いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

ひとの心を動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」だ。

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熱海の自宅で開催している、無料の喫茶店【Envelope】初日が終わった。前日の告知にも関わらず、愛知や大阪や北海道(!)から来てくれた人達もいて度肝を抜かれた。それだけの行動力があれば、あなたたち、きっと何処でもやっていけると思います!という気持ちになった。フットワークの軽いひとの特性は「風」だ。遠方から足を運んで来たひとの存在は、空間を吹き抜ける新鮮な風になる。


以前、京都で出会った旅好きの女性が「最近は仕事が忙しくて旅に出る時間がないので、自宅を無料の宿として開放(カウチサーフィン)をして、来てくれたひとを通じて旅の気分を味わっています」と話していた。ひとつの場所に固定をされてしまうと、どうしても視野は狭くなり、小さく限定的な思考の枠にはまってしまう。自分なりの対処法【思考の枠を外す方法】を実践しているひとは、素敵だ。

人生も喫茶店も「なるようになる」

私は、多分、何かを「こうである」と決めることが非常に苦手な人間だ。自分から喫茶店をやるといっておきながら、固定のメニューを決めることができず、固定の座席を用意することができず、固定のルールを設定することができず、結果的に「自由に好き勝手にやっちゃってください」ということになる。いい加減な自分の特性を、非常に便利な言葉で言い換えると「流動的でありたい」と思っている。

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結果的に、喫茶店という名目でありながらメニューは『おいしい水(HOT or COLD)』のみで開店をするという、ある種の醜態を晒した。しかし、晒した醜態が功を奏し(?)て、さすがにそれはちょっとアレだろと思ってくださった東京在住の方が、台湾で購買したという非常に高価な茶葉と茶器を贈呈してくれた。おかげさまでメニューが増えた。この、流動的【行き当たりばったり】感が大好きだ。

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手土産に「場合によっては2時間以上も並ぶことがある銀座CENTREのパンと洒落乙な北欧の紅茶」を購買してきてくださった女神様の登場により、ただの給水所と化していたEnvelopeが喫茶店になりはじめた。愛知から来てくれた方はかりんとうを、北海道から来てくれた方はバウムクーヘンを、東京から来てくれた方は「水出しアイスコーヒーの器具と珈琲豆」をEnvelopeに贈呈(!)してくれた。

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私は、心の底から「水だけで開店してよかった」と思った。ほんとうは、何かをやるにはそれなりの準備を整えてからやるものだろうという常識的なサムシングが自分の中にもあったものだから、水だけの状態で開店をするのはいかがなものだろうかと感じる部分も少なからずあった。が、蓋を開けてみたらこのようになった。人生は「どうにかする」ものではなく「どうにかなる」ものなのかもしれない。

不安や恐怖より「衝動や喜び」

Envelopeに来てくれた女性が「わたしは、こうしてお菓子の差し入れを持ってきてはいるのですが、正直に言えば『持って行きたいから持ってきただけではなく、自分をいいひとに見せたい(何かを持っていかないと悪いひとになる)』から持ってきているように感じています。坂爪さんは様々なものを貰う機会が多いと思うのですが、皆、純粋な善意だけで与えているものなのでしょうか」という問いを投げた。

私は、しばらく考えた後に「わかりません」と答えた。純粋な善意だけで与えるひともいれば、何かしらの見返りを求めて与えるひともいるし、自分を良く見せたいある種の見栄やプライドの為に何かを与えるひともいるのだと思う。どのような気持ちが乗っかっているのかは(女性の話を聞くまでは女性がそのような気持ちで差し入れを持ってきたこともわからなかった)私は、多分、何も知らないのだと思う。

私は、あらゆるひとに対して「そうしたくなった、その気持ちを大切にしてください。しなきゃ、に負けないでください」ということを願っている。何かをしなければいけないというある種の脅迫的な感情に従うのではなく、これをやりたい、こうしていきたいと思う前向きな感情に従って欲しいと願っている。不安や恐怖を動機に何かをするのではなく、衝動や喜びを動機に生きていて欲しいと願っている。

『聖なる予言』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、J・レッドフィールド著作『聖なる予言』です。こちらの本は、関西在住の女性から「わたしの人生を大きく支えてくれた一冊です。必要とされる方に、必要なタイミングで届きますように」という言葉と共に、熱海に届きました。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、長崎県にわたりました ※※※


ひとの心を動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」だ。

多分、私はEnvelopeという空間を通じて「迷惑をかけない訓練をするのではなく、楽しく迷惑をかける【明るい混乱を起こす】練習をしているのだ。我慢をする訓練をするのではなく、無邪気に我儘である【ポジティブに甘える】練習をしているのだ。強くなる為の訓練をするのではなく、余計な見栄を投げ捨てる【安心してダメになる】練習をしているのだ」と思う。


こうでなければいけないということなんて、本当は、ひとつもないのだと思う。いままで「これはこういうものです」と定められてきたほとんどのものも、もしかしたら、すべてはデタラメなのかもしれない。地動説が天動説に変わるように、世界の常識が一瞬でひっくり返る出来事が、人生にはたくさんある。つまらない常識で自分をダメにしてしまうことほど、勿体無いことはないのだと思う。


正しさを追い求めると重くなる。楽しさを追い求めると軽くなる。どれだけ正しいことを言えるひとでも、一緒にいる時間が楽しくなければ、こころは簡単に疲れてしまう。私は「明るい混乱を起こす」ひとが好きだ。「ポジティブに甘える」ひとが好きだ。「無邪気に我儘である【邪気のあるものはNG!】」ひとが好きだ。ひとの心を動かすものは「正しさ」よりも「楽しさ」だ。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

【Cafe Envelope】優れたパティシエになる近道は美味しいケーキを食べること。まずいケーキを食べてそれが何故どうまずいか分析するのは遠回り。

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無料の喫茶店をはじめたいと思う。机や椅子を探したり、適当なメニューを考えてみたり、熱海の自宅を無料の喫茶店にする為の準備をしている。無料だなんて食材費はどうするのだ、やればやるだけ損をするだけじゃないかと言われることもあるけれど、自分でもはじめる理由がわからない。ただ「素敵だと思ったから」以上の答えを見つけられないでいる。


実験的に8月5日(金)から7日(日)までの三日間「無料の喫茶店」なるものを開店します。私は非常に怠惰な人間なので、完璧に準備が整ってからやるのではなく(そうなると永遠に開店できない)、何も準備ができていない状態からドヤ顔で店を開き、皆様のお力を借りながら徐々に環境を整えていくという「永遠に未完成スタイル」ではじめます。是非、お気軽に遊びにいらしてください。

