いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

遊びをせんとや生まれけむ。

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多動症が爆発をして、熱海の家を飛び出しました。じっとしているのはおじいちゃんになってからでいいのだと。風邪だろうが何だろうがやりたいと思ったことはやる、行きたいと思った場所には行く、会いたいと思ったひとには会うのだと。必要なことは、私の場合、ゆっくりすることなんかよりも「希望」なのだと。楽しくなければ、笑いがなければ、遊びがなければ生きていけないのだと。という訳で、いばやのみなさまが奇跡的に無料で使わせていただいている千葉県船橋市にあるWi-Fi完備の一軒家にお邪魔をしています。いばやのみなさまと同じ時間を過ごすと、端的に「元気」になります。楽しそうに生きているひとたちは、その空気感に触れるだけで(時には布団の中でずっと横になっているよりもずっと)元気になります。

 

【録画ラジオ】自分ファースト【ちあき&ほしな&まゆちゃぱうぉにか&さかつめ】 - TwitCasting

 

昨夜、いばやの共同代表でもあるMAYUCHAPAWONICA姫から、お告げが出ました。現在、いばや(「やばい」を逆から読んだだけの名前のユニオン)は有志5〜10名程度の曖昧な人数で構成をされていて、MAYUCHAPAWONICA姫は神様的なポジションにいます。我々男性陣は、MAYUCHAPAWONICA姫のお告げを翻訳する・拡散する・体現する(MAYUCHAPAWONICA姫が神様なら、坂爪圭吾はバイブル的な存在になる)ことが役割になります。昔は、卑弥呼様的な女性が神様からのお告げをいただき、側近の男性陣がそれを翻訳して下々の者たちに伝えるみたいな風習(?)があったけれど、多分、それの現代版みたいなものなのだと思います。

 

MAYUCHAPAWONICA姫の名言。

MAYUCHAPAWONICA姫には、過去にも「宇宙の摂理として新しいことをやろうとしている人間は死なない」とか「やばいことをやっていれば、それを面白がってくれるやばいひとたちが現れて、化学反応が起きて、結果とんでもないわっしょい状態になる」とか「未来に必要なことをやっている限り、このひとたちを死なせてはいけないという謎のパワーが生まれるから私達は死なない」など、幾つもの素晴らしい発言があります。今回、MAYUCHAPAWONICA姫から出てきたお告げは「そんなことより、遊ぼうよ」というもので、我々男性陣は、はい、承知いたしました(問答無用で従わせていただきます)という流れになりました。

 

頭ではなく、カラダで突破する。

MAYUCHAPAWONICA姫は私と同じ31歳(同じ新潟高校出身だけれど当時はひとことも話したことがなかった)で、姫は、30歳になると同時に突然踊り始めました。姫曰く「大概の悩みは踊れば吹き飛ぶ」ということで、頭意識でああでもないこうでもないとウジウジ悩んでいてもあんまり意味がないから、とりあえず踊ろう【遊ぼう】。頭ではなく、カラダで突破するのがいいんじゃないかしら、と、そういう感じのことを話してくれました。姫はかわいい。太陽のような、ひまわりのようなMAYUCHAPAWONICA姫がそんなことを言うと「なんだかそんな風な気がする!」という感じになります。

 

私自身も、非常にありがたいことにトークイベントなどに呼ばれてみなさまとお話をさせていただく機会があります。稀に、会場全体がお悩み相談(あるいは何かしらの被害者の会)みたいなことになってしまう時があって、私は、こんなことを書くのは良くないことなのかもしれないけれど「うんざりだぜ!」と思います。みなさまのお悩みを聞いていると、お悩みそのものよりも「声が小さいなあ」とか「背筋をもっと伸ばせばいいのになあ」とか「ウダウダ考えていないで一日三万歩くらい歩けば解決するんじゃないだろうか」とか、そういうこと【頭ではなく、カラダで突破すること】に思いを巡らせてしまいます。

 

MAYUCHAPAWONICA姫は、過去に姫自身のセックスレスの克服体験を華麗な記事にまとめてくれました。姫の発見は「セックスレスの唯一最大の解決方法はセックスすること!」ということで、みなさまにも是非ご覧いただけましたらうれしいです。頭で突破できないことは、カラダを使って突破する。これ、非常に素晴らしい考え方だと思うのですが、みなさまにはどのように響きますでしょうか。大切なことだと思うので、もう一回言います。頭で突破できないことは、カラダを使って突破する。私の言葉で書くことよりも、是非、姫のリアルな質感が伝わってくるこちらの記事をご覧いただけましたら幸いです。

 

【参考記事】【016】セックスレスの唯一最大の解決方法はセックスすること!20160825|MAYUCHAPAWONICA |note

 

そんなことより、遊ぼうよ。

今回はひたすらMAYUCHAPAWONICA姫のことを書きたいのですが、現在、MAYUCHAPAWONICA姫は家のない状態に置かれています。私が説明をするのもどうなのかなとは思うのですが、最近まで同棲をしていた彼氏と別れて姫は家のない生活を選びました。現在、姫は、相棒のセクシーフォトグラファーちあき姫と一緒に、軽のバンに乗って全国津々浦々を移動しまくる日々を過ごしています。ゆっくり横になりたい時は、友達の家や、船橋の家など、適当な場所を見つけては持ち前の「寄生力」を発揮して、どこにいても、誰といても、誰よりもリラックスをして気の抜けた時間をお過ごしになられます。

 

姫にとっては、家がないことは問題になりません。多分、家がなくなるということは、多くの方々にとって問題【死活問題】だと思います。いばやのみなさまの特徴として、多分、問題を問題視しないという共通点があるような気がしました。我々には、セクシーフォトグラファーのちあき姫を除いて誰1人まともな収入がありません。出会う方々からも「いったいどうやって生活をしているの」と頻繁に問われます。私達は、自分でも説明をすることができないので「どうにかなっています」としか答えることができません。まともな収入はないけれど、普通とはかけ離れた生き方かもしれないけれど、でも、生きてる。私は、この「でも、生きてる」という言葉の肯定感が大好きなのですが、いろいろダメでも、でも、生きてるということは「大丈夫だ」ということの最大の証明ではないのだろうかと思うことがあります。

 

多分、問題の対処法には「問題解決型」と「問題なかったことになる型」の二種類があるのだと思います。我々は完全に後者で、家がないなら家がない状態を遊ぶ、金がないなら金がない状態を遊ぶ、そして、いつの間にか遊んでいるうちに問題が問題ではなくなった時に、ああ、別に気にすることは何もなかったのだなという境地に達することが頻繁にあります。問題を問題視しない。そのために必要なものは多分ふたつ、ひとつは「自分の現状を面白がるユーモアのセンス」と、それともうひとつの方がかなり重要になると思うのですが「実際に自分の現状を面白がって生きているひとを目の当たりにすること」だと思います。

 

遊びをせんとや生まれけむ。

私の好きな言葉に「遊びをせんとや生まれけむ」というものがあります。生きていると様々な方々に出会いますが、何をするも自由、悩むのも自由、苦しむのも自由、悩まないのも自由、苦しむことをやめることも自由、結局、誰もが「そうしたいと思っていることをやっている」のだと思うようになりました。これは、もう、趣味と同じ話なのだと思います。ひとには様々な趣味があるのだから、誰かの趣味を変えようとすることよりも、趣味の合うひとと一緒にいればいいのだと、そういう風に思うようになりました。

 

私はいま千葉県船橋市にいて、これから暇なので東京に向かいます。今日も明日も明後日も何も予定がありませんので、今日は東京で「おはなをあげる」をやりたいと思います。内容はシンプルで、私はおはなが好きなので、おはなを欲しいと言ってくれる方のもとに無料でおはなをお届けにあがるというだけのものになります。隙間時間には、先日、高知県でJCBギフトカードを8000円分(!)もいただいてしまったので、適当な百貨店などで何かしらの品々と交換できたらいいなあなどと思っております。基本的にはどこにでも行く(本音を話すと誰かにハワイに連れていってほしい)ので、何かある方も、何もない方も、どなたでもお気軽にご連絡ください。

 

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自分の人生に停滞感や閉塞感を覚えている時、それは「遊びが足りていない」可能性が高いのだと思います。私は、気がつくとすぐに正しさを求めてしまう人間です。風邪の時はどのように過ごすと「正しい」のか、何もやることがない時は何をするのが「正しい」のか、初対面のひとと出会う時はどのような対応をするのが「正しい」のか、など。しかし、ひとのこころを動かすものは正しさよりも「楽しさ」で、遊びがなければ余裕がなくなる。潤いがなくなり、瞳もこころも乾いてしまう。MAYUCHAPAWONICA姫の「そんなことより、遊ぼうよ」のお告げを胸に、これからも踊り続けたいと思いました。

 

 

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人生は続く。

 

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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手に入れるより「手を離す」こと。

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土に還るまでが人生です。引き続き風邪をこじらせておりまして、元来多動症的な私は「これもひとつの修行なのだろう」 ということで、じっとしている練習をしているのですが見事にダメです。ギターを弾いたり部屋の掃除をしたりこうしてブログ記事を書いたりしながら(たまに寝る)時間を過ごしています。いまは熱海の自宅にいるのですが、先日、東京の桜新町駅前界隈で偶然目にしたサクラが綺麗でした。美しい風景を前にすると「うわあ」となって瑣末なこととか自分の風邪のことなど吹き飛んでしまう、あの、一瞬の風になれている感覚が好きです。

 

少し前の記事で「旦那さんは五人くらいいた方がいい」みたいなことを書きました。すると、ひとりの男性から「なんでも誰かにやってもらうことばかりを期待する女は嫌いだ」というご意見が届きました。私は、別にそういう意味ではないとは思うのだけどなあ、とは思ったもののその瞬間は何かを伝えるエネルギーが枯渇をしていたので、特に何も言いませんでした。ひとつ思うことは「何のための所有なのか」という問いで、本来は幸せになりたくて何かを手に入れたり何かを求めたりするはずなのに、やがて『手に入れたそのものによって、逆に自身の自由が制約されてしまう』ことは往々にしてあるということです。

 

【過去記事】今世は諦めてください。 - いばや通信

 

誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができる。

熱海の家の近所にはたくさんの鳥や猫や猿が生息をしていて、この時期は、梅の花やボケの花に鶯色をしたメジロが遊びに来ます。明け方になると大量の小鳥たちが囁きはじめ、私は、毎朝その音で目覚める日々を気にいっています。私は、家の近所を行き交う動物たちを『ある種のペットみたいなものだ』と感じています。通常であれば、ペットと言えば自宅のカゴなどに入れて諸々の面倒を見るものだと思うのですが、熱海の生活は「野生の動物が暮らしている自然の真っ只中に、自分をカゴ(家)に入れて暮らしている」状態になります。当たり前のことですが、野生の動物には餌をやる必要もなければ散歩に連れていく必要もありません。いわゆる「飼い主の責任」みたいなものからは完全に自由になる(長期間の旅行などにも気軽にいくことができる)のですが、私は、この『ゆるい繋がり』をとても気にいっています。

 

家の目の前には海が広がっています。朝の早い時間帯、昇り立ての太陽に照らされている海面は、まるで黄金色の宝石が散りばめられているかのような輝きを見せてくれることがあります。私は海を愛しているのですが、あの海は俺のものだと叫んでも笑われてしまうだけだと思います。同じように、あの空は俺のものだと叫んでみても、あの山は俺のものだと叫んでみても、あの雲は俺のものだと叫んでみても、笑われてしまうだけだと思います。自分のものになんてなる訳がないし、自分のものになんてする必要もない。ただ、自分がそれを見ている時間だけは、それは「自分のものになるのかもしれない」と思います。

 

私は、この感覚をひとという自然物に対しても抱きます。人間をひとつの枠に固定する思考、たとえば恋愛制度とか結婚制度とか、そういうものが私は非常に苦手なタイプの人間になります。恋愛においても、結婚においても、私は「誰かを自分のものにしたい」とは思うことができません。基本的には何をするのもそのひとの自由、一緒にいるのも一緒にいないのも完全に自由、一緒にいなければいけないから一緒にいるのではなく、ただ、お互いが「一緒にいたい」と思う気持ちが重なっているその時は、一緒にいられることを共に喜んでいたい。そのように思うタイプの人間です。だからなのでしょうか、うまく説明をできている自信がまったくないのですが、自分の好きなひとに対しても「生きとし生けるものはあらゆるものから自由だ。ただ、一緒にいる時間だけは『恋人』なのかもしれない」という風に思います。

 

自分のものを手放すと、あらゆるものが自分のものになる。

家のない生活を2年間ほど続けた中で、様々な教訓を得ることができました。私の場合、何よりもしんどかったのは「横になれる場所がない」ということでした。カフェなどでは座ることもできるけれど、横になることはできない。漫画喫茶やカラオケにはいれば横になることもできるけれど、その分お金もかかってしまう。だからこそ、家があることの最大のありがたみは「いつでも横になることができる」ということなのだと感じるようになりました(2年間の日々の中で、公園でも路上でもどこでも横になれる程度の図太さを獲得することはできたのですが、家があるに越したことはないと思います)。

 

また、家をなくしたメリットという表現もおかしな言葉になりますが、そのうちのひとつに「当たり前が輝く」というものがあります。野宿をしている瞬間はしんどいこともあるけれど、その分、次の日に布団で眠れた時の感動は倍増をします。公園の噴水で頭を洗っている瞬間はいろいろなことを考えてしまうけれど、その分、次の日に温かいお風呂にはいれた瞬間の感動は倍増をします。いままで当たり前に使っていたもので、こんなにも感動をすることができるのかという体験は新鮮で、ああ、自分は奇跡の中を生きていたのだなあなどという気持ちにもなります。有り体の言葉で言えば「幸せのハードルが下がる」とでも言えばいいのでしょうか、容易に感動をすることができる人間になれたことは最高の報酬でした。

 

おかしなことを言います。家がなくなることの最大のメリットは「家が増える」ということで、全国津々浦々の様々な方々が私を泊めてくださる体験を通じて「いつでも自由に使える風呂や布団が世界中に増える」という謎の体験をしました。この体験は、大袈裟な言葉になりますが『この世界に立ち向かう勇気』を与えてくれました。自分が手放したものの分だけ、同じものが、ひとつの固定された場所を飛び越えて様々な場所に発生をしていく。自分のものを手放した分だけ、不思議と自由になる感覚を覚える。鳥を飼っていた時期は「自分の鳥」だけが自分のペットだったのが、何もペットを飼っていないいま、世界中の鳥たちが自分のペットになり得る。自分のものを手放した途端、あらゆるものが自分のものになる。まるでうまい説明ができていないことが悔しいのですが、風邪を引いていることを言い訳にします。意識が朦朧としてきました。あとはみなさまのお好きなように察していただけましたら幸いです。

 

【参考記事】坂爪圭吾さんが語る「家をなくしてわかった5つのこと」が面白すぎて価値観ぶっ壊れた : まだ東京で消耗してるの?

