みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて。
わたり食堂を終えて。
坂爪さん、初めまして。
木下 千里と申します。
どうしてもメッセージしたくなってしまって。
いつも、自分が迷ったとき 落ち込んだ時 FB を開くと坂爪さんの記事が目に飛び込んできて 引き込まれて 励まされてます。
いつも ありがとうございます。
少し前に ハートの真ん中に爆弾を落とさせるような衝撃的な出来事があり 一体自分はなんなのか 何がしたいのか 自分の潜在能力を120%出しきって生きていきたいと常に思い悩み生きていたけど 今の自分のこの状況はいったいい何なのだろうか。。という感じの一ヶ月が続き 結果その中で色んな事に気づかせてもらいました。
そして 落ちきったら あぁ。こんな事になっても気づける自分、ピュアな自分、それでも自分を人を愛せる。私は自分の事本当に愛してると心底 おもいました。
そして本当に自分の事を自由にしてあげようと。心の底から想うことができました。
私は今 沖永良部島という奄美諸島の小さな島で 発達障害といわれる子供の支援事業で働いていたのですが 元々北海道出身でこの度、12月で辞めて 北海道に帰ることを決めました。
元々、全て本来あるべき姿 ありのままの美しさに魅力を感じるので 集団生活に馴染めるように 訓練することや、枠にはめていくような指導をしなければならないことなど個性をどんどん押さえ込ませることに 私自身が辛くなってしまったり 色々な葛藤があり これはこれで とても素晴らしい事業だし 職員もとても素晴らしい人ばかりで 島にとっても大切な場所であると感じていますが
じゃあ 自分はどんな風に生きて、この子供たちと、世界と関わっていきたいのか真剣に自分に聞いてみました。
そしたら、とても壮大な夢が出てきました。私は今結婚もしてなく子供もいませんが そもそもの結婚制度や今の日本の単一民族国家に疑問が生じて あぁ、私は地球規模の家族という意味で多民族国家になればいいなぁと思ってる自分に気がつきました。 自分自身も今 もし愛する人の子供が出来てもきっとあまり結婚という法律にはこだわらないだろうとか、
子供が出来ても友人の家で 大好きな人みんな集めてその目の前で出産してみたいなぁとか 大好きな友達 家族と思ってる集団 色んな人と一緒に子育てしたいなぁなど色んな事を思いました。
そして、今私は来年の春には札幌から車で一時間くらいの所にある定山渓という温泉街近くに一軒家をかりて 様々な事をやっていこうと思っています。
その場所で自分の好きなことを思いきりしながら 大好きな人 会いたい人を呼べる そして駆け込み寺のような場所にしたいと思っています。
以前のブログでニュージーランドにいらっしゃるニセコの女性のお話の時にも何故かとっても坂爪さんに連絡がしたくなり私もそのプロジェクト賛成ー!!参加したいですー!!と心で叫び ウズウズしてましたが 文章が上手くないなぁーとか ウジウジと引っ込み思案な私が顔をだし そのまま胸にしまいこんでいました。そしたら今日の記事でまたあー、どうしても連絡したい!!となり、突然ですが。メッセージさせていただきました。
出逢う人とは必然的に出逢うと信じてるので いつか 坂爪さんにも逢えるかなーなどのんきに想ってましたが もぅ気持ちが押さえきれないので 来年なりましたら熱海のお家に一度遊びに行かせて下さい⭐
全くまとまりのない一方的な思いの文章でちょっと恥ずかしいんですけど。。(*´ω`*)
会って、坂爪さんの空気に触れながらお話をしてみたいなと感じています。
読んでいただき、ありがとうございます⭐
なんか照れますけど、大好きです⭐
宜しければこれからご縁を繋いでいきたいです⭐
坂爪さん、初めまして。
突然のメッセージ、失礼いたします。
東京でワインのソムリエをしている尾崎由衣と申します。
コメントがどんどん長くなってしまったのでメッセージに切り替えました、笑
いつも投稿楽しみに読んでいます。
沢山励ましてもらい、勇気を貰っています。
ありがとうございます。
そして、写真がいつも綺麗ですね。
今週の西の空、三日月と金星とっても綺麗でしたよね。
私も同じ空見上げてました。
あまりに綺麗で、泣きそうになりながら、
あぁ、星空が綺麗なだけで生きていけるかもと感じてました。単純な自分に万歳です。
日本人は何世代も日本人の人が多いし、
「義務教育」が浸透しているから
世間一般の共通の価値観が生まれやすいのかもしれなーと、フランスで地下鉄に乗りながらふと思いました。
ヨーロッパは人種もバラバラだし、それぞれ自分の価値観で生きるしかない。そんな気がしました。
でも、日本人は団結力があって真面目に働くから、イベント開催時の日本人の働きぶりには感心しました。
私は箱の中のルールに従って動くのが苦手です。
出勤時間や拘束時間、お休みの回数が決まっている一般的な会社勤めをしていると苦しくなって弱ってしまうので、絶対に正社員には二度とならないぞと思ってます。
その代わり、自分の好きなことならいくらでも頑張れる。
自由にいつでも飛び立てる環境に自分自身を置くことで伸び伸びと生きられる。
ストレスの渦巻く東京都心。
みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめてと思います。
そのストレス、こっちに飛ばさないでー!と笑
ストレスって、その人からイライラガスとして発散されてると聞いたことがあります。
本当にガスかどうかはわからないけれど、
ストレスまみれの人の近くにいると身の危険を感じます。
みんな真面目にイライラしながら嫌なことよくやってるなーと感心しますが、私は出来なくて良かったと思います。
小さな頃から多様な価値観が認められる居場所があれば、そんなフリースクールで伸び伸び育つ子供が増えたら、
日本も変わりそうですね。
そうでなければ変わらないかもしれないですね。
私はこれからワインを作りたいと思っています。
来年は山形のグレープリパブリックさんで一二ヶ月住み込みでお手伝いできたらなと計画中です。
来年こそは何処かでお会いできたらなと思います。
いつもありがとうございます!
お風邪ひかないよう、ご自愛ください🍵
尾崎由衣
長文になってしまうかもしれないので、お手隙でお読みいただけたら幸いです。
私の息子は今3歳で保育園へ通っているのですが朝の9時までに登園するという規則を私が守れないでおります…
私の職場が緩い事もあり元々、朝が苦手な私は9時までに支度を済ませられず申し訳無い気持ちと何で9時なんじゃという気持ちを抱えており誰でも自由な時間に子どもを預けて迎えに行かれる場所があったら喜ぶ親御さんは多いのではないかなと常々、思っていました!