【イベント情報】Envelope 〜無料の喫茶店〜

なぜ、無料の喫茶店【循環スタイル】なのか。

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私が「無料の喫茶店」をはじめたいと思った理由はだいたい100個くらいあって、ひとつめは「たとえ採算性を度外視したものであっても、このひと(このお店)が人類にとって必要なものであれば、このひと(このお店)を生かそうとする謎の力が働いてきっとどうにかなるはずだ」という非常に楽観的なものになる。

ふたつめは「およそ2年間にわたる家なし生活の時期を含め、現在の私は【交換感】ではなく【循環感】の原理で生かされていることを感じているから」というものになる。等価交換を原則としている世の中では、持たざるものは何も得ることができない(交換に参加することができない)。しかし、家も金も仕事もなかった自分が生きてこれたのは、交換ではない循環のシステムに奇跡的に乗ることができていたからなのだと感じていて、あの【循環スタイル】を再現できる舞台装置(?)をつくることができたら面白いなあと思うようになった。

みっつめは「気前の良いことがやりたかった」というものになる。気前の良いひとに触れると、自分も気前の良いことをやってみたくなり、結果的に「世の中に気前の良い風が吹きまくる」のではないだろうかとひどく短絡的に睨んでいる。過去に、はなまるうどんで30人に自腹を切ってご馳走をするという自主企画を通じて、私は「神は『好きなように生きなさい』と言っているのだ!!!」ということを悟った。


Cafe Envelope【逢初庵】

熱海の自宅は「逢初庵【あいぞめあん】」と名付けている。初対面の人間がたくさん出逢う場所になるだけではなく、昔から付き合いがあった人や、雲や、花や、虫など、見慣れているすべてのものに対して「生まれてはじめて見た時のように新鮮な気持ちで」接することができる場所になればいい、という思いを込めている。


無料の喫茶店の名前は、Envelope【エンヴェロープ】になるかもしれない。もともとは「封筒」という意味の言葉で、ゆっくり落ち着いて手紙を書けるような空間になればいいと思っている。逢初庵の英訳としては意訳に過ぎるかもしれないが、私は、エンヴェロープという言葉の響きにある種の安心感を見た。この空間を吹き抜ける風を通じて、何かしらの安心感を取り戻す【思い出す】ことができるようになればいいと思っている。多分、安心感とは「つながっている」という感覚だ。


無料の喫茶店をはじめたいと言い始めてから、野菜や本を持って行きますという方や、自宅で余っている食べ物や飲み物を送りますという方や、手伝いが必要であればいつでも声をかけてくださいと言ってくださる方々がいる。このような「善意の循環」が、やがて、いまはまだ想像をすることもできない未来を運んでくれるような、静かな予感に包まれている。実験的な三日間の開店を終えた後も、私が熱海を離れて自宅にいることができない期間も、何かしらの方法で毎日開店することができるあり方を考えていきたい。

『動物たちの惑星』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、南アフリカ出身の写真家であるスティーブ・ブルームの写真集『動物たちの惑星』です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。こちらの写真集は、先日、熱海まで遊びに来てくれたカメラマンの男性が持参してくれた一冊になります。無料の喫茶店を開催中の店内にも、わたり文庫用として幾つかの本を陳列する予定です【無理やりにでも誰かに読ませたい本をお持ちの方は、是非、ご持参いただければ幸いです】。

※※※ こちらの本は、北海道にわたりました ※※※


美味しいケーキを食べること。

無料の喫茶店の良いところは「与える側と受け取る側が徹底的にフェアである【媚びる必要はない】」ことだと思う。対価を貰っている(対価を払っている)訳ではなく、ただ、与える側は「与えたいと思ったから」与えているだけで、受け取る側も「受け取りたいと思ったから」受け取っている【そうしたいと思ったからそうしている】だけであり、矛盾がない。矛盾がないから、我慢をする必要がない。


自分のやりたいようにやっても、意外と周囲に迷惑をかけることは少ないのだということを経験則的に思う。逆に、自分のやりたいことを押し殺して自己犠牲的になっている時ほど、周囲を負のスパイラルに巻き込むことが多い。多分、重要なポイントは「無邪気さ」だと思う。無邪気なわがままは周囲の人間の母性本能をくすぐって「仕方がないわねえ」という微笑を誘うが、邪気のあるわがままは周囲の人間の生きる力を奪う。


今世紀史上稀に見る非常に素晴らしい名言に出会った(nicさんありがとうございます!!ハリネズミのアイコンと奈良さんの背景がかわいい!!)。そうなのだよ、そうなのだよ、まさにその通りなのだよと私はスマートホンを握り締めながら体育座りでヘッドバンギングを繰り返した。嫌いを克服するよりも、愛しているのど真ん中にダイブしよう。まずいケーキを食べてそれが何故どうまずいかなどという不幸せの謎解きをするのではなく、私は、ただ美味しいケーキを食べて「幸せだなあ」と笑い合えたらそれだけでいいのだ。大切なことは「好きなひとと過ごすこと」と「好きな仕事を追求すること」で、好きなことをやるのに自分を擦り減らす努力なんて要らないんだ。


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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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【Fast alone, Far together】早く行きたければひとりで行け。遠くに行きたければみんなで行け。

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熱海や辻堂や蒲田や平塚界隈を行ったり来たりしながら、怒涛の日々を過ごしていた。自分は自分の考えなり思想なり生き方のスタイルをそれなりに持っているつもりだった(「俺は俺だ」という自分軸をそれなりに持っているつもりだった)けれど、最近、これが自分だと思っていた大部分が音を立てて崩れはじめている。

ひとりの人間とひとりの人間が本気で向き合う瞬間の中には、多分、人間を別人に変えてしまう力がある。お互いに持っている魂とか生命とか呼ばれるような何かが空間に流れ出て、グチャグチャに溶けて混ざり合うからなのだろう。「これが自分だ」と思っていた部分が大きく変わろうとすることは時に恐怖にもなるけれど、同時に、生きていることの醍醐味にもなる。要するに、いま、私は恋をしている。

絶滅危惧種は大切にされる。絶滅しろ!

