 

ひとに理解を求めるとつらくなることがある。繋がりと呼ばれるものは、横【ひと】にだけ求めるものではなく、縦【天地】に求めてもいいものなのだと思う。昔のひとは「お天道様が見ている」という言葉を使った。これは、悪いことをすればバチが当たるという懲罰的な教えについてだけではない、 どのような状態に置かれたとしても、必ず、あなたを見ているものはあるのだという安堵感にも似た感覚を伝える。樫は樫であることを悩まず、石は石であることを拒まない。花は散ることを嘆かず、雲は流れることを厭わない。そのままの姿で生きる自然は、ただ、そのままの姿で生きる人間の姿【自分自身】を知っている。

 

6・あなたの悲しみに寄り添う。

 

リンドウの花言葉は「あなたの悲しみに寄り添う」だと聞いた。私は、美しい言葉だなと思った。中途半端な励ましの言葉や、安易なポジティブシンキングでは紛らわせることのできない悲しみも、寄り添われることで浄化をする【悲しみが悲しみを中和する】時がある。怒りの奥には、多分、悲しみがある。こころの奥の深いところにある感情に寄り添うことができた時、そこにはポジティブもなければネガティブもない、それがどのような種類の感情であれ、ふたりの間には『深い共感【温もり】』が生まれる。ひとりの人間とひとりの人間がこころを通わせるということは、多分、そういうことなのだと思う。

 

7・無限の網の目の中で「どうにかなる」

 

人間の最大のパフォーマンスが発揮される瞬間は「リラックスをしている時」だと思う。どうにかしなきゃ!このままではいけない、何かをしなくちゃ!という切迫感や緊張感は、カラダとココロを縛る鎖になる。いままでの人生を振り返りながら思う。私の人生は、どれだけ「自分の意のままにコントロールをすることができた」ものだっただろうか。一年前の今頃に、いまの自分の状態を正確に描くことができていただろうか。答えは「否」で、想像を超えた未来にいること(どうなるのかわからないこと)こそ、生きる醍醐味になるのだと思う。自分の力でどうにかするものではない、多分、人生は「自分の力を超えた(無限の網の目が張り巡らされている)範囲で、どうにかなってしまうもの」だと思う。

 

8・知ることと、愛すること。

 

ひとを憎む時、それは「そのひとに対する自分の記憶」を憎むのだと思う。許すことと知ることは似ている。ひとを許せない時、それは「そのひとについて、まだ、知らないことがあることの証」なのだと思う。知ることと愛することは似ている。知ることは許しにも似た感覚を生み、許しは愛情にも似た感覚を生む。誰かのことを悪く言いたくなった時、それは「そのひとについて、まだ、知らないことがあることの証」になる。自分自身に対しても同じだ、自分を責めたくなった時はまだ何か知らなかったこと【自分自身に対する非寛容的な無理解】がある。 

 

9・楽になる道が正解だよ。

 

生きているだけでいい、それ以外はおまけなのだと思う。

 

『アミ 小さな宇宙人』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、エンリケバリオス著作『アミ 小さな宇宙人』です。この本は、わたり文庫の活動(?)をはじめてからというもの、何度も何度も様々な方々から「わたり文庫に加えてください」と託されてきた一冊になります。それだけ、多くの人たちの祈りにも似た希望がたくさん詰まっている作品なのだと思います。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

「起こらなかった問題やこれからもけっして起こりもしない問題を心配して、頭をなやませて生きていくのをやめて、もっと「いま」というときを楽しむようにしなくちゃ、と言っているんだよ。人生は短いんだ。もし現実に、なにかの問題に直面したときはそれに全力であたって解決すればいいんだ。起きもしない巨大な津波がいつか押し寄せてきて、われわれを全滅させるだろう、というようなことを空想して心配しながら生きていくのが、賢明なことだと思うのかい。この「いま」という瞬間を、こんな美しい夜をじゅんぶん満喫しなかったら、それこそなんとおろかなことだろう……。よく見てごらん!小鳥たちがなんのしんぱいもせずにとびまわっているのを、どうして、じっさい起こりもしないことに頭をなやませて、現在を犠牲にしなくちゃならないんだい?

 

「なんてきれいな街灯なんだろう。絵に描いてみたくなるほどだ……。見てごらん。月の光に照らされて、星いっぱいの夜空にシルエットのように、くっきりと浮かびあがったアンテナを……。ぺドゥリート、人生はこれらを健全に満喫する以外に目的はない。人生が提供してくれたすべてのものに注意の目をむけるようにつとめてごらん。たえずいろんなすばらしさを発見することだろう。頭ばかりで考えるかわりに、感じるように知覚するようにつとめてみてごらん。人生の深い意味は思考のもっとむこう側にあるんだ……人生は現実のおとぎ話のようなものなんだ……神がきみにささげた美しい贈り物なんだよ……なぜなら神はきみを愛しているからね……」

 

「人生には少しもすばらしいことがなく、きけんなことばかりでいっぱいだと思いこんでいる。潮騒も耳に入らなければ夜の香りも感じない。歩いていることも、ほんとうに〝見る〟とはどういうことなのかの認識もない。呼吸することも楽しまない。きみは、いまは催眠状態にいるんだよ。否定的な催眠状態だ。ちょうど戦争をなにか〝栄光〟のように感じているひととか、自分の考えに同意しないひとをみな敵だとみなしているひととか、制服を着ているだけでなんだかえらそうになったように感じているひととおなじようにね。これらのひとたちはみな、催眠状態だ。催眠術にかかっていて、深くねむっているんだ。もし、人生はやその瞬間が美しいと感じはじめたとしたら、そのひとは目ざめはじめているんだ。目ざめているひとは、人生は、すばらしい天国であることを知っていて、瞬間、瞬間を満喫することができる……。」ー エンリケバリオス『アミ 小さな宇宙人』【徳間文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

10・まずは自分を救え。

結婚式の時、欧米人の牧師さんが新郎新婦に祈祷の言葉を授けた。「生きるときに大切なものは3つあります。それは、とても覚えやすい言葉でどのような時でも思い出すことができます。その言葉とは、『や・ゆ・よ』の3つです。や、は『安らぎ』です。ゆ、は『赦し』です。よ、は『よろこび』です。安らぎと、赦しと、よろこび、この3つが途絶えることのない、愛情と祝福のある日々を築いていけますように祈ります」と、牧師さんは祈る。私は、おお、なんだかいい言葉を言うじゃないか牧師さん!!などと思う。安らぎと、赦しと、よろこび。この言葉を意識するだけでも、不思議と安らぎが静かに湧き上がる、自分から赦していける人間になりたいのだと、よろこびにあふれた日々を送りたいのだと言う気持ちになる。

