いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

ひとは、今を生きる限り幸せになれる。

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Mr.Childrenの口笛を聴きながら歩く。空には三日月が輝いている。三日月の横には、口元のほくろのように小さな星が明滅をしている。家のない生活をしていた頃、生きる気力をなくした時は「好きな歌を歌う、好きな道を歩く、好きな人を想う」ことが効果的だということを実感した。いまでも、その習慣は私の中に生きている。自分のこころが「いいな」と思う瞬間の中には、自分をチューニングできている時のような嬉しさがある。幸せと呼ばれるものは自分の中心に常にあって、忙しない日々の中で気付けば自分の中心から遠く離れてしまうこともあるけれど、そこに戻ることができる限り、ひとはいつでも幸せになれるのだということを思う。私は、そこ【自分の中心】を「居場所」と呼びたいと思う。

 

熱海の家に年賀状が届く。手書きの文字には人柄が宿り、まだお会いしたことのない人でさえも、文字の先にあるその人自身の息遣いを感じることができる。最初は「とてもじゃないけれどすべてに返事を出すことは難しいだろう」と思っていたけれど、思いを改めて、すべての年賀状に返事を出すことに決めた。葉書を贈るだけでは物足りないような気がして、家にあるほしいもなどの食材やお菓子を添えて、ひとりひとりに返事を出す。郵送料金だけでもバカにならないというのに俺は今月の光熱費を無事に払うことができるのだろうかなどというつまらないことを考えてしまったけれど、返事を書き続ける内に、邪念は消え去った。邪念の代わりに「自分はいま、正しい金と時間の使い方をできている」というような静かな感覚が湧き出してきて、私は、新年のはじまりに最適な時間を与えてくれた諸々のつながりに感謝をしたくなった。

 

花鳥風月、そしてヒト。 

大晦日の夜には、長い付き合いになる友達夫婦が熱海に泊まりに来てくれた。江ノ島からはちあきさんも駆けつけてくれることになり、普段は貧しい生活をしているからなのだろうか、大晦日だけは「あれも買おう!これも買おう!」と浮き足だってしまい、寿司やカレーや高価な漬物や大量のお菓子などを買い込んでしまい、普段は乗らないタクシーにまで乗ってしまった。大量の食材を買い物カゴの中に放り込みながら、私は、なぜか涙が流れそうになった瞬間があった。涙の理由はわからない。惨めさに泣けた訳でもなく、嬉しさに泣けたという訳でもない。ただ、昔、私の母方の祖母が非常に貧しい生活の中から「はい、これ」と私にお年玉をくれた場面が思い出された。毎年、お年玉袋の中には一万円がはいっていた。祖母は今年で90歳になる。山形県の小国町で暮らす小さな祖母の腰は、連日の農作業で完全に曲がっている。

  

12月31日の23時半を過ぎた頃、家の外から除夜の鐘の音が聞こえる。私達は「どこから聞こえるんだろう」と家の外に出る。鐘はすぐ近くで鳴っているような気がする。音の鳴る方向まで歩いてみようかということになり、私たちは着の身着のまま夜の道を歩く。何もない。誰もいない。空には星が輝いている。気がつけば、家の近くにある伊豆山神社まで足を運んでいた。時計を見ると、時刻はまさに12時を迎えていた。「まさかこんな形で初詣をすることになるとはね」と笑い合いながら、参拝に向かう。財布も何も持っていなかったので、神様に空手で挨拶を済ませる。境内では町内会の方々が、参拝客に無料でぜんざいを配布していた。東京の三軒茶屋から来てくれた友達夫婦の奥様は「いい地域だね」と話した。私は、それを聞いて嬉しさを覚えた。

 

家に戻り、布団を敷いて、目覚まし時計をセットして眠る。翌日、早朝に目覚めて家の外に飛び出し、海から昇る朝日を拝む。ちょっとだけ近所を散歩することになり、坂道の登り下りを繰り返しながら、道端の花を摘み取ったり、洞窟の中から湧き出す走り湯の源泉に立ち寄る。雲ひとつない空から、生きとし生けるものの生命を祝福するかのように、太陽が燦々と照りつけている。オノヨーコさんの「空があるから、どんな時も私は大丈夫だと信じられる」という言葉を思い出す。私の全身が、言葉にならないうれしさやよろこびに包まれる。何もかも失うことがあったとしても、まだ空はある、まだ太陽はある、花鳥風月があり、新年の朝を共に歩ける友達がいる、俺達はきっと大丈夫だという気持ちになる。

 

好きなように生きていいのだ。

1月3日(火)の14時位から数時間だけ、江ノ島近くの喫茶店ラムピリカの営業を軽く手伝うことになった。私は、この喫茶店の店主・ちあきさんを勝手に生かしたいと思う。ちあきさんの淹れる珈琲は自分史上最高に美味しく、ちあきさんの作るパンケーキは自分史上最高に美味しい逸品になる。私は「こんなにも美味しい珈琲を淹れる【こんなにも美味しいパンケーキを作る】ちあきさんを死なせてはいけない」と勝手に思う。そして「生かしたいひとを生かす会」を自主的に勝手に開催していきたいと思う。現在のラムピリカは、固定的な営業日や固定的な料金や固定的なメニューはなく「店主のちあきさんが開きたいと思った時に開き、作りたいと思ったものを作る」ようになっている。飲食代金もドネーション制になっている、料金も「食べたひとが払いたいと思った金額だけ、ドネーションボックスに入れて帰る」というものになる。

 

私がちあきさんを好きな理由は108個位あるのだけれど、そのうちのひとつに「私は、誰が何を食べたかとかお会計はいくらとかおつりを用意しておくとかそういうことを覚えておくことが苦手で、だから、ドネーション制にするとそういうものから解放されるので助かっています」という緩さがある。ちあきさんを見ていると、端的に「俺たちはもっと、好きなように生きてもいいのだ」という許しを見る。もちろん、好きなように生きた結果、生き続けることが困難になることは頻繁にあると思う。そのような時に「お前の生き方は美しいから、もっと生きろ」と差し伸べられる幾つもの手があれば、世界はより一層の豊かさを帯びるような気がしている。ちあきさんのあり方には、このひとを生かしたいと思わせてくれる美しさがある。

 

生かしたいひとを生かすために生きたいと思う。一月の予定は何も決まっていないために、江ノ島のラムピリカをお手伝いするような形で「二、三時間でも構わないから、お店の仕事や家事のあれこれを手伝ってほしい」と思ってくださる方がいれば、いつでもお気軽にご連絡ください。報酬などはもちろん不要で、交通費なども自力が続く限り自腹で向かいたいと思います(ただし、戦力としては著しく低いために「それでも構わない」という方のみお声かけいただければ幸いです)。また、熱海の家も基本的に開放をしているために、もしも「熱海の家を使いたい」と思ってくださる方は、いつでも気軽にご連絡ください。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

『求めない』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、加島祥造著作『求めない』です。こちらの本は、埼玉県在住の女性から「私の大好きな一冊です」とわざわざ熱海に贈っていただいた一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

「求めないー すると…」という言葉が繰り返される本『求めない』。けれど、著者・加島祥造氏は、何度となく「人間は求める存在だ」とも言います。求めることを否定せず、なぜ私たちは、もう足りているのに求めてしまうのだろうかと優しく問いかけるのです。そして、求めることをほんのちょっとやめてみたら、生きることが楽になり、日々が楽しくなり、思いがけない可能性が開けるかもしれないよ、と笑顔で誘います。誰もがもっているはずの柔らかい心、人生の本当の豊かさに気づかせてくれます。信州伊那谷老子が伝え続ける魂の言葉が心に響く大ベストセラー詩集。ー 加島祥造『求めない』【小学館文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

美しい時の重なりの中を。 

ブログをひとつ更新した時、わたり文庫の郵送を終えた時、心のある言葉のやり取りを交わせた時や、年賀状の返信を書き上げた時やひとまえで話をする機会に恵まれた後に、私は「いい仕事をしたな」という充実感を覚える。この充実感は、もちろん長続きをする類のものではないけれど、しかし、いい仕事をしたなと思えたあとに流れる時間の中には清々しい風が吹く。自分にどれだけのことができるかはわからない、ただ、私は「いい仕事をしたな」と思って毎晩眠りにつきたいと思っている。大袈裟な言葉で言えば、自分が生きていることで少しでも誰かを前向きな気持ちにさせることができたならば、これほど嬉しいことはないように思う。

 

数年前にブログをはじめて、同時期に家のない生活もはじまり、いま、こうして家が与えられた中でも文章を書くことだけは続けている。非常に幸運なことに、そして、非常にありがたいことにブログを目にしてくださる方々も増えていて、私自身、世間的で言うところの「(吹けば飛ぶようなものではあるけれど)ちょっとだけ有名な存在」になった。有名になるということはどういうことなのか、自分自身の体を通じて、実感をさせてもらっている日々を過ごしている。大勢の人の目に触れることで見知らぬひとからの誹謗中傷や罵詈雑言を浴びる機会も増えたけれど、そのような憂鬱な出来事を吹き飛ばすほどに、素晴らしい出会いにも恵まれるようになった。

 

ひとに知られていくということの中には、ある種の「責任」があるように思う。それは「自分が何気なく使うひとつひとつの言葉が、自分でも知らないところで波及して影響を与えていく」のだという自覚に伴う責任だと思う。言葉は時に薬にもなり、言葉は時に毒にもなる。私は、私に与えられた「言葉」という道具を、できることならば自分を含めた人間全体にとって『薬』となるように使って生きたい。その『薬』は、時にひとや世界を信じることが難しく思えるような時にでも、もう少しだけひとを信じてみたいと思えるような、もう少しだけ世界を信じてみたいと思えるような、そういう効果を及ぼすものになればいい。それは、何よりも自分自身のために、「世界を敵と見るためのものではなく、世界を味方と見るための薬」として効果を発揮するものになればいいと思う。

 

 

人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
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生きろより「生きたい」

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熱海の空は晴れ渡っている。大晦日だ。私の故郷は新潟県で、新潟の冬はひたすらに曇天が続き、太陽が顔を出す日は一ヶ月に一日分程度しかない。新潟では、雨や雪が止んだ状態を「晴れた」と言う。どれだけ頭上に曇天が厚く低く広がっていようが、雨や雪さえ降っていなければ「晴れた」と言う。新潟の冬は厳しい。だからこそ、実家の母親は「冬が厳しいから春を喜ぶことができる」と言う。美しい言葉だと思う。美しい言葉だとは思うけれど、この時期に、こんなにも晴れ渡る熱海の空を見せてやりたい気持ちにもなる。

 

最近思うことあれこれをまとめます。

 

1・『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』

 

熱海の家に暮らし始めて一年の月日が流れた。家も、家具も、調理器具も、服も、食材も、日用雑貨も、そのほとんどが貰い物で成立をしている。私には、自分がしてあげたことはいつまでも覚えているくせに、自分がしてもらったことはすぐに忘れてしまう傾向がある。この一年間の中で、何度、このことを思い出しては反省をしただろうか。自分がいま生きているということは、同時に、数え切れないほどの恩恵によって「生かされている」ことでもあるのだということを、私は、簡単に忘れてしまう。『GIVE&GIVE&FORGET』の精神は、必ずしも『与える側』に限った話をしている訳ではない、自分はすでに『与えられてきた側』であることを思い出させてくれる、非常に重要なあり方を教えてくれた。

 

【過去記事】『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』 - いばや通信

 

 2・罪悪感や強迫観念を動機にしない。

 

今年も様々なひとに出会った。私の生き方を見て「面白いですね」とか「変わっているね」とか「ぶっ飛んでいるね」などと言ってくれるひとがいるけれど、いまでは、私は『(別に変わったことをやりたい訳ではなくて)自分にとって自然なことをやりたい』のだと思うようになった。自分にとって自然なこと、それは他人との比較ではない自分の内側から湧いてきた思いに無目的に従っている時、ひとの目線からは「変だ」とか「間違っている」と言われることもあるけれど、私は、それを続けていきたいと思う。

 

3・チャーミングであること。

 

深刻に考えすぎると、可愛げを失ってしまう。笑え。

 

4・こころを込める。 

 

いまを生きるということは「いまが楽しければそれでいい」という投げやりで刹那的なものではなく、いまという瞬間に最大限の思いを込めるということなのだと私は思う。自分が込めた思いが種となり、時に、自分でも想像することのできなかった素晴らしい未来を運んでくれることがある。言いたいことを言う、やりたいことをやる、きっと、それだけで人間は清々しく生きることができる。自分を出し惜しみしないこと、できる限りのこころを込めて、空間と瞬間に責任を持つこと。

 

5・自分との関係も人間関係。

 

自分との戦争を終わらせることなのだと思う。

 

6・あなたは素晴らしい存在だ。

 

「愛」は使うほどに増えると聞いた。

 

【過去記事】あなたは素晴らしい存在だ。 - いばや通信

 

7・潔い我儘は最高の美徳。

 

好きなように生きているひとからは寛容的で前向きな力が、嫌いなことをして生きているひとからは懲罰的で後ろ向きな力を見る。私は、非常に甘っちょろい考え方になるのかもしれないが、すべてのひとが好きなことをやって生きていて欲しいと思う。「すべてのひと」だなんて大きな主語を使うのは、良くないことなのかもしれない。私は、いつか自分にもこどもができる時が来たならば、そのこどもには「好きなように生きなさい」と伝えたい。そして、私は、言葉というものを『自分のこどもに伝える時のように』使っていきたいと思っている。

 

8・いかに諦めてもらうか。

 

まずは、自分が自分を許すことだ。

 

9・自分から先にこころを開く。

 

自分は自分でしかないのだということを、いよいよ強く実感する一年になった。ひとと比べれば劣っている部分ばかりが目につくことが多いけれど、これが俺であり、俺はこれでしかない。自分にはこの身体しかなく、自分にはこの頭と、この声と、この足と、この精神しかないのだから、これで生きる。それを過剰に大きく見せようとする必要も、過剰に小さく見せようとする必要もない、ただ、俺は俺なのだと腹を据えて生きていればいい。それだけのことなのだと思う。自分は、不完全な人間かもしれないけれど、完全な自分だ。

 

『人間の土地』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、サン・テグジュペリ著作『人間の土地』です。こちらの本は、昨日、神奈川県からお越しいただいた女性が「これは私の大好きな本です」とお持ちくださった一冊になります(その場にいた別の女性も「これは本当に素晴らしい本ですよね…私も、何回も泣きました」と話しておりました)。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

 

゛我慢しろ…ぼくらが駆けつけてやる!…ぼくらのほうから駆けつけてやる!ぼくらこそは救援隊だ!〟サハラ砂漠の真っ只中に不時着遭難し、渇きと疲労に打克って三日後奇蹟的な生還を遂げたサン・テグジュペリの勇気の源泉とは…。職業飛行家としての劇的な体験をふまえながら、人間本然の姿を星々や地球のあいだに探し、現代人に生活と行動の指針を与える世紀の名著。ー サン・テグジュペリ『人間の土地』【新潮文庫

 

 【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

10・好きなひとに好きだと言う。

生きることの意味はわからないけれど、生きたいと思うことの理由なら、少しだけわかってきたような気がする。私の場合、それは「好きなひとに好きだと言うため」だ。平易な言葉になるけれど、でも、これしかないんじゃないだろうかとさえ思う。ひとを好きになるということは、本当に素晴らしいことだ。

 

天地との繋がりが縦、ひととの繋がりが横、十字架は必ずしも人間の原罪を意味するだけではなく、縦と横に交差する『人間の繋がり』を表現していると感じた。ひとに理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をすること。その結び付きが縦ならば、「よろこびを分かち合う」ことが横の結びつきを深める。自然の美しい風景の中から安らぎを得て、気づきを得て、落ち着きを得て、何かしらの教訓を得ることも素晴らしいことかもしれない。しかし、その素晴らしさは『分かち合うひと』がいてはじめて、何倍にも膨れ上がるよろこびを隠し持っているものなのではないだろうか。

 

論語に「朋あり遠方より来る」という言葉がある。今夜、私は、古くからの友人と一緒に年を越す。友人が熱海に来ると決まった瞬間、まさか、こんなにも自分のこころが喜ぶとは思わずに驚いた。ああ、俺はひとが好きなのだ(俺には好きなひとがいるのだ)と思った。好きなひとがいるということ、好きなひとに出会えるということ、好きなひとに好きだと言えることの中には、大袈裟な言葉で言えば「世界を明るく照らす力」を見る。好きなひとには好きだと言う。それだけで、充分、この世に生まれてきた甲斐があったのだと思う。

 

 

 

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人生は続く。

 

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寂しさは、ひとりでは生きていけないのだということを教えてくれる。

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玄米を炊いて、味噌汁をつくる。基本的な食事は毎日これになる。数日前、横浜在住の方からラゴスティーナの圧力鍋を頂戴した。玄米を圧力鍋で炊けたらどれだけ素晴らしいだろうかと前から思っていたので、温かな心遣いがほんとうに嬉しかった。圧力鍋で炊き上げた玄米を炊飯器に移して、酵素玄米を作る。私は、多分、健康志向なタイプの人間ではないと思う。ただ、家のない生活をはじめた頃から、自身の所有物を最低限度に抑えるようにしていた。服は基本的に三日分に絞ったために、今日、何を着るのか悩むことはない。同じような理由で、料理も「玄米と味噌汁に絞る」ことで、選択肢が多すぎることのストレスから自由になれた。家にある食材は、芋も大根も木耳も胡麻も納豆もかつお節もブロッコリーも生姜もにんにくもすべて、味噌汁の中にぶち込む。食材が何もない時は、具のない味噌汁を啜る。

 

味噌汁をつくっている時間は、軽い瞑想状態にはいる。私は、この時間が好きだ。過去に統合失調症躁鬱病椎間板ヘルニアを同時に患った際に、落ち込んだ精神を向上させるためには「ものをつくること、身体を動かすこと、自然に触れること」が効果的だと実感をした。いま、私は、この記事を熱海のデニーズから更新している。自宅からデニーズまでの移動時間は、徒歩で片道50分程度になる。家を出るまでは非常に面倒臭い気持ちにもなるが、歩き始めると途端に気持ちは清々しいものになり、軽い瞑想状態にはいることができる。昼には太陽が輝き、夜には月や星が輝く。この時期は道端に水仙の花が咲き乱れているために、空や、海や、星や、花に、歩き出すたびに心が慰められることもある。

 

【過去記事】【貧乏性最強説】私が貧乏性によって躁鬱病と統合失調症を克服し、三ヶ月で15キロ痩せた話。 - いばや通信

 

空に、月があってよかった。

療養生活を送っていた頃、夜、ひとりで夜道を徘徊することが頻繁にあった。夜道を歩くことが好きだった訳ではなく、ただ、家にいることが辛すぎて「ここではないどこかに逃げ出したい」という気持ちが強まったからなのだと思う。何処かに行きたいという前向きな思いからではなく「ここにいたくない」という後ろ向きな思いから、私は家を飛び出し、目的もなく夜道を歩いた。家々の電気は消え、ただ、静寂だけが広がっている。私は、ふらふらとあてもなく歩き続ける。心の中では「さみしいなあ」と何度も何度もつぶやいている。買いたいものなど何もない癖に、ひとの気配に触れたくてコンビニにはいる。適当な品物を選び、レジに向かう。店員さんが「ありがとうございます」というのに対して、私も、自分なりに精一杯の気持ちを込めて「ありがとうございます」と返す。

 