数年前に「いばや【とにかくやばいことだけやる】」という団体のようなものをはじめてから、今世の自分は、いわゆるまともな生活はできないだろうなと思っていた。家のない生活をしていたり、生活のためではなく生命のために生きるなどと鼻息を荒くしていた時期など、恋愛とか、就職とか、結婚とか、いわゆる「普通の生活」と呼ばれるようなものとは無縁の今世になるだろうなと思っていた。

私は、昔から「絶滅危惧種は大切にされる。だから、大切にされたければ絶滅をしなければいけない」という偏った考え方を持っている。佐渡島のトキが大切にされるのも、トキが残り一羽とかギリギリの状態にいるからこそ大切に保護される訳で、これが「100匹とか200匹とか繁殖に成功しました!」となってしまったら、おそらく、いまほど大切にはされないだろうなと思っている。

これを自分の人生にあてはめて考えてみたとき、おそらく、自分がギリギリの状態から遠ざかってある種の安定を手にした瞬間から、私は、いわゆる「退屈な人間」に成り下がってしまうのではないだろうかという謎の恐怖感がある。大切にされたければ、尋常ではない生き方を望む(人類の可能性を探求したい)のであれば、常にギリギリの状態で生きなければならないという非常に面倒臭い考え方を持っている。

ひとりの人間に大きく揺さぶられる人生。

それが、である。たったひとりの人間の登場によって、自分の人生が大きく揺さぶられているのを感じている。自分にとって重要な『何か』との出会いは、人生におけるいままでの優先順を大きく変えてしまう力がある。たとえば、私の場合は「坂爪圭吾というひとりの人間の生き方」をどこまでも深く探求してみたいと思っていたけれど、いま、その辺りが大きく変わろうとしているのを感じている。

チューリップの青春の影という曲の中に「自分の大きな夢を追うことがいままでの僕の仕事だったけど、君を大切にするそれこそがこれからの僕の生きるしるし」という歌詞がある。手放しで「自分も同じ気持ちです!」とは言えないけれど、いま、似たような心境にある。いままでの自分の人生の主語は「私は」というどこまでも個人的だったものが、いま、「私たちは」というある種の共同体的な思想に変わろうとしている。

家のない生活をはじめたのがいまから2年半前、家をいただいたのがいまから約半年前、ある程度の安定期にある中で、そろそろ「次のステージがはじまる」予感はある。どのように自分の人生が展開していくのかはわからないけれど、いま、岐路に立っていることは間違いないのだと思う。迷いの気持ちは意外と少なく、ああ、自分は変わっていくのだろうなあという不思議な静けさに包まれている。

Fast alone, Far together.

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アフリカの諺に「早く行きたければひとりで行け。遠くに行きたければみんなで行け」というものがある。自分の言葉で言い換えることはできないけれど、多分、きっと、そういうことなのだろうなと思う。いままでの自分の日々は、ただ、自分のことだけを考えていればそれだけで良かった。誰の顔色も伺う必要もなく、ただ、自分の心の思うままに足を運んでいればそれだけで良かった。


その日々が悪いものだったとは思わない。ひとりでいることの中にも、ひとりでいるなりの孤独や疲労もそれなりにあって、それらは、自分を逞しく鍛える為のトレーナーとなった。ただ、である。これからも、あくまでも主語は「私【I】」というもので貫くのか、それとも「自分たち【WE】」というある種の共同体的なものへと発展させていくのか、いま、まさに分岐点に立っている感覚を覚えている。


明日、8月2日(火)は大安の新月で、新月の夜には「(これから月が満ちていくのに掛けて)新しい何かを願ったりはじめたりするのに最適な時期」だと言われている。自分は、これからの自分の日々に何を願うのだろう。わかることは「これからのことは何もわからない」ということと、そして、どのような道を選んだとしても希望しかないということだ。熱海にある家の目の前には海が広がっていて、夏の空には大きな雲が流れている。「空があるから、私はどんな時も大丈夫だと信じられる」という、オノヨーコさんの言葉を思い出している。


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人生は続く。

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この世界に立ち向かう勇気。

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東京駅国立市で開催されたトークイベントに登壇した後に、そのまま大阪に向かう予定だったはずの流れが爆発して、いま、再び熱海にいる。予定が二転三転することはままあることで、今回も様々な方々にご迷惑をかけてしまった。笑って許してくださる方もいれば、怒りのメガトンパンチをお見舞いしてくださる方もいて、日本昔話の「人間っていいな」が脳内を流れた。

トークイベントでは、最近感銘を受けたインドの思想家・サティシュクマールさんの逸話を軽く紹介した。クマールさんは、お金を一円も持たないで歩いて世界を一周する「ピースウォーク」を達成した男性で、それにまつわる逸話が半端ない。私は、過去に家を持たない生活を二年間ほど続けていたけれど、クマールさんの経歴を前に月とお米粒(最近はこの言い回しにはまっている)ほどの違いを感じている。

清々しい敗北感のど真ん中。

自分はなんてちっぽけな存在なんだ!と痛感させられる人間の存在【清々しい敗北感のど真ん中】には、不思議な嬉しさがある。クマールさんは、ある日、平和のために歩いて世界を一周しようと思い立つ。そのことを師匠的な存在のひとに伝えると、あろうことか、師匠は「それならば、お金を一円も持たないで出発するといいですよ」というぶっ飛んだ提案をする。クマールさんはびびる。まじかよ。たまにはお茶とか飲みたいじゃないか。だがしかし、師匠の教えは絶対なのでクマールさんは「わかりました」と言って、財布の中にあったお金を全部取り出してからインドを出発をした。

パキスタンとの国境まで歩いたとき、クマールさんの友達や親戚が駆けつけた。インドとパキスタンの間柄は最悪で、過去に三度の戦争をしているほどには荒れている。彼らは説得をする。クマールよ、パキスタンに行くのは自殺行為だ。しかも徒歩で、無一文で行くなんてアホ過ぎる。やめろ。いますぐ私たちの元に帰るんだ。全力で説得を行う彼らに、クマールさんは言う。俺は行く。私は大丈夫だ。たとえ死ぬことがあったとしても、平和の為に死ぬのなら本望であると。

友達や親戚は諦めた。その代わりに、クマールさんに3日分の食糧を渡そうとする。しかし、クマールさんはこれさえも拒否をする。もしも私がこの食糧を受け取ってしまったら、パキスタンで私を受け入れてくれたひとになんて言えばいいんだ。パキスタンのひとは誰も泊めてくれないだろうと思ったので、私はこの食糧を持ってきたのだとでも言えというのか。この食糧は、パキスタン人への不信感にほかならない。だから、この食糧はいらないのだとクマールさんは拒否をする。

敵が味方になる。

パキスタンの国境を越えてしばらく歩くと、すぐにパキスタン人【友達や親戚が言うところの「敵」であるひと】から声をかけられた。あなたがクマールさんですか、新聞であなたが平和の為に歩いていることを知りました。私も、インドとパキスタンの戦争は無意味だと思っています。よろしければ、是非、我が家に泊まってください。私の友達にも同じ考えの人間がいるので、みんなを集めて、平和について語りあいたいです。