 

自分の悩みも弱さも最悪な部分も、さらけ出した瞬間にチャームポイントに変わる。さらけ出された【許された】弱さを見て、勝手に救われるひともいる。このままじゃだめだと思っているのは自分だけ、自分には「ない」と思っていた部分でさえも、誰かの「ある」を導き出す力になることもある。強さを誇るひとではない、自分は弱いと言えるひとほど、揺るぎない強さを得ることがある。湧き上がる感情を「このままじゃダメだ!」と打ち消そうとするのではなく、認めることの中に安らぎが、許すことの先によろこびが、腕を広げて待っていることがある。

 

悩むのも不安になることも当たり前のこと、弱さも、淋しさも、全部それでいいのだと思う。元気な時に「このままで行こう」と思うことは簡単だけど、元気のない時も、元気のないままで「このままで行こう」と生きる姿勢が、自分の中心を生きる芯になる。格好良い部分だけじゃない、格好悪い部分も含めての自分【世界】なのだと、おおらかな気持ちを取り戻すことができた時に見上げた空は、この日限りの光の粒子に囲まれている。安らぎも、赦しも、よろこびも、すべては最初からそこにあることを知る。

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

生きることを諦めてしまわぬように。

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小沢健二の「天使たちのシーン」を聴きながら道を歩く。熱海駅から東海道新幹線に乗って、兵庫県西明石を経由して、奈良県大和郡山市に向かっている。明日は奈良市内で開催されるイベントに登壇(?)をして、明後日は結婚式にご招待をいただいたので私服で参加をする。わたしはスーツを持っていない。過去に結婚式に参加をした経験もないので、今回で結婚式バージンを卒業することになる。また、3月1日から「おはなをあげに、いかんばなんね」を再開する。幸せを祈る、幸せを誓う、幸せになるということ。天使たちのシーンという曲の最後に『神様を信じる強さを僕に。生きることを諦めてしまわぬように』という歌詞がある。わたしは、この曲のこの歌詞が何よりも好きで、時折思い出したように口にしては、ああ、ほんとうにそうだなあという気持ちになる。

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

先日、熱海の家で「わたり食堂【0円食堂】」を開催した。宮城や長野や栃木や愛知や広島や福岡や台湾など、全国各地から足を運んでくださる方々がいた。多分30人以上は出入りをしていたのだと思う。が、大勢のひとで賑わっている場所があまり得意ではないわたしは、屋外で本を読むか日光浴をしているか部屋の片隅で膝を抱えたりしているか、している。部屋の片隅で膝を抱えていると、同じように「部屋の片隅で膝を抱えたがりがちなひと」と出逢う。わたしは、こういうひとたちと比較的静かにゆっくりと落ち着いた状態で話をすることが好きで、こういうこと(ひとが集まるようなイベントの企画)を主催しているのかもしれない。

 

神様を信じる強さを僕に。

わたり食堂の会場には、様々な食材が集まった。柑橘類やいちごなどのフルーツ、自宅で作った大量のカレーを鍋ごと持って来てくれた方や、豚の肩ロースのカタマリ3キロ、パスタや漬物や炒めものや煮物やプリンや手作りケーキやお菓子類などの手土産など、食べきれないほどの料理がテーブルの上を彩った。基本的にみなさまの善意で成立をしているのだけれど、料理以外にも「自分にできること」ということで、占いやマッサージやカウンセリングなどをしているひとたちもいた。すべてが自然発生的で、特別なプログラム(何時になったらこれをやって、その次はこれをやるなどの予定)も一切ないために、ほったらかしにされているカオスティックな状態の中で、誰もが好きなように時間を過ごしている。

 

わたしはこどもが好きだ。だから、わたり食堂にこどもたちが来てくれると楽しくなる。謎の叫び声や突拍子もないダッシュや諸々のアクションを見ているだけで「おお、生きているな」と静かな感動を覚えるし、お母さんの言うことをいい感じに聞かない様を見て「これからもお母さんの言うことを聞くなよ!(お母さんのことは大事にしつつ、言うことは聞かないというこの絶妙なバランスを掴めよ!)」などと念じたりもする。また、みんなの前で口数が多い人よりも比較的口数が少ないひとを見つけては「このひとは何かを持ってそうだ」と勝手に見抜き、わたしは、そういうひとを見つけてはそれとなく外に導き出して対面で話せるように仕向けることを好む。

 

参加者の若い女性の方が「わたしは会社で働いているのですが、いま、岐路に立たされているような気がしていて、バリバリ目標を立ててそれを目指して『成長!成長!』みたいな雰囲気が周囲にはあって、でも、わたしはあまり成長がどうのというよりは簡素でも穏やかな日々を過ごせたらいいなと思っているのですが、成長思考の環境にいるとそれについていけない自分はダメな人間なんじゃないのかなって思い悩んでしまうことがどうしてもあって、あっ、ごめんなさい、話していたらなんだか涙が出てきそうになっちゃいました」などと話すものだから、帰り際、全人類を代表してわたしは彼女にハグをした。そして、非常に阿呆な言い方になるけれど「俺、いま、すごいいい仕事をしている」と思った。このひとと出逢うために今日という日はあったのだ、と、そう思える瞬間の中には人生を肯定する力がある。

 

『坂本布なぷきん製作所(普通の日用)』

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今回のわたり食堂には、子宮委員長はるちゃんが遊びに来てくれた。幅広い年代層の女性陣に大人気の彼女は、当日も参加者のみなさまに囲まれて「御まん託」なるものをエンドレスで授け続けていた。はるちゃんが一言言葉を発する度に、周囲の女性陣が熱狂をする。わたしは、それを側から見ながら「すげえな」と思っていた。そんなはるちゃんが、わたり食堂のお土産に布ナプキンなるものを二枚もご贈呈してくださった。男のわたしがこれを配布するのもどうなのかなとは思うものの、先着2名様限定になりますが送料無料でお譲りいたします。これもある種のひな祭りの贈り物、ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。

 

※※※ こちらのなぷきんは、新潟県にわたりました ※※※

 

『人生は廻る輪のように』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、エリザベス・キューブラー・ロス著作『人生は廻る輪のように』です。こちらの本は、世界的ロングセラー『死ぬ瞬間』で死の概念を変え、生涯を通じて「生と死」の考察に深いまなざしを注ぐ精神科医キューブラー・ロスによる、最初で最後の自伝になります(本書解説より引用)。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