 

3月のライオン

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、羽海野チカ著作『3月のライオン』1巻〜12巻になります。こちらの本は、長野県に住む男性から「大好きな漫画になるので、多くの方々に読んでもらえたら嬉しいと思ってわたり文庫に寄贈をさせていただきます」と郵送をしていただいた漫画になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、北海道にわたりました ※※※

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

手に入れるより「手を離す」こと。

本来であれば、明日から栃木県の那須塩原で開催(?)されるファスティング合宿に参加をする予定だった(非常に遊び心のある方が参加費無料で私を招待してくれた)のですが、風邪で免疫力がさがってしまっているいま、三月以降に延期をする流れになりました。風邪をひいてはいるものの、有り余る富【暇】を持て余しております。明日明後日には完治をするのかなといった程度の体調ではあるのですが、看病エンターテイメントとでも銘打って、熱海の家に看病に来てくださる方を募集しております(私の好きな食べ物は、いくらと生姜と蕎麦とカレーライスとほし芋と果物全般です!!)。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

2月26日(日)には熱海でわたり食堂【0円食堂】を開催します。まだ食事のメニューが出揃っていない状態になるのですが、場合によってはお越しいただいた方々と白湯でも飲みながらゆっくり時間を過ごせたらそれはそれでいいのかもしれないとも思うので、そういう感じでも構わないという方はどなたでもお気軽に遊びにいらしてください。近所に八百屋さんがありますので、最悪の場合はそこで適当な何かを音速で購買いたしまして、みんなで鍋を囲む的な時間になるかも(ならないかも)しれません。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

2017年は、自分自身をフリー素材として開放する(みなさまに自由に好き勝手に使ってもらう)ことを通じて、果たしてどのような出来事が起こるのかを観察する一年にしたいと思っております。まだまだ始まったばかりの試みではありますが、最近は「手に入れる【増やす】ことよりも、手を離す【減らす】ことの方が自由になる」ということを肌感覚で実感しております。私は自然が好きなので、自分にとって自然であるということ【ひととして自然であること】とはどういうことなのか、これからも、我が身を通じて獲得していけたら嬉しいなあと思っております。

 

 

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人生は続く。

 

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わたしの教育方針「10歳成人説」

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熱海の朝日が綺麗でした。風邪をひいたことで風邪をひいているひとの気持ちにいますごい寄り添えるところまで来ております。野口整体の世界では、風邪をひいたら「おめでとう!」と言われるのだそうで、風邪をひかないボディは健康体になりますが、風邪を『ひけない』ボディは病気と同じようなものらしいです。その為、風邪をひいた時はクスリなどで症状を『抑える【風邪を止める】』ことよりも、発熱なり下痢なり鼻水なりを通じて『出し尽くす【風邪を通過させる】』ことがボディに良いらしいです。合言葉は「風邪を楽しむ心の余裕を!」ということで、いま、朦朧とした意識の中でこのブログ記事を更新しています。

 

病気の根源は「体の冷え」と「血液の汚れ」らしいのですが、最高傑作の対処法は『断食(食べ過ぎこそ万病のもと)』なのだそうです。体調を崩してしまった時は、つい、何を食べると良いのかという方向に思考が向かいがちになりますが、逆に『何も食べないほうがカラダに良い』というアンサーはとっても貧乏人フレンドリーだなあと助かっております。手に入れることよりも「手を離すこと」の方が健康【自由】になる、ということは宇宙の真理のひとつなのではないだろうか、そういえば自分も家や金や仕事がなくなってからの方が逆に自由度が向上しているなあ、などとは思っておりますがやっぱり風邪はしんどいです。

 

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大根をすりおろしま図。

  

わたしの教育方針「10歳成人説」 

突然ではありますが、わたしの教育方針を書き綴ります。わたしはまだ結婚をしていないのでこどももいないのですが、仮に、わたしのような社会的弱者(金も定職もない人間)が愉快な子育てをするには、果たしてどのような思想のもとに行えばいいのでしょうか。過去に、わたしは勝手に脳内シミュレーションを繰り返した果てに「これなら自分でもいけそうだ!」と思ったオリジナルの子育て論を発見いたしましたので、誰かの参考にもなればうれしい(まるで参考にならないような気もする)と思いながら書き綴ります。

 

結論から申しますと、わたしの教育方針は「10歳はもう立派な大人だから、10歳で成人ということにする。あとはもう『あなたの好きなように生きてくだ祭(さい)』と野に放つ」というものになります。坂爪圭吾のこどもとして生まれたことが運の尽きとでも申しましょうか、普通だったら学習塾や習い事に通うとか大学に進学するなどの『世間的なレール』があるとは思うのですが、今世は潔く諦めていただく。学校は行きたければ行けばいいし、行きたくなければ行かなくてもいい。経済的な支えになれるかどうかは謎の父親になりますが、代わりに、人間環境的な支え(?)なら与えることができる。学校が嫌なら新潟県佐渡島に流刑をして、勉強を覚える代わりに魚の三枚おろしやわかめやこんぶや畑や田んぼなどの収穫作業を覚えていただく。あるいは、知人がやっている飲食店に送り込み、最高の料理や珈琲の淹れ方を覚えると同時に「様々な大人に触れる」体験を通じて広い世界を知っていただく、など。

 

こうして文字にすると「とんでもない父親だな!」的なことにもなりかねないのですが、小生、最高の教育方法は「楽しそうに行きている父親・母親の後ろ姿を見せること」だと思っておりますので、それさえカバーできていればいろいろダメでも最終的には「あの父親・母親に育てられてよかったな」的なポジションに着地をしてくれるのがこどもなのではいだろうか、などとと睨んでおります。正直に言いますと、テストで100点を取ったこどもを心の底から「お前、すごいな!」と褒めることができない(このまま優等生のレールを歩き続けてしまうことにある種の危機感を覚えたりもする)小生ではありますが、単純に、自分で釣った魚を三枚におろして刺身にしてくれたり、自然農法で育てた野菜を大量に持ち帰ってきてくれたり、大工の見習い体験を経てボロい自宅を修繕してくれたりなんだりしてくれた暁には、心の底から「お前、すごいな!」と賞賛できるような気がします。

 

親子関係の不幸の9割は「過干渉」

様々な方々と出逢う日々に恵まれる中で、小生、親子関係の不幸の9割は「過干渉(余計なお世話)」なんじゃないだろうかと思うようになりました。極論、守るから弱くなるのがこどもだと思います。ここで、あえて「攻めの姿勢」を採用してみるのはいかがなものだろうかと思いまして、これは決してこどを見捨てるとか見放すとか見限るということではない、こどもが生まれ持っている「生命力のようなもの」を信頼する(野生に放つ)ことを通じて強く逞しく成長をしていただく。怪我をすることもあるかもしれない、時には死にかけることもあるかもしれない、しかし、そういう諸々を全部ひっくるめての人生なのだということで、ある程度の年齢になりましたら「あとはもうあなたの好きにしてくだ祭(さい)」ということで、制限をかけない状態でほったらかしにする。

 

それに適した年齢が10歳なのではないだろうか、などと睨んでおります。自分の話になりますが、私は、14歳の頃には「俺もいよいよ親を超えたな」などと静かな確信に包まれていました。あとになって全然そんなことはなかったのだと気が付くのですが、大概、10歳を超えたあたりで親がうざくなる(親を下に見始める)のがこどもだと思います。これはチャンス!ということで、親を見下しはじめる頃を見計らって親元を離れていただく。別に一緒に暮らし続けてもいいのですが、精神的には自立をしていただく。お前はもう立派にひとりで生きていけるのだから、あとはお前の好きにしな祭(さい)ということで、今後の人生を全委ねをする。

 

【過去記事】今世は諦めてください。 - いばや通信

 

10歳成人説の要として、10歳になると同時に「ひとつの儀式を通過していただく」ことが非常に効果的だと睨んでいます。日本の離島でも、昔から「10歳になったらキャンプ道具一式を担いで無一文で家を出て、島民のみなさまにお世話になりながら二泊三日くらいで島を歩いて一周する」みたいな習慣があったらしく、これらの儀式を通過すると、こどもたちの顔はそれはそれは見間違えるように精悍になるのだと聞きました。私も、およそ二年間の「家のない生活」を通じてかなり広い世界の見方や自身の在り方を学べたような気がしておりますので、何かしらの儀式を用意することは、こどもがおとなになる過程として非常にふさわしいのではないだろうかと睨んでおります。 

 

子育てより「子育つ」

長々と能書きを垂れてまいりましたが、極論、こどもは育てるものではなく「勝手に育つ」ものだと思います。親が意図して教えようとしたことを学ぶこともあれば、親が意図していないことを勝手に学び取るのがこどもでもあるような気がしておりまして、事実、自分自身がそうでした。親は「学校に行け!大学に行け!あれをやれ!これをやれ!」と叫びますが、私は「嫌だ!やれと言われると嫌だ!でも、やるなと言われるとやりたくなることはあります」と強めの抵抗をしておりました。親曰く、私の反抗期は18年間続いたらしいのですが、振り返って見ると「あの反抗期があってこそのいまなのだなあ」と強く思います。

 

私と親と、事あるごとにいちいちぶつかっていたからこそ、親も親で「こいつは何を言っても無駄だ。自分のやりたいと思うことしかやらないらしい。それならば、あとはもう元気で生きてくれたらそれでいい」というところに着地をしました。そうなると、私も私で、何も反抗するものがなくなってしまったために「お、おう。それならば、私も元気に生きてまいります」ということで、かれこれ親とは非常に仲良くなりました。これらの体験を通じまして、もしかすると、実は親もこどもも相手に対して思っている気持ちは同じなのではないだろうかなどと思うようになりました。

 

それは「不完全でも構わないから、楽しそうに生きていてほしい」という思いです。完璧であろうとすることよりも、自分なりの不完全さを抱えながら、それでも楽しそうに生きている姿を見せること。それが最大の親孝行であり、最大の子育て【真の教育】になるのではないだろうかなどと思います。ひとと同じではないかもしれない、見るひとから見たら「こんな親子関係はいびつだ!由々しき事態だ!大問題だ!」と批判をされてしまうかもしれない。でも、なんというか、まあ、仕方がないじゃないか。おそらく、この世の中のなんだってそうだと思うのですが、自分ひとりで背負い込んでしまうからしんどくなるのだと思います。なんのための他人なのか、なんのための社会なのか、それは「自分に足りない部分を補ってくれるからこそ」であり、何もかもを自分ひとりの力でどうにかしようとするのではなく、社会全体でバランスを取り合っていく、そのための『10歳成人説【子育てを早めに放棄することで逆にこどもの成長を促す説】』を勝手に脳内で描いておるのですが、さて、ご覧のみなさまにはどのように響いたでしょうか。

 

 

続きはリアルで!(早めに風邪を治します!) 

 

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人生は続く。

 

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今世は諦めてください。

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奈良県の雪山で遭難をしたばかりの保科さんが車で高知に来る。私たちは合流をして、高知県から愛媛県大洲市に向かう。大洲市在住のC様と合流をして、おはなとチョコレートを渡す。昨夜はC様のご自宅に宿泊をする。広い、広い、自然に囲まれた本当に素晴らしい家にC様はひとりで暮らしている。C様は言う。いくらでも泊まるスペースはありますから、好きな時に遊びに来てください。私と保科さんは「四国にみんなが自由に泊まれる家があったらいいね」などと話をしていたばかりだったので、この展開に驚愕をする。本日から、私は「与える喜びを与える喜びをツアー」を自主的に開催する。声をかけてくださるひとがいる限り、移動を続ける生活は続く。

 

【イベント詳細】与える喜びを与える喜びツアー 〜The joy of living is the joy of giving〜

 

大阪でカネがなくなった時は「終わったな」と思った。しかし「終わりははじまり」というのは世の常で、無事に(今回の企画の最終目的地である)愛媛県大洲市まで到着をすることができてよかった。今回も、幾つものドラマティックな出会いに恵まれた。金もない、仕事もない、特別なスキルも何もない、私はひとつのバトンみたいなものなのかもしれないと思う。私自身はからっぽで、しかし、からっぽな私を生かしてくれる方々がいるから私の生命は繋がれて行く。様々なひとが「私」というバトンを運んでくれる。 

 

flow + er = flower【流れゆくもの】

私はおはなが好きだ。そんな単純な理由で「花が欲しい方がいたらお気軽に声をかけてください。何処にでも渡しに行きます」というイベントを立ち上げたのが2月1日の水曜日。すると、富山県在住の20代女性S様から「おはなをください」という連絡が届く。S様曰く「私は両親を幼い頃に亡くしていて、ずっとおばあちゃんに育てられて来たのですが高齢のおばあちゃんは現在入院をしていて生死の境をさまよっている状態です。これからのことを考えると暗い気持ちになることもあるのですが、坂爪さんがおはなを配っていることを知って『私もおばあちゃんにおはなをあげよう』と思い、おはなをあげたらすごい喜んでもらえてすごい嬉しかった。だから、私も、坂爪さんからおはなをもらえたら嬉しいと思って連絡をしました」とのこと。私は、これはもう絶対に行くしかないヤツだろうと思い、新宿発の高速バスを予約して富山県高岡市に到着をしたのが2月7日の火曜日。 

 

富山から金沢・敦賀・京都を経由して大阪市内に到着をしたのが2月9日の木曜日。梅田で大学生のT君と合流をする。時間もあったので「梅田のグランフロントの適当なカフェに大量のおはなを購買して向かい、そこに来てくれたひとにおはなを配ろう」と思い立つ。残りのお金をおはなに変えて、私は、ほとんど無一文の状態になる。これからどうなるのかなんて知らない。どうやって愛媛県に向かうかもわからない。でも、きっと(これまでの人生もどうにかなってきたように)これからもどうにかなっていくのだろうと思い、あんまり先のことは考えないことを決める。梅田のグランフロントには、結果的に10名近い方々が遊びに来てくれた。そのうちの一人が、なんと、香川県高松市内までの交通手段を工面してくださるという驚きの展開になり、無事に四国入りを果たしたのが2月10日の金曜日。

 

その後の流れは前回のブログ記事に書いた。高知県にて「宿がない」的な投稿をしたら、愛媛県在住の女性M様が高知市内の宿を予約するためだけにはるばる高知県まで車を飛ばして来てくれた。その姿に、私は、言葉にならない感動を覚えた。M様曰く「実は、最近主人をなくしたばかりで生きる気力を失っていて、思うことと言えば『死にたい、死にたい』ということばかりでした。家を出ることもまったくなかったのですが、いま、坂爪さんのおかげでこうして久しぶりに外に出ることができて、なんだか、少しだけこころに風が吹いたような気がしていて、このような貴重な機会を与えてくださったことに感謝をします」とのこと。私は、こういう時に、なんて言えばいいのかがわからない。M様は、高知市内の宿を取るためだけに愛媛県から車を2時間以上も飛ばして現われて、ホテルを取り、私と五分程度話した後に、すぐに愛媛県まで舞い戻った。一緒にいた時間は五分程度、五分程度のものだったけれど、私は「なんだか本当に素晴らしいものを見せてもらった」という気持ちになったのが2月11日の土曜日。

 

【過去記事】マイナスに賭ける。 - いばや通信

 

この瞬間のために生きていた。  

高知から車で香川まで迎えに来てくれたHさんが「坂爪さんのブログは読者数もたくさんいるから、本を出したり広告などを貼り付ければそれなりのお金を生むこともできると思うのです。それなのに、なぜ、お金のない生活を選ぶのですか」と尋ねる。私は、しばらく考えた後に「自分でもなぜこのような生活をしているのかがよくわかっていないのですが、もしも、私に充分なお金があってあらゆる移動を自腹で賄うことができたのならば、いま、この瞬間(Hさんに車で送迎をしてもらう・車内で会話をする時間)はなかったのだと思います。変な言い方になるけれど、この生活をしていなければこの瞬間はなかったのだと思う幾つもの瞬間があったことを思うと、この生活をしていてよかったなあと感じます」と答えた。

 

兵庫県で出会った女性は「私は、旦那さんは五人くらいいた方がいいと思うんです。ひとりの旦那さんにすべてを求めるとつらくなってしまうと思うから、たとえば経済的に支えてくれる旦那さん、一緒にいると落ち着く旦那さん、広い世界を見せてくれる旦那さん、こどもの面倒を見てくれる旦那さん、思う存分愛させてくれる旦那さんみたいな感じで、旦那さんは五人くらいいた方がいいと思うんです」と話した。私は、なんとなく、わかるような気がした。結婚とはなんだろうか。恋愛とはなんだろうか。制度とはなんだろうか。多分、それらは「ただの言葉」に過ぎないのだと思う。万物は流転をする。すべては流れて行く。生きている時間も人間も空間も誰のものでもない。誰のものでもないからこそ、みんなのものになることができる。固定された瞬間、私物化された瞬間、ひとつの言葉に囚われてしまった瞬間から、自由は奪われるものなのかもしれない。

 

『これが私の優しさです』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、谷川俊太郎著作『これが私の優しさです』です。こちらの本は、愛媛県今治市在住の女性K様が「わたり文庫用に、是非」と託してくれた一冊です。私の敬愛する三森さんは「男性は真理を求めて生きていて、女性は真理そのものを生きているような気がします」ということを過去に仰っておりましたが、雛祭の日にというひとつの詩に、私は、同じ匂いを嗅ぎ取りました。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、島根県にわたりました ※※※

 

 雛祭の日に

 

娘よ ー

いつかおまえの

たったひとつの

ほほえみが

ひとりの男を

生かすことも

あるだろう

そのほほえみの

やさしさに

父と母は

信ずるすべてを

のこすのだ

おのが命を

のこすのだ

 

谷川俊太郎『これが私の優しさです』【集英社文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

ひとと同じであることを諦める。

先日、鹿児島県で久しぶりに労働をする機会に恵まれた。ここ数年、労働と呼ばれるものから随分と距離をとっていたために、私は人並みに働くことができるのだろうかと不安を覚えた。業務内容は「スーツに似合うハンカチーフを売る」というものだったのだけれど、私は、20分程度働いた後に「ああ!やばい!ダメだ!過労だ!」みたいな感じになってしまい、店長さんに「まだまだ働きはじめたばかりだというのに非常に申し訳ないのですが、1時間ほど、休憩をいただいてもよろしいでしょうか」と懇願をした。そして、お店の近くにあるドトールに逃げた。

 