夜道を歩きながら、月を見上げる。ああ、という心許ない声と一緒に涙が流れた。そんなこともあった。涙の理由は忘れてしまった。多分、どうすることもできない自分自身に対する不甲斐なさや情けなさが溢れて、涙になってこぼれたのだと思う。あれから数年間の月日が流れ、いま、私は同じように夜空の月を見上げている。あの頃に抱えていた不甲斐なさや情けなさは、少しは軽くなっているのかもしれない。ただ、自分の中に「寂しさ」があることは隠しきれない。家にいて、自分ひとりではどうすることもできない寂しさに包まれた時、私は夜道を歩く。夜空を見上げながら、私は「空に、月があってよかった」と思う。うつむきがちになっていた自分のこころに、月は、顔をあげる機会を与えてくれる。

 

寂しさは、ひとりでは生きていけないのだということを教えてくれる。寂しさは、身体を動かすといいのだということを教えてくれる。寂しさは、ものをつくるといいのだということを教えてくれる。寂しさは、自然に触れるといいのだということを教えてくれる。寂しさは、紙とペンを用意して自分の気持ちを吐き出すといいのだということを教えてくれる。いま、私がこうして懲りずに文章を書き続けているのは、誰かのためとか、何かのためとか、もっともらしい理由がある訳ではなく、ただ、寂しいからなのかもしれない。寂しさとは、多分、幸せの対極にあるようなものではない。幸せと呼ばれるものがあるならば、その中に「寂しさ」は含まれていて、寂しさの中にも幸せはある【幸せの中には寂しさもある】のだということを思う。

 

逢初庵【あいぞめあん】

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数日間、熱海の自宅【逢初庵】を開放する。クリスマスの時期と重なり、熱海の家には様々な贈り物が届く。新潟県村上市からは鮭の切り身と大量のいくら、大阪からは大量の小豆と無添加の味噌6袋と新潟産の餅、横浜からはラゴスティーナの圧力鍋や新潟産の玄米を過去に30キロ、茨城からは大量のほしいもが届いた。自分ひとりではとてもじゃないけれど食べきることはできないために、イベント開催などの機会を通じて、熱海に来てくれたひとと一緒に食べたり必要であればそのまま持ち帰ってもらったりしている。

 

【イベント詳細】わたり文庫@熱海

 

熱海に来てくれたひとは、みんな、口を揃えて「もっと大勢のひとが来ているのかと思いました」と驚く。 定期的にイベントを開催してはいるものの、それほど多くのひとが遊びに来ることは滅多にない。私自身も静かな環境を好むタイプの人間で、大勢のひとと一緒にいるよりは「少人数でじっくりと話す(あるいは、何もしない空間を共にする)」ことの方が好きだ。営利活動をしている訳でもないために、無理をしてまで集客や宣伝活動をする必要もない。ただ、何かしらタイミングのあったひとが、いつでも気軽に来ることができる機会や空間として、熱海の家をこれからも開いていけたらいいと思っている。

 

この前は、千葉県柏市から三森正道さんが遊びに来てくれた。三森さんと同じ空間を共にしていると、どうしてなのだろうか、自分のこころが浄化されていくような感覚を覚える。この時に感じている感覚は「自由」に似ている。自由とは、多分、どれだけ自我【エゴ】と呼ばれるものから自由になれているのかということなのだと、私は思う。「俺が、俺が」と肩に力がはいっている間はまだまだ(こうして懲りずにブログ記事を更新している自分の姿も、弱さの現れなのだと思う)で、自分が自然の中に溶け出している状態、大袈裟な言葉で言えば自分を殺している状態【自我を超えて大きな何かに身を委ねている状態】が「自由」になるのではないだろうかと思う。

 

【参考記事】驚愕の三万円!! - みっつ通信

 

『ロックンロールバイブル』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、アーサー・ホーランド著作『ロックンロールバイブル』【著者サイン付き】です。こちらの本は、実際にアーサー・ホーランドさんの支援者となって活動をされていらっしゃる方から「わたり文庫に是非」と温かな眼差しと共に託された、記念碑的な一冊になります。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、岡山県にわたりました ※※※

 

追い掛けることはない、自分に自信を持つことだ。

人はどうでもいい、あなたがどうあるかだ。

比較して己を蔑むことはない。人が何をしているのかはどうでもいい。

自分が何をすべきなのかを落ち着いて考えてみることである。

人を気にすることよりも、もっと自分を大切にすることだ。

人があなたの人生を生きてくれるわけではない。

あなただけがあなたの人生を生きるのである。 

 

人に裏切られることはある。されど憎しみを耕さないことだ。

「この野郎…」と頭に来ることだってある。しかし恨みを育てないことだ。

「やられたら、やり返してやる」と向きにならないことである。

何もよいことは生まれて来ない。

「復讐してやる…」と無駄なエネルギーを使わないことだ。

 

誰にも会いたくない気持ちはわかるが、

孤立して己の殻に閉じこもってしまうのは健康的ではない。

ちょっと静まってみれば、話せる人がいることに気付けるものだ。

 

片寄った自己解釈だけの世界に閉じこもることのないように…。

自分だけが問題を抱えているのではなく、

誰であれ大小を問わず、何らかの課題を背負いながら生きている。

 

アーサー・ホーランド『ロックンロールバイブル』【小学館スクウェア

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

寂しさは、ひとりでは生きていけないのだということを教えてくれる。

自分の中にある寂しさを振り払おうとするのではなく、ただ、自分の中には寂しさがあるのだと認めること、自分の中にあるものを否定するのではなく肯定をする姿勢が、揺れ動くこころを落ち着かせるのかもしれない。寂しさを失くすことはできないけれど、寂しさと友達になることはできるような気がする。「俺が、俺が」となるほどに孤立した寂しさの溝に嵌ってしまうが、もしかすると、自分と同じ寂しさを同じように抱えているひとが、世界の何処かにいるのかもしれないと思いを巡らせることは、微かでも、目には見えない繋がりを生む。寂しさは、同じような寂しさを抱えるひとと出会う時、温もりに変わり得る。 

 

 

大切なことは、周囲の人間に理解を求めることよりも、天に恥じない生き方をすることなのではないだろうか。ひとを咎めることをせず、ただ、自分が見る誠実さのど真ん中を生きることではないだろうか。難しい場合もあるけれど、他人の濁りを指摘するのではなく、自分自身が透明になることではないだろうか。自分の外側に変化を求める【口先を変える】ことよりも、自分自身が変化になる【行動を変える】ことではないだろうか。寂しさは、自分自身と対話をする機会を与えてくれる。そして、ひとりでは生きていけないのだということを教えてくれる。寂しさは「静けさ」を運ぶ。そして、静けさの中で「自分はひとりではない」のだということを学ぶ。寂しさは、足りないものばかりに目を向けていた自分に、もう一度、足りているものに目を向ける時間を与えてくれる。

 

 

寂しさや悲しみと呼ばれる感情は、幸福の対極にあるものではなく「幸福の中にあるもの」ではないだろうか。寂しさや悲しみを通じて、自分がどれだけの恩恵の中で生きているのかということ【生きてきたのかということ】を思い出す。そして、何か大きなものに感謝をしたくなるような、何か大きなものに祈りたくなるような気持ちになる。夜道を歩く【夜道を歩くことができる】ということ。ものをつくる【ものをつくることができる】ということ。自然に触れる【自然に触れることができる】ということ。感謝と幸福は、多分、切り離すことはできない。私は、感動やよろこびを通じてだけではない、寂しさや悲しみの中からも『何か』を掬い出そうとしているのかもしれない。自分が消えてしまいそうな寂しさも、胸を切り裂くほどの悲しみも、すべては幸福の中にあるものだということを、掬い出そうとしているのかもしれない。

 

 

 

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人生は続く。

 

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静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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精神性を磨く。

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茨城県在住の男性から熱海の家にクリスマスプレゼントが届く。大きな段ボール箱を開けると、中には茨城県産のほしいもが84袋はいっている。わたしは「なんじゃこりゃ!」と驚き、そして、嬉しさを覚える。これは問われているなと思い、私とほしなさんで『【HIM84】わたりサンタ 〜今夜、あなたがほしいもの〜』というイベントを即興的に立ち上げる。内容はシンプルで、ほしなさんの車に大量のほしいも【HIM】を積み、それを欲しいと言ってくれるひとに実際に手渡しで配り続ける配達系サンタクロース型のものになる。

 

熱海の家を車で出発し、横浜駅で「会いましょう!」と約束をしていた女性と落ち合う。私は、ほしいもと花と簡単なプレゼントを片手に横浜駅の中央南改札口に向かう。女性に渡す。女性は「はい、これ」と言って何かを差し出す。その中には、花やわさびや鮫皮のすりおろし道具や佐賀県産の海苔や高級布巾や図書カードやQUOカードがはいっていた。私は、プレゼントを渡しにいったはずだった。それなのに、与える以上に与えられてしまった現実を前にひれ伏した。ここ最近、はな的なサムシングを配り続ける日々を送っていた。しかし、実際にはなを貰う側にまわるのは久しぶりのことだった。女性の思いやりに、ただ、言葉にならない思いがこみ上げてきた。

 

つまらないことを考えるのはやめよう、と。

ほしいもを配っている途中、ひとりの女性から連絡が届いた。私は、最近、ひとと会う前に時間があるときは近隣の花屋に立ち寄り、簡単な一輪挿しを購買してからひとと会う癖がある。先日、こちらの女性とお会いさせていただく前に、私は一輪のカーネーションを購買した。

 

坂爪さん
こんばんは!
今日は干し芋を配っているのですね!
私は今日、江ノ島にいたので、タイミングが合えば藤沢か横浜あたりで干し芋を頂きたかった~!
なんて思いつつ、昨日お花を頂いたばかりなので欲張る心を封印しました(笑)
ここ数日いろいろと考えることがあり、私は何かをするときにすぐ経済効率やコスパということを考えてしまうのですが、
坂爪さんからお花を頂いた瞬間、全ての迷いが吹き飛びました。
つまらないこと考えるのはやめよう、と。
そもそも経済効率を追求したら「生きてること自体が無駄」というところへ行きついてしまうわけだし(笑)
坂爪サンタさんが手渡してくれた可愛いお花が、ダイナマイトのように私の中のつまらなさを一瞬で吹き飛ばしてくれました。
サンタさんというより花テロリストです(笑)
この花の命は数日ですが、これから薄いピンクのカーネーションを見つけるたびに、この日のことを思い出し幸福な気分になれます。
ほんとうにありがとうございました。
今夜は雨が降るようですが、道中お気をつけて、色々なひとに幸福を届けてくださいね。

 

私は、ああ、素晴らしいなあと思った。決して経済効率やコスパ的な概念を否定したい訳ではないけれど、ああ、はなを配っていてよかったと思った。自分が何気なくやっていることが、ただ、そうしたいと思ったからやっていることが、受け取ってくれるひとにとって何かしらの効果を与えることがあるということは、何か、不思議なものを感じる。自分の思惑とはまったく違う所で、ひととひとは、常に影響を与えあっているのかもしれない。私は、前回の記事で「GIVE&GIVE&FORGET」という内容を書いた。忘れていた頃に、咲く、目には見えないはなを見たような気がした。

 

【過去記事】『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』 - いばや通信

 

受け取ることがプレゼントになる。

花やほしいもを配り続ける日々を通じて「受け取ることがプレゼントになる」ということを痛切に感じた。たとえ、自分が何かを与えたいと思っても、当たり前のことだけれど受け取ってくれるひとがいなければ成立をすることはない。プレゼントを貰うひとは「ありがとうございます!」と言ってくれるけれど、与える側としては「こちらこそありがとうございます!」という気持ちになる。これは、精神的なバトンリレーに似ているのかもしれない。自分が素晴らしいと思うものは、自分ひとりが抱えているだけでは決して広がることはない。誰かを通じて、自分が素晴らしいと思うことを同じように素晴らしいと感じてくれる誰かを通じて、思いは伝播していく。

 

茨城県から届いたほしいもの残りは、まだ、熱海の家にある。ここで、誠に突然ではありますが、このほしいもをブログ読者の方々に無料で郵送をいたします【先着10名様】。おひとりさま一袋程度になるのですが、また、応募締め切りはクリスマスである本日限りになる(数に限りがあるためにすべての方々に郵送できるかどうかはわからない!)のですが、もしも「自分もほしいもが食いたい!」と思ってくださった方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

また、ここ数日の間に、ここでは紹介しきれないほどの様々な贈り物が熱海の家に届きました。たくさんの贈り物を貰う、という話をすると「みんなお金持ちなんだねえ」みたいなことを言われることが稀にあるのですが、これだけは言いたい。贈り物をしてくださる方は、決して収入が多い方々ばかりではなく、たとえ収入は少ない中でも自分なりの最大限の思いを乗せて、形のあるものを通じて気持ちを届けてくださる方々はたくさんいます。そのような贈り物を、私は、とてもじゃないけれど無碍に扱うことはできない。贈り物をいただく度に「しっかりと生きよう」と、調子に乗りかけていた自分を調律することができます。そして、これらの品々を自分ひとりだけで占有するのは何かが間違っていると思い、12月25日から31日まで熱海の家を開放することにしました。主催者不在の時間帯も多分にあるとは思われますが、読みためていた本がある方や、都心の喧騒を離れて静かな時間を過ごされたい方など、どなたでもお気軽にお越しください。

 

【イベント詳細】わたり文庫@熱海

 

わたり文庫『母』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、三浦綾子著作『母』【角川文庫】です。クリスマスということでクリスチャンの方々の本を紹介することの多かったこの時期ではありますが、三浦綾子さんの本は私が中学校時代から愛読をしておりまして、なかでもこの本は塩狩峠に並んで『坂爪史上ベスト10には入る日本の小説』になります。まだお読みでない方は、是非、この機会に(年末年始のお供に)手にとってみてください。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、兵庫県にわたりました ※※※

 

少なくとも、人間たる者は、
医者になるとか、
政治家になるとかいう目標よりも、

どんな生き方の医者になりたいとか、
どんな生きかたの政治家になりたいかを、
問題にすべきではないだろうか。

いてもいなくてもいい人間をこの世に作り出すほど、神様は暇人じゃないし、馬鹿じゃない、愚かじゃない。

日頃自分が恥ずかしいと思っていることが、本当に恥ずかしいことなのか、恥ずかしいと思うこと自体が恥ずかしいことなのか、よく見極めて生きたい。

包帯を巻いてあげられないのなら、むやみに傷口に触れてはならない。

ほんとうに人を愛するということは、その人が一人でいても生きていけるようにしてあげることだ。

受けて立つより仕方のないのが、人生のような気がする。

長い間その人を慰め、励まし、
絶望から立ち上がらせる言葉を、
胸にたくさん蓄えておかねばならない。

一生涯使っても、
使い切れぬほどたくさんに。

 

 【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

精神性を磨く。

昨日、湘南江ノ島の海岸で「大相撲Xmas場所」というイベントが開催された。五右衛門風呂【命の湯】を設置するためだけに三重県から下道18時間かけて軽トラで来てくれた20代の男性や、相撲部に所属していた男性が我々に稽古をつけてくださったり、小学生や中学生の女の子たちも遊びにきてくれた。なかでも、中学生の女の子が参加後に書いてくれたブログ記事が非常に素晴らしいもので、私は「怖いけどやる」者の勇気を前に感服をした。勇敢さは伝播する。ひとりの人間が勇気を振り絞って何かを行う時、そのひとのエネルギーに触れた周囲の人間にまで、前向きな力を与えることがある。

 

【参考記事】怖いけどやる - ★Erikaのブログ★

 

イベントなどに足を運ぶと、震えながら声をかけてくださる方々と出会う。私は思う。多分、いま、このひとはとんでもない勇気を振り絞って声をかけてきてくれているのだろう、と。家を出るまでの間に、この場所に実際に足を運ぶまでの間に、様々な葛藤や逡巡があったと思う。やる理由よりも、やらない理由を見つけることのほうが圧倒的にたやすかったはずだ。そうであるにも関わらず、いま、こうして実際に自分の目の前で自分の思いを真っ直ぐにぶつけようとしてくれるその態度が、その勇敢な思いが、胸を打つ。全力でぶつかってこようとしてくれるひとには、私も、全力で返したいと思う。リアルに会うに越したことはないけれど、多分、熱海の家に何かを届けてくださる方々や、私に連絡を送ってくださる方々も、普段はなかなか出すことのない類の勇気を振り絞って、連絡をしてくれているのだと思う。

 

そういうことに思いを馳せる時、私は「しっかりと生きよう」と思う。この人生の中で出会える人間の数には限りがある。その中で、目の前にいる人間とこころを交わせるということは、奇跡とも呼べる巡り合わせだと思う。しっかり生きるとはどういうことなのか、まだ、私にははっきりと掴むことはできていない。ただ、自分が素晴らしいと思うひとと実際に出会った時に、恥ずかしくない自分でありたいと思う。もっと、自分という存在を磨き上げてみたい。精神性の高みと呼ばれるものがあるならば、どこまで飛翔できるのかを見てみたい。その場所には、何があるのだろうか。何が見えるのだろうか。何が聞こえるのだろうか。何が感じられるのだろうか。自分自身の純度を高めて行くということ、私は、自分を透明なものにしていきたいと思う。

 

 

人生は続く。 

 

413-0002
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』

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素晴らしいメールが届いた。私は「わたり文庫」という名前で、循環型の図書館のようなものをやっている。基本的なコンセプトは「誰かに無理やりでも読ませたい本を、自分しか読むことのできない本棚に並べておく(所有する)のではなく、ひたすら次のひとに回していく(共有する)」というものになる。私は本が好きだ。自分の好きな本をコレクションすることも好きだけれど、しかし、自分が素晴らしいと思う本を自分の本棚に並べているだけでは、その素晴らしさが広がることはない。そこで「自分が素晴らしいと思うことこそ、独り占めをして所有をするのではなく、循環させていった方がいいのではないだろうか」と思い、わたり文庫を開設した。最初、自分にとって大切な本を手放すことはなんだか惜しいような気もしたけれど、繰り返し読み直していた訳でもなく、本当に必要なものであれば再び手元に戻ってくるだろうとも思ってはじめた。

 

私は、このいばや通信というブログを通じて、毎回「わたり文庫無料郵送の一冊」を紹介する。私か、あるいはブログ読者の方が「これは無理やりにでも誰かに読ませたい!」と思った本(実際に熱海の家に郵送をしてくださる方々もいる)を紹介し、そののちに「この本が読みたいです!」と声をあげてくれた方に無料で郵送をする。この活動は決してお金を生み出す訳ではないし、逆に、配れば配るほどに赤字はかさむ。それでも、私は、この活動を気に入っている。大袈裟な言葉になるけれど、私は、わたり文庫の活動を通じて「タネを蒔いている」ような感覚になることがある。先日、わたり文庫無料郵送の一冊をご希望された方に、一冊の本を届けた。本だけを封筒に入れて送るのも味気ないなあと思い、私は、封筒の中にささやかながら小さなプレゼントを同封した。

 

与えて、与えて、忘れてしまう。

わたり文庫を受け取ってくれた方から、一通のメールが届いた。その内容があまりにも素晴らしいもので、私は、わたり文庫をやっていてよかったと心から思った。このような活動をしていると、こころない言葉や誹謗中傷が届くこともあれば、こんなことをやっていて一体何になるのだろうかと、自分で自分を疑ってしまうこともある。まるでこれまでのすべてが無駄であったかのように感じてしまうこともあるけれど、こころが沈みかけている時に、このようなメールが届くと「自分は間違ってはいかなかったのだ」と、ある種の肯定をされるような嬉しさを覚える。

 

本が届きました、ありがとうございます。

そして一緒に入っていたプレゼントが、実は本よりも嬉しかったです!