この体験を通じて、クマールさんはひとつのことを実感する。もしも、自分がインド人として来たのであればパキスタン人【敵】と出会うのであろう。もしも、自分がヒンズー教徒として来たのであればイスラム教徒【異教徒】と出会うのであろう。しかし、自分が人間として来たのであれば、そこには人間としての出会いがあるのだということを。そして、クマールさんは「その時に私は、この世界に立ち向かっていく勇気をもったのです」と言う。

私は、この一連のエピソードに強い感銘を受けた。敵が味方になるという体験は、二年間の家なし生活の中で自分の身に起きた最も大きなパラダイムシフト内のひとつになる。いままで、私にとって他人とは「張り合う対象【ライバル的な存在】」であり、ひとは優しいのだということを実感レベルで強く思い知らされることの少ない人生を生きていた。この考え方を大きく変えてくれたのが家のない生活であり、私は、ホームをレスするのと同時に世界に対する不信感もレスしていったのだと思う。


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この世界に立ち向かう勇気。

私が家を持たない生活をはじめた動機は、クマールさんのように立派なものではなく、単純に「同棲していた彼女に振られたから」である。昔から、日本の家賃は高すぎる!これじゃ家賃を払う為に生きているみたいなものじゃないか!と思っていた私は、これはちょうどいいタイミングだということで「家がなくても人間って生きれるのかな??」という純然な興味を軸に、自分を使って実験的に試していた。そして、その様子をこのブログ記事を通じて(暇を持て余していたので)書き綴った。

結果的に、二年間の家なし生活は「熱海に家を用意してくれた女神様の降臨」によって終焉を迎えることになる(いまも、その家からこのブログ記事を更新している)のだけれど、私は、この二年間の家なし生活を通じて「世界に立ち向かう勇気」を知らず知らずの内に得たのだと思う。他人とは張り合う対象であるばかりではなく、時には仲間になり得ることを、救世主になり得るのだということを、できることならばお互いに助け合って生きていきたいと思っている生き物なのだということを、家のない生活は教えてくれた。

前回の記事を読んでくれた読者の方から、一通の連絡が届いた。そこには「あなたの命を生きることが、私の喜びになる」と書かれていた。ひとりの人間が世界に立ち向かう勇気を獲得した時、それは、きっと「人類全体が世界に立ち向かう勇気を得た」瞬間になるのだと思う。クマールさんというひとりの人間が獲得した勇気を、決してクマールさんひとりだけのものとして終わらせてしまわないように、繋げていきたいと思う。私は、多分、悲しみや恐れではない「この世界に立ち向かう勇気」をリレーしていきたいのだ。




圭吾さん、こんにちわ!○○○○です
いつもブログ読ませていただいてます^ ^
圭吾さんのブログを読んだ後、あーいいなぁ〜って爽やかな風が吹くんですけど、これなんなんだろうなって考えた時ふと思った事があったのでメールを送らせてください。
今回のブログで書かれてた

与えられたこの命は、ひとつだけのこの命だけは、精一杯に生かしてやりたいと思う。そう思う時に、私は言葉を綴りたいと思う。そして、これからも言葉を綴っていきたいと思う。

この誰かのためでなく!徹底的に自分のために書かれた真っ直ぐな言葉たち
自分のために生きる姿にあーいいなぁって感じていて
誰かのために!と生きていた時の私は
あなたの為なら多少無理してもいい!自己犠牲が美しい!それが愛‼︎と思い込んでいました
それは今思えば決して楽ではなく、そんな自分を本当の意味で好きではなかったんだなと。

圭吾さんや自分のために生きる人たちの姿や言葉には、以前クレイジーハウスダラットを観た時に書かれてた
「この世の中にこうでなきゃいけないということなんて、本当は何もないのだ」
という風が私にも吹いて気持ちを楽にさせてくれる、好きなように生きていい、
それでいいのか〜っていう爽やかな風を感じるんだな…と思いました。

それで、そこから芋づるのようにつながって思ったんですけど
なんかそういう気持ちを楽にしてくれるものを見ると自分は無性に嬉しくなるんです。
そんな嬉しい気持ちの自分自身が私は好きで
自分を好きになる(満たされる?)と人に優しい気持ちになったりして
毎日生きてく中で常に前向きなんて無理で、嫌な感情も汚い思いも後悔もあるけど
その瞬間、自分を好きになって、人もまた同じように好きになれるのかなって。

誰も、私の代わりに私の命を生きることはできないけど
あなた(私)の命を生きることが私(あなた)の喜びになることはできるのかな…
なんて思いました^ ^

そんな気持ちにさせてくれた圭吾さんに大感謝です!
本当にいつもありがとうございます‼︎

私はこれからも自分を生きる喜びで爆発させていきます

長々失礼しました!
圭吾さんにとって素敵に躍り狂う日々でありますように!
ありがとうございました^ ^



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人生は続く。

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生き延びることより「生きたいと思う」こと。

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バンコクを経由して東京に戻り、熱海に来た。明日26日(火)は、東京都国立市で開催されるトークイベントに出演します。誰でも自由に参加できる内容になるので、興味のある方は気軽に遊びにいらしてください。水曜日からは関西方面に向かいます(近未来、奈良県の村々や和歌山県紀伊半島に足を運んでみたいです)。

【イベント詳細】坂爪圭吾さんお話会

最近思うことあれこれをまとめます。

1・ダサい人間が感謝をされることは少ない。


最初は、ただ、自分がやりたくてやっていた【そうできることを感謝していた】だけのことなのに、やがて、周囲の人間に対して「自分はこれだけやっているのに、なぜ、認められないのか」的なことを思うことがある。そんな時、私は、自分が感謝をされたがっているのだということに気がついて「ダセえ!」と思う。感謝をされたがっている瞬間の自分はダサく、ダサい人間が感謝をされることは少ない。

2・最優先事項は「自分を楽しませること」


頻繁に耳にする言葉に「ひと様に迷惑をかけなければ何をしてもいい」というものがある。しかし、何をしたって一部のひとには露骨に迷惑にぶっかけてしまうというのが世の常だ。たとえば、私【坂爪圭吾】が生きているだけで「消えろ!目障りだ!迷惑だ!」と喚き叫ぶひとがいる。彼らには誠に申し訳ないけれど、生きている限り消える訳にはいかない。私は、私を嫌うひとの為に自害をするほど聞き分けのいい人間ではない。