ドトールでひとり珈琲を飲みながら「ああ、俺はたかだか20分程度の労働で過労死寸前になるほどには弱者なんだな」と思い耽った。自分を責める気持ちが湧き出してきたというよりは、逆に、いよいよ自分は来るところまで来たのだなあという清々しさが溢れ出した。そして、頭の中に「今世は諦めてください」という言葉が舞い降りた。ひと並みに生きることができなくて苦しんでいたのが私の10代。ひと並みになろうと踠いて踠いて結局つまづきまくっていたのがひと昔前の20代。そして、ひと並みであることを諦めたのが30代、いま、無理なことは無理なのだとひとつずつ諦める【余計な何かを剥ぎ落とす】ことを通じて、漸く、自分が少しずつ軽くなるような感覚を覚えている。

 

今世は諦めてくださいという言葉は、聞く人によってはネガティブな言葉に響くのかもしれない。諦めるなんて絶対にいけない、努力が足りない、根性が足りない、ひとは頑張れば必ず報われるのだという言葉を信じたいひともいるのだと思う。しかし、どうやら、私は違うみたいだ。私の場合、諦めるほどに軽くなり、諦めるほどに自由になる。いまの自分は、自分以上でもなければ自分以下でもない。これが自分なのだから、この自分で生きるしかないじゃないかと、ある種の清々しさが湧き出してくる。諦めるということは、生きることを諦めるということではない。それは、きっと「ひとと同じであることを諦める」ということなのだと思う。ひとと同じであることを諦めた先に見えるもの、それが、もしかしたら「自由」なのかもしれないと思う。

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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マイナスに賭ける。

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ボロは着てても貯金は五億。前回のブログ記事で「高松に行くけれど、宿はない」と書いたところ、それを見てくれた香川県在住のK様から「坂爪さんさえ宜しければ、おすすめの宿【ゲストハウスまどか様】を予約させていただいてもよろしいでしょうか」という連絡が届く。私は「ありがとうございます!」と返信をする。神様はいるのだと思う。優しさは連鎖をする。その後、K様から「坂爪さん!宿の方が坂爪さんのことをご存知で、宿代はいりませんという連絡をいただきました!ご縁って本当に素敵ですね」という報告が届く。私は驚愕をする。神様はいるのだと思う。

 

【過去記事】正しさよりも「楽しさ」だ。 - いばや通信

 

これから高知県に行く。交通手段をどうしようかと思っていた矢先、高知県在住のH様から「土曜日は時間があるので、もしよければ香川県まで車でお迎えにあがります」という連絡をいただく。神様はいるのだと思う。三日前は大阪在住のS様のご自宅に、一昨日は大阪在住のY様に中津の宿を予約していただいた。昨日の朝は、大阪在住のY様にグランフロントでモーニングをご馳走していただき、その後、次の予定がはいっていた舞子駅までの電車の切符まで購買をしていただいた。舞子では、数年前にイベントを企画していただいたT様から豪華な海鮮丼をご馳走していただく。神様は遍在をする。私は、完全に生かされているのだと思う。もう、何も文句は言ってはいけないのだという気持ちになる。

 

※※※ おかげさまで、高知の宿は決まりました ※※※

 

なぜ、おはなを配るのか。

二日前、大阪のグランフロント南館2階にあるKomin Cafeというお洒落なお店を勝手に使って、ご来場いただいたみなさまに「おはなをあげる」時間を設けた。直前の告知だったにも関わらず、10名近い方々が各地から足を運んでくださり、私と、共同主催者のたくちゃん【大学生の男の子】はとても嬉しい気持ちになった。結果的にそのお店には5時間近い滞在をして、隙間時間にはグランフロントの中を何度も散歩した。同じ場所で長い時間を過ごしていると、徐々に「ここは俺の家だ」みたいな気持ちになる。自分はグランフロントの住人で、お越しいただいた方々には「ようこそ我が家へ」みたいな気持ちになる。

 

来場者のみなさまに「なぜ、おはなを配るのですか?」と問われる。私は、単純に「おはなが好きだからです」などと答える。そんな風に答えながらも、正直、自分でもなんでおはなを配っているのかよくわからない。よくわからないけれど、いま、この瞬間は間違いなく「おはなを配っていなければ絶対に発生することのなかった瞬間」であり、私は、もしかすると「あなたに会うため」におはなを配っているのかもしれないなどと思う。なぜ、おはなを配るのか。それは、あなたに会うためです。非常に気持ち悪い響きになるかもしれないけれど、否、非常に素敵な理由にもなり得るような気がした。

 

ボロは着てても貯金は五億。

どうしてなのだろうか、数日前から「ボロは着てても貯金は五億」という言葉が頭から離れない。前に読んだ本に、インド在住のヨギーのおじいさんのことが紹介されていた。そのおじいさんは「私は、いま、二つの年金に支えられて暮らしています。ひとつは、これまで働いていた会社から支給をされる年金です。そして、もうひとつは『魂の年金』です。魂の年金というものは、毎日太陽の光を浴びれることとか、美しい自然を眺めることができるということ、こうして新鮮な空気を吸うことができて、ひとと話ができるということです。私は、この二つの年金のおかげで、とても幸せに暮らしています」と話していた。

 

私は「魂の年金っていいな」と思う。自分が特に何をしたからでもない、ただ、自然や宇宙から一方的に与えられ続けるもの、はじまりもなければ終わりもない、途絶えることなく永遠に与えられ続けているもの。年金というネーミングセンスはどうなのかということは置いておいて、そういったものに常に感謝できる精神の状態は非常に健康だと思う。だからなのだろうか、そのことを忘れたくない気持ちがあるからなのだろうか、昨日から「ボロは着てても貯金は五億」という言葉が頭から離れない。もちろん、現在の私には五億円もの貯金はない。貯金そのものがない。しかし、気持ち的には「五億円にも相当する貯金【魂の年金】を持っているのだ」と思っていた方が、なんというのだろうか、非常に前向きな効果を及ぼすような気がしている。

 

私のような弱者には、何かを所有し続けるための金も根気も勇気もない。乱暴な言葉でまとめると、所有は人間の自由を大幅に奪うような気がしている。何かを所有するということは、同時に、それを守り続けるために必要な諸々の事務的な手続きや管理、金銭的・精神的な負担の発生を意味する。私には、多分、グランフロントを一時的な自宅にするだけで充分なのだと思う。所有をすることはできない(あまり所有をしたいとも思わない)。ただ、自分がそれを使っている間は「自分のものだと言えるかもしれない【誰のものでもないからこそ、みんなのものになり得る】」というゆるい繋がり、そういったものの中で暮らしていけたら充分なのかもしれないと思う。多分、結婚も仕事も同じだ。相手を自分のものだと思うから辛くなる。ただ「一緒にいる間は、自分の恋人【同僚・友達・家族】なのかもしれない」くらいの繋がりが、自分には心地よいのかもしれないと思う。

 

『獄中からの手紙』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ガンディー著作『獄中からの手紙』です。ガンディー入門書は様々なものがありますが、こちらの本は非常に易しい文体で書かれているために、最適な一冊になるものかと思われます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

死すべきこの肉体のうちに真理を完全に実現することが不可能だとわかったとき、古のある真理の探究者はアヒンサーの真価に気づいたものと思われます。彼が直面した問題は「わたしに苦難をもたらす者たちを恕すべきか、それとも打ちのめすべきか」ということでした。他人を打ちまかそうとやっきになっている人は、前進することなく、ただその場に立ち尽くしているだけです。これにたいして、禍(わざわい)をもたらす者をも寛恕(ゆる)す人は、自ら前進するとともに、ときには敵対する他者をも共に連れ立ってゆくことを、かの求道者は悟ったのです。最初は害をなす者をやっつけようとしましたが、そうするうちに、己の探究の対象である真理は自分自身の外にではなく、内にあることを学んだのです。それゆえに彼は暴力に訴えれば訴えるほど、ますます真理から遠ざかってゆくのです。なぜなら、外なる仮想の敵を忘却していたからです。ー ガンディー『獄中からの手紙』【岩波文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

マイナスに賭ける。

昨日、いばやの徹君と電話をした。いばやの人達と話をすると元気になる。なぜ、元気になるのだろうか。最大の理由は「常に彼らは体を張っている」からであり、言い方を変えると「常に死ににいっている【マイナスに賭け続けている・得を積むのではなく損を積む】」からだと思う。徹君は、先日、栃木県で結婚式の動画を作成する仕事をしていた。当初は有料でやっていたものの、いろいろと思うところがあり、これからは無償(!)でやることに決めたと話す。私は、それを聞いて笑った。相変わらず死にに行ってますねえと愉快な気持ちになった。笑っていたら、元気になった。そして「よし、俺も死のう。マイナスに賭けよう」という非常に前向きな気持ちになった。

 

マイナスに賭ける。無難な道ではなく、危険に賭ける。得をしようとするのではなく、損をする。自らを生かそうとするのではなく、自ら進んで死にに行く(葉隠れの精神にも似ているような気がしてきた)。なぜ、このように後ろ向きな思いを抱くことが「人間の気持ち【少なくとも自分自身】を前向きにさせる」のだろうか。私は思う。多分、ジョイの日本語訳は『無駄』だと思う。こんなことをやって何になるのだろうかと思うこと、そんなことをやっても何にもならないじゃないかと思うこと、要するに「無駄だと思うこと、それこそがジョイ」なのだと思う。意味はない。価値もない。明確な目的も理想も着地点もない。圧倒的な無駄。無駄こそがJOY。意味があるから良いのではなくて、意味がなくてもよい、何にもならなくても良い、ダメでもいい【ダメでもいいという言葉はほんとうにすごい言葉だと思う。ダメでもいいということは、×でも○ということで、黒でも白ということで、二元論的な価値判断が消える。善悪が消える。美醜が消える。失敗が消える。乱暴な言葉でまとめると「何をしてもいい」ということになる】。

 

これから高知県に向かうものの、当初予定をしていた今晩の宿は泊まれない流れになり、またしても漂白の予定になってしまった。私はどうなるのだろうか。この「どうなるのかわからない」ことが日々の醍醐味であり、結末のわかる映画を見たいとは思わないように、どうなるのかがわかるから生きるのではない、どうなるのかがわからないから生きるのだと思う。そんな言葉で自分を励ましている。マイナスに賭ける。徹君は「けいごさんのブログは、僕たちを鼓舞してくれる『コブログ』です」と話す。徹君に、ありがとうと思う。自分も、徹君たちの存在に強く励まされている。私は弱者で、弱者ほど、強い言葉を好む【弱い犬ほどよく吠える】ものだ。自分を鼓舞し続けながらこれからも、私は、どうなるのかわからない道を好き好んで歩き続けたいのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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正しさよりも「楽しさ」だ。

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「趣味は自爆です」と言えるくらいには疲れていた。富山県・石川県・福井県を経由して大阪にはいる。連日の移動で気力も体力も財布の中身もスッカラカン、さて、これからどうしようかと思っていた矢先に「もしよかったら我が家に泊まりに来ませんか?」という非常にありがたいご連絡をいただく。家主の方が非常に素晴らしい人柄の持ち主で、同じ時間を過ごすだけでも元気になる。今月頭から、引き続き、おはなを配る日々を過ごしている。今日は関西界隈をちょこまかして、明日の夕刻頃には四国の香川県に向かう予定だけれども宿は決まっていない。

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

金も何もいろいろなものがないのにこんなこと(おはなを無料で配り続けるということ)をしていたら、そりゃあ、疲れるに決まっている。それなのに、なぜ、自分は懲りずに愚行を繰り返すのだろうか。なぜ、自分をボロボロにしてみたいなどという謎の欲求が定期的に湧き出してくるのだろうか。わからない。いろいろなことがわからないけれど、私は、自分のことが一番わからない。わからないならわからないなりに、わからないままで突撃をする。する(実際にボロボロになる)と、少しだけわかることがある。ああ、自分は、ボロボロになることでしかわからない何かを知りたくて、愚行を繰り返しているのかもしれないということを思う。

 

※※※ おかげさまで、高松の宿は決まりました ※※※

 

自分をどれだけ透明なものにできるか。

出会う人々に「お金はどうしているのですか」と頻繁に問われれる。こんなことを言っても信じてもらえないとは思うけれど、お金が限りなくゼロに近く度に、謎の力が働いてどこからともなくお金を与えられることが多い。私は、この、謎の原理によって(生きているのではなく)生かされているのだと感じている。自力ではなく他力、目的ではなく無目的、作為ではなく無作為、自分を透明なものにして世界に投げ出すほど、その、謎の力は効力を発揮する。しかし、自分がお金を持っている時や、さかしらなことを考えている時には、この力は働かない。非常に感覚的な話になるけれど「自分をどれだけ透明なものにできるか」が、多分、肝になるのだと思う。

 

生きている限り、ああ、このひとはちょっと苦手だなと思う人とも出会う。私は、まだ、下品なひとと失礼なひとと奢り高ぶっているひとと同じ時間を過ごしている時に、強度の疲労を覚える。そんな時は「苦手だと思う自分がダメなんだ!【修行が足りない!】」などと、自分を責めてしまうこともある。ひとりの時間が訪れた時に、私は、なぜあのひとのことを苦手だと思ったのだろうかと考える。そして、ひとつのことに思い当たる。誰かと過ごしたあとに楽しや嬉しさよりも虚しさや疲労が強く残る時、それは「わかってもらえなかった感覚が自分の体内に蓄積している」からだと思う。そして思う。私の中に、まだ、ひとに期待をしてしまっている部分が多大にあるのだという、ある種の濁りを確認する。

 

疲れた時、私は、紙とペンを用意する。そして、自分の感情をすべて紙に吐き出す。疲れている時は、ただ「疲れた」と紙に書く。すると、不思議なことに「疲れた」と書いているにも関わらず、自分の体がちょっとだけ元気になるような感覚を覚える。疲れたという感覚をずっと自分の中に持ち続けるといることは、自分をさらに疲れさせる。紙に書くということは、一旦、自分の感情を外に出す【手放す・自分をからっぽにする】ということなのだろう。そして、紙に書くという行為を通じて、ああ、自分は疲れていたのだなあという(自分に対する)ある種の共感を生む。自分との関係も人間関係であり、苦しみも悲しみも疲労も、ネガティブとされている感情も、寄り添ってくれるものがあればそれは「温もり」に変わる。

 

してもらえなかったことに捕まらない。

人間関係において「あの時、ああ言ってもらいたかった【あの時、ああして欲しかった】」みたいな気持ちになることは頻繁にある。しかし、してもらえなかったことに捕まると、無意識の内に被害者意識が増幅する。誰かを裁き始める・誰かを憎み始める思考は、全体から切り離されるような痛みを生み、相手と自分【世界と自分】との間にある分離感を強める。私は、昨日、紙に気持ちを吐き出しながら「ああ、俺は『誰かと(表面的ではない)心を通わせるような会話をしたい』などと思っていたけれど、何よりも自分自身が自分に寄り添うことができていなかった、自分としっかり会話をすることができていなかった」と痛感した。

 

ボロボロになることのメリット、それは「ボロボロになった自分を励ましてくれるものと出会えること」だと思う。変な言い方になるけれど、ボロボロになっている人間は、生半可なものでは元気になることはできない。鬱病の症状を患ったことのあるひとならわかると思うけれど、調子の悪い時、普段はこれをしている時に「楽しい!」と思えるようなことにも、こころがまるで反応をしないことがある。イエローモンキーの吉井和哉さんは『淋しがりは激しいジョークを欲しがるのさ』と歌っていたけれど、多分、そういうことなのだと思う。極度に疲れた人間は決して心が死んでいる訳ではない、ただ、表面的ではない、自分の奥底を揺さぶる何かを強く求めているのだと思う。

 

私は、自分をボロボロにすることを通じて「ボロボロになった時はこれをするといい」という、まるで自分にしか当てはまらないかもしれない(それでいて、窮地の際には自分を深いところから救い出してくれるもの)を見出そうとしているのかもしれない。いままでの私にとって「好きな歌を歌う・好きな道を歩く・好きなひとを思う」ことなどがそれに当てはまることだったけれど、肝心なものが抜け落ちていた。それが『自分と会話をする【自分が自分の理解者になる】』ということだ。私には、自分の気持ちを理解してくれる誰かを求め、そして、勝手に傷ついてしまうことがある。しかし、どのような時も自分が自分の気持ちにしっかりと寄り添えることができるのならば、どのような感情も「温もり」になる。

 

『死してなお踊れ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、栗原康著作『死してなお踊れ』です。一遍上人の踊り念仏に対抗しない形でおはな念仏を絶賛敢行中の小生ではありますが、やはり、ほんものは凄い。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、宮城県にわたりました ※※※

 

 一遍の思想はなんだったのかというと、ひとことでいえば「捨ててこそ」だ。この現世では、ひとはどうあがいても仕事の世界にとらわれてしまう。仕事の達成。その目的のために、有用な生きかたをしなきゃいけないとおもわされるのだ。もともと一遍は武士だったのだが、他人をぶっ殺してでも家をまもれ、財産をふやせ、それが仕事だといわれていて、それをやっていたら身内同士で所領争いになり、あげくのはてに殺しあいになってしまった。つらい、くるしい、いきぐるしい。ああ、こんなのやってられねえと、家も土地も財産も、奥さんも子どもも、ぜんぶ捨てて、出家して旅にでた。そうしてすべて捨ててしまえば、ひとは生きながらにして往生できる。仏のように、仕事にも家にもなんにもしばられないで、自由に生きることができると考えたのだ。