ヒトラーが各地につくった悪名高い死の工場のひとつ)マイダネックであたまに浮かんだ疑問のすべてにたいして、ゴルダはゴルダの流儀で答えてくれた。わたしはマイダネックにくるまで、人間の潜在的な凶暴性について、ほんとうにはわかっていなかった。だが、貨車に山積みされた赤ん坊の靴をながめ、微かなとばりのように空中に漂う死の異臭を嗅ぎさえすれば、人間がどれほど残虐になれるものかは容易にみてとれた。それにしても、あれほどの悲惨な経験をしながら憎しみを捨て、ゆるしと愛を選んだゴルダのことは、なんと説明すればいいのだろうか。

 

ゴルダはその疑問にこういって答えてくれた。「たったひとりでもいいから、憎しみと復讐に生きている人を愛と慈悲に生きる人に変えることができたら、わたしも生き残った甲斐があるというものよ」

 

わたしは了解し、来たときとは別人になってマイダネックをあとにした。人生を最初から生きなおすような気分だった。ー エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』【角川文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

生きることを諦めてしまわぬように。

西明石駅から徒歩20分程度の場所にある青龍神社に足を運ぶ。わたしは、昔から自分の背後に青龍のような存在を感じていて、青龍は常に「金の心配はするな」と囁いている。つまらない真似さえしなければ、衣も食も住もあらゆることも、大概のことはどうにかなる。だから、余計な心配をするくらいならお前がやりたいと思ったことを貫け。恐れることは何もない、ただ、お前の好きなように生きなさい。そんなことを青龍は囁き、わたしは、青龍の存在を盲信し続けてここまで生きてきた。現在の年齢は31歳で、これまではどうにかなってきたけれど、これからもどうにかなるのかはわからない。もしかしたら、来月の今頃にはどこかの路上で野垂れ死んでいるのかもしれない。しかし、物凄い大きな意味では「何が起きても大丈夫なのだ」という妙な安心感が根底にあり、この場所に戻ってこられる限り平常心を維持することができる。

 

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青龍神社の空は青く、空気は澄み渡っていた。

 

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小沢健二の「天使たちのシーン」を聴きながら道を歩く。神様を信じる強さを僕に。生きることを諦めてしまわぬように。わたしは、この歌詞がとても好きで、まるでおまじないを唱えるように何度も何度も口にする。これまでの日々を生きてきて、わたしは、いまだ生きることの意味をわからないままでいる。しかし、生きたいと思うことの意味ならば、少しだけわかってきたような気もする。私の場合、それは「好きなひとに好きだと言うため」だ。平易な言葉になるけれど、でも、これしかないんじゃないだろうかとさえ思う。満開の桜が、春の訪れを告げるている。春が来て、氷が溶けて流れ出すように、春が来て、蕾が顔を出すように、東の空から太陽が昇り、一日のはじまりを告げる。わたしは「今日も生きよう」と思う。

 

 

人生は続く。

 

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「頑張って」を超える言葉。

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誕生日の数字を足して『7』になるひと(7日、16日、25日生まれのひと)はドラゴンテイル【頭がない尻尾だけの龍】と言われるみたいで、正道よりも覇道を好み、感情や行動がグワングワンとしているために周囲や世界を震撼させる。誕生日の数字を足して『4』になるひと(4日、13日、22日、31日生まれのひと)はドラゴンヘッド【頭だけで胃袋のない龍】と言われるみたいで、王道こそ命であるものの、食べたいもの・行きたい場所・やりたいことがあり過ぎて消化不良を引き起こしているなど、尽きることのない貪欲さを意味する。

 

私は4月7日生まれなのでドラゴンテイルということになる。この話を教えてくれたMAYUCHAPAWONICA姫も8月16日生まれなのでドラゴンテイルということになる。ドラゴンテイルの特徴に「こだわりや執着は少ないけれど、まるで統制が取れていないカオス野郎になりがち」的なものがあって、だからこそ、頭意識でガッチリ統制を取ることが得意(やりたいことがたくさんあるけれど体が足りなくて困っている)ドラゴンヘッドとの相性は抜群だと言う。そのような話を昨夜渋谷のカフェで交わしていて、私は、誕生日の数字を足して『4』になるひとに混沌から救い出して欲しいと思い始めた。

 

【CHAPAWONICAとは?】まゆの懺悔部屋♡かみさまでごめんなさい - CHAPAWONICA BLOG ~らぶ&ぱぽぷ~

 

古い自分を殺す。

新しい自分になるためには古い自分を一回殺す必要があるというのは世の常で、多分、延命措置に未来はない。私の行動基準は単純に「面白いかどうか」というもので、面白そうであれば留まり、あんまり面白くなさそうな時は離れる。長居はしない。この「長居はしない」という言葉は最近のキーワードで、どれだけ素晴らしい環境や人間と一緒にいても、だらだらとした時間を過ごすほどに張り合いは失われる。さっとあって、さっと刺激を交わした【生きていることを確認した】後に、では、また会いましょうと言った感じで颯爽と別れるくらいが調度良い。

 

最近の私は、自分自身に「平和ボケで停滞をしている」ように感じている。平和にあぐらをかいている私は、多分、この辺りで一回自分を殺す必要がある。自分を殺すということは「自分の中でタブーとされていることをやってみる【自分が恐れていることをやる】」ということと同義で、私は、果たして何を恐れているのだろうかと自分を振り返ってみたけれど何も見つからなかった。現代社会を暮らしていると「金とセックスと死」の話題はタブーとされがちだなあと思うことはあるものの、私自身はこの辺のことには(いまのところは)あまり葛藤を抱いていない。その代わりに『家族』というキーワードは非常に面白くなりそうだなと感じることはある。

 

人間関係の悩みの9割は「家族(特に両親)との問題が解決していない」ことが原因で引き起こされているのではないだろうか、などと思うことがある。逆に言えば、家族との問題が解決すればひとは自由になるのかもしれない。金などの問題は表層的なもので、金を通じて湧き上がる「親の期待」であったり「親から刷り込まれた価値観と自分の本音とのすれ違い」などが、そのひとを苦しめているのではないだろうか。『親は親。自分は自分。以上!』みたいな感じに考える(あるいは、家族に対してずっと言いたかったけれどまだ言えてないことを勇気を出して言う)ことができたら楽にはなると思うけれど、多分、そんなに簡単にはいかないのだと思う。

 