3・人生とは、自分との心理戦である。


何かをしたら「笑われるかもしれない【誰かに馬鹿にされるかもしれない】」とビビってひるんでしまうことがある。しかし、中島みゆきのファイト!の歌詞にも「闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」とあるように、ひと様を馬鹿にする人間は基本的に闘っていない豚である。真の敵は己自身であり、人生とは「【世間的な過干渉(余計なお世話)とのバトルではない】自分との心理戦」である。

4・愛想笑いは「生きる力」を剥奪する。


あなた、いま、絶対に元気ないでしょ!その笑顔、ウルトラ無理をしているでしょ!と感じてしまうひとの笑顔、困っているような、泣いているような笑顔を見ていると胃と心臓が痛くなる。悲しみに寄り添いたくなる時もあるけれど、端的に「生きる力が奪われるからやめてください」と思うこともある。自然な感情は、絞り出すものではなく「溢れ出す」ものだ。搾りカスみたいになりたくなければ、自分で自分をスクイーズ【搾取】しないこと(そういうひとたちからは物理的に離れること)。

5・静けさが、知性や品性を醸成する。


誰の中にも詩人はいて、自分の口数が増えるほどに詩人は黙り、自分の口数が減るほどに詩人は語り始める。私は、詩人の心を身に纏うひとが好きだ。品格を身に纏うひとが好きだ。ある一定の閾値を超えた人口密度の中で、自分の中にいる詩人の声を聞くことはひどく難しい。詩人の心を身に纏うひとには、そのひと独特の「凛とした静けさ」がある。多分、その静けさが『知性』や『品性』を醸成する。


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6・好きなひとに好きだと言うために生きている。


明日死ぬとしたら何をするだろうか。明日死ぬとしたら、後悔のない生き方をできているだろうか。天国に持っていけるものは、多分、愛し愛された記憶だけなのだと思う。愛されるだけでは足りない、自分から能動的に何かを愛した時、多分、同時に自分【自分の人生】を愛することもできるのだと思う。私は「好きなひとに好きだと言うために生きている」のだと思う、ただ、それだけなのだと思う。


7・「自分は自分でいいのだ」と腹を据えて生きる。


私が誰かを好きになるとき、そこには「よくぞこのままで生きていてくれた!」という大きな喜びと感動がある。そのひとがそのひとで在り続けるということが、こんなにも見るひとを元気付けるものなのか。他人の評価に合わせて何者かになろうとするのではなく、自分は自分でいいのだと腹を据えて生きているひととの時間は潔く、清々しい。言葉はいらないから、ただ、永遠にそのままでいて欲しいと思う。

8・生きるために一番大切なもの。


居場所がないと感じることがある。かといって「居場所をつくりたい」という風には思わない。居場所とは、多分、外的な空間ではない「現在【自分の心の状態】」のことだ。乱暴にまとめるならば、それは『安心感がある』ということだ。安心感があれば土管の中でも河川敷の橋の下でも自分の居場所になり得るけれど、安心感がなければ北欧の家具でまとめられた洒落乙な空間も孤独と虚無に包まれる。

9・過去を嘆くこともなく、未来を憂うこともない。


居場所とは「現在【自分の心の状態】」だ。

10・誰も、私の代わりに「私の命を生きる」ことはできない。


私は、いま、この記事を熱海のデニーズから更新している。自宅からはバイクに乗り、丁寧に舗装をされた道路を走ってきた。私の代わりに家や料理やバイクや道路を作ってくれるひとがいる。私の代わりに言葉を発明してくれたひとがいて、私の代わりにiPadを製造してくれたひとがいて、私の代わりにWi-Fiを各地に飛ばしてくれたひとがいるおかげで、いま、この記事を更新することができている。

三人兄弟の末っ子として育ち、生まれながらの怠け者と甘えん坊のハイブリッドである自分は、自分以外にも誰かが何かをしてくれるのであれば「いつもお世話になっています!本当にありがとうございます!」と最大限の感謝をしながら、恩恵の上にあぐらをかいてしまう。代わりがいるのならば自分はやらなくてもいいかななどと、何もしない、怠惰な日々を過ごしてしまう。

しかし、当たり前のことだけれど「誰も、自分の代わりに『自分の命を生きる』ことはできない」のだ。それならば、と私は思う。あらゆることを他のひとに頼ってしまう【他のことは何もやる気が起こらない】自分だけれど、与えられたこの命は、ひとつだけのこの命だけは、精一杯に生かしてやりたいと思う。そう思う時に、私は言葉を綴りたいと思う。そして、これからも言葉を綴っていきたいと思う。自分の脳味噌が何を生み出すのかを見ていきたいという思いが、私にとって「【死なない為に生きるのではない】真っ直ぐに生きたいと思う力」になる。

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人生は続く。

413-0002
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踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る。

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ベトナムのダナン空港からホーチミンを経由して、バンコクドンムアン空港に到着した。バンコクに向かう飛行機からの眺めが素晴らしく、しばらくの間見惚れていた。雲の行列が踊りながらパレードをしているような、賑やかな空の風景に心は奪われた。口からは「うわあ」という嘆声が自然に溢れ、窓側に身を乗り出し、目の前に広がる深遠な風景に見惚れていた。


風の吹かない狭い屋内に閉ざされていると、自分の視野も狭く限られたものになる。空一面を踊る雲達を眺めながら、ああ、自分は自分を楽しませてやりたいのだということを感じた。もっと自分を楽しませてやりたい。もっと自分を驚かせてやりたい。自分という存在に新しい価値を覚えるほどの『神秘的な景色の広がり』や、いつも目にしているものの中にずっと昔からある『発見されることを待っている奇跡の存在』や、涙が出るほどのよろこびに触れる『何か』を、自分に見せてやりたいのだということを感じていた。

旅【生きること】と同行【従うこと】

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みっつという男性と行動を共にするのも今日が最後で、明日からはまたひとりになる。いわゆる『旅』と言われるものは、ひとりで出発するのか複数人で出発するのかによって、その後の様相が大きく変わる。複数人での移動は、食事をシェアできたり宿代が安く済むなどのメリットがあるが、新しい何かとの出会いの機会は圧倒的に減る。そして、何よりも「泣きそうになるほど【頼れるひとが周囲にいない】不安で孤独な場面を、どうにかして切り抜けることができた」記憶を残すことが難しくなる。

私は、いま、反省をしている。頼まれてもいないのに、私は「みっつの親代わり的な役割」を勝手に勤めようとしてしまった。結果的に、みっつはあらゆる局面で私の顔色を伺うようになり、乱暴な言葉で言えば「自分の足で歩き出す機会」を逸した。旅【生きること】と同行【従うこと】は違う。自分では何も決めることはない、誰かに用意された道を歩いているだけでは、生きているのではなく「同行している【従っている】」だけに過ぎない。