 

一遍がすごいのは、ここからだ。 

 

自分のこの身体に、現世がしがみついているというならば、おどってはねてふりおとす。踊り念仏だ。やりはじめたら一晩中。ながいときは何十日間でも、ぶっとおしておどり狂う。とちゅうで失神したひとも、もしかしたら死んでしまったひともいるかもしれない。しかも男女根をかくさず、野馬のようにおどり、うひゃあと山猿のようにさわいでいたというから、とんでもないことだ。人間すら捨てて、畜生になっている。素っ裸だ。はねて、はねて、ピョンピョンはねて、厳正におちてきてしまうこの身体。でもいくらおちても、そこにはかならずスッカラカンになった感覚がのこっている。いくぜ極楽、なんどでも。一遍の踊り念仏には、そうおもわせてくれるなにかがある。きっとそれは、現代に生きるわたしたちにとってもだいじなことであるはずだ。とにかくはねろ。ピョンピョンはねろ。現世におちろ。下にとべ。われわれは圧倒的にまちがえる。ー 栗原康『死してなお踊れ』【河出書房新社

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

正しさよりも「楽しさ」だ。

昔、山岳修行中の山伏が履いていたという一本下駄で越後の山を登ったことがある。普通に歩くだけでも辛い一本下駄で行う登山は苦しく、途中で何度も「これは無理なんじゃないだろうか」と諦めそうになった。しかし、不思議なもので次第に身体は慣れてゆき、数時間奮闘した後に無事に山を制覇することができた。肉体も精神もボロボロになっていたけれど、下山した時に飲んだファンタグレープの味は格別だった。私たちは、一緒に登山をした友達と一緒に「乾杯!」と叫びながら祝杯をあげた。こんなにも、心の底から「乾杯!」と叫ぶことができた瞬間は、これまでの私の人生にはなかった。

 

どのようにして高知県に行くのか、その交通手段は何も決まっていないけれど、2月12日(日)に高知市内でイベントを開催していただく流れになった。なぜ自分を苦しみに投げ出すのか。それは、端的に「生きている実感を感じたいから」ではないだろうか。私は、まだ、若い。まだまだ未熟だ。理想を言えば「何もせずとも、ただ、静けさの中で落ち着きながら常に満たされている」的な状態にいられたらいいのだろうけれども、まだ、その境地には達していない。何かを知ったつもりになる自分と、何かを知ったつもりになる自分を蹴り飛ばす自分、その、絶え間ない反復横跳びを繰り返しているような日々だ。 

 

【イベント詳細】坂爪圭吾トークイベントin高知

 

一遍上人の本の中には「いくぜ極楽、なんどでも」という表現が何度か出る。私の好きな漢字は『遊』であり、そして、私の好きな言葉に「求道の道は道楽の道【ぐどうのどうは、どうらくのどう】」というものがある。なぜ自分を苦しみに投げ出すのか。小難しいことは何もない、それは、端的に「楽しいから」なのだと思う。私は、答えを持った専門家や宗教家より、答えを更新し続ける探求者や求道者が好きだ。これまでの自分が大きく拡張するような感覚、大袈裟な言葉で言えば「古い自分が一回死んで、新しい自分になって生まれ変わる」ような瞬間が好きだ。古い自分を一回殺すために、時には愚行も必要になるのだろう。生まれ変わるということは、定められた自分を何度でも殺していくということなのだろう。それならば、と思う。正しさよりも「楽しさ」だ。正しさを追い求める深刻な求道者ではない、楽しさを追い求める軽妙な道楽者でありたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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置き去りにしてゆくもの。

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くるりのハイウェイを聴きながら街を歩く。その歌詞に「飛び出せジョニー気にしないで、身ぐるみ全部剥がされちゃいな」とある。好きな音楽に触れると、心が踊る。ああ、そうだよなあという気持ちになる。何もかもを失ったとしても、別に、構うことはないのだ。誰にも奪うことのできないものは確実にあって、仮に、命まで失うことがあったとしても、それもまたよし。良寛さんも「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候。是がこれ災難をのがるる妙法にて候」と言っている。

 

その時は、その時だ。

 

おはなを配り続ける日々を過ごしている。恵比寿でお会いした埼玉県在住の男性は、数年前、高知県で開催された私のトークイベントにはるばる埼玉県から遊びに来てくれた。男性曰く「実は、坂爪さんのお話を聞いた後に、私は、高知県の桂浜に身投げをするつもりでした。でも、家も金も仕事もなくても楽しそうに生きているあの頃の坂爪さんを見て、なんだかいろいろなことがどうでもよくなり、自殺をやめました。だから、坂爪さんにはそんな気はまるでないと思いますが、私にとっては命の恩人なんです」と話してくれて、私は「なんと!!!」と吃驚仰天をした。 この日は、なんと、男性のお母様も同席をしてくださり「本当にありがとうございます」と言っていただいたものだから、こちらこそ本当にありがとうございますと答えた。空間に、胸に、清々しい風が吹いた。

 

おはなをあげに、いかんばなんね。

呼ばれた場所に向かい、そこで出逢う方々におはなを配る。ただそれだけのことを、2月14日(火)までやることにした。現在は熱海にいて、明日は東京方面、明後日からは北陸経由で関西&四国方面に向かう。様々な方々と出逢う。今日は神奈川&東京方面に、明日は富山に、明後日以降の予定も宿も(14日に愛媛県に行く以外は)何も決まっていない。声がかかればそこに向かい、声がかからなければ適当な場所を漂白する。簡易野宿道具を鞄に詰めているものの、この時期、寒い空の下で野宿をしたいとは思わない。

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

自分が旅人であることを思い出す。

3月1日(水)に奈良市内でお話会を開催していただく展開になった。当日のテーマは『健康』だと言う。私は、健康という言葉を耳にするたびに「健康で長生きをすることよりも、健康な状態で『何をする【どのように生きるのか】の方が、何倍も重要なのではないだろうか」と思う。生にしがみつくことは善いことになるのだろうか、死ぬということは悪いこと・悲しいこと・忌避すべきものになるのだろうか。先日、東京の阿佐ヶ谷で見た『ラサへの歩き方』という映画に強い感銘を受けてからというもの、チベット仏教の死生観に興味を抱くようになった。現在読んでいる「チベットの生と死の書」には、こんなことが書かれている。

 

チベット語で肉体のことを〈ルュ〉という。これは「置き去りにしてゆくもの」を意味する。旅行鞄のようなものだ。〈ルュ〉と言うたびに、チベット人は自分が旅人であることを思い出す。この生の肉体に仮の宿をとっているだけの旅人。そのためチベットの人々は、外的環境を快適にしようとしてすべての時間をそれに費やすようなことはしてこなかった。食べるものがあり、着るものがあり、頭の上に屋根があれば、それで十分だった。わたしたちが今のままのやり方をつづけ、生活環境の向上に夢中になっていると、それは無意味な気散じとなり、それだけで終わってしまうことになりかねないのだ。正気の人間が、ホテルを予約するたびに、こまごまとその部屋の模様替えを考えたりするだろうか。わたしは次にあげるパトュル・リンポチェの短い警句を大変気に入っている。

 

年老いた雌牛のたとえを覚えておけ

雌牛は納屋で眠れさえすれば満足なのだ

もちろんおまえは食べなきゃならん、ねむらなゃならん、糞しなきゃならん ー

こればっかりは避けられぬ ー

だが、そこから先はおまえの知ったことではない

 

現代文化がなしとげた最大の成果は、輪廻の売り込みと不毛な気散じだったのではないかと、わたしはときどき思う。わたしには現代社会がお祭りに見える。真理から遠ざかってゆくもの、真理を生きがたくするもの、真理の存在すら信じがたくするもの、そういったもの一切のお祭りに見える。それらはすべて、ひたすら生を崇めたてる文化から発したものだ。だが実は、この文化は真の意味に飢えているのだ。人々を幸せにすることを約束しつづけているが、実は真の喜びの源へ向かう道をふさいでいるのだ。ー ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』【講談社

 

先日、ある看護師の方と話をした。職業柄、ひとの死に目に触れる機会も多いと言う。たくさんの人々が亡くなる姿を目にしながら、看護師の方は「そのひとが死ぬ時に、そのひとがどのように生きてきたのかが出る」と話す。死に方は、生き方になるのだろう。私は思う。死を避けるように・死ぬことから目を背けるように生きるのではなく、死を受け入れるように・死ぬことと親睦を深めるように生きる、大袈裟な言葉で言えば『自分自身の死生観を培うこと【死ぬことに対する不安や恐れを軽減すること】』が、最大の健康法になるのではないだろうか。

 

【イベント詳細】坂爪圭吾さんと「からだとこころ」のお話会

 

星の王子さま

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、サン・テグジュペリ著作星の王子さま』です。こちらの本は、埼玉県在住の女性が熱海に贈ってくれた本(私も大好きな一冊)です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。 

 

※※※ こちらの本は、広島県にわたりました ※※※

 

 「夜になったら星を見てね。ぼくの星は小さすぎて、どこにあるのか教えられないけど。でもそのほうがいいんだ。ぼくの星は、夜空いっぱいの星のなかの、どれかひとつになるものね。そうしたらきみは、夜空ぜんぶの星を見るのが好きになるでしょ・・・ぜんぶの星が、きみの友だちになるでしょ。今からきみに、贈り物をあげるね・・・」

 

そして王子さまは、笑った。

 

「きみが星空を見あげると、そのどれかひとつにぼくが住んでるから、そのどれかひとつでぼくが笑ってるから、きみには星という星が、ぜんぶ笑ってるみたいになるっていうこと。きみには、笑う星々をあげるんだ!」

 

王子さまは、楽しそうに笑った。

 

「そのうち悲しい気持ちがやわらいだら(悲しい気持ちは必ずやわらぐよ)、ぼくと知り合ってよかったって思うよ。きみはずっとぼくの友だちだもの。これからもぼくと一緒に笑いたくなるよ。だからときどき窓を開けて、そんなふうに気晴らししてね・・・きみが夜空をながめて笑ってるのを見たら、みんな驚くだろうね。そしたらこう言ってやるんだ。『そうなんだよ、星空には、いつも笑わされちゃってさ!』って。みんな、きみの頭がおかしくなったって思うかな。ぼくがきみに、いたずらしてるみたいになるね・・・」

 

そして王子さまは、また笑った。

 

サン・テグジュペリ星の王子さま』【新潮文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

置き去りにしてゆくもの。

チベットの生と死の書の中に「無常を友にする」という表現があり、私は、ああ、いい言葉だなと思った。たとえば、私は、海が好きだ。空が好きだ。花が好きだ。しかし、道端に咲く花を見て「絶対に枯れるな!」と願うこともなければ、流れる雲を見て「止まれ!」と願うこともない。万物は流転をする。季節は巡り、雲は流れ、感情は移り変わる。いつまでも同じままでいることはできない。だからこそ、私たちは「いまという瞬間を大切にしよう」という感覚を抱き、いま、この瞬間にそのものと出会えたことに喜びを覚える。

 

昔のひとは美しいと書いて「かなしい」と読み、愛しいと書いて「かなしい」と読んだ。きっと、すべての美しいものは悲しみを内包しているのだと思う。それは「永遠には見ていることができない」という悲しみ【美しみ・愛しみ】で、だからこそ、私たちは「いまという瞬間を大切にしよう」という感覚を抱く。いつまでも生きていることができるのならば、すべてから終わりの瞬間が奪われたとしたら、何に慈しみを覚えることができるだろうか、何にありがたみを覚えることができるだろうか、何を望み、何を願い、何を大切にしたいと思えるだろうか。終わりのないものに美は宿るのではなく、終わりがあるからこそ瞬間は輝く【死があるからこそ生は輝く】と、そんな風に言えるのではないだろうか。

 

くるりのハイウェイの歌詞は、その後に「やさしさも甘いキスもあとから全部ついてくる」と続く。全部あと回しにしちゃいな。勇気なんていらないぜ。ぼくには旅に出る理由なんてなにひとつない。手を離してみようぜ。つめたい花がこぼれ落ちそうさ。私は、音楽を聴きながら歩く。歩きながら「いい歌だな」と思う。足取りは軽くなり、目に映るものすべての輝きが増しているように感じる。そして、自分を旅に出るものではなく「既に旅人であるもの」だということを思い出す。好きな海があり、好きな空があり、好きな花があり、そして、私には好きな音楽がある。良寛さんは、晩年に「かたみとて何か残さむ春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉」と歌った。旅は終わっても、この、生命の歌は続くのだと思う。 

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

恐れていることをやりなさい。

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新潟県新潟市生まれの坂爪圭吾のカルマ【業】のひとつに「おはなをあげる」というものがありまして、この度も「世界各国のみなさまに無料でおはなを配りたい!」という願望がふつふつと湧いてまいりました。一遍上人の踊り念仏(踊り狂うことで執着や煩悩を振り払う)に対抗しない形で、小生、坂爪圭吾はおはな念仏(おはなを眺めることを通じて静けさに還る)を唱えたいと思っております。おはなをご希望される方は、是非、どなたでもお気軽にご連絡ください!!【あなたがいる場所まで、おはなを抱えて向かいます!!】 

 

【イベント詳細】おはなをあげに、いかんばなんね。

 

という内容のイベントを立ち上げました。エコノミックな理由で百花繚乱の花束をご用意することができないのですが、一輪挿しに命を込めてお届けいたします。この期間中、熱海の家は無人になるために「泊まりたい!【なにかしらで利用をしたい!】」などのご要望がありましたら、お気軽にご連絡をください。また、いつもの如く連日宿なしの日々を過ごしておりますので、奇跡的に「あなたを泊めてあげてもいいわよ!」的な神様がいらっしゃいましたら、お声掛けいただけましたら幸いです。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

答えよりも「問い」

先日、ひょんなきっかけで「60代の有名なおじさんと70代の有名なおじさんが対談をしている本」を読みました。乱暴にまとめると、これだから日本はダメなんだ(日本人はダメなんだ)的なことを愚痴愚痴と上から目線で話しているような内容で、私は、読んでしまった自分が悪いのですが「答えをもっているひとは退屈だなあ」と思いました。説教臭いことを言う人からは、自分は正しい【自分は偉い】と思い上がっている奢りを感じてしまいます。多分、私は、答えをもっているひとよりも「問いをもっているひと」が好きなのだと思います。大袈裟な言葉で言えば、答えをもっているひとは止まっていて、問いをもっているひとは進もうとしている印象を覚えます。格好いいところだけではない、様々な葛藤や煩悩を抱えながらも、前に進もうとしている【強くなろうとしている・優しくなろうとしている・ひとを愛そうとしている】ひとのことが好きなのだと思います。

 

なぜ生きるのかという問いに対して、私は「それを知るために生きている【それを知りたいから生きている】」のではないだろうかと感じています。何かを知ったつもりになること、自分とはこういう人間なのだとわかったつもりになることほど、物事に対する新鮮な感動を奪うものはないと思います。逆に言えば、「世の中にはこんなことがあったのか!」という驚きや発見、いままでこうだと思っていたものがまるで違った側面も持っていたことを知る瞬間の喜びや感動、そして、いままで見たこともないような自分自身と出会えた瞬間【未知との遭遇】の中に、私は、生きていることのうれしさや醍醐味を覚えます。

 

なぜおはなを配るのか、頭意識で考えると「そんな無益なことをやって何になるのか!また無一文になるだけじゃないか!」と即座に激しめのツッコミを入れてくる世間的な常識や損得勘定にやられてしまいそうになることもあるのですが、否、これをやったらこういうことが起こると思う何かがあるからやるのではなく、自分でもなぜやりたいと思うのかわからない、ただ、これをやることで「これをやらなければ遭遇することのできなかった最高の瞬間を味わえるかもしれない」という、まだ見たことのない光を、一縷の望みを、私は『(わかることではなく)わからないこと』の中に見ているのかもしれません。

 

未知の海原に己を投げ出す。

私の好きなバガボンドという漫画の中に、胤栄というお坊さんが登場します。時に、胤栄は「あらゆる状況を、時に己の命を業火にさらすような状況を乗り越えてこそ、『心』は充実を見る」と言います。逆説的になるけれど、死をリアルに意識した時、ひとは生をリアルに実感することができる。一度死にかけた人間は、一度死にかけているまさにそのことによって「生きていることの実感」を強く覚える。その為には、時に、己の命を業火にさらすような状況に投げ出す必要がある。あらゆる状況を乗り越えた時、「心」は充実を見るのだと、静かに胤栄は語ります。