息子が来年サドベリースクールに通える年になり6歳を迎えた歳に小学校へ入学できるのだろうかとフリースクールなども考えていますが坂爪さんがブログに書かれていた通りどうも真剣過ぎて私がついていけなさそうだと悩んでいました。
息子の気持ちを優先するつもりではおりますが坂爪さん達が「いば小」を作られるのであれば是非お手伝いしたく、そして息子を入学させたいと強く思いLINEしています☆
私に何が出来るかは分からなくても何かは出来ると信じて緩い面倒くさがりな親御さんもやっていける様な環境が出来たら幸せかなと思いました。
この様な考えの親も居るという事を、お伝えしたく食堂中失礼いたしました。
またブログなど楽しみにしております!
お身体ご自愛ください☆
まずは自分を救え。
私は、サンタクロースの存在を信じる。
『伊豆の踊子』
二十際の旧制高校生である主人公が孤独に悩み、伊豆へのひとり旅に出かけるが、途中旅芸人の一団と出会い、一行中の踊子に心を惹かれてゆく。人生の汚濁から逃れようとする青春の潔癖な感傷は、清純無垢な踊子への想いをつのらせ、孤児根性で歪んだ主人公の心をあたたかくときほぐしてゆく。雪溶けのような清冽な抒情が漂う美しい青春の譜である。ほかに『禽獣』など3編を収録。ー 川端康成『伊豆の踊子』【新潮文庫】
みんなお願いだからイライラしながら嫌なことやり続けるのやめて。
自分に向かって「何もやらなくていいよ、ほんっとーに何もやらなくていい」と散々言い続けたここ数ヶ月。本当に何もやらなくても生きていていいんだな、と最近腑に落ちてきて。そうなったら面白くて、やりたいことが次々生まれるようになった。もっと珈琲淹れたい。美味しい料理作りたい。人に会いたい
— 千秋 (@Otwa_) 2016年12月5日
私はこのことを子供達に伝えたい。自信がもてないときも、前を向けないときも、幸せなときも、楽しいときも、辛いときも。毎日、毎日何度でも伝えたい。「あなたは素晴らしい存在なんだよ」って。 https://t.co/iKzHkEhxKZ
— moe (@moe808080) 2016年10月31日
何をしてもいいし、何もしなくてもいいし、何処に行ってもいいし、何処にも行かなくてもいいのだと思う。しなければいけないことは何もなくて、唯、自分で自分を縛っていただけなんだろう。疲れた時は眠ることだ。希望の光は、朝日と共に昇って来る。 pic.twitter.com/HbJ4JwynfJ
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月5日
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
君は真面目過ぎる。
ひとりで考え過ぎると深刻になりがちなことでも、ひとと話せば笑えることもある!ということで、12月3日&4日は熱海の家を開放します。私も滞在する予定なので、どなたでもお気軽に遊びにいらしてください。日曜日はわたり食堂【0円食堂】です!!https://t.co/86NLkpEjls
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月1日
坂爪様
こんばんは!
お久しぶりです。
いつも素敵なブログをありがとうございます。
いつも清々しい気持ちで読ませていただいています。
突然ですが、4日にわたり食堂を開催されると拝見して、蟹!!と思ったので早速蟹を注文したので2、3日後に届くかと思われます。
事後報告ですみません(>_<)
量はあまり多くないかもしれませんが、大好きなわたり食堂で皆様が喜んでくださったらと出しゃばった事をしてしまいました。。
(中略)
私ももし伺えたら子供たちと共にお邪魔させてください。
開催日どうか素敵な1日になりますように。
○○○○
君は真面目過ぎる。
最近、フリースクール関係者の方々と話をする機会が多い。昔は、誰の子とか関係なく皆で育てる習慣があったらしいので、これからは「わたり子育て(仮)」と銘打ち、自分の家を今よりも少しだけ開放したり、適当な空き家に時間のある人々が自由参加で集まれば、色々なことが解決するような気がした。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月2日
問題を問題と思うから問題になる。
他人に迷惑かけちゃダメで、なんで自分には迷惑かけまくっていいの?他人に優しくしなきゃで、なんで自分には厳しくしてもいいの?人がどうとか言ってないで、さっさと自分を最優先したらいい。人に優しくして欲しい時は自分で自分に優しくする。人にわかってほしい時は自分が自分をわかってあげる。
— まゆ@新潟 (@harapekoyama) 2016年12月2日
「死にたいって思う人いるけどさ、その願い絶対いつか叶うじゃん?人はいつか必ず死んでるんだから、いまのところ。いつか叶うんだから、とりあえずちがう事願えば?て思う!」
— Chiaki@〜12/6新潟 (@chiaki100410) 2016年12月2日
ばい まゆちゃぱうぉにか先輩
年齢は肌に出るとか、髪に出るとか、色々言われてるけど、わたしは「瞳に出る」とおもってる。
— 千秋 (@Otwa_) 2016年12月2日
瞳がきらきらと澄んできれいなひとは、たとえ髪が真っ白だったとしても、髭がたわわでも、背中が丸くても、子どもみたいな茶目っ気溢れる笑顔を見せてくれる。そういう笑顔に出会うと、無性に嬉しくなる。
どれだけ知識が豊富でも、どれだけ大量のお金を集めても、どれだけ凄い武勇伝を持っていたとしても、多分、可愛げのある人間には敵わない。頑張るとか頑張らないとか、勝ち組だとか負け組だとかそんなことよりも「チャーミングであること」の方が、より一層のハッピーな日々を運んでくれるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年12月3日
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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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セフティネットとしての自己開示。
自分をオープンにすることの実験。
自分をオープンにすることの防犯性。
閑話休題。
自分をオープンにすることの可能性。
『悪童日記』
「乞食の練習」
ぼくらは破れた汚い衣類を身に纏う。裸足になり、顔と手をわざと汚す。街中へ出かける。立ち止まり、待つ。
外国人の将校がぼくらの前を通るとき、ぼくらは右腕を挙げて敬礼し、左手を差し出す。たいてい、将校は立ち止まらず、ぼくらに気づきもせず、ぼくらを見もせず、通り過ぎる。
やっと、ひとりの将校が立ち止まった。彼は、ぼくらに理解できない言語で何事かと言う。ぼくらに、あれこれ問いかけているらしい。ぼくらは返事しない。一方の腕を挙げ、もう一方を差し出したまま、じっとしている。すると彼は、ポケットの中を探り、硬貨一枚とチョコレートのかけらをぼくらの汚れた掌の上に載せ、しきりに首を捻りながら立ち去る。
ぼくらは待ち続ける。
婦人が通りかかる。ぼくらは手を差し出す。彼女が言う。
「かわいそうにね・・・。私には、あげられるものが何ひとつないのよ」
彼女は、ぼくらの髪をやさしく撫でてくれる。
ぼくらは言う。
「ありがとう」
別の婦人が林檎を二個、もう一人がビスケットをくれる。
また別の婦人が通りがかる。ぼくらは手を差し出す。彼女は立ち止まり、言う。
「乞食なんかして、恥ずかしくないの?私の家にいらっしゃい。あなたたち向きの、ちょっとした仕事があるから。たとえば薪を割るとか、テラスを磨くとかね。あなたたちくらい大きくて強ければ充分できるわよ。ちゃんと働いてくれたらば、お仕事が終わってから、私がスープとパンをあげます」