そのような考え方にいたり、最終日の今日、私たちははじめて単独行動をすることになった。今夜発の深夜便で日本に戻るために、23時に空港で待ち合わせる。それまでは各自自由、金が必要ならば自力で両替をして、ネットを使いたければ自力でWi-Fiを見つけ出し、空港までの行き方も自力で調べる。どちらかが間に合わなければ、健闘を祈って帰る。言葉にすればひどく当たり前のことに聞こえるけれど、この数日間、みっつは「当たり前のすべて」を剥奪されていた。

馴れ合って足を引っ張り合うよりは、強くなった彼を見送る方がずっといい。

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自身の身勝手さを痛感する。私は、多分、徹底的に自己満足を追求したいのだ。「誰かのため」なんて言葉は使いたくない。そのような言葉を使う【使ってしまっている】自分を見た時は、その見栄を、その傲慢さを、その認識の甘さを張り倒してやりたくなる。自分で自分を満足させることのできない【自分で自分を救うことのできない】人間が、他人を使って自分を満足させようとしている【他人を使って自分を救おうとしている】だけに過ぎないのだと、自分で自分を蹴飛ばしたくなる。

日本橋ヨヲコという漫画家の作品に、高校時代、熱病のように犯されていた時期がある。プラスチック解体高校という作品の中に「馴れ合って足を引っ張り合うよりも、強くなった彼を見送る方がずっといい」というような台詞があった。ここ数日間、私は、この言葉を思い出していた。ぬるま湯のような馴れ合いの中にはない「お互いに刺激を与え合うことができる、時には『傷つけ合って覚醒し合う』ような関係性」を、私は求めているのだと思う。

自分のために生きることが、結果として誰かの力になることがある。俺はお前にはなれないし、お前は俺にはなることはできない。俺が俺であるほどに、お前はお前でいることができる。お前がお前であるほどに、俺は俺でいることができる。俺が俺であるように、お前はお前になれ。俺は俺で、俺であることを楽しむから、お前はお前で、お前であることを楽しんでくれ。私は、ただ、人間がメタモルフォーゼをする瞬間に触れたかったのだ。

『夜市』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、大阪府羽曳野市古市でカフェを営む店主さんから譲り受けた、恒川光太郎著作『夜市』です。こちらの作品は、ホラー小説という限定的なカテゴライズを超えて「二度と取り戻すことのできない悲しみと美にあふれている」素晴らしい作品でした。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、バンコクにわたりました ※※※


踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る。

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ひととひとが共に生きるということは、どういうことなのだろうか。こんなことを言ったら相手にどう思われるだろうか、傷つけてしまうかもしれないし、そのことによって自分が傷ついてしまうかもしれない。面倒なことになるくらいなら、自分が我慢をしてその場をやり過ごせばいい。このような考え方でいれば、きっと、表面的には平穏無事で何事もない日々を送ることができるのだろう。

それぞれが自分の命を開きながら、カオスティックな中にある種の秩序が成立している状態を「調和」と呼ぶのならば、ひとりひとりが本心を押し殺して無難に収めようとしている状態を「予定調和」と呼ぶのだろう。「そういうものだよね」という予定調和の中には、ひとりの人間が大きく傷つくことのない代わりに、各々の本心が徐々に削り取られていく「ゆるやかな諦め【静かな殺人】」の雰囲気が漂っている。

空一面を踊る雲達を眺めながら、ああ、自分は自分を楽しませたいのだということを感じた。もっと自分を楽しませてやりたい。もっと自分を驚かせてやりたい。雲が空を踊るように、命は、この瞬間も踊りたがっている。成功するかはわからない、うまくいかないことの方が多いかもしれない、それでもなお、命の鼓動に殉じること。確かなことは、いつか『踊ることさえもできなくなる日が、必ず来る』ということだ。

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人生は続く。

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永遠の前の一瞬。

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ベトナムのニャチャンを経由してホイアンにはいり、これからタクシーでダナンに向かう。夜には寝台列車ホーチミンに戻り、一泊した後に水曜日の便でバンコクにはいる。基本的に暇なので、ラジオ番組「坂爪圭吾のポンポンがパンパン!」なるものを配信した。ポンポンとは腸【はらわた】のことで、肉体的及び精神的に満腹時の坂爪が皆様のご機嫌をハンティングする軽薄な内容になっている。


自前のスマートフォンを落として割ってしまった。ブログに使用している写真は、すべてスマホiPhone5s】で撮影していたために困ってしまった。精神もスマホも粉々である。新しい携帯(iPhone6s plusの大画面に惹かれている)を購買したいが、所持金はお米粒程度だ。金曜日には祖国【日本】に戻るので、どなたか使っていないスマホなどを安価で譲ってくださる神様がおりましたら、ご連絡いただけると猛烈に喜ぴます。

元気なんか出さなくていい。

私は、多分、ハイテンションのひとが苦手だ。みっつを含めたいばやの皆様といると落ち着くのは、彼らは「元気だけどテンションは高くない」からだ。要するに、無理をしていない。常に明るくいなければいけない、前向きでいなければいけない、元気でいなければいけない、楽しまなければいけない、みんなと仲良くしなければいけないという雰囲気が空間に満ちている時、私は、その場にいることが耐えられなくなって逃げ出すことが多い。

誰かから贈り物を貰う時、受け取りやすいものと受け取りにくいものがある。金にしろ、物にしろ、そのひとが「これをあなたにあげたくて仕方がないの!」という溢れ出す感じがあるものは受け取りやすく、逆に「いまの私にはこれが精一杯なの」的な悲愴感【絞り出している感】がブレンドされている贈り物は受け取りにくい。前者には、何かをすればするほどにそのひと自身も潤うイメージがあるけれど、後者には、何かをすればするほどにそのひと自身が干からびるイメージがある。

私にとって、何かをしたいと思う感情は「絞り出す」ものではなく「溢れ出す【溢れ出てしまう】」ものだと思っている。自分をボロ雑巾みたいに扱って、最終的には搾りカスになるほど無理をしてまで何かをするほどに、多分、そのひと自身は干からびていく。私は、人間が干からびていく様を見たいとは思わない。搾りカスになることを前提としたコミュニケーションや人生の在り方には、違和感を覚える。俺も我慢しているんだからお前も我慢をしろという世界は、端的に、酷だ。