 

 

過酷な状況の渦中にいる瞬間はつらいけれど、その体験を経てこそ再認識をすることができる、当たり前にあることの有り難み、生きているというただそれだけのことに対する強い感謝のようなものを抱くことがあります。大変という言葉は「大きく変わる」と書くけれど、変化の渦に対して抵抗をしようとすれば辛くなる、ただ、変化の渦に身を委ねて、なるように任せたら「まさかこうなるとは思わなかった」未来に漂着することがある。それが、過去から見た未来の自分【現在の自分】の姿になるのだと思います。変わることは、怖いことに見える時もあるけれど、変わっていく自分を眺めること【新しい自分を発見すること】は、とても面白いことだと思います。

 

『ラブ、安堵、ピース』 

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、黒澤一樹著作『ラブ、安堵、ピース』です。こちらの本は、埼玉県在住の女性から「わたり文庫用として、是非!」と熱海に御献本いただいた一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、愛知県にわたりました ※※※

 

「解釈の世界」に生きる人は、物事を分離して捉えているからこそ、「人の内に命がある」と言う。人に限らず、生物の個体それぞれに、個別の命が宿っていると思っている。

 

「あるがままの世界」に生きる人は、存在すべてのつながりを捉えているからこそ、「命の内に人がある」ことを知っている。

 

個別の命があるのではなく、無限に広がるたったひとつの「命」という空間の中に、すべての存在の躍動があるんだ。だから、そこに見えるのは、「個別の姿勢の繰り返し」ではなく、「絶え間ない宇宙の呼吸(全体における躍動)」。そこには、奪われる命も、与える命もない。ー 黒澤一樹『ラブ、安堵、ピース』【アウルズ・エージェンシー】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

恐れていることをやりなさい。

人の内に命があるのではなく「命の内にひとがある」という言葉を見て、私は、素晴らしい表現だなと思いました。そして、インラケッチというマヤ語の話を思い出しました。その意味は「あなたは、もうひとりの私です(私は、もうひとりのあなたです)」というものになるそうで、私たちは個別の命を生きているのではなく、ひとつの大きな命を生きている【あなたは私の代わりに生きていて、私はあなたの代わりに生きている】のだということを意味しています。

 

私は、不幸とは「分離感」で、幸福とは「一体感」だと感じることがあります。これは、何も幸福や不幸のみに限らず、不幸や恐怖や悲しみなどのネガティブな感情全般は「分離感」を生み出し、嬉しさや楽しさや共感などのポジティブな感情全般は「一体感」を生み出すものではないだろうか、と思うことがあります。やりたいことをやるというのとはちょっと違う、自分のこころが恐れていることをやるということ、時に、己の命を業火にさらすような状況を乗り越えることは、言い換えると「なにも恐れる必要はなかったのだ」ということを知るための行為なのかもしれません。

 

先日、江ノ島で見た海が綺麗だった。涙が流れるのはなぜなのか。悲しいとき、嬉しいとき、涙が流れるのはなぜなのか。涙という言葉は「海に戻る」と書くけれど、なぜ、海に戻ろうと流れるものが涙なのか。時に、私は、考えてもどうにもならないことを考えてしまうことがあります。考えてもどうにもならないこと、そういうことを考えている時、それがなにになるという訳ではないのに、私のこころは自由を覚えます。自意識は対象に流れ込み、客体は消えて、主体を共有する。恐れていることをやるということ、それは、いまよりも強い自分になるため、優しい自分になるため、成長した自分になるという表面的な目的を成し遂げるためではない、無意識の内に身に纏っていた不安や恐怖や猜疑心などの分離感をひとつずつ剥ぎ落とすため、そして、最終的には「恐れることなどなにもない。大丈夫、全部、自分なんだ」という深い安堵感を自身の内側に築くために、大切な過程になるのかもしれないと思いました。

 

 

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人生は続く。

 

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静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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何もしないという強さ。

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先日、熱海の家で「わたり食堂【0円食堂】」が開催された。あらゆるものを無料で楽しめる食堂ということで、当日は、あらゆる食材に加えてマッサージや占いや軽いヨガの講習などが即興的に行われた。当日は、東京在住のヨガの先生が遊びに来てくださり、その姿勢があまりにも美しかったばかりに、突如、私を含めた少数の男性陣が「体幹を鍛えるために逆立ちに挑戦をする!」という流れが生まれて、私は、ああ、逆立ちをすることはこんなにも血の流れが良くなるばかりか、全身運動後の心地よい疲労感と共にカラダの火照りを与えてくれるものなのか(寒い時は逆立ちだ!逆立ちをすれば暖房もいらないじゃないか!)と、新手の節約術を発見した。

 

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東京在住の方から小包が届く。

 

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大阪在住の方からも小包が届く。添えられていた手紙を読むと、どちらにも「お茶菓子として、わたり食堂に来られた方と一緒にお召し上がりください」と書かれている。実際にお越しいただくことが難しかった方も、このような形でわたり食堂に関わってくださることが本当に嬉しかった。お客さんとして遊びに来てくれた方々も、何かしらの手土産を持参して来てくださる方も多く、食堂の中は常に何かしらの料理で溢れかえっていた。子連れで来てくださる方々もいて、その場を駆け回る若い生命力に会場全体が活気にみなぎる。食堂とは名ばかりのもので、乱暴にまとめると「親戚一同の集まり」的な雰囲気が毎回色濃く出るのだけれど、形式ばらないこの感じがとてもリラックスできましたという参加者の方の声を聞いて、ああ、これはこれで大丈夫なのだろうなと思った。次回は2月の最終日曜日に開催される予定です。提供する側にまわってくださる方も募集をしておりますので、是非、興味のある方はお気軽にご連絡ください。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

参加者のみなさまの声。

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坂爪さん、こんばんは。

わたり食堂に、カリーあられと『君の名は。』をぶら下げて伺った◯◯です。
まさに「陽だまり」と言うべき場で、どこか懐かしくほっとする雰囲気に包まれて、
ただいるだけで充足を感じる時間を過ごせました。
ありがとうございます!

印象的だったことは、多くの方が手土産を渡したときに、
坂爪さんが毎回とても集中していた様子だったことです。
自分のときも、しっかりと受け止めていただいたと強く感じました。
いま考えると、モノというよりも、持ってきた思いをきっちりと受け止めてもらったのかと。

けんちん汁、カレー、コーヒーなど堪能しました。
なにぶん初めてのことで、実はやや戸惑いもあったりしましたが、
それでも、行った甲斐があったのは確かです!
今日は、たどり着けただけでも御の字。
こんど行くときにはもっとリラックスしようと思います。
それではまた。

 

坂爪「陽だまり最高…ありがとうございます!」

 

さかつめさん、
今日はありがとうございました。
いくら、あんなに喜んでもらえてわたしとっても嬉しかったです!
あの時間にまさか、ごはんが炊けてる状態だったとは!みなさんで美味しく食べれてよかったです^_^(わたしホントに美味しいいくら全然知らなくて、お店の人に勧められるままに買ったので、ホントに美味しいのかどうかちょっと不安だったのです。)
前回下まで行ったのに入れなかった足湯も入れましたし、えりかちゃんのコーヒーも美味しくいただけましたし、みなさんと楽しい時間を過ごさせていただけて、美味しいものもいっぱいで、自分が最近フォーカスしてる肩甲骨周りの伸ばしかたまで教えてもらったりで、充実した時間でした。ありがとうございます!!
高級なおうどんもありがとうございます!お家でありがたくいただきます。^_^

 

坂爪「いくら最高…ありがとうございます!」

 

好奇心が強く(編集者気質と呼べばよいのか?)取り敢えずどんな場なのかが気になったのが参加した動機でしたが、想像以上にステキな人たちとの出会いがありました。そして、色々な人たちとふれあえたのがすごく楽しかったです。(普段は知り合えて、関われてとかですが、今日は『ふれあえた』って思いました。)


また、ぜひゆっくりお話をしてみたいです。わたり食堂にもおじゃまします‼︎坂爪さんもゆっくり休んで下さい(^ ^)✨

 

坂爪「編集者気質最高…ありがとうございます!」

 

坂爪さんへ

昨日はありがとうございました。
お会いできた感激で、わぁぁーーっとなってしまい上手く深く話せませんでしたが とにかく嬉しかったです。

ホッとする素敵な空間でした。
初対面なのに親戚かの様な皆さんの馴染み方は、
恋とか血縁由縁ではなく、価値観のもとに家族が集ったらこんな感じなのかな、と思ったりしました。。
また是非お逢いできたら。
今夜はゆっくりお休みくださいませ。

 

坂爪「わぁぁーーっ最高…ありがとうございます!」

 

圭吾兄さんおつです!!今日は本当にありがとうございました!!!とってもたのしかったです!そして、コーヒー美味しいと言われて凄く嬉しかったです!!!!また、次回お会いしましょう!!おやすみなさい!✨✨✨✨✨

 

正直に言うと、私は、ただ自分の家を(この家でさえも、ムラキさんに提供をしていただいたものになる)を開放しているだけで他には何もしていない。主催をするからにはもっとホスト的な任務を果たさなければいけないんじゃないだろうか的な思考【余計なお世話】が時折顔を出すものの、否、何よりも大切なことは「主催者自身がリラックスをしていることである。主催者が心の底からリラックスをしている度合いに比例をして、お越しいただいた方々もリラックをできるはず!」的なところに着地をして、毎回、好きなようにやらせていただいている。不手際だらけの開催にも関わらず、そのままでいい、そのままがいいと言ってくださる方々の存在は大きい。

 

【わたり食堂の感想記事】観光よりも人との触れ合いが楽しい|起立性調節障害(OD)名古屋 / あなたはあなたのままでイイ (✿´꒳`)ノ°+.* みんなで輪を広げよう〜

 

『神の木 いける・たずねる』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、川瀬敏郎・光田和伸著作『神の木 いける・たずねる』です。こちらの本は、先日、東京の国分寺で開催されたトークイベントに遊びに来てくださった方が「坂爪さんは檜のような人ですね。この本が、どんな方の手に渡るのか楽しみです」というお手紙と共に、わたり文庫に提供をしてくれた一冊です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

檜は、材となる木の首位に推されるのが常である。いろ、つや、かおり、みな心地よく五感をときめかせる。良材としては広葉樹の欅と並び称されるけれども、欅にはときめくかおりがない。また、木材の強度を調べた記録によると、檜は伐られてからも少しずつ材の強度を高め、二百年後に最高の強度に達したのち、さらにゆっくりと元の強度にもどるのに対して、欅のそれは、伐られたときを最高とし、あとは衰えるばかりなのだそうだ。式年遷宮を繰り返す伊勢神宮、古代以来の宮殿、みな檜を主材に建てられている。檜舞台に立つといえば、役者として最高の栄達である。ー 川瀬敏郎・光田和伸『神の木 いける・たずねる』【新潮社】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

何もしないという強さ。

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最近のテーマは「湧き出すものに従う」で、頭でいろいろと考えて「あれをしなきゃ」とか「これをした方がいいだろう」などと考える打算的な損得勘定からは、出来るだけ距離を置いていたいと思う。人間の行動や感情には「絞り出したもの【外発的なもの】」と「湧き出したもの【内発的なもの】」の二種類があるような気がしていて、そして、この世の中で最も難しいことは『待つこと』ではないだろうかと思うことがある。自分の内側から湧き出してくるものを待つことができないばかりに、自分が良いと思うことではなく「自分以外の誰かが良いと言っていること」に手を出してみたり、相手の本音を聞き出す前に「自分の考えを押し付けるような形で口を挟んでしまう」ことは多い。

 

 

何もしないという強さがある。待つことと信頼をすることは似ている。待つためには「タフな精神力」が必要になり、そして、このタフな精神力のことを『愛』とか『自身』とか『信頼』などと呼ぶのだと思う。自分の内側にある泉の存在を信じること、その泉はいまこの瞬間も確実に存在をしていて、自分のこころが「いいな」と思った瞬間にふわっと静かに湧きあがる。頭意識ではない、自分の内側にある泉の声に従うこと。これが「湧き出したものに従う」ことだと思う。そして、自分の内側にある泉の存在を信じるように、自分の目の前にいるひとに対しても、同じように「泉の存在」を信じることが大切だと思う。

 

 

いろいろなひとがいろいろなことを言う。あれをした方がいいとか、これをした方がいいとか、正義や善意の仮面を被って、様々な情報が私達の内面を惑わせてくる。それでも、何よりも大切にしたいと思うことは「あれをした方がいいというものではなく『あれをしたい』と感じる静かな息吹、これをした方がいいというものではなく『これをしたい』と感じる静かな躍動、自分から前のめりになってそれをやりたいと自然に体が動き出すような、あの瞬間に芽生える感覚」なのだと私は思う。自分の内側にある泉の存在を信じること、絞り出したものではなく「湧き出すものの声に従う」こと、きっと、その先に生きていてよかったと思える瞬間のよろこびはあるのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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自分を許せていない時、ひとはひとを許せなくなる。

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早咲き日本一とも言われている、熱海の桜は満開を迎えました。1月29日(日)熱海の家で『わたり食堂』を開催します。食事やドリンクや各種サービスはすべて無料【0円!】、理由は「みなさまの善意で成り立っているから」というこの世の奇跡みたいな催し事で、2017年は毎月最終日曜日に開催をする予定です。家の近くには伊豆山神社や走り湯などの温泉もあり、桜を眺めながら散歩をするにも最適な時期になっております。当日は、千葉県から三森正道さんが主催者の不安定な精神状態を支える為に来てくださることになっていて、小学生と中学生の女の子が極上の珈琲を淹れてくれる予定になっています。他にも、様々な各種サービス(?)を用意してお待ちしておりますので、時間のある方はどなたでもお気軽に遊びにいらしてください。

 

【イベント詳細】わたり食堂【0円食堂】

 

1月30日(月)の夜は、東京都国分寺市で開催されるトークイベントに出演(?)します。ブログ記事だけではなかなか表現し切れないものを、実際に同じ空間を共にすることで伝え合っていけたらいいなあ、などと思っています。この前、はじめてお会いした方に「坂爪さんはゴールデンライオンタマリンという名前のサルにそっくりですね」と言われました。私は、なんだその格好いい名前のサルは、と思いました。ご存知でない方は、是非、ゴールデンライオンタマリンをネットで検索してみてください。どなたでもご参加いただける内容になっておりますので、是非、興味のある方はお気軽に遊びにいらしてください。

 

【イベント詳細】坂爪圭吾さんお話会in国分寺

 

心身一体。

人差し指と中指を使って、脇の下の近く【心臓の左上辺り】を軽く押してみてください。そこに痛みを覚えた方は、呼吸が浅くなっている可能性が高いらしいです。先日、広島県広島市で『天城流湯治法』なるものを施術していただきまして、私は「最近、呼吸が浅い気がするのです」と伝えましたところ、施術者の方が「それではここを押してみましょう」的な感じで私の胸部をほぐしてくださり、その直後、私は激痛に悶えました。施術者の方曰く「看護婦の方など、気苦労の多い方や鬱病っぽい症状のあるひとはここが痛むんですよ」とのこと、私は、ああ、私はこころの病気なのかもしれないと自分に同情をしました。

 

非常に驚いたことに、胸部を軽くほぐしただけで、一気に呼吸が楽になる感覚を覚えました。私は「人間のカラダは面白い!」と興奮をいたしまして、施術者の方にあれやこれやと大量の質問をいたしました。カラダがほぐれるとココロもほぐれるというのは真実みたいで、もしも、不安や恐怖に呑み込まれそうになった時は「頭よりも先にカラダを治せ!(ココロは後からついてくる)」のではないだろうか、などと思いました。その後、広島県福山市ではハワイのロミロミ施術体験をさせていただきまして、これもまた非常に素晴らしい効果を私に及ぼしました。各部位に感じる不調によって、精神的な不調を見つけるきっかけにもできるとのこと、下記に簡単なメモ書き程度のものにはなりますが、記載をいたします。

 

胸:悲しみ、心の痛み、不安、後悔、孤独感、誤解

 

腹:怒り、恐れ、嫉妬、憎しみ、人を許せない気持ち

 

腰:過去からの辛い思い出、因縁を取り除く為に、アカコードをカットして、いらないエネルギーを取り除く。

 

膝:経済的、肉体的、精神的、感情的に心と体を支える(いろんなサポートを与える場所)

 

足首:柔軟性。人生にどの様な障害があろうと、柔軟な対応で乗り切れるように。

 

施術者の方曰く「坂爪さんは膝や足腰は余裕みたいですが、お腹と胸、特に胸は『もっと手をあてていたい』と思わせる場所でした」とのこと。ああ、私は完全にこころの病気だ!孤独だ!孤独死をするのだ!そういう運命に生まれたのだ!と悲嘆に暮れかけておりましたが、施術者の方があまりにも優しい微笑みを浮かべてくださるものだから、ああ、女性は女神だ。どれだけ意固地を張ってみたところで、男には女が必要なのだ、最後には女に抱かれるのだ(と言いますか、自分には女性性に助けられたシーンが過去に何度も何度も何度もあったのだ)ということを強く思いました。

 

わたりチケット『箱根美術館・MOA美術館』

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全国遠征を終えて熱海の家に戻りますと、大量の小包が届いておりました。そのなかのひとつ、宛名不明の小包を開けるとあらびっくり!!熱海にありますMOA美術館(尾形光琳紅白梅図屏風』が有名)と箱根美術館の共通無料招待券が驚いたことに20枚(!)同封されていました。宛名不明とは粋なことを、、、添えられている手紙を見ますと「ご自由にお使いください」とだけ書かれておりまして、私は、ああ、世の中には粋な方(字体から察するに、多分、女性)がいるのだなあといたく感動をいたしました。こちらのチケットは、熱海の家の玄関に掲げてあります『みんなの財布【出し入れ自由のパブリックな財布】』の中にいれてあります。わたり食堂の際など、熱海に来られた方は(早い者勝ちになりますが、ご希望される方は無許可で構いませんので)ご自由にお使いください。

 

熱海の家は、私が不在の間は完全に開放をしておりまして、利用を希望される方が(実際にお会いしたことがある方もない方も)自由に出入りをしている状態になります。私が戻った時は誰もいない状態だったのですが、テーブルの上に小さな紙袋が置かれておりまして、その横にはチョコンと置き手紙が残されておりました。

 

はじめまして。こんにちは!札幌から来た◯◯◯です。坂爪さんやここにお泊まりの方々へ!!