 

人生で大切なのは[GIVE AND TAKE]ではなく、[GIVE GIVE AND FORGET]という言葉がよみがえりました。昔、ある方の講演で聞いたフレーズです。


与えて、与えて、忘れてしまう。そうしたら、いつか忘れたころに何かの形で返ってくるんだよ、これが宇宙の法則なんだ。
というようなことを聞いて、えらく感動したのでした。

 

ただひたすらに種を蒔き続けること、と根っこは似ているのかもしれません。そんな、ある意味宇宙の原理であり、言葉にすることが難しいような領域を、体現している人が今ここに存在している面白さ。

 

「何者でもない何もない自分を受けいれることから始まる」のと同時に「今とは違う何か別の素晴らしい(かもしれない)自分」という幻をようやく手放せたような気持ちでいます。

 

自分を貫くことと(硬さ)と、そのままを受け容れること(柔らかさ)は、ものすごく似ているようで実は違った!と、ようやく腑に落ちた次第です。ありがとうございます!

 

何物にもなれない人生には意味がない。
何も持っていない人間には価値がない。
ずっとそう思って、思わされてきました。

 

みんなが競って[何者かである自分]を目指す社会は、いつも時間に追われていて、比較しては優劣をつけて、人の心には怒りや嫉みが渦巻いていて、足りないものを埋めること、無いものを追いかけることに、必死なように見えます。

 

だからその逆を行く人が一定の割合で存在して、なおかつ可視化してくれる有難い人が居ないと、この社会から多様性という豊かさや面白さ、余白みたいなものが見えなくなって、無くなってしまうんだなーと。

 

その瑞々しい感性と、しなやかで柔らかい心を、いつまでも大切にしてほしいです。

 

独り言のような長い文章になってしまいましたが、このあたりで終わりにします。

 

Re:わたり文庫として、一度だけお礼を返させてくださいね。

 

それでは、素敵なクリスマスをお過ごしください!ありがとうございました!

 

坂爪さんは、そのままでサンタクロース!

 

◯◯◯◯

 

私は、ああ、ほんとうにそうだなあと思った。誰かに何かをした時、自分のこころのなかに「これだけのことをしてあげたのに」という恩着せがましさのようなものがあると、執着が生まれ、見返りを期待するこころが生まれ、結果的に「自分の想念によって、自分自身が苦しめられる」ことがある。だからこそ、私は、できることならば「(誰かに何かを)してあげた」とは思いたくない。何かをしてあげたのではなく「自分がそうしたいと思ったから、そうしたのだ」というものでありたい。結果に対するコントロールを捨てて、ただ、自分がそれをできているまさにそのことによって、清々しさを覚えることができる【目的と手段が一致している】ことをやりたいと思う。

 

愛情の本質は「投げっぱなしジャーマン」

わたり文庫では、返却の必要はない。通常の図書館であれば「期限内に返す」必要があるけれど、わたり文庫【循環型の図書館】の場合は「もしもあなたがこの本をいいなと思った場合は、是非、次のひとにまわしていってください」ということになる。もちろん、必ずしも次のひとに循環をさせる必要はないし、そのまま自分の部屋に保管をしていてもいい。どのように本を使うかはそのひとの自由で、ただ、もしよかったら次のひとにまわしていってもらえたら嬉しいなあという運営者側の淡い期待がそれとなく乗っかっているだけに過ぎない。ルールは、あまり厳しく設定すると自由度を失う。私自身も、非常に怠惰な人間なので「あとは好きにしてくれ!」という状態で図書館をはじめられたことを誇りに思う。

 

ここまでの文章を書きながら「返却の必要はない」という言葉はいいなと思った。たいがい、何かをする時には『それなりの見返り【金銭的な対価や労働力の提供など】を必要とされる』ことが多い。しかし、私は、自然の営みを愛している。太陽は見返りを求めて何かを照らすことはしないし、善人は照らすけれど悪人は照らさないみたいなことをしない。常に太陽は「照らしっぱなし」であり、花は「咲きっぱなし」であり、風は「吹きっぱなし」であり、小さなこどもたちは「(そんな言葉があるのかどうかはわからないけれど)生きっぱなし」である。

 

多分、恩は返すものではなくて「次のひとにまわしていくもの」だと思う。それを相手に返すものだと考えてしまうから(あるいは相手に返すことを強要される場合もあるから)受け取りづらくなるのだろう。しかし、太陽は常に照らしっぱなしであるように、恩や愛情の本質も「投げっぱなしジャーマン」だと思う。愛情に見返りを求めたら、それは、愛情ではなく取り引きになる(取り引き自体は悪いことではないと思うけれど、愛情とは異なると思う)。それを言い換えたものが『GIVE&GIVE』ではなく『GIVE&GIVE&FORGET』の精神であり、多分、自分がしたことはすぐに忘れてしまうくらいがちょうどいいのだと思う。

 

『幸福な王子』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、オスカー・ワイルド著作『幸福な王子』です。クリスマスのこの時期にぴったりな、素晴らしい作品だと思います。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

 

かわいい小さなつばめさん、おまえはふしぎなものの話をしてくれるが、しかし男と女の悲しみこそ、何ものにもましてふしぎなものなのだ。悲惨(ミゼリー)にまさる神秘(ミステリー)はない。わたしの町の上を飛んで、小さなつばめさん、そこで目にうつるもののことを話しておくれ。ー オスカー・ワイルド『幸福な王子』【新潮文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

『GIVE&TAKE』から『GIVE&GIVE&FORGET』

前回の記事で「遺書を書く」などと書いてしまったものだから、ブログ記事更新のハードルを勝手に自分で高めてしまって「いけない!気軽にブログが書けなくなってしまった!」などと軽い自爆テロを起こしてしまった。が、毎日は破壊と創造の連続である。自分で決めたことを自分で破ることはお得意なので、これからも、書きたいと思ったことはなんだって書こう。堅苦しくなりすぎてはいけない。肩の力を抜こう。リラックス、リラックスである。人間は「自分以外の人間にはたいして興味がない」という話を聞いたこともあるし、この瑣末なブログ記事に何が書かれていようが人類の99,99999%にはどうでもいいことであり、且つ、人間の最大限のパフォーマンスが発揮される瞬間は「(堅苦しく構えている時ではなく)肩の力を抜いてリラックスをしている時」なのだ。さあ、リラックスをして、遺書を書こう。

 

【過去記事】遺書を書く。 - いばや通信

 

私は「気前の良いもの」が好きだ。その代表格が太陽であり、道端に咲く花であり、自然界の営みである。気前よく与えるものの姿に、私は、真の豊かさを見る。逆に言えば、どれだけ多くのものを持っていたとしても、失うことを恐れて必死に溜め込もうとしている状態(足りない!足りない!に取り憑かれている状態)は「貧しい」と言える。豊かであるということは、たくさんのものを持っていることではなく、多分、たくさんのものを与えることができることを言うのだろう。そして、いま、私たちが生きているということは「水や空気や食糧など、生きるために必要充分な恩恵をすでに自然が与えてくれているから」にほかならない。生きているということは、同時に、生かされているということでもあるのだ。

 

私には「してあげたことはいつまでも覚えているくせに、してもらったことはすぐに忘れる」という、非常に駄目な傾向がある。しかし、自分がこのようにブログ記事を書けていることも、日本語を開発したひと、パソコンを開発したひと、スマホを開発したひと、アプリを開発したひと、そして、何よりもこれを読んでくださるあなたの存在があってこそなのだということを、忘れたくないと思う。自分がしてきてもらったことを思い出すだけでも、傲慢さを取り除き、謙虚さを取り戻すことができる。調子に乗っていた自分を律することができる。そして、自分がこれまでに受けてきたとてもじゃないけれど返しきれないほどの量の恩恵を、わずかでも次のひとにまわしていけたらいいのだと、そういうことを思うことができる。

 

 

人生は続く。

 

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遺書を書く。

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もしも遺書を書くとしたら、どのような内容を書くだろうか。明日死ぬとしたら、最後に何を言い残すだろうか。あいつのこんなところが気に入らないだとか、何かを憎んでいるだとか、何かを許せないだとか、多分、そういうことは書かないのだと思う。ジェラール・シャンドリの言葉に「一生を終えてのちに残るものは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」というものがある。死を目前に感じる時、多分、その人からは誰かを憎んでいる時間はなくなる。そんなことよりも、自分にとって最も重要だと思うこと、大袈裟な言葉で言えば「愛し、愛された記憶」を強く刻もうとするものではないだろうか。私達は「裸で生まれてきて、そして、裸で死ぬ」ようにできている。どれだけ多くのものを集めたとしても、天国に持っていくことはできない。

 

奈良県を経由して東京にはいり、昨夜、熱海に戻った。奈良県では、お話会に呼ばれてみなさまの前で話をする機会に恵まれた。主催者の方が「さかつめさんは本を出す予定はないのですか?ブログ記事を読めることも嬉しいのですが、紙媒体という形で、実際に手にとって読めたらとても嬉しいです」と言ってくれた。私は、もしも本を出すことになるとしたら、遺書のようなものを書きたいと思った。私は、このブログを通じて「仮にこの記事が最後の記事になるとしたら、これが自分の遺言になっても構わないと思えるもの」を書きたいと思っている。文章だけではない、ひとと話をする時も同じだ。この会話がそのひととの最後の会話になるとしても、悔いのないように、血の通った言葉を使いたいと思っている。

 

遺書を書く。

毎年一回、遺書を書くように本を出すことができたらいいと思う。実際に出版をするかしないかはあまり重要ではない。自分の近くで同じ時代を生きることができたひとにとって、最後に言い残すことのないように「明日死ぬとしたら、これだけは言っておきたいこと」を、まとめるような形で本に残せたらいいと思う。その時、私は、どのようなことを書くのだろうか。自分のこれまでを振り返りながら、誰の顔を思い浮かべ、どのような場面を思い浮かべ、そして、どのような熱量を言葉の中に込めたいと強く思うのだろうか。

 

遺書を書くという行為を通じて、「自分の深いところから出てくる言葉」に出会うような気がする。奈良県のお話会を主催してくれた女性は、酒を飲みながら、こんなことを話してくれた。「そのひとはもう死んでしまったひとなのだけれど、生前、そのひとは『自分が死ぬ時は、これだけのことをしてもらったと思いながら死ぬのではなく、あのひとにはこれをしてあげることができたとか、このひとにはこれをしてあげることができたとか、自分は、これだけのことをしてあげることができたと思って死にたい』と言っていて、いまでも、その言葉が強く思い出されることがあります」と。

 

全国各地に呼ばれて、非常にありがたいことに様々な方々と出会う機会に恵まれている。私の文章を読んでくださる方々は、年齢層も様々で、置かれている境遇も本当に様々だ。普通にサラリーマンやOLをしているひともいれば、子育て中の主婦や定年退職後の男女、中には余命宣告を受けているひともいるし、何十年間も引きこもりの生活をしているひともいれば、社長業などで大金を稼ぎ出しているひともいる。表面的には様々な方々がこのブログを読んでくれていて、各地で開催されるイベントにも足を運んでくださるが、社会的な肩書きは違えど「同じ人間である」ことに変わりはない。私はひとりの人間で、私の目の前にいるひとも、同じように「ひとりの人間」である。だからこそ、対等な立場で話をすることができる。そして、こころを通わせることができる。

 

おはなをあげる。

東京では「おはなをあげる」というイベントを開催した。私は、花が好きだ。だから、無料で花を配る。特別な理由がある訳ではなく、ただ、私は花が好きだから「自分と同じように、花を愛でてくれるひとがいたら嬉しい」という気持ちで、隙間時間を見つけては周囲の人々に花を配っている。私にとって、花は「余裕」だ。花のある部屋には余裕を感じるし、花を選んでいる時の自分の気持ちにも「余裕」を感じる。逆に、部屋に花を生けていない時、花を愛せていない時、道端の花を眺める時間のない時、私は「自分の中から余裕がなくなっている」ように思う。

 

いまから一年ほど前、私は、熱海に拠点を構えた。この家を用意してくれたムラキテルミさんは、犬の散歩のついでに、この家に遊びに来てくれることが頻繁にあった。12月のこの時期から、伊豆山の道端には、水仙の白い花が綺麗に咲き乱れる。ムラキさんは、私に会う前に、道端の水仙の花を摘み取って手土産に持って来てくれた。私は、これまで、水仙の花がこんなにいい香りがするのだということを知らなかった。貰った花を部屋に生けると、少しだけ、空間が潤い明るいものになるような感覚を覚えた。それ以来、私は、この家を「花の絶えない家にしよう」と思うようになった。ムラキさんは、いま、熱海を離れて京都に拠点を構えている。ムラキさんのいない熱海は少しばかりさみしいが、いま、熱海の家のには水仙の花が飾ってある。水仙の花を見る度に、笑顔で「はい、これ」と花を差し出した時のムラキさんの、あの、非常に可愛らしい表情が思い出される。

 

昨日、東京で花を配りながら「遺書を書くことと、おはなをあげることの間にはズレがない」と思った。私は、自分で言うのもおかしな話だけれど、いま、自分がやっていることに間違いはないのだと静かに思いながら、出会うひとびとに花を配った。実際に花を手渡した方々は、女性が大半だった。別に綺麗事を言いたい訳ではないけれど、私は、女性の存在は花に似ていると思う。昨夜、花をあげた方から「おはなって、部屋を明るくしてくれるね」という連絡が来た。私は「あなた自身も一輪の花だと思います。素晴らしい夜を、そして、素晴らしい日々をお過ごしください」と返信をした。もしかすると、これは非常に恥ずかしい言葉だったのかもしれないけれど、この瞬間は、これが本当の音色だった。もしも明日死ぬことになったとしても、多分、私は花を配るだろう。そして「この花を見ながら、同時に何かを思い出してもらえたら嬉しい」という、淡い願いを込めたりするのだと思う。

 

『忘れられた日本人』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、宮本常一著作『忘れられた日本人』【岩波文庫】です。この本の中にある『土佐源氏』という30ページにも満たない物語が私は本当に大好きで、最初に読んだ時は、尋常ならざる衝撃を受けたことが思い出されます。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、滋賀県にわたりました ※※※

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

あの頃の生き方を、あなたは忘れないで。

昨夜、おはなを配り終えた私といばやのほしなさんは、ほしなさんの運転する車で一緒に熱海に向かった。車内では、松任谷由実「卒業写真」が流れていた。この曲の歌詞の中に「あの頃の生き方を、あなたは忘れないで」というものがある。共にはなを配り終え、共に痛い目に遭いながらもそれらをはるかに凌駕するいい感じの風に吹かれたりもしていた私達は、流れるBGMと共にしばし何かしら感じるものの中にそれぞれの身を委ねていた。すると、ひと時の静寂を破るようにほしなさんの携帯が鳴った。電話は、ほしなさんの母親からだった。電話の内容は「身内のものがなくなったために、一度、実家の新潟に戻って来て欲しい」というものだった。

 

その日は、もうすでに夜も遅かったので私達は熱海に泊まり、翌日の早朝にほしなさんは新潟に向けて出発をした。これは、もう、今朝の話だ。「じゃあ、けいごさん、行ってきます」とほしなさんは言う。私は「おう、いってらっしゃい」と答える。最低限の挨拶を交わして、私達は別れる。昨夜、眠りにつく前、ほしなさんは「前に、けいごさんが『いまの日々は老後みたいなものだ』ってブログに書いていましたけど、あの感覚、僕もわかります」と話してくれた。常に明るく爽やかなほしなさんだが、人知れず、過去には本当にいろいろあった男だ。いろいろあった男であるにも関わらず、誰かといる時は微塵も悲壮感や被害者意識を漂わせないほしなさんのどっしりとした生き様に、私は男を見る。同じ男として、端的に「惚れる」要素を多大に感じる。私は、こういう男と同じ時代を生きることができていることを、幸福だと思う。

 

ほしなさんと別れた後、私は、熱海の山の中を歩く。道端に、水仙の花が咲いているのを見つける。一輪を摘み取り、花の香りを嗅ぐと、懐かしい香りがした。熱海に暮らし始めて、もうすぐ、一年の月日が流れる。いいことばかりではないけれど、悪いことばかりでもない、ただ、トータルでは「最高だ」と心の底から思える月日が流れた。生きている限りいろいろなことがあるけれど、生きているからこそ、触れることのできた温もりがある。よろこびがある。泣きそうになるほどの感動がある。水仙の花を眺めながら、私は「生きていれば、また、水仙の花を見ることができる」ということを思った。ムラキテルミさんの幸福を願った。ほしなさんの幸福を願った。これまで出会ってきた、様々なひとたちの表情が思い出された。今年もまた、熱海に冬が来た。散歩を終え、家に戻り、水仙を飾り、窓を開け、部屋の掃除をして、台所に向かう。縁側に干していた大根を手に取り、簡単な味噌汁を作りながら、私は「遺書を書こう」と思った。

 

 

人生は続く。

 

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贈与の霊。

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広島駅に到着をする。りんごを届ける約束をしていた男性と合流をする。りんごを渡す。男性は喜ぶ。これは御礼ですと言って、iPhoneの自立型充電器【純正】と広島県までの交通費+αがはいっている封筒を取り出す。私は驚き、私は喜ぶ。なぜ、このような愚かな企画に、自腹を切ってまで参加(?)をしてみようと思ったのかと尋ねる。男性は答える。これは僕にとっての『遊び』みたいなものです。りんごを配るためだけに何処にでも行くひとが実際にいるということがなんだか愉快で、あとは、坂爪さんみたいな生き方をしているひとの存在はいまの世の中に『余裕』を生み出していると思うので、これからも生きていて欲しいと思ったからです。

 

【愚行】わたりサンタ 〜ペイフォワード的なサムシング〜

 

昨夜は、広島市内で開催されたお話会に出演(?)した。主催者の女性Y様は、この日のために豪華なホテルを二泊分予約をしてくれた。私は、数日前の記事に「ズボンに穴が開いてしまってこのままだと短パンになってしまいそうだ」的な内容を書いた。それを見てくれていたY様は、ホテルを予約してくれたばかりではなく「もしもよろしければ坂爪さんにズボンをプレゼントするサンタクロースになりたいのですが、ご迷惑ではないでしょうか?」という女神過ぎる慈愛を与えてくれた。私は、一応、みなさまにりんごをお配りするサンタクロース役として広島県に来た。それなのに、私は、与える以上に貰っている。この現象はなんなのだろうか。自分から先に無条件で与えていこうとする態度を示すと、結果的に『与える以上に与えられる』ことがある。この現象の名前はなんなのだろうか。

 

贈与の霊。

中沢新一著作『純粋な自然の贈与』【講談社学術文庫】という本の序曲に、印象的なエピソードが紹介されている。非常に長い文章になるけれど、示唆に富んでいるように見えるので、まるごと引用します。

 

アメリカ大陸に渡ったピューリタンたちは、そこで原住のインディアンと出会った。ピューリタンたちの目には、インディアンがひどく交際好きで浪費を好む人間のように見えた。インディアンは、たくさんの贈り物を交換しあい、もらったら必ずお返しをしなければ気のすまない人たちだ。倹約家で、こつこつとためるのが好きなピューリタンには、そういう「インディアン・ギフト」の習俗が、ひどく異様に見えたのである。

 

ところが、インディアンのほうでは、ピューリタンのその倹約家ぶりが、信じられないほど以上なことに、思えたのだ。たとえばこんなことがあった。白人の行政官がインディアンの村を訪れた。彼を歓待するために、インディアンは彼にみごとなパイプを渡して、煙草を吸うようにとすすめた。そして帰り際、友情の贈り物として、このパイプを行政官は受け取ったのである。その数カ月後、インディアンはこの人好きのする白人のオフィスを訪問した。そして、その居間の暖炉の上に、あのパイプが飾ってあるのを見て、はげしい衝撃を受けたのである。「白人はもらったもののお返しをしない。それどころか、もらったものを自分のものにして、飾っている。なんという不吉な人々だ」