ぼくらは答える。「ぼくら、奥さんのご用を足すために働く気はありません。あなたのスープも、パンも、食べたくないです。腹は減っていませんから」
彼女が訊ねる。
「だったらどうして、乞食なんかしているの」
「乞食をするとどんな気がするのかを知るためと、人びとの反応を観察するためなんです」
婦人はカンカンに怒って、行ってしまう。
「ろくでもない不良の子たちだわ!おまけに、生意気なこと!」
帰路、ぼくらは道端に生い茂る草むらの中に、林檎とビスケットとチョコレートと硬貨を投げ捨てる。
セフティネットとしての自己開示。
生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ。 pic.twitter.com/6Y1leBrmuL
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月28日
好きなように生きても周囲に迷惑をかけることは意外と少なく、逆に、自分の感覚を押し殺してまで自己犠牲的になっている時ほど、周囲を負のスパイラルに巻き込むことが多い。帰りたい時は帰る、嫌なものは嫌だと言う、自分の欲求は勇気を出してはっきりと口にするなど、潔い我儘は最高の美徳だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月27日
自分を必要以上に大きく見せようとしたり、自分を必要以上に卑下するような態度を選ばないこと。自分から先に心を開き、静かに、ゆっくりと、落ち着いて話をすれば、多くのひとはしっかりと話を聞いてくれるものだと思う。言葉のひとつひとつに気持ちを込めれば、多分、何かを伝えることは難しくない。 pic.twitter.com/FJ0QYIANja
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月29日
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社会不適合者でも楽しく生きる。
Q「さかつめさんは反資本主義なのですか?」
A「いいえ、違います。お金がないだけです」
遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。遊ぶ。
『方丈記 全訳中』
遠く行く河の流れは、とぎれることなく続いていて、なおそのうえに、その河の水は、もとの同じ水ではない。その河の水が流れずにとどまっている所に浮かぶ水の泡は、一方では消え、一方では形をなして現れるというありさまで、長い間、同じ状態を続けているという例はない。世の中に存在する人と住居とは、やはり同じく、このようなものである。
さて、露のようにはかない、六十歳に近い、年老いた命の消えかかるころに達して、また改めて、草木の枝の先の葉のような、余生のための住居をこしらえることになった。たとえて言えば、旅人が、一晩だけの宿舎を造り、年老いた蚕が、繭をせっせと作るようなものだ。これを、賀茂の河原近くに造った、生涯の中ごろの家に比べると、これはまた小さく、その百分の一にも達しない。
あれこれと愚痴を言っているうちに、わたくしの年齢は、年々に積もって来、住む家は移転の度ごとに狭くなってくる。この度の家の様子は世間一般のものとも似ていない。広さはやっと一丈四方で、高さは七尺にも足りない。土地柄を心に選んできめないから、土地を自分で所有したうえで造ったのではない。土台を組み合わせて造り、簡単な屋根を上にふいて、材木と材木との継ぎめには、どれも、締りとする鉤をかけてある。これは、もしも、自分の気持に合わないことが起きたら、簡単に、ほかの場所へ移そうと思うからである。その改築することには、どれほどの苦労があろうか。車に積む所の資材は、たったの二台分であって、その車で運ぶ者の労力に報酬を払う以外には、まったく、出費を必要としない。ー 鴨長明(安良岡康作)『方丈記 全訳中』【講談社学術文庫】
社会不適合者でも楽しく生きる。
好きなように生きても周囲に迷惑をかけることは意外と少なく、逆に、自分の感覚を押し殺してまで自己犠牲的になっている時ほど、周囲を負のスパイラルに巻き込むことが多い。帰りたい時は帰る、嫌なものは嫌だと言う、自分の欲求は勇気を出してはっきりと口にするなど、潔い我儘は最高の美徳だと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月27日
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無駄に慰め合うよりも、一回死ね。
自分の役割を認識する「校長先生、話が長いです」
本音はエンタメ【戦闘開始のゴング】になる。
被害者意識を喝破して、自分を生きる。
『ハンパな人生論より極道に学べ』
この時代、日常性のなかで高じるばかりのストレスの捌け口を、ひそかな不倫や浮気に求めるといったことは多々ある。しかし、一方ではその発覚を恐れ、ちゃちな罪悪感にとらわれて、あらたなストレスを抱え込むという悪循環にはまていく。その挙げ句の「失楽園」じゃあ、シャレにもならない。たかが「女を抱くこと」にさえ市民はタガをはめずにはいられないのである。
アウトローの発想、思考、行動様式はわけもなく、そうした情況を突破する。いともたやすく閉塞感に風穴を穿つ。私にはむろんのこと、アウトローを賛美するつもりもないし、「極道はおいしいぜ!」という気もない。が、日々「おもしろくねぇな」「なんとかならねぇかな」という思いを引きずりながら生きている〝いま〟の突破口は、アウトロー的世界にあるとだけはいえる。まずは本書でそれを覗き、あとは読者が判断すればいい。ー 宮崎学『ハンパな人生論より極道に学べ』【青春出版社】
ダメじゃない!からのハグ。
あらゆる人間関係は「いかに諦めてもらうか」が肝心だと思っていて、良い子を演じて好かれ続けるよりも「ダメな部分を早目に晒して、そこを愛してくれるひとと相互補完的に付き合う」方がストレスレスだと思う。自分のダメな部分を見せる瞬間は恐いけど、許された瞬間の爽快感はたまらないものがある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月18日
一言だけでもいいから、真っ直ぐに目を見て「あなたは素晴らしい存在だ」と伝えてくれるひとがいたならば、それだけで前を向けるひとがたくさんいるのだと思う。自分が自分に自信を持つだけでは足りない、きっと、自分が信じたいものを同じように信じてくれるひとの存在が、大きな力になるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月31日
言葉を大切に扱うということは、そのまま、自分を大切に扱うことに通じると思う。投げやりな言葉遣いには自分を含めた人間全体を傷つけ分離させる力があり、無様でも、不器用でも、心のある言葉には人間全体を温める力がある。何かを信じるということは、多分、否定的な考え方を手放すということだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月25日
楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだ。
いばや【とにかくやばいことだけをやる】
「生きろ」と言われる喜び。
損を承知で負ける側に賭ける。
丸山眞男は、『現代政治の思想と行動』という名著のなかで、法的な秩序と無関係な次元で生きる「無法者」について述べています。彼は、「無法者」を否定的にとらえているのですが、私はもちろんこれを肯定的に考えるものです。以下に「無法者」のエッセンスを列挙してみます。言うまでもなく、これは私の生き方にまったく重なるものです。