 

私のいちおし!!の北海道の食品、もしよろしければお召し上がりください!!

 

特に、切り干し大根はそのままや、酢じょうゆだけでもおいしいと思います!!

 

では!!みなさま、お元気で!!ここにたどりつけたこと、実際にこのような場所が存在することがとても嬉しいです!!またいつか、イベント時にでも足をはこべたらと思います!!

 

私は、ああ、なんだかこういうのはすごいいいなあと思いました。置き手紙を残してくれた◯◯◯さんとは、まだ、実際にお会いしたことはないのですが、後日、◯◯◯さんから「北海道にはない建物の感じも堪能しました!また、実際に、あらゆる方がこちらを目指し、過ごされた形跡が、とても不思議な感覚でした。機会をいただき、ありがとうございました。これから冬が続く札幌では考えられない熱海桜や梅に出会えたことも、かなり嬉しかったです!」とご連絡をいただき、ひとつの家を通じて、この場所がなければ絶対に起こらなかった出来事の数々を前に、熱海に家を用意してくださった(現在は京都に拠点を移されている)ムラキテルミさんの住む方角に向かって「ムラキさんのおかげで、いま、このような素晴らしい出会いの数々に恵まれています。本当に、本当にありがとうございます」と五体投地をいたしました。

 

『美人は子宮でつくられる』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、一冊ではなくて二冊になります。一冊目は、子宮委員長はるさん著作『美人は子宮でつくられる』です。こちらの本は、わたり文庫という活動(?)を面白がってくださった方が「私のおすすめの本を贈るので、是非、わたり文庫の仲間入りをさせてください」と、わざわざ熱海まで郵送をしてくれた一冊になります。私には子宮がないのですが、骨盤はあるので「俺は、骨盤委員長になる!」と瞬時に骨盤体操をお披露目いたしましたところ、一緒にいた女性に鼻で笑われてしまいました。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

「世界中が敵になっても、私が私の味方だったら、それでいい。それがいちばんの幸せ」ーこれは、私がいつも大切にしている自分なりの魔法の言葉です。自分を見失いそうになったとき、子宮が曇りそうになったときに思い出すと元気になれるパワーを持っている言葉でもあります。

 

子宮の声を聞くようになってからは、あんなに傷つけられたはずの過去の出来事も「もういいや」と思えるようになりました。そして、「あれだけ会社や周りの人に尽くして、これだけバカを見るのなら、もう他人に尽くすのは一切やめよう。これからの私は、自分しか幸せにしない!」と、かたい決心をしました。

 

・・・とは言え正直に言うと、そんなふうに決心をしても、やっぱりどうしても前に進むのが怖いと思うこともときどきはありました。そんなときに自分自身に魔法をかけるように、この言葉を何度も何度も思い出すようにしていたのです。「世界中が敵になっても、私が私の味方だったら、それでいい、それがいちばんの幸せ」と。ー 子宮委員長はる『美人は子宮でつくられる』【大和書房】

 

『スエロは洞窟で暮らすことにした』

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二冊目は、マーク・サンディーレ著作『スエロは洞窟で暮らすことにした』【紀伊國屋書店】です。本と一緒に添えられた手紙の文章が嬉しかったので、同時にご紹介をさせていただきます。手書きのお手紙をいただけることは本当に嬉しいです。文章の先に書き手の温度を感じることができますし、メールにはない人間的な温もりを感じます。ご希望される方は(ご希望の書籍のタイトルを添えて)何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※

 

こんにちは。◯◯◯◯◯と申します。

 

突然ですが本を送らせて頂きました。

 

坂爪さんのブログを読ませて頂いておりますと、毎回この本の主人公を思い出します。勿論、坂爪さんと主人公の理念の様なものは違うでしょうが、ピュアでまっすぐな生き方が似ているなあ、と。ワタシはちょくちょく「生きるってなんだろぉ、常識って何ぞ?33年も生きたし、もういいかなぁ、人生終わりにしても。33年も頑張ったんだしさぁ。」なんて考えてしまうことがあります。決して自殺願望がある訳ではありません(笑)

 

お金を稼ぐ事に疲れてしまったのかもしれません。ワタシもお金稼ぎ苦手です。転職も繰り返しています。お金が無くても生きていける世界ができたらいいのにって思っていました。でも最近になって、ワタシはお金を稼ぐのが苦手なのではなく、人付き合いが苦手なのかもって思い始めました。お金を稼ぐには、会社の人達や取引先の人やお客さんと上手く立ち回れてこそですから。逆に、人と上手く向き合える様になれば坂爪さんの様にお金を稼ぐ必要があまり無くなるのかもしれません。お金を稼ぐ事はワタシにとって人生の修行なのでしょうね。坂爪さんは、その修行を(前世とかで)クリアしているのだろうなぁ、と勝手に思いました(笑)

 

その代わり坂爪さんは、自分の生き様を通して不特定多数の人々に勇気を与えるという仕事をしていると思います。実際ワタシは坂爪さんのブログを通じて「素晴らしい世界はすぐそこにある!」と毎回励まされています。「坂爪さんの様な生き方をしている人が実在する!」と思うだけで嬉しくなります。

 

この本は、お金に関する核心的概念をワタシに与えてくれました。わたり文庫に加えて頂けたら嬉しいです。

 

もうしばらく寒い季節が続きますね。お身体ご自愛下さいませ。

 

◯◯◯◯◯

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫  

 

自分を許せていない時、ひとはひとを許せなくなる。

2017年は自分自身をわたり化させる【みなさまに自由に使っていただくフリー素材にする】ことで、どのような現象が起こるのかを観察する試みを行なっております。今月だけでも、非常にありがたいことに東京&愛知&鹿児島&熊本&福岡&広島&岡山の7県に、海外はマレーシア&シンガポール&タイの3国に足を運ぶことができました。施術体験で言えばリフレクソロジーと天城流湯治法とロミロミの三種を体験させていただき、眉唾ではあるもののカラダに纏わる知識も少しだけ増えました。自分ひとりではとてもじゃないけれど出すことのできないスピードを、ひとさまの力をお借りすることで出すことができる。綺麗事が言いたい訳ではなく、素直な気持ちとして「本当にありがたい話だ」としみじみ感じています。

 

【イベント詳細】わたり人間 〜ACROSS THE UNIVERSE〜

 

先日、新潟在住の方から「坂爪さんにどうしても見てもらいたいと思う映画があって、『この世界の片隅に』という映画なのですが、上映している映画館までの交通費や鑑賞料金は私が払いますので、もしもお時間がありましたら(感想を聞かせていただく必要などもありませんので)是非見ていただけたら嬉しいです」というご連絡をいただきました。私は、なんというか、もう、私なんかでいいのですかと思いました。そして「私なんかでよろしければ、是非!」というお返事をいたしました。自分を開放することで、自分では予期することのできないいくつもの出来事が起こります。そのすべてが良いことばかりとは限らないけれど、喉元過ぎれば熱さを忘れるとでもいいましょうか、過ぎてみればすべてが良い思い出になるような、そんな感覚を覚えております。

 

たらたらと能書きばかりを垂れて参りましたが、私は、人間関係の肝は「いかに諦めてもらうか」にあると思っております。良い子を演じて好かれ続けることよりも、弱い部分を早めに晒して、それでも愛してくれる(その部分こそを愛してくれる)ひとと相互補完的に付き合う方が、精神衛生上にもすこぶるよろしいのではないでしょうか、などと思うことがあります。自分みたいな生き方でも許してくれるひとがいるということ、そして、一見許してくれなさそうなひとでもしっかりと自分の思いを丁寧に伝えることができたなら、多くの場合、ひとは寛容な精神と共に許してくれるのだということ【お互いに競い合うのではなく、お互いに支え合いたいと願う生き物であるということ】は、この世界に立ち向かう勇気と信頼を与えてくれました。そして、私は「恐れずに、自分を出していこう。そして、これまでの日々の中で自分が許されてきたように、他人を許していける人間でありたい」などと思うのであります。

 

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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弱さは、希望だ。

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静けさを身にまとうものが好きだ。数年前、北欧の街々を訪れた際に「この場所は、街全体が静けさを着こなしている」と感じた。コンビニやレストランでは過剰なBGMやアナウンスが流れることは少なく、生活の音だけが空間に響く。落ち着くということは「自分の内面にある静けさを護ること」かもしれないと思った。追い立てられるように過ぎていく時間の中で、周囲の声や過剰に溢れる情報の中で、ふと、自分の内面の静けさを見失ってしまうことはある。しかし、すべてのひとの心の中には「そのひと自身の静けさ」があり、騒がしい頭意識の裏側には、常に、静寂で美しい世界が広がっているのだと思う。

 

いま、広島駅前にあるホテルにいる。

 

熊本を経由して福岡県にはいり、私に声をかけてくれた方と一緒に豊前市にある求菩提山に向かった。山の中腹部にはすでに大量の雪が降り積もり、もうこれ以上先には車で進むことはできないという所まで来て、車を降りた。静けさに包まれた澄んだ空気の中、雪の上を歩く。あたりには何もない、ただ、風の音と、雪の音と、歩く音と、呼吸の音だけが響く。途中、立ち寄ったお寺の境内にはたくさんの地蔵が並んでいた。地蔵たちの頭の上には冷たい雪が降り積もっているけれど、地蔵たちの表情は穏やかで、そして、温かい。

 

花の連鎖。

私は、花が好きだ。誰かと会う予定があるとき、時間に余裕がある限り、手近な花屋さんで一輪の花を買う。花を買うと、その花を渡すひとに会うことが楽しみになる。また、日常的に言葉を扱うことが多いからなのだろうか、言葉以外のものに自分の気持ちを乗せることができた時は嬉しい。うまく言葉にできない部分を、一輪の花が代弁する。そんな風に感じることがある。だからなのだろうか、隙間時間を見つけては花を買う、いま、広島のホテルには福岡県の道端に咲いていた水仙の花が活けられている。空間に花があるだけで、何かが変わるような気がしている。

 

鹿児島で出会った女性は、私に三輪の花をプレゼントしてくれた。その方は「坂爪さんは花を贈ることが好きだと言っていたので、このお花たちを、次に会う方々に渡してもらえたらと思って持って来ました」と話す。こんな形での花の贈り方もあるのかと、そして、このような気持ちで花を購買してきてくれる女性もこの世の中にはいるのかと、ほんとうに素晴らしいものを見た気がした。また、鹿児島で出会った別の女性も、胸ポケットにさすための小さなバラをいくつも用意してくださり、男性陣の方々に渡していた。特別なことではない、大袈裟なことでもない、でも、確かに空間全体の空気に彩りを与えるこまやかな心配りを見て「美しい」と思った。

 

感謝と奢り。

様々な方々と出会う日々の中で、どうしても「このひとのことは好きになれるけれど、このひとのことは好きになれない」と感じることがある。好きなひとを好きになることはたやすいけれど、苦手なひとを好きになることは難しい。それでも、ひとりひとりの話にしっかりと耳を傾けることができた時、ああ、このひとも自分と同じ人間なのだ【みんな、頑張って生きているのだ】という共感の温もりが生まれる。そして、そのひとのことを苦手だと思った自分の感覚を恥じると同時に、最初は苦手だと思ったひととでも関係性を結び直すことができた瞬間を通じて「世界が広がる」感覚を覚える。出会えたことを嬉しく思い、感謝の気持ちが湧く。そして、なぜ、感謝という言葉の中に『謝る』という感じが含まれているのかということを、感覚的に知る。

 

自分は正しいと思っている人間に正しい人間はいない。自分は偉いと思っている人間に偉い人間はいない。そういう、人間的な「奢り」の部分をきよらかに打ち砕くもの、それが感謝と呼ばれるものだと思う。生きていると、どうしても『自分は自分の力で生きているのだ』という傲慢な思い【奢り】が生まれることがある。人間関係においても、自分は正しい、間違っているのは相手だ、だから自分は悪くない、悪いのはあいつの方だ、などと考えてしまうことがある。そういう時に、私は「奢りのど真ん中」にいるのだと思う。悪を糾弾するこころも悪であり、同じように、醜を糾弾するこころも醜だと思う。自分のことを棚にあげて他人の生き方をああだこうだと叫ぶ時、多分、その人自身のこころは汚れている。

 

それを洗い流すものが「謝」だと思う。自分の奢りが打ち砕かれた時、いかに自分が周囲の人間に対して優しくできていなかったかを知り、いかに自分が調子に乗ってしまっていたかを知り、そして、いかに自分が「自分は正しい」と思い上がっていたのかを知る。自分の力だけで生きている人間はひとりもいない、食料も、金も、空気も、自分の力ではつくり出すことはできない。自分の力で生きているのではなく、様々な恩恵によって「生かされているのだ」と痛感をする時に抱く思い、多分、それが感謝だと思う。感謝の気持ちを忘れた時、私は「世界全体から切り離される痛み」を覚える。自分の力で生きているという思い上がりは、生かされているという感覚を奪う。生かされているという感覚を失う時、私の中に奢りが生まれ、奢りによって痛みを覚える。

 

『これが私の優しさです』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、谷川俊太郎著作『これが私の優しさです』です。こちらの本は、鹿児島県でお会いした女性が「旅に出る時はいつもこの本を連れていく、私にとって大切な一冊です」というお言葉と共に、託してくれた一冊です。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、大分県にわたりました ※※※

 

窓の外の若葉について考えていいですか

そのむこうの青空について考えても?

永遠と虚無について考えていいですか

あなたが死にかけているときに

 

あなたが死にかけているときに

あなたについて考えないでいいですか

あなたから遠く遠くはなれて

生きている恋人のことを考えても?