現代版の子連れ狼

稀に「現代版の子連れ狼になる」なんてどうなんだろうと空想をすることがある。私の動物占いは『狼』で、群れをなすことよりも単独で動くことを好む。そのような態度が、ある種の冷たさとして周囲から受け取られることもあるけれど、代わりに「こいつは!」と思った人間には集中的に深い愛情を注ぐ。そんなことはどうでもいい話ではあるのだけれど、私は、元来実験的なことをするのが好きなタイプの人間なので「こどもをこんな風に育てたらどうな風になるのだろう」という興味がある。こんな風に、というのはつまり「赤ん坊の頃から父親におぶられながら全国各地を流転して、都度都度、その地域に『期間限定の母親』を見つけて一週間くらい放置をして世話をしてもらう」という育ち方だ。

 

私は、多分、自分だけの力で生きるつもりがないのだと思う。どのような形であれ、こどもが生まれた後も「今回は友達Aに一週間位預けて、次回は友達Bに一週間位預けて、その次は佐渡島に流刑をしよう」などと考える気がする。いろいろなひとに育ててもらった方が面白いこどもになるような気がするという言い訳を盾に、自分の元から手放していくのだと思う。この「自分のもとから手放す」というのが最近のキーワードで、多分、自分自身さえも「自分のもとから手放す」ということこそ、私は、(非常に伝わりづらい話だとは思うけれど)自分を殺すということなのかもしれないと思う。自分を守るのではなく自分を投げ出す、自分を捧げる、自分を自然の真ん中に放り投げることが、結果として『自分が生きる』のではないだろうかと思うことがある。

 

同時に「全国各地に自分のこどもが総勢100人位いたらどうなるのだろうか」と空想をすることもある。これは、大量の妻を抱えたい欲求があるということではなくて「自分のこどもとかあのひとのこどもとかそういう垣根を取っ払って、全部『みんなのこども』でいいんじゃないだろうか」と思うからです。この辺のことは非常にセンシティブな話題になるので、自分でも無意識の内に周囲のひとびとをざわつかせたり時には傷つてけしまう(魔女狩りの対象になる)こともあるから迂闊には口にすることはできない。ただ、自分が、自分が、となってしまうほどにひとは自由を失ってしまうもので、自分も他人も本質的には差異のない『全部が自分なのだ』と腹の底から感じることができた時、ひとは自由になるのだと思う。金とセックスと死だけではない、私の次の興味は『家族【家族の再構築】』にあるのだと思う。

 

【過去記事】 わたしの教育方針「10歳成人説」 - いばや通信

 

『多生の縁』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、玄侑宗久著作『多生の縁』です。玄侑宗久さんの著作をはじめて目にしたのですが、玄侑宗久さん、非常に謙虚で寛容でお坊さんなのに説教くさいところがまるでなくて、こちらの本は非常にグッドフィーリングでありました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、パリにわたりました ※※※

 

玄侑宗久宮沢賢治が蝋燭の灯芯のようにわが身を削って世の中を照らそうとした姿は偉大だと思うんですが、彼の『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』という言葉は、人を縛るのではないでしょうか。自分が幸福だという感覚をまず持つことが、大乗、小乗にかかわらず、先だと思うんです。(中略) 私はお釈迦さまが不害の説法で、パセナディー王から『世の中で一番可愛いのは自分だと考えていいんですか』と訊かれて、『間違いない』と答えた話が大好きなんですね」

 

梅原猛「それは自利ですね」

 

玄侑「おそらく、世界の宗教家で、自利をあんなにすっきり肯定した人はいないだろうなと思います」

 

梅原「西洋哲学だと、プラトンは自己犠牲を重視するのに比べて、アリストテレスは『幸福論』でも書いているように、まず自分の幸福を人に伝えるべきだと主張している。お釈迦さんに似ているところはありますね」

 

玄侑「日蓮さんは、数々の法難に遇って、真理はそう簡単に理解されるものではないという考え方だった。キリストも、現世であまりいい目を見ていないですね。そういう生き方にこそ真理があるという考え方も成り立つと思いますが、いっぽうお釈迦さまが八十歳まで悠々と生きた、その大きな流れの中にこそ真理があるんだという考え方も成り立つと思う。私としては後者にこれから流行ってほしいと思っています」ー 玄侑宗久『多生の縁(梅原猛氏との対談部分から引用)』【文春文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

「頑張って」を超える言葉。

人間は、多分、頭と心と腹の三つで感じている。頭は損得勘定で、心は居心地の良さやテンションの高低、腹は静けさと共に腑に落ちる確信や覚悟や「ああ、自分はこういう人間なんだ」というある種の諦め。頭で考えることは周囲の意見に流されやすい。心で感じることは世間の感覚に流されやすい。腹に落ちることは流されない。自分の中心にあるものだから揺るぎがない。私は、ひとの話を聞くときは「このひとの言葉は頭から出ているものだろうか、それとも腹から出ているものだろうか」ということを無意識の内に聞いているのだと思う。頭から出てくる言葉は、どれだけ素晴らしいものであろうとも心に響くことは滅多にない。腹から出てくる言葉は、表面的にはどれだけネガティブなものであろうとも、ある種の温もりを覚える。それは「生きている【このひとの言葉は生きている】」という温もりだ。

 

先日、とある女性と話をした。その方は3月いっぱいで現在の会社を辞めて、4月からはフリーランスで独立をする予定なのだけれどお金のことや将来のことを考えると時折すごい不安になることがあると話してくれた。その後、すぐに彼女は「大丈夫、大丈夫、日本だから餓死をすることはないし、不安はまだ起きていないことを先回りしているだけのことだし、助けてくれるひともきっとたくさんいるし、うん、大丈夫だと思っていれば大丈夫ですよね!」と自分の本音を訂正した。私は、彼女が自分に言い聞かせている激励の言葉は全部頭から出ているもののような気がしたので、ポジティブな言葉の中にネガティブな響き【苦しさ】を見た。きっとつらいのだろうなと勝手に思い、肩の力を抜くことができますようにと勝手に祈り、頭から出てくる言葉でカラダを満たしてしまうことで、結果的に腹から出てくる『本当の言葉』が湧きあがる瞬間を奪うことにはならないで欲しいなどと勝手に願った。

 

「頑張って」を超える言葉はあるだろうか。いま、何を言葉にして伝えたら、目の前にいるひと【そして自分自身】の気持ちを楽にすることができるのだろうか。いつも前向きでいなければいけないという思いは、ある種の罪悪感や強迫観念の鎖となって、そのひと自身を固く縛り上げてしまう。私は、頑張らないでいいと思う。しかし、そんな言葉を言ったところで虚しく響くだけだ。それならば、どのような言葉を選べばいいのだろうか。何を言えばいいのだろうか。彼女と別れた後、夜の街を歩きながら、私の中にひとつの言葉がふわっと浮かんだ。その言葉は「全部、それでいいよ」という言葉だった。悩むのも怖いのも不安になることもおかしいことじゃない、弱さでもない、醜さでもない、全部、そのままでいいのだ。自分の中にあるものを打ち消そうとするのではなく、それがあるならば、それがあるまま、ありのままの姿で生きようとするひとの勇壮な生き様が、見るひとのこころにもまた『生きていることの温もり』を生むのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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遊びをせんとや生まれけむ。