一・市民生活のルーティンに埋没しない。丸山はそれを、「一定の職業に持続的に従事する医師と能力の欠如」と規定しているが、それはとりも直さず退屈な日常生活が嫌いであるということだ。
ニ・モノへの関心より人間への関心が強い。金より、人間関係を重視する。
三・常に非日常な冒険、破天荒の「仕事」を追い求める。
四・しかもその「仕事」の目的や意味よりも、そこで引き起こされる紛争や波乱のほうに興奮と興味を覚える。
五・公的な責任意識が欠け、その代わりに私的な、あるいは特定の人的な義務感(仁義)が、以上に発達している。
六・規則的な労働により、定期的な収入をうることへの無関心もしくは軽蔑。これはつまり、賃金や報酬の奴隷にならないということである。
七・最悪事態における思考様式やモラルが、物事を判断する日常的な規準になっている。そのため、瞬間的に善悪を判断し、きっぱりとトドメを刺す。
八・性生活の放縦、好きな異性と、好きなときに寝る自由をもっている。
このような「無法者」の生き方のほうが、私にはずっと人間らしく思えます。所詮、生まれて死ぬだけの人生。その間の時間はすべて自分のもの、どんなふうに生きようと、人生は一回きりなのです。それならば、興奮できる冒険的な人生のほうが楽しいに決まっています。ただし、こういう生き方をしていると、その反動は大きい。私の五十数年の人生を振り返っても、死屍累々、それはもう無残なものであります。それでも私は、「突破者」としての自分の人生をまっとうしたい。
もし「たった一つだけ、突破者の条件を挙げてくれ」と問われれば、私はためらわずにこう答えます。それは、「損を承知で負ける側に賭けられるかどうかということや」と。もちろん、私のこんな生き方を人に強いるつもりはまったくありません。ただ、突破者として、こんな生き方を楽しんでいるのです。どちらがよい悪いというのではなく、それを選ぶのは自分自身。ですから、「無法者」だろうが「市民的人間」だろうが、自分の人生で生じたことは自分で責任をとらなければならないのです。ー 宮崎学「宮崎学の兵法」【サンマーク出版】
『インド放浪』
この「インド放浪」は、私が二十三歳の時、はじめてその熱球の下の大陸に遊んだ時の記録である。はじめて、その土地を踏んだ一九六〇年代の終りのころ、日本はちょうど高度経済成長の最中だった。物質的な豊かさを求めて、誰もが一生けんめいに働いていた。この国の近代化と、経済の豊かさを求める過程において、失われて行くものも多かった。そして、社会は管理化されつつあった。管理化のシステムの中で人間的なる息吹は隠滅され、それに対する抵抗もあった。そういう状況の中で、私ば大学を捨て、自分の経歴のすべてを捨て去るようなかたちでインドに行った。この国は貧困であった。ただ、そこに私が見たものは、その物質的貧困と同時に、あの、我々が今現在失いつつある、熱、であった。つまり、ちょうど日本では、この熱という一つの生命の根本が、何か巨大なものによって管理されて行こうとしている最中だったから、私はその国の熱にうかされた。そして、地上における生きものの命の在り場所をはっきりと見たし、合わせて自分の命の存り場所もはっきりと見ることができた。それは、私の二十代の一つの革命だった。ー 藤原新也『インド放浪』【朝日新聞社】
楽しそうに生きていれば、仲間は勝手に増えるものだ。
幸福が好きなひともいれば不幸が好きなひともいるし、重く考えることが好きなひともいれば軽やかな生き方が好きなひともいるし、心配や批判が好きなひともいれば信頼や励ましが好きなひともいる。こういうのは全部趣味が違うだけのことだから、端的に「趣味の合うひとと一緒にいればいい」のだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月23日
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いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ。
野生の勘を取り戻せ!
「修行」と「遊び」のハイブリッド。
天然記念物のような人がいる。誰も味方がいない中、様々な出来事が「お前のままでは通用しない」と、自分以外の何者かになることを強要してくるように見える中で、それでも自分は自分のままでいることを選び続けた人がいる。私は「よくぞ、そのままでいてくれた」と思う。永遠にそのままで行けと願う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月21日
理解を求めたり何かを説明することに力を使うよりも、自分の生き様に言葉を宿らせること。仲間や理解者は、歩き出す先に出会うのだと思う。理解されなくても、何も説明できなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも、自分の道を進み続けること。生き様に宿る説得力は、多分、言葉を超える。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月23日
男は女に許されて生きている。
『マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』
人々は時に、食べ物以外のもので飢えていることがあるものです。私たちの子どもたち、夫、妻は食物、衣服、住む所に飢えてはいないでしょう。でも、彼らが一人っきりで淋しく、見捨てられ、無視されている結果、愛情に飢えていないとは断言できないのです。こういう貧しさも存在しているのです。
私たちは忙しすぎます。だからお互いを見つめ合う時間も、互いにほほえみ合う時間も持ち合わせていないのではないでしょうか。
政治家たちは、謙虚にひざまずく時間をもっともっと、ふやさないといけません。そうしたら、きっと彼らはより良い政治家になると、私は信じています。
私が喜びという時、それは、大声で笑うこと、馬鹿騒ぎをする状態を意味していません。それらは真の幸せな状態とは異なります。人は、笑いとか馬鹿騒ぎで何かをごまかそうとすることがあるものです。
きわめて安楽な生活、ぜいたくな生活のできる人々がいます。それは彼らが努力した結果手に入れた特権と言えるでしょう。私が怒りを覚えるのは、無駄遣いです。まだ使えるものを捨てたり、または無駄にしているのを見ると、怒りを覚えます。
私は、一対一のパーソナルな触れ合いが大切だと信じています。
私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものかも忘れてしまい、家族や友人を持たないが故に愛されることの意味さえ忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう。
キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害になっていることがよくあります。言葉でだけきれいなことを言って、自分は実行していないことがあるからです。人々がキリストを信じようとしない一番の原因はそこにあります。
何度でも飽くことなく繰り返して言います。貧しい人々が最も求めているのは、憐れみではなく愛なのです。彼らは自分たちの人間としての尊厳に敬意を払ってほしいのです。そして彼らが有している尊厳は、他の人間のそれと全く同じ質と量の尊厳なのです。ー 渡辺和子[訳]『マザー・テレサ 愛と祈りの言葉』【PHP】
いい女でいたら、いい男が放っておかんのは野生の証明よ。
目で恋に落とし
耳に愛をささやき
頭から離れさせず
心を奪い
胸で抱きしめて
尻で敷く