 

それがあなたを考えることにつながる

とそう信じてもいいですか

それほど強くなってもいいですか

あなたのおかげで

 

谷川俊太郎『これが私の優しさです』【集英社文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

弱さは、希望だ。

最近、疲れた時に「弱さを受け入れると、力が出る」ということを思った。自分は弱い、自分にはこういう弱さがあるのだと認識をした時、不思議と、そのままの自分を受け入れたいと思う力のような、これが自分なのだから、これで生きようと思う力が、そして、このままの自分を受け入れた上で「少しでも強くなりたい」と思う力が、自分の内側から静かに湧き出すことを感じる。肩に力を入れた状態で「頑張ろう!」と思うのではなく、自分には頑張れない瞬間があるのだということを認めると、不思議と、頑張ろう【これからも生きていこう】と思う力になる。

 

弱さは希望だ。様々な方々と話す機会を通じて、ひとには見えない部分で誰もが頑張って生きているのだということを思う。幸せそうに見えるひとも、誰にも言えない孤独や不安を抱えていて、後ろ指をさされるような生き方をしているようなひとの中にも、崇高な美はある。自分を責めてはいけないのだと思う。同じように、他人を責めてはいけないのだと思う。生きているということは、それだけで、充分に頑張っているということなのだと思う。

 

強くなりたいと願うこと、それが希望になるのだと思う。この希望は、弱さによって支えられている。自分の弱さが明るみに出る瞬間には苦痛が伴うけれど、その先に、いまよりも透明な、いまよりも濁りの少ない、いまよりも透き通ったこころの状態があるのだと思う。弱さは悪いことではなく、形を変えた希望なのだと私は思う。だからこそ、難しい場合もあるけれど、自分を含めた人間を咎めることにエネルギーを使うのではなく、温かな共感を生み出す方向へ、自分のこころの舵を取っていきたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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最高の健康法は「怒らない」こと。

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果物を食べていると「フレッシュ!」と叫びたくなる。タイから帰国してからというもの、すこぶる体調がよい。体が軽い。多分、1日の最初に口にいれるものは「果物!絶対に果物!」という実験が功を奏し続けているからだと思う。感覚的に、空きっ腹に果物をぶちこむと全身に浸透をするイメージがある。果物、野菜とレイヤーを重ねて、最後にごはんや肉を投入する。すると、なんだろう、私は朝起きた時に胃がもたれている感覚を覚えることが多いのだけれど、それが消える。便通もよくなる。日中のけだるさも消えて、短時間睡眠でも目覚めがよくなる。一説によると「空腹を維持すると五感が研ぎ澄まされ、なんなら幸運度があがる(!)」という話も聞いた。1日の最初に口にいれるものは、果物に限る。

 

今、鹿児島にいる。

 

早朝に目覚めて「かごっま温泉」という公衆温泉浴場に足を運んだ。そこには『塩風呂』というものがあり、全身に塩を塗りたくった後に5〜10分ほど寝かせ、シャワーで塩を流した後に温泉に入るという流れになるのだけれど、実際に試した結果「こんなにも肌はトゥルットゥルになるのね!」とアゴが外れた。先日、伊勢神宮に奉納されている「岩戸の塩」という最高級の塩をもらった。値段を聞くと360グラムで2500円程度(!)ということで、私は震えた。この塩を、先日、ある方に贈呈した。その方は、それを全身に塗りたくって風呂にはいったのだと話した。すると、その、あまりにも高いデトックス効果に強い感動を覚えたのだと話してくれた。その話があったからの、かごっま温泉の塩風呂である。結論から言うと「最高!」で、2500円の塩も、ある種の美容グッズだと思えば高い買い物ではないのかもしれない。

 

身体性を取り戻す。

塩風呂が極めて効果的だと聞いてから「じゃあ、海水浴は最高ということだね!」と閃いた。海は塩の宝庫だ。先日、マレーシアのランカウイ島に足を運んだ際に、金はないけど時間はあるので「砂浜に四時間寝る」的なことをした。本当は、ビーチには有料のいい感じのベッドが並べてあったのだけれど、私にはその金がなかった。観光客たちが日除け傘の下に並べられたリクライニングチェアーに寝そべっている横で、私は、自分のカバンを枕にしながら砂浜にダイレクトに寝た。大量の日光を浴びる。ビタミンDが気持ちいい。うとうととする。そのまま眠りに落ちる。砂には「邪気を吸い取る」力があると聞く。四時間ほど横になっていたからなのだろうか、謎に、私の背中から大量の邪気が吸い取られているような気がした後に、私は、強烈な腹痛に襲われた。

 

人間の腸の中には腸壁と呼ばれている部分があって、誰の中にも、腸壁にへばりつくような形で「宿便」があると聞く。砂は、その宿便を取り除く効果があるらしい。腹痛の原因は、おそらく、腸壁から宿便が剥ぎ取られている時の痛みだったのだろう。トイレに向かい、ことを済まし、私の体の軽快度は急上昇をした。そして「人間の身体は面白い!」と痛感をし、そこから、私の「健康と身体性を取り戻す」という挑戦ははじまる。ランカウイ島のビーチには、観光客相手に仕事をする若い現地人の男性たちがいる。彼らの身体は精悍で逞しく、ビジュアル的にも美しい。私は「しなやかなボディにしなやかなマインドは宿るのだろう。私も、このようなボディを身に付けたいものだ」と思い、頭ばかりを使っている自戒の念も込めて、身体性を取り戻す日々を送りたいと改めて思った。

 

人間の免疫力を高めるのは「日光浴・月光浴・森林浴・海水浴・温泉浴」の五つがあるのだと聞く。私は自然を愛している。金はなくても、仕事はなくても、友達はいなくても、生きている人には話せないことがあっても、それでも「俺のバックには山がついている」のだと思う。それだけで、私は元気になることができる。海に入ると元気になる。塩の力なのだろうか、傷の治りも早く、身体中の電気が抜ける感覚がある。夏は海。冬は温泉。移動の多い生活の醍醐味は「全国各地の温泉を巡れること」にある。これから熊本に向かい、福岡を経由して広島に向かう。広島ではどなたでもご参加いただけるトークイベントが開催される予定になっておりますので、どなたでも、時間のある方はお気軽に遊びにいらしてください。

 

【満席御礼!】坂爪圭吾さんお話会 広島 〜わたり人間 across the Universe〜

 

気の力。

目には見えない「気」の力を意識する。先日、超絶高級なホテルのラウンジで一杯2000円近くするTEAをご馳走になった。私の心は「はうあ!」と失神をしかけていたけれど、冷静に考えると、これだけ素晴らしい調度品に囲まれて気の行き届いた空間の中で時間を過ごすことの中には、余裕で千円を超える価値があるのかもしれないと思った。私は、神社が好きだ。多分、気の流れが好きなのだと思う。目には見えない「気」の流れのようなものは確実にあって、良い感じの飲食店にはいると「ここは感じのいい店だな」と思うし、空気が停滞している飲食店にはいると「ここは空気が停滞をしているな」と思う。

 

多分、人間も同じだ。

 

最近、料理を食べる時に「どれだけの思いが込められているか」を意識する。極端な話、コンビニの弁当などは料理というよりもマニュファクチュア【製造品】に近い気がする。同じといえば同じことなのだけれど、私は、どうせ口にする【自分の肉体の一部になる】なら丁寧に作られてたものを食べたいと思う。決して、高級なものを食べたいという訳ではなく、誰が、どのような思いでそれを作っているのか、その目には見えない思いのようなものが「気」となり、食材の中にも浸透するような気がする。嫌々働いているひとの仕事には怨念がこもり、よろこびと共に働いているひとの仕事には福音がこもる。だからこそ、私は、非常に利己的で傲慢な響きにもなるけれど「生きとし生けるものが、みな、よろこびと共に生きられますように」と切に願う。

 

『整体入門』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、野口晴哉著作『整体入門』です。身体性を取り戻すことを意識した途端に、この本が手元にあらわれて非常にびっくりしました。誰でも、何処でも、いますぐに試せる実例の数々が非常に面白い一冊です。最近のマイブームは「合掌行気法」で、暇な時間を見つけては瞑目をしている昨今です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、鹿児島県にわたりました ※※※

 

『合掌行気法』 

その方法は、まず合掌して指から手掌へ行きを吸い込んで吐く。その合掌した手で呼吸する。やっていると手掌がだんだん温かくなり、熱くなり、むずmずう蟻のはうような感じがしてきたり、涼風感があったりするが、そのまま呼吸を続けると手掌がだんだん拡がって室内一ぱいになり、「天地一指」という感じになって、自分がどこへ坐っているのか、脚も体もなくなって、ただフカフカした雲の中に合掌だけがあるというようになる。

 

『背骨への行気』

疲労したり、体力の喚び起こしを必要とする時は、背骨へ気を通す。その方法は背骨で息をすること。背骨に息が通ると汗が出てくる。背骨の硬いところは通りにくいが、通ると「可動性」が出てくる。息を通すつもりだけでも、やっていると息が通ることが判る。その方法は、ただ背骨で息をすること。方法は簡単だが、精神が統一すると体の力はいっせいに発動する。正坐でも倚座(腰かける形)でも、立姿でも臥姿でもよい。初めは瞑目してやる。できるようになったら、眼を開いたままでもやれる。慣れれば歩行中でも、仕事をしながらでもできます。決断することの遅い人、行動の鈍い人などは特に変わる。病気の経過の遅い人も、栄養物を食べても道ない人も、これを行なうと、それまでと異なった活気のある体になる。しばらくすると体の中には勢いが湧いてくることが判ります。

 

『気をおくり、通す法』

愉気法というのは、他人の体に息を通すことである。離れていても、手をつないでいても、その部分に手を触れていてもよい。自分の気を相手におくるつもりで、気をこめて息をおくる。それだけである。静かな気、澄んだ気がよい。強くとも荒んだ気、乱れた気はいけない。ー 野口晴哉『整体入門』【ちくま文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫 

 

最高の健康法は「怒らない」こと。

鹿児島に来る前は名古屋にいた。最近、私は『あるヨギの自叙伝』という本に興味があり、しかし、定価が4500円程度(!)するために手が出ないなあと思っていた。その話を、名古屋で出会った女性に話したら「あの、今日、私、さかつめさんにちょうど5000円をあげようと思っていたのです。もしよろしかったら、それで本をプレゼントします!!」と言ってくれた。私は「なんだこれは!」と震えた。これも果物パワーなのだろうか。空腹を維持すると幸運度があがる、これは真実だった(のかもしれない)。頭の中でスティーブ・ジョブズの名言「ステイ・ハングリー」という言葉がこだまをした。これは余談になるけれど『あるヨギの自叙伝』という本は、ハワイに行くスティーブ・ジョブズiPad2に唯一ダウンロードされたいたことで有名な本になる。

 

 

本を購買した流れで浮き足だっていた私は、女性に連れていってもらうがままに本屋さんの近くのカフェに入った。私は、本を手に入れた興奮で気が気ではなかった。女性は話す「私は今月で仕事をやめて、来月からは東京に引っ越しをします。いままで生きてきて、愛知県を離れたことがなかったのでこれから新しい人生の門出を迎えようとしているのですが、こうして新しい一歩を踏み出す勇気をもらえたのも、坂爪さんの言葉があったおかげなんです。なので、今日は、そのお礼を伝えたかったのです」と話す。ひとは優しい。不思議な出来事は起こる。生きていればいいことがある。私の頭の中では、そのような言葉が響き渡る。ひとは優しい。不思議な出来事は起こる。生きていればいいことがある。

 

 

怒りは人生を駄目にする。多分、最高の健康法は「怒らない」ことだ。怒らないということは「ひととを咎めない」ということで、ひとを咎めないということは「ひとと争わない」ということだ。現在のようなあまり意味のわからない生き方をはじめて、およそ4年の月日が流れた。自分を楽にしてくれた考え方のひとつに「ひと並みをやめる」というものがある。私は、家のない生活を始めた頃、否、実際は大学を途中で退学した(あるいはこの世に生まれた落ちた)時点で「ひと並みであることを諦めた」のだと思う。ひと並みを放棄したらこの世の中で生きて行くことなんてできないんじゃないかと思っていた時期もあったけれど、蓋を開けてみたらなんじゃらポン、ひとは優しい、不思議な出来事は起こり、生きていればいいことがある。自分は自分であり、相手は相手である。冷たい意味での一線を引くのではなく、お互いに敬意を込めた対話を重ねることができる限り、そのままでいいし、多分、そのままだからこそいいのだと思う。

 

 

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人生は続く。

 

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生きているひとには、話せないこと。

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生きているひとには話せないことがある。こんな気持ちをぶちまけてしまっては、聞くひとの心を不快にさせてしまうかもしれない。迷惑をかけてしまうかもしれない。傷つけてしまうかもしれない。何よりも、また今日も伝わらなかったという思いが、自分の心を傷つけてしまうかもしれない。言葉にするだけでも楽になること、誰かに話すだけでも楽になることは確かにあるのだと思う。ただ、言葉にすることで、悲しみや苦しみを強化してしまうこともあるような気がしていて、頭ばかりでそういうことを考え込んでしまう時は、誰にも、何も、話せなくなる。

 

そういう時期が、わたしにはある。

 

家のない生活をしていた頃、また、移動を続ける生活をしている中で、稀に「さすがに今日はしんどいよ」と思うことがある。苦しみの渦中にいる時期はつらいが、そこを経ることでしか得られない教訓のようなものもある。私の場合、生きる気力をなくした時は、好きな道を歩くこと、好きな歌を歌うこと、好きなひとを思うことが力になった。好きな道を歩くこと。できることならばコンクリートなどで舗装をされた道ではない、土の上を歩くこと。好きな歌を歌うこと。できることならばただ頭の中で思い浮かべるだけではない、声に出して歌うこと。好きなひとを思うこと。できることならば家族や友達や恋人の存在だけではない、いまはもう生きてはいないひと、もう、すでに死んでしまっているひとを思うこと。

 

変わるものと、変わらないもの。

何処の国に行っても、同じ月が輝いている。日本にはない景色に触れた時、その、変わる景色を前に「自分がいる場所が世界のすべてではないのだ」と心が楽になることもあれば、変わらない景色を前に「遠く離れても、同じ世界を生きているのだ」と心が慰められることもある。この国には四季がある。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。いつまでも春のままではいられないけれど、春は必ず訪れる。この世の中には、多分、変わるものと変わらないものがあるのだと思う。季節は変わり続けるけれど、季節は巡り続けるということは変わらない。いつまでも春のままではいられないけれど、夏を経て、秋を経て、冬を経て、春は必ず訪れることは変わらない。どんなに素晴らしい権力者にも、ひとがひとを好きになること、朝が来ることを止めることはできない。

 

熱海の家の近くに、好きな山がある。

 

私はこの山が好きだ。遠く離れても、この山のことを思うと力になる。ひとだけに求めるとつらくなってしまうことを、この山の道を歩くと、その、心許ない思いを受け入れてもらえる【不安や恐れが浄化されていく】気持ちになる。いまの私には、ひとに誇れるようなものは何もない。何もない癖に、それでも、何かを失うことを恐れてしまう瞬間がある。誰かに理解を求めてしまう瞬間がある。自分のみじめさばかりが溢れ出してしまう瞬間がある。そんな時、私は、この山を思う。そして「何もかも失ったとしても、この山は残るのだ」ということを思い、大丈夫だ、自分は、生きていけるのだという気持ちを取り戻す。

 

祈る姿は美しい。

現在開催しているわたり人間の一環で、昨日、東京の阿佐ヶ谷ユジクで上映された映画「ラサへの歩き方」に御招待をしていただいた。仏教で最も丁寧な礼拝方法と言われている『五体投地』で2400キロを一年かけて歩き続ける内容で、チベットの田舎町を部隊にはじまるとても静かな映画だった。五体投地で大事なことは「他者のために祈ること、それから自分の幸せを祈ること」だと言う。私は、この映画を見ながら、二回涙を流した。決して、泣かせるための映画ではなかった。五体投地という非常に厳しいスタイルで2400キロを一年かけて歩く、ただ、それだけの内容なのに「ただ、それだけのこと【やるだけ大変なこと、やるだけ無駄なこと、やるだけ身体をすり減らすこと】」を真摯に続ける人達の姿に、胸が打たれた。

 

2400キロを歩くことは大変なことだ。それを、五体投地という酷なスタイルで歩くことは、日本人からして見たら「なんでそんな大変なことを!」と思う。でも、その「なんでそんな大変なことを!」と思うようなことを精一杯にやっている人の姿に心が打たれる。意味とかではない、損得勘定とかでもない、ただ、ひとつのことに命を込める「その姿、その生き様」に、まばゆいばかりの生命の輝きを見たからなのだと思う。ああ、この人たちは、いま、間違いなく生きているのだ、そして、自分自身の命もまた、同じように生きたがっているのだという感動。頭ではない、肉体全身を通じて「生きていること」を実感したいのだと願っている、自分のこころの奥底にある何かとの邂逅。

 

彼らは、決して「自分の凄さを見せつけるため」に歩く訳ではない、見事なまでに真逆だ。自分を自然の中に投げ出して、自分自身を消すこと、自身の奢りを認識すること、他者のために祈ることを通じて『自分を優先するのではなく、自分以外のものを優先する』生き様を見せる。その姿の中に、私は、美と呼ばれるようなものを見た。そして、自分自身の過去の体験を思い出していた。昔、疲れ切っていた状態で夜の街を漂泊していた時、ふと、大切なひとの存在が頭に浮かんだ。自分が疲れていることは置いておいて、ただ、そのひとがいま安らかな気持ちでこの夜を過ごしてくれていたらいいなあとこころ静かに思えた時、不思議なことに、疲れも悩みも吹き飛んでいた。そして、涙が流れそうになったことがある。私は、祈るという行為の中に『美』にも似た何かを感じた。祈る姿は美しい。昔から、そんな風に思っていた。そして、「祈りのない美はないし、美のない祈りはない」のだと、ふと、そんな言葉が頭をよぎっていた。

 

【イベント詳細】わたり人間 〜ACROSS THE UNIVERSE〜

 

『ラサへの歩き方 祈りの2400キロ』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は『ラサへの歩き方 祈りの2400キロ』映画パンフレットです。映画なんて、と思っていた自分にビンタだ。世界には自分の知らない素晴らしい芸術作品群が無数に転がっているのだと痛感しました。そして、知らないことを知ることはこんなにも嬉しいことなのかと思いました。こちらの作品はまだDVDが出ていないために、奇跡的にお近くのミニシアターなどで上映される機会があれば、是非、実際にご覧いただけたら嬉しいです。映画のパンフレットをご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