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多動症が爆発をして、熱海の家を飛び出しました。じっとしているのはおじいちゃんになってからでいいのだと。風邪だろうが何だろうがやりたいと思ったことはやる、行きたいと思った場所には行く、会いたいと思ったひとには会うのだと。必要なことは、私の場合、ゆっくりすることなんかよりも「希望」なのだと。楽しくなければ、笑いがなければ、遊びがなければ生きていけないのだと。という訳で、いばやのみなさまが奇跡的に無料で使わせていただいている千葉県船橋市にあるWi-Fi完備の一軒家にお邪魔をしています。いばやのみなさまと同じ時間を過ごすと、端的に「元気」になります。楽しそうに生きているひとたちは、その空気感に触れるだけで(時には布団の中でずっと横になっているよりもずっと)元気になります。

 

【録画ラジオ】自分ファースト【ちあき&ほしな&まゆちゃぱうぉにか&さかつめ】 - TwitCasting

 

昨夜、いばやの共同代表でもあるMAYUCHAPAWONICA姫から、お告げが出ました。現在、いばや(「やばい」を逆から読んだだけの名前のユニオン)は有志5〜10名程度の曖昧な人数で構成をされていて、MAYUCHAPAWONICA姫は神様的なポジションにいます。我々男性陣は、MAYUCHAPAWONICA姫のお告げを翻訳する・拡散する・体現する(MAYUCHAPAWONICA姫が神様なら、坂爪圭吾はバイブル的な存在になる)ことが役割になります。昔は、卑弥呼様的な女性が神様からのお告げをいただき、側近の男性陣がそれを翻訳して下々の者たちに伝えるみたいな風習(?)があったけれど、多分、それの現代版みたいなものなのだと思います。

 

MAYUCHAPAWONICA姫の名言。

MAYUCHAPAWONICA姫には、過去にも「宇宙の摂理として新しいことをやろうとしている人間は死なない」とか「やばいことをやっていれば、それを面白がってくれるやばいひとたちが現れて、化学反応が起きて、結果とんでもないわっしょい状態になる」とか「未来に必要なことをやっている限り、このひとたちを死なせてはいけないという謎のパワーが生まれるから私達は死なない」など、幾つもの素晴らしい発言があります。今回、MAYUCHAPAWONICA姫から出てきたお告げは「そんなことより、遊ぼうよ」というもので、我々男性陣は、はい、承知いたしました(問答無用で従わせていただきます)という流れになりました。

 

頭ではなく、カラダで突破する。

MAYUCHAPAWONICA姫は私と同じ31歳(同じ新潟高校出身だけれど当時はひとことも話したことがなかった)で、姫は、30歳になると同時に突然踊り始めました。姫曰く「大概の悩みは踊れば吹き飛ぶ」ということで、頭意識でああでもないこうでもないとウジウジ悩んでいてもあんまり意味がないから、とりあえず踊ろう【遊ぼう】。頭ではなく、カラダで突破するのがいいんじゃないかしら、と、そういう感じのことを話してくれました。姫はかわいい。太陽のような、ひまわりのようなMAYUCHAPAWONICA姫がそんなことを言うと「なんだかそんな風な気がする!」という感じになります。

 

私自身も、非常にありがたいことにトークイベントなどに呼ばれてみなさまとお話をさせていただく機会があります。稀に、会場全体がお悩み相談(あるいは何かしらの被害者の会)みたいなことになってしまう時があって、私は、こんなことを書くのは良くないことなのかもしれないけれど「うんざりだぜ!」と思います。みなさまのお悩みを聞いていると、お悩みそのものよりも「声が小さいなあ」とか「背筋をもっと伸ばせばいいのになあ」とか「ウダウダ考えていないで一日三万歩くらい歩けば解決するんじゃないだろうか」とか、そういうこと【頭ではなく、カラダで突破すること】に思いを巡らせてしまいます。

 

MAYUCHAPAWONICA姫は、過去に姫自身のセックスレスの克服体験を華麗な記事にまとめてくれました。姫の発見は「セックスレスの唯一最大の解決方法はセックスすること!」ということで、みなさまにも是非ご覧いただけましたらうれしいです。頭で突破できないことは、カラダを使って突破する。これ、非常に素晴らしい考え方だと思うのですが、みなさまにはどのように響きますでしょうか。大切なことだと思うので、もう一回言います。頭で突破できないことは、カラダを使って突破する。私の言葉で書くことよりも、是非、姫のリアルな質感が伝わってくるこちらの記事をご覧いただけましたら幸いです。

 

【参考記事】【016】セックスレスの唯一最大の解決方法はセックスすること!20160825|MAYUCHAPAWONICA |note

 

そんなことより、遊ぼうよ。

今回はひたすらMAYUCHAPAWONICA姫のことを書きたいのですが、現在、MAYUCHAPAWONICA姫は家のない状態に置かれています。私が説明をするのもどうなのかなとは思うのですが、最近まで同棲をしていた彼氏と別れて姫は家のない生活を選びました。現在、姫は、相棒のセクシーフォトグラファーちあき姫と一緒に、軽のバンに乗って全国津々浦々を移動しまくる日々を過ごしています。ゆっくり横になりたい時は、友達の家や、船橋の家など、適当な場所を見つけては持ち前の「寄生力」を発揮して、どこにいても、誰といても、誰よりもリラックスをして気の抜けた時間をお過ごしになられます。

 

姫にとっては、家がないことは問題になりません。多分、家がなくなるということは、多くの方々にとって問題【死活問題】だと思います。いばやのみなさまの特徴として、多分、問題を問題視しないという共通点があるような気がしました。我々には、セクシーフォトグラファーのちあき姫を除いて誰1人まともな収入がありません。出会う方々からも「いったいどうやって生活をしているの」と頻繁に問われます。私達は、自分でも説明をすることができないので「どうにかなっています」としか答えることができません。まともな収入はないけれど、普通とはかけ離れた生き方かもしれないけれど、でも、生きてる。私は、この「でも、生きてる」という言葉の肯定感が大好きなのですが、いろいろダメでも、でも、生きてるということは「大丈夫だ」ということの最大の証明ではないのだろうかと思うことがあります。

 