女の六段活用じゃ
覚えとけ 試験に出るぞ
by 祖母
あらゆる人間関係は「いかに諦めてもらうか」が肝心だと思っていて、良い子を演じて好かれ続けるよりも「ダメな部分を早目に晒して、そこを愛してくれるひとと相互補完的に付き合う」方がストレスレスだと思う。自分のダメな部分を見せる瞬間は恐いけど、許された瞬間の爽快感はたまらないものがある。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月18日
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馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て。
「何が起こるかわからない」を愉しむ。
ラッキー!【誰かの幸福は副産物】
戸籍がないひととか、親がヤクザだとか、両親を自殺で亡くしているとか、生活保護を受けているとか、腕がないとか、足がないとか、整形手術をして実名を変えたひととか、これまで様々なひとと出会った。それでも「同じ人間である」ことに変わりなく、語り、共に遊ぶことは誰とでもできるのだと知った。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月15日
「鉄砲玉48」というアイデア。
『突破者の母』
極道の世界は「男の花道」がどうの「男ぶり」がどうのと、ことあるごとに「男」を云々する男臭い世界であるが、実は母性原理に貫かれた母系社会的な要素がきわめて強い。男たちは「人は一代、名は末代」などと勝手なことをいいながらおのれの面子や名分にこだわって游俠の限りをつくす。そして、喧嘩沙汰で命を落としたり放蕩の果てに窮死したりで、多くが若死にする。その男たちの精神的な拠り所となっているのは「母的なもの」である。
この社会には必ずグレートマザー的な女性がいる。その大いなる母が死んでいった男たちの死を癒し、男たちの勲を語って伝説化・神話化していく。男の馬鹿さ加減に半ばうんざりしながらの営為であるのだが、その母性に支えらえて男たちはひたすら跳ねていくわけである。典型的な男尊女卑の世界のように見えながら、女の存在は物心両面にわたって実に大なるものがあるのである。
生きることを媒体としていた昔のヤクザの女は、男が生きてゆくために一つの重要な役割を確実に果たしていた。それは、何かにつけてはヤクザな男たちの武勇伝に尾ヒレを付け、ついには伝説にまで仕上げてしまうことだ。それは、体を張って生きている者にとっては勲章をもらったようなもので震えがくるほど嬉しいことなのである。
だいたいにおいて、アウトローというのは失敗に失敗を重ねながら生きているのであって実はそんなに立派な生き方をしているわけではない。それを周りの女たちが褒め讃え美化してくれるおかげで、アウトロー的モラルのタガがはめられて共同体の成員としての自覚が培われて行くのである。つまり、その美談が本人の耳に入り女たちが美化したような人間になろうと努力する。そういうふうにしてアウトローとして徐々に純化してゆくわけである。
「馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て」ー 宮崎学『突破者の母』【徳間文庫】
馬鹿でも貧乏でも生きていける道は必ずあるのだから、もっと自分に誇りを持て。
自分の心を軽く扱う人達を相手にするほど、自分も他人の心を軽く扱うようになる。同じように、自分を大切に扱ってくれる人達と同じ時間を過ごすほど、自分も他人を大切に扱えるようになる。大切なものは大切な人達との時間であり、自分の心を軽く扱う人達を相手にしてはいけないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月16日
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
ひとにはそれぞれの役割がある。
熱海とニュージーランドの架け橋。
支援は「私怨」【逆もまた然り】
ひとにはそれぞれの役割がある。
多拠点生活【新しい家族】
助ける側にも、助けられる側にもよろこびはある。
一言だけでもいいから、真っ直ぐに目を見て「あなたは素晴らしい存在だ」と伝えてくれるひとがいたならば、それだけで前を向けるひとがたくさんいるのだと思う。自分が自分に自信を持つだけでは足りない、きっと、自分が信じたいものを同じように信じてくれるひとの存在が、大きな力になるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月31日
最近、怒りは人生を駄目にするということを実感する。怒りはある種の悲しみを内包していて、怒る度に「自分の中にある悲しみや分離感を強化する」感覚を覚える。かといって、言いたいことを言わないでいると病気になるから、最近の課題は「言いたいことは言う。その時は、心を込めて優しく言う」です。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月5日
大切なことは「気持ちを込める」ことなのだと思う。日常的な家事とか会話とか何気ないメールのやりとりとか、いま、目の前にあることにこの日限りの気持ちを込めるということが、多分、いまを生きるということなのだと思う。今日の命は今日でおしまい、出し惜しみをしている場合ではないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月12日
過酷で楽しい托鉢生活。
過酷で楽しい托鉢生活。
「生きているぜ!」という感覚の共有。
「粋」な女性の登場。
おはなをあげる@渋谷の展開。
『オン・ザ・ロード』
若い作家サルとその親友ディーンは、自由を求めて広大なアメリカ大陸を疾駆する。順応の50年代から叛逆の60年代へ、カウンターカルチャー花開く時代の幕開けを告げ、後のあらゆる文化に決定的な影響を与えた伝説の書。バロウズやギンズバーグ等実在モデルでも話題を呼び、ボブ・ディランに「ぼくの人生を変えた本」と言わしめた青春のバイブル『路上』が半世紀ぶりの新訳で蘇る。ー ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』【河出書房】(表紙裏帯より引用)
ひとのこころを動かすものは、正しさよりも「楽しさ」だ。
誰の中にも『菩薩ボタン』みたいなものは隠されていて、美しいものを見た瞬間、ひとの善性に触れた瞬間、ある種の真理に触れた瞬間、菩薩ボタンは発動して「今なら、すべてに優しくなれる」的な気持ちになる、そんなボタンがあると思う。多分、私は「人類の菩薩ボタンを連打する生き方」をしたいのだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年9月29日
ひとのこころを動かすものは、正しさよりも「楽しさ」だと思う。楽しそうに生きているひとの姿は、生き生きと健やかに生きているひとの姿は、見るひとのこころを自由にする。善悪を平気で飛び越えた、大きなイエスを感じたいのだと思う。生き方に正解はないのだから、生き方に間違いもないのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月11日
健康のためなら死ねる。
タオ島を南下してパンガン島、サムイ島、スラータニーを経由して再びバンコクに来ました。日本は初冬を迎えている頃にも関わらず、タイは連日30度を超える真夏日が続き、こころも毛穴もフルオープンです。来たる11月11日(金)お昼頃から、非常にありがたいことに下北沢でお話会的なサムシングを開催していただける運びになりましたので、お時間のある方はお会いできますことを楽しみにしております!!