 

インディアンの思考法では、贈り物は動いていかなければならないのである。贈り物といっしょに「贈与の霊」が、ほかの人に手渡された。そうしたら、この「贈与の霊」を、別の形をした贈り物にそえて、お返ししたり、別の人たちに手渡ししたりして、霊を動かさなければならないのである。「贈与の霊」が動き、流れていくとき、世界は物質的にも豊かだし、人々の心は生き生きとしてくる。だから、贈り物は自分のものにしてはならず、蓄積してはならず、たえず動いていくものでなければならないのである。

 

ところが、ピューリタンはそれを暖炉の上に飾ったり、博物館に収めたり、貯めたりする。自分の身のまわりに集まってきた「贈与の霊」の力を、彼らは蓄積し、使わないままに所有してしまった。無駄遣いの嫌いなピューリタニズム(その経済学的な別名はキャピタリズムである)は、大地を循環する「贈与の霊」の動きをとめることによって、自分の富を増殖させようとしていたのである。インディアンにとって、それはまことに不吉の前兆だった。大地と人のあいだを動き、循環していたなにものかが、とどこおり、動きをとめていく。そのかわり、そこには個人的な蓄積が、将来の増殖を生むという、別種のデーモニックな力が、徘徊していくことになる。それは、人々の物質的な暮らしは豊かにするだろうが、魂を豊かにすることは、けっしてないだろう。なぜなら、人間の魂の幸福は、つねに大地を循環する「贈与の霊」とともにあるものなのだから。

 

私は「贈与の霊」という言葉を見た時に、ある種の電撃が走った。そして、先日の出来事を思い出した。京都府在住の男性から「いつもブログを楽しみに読んでいます。もしも大阪にあるアップルストアまで来ていただけるようでありましたら、iPhone7plusをプレゼントいたします」という連絡が届いた。しかし、その時点で既にiPhone7plusを手にしていた私は「誠に申し訳ないことに既に手に入れてしまいました!が、貴方様のお気持ちが非常に嬉し過ぎてたまらないので、大阪まで行って感謝の気持ちを実際にお会いして伝えたいと思っているのですが、ご都合はいかがでしょうか!」という返信をした。その後、男性から「いえいえ、わざわざそんなことをする必要はありませんよ。iPhone7plusくらいの値段のもので、もしもこれから何か必要になった時は、お力になれると思いますのでその時にまたご連絡をください」という神がかり的な返信が届いた。

 

【過去記事】みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて。 - いばや通信

 

「与える喜び」を与える喜び。 

私は「なんてひとだ!」と感動をした。そして、いま、自分にとって必要なものはあるだろうかと考えた。先日、草履が大破した。これを機に(生きているだけでトレーニングにもなる)一本下駄が欲しいなあと思った。ちょっとお洒落で高級な眼鏡が欲しいとも思った。モチモチの玄米を家で炊くために圧力鍋が欲しいとも思ったのだけれど、同時に、何かが違うと思った。こんなもののためにひと様のお金を使うのは何かが違う(それほど優先順位の高いものではない)ように感じた。

 

が、発想を変えて「10万円分の花か本か何かを一気に購買して、それをクリスマスプレゼントとして欲しいと言ってくれるひとに対して無料で配りまくる」ということを閃いた。ら、テンションがあがった。私は、期間限定でサンタクロース役を務めるイベントを通じて「ひとに何かを与えるということは、これほど楽しいことなのか!」ということを思った。私が用意できるプレゼントは、りんごか花か小冊子程度の非常に安価なものばかりであるにも関わらず、時には涙を流して喜んでくれる方もいる。それが嬉しかった。この時、もしかしたら我々の間に「贈与の神」が降臨しているのかもしれないと思った。

 

私は、与えることは得意だけど受け取ることは苦手だ。しかし、受け取るひとがいなければ、与えるという行為【与える喜び】が成立しない。だからこそ「ひとの好意を断ることは、時に『喜びを奪う』ことにもなるのだ」ということを痛感した。受け取る側と与える側に上下関係はなく、受け取る喜びもあれば、与える喜びもある。中沢新一氏の言葉を借りれば「人間の魂の幸福は、つねに大地を循環する『贈与の霊』とともにある」のかもしれないと思った。

 

サンタを待つな、サンタになれ。

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新潟県村上市出身の女性から「この時期は実家で大量の鮭が獲れるのですが、坂爪さんはいくらが好きだと聞いていたので、12月25日に熱海に届くように送りますね!」という連絡が届いた。私は感動をした。最高のクリスマスプレゼントだと思った。同時に、私の中にある何かのスイッチが押された。私は「12月25日は一旦熱海に戻り、大量のいくらを食べたいひとは熱海に集まり、何かを熱海に送ってくださる方々にはそれを『ありがとうございます!』と全力で受け取り(余った食材は三森さんの家に贈り)、熱海からも、何かしらのサムシングを希望される方々に贈りまくる(たとえば、大量の「星の王子さま」を購買して読みたいと言ってくれたひとたちに贈りまくる)なんてことをしたらどうなるのだろうか、ということを思った。

 

【三森さん】まずはやる、まずは出す。 - みっつ通信

 

まだ、自分の中で考えがまとまっていない(ここまでの文章を読んで何か思うところがあった方々は、是非、お気軽にご連絡ください!)。感じていることは「サンタを待つな、サンタになれ」というインナーマッスルからの骨密度であり、クリスマスという素晴らしいこの時期に合わせて、何かこう「粋なこと」をやりたいと思う。同時に、粋なひとからのクリスマスプレゼントを全力で受け取っていきたいと思う。この点については、引き続き考察を深めて行きたい。キーワードは『贈与の霊』であり、また、何かを与える側にまわるときに是非とも気をつけておきたいことのひとつを思い出した。

 

それは「無目的、無条件、無制限に、執着が生まれる余裕もないほどに、徹底的に与えまくること【種を蒔きまくること】」だと思う。一粒や二粒程度ではない、何十粒も何百粒もとにかく種を蒔き続けることにより、自分でも忘れていた頃に突如咲き出す花がある。前に「私は数ヶ月前にわたり文庫の本を贈ってもらったものなのですが、どうしてもその時の感謝を実際に会った時に伝えたかったので、いま、こうしてお伝えできることがとても嬉しいです」という言葉をもらった。私も、この瞬間は最高に嬉しかった。喜びの種を蒔きまくることは、誰かのためだけではない、自分にとっても最高のサプライズプレゼントになる場合があるのだということを思った。

 

『純粋な自然の贈与』  

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、中沢新一著作『純粋な自然の贈与』です。著者曰く「人間に対する不信や、支配欲や、そしてなによりも流動するものへの恐れの気持ちがあるところには、贈与の霊の動きはおこらない。一言で言えば『死への恐れ』があれば、たちどころにそれは、見えないものとなっていく」。贈与は結びつけるエロスを、貨幣は分離するロゴスを持つ。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※

 

あらゆる宗教が、この贈与の精神を語りだしている。(中略)イエスもまた、贈与のことしか語らなかった。彼によれば、存在とはおしみなく愛を放出し続ける父なる神そのものであり、その愛の力は「聖霊」となって、生きとし生けるものの上に、注がれ続けているのである。神とは、命令を下したり、罰を与えたりする存在ではなく、まずだいいちに、贈与するものに、ほかならない。だから、人間はその無償の贈与者の愛にこたえて、この神を愛さなければならないのだ。イエスが商売を憎んでいたことも、聖書には記録してある。商売は、神がエロスでありロゴスであるその力によって、この世界に贈与しておいてくれるものを、人の世界に分離をつくりだす、売買の論理によって、変質させてしまう。売買から愛が発生することはない。そこで、イエスは、神殿に店を出している商人たちに、襲いかかっていったのだ。ー 中沢新一『純粋な自然の贈与』【講談社学術文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

何者でもないからこそ、何者にでもなれる。

広島市内で出会った女性から「坂爪さんはカガミみたいな存在ですね。みんなが、坂爪さんを通じて自分を確認しているように思えました」という言葉をいただく。カガミだなんて、非常にありがたいお言葉だと思った。私は、自分のことを「からっぽな人間だな」と思う。これは悲観をしている訳ではなく、大仰な例えになるかもしれないけれどそれは老子の言うところの『無用の用』的なサムシングであり、私自身に素晴らしい考え方があるからでもなく、私自身に特別な才能や能力が技術があるからでもなく、ただ、私自身がからっぽであるからこそ周囲に理解不能な現象【空間を埋め尽くす謎の高速回転】が起きているように感じた。

 

昨夜、広島のお話会に『わの舞』という踊りをやっている男性が来た。男性は「現在の踊りは、踊り手とそれを見る観客といった風に、直線的な関わりになっている。しかし、盆踊りなどに代表される日本の舞踊は、踊り手と観客の間に境界線はなく、全体でひとつの円になって(中心に大きな空洞をつくる形で)踊る」と話していた。私は『中心は空洞である』というワードに、謎に、直感的に真理を感じた。私には、夢や目標や10年後にはこうなっていたいと思う理想の自分像みたいなものがない。お話会などで「夢も目標も使命感もやりたいこともありません【あるのはこの瞬間だけ】」みたいなお話をすると、多くの場合、驚かれる。驚かれた後に、ああ、そうか、別に夢や目標はなくてもいいのだとちょっとだけ安心をしたような微笑を浮かべる方々を見ることは多い。

 

誤解されると困るが、私は、夢や目標を持つことを否定したい訳ではない。夢や目標があった方が頑張れるタイプの方々は、おおいに夢や目標を持った方がいいのだと思う。私の場合は、今日の夢が明日の義務感になってしまう【夢や目標が重荷になってしまう】ために、そういう類のものを持てないでいるだけに過ぎない。先日、一通のメールが届いた。メールの内容があまりにも嬉し過ぎたので、最後に、こちらを全文引用して終わります。私は、まだ、自分が何者なのかがまったくもってわからない。わからないけれど、わからないならわからないまま、この「わからない」状態を楽しんで行きたいと思っている。

 

 

坂爪さんはじめまして、こんにちは。
他人のブログを熱心に読むタイプではないのですが、坂爪さんの、どんな人間も否定せず受け入れ暖めてくれる、山奥にひっそりとたたずむ温泉のような言葉たちにいつも元気をもらっております。
坂爪さんの手にかかると、言葉という原石が生命を吹き込まれ、生き生きと輝き始めるのがわかります。魔術師のようです。たしかに、言葉のもつ輝きに魅了される瞬間があります。
宇宙から地球人の偵察に来ている人だったりして、、なんて想像したら楽しいです。こないだ見たインド映画PKの主人公を思い出します(笑)
なにやら坂爪さんは現代の老子みたいだな、と密かに思っております。
空のスペースに価値があるというフレーズなんかは坂爪さんを体現しているような。
いつも空にして、開いているから、そこに新しいものがどんどん入ってくるんですね。
現代人は詰めすぎ、閉じすぎなんですよね、きっと。
老子の小難しい言葉を、英語から日本詩のように綴っていた加島祥造さんという方が大好きなのです。もし、読んだことがなかったら、彼の「アーユーフリー?」や「タオ」なんかを読んでくれたら嬉しいな、なんて思います。
私は世間でいう普通に馴染めず学校も嫌い、お金のために働くのも嫌い、いかに働かないで生きていくか、ばかりを考えるような奴で、しかしヒシヒシと感じる世間からの同調圧力に負け、なんとか、普通を目指して、30代前半まで徹底的に自分を殺して生きてきました。ずいぶん長い間、私という存在は誰かや社会が望む、部品の一部であったようです。
が、最近はもうできないこと、いやなことを頑張ることをやめました。
なかなか都合がつかずお話会に伺う機会を逃してばかりなのですが、、、
いつか生身の坂爪さんにお会いできることを楽しみにしています!
という感じで、今回のわたり文庫の中村元さんの慈悲を読んでみたいなーと思いました。
よろしくお願いします!

◯◯◯◯◯

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

温もりに触れたい。

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前回の記事で「私は全国にりんごを配るサンタクロースになりたい」と書いた。すると、読者の方から「広島まで来て欲しい」という依頼が舞い込み、急遽、青春18切符【JRの鈍行乗り放題チケット】を購買した。熱海から名古屋までは五時間弱、名古屋から大阪まで三時間弱、大阪から岡山まで三時間弱かかった。あと少しで広島県に着く。途中、大阪の梅田でお会いした金髪の美女から、りんごを三個貰う。私は「逆じゃないか!」と思ったけれど、金髪の美女は「いいの、いいの」と譲らない。私は、ありがたくりんごを貰う。女性と別れた後に入ったタリーズの店員さんの接客が非常に素晴らしかったので、りんごをひとつあげる。珈琲を飲む。メールの返信をする。店を出る。りんごをかじりながら街を歩く。曇天の空から、ふと、太陽が顔を出す。いい風が吹く。りんごを食べながら人混みの中を歩いていると、どうしてなのだろうか、俺はまだ戦えるという感覚になる。

 

【過去記事】サンタクロース、現る。 - いばや通信

 

奈良在住の方と広島在住の方から「お話会をやりたいのですが大丈夫ですか?」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。山口在住の方から「母親の故郷のりんごが家にあるのですが、広島まで届けに行ってもいいですか?」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。車中泊をしながら全国各地を移動しているカメラマンの女性から「明日、ちょうど広島に行くので一緒にご飯を食べませんか?」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。台湾の高雄在中の男性から「交通費は負担をするので、台湾にも来ていただけますか?」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。イタリアのミラノ在住の女性から「いつかミラノにも来てください!」という連絡が届く。私は「もちろんです!」と応える。私は、りんごを配る以上に、りんごを貰っている。なんだかもう、誰がサンタクロースなのか、プレゼントの概念とは何か、訳がわからなくなる。訳がわからなくなることが、私は、嫌いではない。ああ、そうだ、自分は「訳がわからないこと」をやりたかったのだ。どのようになるのか予想がつくことではなく、どのようになるのかまるで予想がつかないことをやりたかったのだ。

 

【12月16日】坂爪圭吾サンタさんを囲んでお話会 

【12月17日】「坂爪圭吾さんを囲んでクリスマス会に集まれっ」

【12月14日-25日】わたりサンタ 〜ペイフォワード的なサムシング〜

 

「訳がわからないこと」をやろう。

タリーズの無料Wi-Fiを拾い、ツイッターのアプリを開くと、私の友達の嘉向徹の身体ありがとう君が以下のようなツイートをしていた。彼は、友人の保科亮太さんと一緒に『チームゼロ』という活動をしている。彼らは、基本的に、慢性的な金欠のど真ん中にいる。しかし、慢性的な金欠のど真ん中にいることを言い訳に何かを諦めるということがないので、お金がないままでいろいろなことをやってしまう。その瞬間、彼は、文字通り無一文の状態で台湾の高雄に飛び込もうとしていた。

 

 

周囲の空気感がガラッと変わるあの瞬間、いよいよはじまるのだなと背筋が伸びるあの感覚、大袈裟な言葉で言えば「生きていることの実感」が伝わってきた。次に、私はフェイスブックのアプリを開く。嘉向徹の身体ありがとうさんの相棒でもある、保科亮太さんの投稿が目に入る。保科さんは、現在「一郎一作」というイベントを自主的に敢行している。自分を0円【無料】で放出し、みなさまを労りながら各地を巡るという内容の試みになる。

 

【イベント詳細】【team-0/一労一作 vol.1】

 

そこにはこのように書かれていた。

 

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私は「このひとたちは最高だな」と思う。彼らは、基本的にあらゆる依頼を0円で受ける。そのため、金銭的なメリットを受けることは皆無に近い。その代わりに、カネ以外の何かを受けることが頻繁にある。嘉向徹の身体ありがとう君は、一年前、台湾の高雄に家が欲しいという願望だけを持って実際に高雄に行った。現地で「無料の家が欲しいのですがどうすればいいですか」と台湾の人々に聞きまくった結果、奇跡的に「うちのビルの三階がガラ空きだから、自由に使っていいよ」ということになり、台湾で自由に使える空間を獲得した。そんな彼らが、いま、一番アツいと認める男が、三重県限界集落に暮らす柳林裕君だ。

 

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私は、この文章を読んだだけで柳林君の虜になってしまった。その柳林君が、あろうことか12月24日に神奈川県江ノ島海岸で開催される「大相撲Xmas場所」に命の湯【五右衛門風呂】をつくりに来てくれるらしい噂を入手した。俄然、24日が楽しみになった。私は「パッと見、何がしたいのかわからないひとたち」の存在が好きだ。彼らの生き様に触れると、私は、もりもりっと元気になる。連日の移動で疲れた身体に、何度でも歩き出すための力が宿る。イヤホンを取り出して、BLANKEY JET CITYのSEA SIDE JET CITYを聴きながら、梅田駅の街中ですれ違う人々に怪訝な表情をされながらも、りんごを囓る。

 

【イベント詳細】大相撲Xmas場所 in 江ノ島海岸

 

『慈悲』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、中村元著作『慈悲』です。私にとって、わたり文庫当選者の方に本を送るための作業(宛名を書き、本を包み、軽い手紙を添えるなどの作業)は、ある種の贖罪みたいな感覚になることがある。うまく言葉にできないのだけれど、私は、発送の作業を通じて「簡単に調子に乗る自分の調律をしている」ような感覚を覚える。すべてのひとに返信をすることができていないことが非常に申し訳ないのですが、こうして「読みたいです!」と毎回連絡をくださる方々がいるということは、ほんとうにありがたいことだ。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。

 

※※※ こちらの本は、埼玉県にわたりました ※※※

 

苦難多きこの世にあって人々が明るく楽しく生きてゆくためには、他人に対する暖かな思いやりと心からの同情心をもたなければならない。貧しい生活でも暖かな共感のただよっているところは、心ゆたかであり、楽しい。この心情を仏教では「慈悲」として説いている。この観念はかつては神道や一般文芸にもとり入れられ、日本人の心性に大きな影響を与えたものであった。それは単に過去のものではなくて、未来の人類のために指標としての意味をもつであろう。

 

慈悲の実践はひとが自他不二の方向に向かって行為的に動くことのうちに存する。それは個々の場合に自己をすてて他人を生かすことであるといってもよいであろう。もしも単に自己を否定するというだけであるならば、それは虚無主義とならざるを得ない。これは現代における有力な思想傾向となっているが、自他不二の倫理はそれの超克をめざすものである、と言ってよいであろう。それは個別的な場合に即して実現されるべきものであるが、しかも時間的・空間的限定を超えた永遠の意義をもって来る、それは宗教に基礎づけられた倫理的実践であるということができるであろう。

 

かかる実践は、けだし容易ならぬものであり、凡夫の望み得べくもないことであるかもしれない。しかしいかにたどたどしくとも、光りを求めて微々たる歩みを進めることは、人生に真のよろこびをもたらすものとなるであろう。ー 中村元『慈悲』【講談社学術文庫

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

「温もりに触れたい」のだ。

私は、初対面の方々に「今世の調子はどうですか?」と尋ねることがある。今世の自分は、どうしてなのか意味不明な生き方をしているひとに強く惹かれる傾向があって、自分自身もあまりよくわかっていない生き方を現在もこうして続けているのですが、あなたの今世はどうですか?いい感じですか?いやな感じですか?ちょっとだけ停滞気味ですか?的な意味合いを含めている。私自身は、前世や来世というものの存在を絶対的に信じることができている訳ではないのだけれど、もしかしたら前世や来世があるかもしれない(現在とは、連綿と続く永遠の流れの中のほんの一瞬でしかない)という前提に立つと、今世の自分【現在の自分】を(ちょっとだけ余裕を持って)眺めることができる。

 

昨日、本屋に立ち寄ったら「ああ、楽しかったと思って死にたい」的なタイトルの本を目にした。このタイトルを見た瞬間、私は、非常に傲慢な感想になるかもしれないけれど「俺はすでにそう言えるな」と思った。自分から積極的に死にたい訳ではないけれど、既に、人間の一生分の密度を生きてきたような謎の感覚がある。それなのに「まだ生きてもいいのですか!」と、おまけのような日々に嬉しくなる。稀に、老後の心配をしている同世代の方々と出会うことがあるが、多分、私は既に老後に突入しているのだと思う。この瞬間は既に余生であり、言い換えるならばボーナスタイムのようなものである。既に人間の一生分を生きたというのに、まだ、これからも生き続けることが許されている(既に大量の素晴らしい出会いに恵まれてきたというのに、まだ、これからも素晴らしい出会いに恵まれ得る)ことの幸運を思う。

 

馬鹿にされてもいいし、理解されなくてもいい。失敗をしてもいいし、傷つけられてボロボロになってもいい。打率は1割程度でもいいし、24時間の間の23時間はクソだったとしてもいい、ただ、あの瞬間は最高だったなと思える瞬間の光を見たならば、紛れもない、そのひとは「今日の勝ち組」だと思う。これからを生きていくためには金銭や資格や世間的な肩書きなどが必要に思えることもあるだろうけれど、「生きたいと思う」ために必要なものは、多分、愛情とか慈悲とか温もりと呼ばれる類のものだと私は思う。嘉向徹の身体ありがとう君や、ほしなさんや、柳林君の生き様には、人間的な温もりを覚える。その温もりが、私の心を嬉しくさせるのだろう。今回の写真は、愛媛県在住の女性が送ってくれた虹の写真だ。虹は「夢が叶う前兆」を意味するらしい。すべてのひとにとっての夢が、今日、素晴らしい形で叶うような1日になればいいと思う。最後に、柳林君の詩を勝手に引用して終わりにします。大事なものは、多分、人間的な温もりだ。私達は生きていて、いま、この瞬間も、体の中に温かい血が流れている。生きているものには温もりがあって、同じように、誰かにとっての温もりになることができる。

 

 

笑おうや - Iに生きる

 

なあ、友よ、笑おうや。

おめえは今、しんどいのかもしんねえ。

でもとりあえず、笑おうや。

おれらに出来るのは、それぐらいのことだろう?