多分、問題の対処法には「問題解決型」と「問題なかったことになる型」の二種類があるのだと思います。我々は完全に後者で、家がないなら家がない状態を遊ぶ、金がないなら金がない状態を遊ぶ、そして、いつの間にか遊んでいるうちに問題が問題ではなくなった時に、ああ、別に気にすることは何もなかったのだなという境地に達することが頻繁にあります。問題を問題視しない。そのために必要なものは多分ふたつ、ひとつは「自分の現状を面白がるユーモアのセンス」と、それともうひとつの方がかなり重要になると思うのですが「実際に自分の現状を面白がって生きているひとを目の当たりにすること」だと思います。

 

遊びをせんとや生まれけむ。

私の好きな言葉に「遊びをせんとや生まれけむ」というものがあります。生きていると様々な方々に出会いますが、何をするも自由、悩むのも自由、苦しむのも自由、悩まないのも自由、苦しむことをやめることも自由、結局、誰もが「そうしたいと思っていることをやっている」のだと思うようになりました。これは、もう、趣味と同じ話なのだと思います。ひとには様々な趣味があるのだから、誰かの趣味を変えようとすることよりも、趣味の合うひとと一緒にいればいいのだと、そういう風に思うようになりました。

 

私はいま千葉県船橋市にいて、これから暇なので東京に向かいます。今日も明日も明後日も何も予定がありませんので、今日は東京で「おはなをあげる」をやりたいと思います。内容はシンプルで、私はおはなが好きなので、おはなを欲しいと言ってくれる方のもとに無料でおはなをお届けにあがるというだけのものになります。隙間時間には、先日、高知県でJCBギフトカードを8000円分(!)もいただいてしまったので、適当な百貨店などで何かしらの品々と交換できたらいいなあなどと思っております。基本的にはどこにでも行く(本音を話すと誰かにハワイに連れていってほしい)ので、何かある方も、何もない方も、どなたでもお気軽にご連絡ください。

 

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自分の人生に停滞感や閉塞感を覚えている時、それは「遊びが足りていない」可能性が高いのだと思います。私は、気がつくとすぐに正しさを求めてしまう人間です。風邪の時はどのように過ごすと「正しい」のか、何もやることがない時は何をするのが「正しい」のか、初対面のひとと出会う時はどのような対応をするのが「正しい」のか、など。しかし、ひとのこころを動かすものは正しさよりも「楽しさ」で、遊びがなければ余裕がなくなる。潤いがなくなり、瞳もこころも乾いてしまう。MAYUCHAPAWONICA姫の「そんなことより、遊ぼうよ」のお告げを胸に、これからも踊り続けたいと思いました。

 

 

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人生は続く。

 

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手に入れるより「手を離す」こと。

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土に還るまでが人生です。引き続き風邪をこじらせておりまして、元来多動症的な私は「これもひとつの修行なのだろう」 ということで、じっとしている練習をしているのですが見事にダメです。ギターを弾いたり部屋の掃除をしたりこうしてブログ記事を書いたりしながら(たまに寝る)時間を過ごしています。いまは熱海の自宅にいるのですが、先日、東京の桜新町駅前界隈で偶然目にしたサクラが綺麗でした。美しい風景を前にすると「うわあ」となって瑣末なこととか自分の風邪のことなど吹き飛んでしまう、あの、一瞬の風になれている感覚が好きです。

 

少し前の記事で「旦那さんは五人くらいいた方がいい」みたいなことを書きました。すると、ひとりの男性から「なんでも誰かにやってもらうことばかりを期待する女は嫌いだ」というご意見が届きました。私は、別にそういう意味ではないとは思うのだけどなあ、とは思ったもののその瞬間は何かを伝えるエネルギーが枯渇をしていたので、特に何も言いませんでした。ひとつ思うことは「何のための所有なのか」という問いで、本来は幸せになりたくて何かを手に入れたり何かを求めたりするはずなのに、やがて『手に入れたそのものによって、逆に自身の自由が制約されてしまう』ことは往々にしてあるということです。

 

【過去記事】今世は諦めてください。 - いばや通信

 

誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができる。

熱海の家の近所にはたくさんの鳥や猫や猿が生息をしていて、この時期は、梅の花やボケの花に鶯色をしたメジロが遊びに来ます。明け方になると大量の小鳥たちが囁きはじめ、私は、毎朝その音で目覚める日々を気にいっています。私は、家の近所を行き交う動物たちを『ある種のペットみたいなものだ』と感じています。通常であれば、ペットと言えば自宅のカゴなどに入れて諸々の面倒を見るものだと思うのですが、熱海の生活は「野生の動物が暮らしている自然の真っ只中に、自分をカゴ(家)に入れて暮らしている」状態になります。当たり前のことですが、野生の動物には餌をやる必要もなければ散歩に連れていく必要もありません。いわゆる「飼い主の責任」みたいなものからは完全に自由になる(長期間の旅行などにも気軽にいくことができる)のですが、私は、この『ゆるい繋がり』をとても気にいっています。

 

家の目の前には海が広がっています。朝の早い時間帯、昇り立ての太陽に照らされている海面は、まるで黄金色の宝石が散りばめられているかのような輝きを見せてくれることがあります。私は海を愛しているのですが、あの海は俺のものだと叫んでも笑われてしまうだけだと思います。同じように、あの空は俺のものだと叫んでみても、あの山は俺のものだと叫んでみても、あの雲は俺のものだと叫んでみても、笑われてしまうだけだと思います。自分のものになんてなる訳がないし、自分のものになんてする必要もない。ただ、自分がそれを見ている時間だけは、それは「自分のものになるのかもしれない」と思います。

 

私は、この感覚をひとという自然物に対しても抱きます。人間をひとつの枠に固定する思考、たとえば恋愛制度とか結婚制度とか、そういうものが私は非常に苦手なタイプの人間になります。恋愛においても、結婚においても、私は「誰かを自分のものにしたい」とは思うことができません。基本的には何をするのもそのひとの自由、一緒にいるのも一緒にいないのも完全に自由、一緒にいなければいけないから一緒にいるのではなく、ただ、お互いが「一緒にいたい」と思う気持ちが重なっているその時は、一緒にいられることを共に喜んでいたい。そのように思うタイプの人間です。だからなのでしょうか、うまく説明をできている自信がまったくないのですが、自分の好きなひとに対しても「生きとし生けるものはあらゆるものから自由だ。ただ、一緒にいる時間だけは『恋人』なのかもしれない」という風に思います。

 