【イベント詳細】坂爪圭吾を囲む会|下北沢NOWHERE ☆☆☆Speak from your heart☆☆☆
最近思うことあれこれを「健康」をテーマにまとめます。
1・歯磨きよりも「歯茎磨き」
2・五つの「浴」
3・タワシで身体を洗う。
4・ターメリック玄米。
5・ヨガマットで寝る。
6・病気の原因は「身体の冷え」と「血液の汚れ」
7・家だけベジタリアン。
8・光熱費0円ハウス。
9・歩きまくる【踊りまくる】。
10・好きなひとに好きだと言う。
イライラしないコツは「すべてはベストタイミングである」と信じることだと思う。雨が降ることの中にも、電車に乗り遅れることの中にも、苦手な人と同じ空間を共にすることの中にも、多分、何かしらのヒントは隠されている。神様からの謎解きみたいなものだと思えば、毎瞬間は宝物探しみたいなものだ。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月29日
怒りは人生を駄目にする。
新潟、群馬、神奈川、成田、ドンムアン、バンコク、チュムポーン駅を経由して、爆揺れするフェリーにしがみつきながらタイの南部にあります雨季ど真ん中のタオ島に到着しました。私、坂爪圭吾は基本的に呼ばれた場所なら何処にでも行くスタンスで生きておりまして、11月9日はバンコク、12-13日は関東圏、16日は北海道、17日は福岡、21-22日は山口県及び広島県、24日は東京、30日は新潟で暇を持てあましております。
【11月18日(金)は佐賀県に行くことになりました!】あいつが武雄に帰ってくる! ホームをレスしてヒットした!!! 坂爪圭吾を囲む会
様々な方々と出会う日々を過ごしながら、ひとりの時間と同じ位、人とリアルに対面してお話をする時間も大切なのだということを感じています。もしも、上記の日程で「時間もあるから坂爪圭吾を囲む会的なサムシングを企画してもいーよ!」という方が奇跡的にいらっしゃいましたら、気軽にご連絡をいただけると幸いです。規模の大小などは問いませんので、ピン!と来た方はお気軽にご連絡ください!!
連絡先・坂爪圭吾
keigosakatsume@gmail.com
おはなをあげる。
先日、11月3日は国民の祝日ということもあり、私も「国民の皆様の生命を祝福したい!」と思い立ち、その時はたまたま神奈川県藤沢市にいたので「関東圏でお会いできる方々にリアルで対面をして、おはなをあげる」という企画を敢行しました。私は花を愛していて、また、花を愛するこころの余裕を愛しているので、誠に勝手ながら「是非とも、皆様とこの喜びをシェアしたい!」と思い立ちまして、このような企画を突然(その日の昼過ぎから当日限定で)開催させていただきました。
誰かひとりからでも連絡が来ればいいなあ程度に構えていたのですが、結果的に五組もの方々に実際に対面しておはなをあげることができまして、あろうことか「男性からお花をもらうなんて何年振りかしら!」と、涙を流して喜んでくださる方もいらっしゃり、こちらとしても「そんなに受け取ってもらえるなんて、こっちが幸せ!」と、貰い泣きをしてしまいそうになりました。ただ、おはなをあげてさようなら!程度に終わるものかと思いきや、皆様、ご自宅にあげてくださりお茶やお菓子を振舞ってくださるものだから、こちらとしても「新しい家族が増えた!」的な喜びを強く噛み締めることができた、とても素晴らしい時間になりました。
他にも感動的なシーンは108個位あったのですが、ひとつだけ言えることは「男性はもっと女性に花をあげたほうがいい!」ということです。切り花であればそれほど高価なものではないですし、多分、野花でも構わないのだと思います。大事なものは気持ちであり、今回の裏テーマは「アドバイスではなくおはなをあげよう!【WANDS風に言えば『愛を語るより口づけを交わそう』】」だったのですが、一輪の花が、言葉を超えた力を(受ける側にも与える側にも)授けることも確実にあるのだなということを強く実感した1日になりました。
世界をぼくらの遊び場に。
いまはタイのタオ島にいるのですが、とりわけ特別なことをするでもなく、海辺にあるカフェのテラス席で寄せては返す波の音を聞きながらこのブログ記事を更新しています。私の好きな言葉に「生きているだけでいい。それ以外はおまけだよ」というものがあるのですが、本当は書きたいと思っていたことが108億個位あったはずなのに、良くも悪くも「いまが幸せならそれでいいよね」的な気持ちになってしまって、小難しいことを書くことができません。
最近思うことは、遊ぶということが人生にとってどれだけ大切なのかということで、誤解を恐れずに言えば「人間には二種類いる。遊んでいる人間と、遊んでいない人間だ」みたいに感じることがあります。これは、巷で頻繁に耳にする「遊びと仕事の境目をなくす」みたいなことを言いたいのではなく、ただ、何かに夢中になって遊んでいるひとたちを見ると、見ているこちらまで楽しさが伝染してきていい感じになってしまう、最高に遊べる瞬間を見つけてそれを実行しているひとの姿は、本人的にも無意識のうちに周囲を「善の循環」に巻き込んでいるのではないだろうか、小さなこどもとかまさにそんな感じだよな、という風に感じています。
生産的であるとか、効率的であるとか、数値化できる損得勘定は一旦脇に置いておいて「なんだか知らないけど、これがやりたい!」と思うことを実際にやってしまっているひとの姿からは、いい風が吹いているなあと感じることの多い昨今です。自分のこころがピースフルであれば勝手にひとにも優しくしたいと思うものであり、自分をピースフルな状態に保つことは単なる自己満足ではなく、巡り巡って世界平和に貢献するのではないだろうか、それならば「まずは自分のご機嫌を死守する!【遊ぶ!】」ということは、とても大切なことではないのだろうかと感じています。
怒りは人生を駄目にする。
病気は身体のサインと言いますが、現代社会においては「言いたいことが言えないあまりに、身体が先に病気になる」ということが、とてもたくさんあるのだと思います。怒りや悲しみなどのネガティヴな感情を自身の内側に溜め込み過ぎると、自分でも気がつかないうちに腐敗をはじめてしまって、病気や体調不良という形を通じて「腐ってますよー!あなた、いま、腐敗してますよー!」というサインを放つ、みたいなイメージがあります。
また、言葉だけではない「肉体を通じたスキンシップ」も死ぬほど大切だと思っていて、どれだけ頭で考えてもどうにもならなかったことが一回のセックスで霧消した、みたいなことは往々にしてあるのだと思います。自分が抱えている問題の多くは表面的なものに過ぎず、実は「(いつも怒ってるひとはいいセックスをしていないだけで)ただ、温もりに触れたかっただけなのだ【あるいは、単なる睡眠不足か運動不足】」ということは、意外とあるあるなんじゃなかろうか、などと思うことがそれなりにあります。
怒りは人生を駄目にする。これは、最近のわたしの課題でもあり、いかに怒らずに日々を穏やかに過ごせるのかが当面の目標でもあり、自分を使った実験でもあります。昨日、タオ島のオフロードをバイクで滑走していたら見事に横転をして膝小僧が悲鳴をあげているのですが、これは神からの「お前、あんまり調子に乗るなよ」というポップな戒めと受け取り、傲慢になりそうな自分の萌芽を発見しては摘み取り、摘み取り、罪を取り、より一層のイノセントな日々に磨きをかけて行きたいと思いました。