昔からそれしか、出来ねえだろう?

だから、なあ、笑おうや。


心がすさんでもええ。

体がボロボロでもええ。

それでも笑うのはやめちゃいけねえ。

俺らの取り柄はそこしかねえ。

だろう?違うか?そうだろう?


泣く時だって、あるかもしんねえ。

死にたい時も、あるかもしんねえ。

おれにはおめえの苦しみは、

全然さっぱりよくわかんねえ。

知りたいけれど、よくわかんねえ。

だって、それは、言っとくけどよお。

おめえさんだけのもんだから。

おめえが大切にしとかなきゃ、

なんねえもんだと思うんだ。


苦しい時も、泣きたい時も。

死にたい時も、消えたい時も。

それは、おめえだけのもんなんだよ。

だから、大切にしなきゃなんねえんだよ。


それらを全部、ひっくるめてよお。

大声出して、笑おうや。


おめえが笑えばおれも笑う。

おれが笑えばおめえも笑え。


笑い、笑って、笑い合って、

そのままぐっすり、眠ろうや。


なあ、友よ、だからよお。

死ぬまで一緒に笑おうや。

 

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人生は続く。

 

413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

サンタクロース、現る。

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iPhone7の大きい奴を買うために家を飛び出す。奇跡が起きた。サンタクロースは実在をした。前の記事で「iPhone7の大きい奴が欲しいけれど財布の中には550円しかない!」的な投稿をしたら、神は見ていた。粋なサンタクロース様の登場により、私にiPhone7の大きい奴が与えられた。あまりにも劇的過ぎる展開のために詳細を伝えることができない。あらゆる予定をキャンセルして、私は、渋谷のアップルストアに向かう。電車の中で走る。スクランブル交差点でスクランブる。道に迷う。無事に着く。店員さんに(冷静な振りを装いながら)話しかける。色を選ぶ。容量を選ぶ。定価107,800円のiPhone7plus256GBのブラックを購買する。顔で笑い、心で泣く。iPhone7の大きい奴が与えられたよろこびに慟哭をする。

 

【過去記事】みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて。 - いばや通信

 

設定の問題でミスる。過去のデータの引き継ぎに失敗をする。「ええい、ままよ!」とすべてのデータを削除する。はじめからやり直しだ。連絡先もあらゆるアプリも写真も音楽も電子書籍も何もかも消え失せたが、そういうことには慣れている。逆に、清々しい。私のよろこびは続く。iPhoneを買った時にアップルの袋を貰う。この袋を有効活用したいと思う。私は、アップルの袋からアップル(りんご)が飛び出てきたら楽しいなと思う。私は八百屋に向かう。りんごを買う。アップルの袋にりんごを詰める。私はサンタクロースになる。あ、このひとはいいひとだなあと思ったひとにりんごを配りはじめる。初日でりんごは完売をする。アップルの袋を丁寧に折畳み、鞄の奥底に常備をする。八百屋を見つけ次第、私は、りんごを買うだろう。そして、こっそりとアップルの袋に詰めるだろう。クリスマスが終わるまで、私は、全国各地にりんごを配って回りたいと思う。もしも、私からりんごを手渡しで貰いたいという危篤な方がいた場合は、いつでもお気軽にご連絡くださいと思う。現地までの交通手段さえどうにかなれば、多分、私はどこにでも行くのだと思う。

 

連絡先・keigosakatsume@gmail.com

 

クリスマスプレゼントの連鎖。

iPhone7の大きい奴が手に入るまでの私は、読者の方から譲り受けたiPhone5s(本当にありがとうございます!)と義理の兄から譲り受けたiPad Air(本当にありがとうございます!)を使用していた。いばやのほしなさんが「僕もiPad Airが欲しいんですよ」と言っていたので、私は、私のiPad Airをあげる。ほしなさんは喜ぶ。それを見て、私も喜ぶ。よろこびは連鎖をする。iPhone5sは、三森正道【みっつ】さんにあげる。三森正道さんは「弟が、まだスマホを持っていないので嬉しいです!」と喜ぶ。それを見て、私も喜ぶ。よろこびは連鎖をする。ほしなさんは「クリスマスプレゼントだ!」と言い、三森さんは「クリスマスプレゼントだ!」と言い、坂爪圭吾は「クリスマスプレゼントだ!」と言い、私は、あ、こういうの、すごいいいなと思う。

 

三森正道さんについては、いばや通信の過去記事を無理矢理にでも読ませたいと思う。12月10日(土)に秋葉原で開催されたイベントには、結果的に、我々三人で登壇をした。いばや関係者には、常に金欠状態に置かれている(場合によっては借金を抱えている)人間が多い。私も、なう、未払いのサムシングをそれなりに抱えている。三森正道さんの一日の食費は150円で、常にロクなものを食べていない雰囲気が漂っている。私は、ここぞとばかりに「三森正道さんの一日の食費は150円です!」みたいなことを壇上(?)で囁き、みんな、俺が言っていることの意味がわかるかい???わかってくれるかい???というエクスペクテーションを抱く。

 

【過去記事】人生を変える出会いについて。ー 本物の美しさや、本物の純粋さに触れると、自分の中から失われていた何かが再び蘇るような歓びを覚える。 - いばや通信

 

思いは届く。イベント終了後、余った食材はすべて三森さんがお持ち帰りする流れになる。大量のお菓子や三キロのお米、玄米餅に大麦餅にきな粉や小豆や各種調味料、パンや梅干しや缶詰やバナナや柿など、三森さんは非常に嬉しそうな顔をしながら袋に詰める。全部で、総量15キロを優に越える食糧が与えられる。三森さんは「わーい!クリスマスプレゼントだ!これで弟にドヤ顔ができます!」と喜ぶ。それを見て、最後の後片付けをしていた主催者側や参加者の方々全体も喜ぶ。三森さんには、何か、そういう力がある。三森さんが喜ぶ姿を見ると、それだけで、見ているこちら側まで幸せにさせてしまう力がある。私とほしなさんは「これから定期的に『三森正道を生かす会』でもやりましょうか」と話す。三森正道の言葉、三森正道の佇まい、三森正道が喜びにあふれている姿を見ることの中には、謎の喜びがある。私は、彼ほど、言葉の中に自分の思いを込めることのできる人間を知らない。彼の話を聞いていると、私は、理由もわからない涙が流れそうになることがある。

 

EVENT@秋葉原のハイライト。

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非常にお洒落な会場で開催された。

 

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開催前には、いばやのMAYUCHAPAWONICAさんも遊びに来てくれた。MAYUCHAPAWONICAさんも、ほしなさんも、嘉向徹の身体ありがとうさんも、坂爪圭吾も、同じ新潟県の出身になる。私とMAYUCHAPAWONICAさんは新潟高校時代の同級生でもあるけれど、当時は(坂爪圭吾が根暗過ぎたために)ひと言も話したことがない。MAYUCHAPAWONICAさんは、昨夜、ツイッターで非常に良いことを言っていた。

 

 

ほんとうにその通りだなと思う。

  

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今回のイベントを主催してくださった愛媛県今治市在住のM様と一緒に、集合写真を撮ってもらったもののピントがずれる。左から、ほしなさん、M様、坂爪圭吾、三森さん。M様の献身的過ぎる奉仕スピリットにより、この日は史上稀に見る良い日になった。素晴らしい人と出会うと、素晴らしい一日になる。私は、最近、伸び過ぎた髪を後ろで結んでいる。参加者の方から「武士みたいで格好いいですね!」などと言ってもらえた瞬間は非常に気持ちが良いけれど、この前、小学四年生の女の子から「キモい」と言われた瞬間の傷は癒えない。Gパンに穴が空き、ズボンを履くときに誤って何度も穴に足を通してしまうために、日に日に穴は広がっている。

 

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普段は軽めのほしなさんも、キメる時はキメます。と、ここまで書いたところで「お、三森正道さんがこの日の様子をブログに書いているじゃないか!」と発見をする。私が三森さんのことを書くとどうしても身内贔屓感があふれ出してしまうために、当日、イベントにお越しいただけなかったみなさまはこちらの記事をご覧いただけると嬉しいです。

 

【参考リンク】料理は愛情! - みっつ通信

 

『不良牧師!「アーサー・ホーランド」という生き方』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、アーサー・ホーランド著作『不良牧師!「アーサー・ホーランド」という生き方【著者サイン入り】』です。クリスマスのこの時期に、また、いつもとは違った視座でキリスト教に触れてみるには最高の一冊になると思います。私は、アーサー・ホーランドさんに代表される愚直な実践主義者の生き様が大好物です。私も、こちらの本を読みました。そして、こころ動かされました。実際にやるひとは強い。ひとりでもやる人間は一番強い。そして、男の中の男とは「異性にも、同性にも好かれるものだ」ということを思いました。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。

 

※※※ こちらの本は、鹿児島県にわたりました ※※※

 

生きているものには必ず匂いがある。バイクで走っていると畑の匂い、家畜の匂い、暖かい太陽の匂い、大地の匂いなど、もろに感じる。俺と大自然はかけ離れていないということが分かる。…俺はバイクに乗り始めてから、大自然とバイブルの世界は一緒だなと思うようになった。…波の音、水平線の彼方に沈む太陽、潮風…。それを肌で感じたとき、不思議だけれど、背後にあるスピリチュアルな存在、つまり、背後にある神の存在に思いを巡らすことができるのだ。ー アーサー・ホーランド『不良牧師!「アーサー・ホーランド」という生き方』【徳間文庫】

 

【参考HP】わたり食堂・わたり文庫

 

サンタクロース、現る。

最近、目で見て食べる技術を覚えた。駅ナカの立ち食い蕎麦屋に掲げられている看板などにある料理の写真を見ながら「これを食べたらこんな味がするんだろうなあ。温泉卵の食感はこんな感じで、わかめはツルツルで、寒い冬に飲む温かいだし汁は五臓六腑に染み渡り、ああ、そうだ、トッピングにゲソの天ぷらなども乗せてしまおう!」などと考えているだけで、幸せになる。実際に食べなくても、料理の画像を眺めるだけ、脳内で軽い妄想を繰り広げるだけでもそれなりの満腹感を得られる。そういうボディになった。私は、昔から「自分のためだけに金を使うこと」が非常に苦手だ。自分のためだけなら、メニューの写真を眺めながら変質者扱いされているだけで済む。ただ、いばやの関係者などといる時は「今日は俺がお金を出す(このお金でさえも、ひとから貰ったものになる)から、さあ、好きなものを食え!」みたいになることが多い。

 

 

これは、自分の気前の良さを自慢したい訳ではなく「誰かが喜ぶ姿を見ることが、結果的に自分の喜びになる」ということだ。 別に大きなことをやる必要はない。自分が、ただ、自分のできる範囲内で誰かに何かをすることができた時、その瞬間に感じる手応えのようなものの中には「ハートの奥底があたたかくなるような実感」がある。私は思う。多分、自分と他人の間にある境界線のようなものは幻想で、他人に対してこころのない言葉を使うひとは「同時に、自分のこころを傷つけている」のであり、他人に対してこころの込もった言葉を使うひとは「同時に、自分のこころを豊かにしている」のだと思う。自分にしていることと、他人にしていることとの間に大差はなく、それが、真の意味で『善い』ことであれば「世のためにもなり、ひとのためにもなり、そしてもちろん自分のためにもなる」と思う。

 

 

iPhone7の大きい奴を抱えて熱海に戻る。玄関を開ける。家に入る。珈琲を飲む。風を浴びる。月を眺める。本を読む。布団を敷く。眠る。夢を見る。目が覚める。白湯を飲む。風呂に入る。家のすぐ目の前に広がる海から、朝日が昇る。空は赤く染まり、鳥たちは鳴き出し、1日のはじまりを告げる。自然の中に囲まれているとわかる。私達は、既にとんでもない量の恵みを自然から受けていて、いつでも、誰でも、分け隔てることなくその恩恵を楽しむことができる。自然界の素晴らし過ぎる度量を目の前に、私は「自分はなんてちっぽけで、なんてケチ臭い人間なのだろう」と思う。そして「自然の作り手【神】は、最高過ぎる度量でオールウェイズ私達に恵みを与えてくれている。それならば、私も、自分に与えられたこの命(と、iPhone7の大きい奴!)を精一杯に生かしていきたい」と思う。

 

 

人生は続く。

 

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リラックスこそ最高の媚薬。

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お風呂にお湯を貯める。服を脱ぐ。水筒と、全身を磨く為のたわしと、iPhone5sと一緒に浴槽に入る。フリック入力で地道にブログ記事を綴る。ひとつの記事を書き上げるのに、およそ1時間から2時間程度かかる。書き終わる頃には、大量の汗で顔や腕がびしょ濡れになる。ブログ記事を更新しながら半身浴をすると、半身浴の退屈な時間も生産的なよろこびに変わる。私の身長は175センチ弱で、最近は腹もあまり減らない為に体重は53キロに落ちた。食べ過ぎると胃腸が重くなり翌朝「うぐぐ」となるが、体脂肪率が下がりすぎると免疫力は低下をして体調を崩しやすくなる(らしい)。
 
先日、大阪府羽曳野市で開催されたトークイベントに登壇をした。イベント終了後、ひとりの女性が名刺を片手に挨拶に来る。私は名刺が嫌いだ。ゴミが増える。経験則的に、私は、初対面の際に名刺を渡してくるタイプのひとと仲良くなれた試しがない。多分、そのひとの社会的な役割よりも「絶対的なそのひと自身」に、私の興味はあるからだと思う。私はこういうものですと名刺を差し出す女性を見ながら、私は「終わったな」と思う。
 

お前は誰だ。

私は女性に「あなたはいつもこんな感じなのですか?」と問う。女性は「はい」と答える。私は「あなたの態度は表面的で、形式的で、打算的で、あなた自身の純粋性が何も伝わってこない。純粋性が何も伝わってこないから、あなたと友達になりたいとは思えない」的なことを言う。女性は「はい」と言う。私は黙る。女性は「これからもブログ記事を楽しみにしています」と言う。私は、この言葉は社交辞令だなと思う。何も言わない。私は黙る。女性は「今日はありがとうございました」と言う。私は、この言葉も社交辞令だなと思う。何も言わない。私は黙る。女性は消える。周囲にいた人達の顔が、若干、凍りついている。
 
隣にいた大学生の男の子が「実際に言っちゃうんですね〜!」と言う。彼と私は友達だ。私は「だって嘘にまみれてたじゃん!」と言う。もうひとり、同じ時間を過ごしていた20歳の女の子は「私は今日という日を忘れないでしょう」と言う。彼女と私は友達だ。正確には、その日、友達になった。素直なひとは友達で、嘘にまみれているひととは友達になれない。私は、隣で友達が見てくれている時に燃える。私は「ありがとう!二人が見てくれていたから、あたし、張り切っちゃった!!!」みたいなことを言う。
 
結果的に、名刺を差し出した女性とはその後に仲直り(?)する。そこまでの流れは割愛をするが、私は、無理をして生きているひとは多いのだなあみたいなことを思う。一生懸命に「私は付き合う価値のある人間です!」「私は幸せな人間です!」「私は夢と目標に満ち溢れている人間です!」というアピールをしなければ生きていくことができないのだとしたら、私は、そんな世の中を生きていたいとは思わない。逆に「私は付き合う価値のない人間です!」「私は幸せな人間ではありません!」「私は夢や目標の重要性みたいなものって完全に嘘なんじゃないだろうかと思っていて、誤解を恐れずに言うと、みんな騙されているだけなんじゃないだろうかと思うタイプの人間です!」と言うひとと、友達になりたいと思う。
 

そんなもんじゃないだろう。

私は、根底に「お前はそんなもんじゃないだろう!」的な信頼や愛情が流れている限り、何をしてもいいのだと思う。たとえ一時的に衝突をしたとしても、動機が「相手を潰すため」ではなく「こころを通わすため」であれば、出し惜しむことなく、自分の思いはしっかりと伝えていきたいと思う。逆に言えば、自分の気持ちを押し殺して愛想笑いを浮かべながら無難にその場を収めようとするほどに、私は、私の中にある肝心な部分が死滅していく感覚を覚える。
 
過去に「無駄に慰め合うよりも、一回殺す」的な記事を書いた。誤解を恐れずに言うと、私には、自己啓発やスピリチュアルにはまっているひとほど「癒され過ぎて腐っている」ように見える。多分、延命措置に未来はない。安心感を求めて権威者と呼ばれているひとやものやことに答えを求めて彷徨うよりも、一回死ぬ(古い自分を一回殺して、新しい自分になって生まれ変わる)方が話は早いと思う。
 
 
稀に、私に答えを求めて来るひとがいる。しかし、私は「答え合わせ」みたいなことをしたいとは思わない。それをしてしまうと宗教になる。自分の頭で考えることができなくなる。私の考えはあくまでも私の考えであり、あなたの考えにはならない。私の考え方は、あなたにとっては答えではなく「問い」であり、それはつまり「お前はどう思うのか?【お前はどう生きるのか?】」という問いになる。答えよりも問いを共有できた時にこそ、私は、そのひとのことを「同じ時代を生きる仲間」だと思う。そこに上下関係はなく、年齢差も性差も社会的な肩書きの差もない、同じ人間として「あくまでも対等なもの」でありたいと思う。私は上にもならないし、私は下にもならない。わたしはわたしであり、あなたはあなたである。それが素晴らしいことだと思っている。
 