自分のものを手放すと、あらゆるものが自分のものになる。

家のない生活を2年間ほど続けた中で、様々な教訓を得ることができました。私の場合、何よりもしんどかったのは「横になれる場所がない」ということでした。カフェなどでは座ることもできるけれど、横になることはできない。漫画喫茶やカラオケにはいれば横になることもできるけれど、その分お金もかかってしまう。だからこそ、家があることの最大のありがたみは「いつでも横になることができる」ということなのだと感じるようになりました(2年間の日々の中で、公園でも路上でもどこでも横になれる程度の図太さを獲得することはできたのですが、家があるに越したことはないと思います)。

 

また、家をなくしたメリットという表現もおかしな言葉になりますが、そのうちのひとつに「当たり前が輝く」というものがあります。野宿をしている瞬間はしんどいこともあるけれど、その分、次の日に布団で眠れた時の感動は倍増をします。公園の噴水で頭を洗っている瞬間はいろいろなことを考えてしまうけれど、その分、次の日に温かいお風呂にはいれた瞬間の感動は倍増をします。いままで当たり前に使っていたもので、こんなにも感動をすることができるのかという体験は新鮮で、ああ、自分は奇跡の中を生きていたのだなあなどという気持ちにもなります。有り体の言葉で言えば「幸せのハードルが下がる」とでも言えばいいのでしょうか、容易に感動をすることができる人間になれたことは最高の報酬でした。

 

おかしなことを言います。家がなくなることの最大のメリットは「家が増える」ということで、全国津々浦々の様々な方々が私を泊めてくださる体験を通じて「いつでも自由に使える風呂や布団が世界中に増える」という謎の体験をしました。この体験は、大袈裟な言葉になりますが『この世界に立ち向かう勇気』を与えてくれました。自分が手放したものの分だけ、同じものが、ひとつの固定された場所を飛び越えて様々な場所に発生をしていく。自分のものを手放した分だけ、不思議と自由になる感覚を覚える。鳥を飼っていた時期は「自分の鳥」だけが自分のペットだったのが、何もペットを飼っていないいま、世界中の鳥たちが自分のペットになり得る。自分のものを手放した途端、あらゆるものが自分のものになる。まるでうまい説明ができていないことが悔しいのですが、風邪を引いていることを言い訳にします。意識が朦朧としてきました。あとはみなさまのお好きなように察していただけましたら幸いです。

 

【参考記事】坂爪圭吾さんが語る「家をなくしてわかった5つのこと」が面白すぎて価値観ぶっ壊れた : まだ東京で消耗してるの?

 

3月のライオン

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、羽海野チカ著作『3月のライオン』1巻〜12巻になります。こちらの本は、長野県に住む男性から「大好きな漫画になるので、多くの方々に読んでもらえたら嬉しいと思ってわたり文庫に寄贈をさせていただきます」と郵送をしていただいた漫画になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、北海道にわたりました ※※※

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

手に入れるより「手を離す」こと。

本来であれば、明日から栃木県の那須塩原で開催(?)されるファスティング合宿に参加をする予定だった(非常に遊び心のある方が参加費無料で私を招待してくれた)のですが、風邪で免疫力がさがってしまっているいま、三月以降に延期をする流れになりました。風邪をひいてはいるものの、有り余る富【暇】を持て余しております。明日明後日には完治をするのかなといった程度の体調ではあるのですが、看病エンターテイメントとでも銘打って、熱海の家に看病に来てくださる方を募集しております(私の好きな食べ物は、いくらと生姜と蕎麦とカレーライスとほし芋と果物全般です!!)。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

2月26日(日)には熱海でわたり食堂【0円食堂】を開催します。まだ食事のメニューが出揃っていない状態になるのですが、場合によってはお越しいただいた方々と白湯でも飲みながらゆっくり時間を過ごせたらそれはそれでいいのかもしれないとも思うので、そういう感じでも構わないという方はどなたでもお気軽に遊びにいらしてください。近所に八百屋さんがありますので、最悪の場合はそこで適当な何かを音速で購買いたしまして、みんなで鍋を囲む的な時間になるかも(ならないかも)しれません。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

2017年は、自分自身をフリー素材として開放する(みなさまに自由に好き勝手に使ってもらう)ことを通じて、果たしてどのような出来事が起こるのかを観察する一年にしたいと思っております。まだまだ始まったばかりの試みではありますが、最近は「手に入れる【増やす】ことよりも、手を離す【減らす】ことの方が自由になる」ということを肌感覚で実感しております。私は自然が好きなので、自分にとって自然であるということ【ひととして自然であること】とはどういうことなのか、これからも、我が身を通じて獲得していけたら嬉しいなあと思っております。

 

 

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人生は続く。

 

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わたしの教育方針「10歳成人説」

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熱海の朝日が綺麗でした。風邪をひいたことで風邪をひいているひとの気持ちにいますごい寄り添えるところまで来ております。野口整体の世界では、風邪をひいたら「おめでとう!」と言われるのだそうで、風邪をひかないボディは健康体になりますが、風邪を『ひけない』ボディは病気と同じようなものらしいです。その為、風邪をひいた時はクスリなどで症状を『抑える【風邪を止める】』ことよりも、発熱なり下痢なり鼻水なりを通じて『出し尽くす【風邪を通過させる】』ことがボディに良いらしいです。合言葉は「風邪を楽しむ心の余裕を!」ということで、いま、朦朧とした意識の中でこのブログ記事を更新しています。

 

病気の根源は「体の冷え」と「血液の汚れ」らしいのですが、最高傑作の対処法は『断食(食べ過ぎこそ万病のもと)』なのだそうです。体調を崩してしまった時は、つい、何を食べると良いのかという方向に思考が向かいがちになりますが、逆に『何も食べないほうがカラダに良い』というアンサーはとっても貧乏人フレンドリーだなあと助かっております。手に入れることよりも「手を離すこと」の方が健康【自由】になる、ということは宇宙の真理のひとつなのではないだろうか、そういえば自分も家や金や仕事がなくなってからの方が逆に自由度が向上しているなあ、などとは思っておりますがやっぱり風邪はしんどいです。

 

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大根をすりおろしま図。

  

わたしの教育方針「10歳成人説」 

突然ではありますが、わたしの教育方針を書き綴ります。わたしはまだ結婚をしていないのでこどももいないのですが、仮に、わたしのような社会的弱者(金も定職もない人間)が愉快な子育てをするには、果たしてどのような思想のもとに行えばいいのでしょうか。過去に、わたしは勝手に脳内シミュレーションを繰り返した果てに「これなら自分でもいけそうだ!」と思ったオリジナルの子育て論を発見いたしましたので、誰かの参考にもなればうれしい(まるで参考にならないような気もする)と思いながら書き綴ります。

 