最近、怒りは人生を駄目にするということを実感する。怒りはある種の悲しみを内包していて、怒る度に「自分の中にある悲しみや分離感を強化する」感覚を覚える。かといって、言いたいことを言わないでいると病気になるから、最近の課題は「言いたいことは言う。その時は、心を込めて優しく言う」です。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年11月5日
人生は続く。
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
あなたは素晴らしい存在だ。
新潟市西区の愛するカフェ「イロハニ堂」が10月31日で閉店することになり、これは絶対に駆けつけなければならない(from熱海)ということでWEB上に公開しているスケジュールに『新潟』と記載したものの、エコノミックな理由で「最悪の場合はヒッチハイクだな!」と思っていた。ら、奇跡的に新潟在住の方から「ちょうどその日に出張で東京にいるのですが、もしよろしければ、交通費は負担するので新幹線で一緒に帰りませんか?」というご連絡をいただいた。
非常にありがたいことに11月23日(水・祝日)には広島県尾道市でイベントを開催していただけることになり、こんなことを偉そうに書くことは気が引けてしまうけれど、家や金がなくなってから、圧倒的にひとの優しさに触れる機会が増えた。「なんでそこまでしてくれるんですか!」と思わされることが、ほぼ、毎日のようにある。これは決して自慢をしたい訳ではなく、ただ、世界や人間は「信頼に値する」のだということを強く実感する。渡る世間に鬼はなし、自分を閉ざせば世界も閉じるが、自分を開けば世界も開く、多分、人の心の中には「お互いに助け合いたいと思う素晴らしい部分がある」のだということを、身をもって実感する。
【イベント詳細】坂爪圭吾さんトークライブ@尾道
私も、出世したなあ。
お言葉に溺れて新幹線に同乗させていただき、この日、東京駅で待ち合わせをすることになった。この日が初対面の男性(以降、K様)だったのだけれど、その方は新潟市内でフリースクールをやっていらっしゃる方で、新幹線の中で「今度、是非、お話会をやってくださいよ」という風に言ってくたさった。私は、新幹線に乗せていただいた御恩があるばかりではなく、何よりもその方の瞳があまりにも綺麗なものだったから「もちろんです!」と答えた。
すると、K様は「ありがとうございます!では、明後日なんていかがでしょう?」と満面の笑顔でおっしゃり、私は「明後日!早っ!やりましょう!この速度好きです!」ということになった。K様は「では、いまからイベント告知のメールマガジンを書きますね」と言いながら、新幹線の車内でマックを開き、カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ!!と音速でキーボードを打ち始めた。新幹線の車内で仕事をするK様を横目に「ああ、なんだか、いま、それっぽいことをしている!」という気持ちになった。
新潟駅に着いて新幹線を降りると、あろうことかK様がお寿司をご馳走してくれた。私は「新幹線にお寿司とか、VIP過ぎる!(新宿駅から東京駅までは歩いて移動をしたのに、落差が激し過ぎる!)」と恐縮に震え、さすがにそこまでしていただくのは非常に申し訳ないという旨を伝えると、K様は「いやいや、いつも坂爪さんのブログには力をもらっているので、これはせめてものお礼です」みたいなことを言ってくださり、私は、何か大きなものに感謝をしたくなった。帰り際、私も出世をしたなあなどと思いながらK様に全身全霊の御礼を伝えた後に、実家のある小針駅まで歩いて帰った。
調子に乗ると即死する。
こちらは、イロハニ堂の店主サカノヒロミさん(通称・ヒロミ1000000ボルト)との写真です。この日、私は大学院生の男の子【かずし】に珈琲&ケーキをご馳走していただきました。数年前だったら「いい大人が、大学生に奢られるなんて!逆だろ!」みたいに思う自分もいましたが、いまでは、そういうことをあまり思わなくなりました(人間関係に上も下もない、あるのは「ひとりの人間」と「ひとりの人間」だけである、的な思考になりました)。
帰り際、今日は来てくれて本当にありがとうございましたと告げるサカノさんの瞳からじわっと涙が溢れて来そうになるのを目撃してしまって「やばい!これはもらい泣きをするパターンだ!」と思った私は、挨拶もそこそこに店を退出してしまった。素晴らしい瞬間だと思ったし、うまく言葉にできないけれど、美しい瞬間だと思った。やはり、実際に足を運んでリアルに顔を合わせることに勝るコミュニケーションはないなあと思いながら、実家のある小針駅まで歩いて帰った。
三人兄弟の末っ子として生まれ、自営業を営む両親からは基本的にほったらかされて育った私は、何かあるとすぐに調子に乗ってしまう悪い癖がある。いまの自分があるのは、自分が凄いからではなく「自分を生かしてくれるひとたちが凄いからだ」ということを忘れてしまった瞬間から、自分の中に濁りが発生して、純度は下がり、傲慢になり、結果的に痛い目を見るようにできているのだと思う。いまあるものに最大限の感謝を示しながら、同時に、絶対に調子に乗らないこと。いまあるものを当たり前だ【何かをしてもらって当然だ】と思った瞬間から、多分、自分の中にある純度は簡単に濁るのだと思う。
やばさぎっしり、新潟。
新潟在住の女性で、写真が好きだという方と出会った。今回、このブログ記事で使用している風景写真のすべては、その女性(以降、H様)が撮影したものになります。私は、普段、カメラ機材などは持っていないので自分のiPhone5sで撮影した写真をブログ内で使っている。H様が撮影しているこれらの写真も、すべて携帯で撮影したものになります。
H様の写真を見ていたら「ああ、新潟にはこんなに素晴らしいものたちがあったのか!」と、嬉しさがこみ上げた。それは、既に紅葉がはじまっている越後の山々に対して抱いただけのものではなく、こうした美しい風景を美しいと思うH様のこころに対しても、また、同じようにK様のこころに対しても、かずしのこころに対しても、サカノさんのこころに対しても、私は、同じような感覚を抱いたのだと思う。
何かを「素晴らしい」と思えるということは、既に、自分の中にその素晴らしさが備わっているからなのだと思う。自分が愛するものに出会えた瞬間のよろこびは、自分が素晴らしいと思える場面に立ち会えた瞬間のよろこびは、その対象だけではなく、その対象を通じて「自分自身を含めた世界全体を賛美している」のだと思う。自分と世界は切り離されたものではなく、実は、境目のない同質のものであるという感覚。だからなのだろうか、私は、私が好きだと思えるものに出会えるほどに、大袈裟な言葉で言えば「生きる力」をもらっているような、そういう気持ちになることがある。
『旅をする木』
今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、星野道夫著作『旅をする木』です。星野道夫さんの著作には名作が多いですが、この本は、その中でもとりわけ大好きな一冊になります。下記に、私の好きな星野道夫さんの言葉をのべつまくなし列挙します。こちらの本をご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
※※※ こちらの本は、新潟県にわたりました ※※※
僕らの人生というのはやはり限られた時間しかない。本当に好きなことを思いきりするというのは、すごく素晴らしいことだと思います。