花と水の街「ホイアン

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ホイアンの街は、花が綺麗だ。アジア諸国の緩さは自分には相性が良いみたいで、暇な時は平気でスマホをいじるレストランの店員や、まるで商売っ気のない仏頂面の店員や、仕事であることを抜きに気軽に話しかけてくる店員の笑顔に触れると、不思議と嬉しさがこみ上げてくる。私は、多分、この「【自分の内側から】こみ上げてくる」という感覚が好きなのだと思う。

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花を見ると嬉しくなる。嬉しくなりたいと思うから花を見るのではなく、花を目にすると「嬉しくなっちゃう」のである。この、自然と「なっちゃう」感じ【ちゃうちゃう感】が私は好きで、これは夕日を見た瞬間に思わず駆け出してしまっている自分に似ている。思わずしてしまっているという、この「そうせずにはいられなくなる【気がついたらそうしちゃっていた】」姿に、自分の必然や自然を見る。

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近くの川にはボートが並び、客寄せのおじさんが「ボート!ボート!」と叫んでいる。

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幾つもの色彩に溢れた、可愛らしい街だ。

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移動を続ける日々の中で、私は旅や食や世界遺産などにはあまり興味がないのだということを知る。ただ、自分の心が何を感じるのかということには興味があり、外側の世界ではない内側の世界の拡がりを覚えた時に、ある種のよろこびを覚える。ああ、自分のこころはこのような反応をするのか、ああ、自分はこれをするとこういう気持ちになるのかということを垣間見た時、それがどのような反応であれ、なるほど、ここに来てよかったと思う。


そしてまた、新しい一日を迎える。

青空文庫「こころ」

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、海外遠征中のために紹介のみになるのですが、青空文庫で無料で読める夏目漱石の「こころ」です。海外で日本の文学に触れると、いつもとはまた違った染み込み方をする。他にも、最近では原民喜「夏の花」宮沢賢治よだかの星太宰治「斜陽」高村光太郎智恵子抄坂口安吾文学のふるさと内村鑑三「後世への最大遺物」芥川龍之介羅生門伊藤野枝「遺書の一部より」トルストイ・レオ「イワンの馬鹿」などが良かったです。電子書籍は荷物にもならない、様々な作品を無料で読むことができる、素晴らしい時代だ。お手隙の際にでも、是非、青空文庫で検索してみてください。

私は冷やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。
私が帰った時は、Kの枕元にもう線香が立てられていました。室へはいるとすぐ仏臭い烟で鼻を撲たれた私は、その烟の中に坐っている女二人を認めました。私がお嬢さんの顔を見たのは、昨夜来この時が始めてでした。お嬢さんは泣いていました。奥さんも眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらい寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。
私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の生命と共に葬った方が好いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。ー 夏目漱石「こころ」【青空文庫


永遠の前の一瞬

どれだけ遠くに足を運んだとしても、どれだけ多くの著作に触れたとしても、自分自身から逃れることはできない。結局、最終的に行き着く先は自分であり、他人がどう生きるのかではなく「自分はどう在りたいのか」ということを、自身に問い続ける日々にいる。自分との付き合いは長い。長ければ長いほど詳しく分かりそうなものなのに、長ければ長いほど、いよいよわからなくなることも多い。


不安になるのはあたりまえで、さみしくなるのもあたりまえのことだと思う。元気な時に「このままで行こう!」と思うことは簡単だけれど、元気のないときも、元気のないままで「このままで行こう!」と生きる姿勢が、多分、自分の中心を生きる芯になる。元気を出さなきゃとか、明るくいなくちゃとか、やりたいことを見つけなくちゃだめだとか、そんな言葉で自分を苛めてはいけないのだと思う。生きる力は、ボロ雑巾のように絞り出すものではなく「溢れ出す【溢れ出てしまう】」ものだ。


普通はこういうものだという声に惑わされてはいけないのだと思う。自分という人間は普通でもなければどこにでもいるような存在でもなく、優等生でもなければ劣等生でもない、そのことによる悲しみもあるけれど、そのことによる光と尊さを見出すこともできる、唯一無二の存在だ。生きていることが安らぎになるように、死ぬことが安らぎになることもある。生まれてから死ぬまでの【永遠の前の一瞬】に、どのように生きるのかはそのひとの自由だ。その中で「自分は自分でいいのだ」と思えた時、多分、ある種の安心感は芽生えるのだと思う。


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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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自分を責める必要はない。

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ベトナムのダラットを経由してニャチャンにはいり、突如、念願のベトナムデビューを果たした。「この夏は、はなはだしいロールアップでキマりよ!!」ということで、心も身体もグイッ!と巻き上げて行きたい。それっぽい写真を撮影していただけたことが露骨に嬉しい。夏だ。プロフィール画像を変えると、自分がまるで新しいものに生まれ変わったような気持ちになる。


音声配信を公開した。現在、行動を共にしているみっつとは、様々な話をする。その中の一部(文章で伝えるには難しい部分)を音声で配信した。そこで出た話題と、その補足について、最近思うことあれこれをまとめます。

「働かざる者食うべからず」という嘘。

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非常に乱暴な言葉でまとめると、みっつは、10年間ほど自宅で引きこもりの生活をしている。私も、通常の意味での仕事はしていない(定期的な収入があるう訳ではなく、人々のお布施によって生きている)為に、我々ふたりは無職ということになる。無職の人間は、社会的に居心地の悪い思いをすることが(ひとによるけれど)頻繁にある。要するに「ダメ人間」のレッテルを貼られることが多い。

日本の諺に「働かざる者食うべからず」というものがある。これは、直訳すると「お前らみたい(ニートや引きこもりや何かしらの事情で働いていないひと)な生き方をしている奴は死ね」ということになる。言葉が与えるダメージは大きい。他人から言われることも勿論辛いが、何より、自分自身が自分に対して「お前はダメな人間だ」と感じる瞬間【自分で自分をいじめてしまう瞬間】は辛い。自分の存在や自分の人生が「負債だらけの罰ゲーム」になり、世界から、自分ひとりだけ消えてしまいたくなる

誤解を恐れずに言うと、私は「働かざる者食うべからず」という諺は嘘だと思っている。働きたいから働いているだけであり、働かないひとを責める必要はないと思っている。働かざる者食うべからずというひとは、本当は「そのひと自身が働きたくないだけ」だと思っている。働かないひとが羨しいから、働かないひとに腹が立つから、働かざる者食うべからずという諺を用いて、働かないひとを責めている【自分を正当化している】だけだと思っている。働いていないひとも、放っておけば勝手に働きたくなる時が来るだろうし、その時が来なければ来なかったでまた、非常に個性的【乙な人生であると思っている。