【映画予告篇】 『ラサへの歩き方~祈りの2400km』映画オリジナル予告編 - YouTube

 

自然の中に自分を投げ出す。

金も命も時間も花も、多分、大切なことは「使い方」だ。命の本領が発揮される瞬間、それは、命を使うに値するものを見つけた時だと思う。逆説的になるけれど、自分なんてどうなってもいいからこれだけは伝えたい、これだけはどうにかしてやりたいという祈りにも似た感覚の中で、命の本領は発揮をされるのではないだろうか。自分を守るから弱くなる。自分のことばかり考えるから、自分自身を見失う。自分なんてどうなってもいいからこれをする、自分なんてどうなってもいいからこれをやりたい、大袈裟な言葉で言えば「自分を生かそうとするのではなく、自分を自然の中に投げ出して殺してしまうようなこと」の中に、結果として、自分は生きているのだという最高の実感を覚えるのではないだろうか。

 

自分の弱さを痛感することの多い日々だ。私は、すぐに誰かに何かを求めてしまう。誰かに何かを期待してしまう。恥じることの多い日々だ。誰かのせいにしている限り、自分を見ないで済む。誰かの醜さを指摘している限り、自分の醜さを見ないで済む。他人の生き方にああだこうだと口を出している限り、自分の人生を真面目に生きないで済む。まずは自分なのだろう、ひとのことをああだこうだと言い始めた時ほど、私は、自分自身から離れているのだろう。

 

五体投地で大切なことは「他者のために祈ること、それから自分の幸せを祈ること」だと言う。いまの私には、ひとに誇れるようなものは何もない。何もない癖に、それでも、何かを失うことを恐れてしまう瞬間がある。誰かに理解を求めてしまう瞬間がある。自分のみじめさばかりが溢れ出してしまう瞬間がある。そんな時、私は、熱海にある山の存在を思う。そして「何もかも失ったとしても、この山は残るのだ」ということを思い、大丈夫だ、自分は、生きていけるのだという気持ちを取り戻す。透明になるということ、執着やエゴと呼ばれるものから自由になるということ、大袈裟な言葉で言えば『最大限に自分の命を生かすために、自分を殺す【自然の中に自分を投げ出す】」ということが、澄み渡る普遍的な祈りとなり、ひとの心に浸透をするのだと思う。

 

 

人生は続く。

 

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楽になる道が正解だよ。

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バンコク最大の個人的名所を教えていただいた。BTSオンヌット駅からソンテウに乗ること20分弱、お寺の中にあるハーバルサウナ(利用料金60バーツ【タオル&サウナ用の服込み】)である。「こんなところに、こんなものが!」ということで、暑い国で暑い場所にはいることの喜びを知った。私は、今後、バンコクに行くたびにこの場所に足を運ぶだろう。愛するブログ読者のみなさまに、マル秘スポットの簡単な詳細をお伝えいたします。今度、みんなでこのサウナに行くためだけのバンコクツアーを企画したいほどです(誰か企画をしてください!)。

 

【追記】諸事情により、ハーバルサウナ詳細の文章を削除いたしました。誠に申し訳ありませんが、実際にお会いした際にガッチリ対面でお伝えさせていただくスタイルで参ります!!(実際にお連れしていただいたY様、本当にありがとうございます!!) 

 

世界に委ね、世界を広げる。

私は、自身の連絡先をWEB上に公開している。基本的には、それを見てくださったからから「会いたいです」的な連絡をいただき、連絡をいただいた場所まで実際に足を運び続ける生活をしている。バンコク初日は駐在中の日本人家族のご自宅に宿泊し、バンコク二日目は現地採用で働く日本人の方の家に宿泊をした。運転手付きの車に乗せていただいたり、誰も知らないようなレストランをご案内していただいたり、現地の人ならではのお話を伺ったりなど、自分ひとりでは到底得ることのできない情報を聞く。そして、何よりも「そのひと自身にしかすることのできない話【そのひと自身の話】」を聞けることがうれしい。

 

私の今世のテーマは「自分で決めない」ということで、私は、ただ、何かしらの出来事が起こりそうな場所に自分を置く。そのあとは野となれ山となれの精神で、経験則的に、基本的にはなるようになると思っている。「どうにかする」と「どうにかなる」は似ているけれどまるで違うように感じていて、前者は自分だけの力でどうにかするというニュアンスが強いのに対して、後者は「自分以外の力、言うなれば『他力本願力』が試されている」ように感じている。

 

 

そこで、上記のような「わたり人間」という企画をはじめた。自分自身をフリー素材としてみなさまに自由に好き勝手に使っていただくことを通じて、果たして、どのようなことが起こるのかを観察する。私は、とてもじゃないけれど自分ひとりだけの力では冒頭のハーバルサウナを発見することはできなかった。乱暴な表現になるけれど「他力、最高!【だからこそ、自分にもできることは精一杯やって行こう!】」なのだと思う。基本的には呼ばれた場所なら何処にでも参りますので、何かある方も、何もない方も、いつでもお気軽にご連絡ください。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

読者プレゼント。

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私はタイの歯磨き粉【HERBAL TOOTHPASTE】を愛している。安価であり、コンパクトであり、磨けば磨くほどに歯が白くなるというこちらの歯磨き粉は、自分史上最高の条件を満たしている。今回、こちらの商品を爆買い(10個で150バーツ!!)して参りましたので、ご希望される方に無料で郵送をいたします【限定10名!】。題して「わたり歯磨き粉」です(こちらの企画は、無くなり次第終了になります!)

 

※※※ こちらの募集は終了いたしました ※※※

 

非常にありがたいことに全国各地を転々とする日々を過ごすことができており、これもひとえにみなさまのおかげ、それならば「自分にもできる恩返しを少しでもしていきたい!」ということで、これからも世界各国で購買できる何かしらを無料配布していけたらいいなあと思っております。もしも、あなた様のお住いの地域で「これは安価でコンパクトだから、爆買いをして帰るといいよ!」的なサムシングがありましたら、お伝え頂けましたら幸いです。

 

誰かにものを贈る瞬間は幸せで、ものを通じて「関係性が生まれる」ことも嬉しい。普通だったら出会わなかったであろう方々と、リアルでも、バーチャルでも、何かしらの形で何かしらの繋がりが生まれることは生きる上での張り合いになる(実際に会うことが一番張り合いになる)。また、熱海の家に女性から荷物が届いた時など「はうあ!なんて可愛らしいラッピングなんだ!」と感動をすることがある。そして、その感動体験を通じて「なるほど、こういう贈り方をするとひとは嬉しい気持ちになるのだな」などと勉強になったりする。関係性の中で苦しみを覚えることもあるけれど、関係性の中で成長をして、苦しむこと以上に生きることのよろこびを感じたりするのだろう。

 

『禅とはなにか』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、鎌田茂雄著作『禅とはなにか』です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

人生は少しだけ減らすことを考えれば、その分だけ世俗から抜け出すことができる。たとえば、もし友人との付き合いを少しだけ減らせば、その分だけ煩わしいいざこざから逃れられるし、発言するのを少しだけ減らせば、その分だけ過失がなくなる。また、思案するのを少しだけ減らせば、その分だけ精神は消耗しないし、利口ぶるのを少しだけ減らせばその分だけ本性を全うすることができるのである。それなのに、日毎に少し減らすことを努めないで、かえって日毎に少し増すことを努めている者は、全くその一生を、自分から手かせ足かせで束縛しているようなものである。ー 鎌田茂雄『禅とはなにか』【講談社学術文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

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楽になる道が正解だよ。 

様々な場所に足を運び、それなりの体験を重ねて来たけれど、私の場合、ひととの交流に勝るよろこびはないのだと思う。ああ、いま、自分は目の前の人のこころに触れることができたと思えた時、その瞬間の中には「宝物を発見した」ような嬉しさがある。大袈裟な言葉になるけれど、真善美と呼ばれるもの、ひとりひとりの心の中には無限の宝が埋まっていて、それは常に発見されることを待っている。自分の存在に自信をなくしてしまった時は、ただ、日々の忙しさや外野の声に惑わされているだけなのだろう。 

 

 

世界に心配を投影すると、世界は心配を返してくる。世界に信頼を投影すると、世界は信頼を返してくる。人生がつまらないのは「人生はつまらない」と自分自身が思っているからで、人生が最高なのは「人生は最高だ」と自分自身が思っているからだ。世界を変えることは簡単で、ただ、自分の捉え方次第なのだと思う。どのような人生を送るとしてもいい、はじめから私達は自由の海の中を泳いでいて、苦しみにフォーカスをしたいひとは苦しみにフォーカスをする、よろこびにフォーカスをしたいひとはよろこびにフォーカスをしているだけなのだと思う。

  

 

先程東京に戻り、いま、東海道線で横浜に向かっている。穏やかなタイの日々は「楽になる道が正解だよ」と言っているような気がした。正解だとか不正解だとか、謎の基準に惑わされそうになった時は、ただ、自分のこころが楽になる道を選びなさい。きっと、それがあなたにとっての正解だよ。南の島に吹く風は、そんなことを囁いているような気がしていた。 これから数日間、日本国内での移動が続く。その中で南国の風を忘れてしまいそうになることもあるだろうけれど、肩肘を張ってしまうこともあるだろうけれど、でも、忘れることと、失うことは違う。自分の中にある無限の宝の存在を、忘れてしまうことがあったとしても、また、何度でも思い出していきたいと思う。

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

何をしてもいいし、何もしなくてもいい。

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海外旅行中の日本人男性三人から声がかかり、クアラルンプールからランカウイ島に飛ぶ。カフェで合流をして、食事と飲み物をご馳走してもらう。海岸線を歩く。水着を買う。海にはいる。不思議な感覚を覚える。カフェで(言葉だけを使って)話をしている時よりも、同じ海の中で身体を動かしながら話している方が、深いコミュニケーションをとれている感覚を覚える。数年前、初対面のひとと真夜中の山を一緒に登る体験を通じて、物凄い速度で親睦が深まった記憶がある。夜光虫が輝く夜の海を一緒に裸で泳ぎ、すぐに仲良くなれたひともいる。「綺麗だね」と言えば「綺麗だね」と返ってくる、その思いの深さが、お互いの心を結びつけるのかもしれない。

 

ランカウイ島を離れてペナン島に飛び、翌日、シンガポールに飛ぶ。空港で日本人女性と落ち合う。タクシーに乗ってチャイナタウンに移動をして、チキンライスとアロエジュースをご馳走していただく。シンガポール最古の寺にあるカフェでお茶をしながら、様々な話をする。カフェを離れ、市街地周辺を一時間ほど歩き、フラトンホテルで解散をする。私は、フラトンホテルで次に約束をしていた方と会う。フラトンホテルのハイティーをご馳走していただき、様々な話をする。その後、チャイナタウンに再度戻って最後の予定の方々と合流をして、高級中華料理屋で蟹のビーフンなどをご馳走していただく。昨夜は蟹座の満月で、蟹をご馳走してくれた方は蟹座生まれだと話してくれた。顔を出したばかりの月が、紅く、大きく輝いている。その後、タクシーで空港に移動をして、いま、私はバンコクの空港近くにあるホテルの部屋から、この記事を書いている。

 

最大の観光名所は「人間」だ。 

呼ばれた場所に移動を続ける生活をしている。基本的な交通費や滞在費は、声をかけてくださった方々が手配をしてくださることもあれば、自腹で向かうこともある。予定が合う限り、何処にでも行くようにしている。いつからだろうか、自分で何かを決めるということが極端に少なくなった。それよりも「声がかかる場所に、声がかかるままに身を委ねて、丸腰で向かう」ことで、自分でも想像することのできなかった出来事に遭遇することをおもしろがりはじめるようになった。シンガポールに行くことが決まったのは36時間前、その数時間後に各種SNSから「シンガポールに行くのでお時間のある方はお会いしましょう」と告知(?)をした結果、4名の方々とお会いすることができた。すべてが初対面の方々ばっかりだけれど、同じ時間を過ごすことを通じて、私は勝手に仲良くなれたと思っている。シンガポールを再訪したいと思う理由が、私の中で4個増えた。最大の観光名所は、遺跡でもなければ南国の島々でもない、HUMAN【人間】だと思っている。

 

私は、私に会いたいと思ってくださる方々によって生かされている。なぜ、私に会いたいと思ってくださるのだろうか。理由は、ひとの数だけあるのだと思う。そのため、一概にこれだと言えることは少ない。ただ、私と同じ時間を過ごすことで『自分の中心に戻る』ことはできるのではないだろうか、と、思うことがある。私には、金もなければ仕事もない、世間的に見ればその日暮らしの放浪者のような生き方をしている。私には「私という肉体と精神」しかない。そのため、私は、私の存在だけを頼りに生きる。私には何もない。何もない自然の中で自分のこころをチューニングすることがあるように、何もない私の前で自分のこころをチューニングすることがある、などと思うことがある。そのためには、私自身が透明なものでなくてはならない。自分自身が濁っている時、鏡としての自分は、調律師としての自分は、機能を失う。

 

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情緒の扉【心】

岡潔の本を読む。そこには「如来はいつもましますけれど衆生は知らない。それを知らせにきたのが弁栄である」と書いてある。如来は目には見えないが、いつも人々に寄り添うように存在している。私たちはそのことを知らないで生きている。如来は、人間がどんな困難にあるときも人間の傍らから離れることがない。自分はそれを世に教えにきたのであるというのである。如来の働きをありありと感じるためにも人は情緒の扉を開かなくてはならない。その先にある悲願をめぐって岡はこう書いている。

 

真我の心は同体大悲である。これはひとの心の悲しみを自分の心の痛みのごとく感じる心という意味である。心とはここでは、情的に言えば、という意味である。 

 

情緒が開くとき、人は、他者の悲しみを自らの悲痛として経験する。世に悲しみを経験していない人などいない。悲しみは単なる嘆きの出来事ではなく、容易に分かり合えなかった者たちの間をつなぐ懸け橋になる。【解説・若松英輔

 

『一葉舟』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、岡潔著作『一葉舟』です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、シンガポールにわたりました ※※※

 

「人が現実に住んでいるのは情緒としての自然、情緒としての時の中である」西洋的な物質主義ではない、日本的情緒の大事さを説き続けた岡潔。その思想の根底には常に仏教の叡智があった。釈尊の再来と仰いだ山崎弁栄の言葉を辿り、芭蕉の句に日本古来の情を見、時に脳の働きにも注目しながら、情緒の多様な在り方を探る。数学研究での実体験や教育についての対話、仏洋行記も交え仏教への思索を深めた書。ー 岡潔『一葉舟』【角川ソフィア文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

変わるものと、変わらないもの。

何処の国に行っても、空には同じ月が輝いている。日本にはない景色に触れた時、その、変わる景色を前に「自分がいる場所だけが世界ではないのだ」と心が楽になることもあれば、変わらない景色を前に「遠く離れても、同じ世界を生きているのだ」と心が慰められることもある。小さなこどもたちは生命力を外側に放出するように明るく元気に飛びまわり、沈む夕日の周りにはひとびとが集まり、友愛の証としての微笑みがある。同じものを同じように美しいと感じ、同じものを同じように親愛の証としている「人間」がいる。国は違えど、文化は違えど、普遍的な部分は何処の国に行っても同じなのだということを思う時、私は、安心感にも似た気持ちを覚える。

 

ペナン島の屋台で、ミャンマー人の男性と出会った。彼は、日本語で私に「日本人ですか?」と尋ねた。その時の彼の笑顔が、ああ、人間はこんなにも穏やかな笑顔をすることができるのかというほどに、柔和で、温かく、まるで菩薩のような慈愛に満ちている笑顔で、私は、身動きができなくなってしまった。彼との短い対話を終え、私は、しばらく何もすることができなくなった。そして「ああ、今日はほんとうに素晴らしいものを見ることができた」という気持ちになり、やがて、ペナン島を離れてシンガポールに向かった。いま、私はバンコクにいる。今後の予定は何もない。しばらくはバンコクに滞在をしようか、日本に戻るか、それとも、ミャンマーなどの周辺国に足を運ぼうか。まだ、何も決めることができないでいる。

 

何をしてもいいし、何もしなくてもいい、何処に行ってもいいし、何処にも行かなくてもいい、しなければいけないことなんて本当はひとつもなくて、唯、自分で自分を縛ってしまうだけのことなのだろう。何かをしなければいけないだなんてことは、多分、ない。何をしてもいいし、何もしなくてもいい。その中で、自分のこころが「いいな」と思う方向に、身軽に、軽やかに、タンポポの綿毛のようなフットワークで生きていくことができたなら、私のこころは「いいな」と思う。

 

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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