結論から申しますと、わたしの教育方針は「10歳はもう立派な大人だから、10歳で成人ということにする。あとはもう『あなたの好きなように生きてくだ祭(さい)』と野に放つ」というものになります。坂爪圭吾のこどもとして生まれたことが運の尽きとでも申しましょうか、普通だったら学習塾や習い事に通うとか大学に進学するなどの『世間的なレール』があるとは思うのですが、今世は潔く諦めていただく。学校は行きたければ行けばいいし、行きたくなければ行かなくてもいい。経済的な支えになれるかどうかは謎の父親になりますが、代わりに、人間環境的な支え(?)なら与えることができる。学校が嫌なら新潟県佐渡島に流刑をして、勉強を覚える代わりに魚の三枚おろしやわかめやこんぶや畑や田んぼなどの収穫作業を覚えていただく。あるいは、知人がやっている飲食店に送り込み、最高の料理や珈琲の淹れ方を覚えると同時に「様々な大人に触れる」体験を通じて広い世界を知っていただく、など。

 

こうして文字にすると「とんでもない父親だな!」的なことにもなりかねないのですが、小生、最高の教育方法は「楽しそうに行きている父親・母親の後ろ姿を見せること」だと思っておりますので、それさえカバーできていればいろいろダメでも最終的には「あの父親・母親に育てられてよかったな」的なポジションに着地をしてくれるのがこどもなのではいだろうか、などとと睨んでおります。正直に言いますと、テストで100点を取ったこどもを心の底から「お前、すごいな!」と褒めることができない(このまま優等生のレールを歩き続けてしまうことにある種の危機感を覚えたりもする)小生ではありますが、単純に、自分で釣った魚を三枚におろして刺身にしてくれたり、自然農法で育てた野菜を大量に持ち帰ってきてくれたり、大工の見習い体験を経てボロい自宅を修繕してくれたりなんだりしてくれた暁には、心の底から「お前、すごいな!」と賞賛できるような気がします。

 

親子関係の不幸の9割は「過干渉」

様々な方々と出逢う日々に恵まれる中で、小生、親子関係の不幸の9割は「過干渉(余計なお世話)」なんじゃないだろうかと思うようになりました。極論、守るから弱くなるのがこどもだと思います。ここで、あえて「攻めの姿勢」を採用してみるのはいかがなものだろうかと思いまして、これは決してこどを見捨てるとか見放すとか見限るということではない、こどもが生まれ持っている「生命力のようなもの」を信頼する(野生に放つ)ことを通じて強く逞しく成長をしていただく。怪我をすることもあるかもしれない、時には死にかけることもあるかもしれない、しかし、そういう諸々を全部ひっくるめての人生なのだということで、ある程度の年齢になりましたら「あとはもうあなたの好きにしてくだ祭(さい)」ということで、制限をかけない状態でほったらかしにする。

 

それに適した年齢が10歳なのではないだろうか、などと睨んでおります。自分の話になりますが、私は、14歳の頃には「俺もいよいよ親を超えたな」などと静かな確信に包まれていました。あとになって全然そんなことはなかったのだと気が付くのですが、大概、10歳を超えたあたりで親がうざくなる(親を下に見始める)のがこどもだと思います。これはチャンス!ということで、親を見下しはじめる頃を見計らって親元を離れていただく。別に一緒に暮らし続けてもいいのですが、精神的には自立をしていただく。お前はもう立派にひとりで生きていけるのだから、あとはお前の好きにしな祭(さい)ということで、今後の人生を全委ねをする。

 

【過去記事】今世は諦めてください。 - いばや通信

 

10歳成人説の要として、10歳になると同時に「ひとつの儀式を通過していただく」ことが非常に効果的だと睨んでいます。日本の離島でも、昔から「10歳になったらキャンプ道具一式を担いで無一文で家を出て、島民のみなさまにお世話になりながら二泊三日くらいで島を歩いて一周する」みたいな習慣があったらしく、これらの儀式を通過すると、こどもたちの顔はそれはそれは見間違えるように精悍になるのだと聞きました。私も、およそ二年間の「家のない生活」を通じてかなり広い世界の見方や自身の在り方を学べたような気がしておりますので、何かしらの儀式を用意することは、こどもがおとなになる過程として非常にふさわしいのではないだろうかと睨んでおります。 

 

子育てより「子育つ」

長々と能書きを垂れてまいりましたが、極論、こどもは育てるものではなく「勝手に育つ」ものだと思います。親が意図して教えようとしたことを学ぶこともあれば、親が意図していないことを勝手に学び取るのがこどもでもあるような気がしておりまして、事実、自分自身がそうでした。親は「学校に行け!大学に行け!あれをやれ!これをやれ!」と叫びますが、私は「嫌だ!やれと言われると嫌だ!でも、やるなと言われるとやりたくなることはあります」と強めの抵抗をしておりました。親曰く、私の反抗期は18年間続いたらしいのですが、振り返って見ると「あの反抗期があってこそのいまなのだなあ」と強く思います。

 

私と親と、事あるごとにいちいちぶつかっていたからこそ、親も親で「こいつは何を言っても無駄だ。自分のやりたいと思うことしかやらないらしい。それならば、あとはもう元気で生きてくれたらそれでいい」というところに着地をしました。そうなると、私も私で、何も反抗するものがなくなってしまったために「お、おう。それならば、私も元気に生きてまいります」ということで、かれこれ親とは非常に仲良くなりました。これらの体験を通じまして、もしかすると、実は親もこどもも相手に対して思っている気持ちは同じなのではないだろうかなどと思うようになりました。

 

それは「不完全でも構わないから、楽しそうに生きていてほしい」という思いです。完璧であろうとすることよりも、自分なりの不完全さを抱えながら、それでも楽しそうに生きている姿を見せること。それが最大の親孝行であり、最大の子育て【真の教育】になるのではないだろうかなどと思います。ひとと同じではないかもしれない、見るひとから見たら「こんな親子関係はいびつだ!由々しき事態だ!大問題だ!」と批判をされてしまうかもしれない。でも、なんというか、まあ、仕方がないじゃないか。おそらく、この世の中のなんだってそうだと思うのですが、自分ひとりで背負い込んでしまうからしんどくなるのだと思います。なんのための他人なのか、なんのための社会なのか、それは「自分に足りない部分を補ってくれるからこそ」であり、何もかもを自分ひとりの力でどうにかしようとするのではなく、社会全体でバランスを取り合っていく、そのための『10歳成人説【子育てを早めに放棄することで逆にこどもの成長を促す説】』を勝手に脳内で描いておるのですが、さて、ご覧のみなさまにはどのように響いたでしょうか。

 

 

続きはリアルで!(早めに風邪を治します!) 

 

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