星の王子さま

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、サン・テグジュペリ著作星の王子さま』です。こちらの本は、昨日、愛知県の刈谷サービスエリアでヒッチハイクをしていた(あろうことか、そのひとは奈良県のイベントにも来ていた!)男の子が「僕は全然本を読まないのですが、これを読んでから本を読むようになったんです!」と語る一冊です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
 
※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※
 
人間たちはもう時間がなくなりすぎて

ほんとうには、なにも知ることができないでいる。

なにもかもできあがった品を、店で買う。

でも友だちを売ってる店なんてないから

人間たちにはもう友だちがいない。
 
 
 

リラックスこそ最高の媚薬。

大阪のイベントに来てくれた男性が「さかつめさんは何をしている時が一番楽しいですか?」みたいなことを尋ねる。私は、返答に困る。楽しいことなんて100種類以上あるし、このひとはなんでこんなことを聞くのだろうかと思い「あなたはどんな時に楽しさを覚えるのですか?」と尋ねる。男性は「やりたいと思っていることをやっている時です」と答える。私は、なるほどと思う。そして「それでいいじゃないですか」と答える。「それでいいと思うのですが、どうして、私にそれを尋ねるのですか?」と答える。
 
ニュアンスをうまく伝えられる自信がないけれど、男性は「私と同じであることに安心感を覚えようとしていた」ように見えた。そして「楽しむためには何かをしなくちゃいけない!」という焦燥感に駆られているようにも思えた。当たり前のことだけれど、答えはひとつではない。しかし、答えはひとつだと思い込むと「自分と違う答えを持つひとの登場に動揺する」ことになる。結果的に、周囲の人達の意見に惑わされて、自分自身を見失ってしまうことは多い。
 
私は、人間のパフォーマンスが最大限に発揮される瞬間は「リラックスをしている時」だと思う。何かをしなくちゃいけないという強迫観念は緊張感を生み、場合によっては何もしていない自分に罪悪感を抱く結果にもなる。大事なことは、多分、肩の力を抜くことだ。明日からは東京だ。堅苦しい文章を書いてしまった。熱海の空には太陽が輝いている。風呂をあがり、玄関先の椅子に座り、日光を浴びる。鳥が鳴く。木の葉が揺れる。目の前を野良猫が通り過ぎる。なんだか、いろいろなことがどうでもよくなる。自分には健康な体があって、今夜眠る場所があり、明日食うには困らないカネがある。これだけあれば、多分、文句を言ってはいけないのだと思う。足りないものは何もないのだなあという気持ちになる。
 

 
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人生は続く。
 
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思考の枠を外すには、意味不明な生き方をしている人間を目撃することが一番。

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ムラキテルミさんと嘉向徹君と車で京都に行く。ムラキさんは、過去に、余命三ヶ月と言われた肝臓癌を断食で克服した。車内は、健康談義で盛り上がる。病気の原因は血液の汚れ。血液の汚れの原因は『食べ過ぎ』と『低体温』。ムラキさんは言う。さかつめさんは腎臓と肝臓を大事にしてあげるといいよ。肝臓は怒りをため込む臓器とも言われているから、睡眠時間をしっかりとって身体を休めてあげたり、怒りを溜め込まないこと。小豆煮もいいよ。私は、ムラキさんのことが大好きだ。好きな理由は108個以上あるけれど、最大の理由は「かわいいから」だ。
 
 
今週の土日は東京で開催されるイベントに登壇をする。ムラキさんは、私のことを「食客のプロ、現代版の吟遊詩人みたいだね」と言う。私はよろこぶ。秋葉原のイベントには、みっつも(精神的な都合がつけば)来る。私とみっつの出会いはおよそ二年前、東京にある三軒茶屋駅の改札前で、念願の初対面を果たした。その出会いは衝撃的で、以来、みっつとは暇な時に話したり話さなかったりしている。みっつは言う。菩薩みたいにみんなの話を優しく聞いてあげている時のさかつめさんも好きですが、阿修羅みたいに荒れ乱れている時のさかつめさんはもっと好きです。
 
 
 
 

奈良のイベントに登壇をする。

昨夜は奈良のイベントに登壇する。参加者は45名。主催者の女性は「保守的だと言われている奈良のひとがこんなに集まることは珍しい。奈良で何かをやる時は、大抵、奈良以外の方が来ることが多い」と話す。昨夜は、徹君も一緒に壇上にあがる。徹君は、佐渡島に家がある。この家は、佐渡島に家をもつ非常に粋な男性から「君みたいな若者を待っていたんだ!この家を、この環境を、大いに使ってくれたまえ」とプレゼントをされた。この家で、徹君は「誰でも自由に無料で生きていけることをあれこれ」を実験的に試しているが、現金収入がないために、来客を無料でもてなす代わりに自身は「はじめてのアコ○」で借金生活を続けている。

 
前に、ブログ記事で「私の役割は、話の長い校長先生に『校長先生、話が長いです』と実際に言うこと」だと書いた。その記事を見てくれた某S県の中学校の校長先生から「あなたは面白い事を言いますね。今度の全然集会で、一部引用してもいいですか?」という連絡が届く。私は驚き、この展開を愉快だと思う。そして「ご自由にどうぞ!」と答える。奈落の底を這い生きる自分みたいな地底人間の言葉が、非常にパブリックな場所で引用される。誤解を恐れずに言うと、私は、悪い影響を与えたいと思っている。その為、いままでは叱られることの多い人生だったが、最近は「怒られるよりも面白がってもらえる」ことが増えた。
 
 
昨夜、奈良のイベントに来てくれた女性が言う。「さかつめさん、前に『米をつくることや米を買うことは苦手だけど、米を貰うことは得意だ』みたいなことを書いていたじゃないですか。あれ、なんだか妙にツボにはまってしまって、私、7年振りに笑ったんです。この7年間、個人的にいろいろなことがありました。が、その言葉を思い出すだけでも不思議と何度も何度も笑いが溢れてしまって、ああ、自分はまだ笑うことができるんだって、私は、救われてしまったんですよ」と言う。私はよろこぶ。徹君のアコ○で借金生活の話題も、昨夜、非常にツボにはまってくれた方が「君達は最高だね!」と言ってくれた。
 

押し寄せの法則。

引き寄せの法則に対抗しない形で、いばやでは「押し寄せの法則【別名・しわ寄せの法則】」を提唱する。佐渡島で何かをやりたいと願った徹君は、無一物の状態で佐渡島に飛び出し、そこで家を得た。家賃を浮かす為に家のない生活をはじめた私は、無一物の状態で世間に飛び出し、結果的に様々な恩恵を受けることができた。仲間が集まったらやるとか、完璧な環境が整ったらやる的な考え方に象徴される「待ちの姿勢」ではなく、何もないけれどやる、ひとりでもやる、自信はないけれどやる、不完全でもやる、とりあえず実際に火の中に飛び込んで見た愚者の生き様を補う形で、与えられるものが奇跡だと思う。
 
いばやは勝手に押し寄せる。いばやは愚者の集団だ。頼まれもしない場所の中に、環境の中に、状態の中に、遊び感覚で自らを投じて成り行きを見守る。その反動は大きい。押し寄せの法則は、しわ寄せの法則でもある。が、このような生き方をすることの最大のメリットは「粋な人間に出会う率が飛躍的にあがる【ひとの優しさに触れがち】」ことだ。正々堂々、裸一貫、生涯無一物で飛び出す。すると、それを見た人が「あなたたち、このままだと死ぬよ!ほれ、これを使いなさい」的な感覚で様々なものをくれる。私達は「ありがとう!」と言う。頂き物を食べ、生きるパワーを得た所で、また次の死に場所【遊び場】を求めて彷徨う。
 
多分、仲間は「歩き出した後に出会うもの」だと思う。宝物も同じだ。ひとりの人間が覚悟を決める。周囲の人間の反対を押し切り、いまいる場所を離れて、出発をする。歩きはじめる。知らない場所に到着をする。知らないひとと出会う。困難に出会う。困難を乗り越える。また、困難に出会う。困難を乗り越える。また、困難に出会う。困難を乗り越える。困難を経て強さを、困難を経て優しさを得る。そして、歩き続ける。歩き続けるその中で、出会うものが仲間だと思う。そして、歩き続けたその先に、残る記憶【共に生きた形跡】が宝物になる。
 

『第三の嘘』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、私の愛する悪童日記三部作の最終話、アゴタ・クリストフ著作『第三の嘘』です。悪童日記はまじで面白いので、是非、皆様に読んでいただきたい作品になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
 
※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※
 
 

思考の枠を外すには、意味不明な生き方をしている人間を目撃することが一番。

トークイベントの際に「自由とは何か」という話題になる。私は「自分が消えている状態だと思います」と答える。過去の自分は、自由とは「やりたいことができる、行きたい場所に行ける、好きなひとといることができる」ような状態を自由だと思っていた。が、最近では「自意識やエゴと呼ばれるものからの自由」こそが、真の自由なんじゃないだろうかと思うことが多い。
 

 
私は、幸福とは全体感であり、不幸とは分離感だと思っている。俺が、俺がとなるほどに、不自由になっている【大きな何かから切り離されている】感覚を覚える。が、ある種の無心になれている瞬間、たとえば、私は夕日が好きなのだけれど夕日を見た瞬間の私は「思わず駆け出しちゃってる」状態になる。この「思わず○○しちゃってる感」こそが重要であるような気がしていて、この瞬間、私の自意識は全体に溶け出している。エゴイスティックな思いは消え失せて、大袈裟な言葉で言えば『主体を共有する』ような感覚を覚える。
 

 
俺が、俺が、となるほどに私は不自由になり、何かに執着をし、結果的に不足感を抱くことが多い。今回のブログ記事は、使う画像がなかった為にいばやのMAYUCHAPAWONCAさんの幼年時代の写真を勝手に拝借した。小さなこどもを見ていると、ああ、こいつらは主体が完全に溶け出している、だからこんなにも好奇心に満ち溢れていて、こんなにも生きる力に溢れているのだろうなあみたいな気持ちになる。見るもの、聞くもの、触れるものが、多分、全部、自分なんだ。思考の枠を外すには、意味不明な生き方をしている人間を目撃することが一番だと思う。こどもはいつだって規格外で、そして、自由だ。
 

 

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人生は続く。
 
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みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて。

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湯河原の秘湯、入浴料200円の霊泉『ままねの湯』に向かう。何度か道を間違いながら、建物を発見する。湯治で名高い霊泉だ。景観が凄い。浴室にはいる。先客Aがいる。年齢は60代を超えているように見える。真っ白な体が、茹で豚のように赤くなっている。お湯に足をつける。熱い。熱すぎて「これは無理だな」と思う。次の客Bが来る。年齢は60代を超えているように見える。常連客なのだろうか、先客に「やあ」と挨拶をすると同時に、灼熱のお湯の中にダイブをする。私は「化け物だな」と思う。Bは1分間ほどお湯に浸かり、あああああと吐息を漏らしながら浴槽を出る。真っ白な体が、茹で豚のように赤くなっている。私も、勇気を出してお湯に浸かる。全身が赤く染まり、私は、茹で豚になる。
 
今夜、徹くんの車で京都に向かう。愛するムラキテルミさんが京都に引っ越されるため、その護送をする。明日の夜には奈良県で開催されるイベントに登壇をする。今回の人生はなかなか移動の多い日々で、私は、全国各地をぶんぶん飛び回っていることから「ぶんぶん丸」と呼ばれることがある。私の周りには、ぶんぶん丸と呼ばれているひとが他にふたりいる。ひとりはいばやのほしなさん。野球を愛するほしなさんはバットと周囲の人間を振り回しまくるので「ぶんぶん丸」と呼ばれることがある。もうひとりは、愛するSさんの実の父親。昔、極道をしていたこともあるSさんの実の父親の得意技は、日本刀をぶんぶん振り回すことだった。それでついたあだ名が「ぶんぶん丸」で、私は、同じ異名を授けられたことを光栄に思う。
 

わたり食堂を終えて。

昨日、熱海の家で「わたり食堂」を開催した。全国各地から様々な方々が様々な手土産と一緒に遊びに来る。主催者の私は「特に何もすることはないな」と思って、玄関先をぶらつく。昼寝をする。ひとと話す。ギターを弾く。花の世話をする。あるひとが言う。「ここに来るまではさかつめさんとあれこれ話をしたいと思っていたことがあったのですが、ここに来たら、なんだかどうでもよくなりました」と言う。私は、非常に素晴らしい効果だと思う。前回の記事でも書いたことと重なるけれど、私は、眉間にシワを寄せながら問題解決に果敢に挑む勧善懲悪的なスタイルよりも「遊んでいたらいつの間にか問題が解決した(問題だと思っていたことがどうでもいいことのように思えた)」ようなスタイルを愛する。
 
 
前回の記事を読んでくれた方からメールが届く。
 
坂爪さん、初めまして。
木下 千里と申します。

どうしてもメッセージしたくなってしまって。

いつも、自分が迷ったとき 落ち込んだ時 FB を開くと坂爪さんの記事が目に飛び込んできて 引き込まれて 励まされてます。

いつも ありがとうございます。

少し前に ハートの真ん中に爆弾を落とさせるような衝撃的な出来事があり 一体自分はなんなのか 何がしたいのか 自分の潜在能力を120%出しきって生きていきたいと常に思い悩み生きていたけど 今の自分のこの状況はいったいい何なのだろうか。。という感じの一ヶ月が続き 結果その中で色んな事に気づかせてもらいました。
そして 落ちきったら あぁ。こんな事になっても気づける自分、ピュアな自分、それでも自分を人を愛せる。私は自分の事本当に愛してると心底 おもいました。

そして本当に自分の事を自由にしてあげようと。心の底から想うことができました。

私は今 沖永良部島という奄美諸島の小さな島で 発達障害といわれる子供の支援事業で働いていたのですが 元々北海道出身でこの度、12月で辞めて 北海道に帰ることを決めました。

元々、全て本来あるべき姿 ありのままの美しさに魅力を感じるので 集団生活に馴染めるように 訓練することや、枠にはめていくような指導をしなければならないことなど個性をどんどん押さえ込ませることに 私自身が辛くなってしまったり 色々な葛藤があり これはこれで とても素晴らしい事業だし 職員もとても素晴らしい人ばかりで 島にとっても大切な場所であると感じていますが
じゃあ 自分はどんな風に生きて、この子供たちと、世界と関わっていきたいのか真剣に自分に聞いてみました。

そしたら、とても壮大な夢が出てきました。私は今結婚もしてなく子供もいませんが そもそもの結婚制度や今の日本の単一民族国家に疑問が生じて あぁ、私は地球規模の家族という意味で多民族国家になればいいなぁと思ってる自分に気がつきました。 自分自身も今 もし愛する人の子供が出来てもきっとあまり結婚という法律にはこだわらないだろうとか、
子供が出来ても友人の家で 大好きな人みんな集めてその目の前で出産してみたいなぁとか 大好きな友達 家族と思ってる集団 色んな人と一緒に子育てしたいなぁなど色んな事を思いました。

そして、今私は来年の春には札幌から車で一時間くらいの所にある定山渓という温泉街近くに一軒家をかりて 様々な事をやっていこうと思っています。

その場所で自分の好きなことを思いきりしながら 大好きな人 会いたい人を呼べる そして駆け込み寺のような場所にしたいと思っています。

以前のブログでニュージーランドにいらっしゃるニセコの女性のお話の時にも何故かとっても坂爪さんに連絡がしたくなり私もそのプロジェクト賛成ー!!参加したいですー!!と心で叫び ウズウズしてましたが 文章が上手くないなぁーとか ウジウジと引っ込み思案な私が顔をだし そのまま胸にしまいこんでいました。そしたら今日の記事でまたあー、どうしても連絡したい!!となり、突然ですが。メッセージさせていただきました。

出逢う人とは必然的に出逢うと信じてるので いつか 坂爪さんにも逢えるかなーなどのんきに想ってましたが もぅ気持ちが押さえきれないので 来年なりましたら熱海のお家に一度遊びに行かせて下さい⭐

全くまとまりのない一方的な思いの文章でちょっと恥ずかしいんですけど。。(*´ω`*)

会って、坂爪さんの空気に触れながらお話をしてみたいなと感じています。

読んでいただき、ありがとうございます⭐

なんか照れますけど、大好きです⭐

宜しければこれからご縁を繋いでいきたいです⭐
 
私はよろこぶ。
 
坂爪さん、初めまして。

突然のメッセージ、失礼いたします。
東京でワインのソムリエをしている尾崎由衣と申します。
コメントがどんどん長くなってしまったのでメッセージに切り替えました、笑

いつも投稿楽しみに読んでいます。
沢山励ましてもらい、勇気を貰っています。
ありがとうございます。
そして、写真がいつも綺麗ですね。

今週の西の空、三日月と金星とっても綺麗でしたよね。
私も同じ空見上げてました。
あまりに綺麗で、泣きそうになりながら、
あぁ、星空が綺麗なだけで生きていけるかもと感じてました。単純な自分に万歳です。

日本人は何世代も日本人の人が多いし、
「義務教育」が浸透しているから
世間一般の共通の価値観が生まれやすいのかもしれなーと、フランスで地下鉄に乗りながらふと思いました。

ヨーロッパは人種もバラバラだし、それぞれ自分の価値観で生きるしかない。そんな気がしました。

でも、日本人は団結力があって真面目に働くから、イベント開催時の日本人の働きぶりには感心しました。

私は箱の中のルールに従って動くのが苦手です。
出勤時間や拘束時間、お休みの回数が決まっている一般的な会社勤めをしていると苦しくなって弱ってしまうので、絶対に正社員には二度とならないぞと思ってます。

その代わり、自分の好きなことならいくらでも頑張れる。
自由にいつでも飛び立てる環境に自分自身を置くことで伸び伸びと生きられる。

ストレスの渦巻く東京都心。
みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめてと思います。
そのストレス、こっちに飛ばさないでー!と笑
ストレスって、その人からイライラガスとして発散されてると聞いたことがあります。
本当にガスかどうかはわからないけれど、
ストレスまみれの人の近くにいると身の危険を感じます。

みんな真面目にイライラしながら嫌なことよくやってるなーと感心しますが、私は出来なくて良かったと思います。

小さな頃から多様な価値観が認められる居場所があれば、そんなフリースクールで伸び伸び育つ子供が増えたら、
日本も変わりそうですね。
そうでなければ変わらないかもしれないですね。

私はこれからワインを作りたいと思っています。
来年は山形のグレープリパブリックさんで一二ヶ月住み込みでお手伝いできたらなと計画中です。

来年こそは何処かでお会いできたらなと思います。

いつもありがとうございます!

お風邪ひかないよう、ご自愛ください🍵

尾崎由衣
 
私はよろこぶ!
 
ご無沙汰しております。
以前ローズマリー軟膏達を発送していただいた○○です!
今日投稿されたブログを読んで、これはお伝えしたいと思いLINEいたしますm(_ _)m

長文になってしまうかもしれないので、お手隙でお読みいただけたら幸いです。

私の息子は今3歳で保育園へ通っているのですが朝の9時までに登園するという規則を私が守れないでおります…

私の職場が緩い事もあり元々、朝が苦手な私は9時までに支度を済ませられず申し訳無い気持ちと何で9時なんじゃという気持ちを抱えており誰でも自由な時間に子どもを預けて迎えに行かれる場所があったら喜ぶ親御さんは多いのではないかなと常々、思っていました!