人の心は深く、そして不思議なほど浅い。きっと、その浅さで、人は生きてゆける。
僕が暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々が、それぞれの価値観をもち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている。つまりその旅は、自分が育ち、今生きている世界を相対化して視る目を与えてくれた。それは大きなことだった。
バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。
偶然の一致に意味を見出すか、
それとも一笑に付すか、
それは人間存在のもつ大切な何かに関わっていた。
その大切な何かが、
たましいというものだった。
一つは、なるべく早い時期に、人間の一生がいかに短いものかを感じとってほしいということ。
もう一つは、好きなことに出合ったら、それを大切にしてほしい
寒いことが、人の気持ちを緩めるんだ。
離れていることが、人と人とを近づけるんだ。
人間の風景の面白さとは、私たちの人生がある共通の一点で同じ土俵に立っているからだろう。一点とは、たった一度の一生をより良く生きたいという願いであり、面白さとは、そこから分かれてゆく人間の生き方の無限の多様性である。
大切なのは、出発することだ。
この世に生きるすべてのものは
いつか土に帰り、また旅が始まる。
「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・・ その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」
【参考HP】わたり食堂・わたり文庫
あなたは素晴らしい存在だ。
新潟で開催されたイベントには、様々な年代の方々が足を運んでくれた。実際にリアルに対面して話せることのよろこびは大きい。参加者の方々の中には「私も、いばやの嘉向徹君や保科亮太君と友達なんですよ」という方もたくさんいて、そのひとたちの話を聞いていることがとても楽しかった。私は、いばやの人達を愛している。だからなのだろうか、いばやの人達の話を聞けることがとても嬉しい。
参加者の女性S様が、こんな話をしてくれた。「ある日、嘉向徹君と保科亮太君が、私の事務所まで遊びに来てくれたんです。あの人たちはまったくお金を持っていないのに、自分たちの生活だけでも精一杯だと思う(坂爪註・破綻をしています)のに、その日はかすみ草の花束も持ってきてくれて、ああ、この子たちはなんていい子達なんだろうって思ったんです。」と。私は、この話を聞いて、やっぱりこの人達は最高だなあと嬉しくなった。
自分が素晴らしいと思うもの、同じように素晴らしいと思ってくれるひとの存在は、大きな力になる。時に、自分自身も信じることが難しくなる場面もあるけれど、ひとに優しくすることと同じくらい、自分にも優しくすることが大切な場面があるのだと思う。自分が自分に優しくすることができない時、周囲のひとの声が、周囲のひとの行動が、パッと輝く前向きな力を与えてくれることがある。「あなたは素晴らしい存在だ」と、実際に言葉にして伝えること、相手に対して、自分に対して、お前はお前で最高に素晴らしいと言えるやり取りがより多く交わされるようになったら、世界は簡単に平和になるのではないだろうかと、そんなことを考えていた。
一言だけでもいいから、真っ直ぐに目を見て「あなたは素晴らしい存在だ」と伝えてくれるひとがいたならば、それだけで前を向けるひとがたくさんいるのだと思う。自分が自分に自信を持つだけでは足りない、きっと、自分が信じたいものを同じように信じてくれるひとの存在が、大きな力になるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月31日
人生は続く。
413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
心配よりも信頼をしよう。
いばやメンバーとの会話【概念の先に行く】
熱海の家のこれから【終わりははじまり】
「売る・買う」より「あげる・もらう」【自分の命を生きる】
『生の短さについて』
生は浪費すれば短いが、活用すれば充分に長いと説く『生の短さについて』。心の平静を得るためにはどうすればよいかを説く『心の平静について』。快楽ではなく、徳こそが善であり、幸福のための最も重要な条件だと説く『幸福な生について』。実践を重んじるセネカ(前4頃-後65)の倫理学の特徴がよく出ている代表作3篇を収録。新訳。ー セネカ『生の短さについて』【岩波文庫】
心配よりも信頼をしよう。
心配をすることは「あなたには力がない」ということを伝える否定的な力があり、信頼をすることは「あなたには力がある」ということを伝える肯定的な力がある。心配よりも信頼をしよう。自分を信頼することは相手を信頼することに、人間を信頼することは世界を信頼することになるのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年8月29日
永遠にそのままで行け。
ひとを幸せにするものは「生き物」だ。
汗と涙は裏切らない。
わたり花壇『朝顔のタネ』
2010年、山崎直子宇宙飛行士は宇宙の旅に朝顔の種を持参。これを広島と福島の子供たちに咲かせてもらいました。この種はその朝顔の5代目です。是非、わたり花だんへどうぞ♡
わたりチケット『ルノワール展@東京駅』
わたり文庫『日本の美を求めて』
花が永遠に咲き、私達も永遠に地上に存在しているなら、両者の巡り合いに何の感動も起こらないであろう。花は散ることによって生命の輝きを示すものである。花を美しいと思う心の底には、お互いの生命をいつくしみ、地上での短い存在の間に巡り合った喜びが、無意識のうちにも、感じられているに違いない。それならば、花に限らず名も知らぬ路傍の一本の草でも同じことではないだろうか。ー 東山魁夷『日本の美を求めて』【講談社学術文庫】
永遠にそのままで行け。
天然記念物のような人がいる。誰も味方がいない中、様々な出来事が「お前のままでは通用しない」と、自分以外の何者かになることを強要してくるように見える中で、それでも自分は自分のままでいることを選び続けた人がいる。私は「よくぞ、そのままでいてくれた」と思う。永遠にそのままで行けと願う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月21日
理解を求めたり何かを説明することに力を使うよりも、自分の生き様に言葉を宿らせること。仲間や理解者は、歩き出す先に出会うのだと思う。理解されなくても、何も説明できなくても、いまはまだひとりきりだとしても、それでも、自分の道を進み続けること。生き様に宿る説得力は、多分、言葉を超える。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月23日
自分はダメな人間だと思うことは、誰かの悪口を言うことと同じくらい、否定的な力を生み出してしまう。多分、自分との関係も人間関係であり、自分を悪く言うことは「自分が自分自身と戦ってしまっている」ことなのだと思う。まずは、自分との戦争を終わらせること、平和な関係を結ぶことなのだと思う。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2016年10月21日