息子が来年サドベリースクールに通える年になり6歳を迎えた歳に小学校へ入学できるのだろうかとフリースクールなども考えていますが坂爪さんがブログに書かれていた通りどうも真剣過ぎて私がついていけなさそうだと悩んでいました。

息子の気持ちを優先するつもりではおりますが坂爪さん達が「いば小」を作られるのであれば是非お手伝いしたく、そして息子を入学させたいと強く思いLINEしています☆

私に何が出来るかは分からなくても何かは出来ると信じて緩い面倒くさがりな親御さんもやっていける様な環境が出来たら幸せかなと思いました。

この様な考えの親も居るという事を、お伝えしたく食堂中失礼いたしました。
またブログなど楽しみにしております!
お身体ご自愛ください☆
 
私はよろこぶ!!!!!
 

まずは自分を救え。

過去に、24時間テレビ「愛は地球を救う」に対抗しない形で、いばやでは70万時間テレビ「まずは自分を救え」を開催した。ひとりの人間の平均寿命を時間にすると70万時間になる。私たちは、基本的に「ただ、言いたいだけ」を動機に何かをすることが非常に多い。この時は「70万時間」という言葉の響きと「まずは自分を救え」という言葉の響きに胸が打たれて、ただ、これを言いたかったがためだけに敢行をした。70万時間という「ぶっ飛ばしている」感覚が好きで、結果的に、非常に自己満足度の高い終幕を迎えた。
 
 
誤解を恐れずにいうと、ひとの生き方をああだこうだという人(こどもの悩み、恋愛の悩み、家族の悩みや政治的な悩みを抱えているひと)は「自分が直面すべきことをごまかしている場合が多い」ように思う。誰かを救いたい、誰かの力になりたいのだと声高に叫ぶひとほど、誰かを救うことを通じて「自分を救いたい」だけなのではないだろうかと感じる。しかし、救われる側からして見ると「自分のエゴを満たすために俺たちを使うのはヤメテ!」となるのではないだろうか、と、思う。だからこそ、いばやでは『【ひとの生き方にああだこうだと口を出すことより】まずは自分を救え』と提唱をした。
 
こどももおとなも、育てるものではなく「勝手に育つ」ものだと思う。楽しそうに生きているひとを見れば勝手に「楽しそうに生きる方法」を学ぶし、苦しそうに生きているひとを見れば勝手に「苦しそうに生きる方法」を学ぶ。どのような考え方を採用するのかはそのひと自身の自由で、人間が他の人間に対してできることは「自分の生き様を通じて、それなりのメッセージを伝える」こと程度なのではないだろうかと私は思う。ひとりの人間にとっての楽しさが、他の人間にとっての楽しさになるとは限らない。自分の意見を他人に押し付けることは『余計な御世話になる』ことが多いので、ひとの生き方にああだこうだと口を出すより、まずは自分。まずは自分を救え、という言葉を私は非常に気に入っている。
 

私は、サンタクロースの存在を信じる。

iPhone7の大きいタイプ(SIMフリー)が欲しい。定価は驚きの10万円近くもする。現在の所持金が550円程度の私には手が届かない贅沢品だ。しかし、欲しいものを欲しいと口にする自由は残されている。どうすればiPhone7の大きいタイプを手に入れることができるのだろうか。私は、このブログをiPadiPhone5sで書いている(使用している写真はすべてiPhone5sで撮影したものになる)。が、いま、iPadiPhone5sも非常に調子が悪くて、なかなか思うように文章を綴ることができない。写真の画質にも限界があり、もしもiPhone7の大きいタイプが手に入ったらなあと考えるだけでもよろこびに震える。
 
私は、とても広い意味でサンタクロースの存在を信じる。聖なる夜は近い。たとえば、丸一日誰かの奴隷になる代わりにiPhone7の大きいタイプをプレゼントしてもらうなどということは可能なのだろうか。定価は10万円近くになるが、果たして、私は1日に10万円に値する働きをすることができるのだろうか。わからない。わからないが、私の存在に価値を見出してくださる者は(自分自身ではなく)それを見る方であるために、そのひとが良いといえば良いのだろうし、そのひとがダメだと言えばダメなのだろう。世界の何処かに、誰か、私を「iPhone7の大きいやつと引き換えに何かを頼む」的な形で生かしてくださる方はいるのだろうか。
 
同じような理由で、いま、熱海の家もそれなりの事情を抱えている。家の名義人は取り急ぎ私がなるという形で、引き続き家は存続できることになった。存続できることになったものの、固定資産税だけではなく取得税(!)や別荘税(!)までがかかることが判明し、おお、これはいよいよいよいよだな、みたいな気持ちになっている。しかし、私が、この数年間の日々の中で得た教訓は「なんでも自分ひとりで背負わないこと!」であり、自分ひとりの力では一見すると難しく見えるようなことでも、みんなでやれば意外とどうにかなることは多い。問題が問題になる前に早めに全体で共有しておくことをモットーに、熱海の家【家の問題については、素晴らし過ぎる女神様の登場によって一時的にはどうにかなる予感に包まれている】、iPhone7の大きいタイプ、など、何かしら素敵な形でクリアされることを願う。
 

伊豆の踊子

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、川端康成著作伊豆の踊子』です。こちらの作品は、30ページ程度の非常に読み易い物語になるのですが、これほどまでに美しい文章というのは他にないのではないでしょうかという心清らかな気持ちになる、私の大好きな作品です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、大阪府にわたりました ※※※
 
二十際の旧制高校生である主人公が孤独に悩み、伊豆へのひとり旅に出かけるが、途中旅芸人の一団と出会い、一行中の踊子に心を惹かれてゆく。人生の汚濁から逃れようとする青春の潔癖な感傷は、清純無垢な踊子への想いをつのらせ、孤児根性で歪んだ主人公の心をあたたかくときほぐしてゆく。雪溶けのような清冽な抒情が漂う美しい青春の譜である。ほかに『禽獣』など3編を収録。ー 川端康成伊豆の踊子』【新潮文庫
 
 

みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて。

私はまだ、結婚をしたことがない。家族の問題に対して、親目線の相談に乗ることはできない。しかし、こども側の気持ちなら何となくわかる。私の場合、自分の親には「不完全でも楽しそうに生きていて欲しい」と思う。金がないとか、学歴がないとか、世間的な肩書きがないとか、そういうことはどうでもいいから楽しそうに生きていて欲しいと思う。親が楽しそうに生きている姿を見ることは、私の場合、それだけで「自分のよろこび【こどものよろこび】」になる。しかし、親から「私は私のやりたいことを我慢して、あなたのために生きているのよ」的なことを言われたら、いやいやいや、俺のことはどうでもいい(霞を食ってでも生きます)から自分のために生きてくださいと願う。
 

 
大人が無邪気だと、こどもは安心するのだと聞いた。逆に言えば、大人が常に緊張をしている環境の中でこどもがのびのびと過ごすことは難しい。極論、家庭というものは「根本的に、俺はお前を信じている。自分がやりたいと思ったことをやりなさい。それがダメになったら、最悪の場合はいつでも戻ってきなさい。家でゆっくりして、また、何かをやりたいと思ったらそれをやればいいじゃないか」的な場所になればいいのだと私は思う。根本的にはほったからし、それでいて、その奥底には『信頼感』が流れているような関係性に、私は、居心地の良さを覚える(これは必ずしも血縁に限る話ではない)。
 

 
と、偉そうなことを書き綴っておきながら、前述した「iPhone7の大きいやつが欲しい」的な内容を書いたことで、いま、比較的こころがざわざわしている。ああ、こいつはなんだか嫌な感じの文章を書く奴だなとか思われちゃったら嫌だなとか、こういうことをするからソーシャル乞食だとかディスられちゃうとか、そういうことを気にする程度には私はチキンだ。が、書く。毎日がバンジージャンプである。長々と書き綴ってしまったが、記事のタイトルにもあります「みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて」という言葉に坂爪圭吾は120%の同意をします。過剰なストレスはあなたの美容と健康を著しく損ねる原因にもなりますゆえ、みなさま、本日も健やかな日々をお過ごしください。我々は、一路新東名高速道路を(布施明のマイウェイを聞きながら)京都目指してかっ飛ばします!!
 

 
人生は続く。
 
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu

君は真面目過ぎる。

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新潟を経由して熱海に向かう。新潟では、いばやの仲間達と一緒に動画配信を行う。みんなと同じ時間を過ごしていると、自分の頭がどれだけ凝り固まっていたのかを痛感する。動画59分頃から「どこまでが自分なのか?【自分とは何か?】」という若干哲学的な話になり、やがて、自分が頭だけになったらそれでも生きたいと思うか?みたいな話になり、徹くんや、MAYUCHAPAWONICAさんの発想に度肝を抜かれる。
 
 
熱海では、3日、4日と、自宅を開放している。基本的に、この日以外も自宅は常に開放をしているのだけれど、「この日は開放しますよ!」というアナウンスがあった方が足を運びやすくなる方もいるということで、定期的に熱海で催し事を開催する。今回は、誰でも無料で食べ物や飲み物を楽しむことができる「わたり食堂」を行う。私は、「売る・買う」の関係性以上に「あげる・もらう」の関係性を愛している。飲食店を営業するには各種許認可が必要になるが、金銭のやり取りがなければ無許可でも問題はない。私の場合、「この料理は値段いくらで、1日に何人お客さんが来てくれたら経営が成り立つ」的な思考をするのが性分に合わないために、非常にざっくりとした形でやりたいと思う。
 

 
わたり食堂の開催にあたり、一通のメールが届く。
 
坂爪様

こんばんは!
お久しぶりです。
いつも素敵なブログをありがとうございます。
いつも清々しい気持ちで読ませていただいています。

突然ですが、4日にわたり食堂を開催されると拝見して、蟹!!と思ったので早速蟹を注文したので2、3日後に届くかと思われます。
事後報告ですみません(>_<)
量はあまり多くないかもしれませんが、大好きなわたり食堂で皆様が喜んでくださったらと出しゃばった事をしてしまいました。。

(中略)

私ももし伺えたら子供たちと共にお邪魔させてください。

開催日どうか素敵な1日になりますように。

○○○○
 
私はよろこぶ。
 
わたり食堂開催にあたり、大阪からは生姜茶やゆず茶、広島からは甘酒や梅干しや手作りの味噌が届く。手土産にみかんやせんべいや自家製のビーフジャーキーを持ってきてくださる方もいる。私の家にある食材は、玄米や、北海道産のじゃがいも、鳴門のわかめや岩戸の塩程度のもので、ものの少ない家になる。様々な方々が、様々な食糧を調達してくれる。動画配信の中で、ちーちゃんという女性が「けいごさんはものを集めるのが得意ですよね」と言う。私は、そうかもしれないと思う。正確には「私には何もない。何もないからこそ、周囲のひとたちが様々なものを補ってくれる」のだと思う。
 

君は真面目過ぎる。

新潟から熱海に向かう途中、新潟県三条市で女性と出会う。
 

 
彼女は、新潟県三条市フリースクールをやっている。最近、フリースクール関係者の方々とお会いすることが多い。私は、不登校支援とか、シュタイナー教育とか、居場所作りとか、サドベリースクールなどの単語を聞くと「素晴らしい活動なのかもしれないけれど、真面目過ぎる」と思う。私は、性格的に、悪ふざけをしたくなる。サドベリースクールに対抗しない形でマゾベリースクールをやったらどうなるのだろうかと思い、女性に、たとえば私のような人間でもある日突然「フリースクールをやります!」みたいな感じではじめちゃうことはできるのでしょうかと尋ねる。女性は、できますと答える。
 
私の中にある、何かしらのスイッチが押される。徹くんと一緒に、熱海に向かう車の中で、もしもいばやがフリースクールをやるとしたらどのような名前がいいだろうかと考えて、いばや小学校という候補案が出る。最初、いばや大学という名前が浮かんだものの「(自分たちを含めて)小学校からやり直した方がいいひともいるよね」ということになり、いばや小学校(通称・いば小)はどうだろうかという流れになる。居場所を作りたいとか、居場所を増やしたいと口にするひとたちは大量にいる。それならば、私たちも「いば小を作りたい」とか「いば小を増やしたい」などと口走ってみようか、みたいな話をする。
 
専門家でもなんでもない私たちが、仮に、突然学校や保育園をはじめたとすれば、多分、それを見たひとたちは「お前たちがやるんかい!」となる。そして、笑ってくれる。あるいは、説教をしてくれる。そんな生半可な気持ちでやるものではないよ、などと言われたりする。だからこそ、私は、良いのだと思う。あらゆるものが「ちょっと真面目に過ぎる」なかで、非常にライトな感覚で「とりあえずやってみました」みたいな感じで何かをはじめることの中には、見るひとのこころをざわつかせる何かがある。
 

問題を問題と思うから問題になる。

家族全体で食事をとらないバラバラの家族を見ると「それは問題だ!」と叫ぶ専門家がいる。しかし、インドネシアのバリでは家族全体で食事を摂る習慣はなく、ひとりひとりが好きな時間に好きな料理を好きなように食べる。家族が別々で食事を摂ることを「バラバラな家族」と言えば、彼らはバラバラな家族になる。家族が別々で食事を摂ることを「バリ風だね!」と言えば、彼らはバリ風の家族になる。ものはいい方であり、逆に、ものはいい方でしかないのだと思う。問題とは、多分、問題を問題と思うから問題になるのであり、問題を問題と思わなければ問題にはならない。私は、問題を解決したい訳ではなく「問題が問題ではなくなるような視点、および生き方」のようなものを模索したい類の人間なのだと思う。
 

 
こういうことを話すと、君は発達障害だからねとか、いばやはADHDの集団だからね、などと言われることもある。また、自分は発達障害ADHDで苦しんでいるのだと話すひとたちと出会うこともある。私は発達障害かもしれないし、発達障害じゃないかもしれない。私はADHDかもしれないし、ADHDじゃないかもしれない。ただ、どれだけ足掻いてみたところで自分にはこの身体とこの精神しかないのだから、仲良くやっていきたいと思う。たとえ、普通と呼ばれるものとは異なるものであったとしても、そもそもで普通と呼ばれるものにうまく馴染めなかった人間であり、普通であることにそれほどの面白みを見出せなかった人間でもあるのだから、別に問題はないのだと思う。別に問題はないはずなのに、油断をしていると「普通と違う」ことによるさみしさや悲しみを無意識に抱いてしまうこともある。
 

 
このさみしさや、この悲しみを払拭してくれるものがいばやの仲間達であり、彼等は、月並みな言葉で表現をすれば『こども』だ。発達障害と呼ばれるものや、ADHDと呼ばれるものも、ただ、普通の人よりもちょっとだけ「素直」なだけに過ぎないのだと思う。やりたいことはやる。やりたくないことはやらない。言いたいことは言う。言いたくないことは言わない。違うと思うものには違うと叫び、自分のこころが「そうだ!」と思ったものには諸手を挙げて賛同する。それが、極端に表に出ているだけに過ぎないのだと思う。きっと、誰もがこどもの頃は天才だった。問題は、いつまで天才でいられるかだ。私は、こどものままでいるひとの存在を見ると、天然記念物を発見した喜びに満ち溢れる。
 

 
トイレに行きたい気持ちを我慢しながら書き綴ったために、まとまりのない、忙わしない文章になってしまった。私は、多分、真面目過ぎる。もっと柔らかな思考を持ってもいい。もっと幅広いこころで世界を捉えてもいい。こうあるべきの思考の枠を飛び越えて、こんなものがあってもいいじゃないかというある種のギャグ、見るひとのこころを解きほぐすギャグをかましたい。笑いと許しは何かが似ている。怒りに満ちているひとも、悲しみに満ちているひとも、一回の笑いが大きく精神をほぐすことがある。それならば、かましてやりたいじゃないかと私は思う。笑って泣ける、最高のギャグを。
 

 
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人生は続く。
 
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セフティネットとしての自己開示。

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数年前から自分をオープンにすることを趣旨に掲げて、基本的には「呼ばれる限り何処にでも行く」というスタンスで生きてきた。現在は新潟市内のガストにいて、12月の上旬は関西と関東に足を運ぶ。私は、まだ、自分のような生き方に名前を与えることができていない。ただ、私のような生き方を面白がってくださる方々の声に応える形で、日本各地から近年では東南アジアや欧州にいたるまで実際に訪れた。また、基本的には「現地までの交通費などは依頼主の方が負担をしてくれている」のが現状になる。
 
 
 
  
私は、自分のスケジュールをWEB上に公開している。それを見てくれた方が「あ、この日が空いているなら自分が住んでいる場所まで呼ぼうかな」とか「あ、近くにいるなら会いたいな」的な感じでお声をかけてくださり、個別での面会やトークイベントなどの登壇や海外旅行の護衛としてなど、依頼者の方の要望に応える形で生きている。特定の職業には就ておらず、安定した収入もないために、世間的に言えば「無職」であり「ニート」であり「ダメ人間」であるとも言える。このブログにも、広告などは一切貼り付けていないために一円にもなっていない。特別な信条があって広告を貼っていない訳ではなく、ただ、ほとんどのブロガーと呼ばれる類の人々は広告を貼り付けているために「自分は貼らなくてもいいだろう」程度に思っている。
 
【SCHEDULE】坂爪圭吾
 

自分をオープンにすることの実験。

2014年の冬から「家のない生活」をはじめ、私を泊めてくださる方々の家を転々とし、結果的に家のない生活は2年程度続いた。自分でもまるで想像をしていなかったが、最初は東京都内で呼ばれる限り何処にでも足を運んでいたが、やがて全国各地から「交通費を出すから泊まりにおいで」とか「話が聞きたいからトークイベントのゲストに来てくれ」などの声がかかるようになった。2年目は、海外からも声がかかるようになり「交通費は出すから◯◯に来てください」とか、時には「私は日本在住の人間ですが、ずっと昔からインドに行ってみたいと思っていて、だけど、ひとりで行くのはちょっと怖いので交通費や宿代はすべて負担をするので一緒に行ってくれませんか?」などの声もかかるようになった。最近では編集者や報道関係者からも声がかかるようになったけれど、まだ、本を出す予定はない。
 
結果として、呼ばれていった国は15カ国程度、護衛としての付き添い的な形で同行した国は5カ国程度になり、金のない私には到底いけないと思っていた国々に(言葉が悪いけれど「ひとさまのお金」で)行ける形になった。私は、決して海外旅行が好きなタイプの人間ではなかった。しかし、実際に「いったことのない場所にいくこと」や「やったことのないことをやること」の中には自身の想像を超えた面白みがあり、結果的に、私は「自分の頭で考えられることなんてタカが知れている(自分が「自分はこういう人間だ」と思っていることでさえ思い込みであることが多い)のだから、自分がやりたいと思うことをやるというよりも、誰かに『これを一緒にやってほしい』と言われたことを共に遂行するほうが、経験の幅も広がるし世界も増える」みたいなことを思うようになった。
 
私には、夢や目標がない。こうなりたいと思う自分もなければ、死ぬまでに成し遂げたいと思う何かがあるという訳でもない。こういう風に書くと「無気力な人間だな」と思われてしまうかもしれないが、事実、私は無気力な人間なのかもしれないと思うこともある。が、それでいて「何もやりたいことがないといっている割には、なかなか面白い人生を送っているなあ」などと自身を客観的に観察している自分もいる。思うに、私の日々を面白くしてくれたものは「自己開示【自分をオープンにすること】」に依る部分が多大にあり、言い方を変えれば、私は、自分の力【自力】で自分の日々を面白くした訳ではなく「自分の力で何かを成し遂げることを放棄して、ただ、みなさまに自分を自由に使ってもらうこと【他力】によって自分の経験の幅が広がった」ように感じている。稀に、このような私の生き方を「すごいですね!」と言ってくださる方ともお会いするけれど、すごいのは、坂爪圭吾ではなく「坂爪圭吾を面白い形で活用してくれたひとたち」だと思っている。
 

自分をオープンにすることの防犯性。

家のない生活を2年間続けた後に、ブログ読者の方に熱海に家を購買してもらうという形で、家のない生活は終了した。これだけでも、もう、ものすごい話だと思う。人生は何が起こるかわからない。ひとは優しいのだということを痛感すると同時に、その方の善意によって与えられた家でもあるために、私は、この家を自分のためだけに使いたいとは思えなかったために、現在も「全体的に無料で開放をして、使いたいひとがいれば自由に使ってもらう」という形で開放している。この瞬間も、私の体は新潟市内にあるけれど、熱海の家には(まだお会いしたことはないものの)女性の方が利用をしてくれている。一応、利用を希望される方には事前にメールか何かで連絡をくださいとお願いをしている。理由は、他の方が「イベント利用で使いたい」とか「大勢のひとと会うのがあまり得意ではなく、個人的な静けさを守りたい」などの理由で、不特定多数が突然押し寄せると困る場合があるからになる。
 
家の鍵はかけていない。玄関には「みんなの財布」といって、出し入れ自由の財布が掲げてある。住所もあらゆる連絡先も公開をしているが、それを見たひとから「そんなにオープンにしていると、危ない目にあうことはないのですか?」と尋ねられることは多い。結論から言うと、この数年間の日々で、物理的に危ない目に遭ったことは一度もない。誰かに襲われたこともなければ、何かを盗まれたこともなく、稀に、朝、目覚めてみると隣に知らないひとが座っていたということは数回あるけれど、また、ちょっとしたストーキングチックな行為に悩まされかけて「これは家をクローズドなものにしたほうがいいのかな」などと思いかけた瞬間もあるものの、ひとつのことに思い立ち、現在も「家も自分もオープンにし続ける日々」を過ごしている。
 
ひとつのこととは、要約すると「家も、オープンにしている方が防犯性が高い【風通しが良い】」ということになる。泥棒が来ても、ストーカーが来ても、この家は「いつ誰がやって来てもおかしくない家」でもあるために、ある種のやましさを抱えるひとは長居をすることができない(と思う)。逆に言えば、家を密室【クローズドなもの】にしてしまうと、泥棒もストーカーも、結果的にやりたい放題になる。これは、多分、家だけではなく人間の精神にも通じる話だと思う。自分をオープンにすれば、風通しが良くなり、ひとの助力や優しさ、自分でも思って見なかった素晴らしい瞬間に出会える。逆に、自分をクローズドなものにすれば、不安や恐怖心が自らの精神を蝕み、自分でも無意識の内に「深刻になりすぎてしまう」ことや「自身の恐怖心によって殺されてしまう」ことは多い。
 

閑話休題

小難しい話を長々と書き綴ってしまった。
 
ほんとうは、こう、笑ったりしながら話をしたい。
 
真面目に考え過ぎるのはよくないと思う。
 

自分をオープンにすることの可能性。

今回は「自己開示がセフティネットになる」みたいなことが書きたかった。おとといも、横浜から来てくれたご夫婦が30キロの玄米を届けてくれた。こういうことが日常的にあると、なんだろう、うまく言えないけれど「自分をオープンにしていれば死なないばかりか、自分ひとりの力では決して成し遂げられなかったであろう素晴らしい瞬間に立ち会える」のだということを思う。そういう話を、堅苦しい文面ではなく、イベントなどの際に実際にお会いした方々と面と向かって話をしたいと思っている。最近、ひとと話をするのが好きだ。一対一は緊張をする(緊張をするというか、相手のエネルギーをもろに受け取ってしまうために稀に苦しくなる)けれど、大勢のひとの前で話している時は、元気になる。
 
玄米30キロを届けてくれたご夫婦のご主人は、昔、整体師をやっていたそうで「全国どこでも整体します!みたいな形で、場所にとらわれない移動型の生き方ができたらいいなあとも思っていたのですが、整体という行為に限定してしまうことも何だかつまらなくて、どうしたものかと思っていました」的な話をしてくれた。この感覚が、私には、ものすごいわかる。私も、自分で自分の役割を限定したくない気持ちがあるからこそ、多分、現在も「社会的な肩書きを与えられることから逃げている」ような生き方をしているのだと思う。逆に言えば、自分に肩書きがないからこそ、自分の発想を超えた依頼が舞い込み、ある時は作家、ある時は講演会、ある時はコメディアン、ある時はツアーコンダクター、ある時は登山家、ある時は旅館の女将、ある時はギタリスト、ある時はホームレス、みたいなことになっている。変幻自在のアメーバ的な存在。そういうもので、私はありたいのかもしれないと思う。
 
これは完全なる余談になるけれど、私は、お米をつくること【農作業】も苦手な人間で、お米を買うこと【お金を稼ぐこと】も苦手な人間だけれど、お米を貰うことは得意な人間みたいだとこの前思った。これは、個人的に非常に興味のあるテーマで、つくることが得意なひとはつくり、お金を稼ぐことが得意なひとはお金を稼ぎ、ものをもらうことが得意なひとはものをもらう、これらがうまいこと共存関係を結ぶ(?)ことができれば、世の中はうまくまわるのではないだろうかということを思った。この辺のことは、また、まとまり次第イベントなどの機会にお話できたらいいなあと思っております。
 

悪童日記

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、アゴタ・クリストフ著作悪童日記』です。こちらの作品は小説になるのですが、過去に何度も読み直したのですが、言葉では説明できない衝撃的な内容といいますか、衝撃的な文体といいますか、とにかく「読め!読めばわかる!」としか言えない、そんな私の大好きな作品です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、奈良県にわたりました ※※※ 
 
「乞食の練習」

ぼくらは破れた汚い衣類を身に纏う。裸足になり、顔と手をわざと汚す。街中へ出かける。立ち止まり、待つ。

外国人の将校がぼくらの前を通るとき、ぼくらは右腕を挙げて敬礼し、左手を差し出す。たいてい、将校は立ち止まらず、ぼくらに気づきもせず、ぼくらを見もせず、通り過ぎる。

やっと、ひとりの将校が立ち止まった。彼は、ぼくらに理解できない言語で何事かと言う。ぼくらに、あれこれ問いかけているらしい。ぼくらは返事しない。一方の腕を挙げ、もう一方を差し出したまま、じっとしている。すると彼は、ポケットの中を探り、硬貨一枚とチョコレートのかけらをぼくらの汚れた掌の上に載せ、しきりに首を捻りながら立ち去る。

ぼくらは待ち続ける。

婦人が通りかかる。ぼくらは手を差し出す。彼女が言う。

「かわいそうにね・・・。私には、あげられるものが何ひとつないのよ」

彼女は、ぼくらの髪をやさしく撫でてくれる。

ぼくらは言う。

「ありがとう」

別の婦人が林檎を二個、もう一人がビスケットをくれる。

また別の婦人が通りがかる。ぼくらは手を差し出す。彼女は立ち止まり、言う。

「乞食なんかして、恥ずかしくないの?私の家にいらっしゃい。あなたたち向きの、ちょっとした仕事があるから。たとえば薪を割るとか、テラスを磨くとかね。あなたたちくらい大きくて強ければ充分できるわよ。ちゃんと働いてくれたらば、お仕事が終わってから、私がスープとパンをあげます」

ぼくらは答える。
 
「ぼくら、奥さんのご用を足すために働く気はありません。あなたのスープも、パンも、食べたくないです。腹は減っていませんから」

彼女が訊ねる。

「だったらどうして、乞食なんかしているの」

「乞食をするとどんな気がするのかを知るためと、人びとの反応を観察するためなんです」

婦人はカンカンに怒って、行ってしまう。

「ろくでもない不良の子たちだわ!おまけに、生意気なこと!」

帰路、ぼくらは道端に生い茂る草むらの中に、林檎とビスケットとチョコレートと硬貨を投げ捨てる。

髪に受けた愛撫だけは、捨てることができない。

アゴタ・クリストフ悪童日記』【早川書房
 
 

セフティネットとしての自己開示。

いままでの自分の半生を振り返りながら、導き出せる教訓的なものはないだろうかと思い立って書き始めたこのブログ記事だけれど、ここまで書いて「ああ、俺の役割はとにかく自分を生きることだ。生き方に名前を与えることとか、ひとりの人間の生き方を具に観察して分析するとか、これからはこうなる的な時代予測とか、こうするとこうなる的なテクニック論とか、多様性だとか、贈与経済だとか、サステナブルな経済だとか、そういうことは、そういうことが得意なひとに任せて、自分は、ただ、自分を生きていればいいのだ」ということを思った。
 

 
私の場合は、自己開示をすることによって面白い目に遭えた。しかし、面白い目に遭うために自己開示をはじめた訳ではないのだ。順番が、逆だった。セフティネットとしての自己開示ではなく「自己開示をした結果、思いもよらない形でセフティネットが構築されていた」だけの話に過ぎないのだと思う。繰り返しになるけれど、人生は、何が起こるかわからない。自分が思ったようにいくことよりも、自分が思ってもみなかったことの方に日々は大きく揺さぶられるもので、だからこそ「何が起こるかわからない」これからの日々を、ひとつの映画以上に、ひとつの漫画以上に、面白がっていくことができる。
 

 
どのような生き方をするにせよ、私は「こころを込める」ということを大切にしたい。いまを生きるということは、決して「いまが良ければそれでいい」という刹那的なものではなく、いまという瞬間に自分の最大限の思いを込めることが、ひとつの小さな『種』となり、未来に花を咲かせることもあるのだと思う。いまを生きるということは、多分、自分の思いを出し惜しみしないということだ。こころを込めずに過ごした時間は虚しさを残すが、無様でも、不器用でも、自分なりにこころを尽くしたと思える瞬間のあとには清々しさが残る。そういった意味で、私は、悔いのない日々を過ごしていきたいと思う。
 

 
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人生は続く。
 
413-0002
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社会不適合者でも楽しく生きる。

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久し振りに熱海に戻り、昨日は、千葉と北海道とニュージーランドから来客があった。千葉県からのお客様は、非常に有り難いことに「さかつめさんが風邪だと聞いていたので」と、大量の漢方薬と大量のヒートテックと大量の干し芋を持参してくださり、私は「風邪をひいて良かった!」と思った。北海道からのお客様は「さかつめさんはいくらが好きだと聞いていたので」と、大量のいくらを購買して来てくださり、私は玄米2合を瞬時に炊き上げて一目散に食べ散らかしながら「家を開放していて良かった!」と思った。
 
何事もオープンにしてみるものである。一ヶ月程度前に「家にある食糧が尽きて、最近は小麦粉を捏ねてうどんを作っています」的な投稿をしたら、それを見てくださった方々から様々な食糧が届いた。本日も、日本の何処かから玄米30キロ(!)を抱えて車で熱海まで来てくださるご夫婦とお会いする予定がある。巷の噂によると『玄米は完全食である』らしいので、とりあえず玄米を食べていれば人間は死なない(のだと思う)。私は、ああ、こうして今日もみなさまに生かされていることの幸福と玄米を噛み締めている。
 

Q「さかつめさんは反資本主義なのですか?」
A「いいえ、違います。お金がないだけです」

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全国行脚の日々も終わり、ようやく腰を据えてひと段落という形で、熱海でのんびりとした時間を過ごしている。トップ画像は東京の渋谷で開催されたあとの全体写真になる(追記・諸事情により変更しました!)のですが、この日は、女性陣に囲まれまくって緊張をした。が、参加者の方から「声が美しいですね!」と言ってもらえたことを自分は死ぬまで忘れないと思う。このブログを読んでくださる方々は、坂爪圭吾という人間に対して様々なイメージを抱いているみたいで、あるひとは「もっと僧侶みたいなひとかと思っていました」とか「もっと怖いひとかと思っていました」とか「もっと声の小さいひとかと思っていました」とか、いろいろなひとから、いろいろなお声を実際にいただけることが面白い。
 
この前は「さかつめさんは、資本主義に反対なんですよね?」と尋ねられて、全然そんなことはないから「いいえ、違います。お金がないだけです!」と答えたら、会場のみなさまが笑ってくれて嬉しかった。質問者の方は「社会に対する不満とか、そういうものはないのですか?」と尋ねるので、私は「ええと、多分、そんなにないと思います。コンビニ店員やカフェ店員の接客があまりにも冷たいと死にたくなる程度で、世の中に対する不満とか、何かを変えてやりたいみたいな思いはありません」という風に答えた。
 
それを聞いて、ある方が「みんなもさかつめさんみたいに自由に生きられてらいいのにと思います」というので、私は二つの点から意見を述べた。一つ目は「ええと、まず、私は『みんな』という言葉があまり好きではありません。みんなとか多分幻なんじゃないだろうかと思うので、他のひとのことはとりあえず置いておいて、自分に集中していればいいような気がします」という点。二つ目は「自由じゃないひとなんて実際はいなくて、やりたいことをやる自由もあれば、やりたくないことをやる自由もあるし、楽しく生きる自由もあれば、深刻に思い悩みながら生きる自由もあるし、自分なりに自由を行使して生きているのが現在なのだと思います」という点。
 

遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。

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もともとお金を稼ぐことが非常に苦手で、ひとともうまくコミュニケーションがとれず、30種類程度のアルバイトをしてみたものの長続きをすることはなく、学校でも職場でも毎日同じことをしなければいけないという暗黙のプレッシャーに発狂しかけてみたり、ああ、自分は社会不適合者なんだろうなと自分を責めていた時期もあったけれど、生まれてきたからには生きなければいけないと当時は思っていたために、私は「社会不適合者でも楽しく生きる道を探そう!」みたいな発想のもとに、現在の生活に辿り着いた。
 
だから、私は、とてもじゃないけれど「みんなも家のない生活をはじめましょう!」とか「みんなも会社勤めをやめて物乞いの日々を送りましょう!」とか「みんなも自分と同じような考え方を持ちましょう!」だなんて、口が裂けても口にすることはできない。私が言葉にするものは「私はこう思う」というだけのものであり、自分と同じであることを誰かに強制したいとは思わないし、他の生き方を否定するものでもなければ、限定的な答えの中に自分や他人を押し込めるものでもない。多分、正解はひとの数だけあるのだと思うし、私は「正解を答える生き方ではなく、正解を増やすような生き方をしよう!」とか「自殺者三万人の社会に適応するとやばいから、適応よりも開墾をしよう!」などの言葉を通じて、ただ、ダメな自分を肯定&鼓舞をしていただけに過ぎないのだと思う。
 
振り返ってみると、私は、ただ「遊んでいただけ」なのではないだろうかと思うことがある。金がないなら金がないなりに、家がないなら家がないなりに、定期的な収入がないなら定期的な収入がないなりに、自分のこころが楽しめる生き方を続けてきた結果、現在の生き方になっているのだと思う。「遊ぶ」という言葉は、私の大好きな言葉だ。金にならなくてもいい、誰にも理解してもらえなくてもいい、無意味でもいい、無価値でもいい、ただ、自分のこころが「これは面白そうだ!」と思う生き方を続けた結果、奇跡的に多くの方々の力を得ることができた私は非常に恵まれていて、自分を責める時期もあったけれど、いまでは「こういう生き方も悪くはないなあ」と思えるところまで来ることができた。
 

方丈記 全訳中』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、鴨長明著作(安良岡康作)『方丈記 全訳中』です。鴨長明のすごいところは、齢60歳を間近にして「自作のタイニーハウスでモバイル生活」をはじめたことにあると思う。類稀なる表現能力もさることながら、私には『実践が伴っているアバンギャルドな男性』を(同じ男として)尊敬する傾向があります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡をいたします。
 
※※※ こちらの本は、静岡県にわたりました ※※※
 
遠く行く河の流れは、とぎれることなく続いていて、なおそのうえに、その河の水は、もとの同じ水ではない。その河の水が流れずにとどまっている所に浮かぶ水の泡は、一方では消え、一方では形をなして現れるというありさまで、長い間、同じ状態を続けているという例はない。世の中に存在する人と住居とは、やはり同じく、このようなものである。
さて、露のようにはかない、六十歳に近い、年老いた命の消えかかるころに達して、また改めて、草木の枝の先の葉のような、余生のための住居をこしらえることになった。たとえて言えば、旅人が、一晩だけの宿舎を造り、年老いた蚕が、繭をせっせと作るようなものだ。これを、賀茂の河原近くに造った、生涯の中ごろの家に比べると、これはまた小さく、その百分の一にも達しない。
あれこれと愚痴を言っているうちに、わたくしの年齢は、年々に積もって来、住む家は移転の度ごとに狭くなってくる。この度の家の様子は世間一般のものとも似ていない。広さはやっと一丈四方で、高さは七尺にも足りない。土地柄を心に選んできめないから、土地を自分で所有したうえで造ったのではない。土台を組み合わせて造り、簡単な屋根を上にふいて、材木と材木との継ぎめには、どれも、締りとする鉤をかけてある。これは、もしも、自分の気持に合わないことが起きたら、簡単に、ほかの場所へ移そうと思うからである。その改築することには、どれほどの苦労があろうか。車に積む所の資材は、たったの二台分であって、その車で運ぶ者の労力に報酬を払う以外には、まったく、出費を必要としない。ー 鴨長明(安良岡康作)『方丈記 全訳中』【講談社学術文庫
 
 

社会不適合者でも楽しく生きる。

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トークイベントの参加者の方から「私も楽しく生きたいとは常々思っているのですが、いかんせん、自分で自分を責めてしまうことがあります。さかつめさんにはそういうことはないのですか?」という質問をもらった。私は、いつの間にか自分を責めてしまうこともなくなっているのだけれど、なぜ、そのような変化が自身に起きたのかを振り返りながら、質問者の方に対して、以下のような返答をした。
 
「やっぱり、2年間の家のない生活は大きかったように思います。自分でも無意識の内に、その時期に、多分、私は二つの覚悟を決めていたのだと思います。ひとつ目は『ひとりでもいい』という覚悟。理解者はいなくてもいい、仲間も友達も恋人も家族も協力者もできなくてもいい、ひとりでもいいから自分は自分がこれだと思った生き方を続けていくのだという覚悟。ふたつ目は『死んでもいい』という覚悟。他にも様々な生き方があった中でこの生き方を選んでいる訳ではなく、いろいろとやってみたけれどどれもダメで、結果的にこういう生き方しかできなかった自分を認める覚悟、自分を殺して生きるくらいなら、自分を出し切って死ぬのだと腹を括る覚悟のようなものを、無意識の内にしていたのだと思います。そして、不思議なことに、ひとりでもいいと思ってからの方が、自分はひとりではないのだという実感が増していることを感じています。そして、死んでもいいと思ってからの方が、生きていることの実感は増していることを感じています」
 
私は、自分のことをダメ人間だと思っていた。自分のことをダメ人間だと思っている人間でも、ひと並みに「楽しく生きたい」「遊びたい」「生きていることをよろこんでいたい【よろこびを分かち合いたい】」と願う気持ちがある為に、ダメ人間ならダメ人間なりに楽しく生きる道を探し続けて、結果的に、現在のような生き方をしている。だからこそ、私は「このような生き方をするべきです!」だなんていうことを、他の方々に偉そうに言うことはできない。私にできることは、ただ、私の身の上に起きたことやその中で私が感じたことを通じて、聞くひとが「このような生き方でも、どうにかなっているひとがいるということを、ひとつの素材として面白がってもらえたら嬉しい」と思っている。
 

 
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人生は続く。
 
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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