自立と依存は紙一重。

音声配信の中で「自立とは何か」という話題が出た。多くの場合、それは「経済的な自立」を指すのだと思う。たとえば、企業に勤めるひとは、自宅に引きこもっている若者に「いまは親がいるから良いけれど、親が死んだらどうするんだ」と言う。この場合、家族からの庇護を受けているひとは自立をしていないということになり、企業からの庇護を受けているひとは自立をしているということになる。

しかし、私には、これらのことが同じに見える。親が死んだらダメになる生活と、企業が倒産したらダメになるような生活は、頼りにしている先が異なるだけで「お互い様」なんじゃないだろうかと思っている。誤解されると困るが、私は「働くこと」を否定したい訳ではない。そうではなく、誰もが誰かを頼りにしながら生きているのであり、真の意味で自立をするということは実は不可能なことであり、自分の力で生きていると思うことは「自惚れの最たるもの」になるのではないだろうかと思っている。

いや、俺はどの組織にも属さないで、自分の腕一本で生きている。だから俺は自立をしているんだと言うひともいるかもしれない。しかし、このひと自身の生活も「そのひとが提供するサービスを買ってくれるひとがいる」から成り立っている訳であり、どれだけ素晴らしい技術や能力を持っていたとしても、それを買ってくれるひとがいなければ生活は破綻する。

自分を支えるものは「他者」である。

繰り返しになるけれど、私は「働くことを否定したい」訳でもなければ「働かないことを正当化したい」訳でもない。ただ、誰もが誰かに支えられながら生きているのだから、もっと、お互いに優しくできないものだろうかと思っている。「こうでなきゃいけない」という不安や恐れからではなく「こうしていきたい」という希望や喜びを礎に、明日を生きることができる世の中になればいいなあなどと思っている。

私が使っているスマホタブレットも、ベトナムまで来た飛行機も、家も、服も、車も、水筒も、洗濯機も、日本語も英語もギターなどの楽器も、とてもじゃないけれど私には自作をすることはできない。既に、先人たちによる様々な恩恵を受けながら成立をしているこの日々の中で、とてもじゃないけれど私は「自分ひとりの力で生きている」とは思えない。そして、私は「自分の生活を支えているものは『他者』である」ということを思う。

私には、生きるために必要な酸素を生み出す力もなければ、種を抜きに食物を生み出す力もない。自分の身体であるにも関わらず、血液の流れを早めることも、トイレの時間をコントロールすることも、髪の毛の生育をストップさせることもできない。ただ、勝手に肉体は傷ついた皮膚を修復し、口から取り入れた栄養を分解し、赤い血液【生きるために必要な力】に載せて身体中に巡らせている。そういうことを思うとき、私は「生きているということは、生かされているということだ」ということを思う。

クレイジーハウスダラット

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ダラットにある「クレイジーハウス」に足を運んだ。仮に、人間が損得勘定だけで生きている生き物だとしたら、このように愚かな建物を創り出すことも、このようなものを見て「OMG!」と興奮することもない。アーティスティックなものに触れた時、空間に、心に、自由の風が吹く。自由になることと「楽になること」は似ている。自由の風は受けるひとの心を楽にして、この世の中に「こうでなきゃいけないということなんて、本当は何もないのだ」ということを思い出させる。

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ダラットの空

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自分を責める必要はない。

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何もしていない自分には価値がないと感じる時、生きているだけではいいと思えなくなる。生きているだけではいいと思えないということは、生きているだけではダメ【存在をしているだけでは価値がない】になるということだ。生きているだけではダメになるということは、生きていること(生まれてきたこと)そのものが「負い目【生まれてきてごめんなさい】」になるということだ。しかし、私は思う。生きているだけではダメだなんて、それはちょっと、あんまりにも酷ではないだろうか。


自立とは何だろうか。それは「自分で自分にOKを出す」ということではないだろうか。どのような生き方をしていたとしても、いま、こうして無事に生きているということは「大丈夫である」ということの最高の証明になりはしないのだろうか。人間としては不完全でも、不完全で当たり前、不安になることがあっても当たり前、落ち込むことがあっても当たり前、でも、大きな全体の流れの中では「生きている【成立をしている】」というこの点において、私達は、実は『パーフェクトな存在である』とは言えないものだろうか。


何かをしたから価値があるとか、何かをしていないから価値がないとかではない、ただ、ありのままでそこにあるというその姿を通じて、見る者もまた、何者でもない「ただの自分」に戻ることができる。何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだ。自分を責めてしまう瞬間は辛いけれど、しかし、私達が自然を美しいと思うとき、それは「自然のままでそこにある」からだ。自然を愛するように、自分を愛したいと思う。


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人生は続く。

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好きなひとに好きだと言うために生きている。

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マレーシアを経由してベトナムにはいり、ホーチミンからバスに乗ってダラットという都市に来た。高原に位置するこの都市は、日没後の気温が20度以下ににまで下がるために厚手の長袖が必要になる。1年前、モスクワを訪れたことを思い出した。まるで冬の到来を感じるようなこの気候に、夏と冬のハイブリッド的な一挙両得感を覚えられることが物凄い嬉しい。


ホーチミンの喧騒は自分には合わず、予定を早めて速攻でダラットに逃げた。逃げた先には、天国が広がっていた。多分、何かを好きになるために「自分を擦り減らす」必要はない。私は、ホーチミンを好きになるために努力をしてしまっていた。自分の体に合わない場所に、無理をしてまで長居をする必要はないのだという当たり前のことを実感する。地獄に拘泥するほど、天国を逃す。いまいる場所が合わなければ、ただ、その場所を離れればいいだけの話なのかもしれない。


そういうことを思っている。

好きなひとに好きだと言うために生きている。

今回の移動は、みっつと行動を共にしている。みっつは父親の方針で一切の義務教育を受けずに育ち、日本語も自力で覚えたために文字を読むことはできるけれど書くことはできない。みっつと出会った頃、何かやりたいことはあるかと尋ねたら「何処でもいいからいろいろなところに行ってみたい」と言った。それ以来、タイミングが合う時は一緒に行動を共にするようになった。


みっつと動画配信をした。現在の私の年齢は31歳で、生きる意味は何もわからないけれど、生きたいと思うことの理由ならば、少しだけわかってきたような気がする。私の場合、それは「好きなひとに好きだと言うため」だ。安易な言葉になるけれど、しかし、これしかないんじゃないだろうかとさえ思うこともある。ひとを好きになることは、本当に素晴らしいことだ。

あなたはもうひとりの私で、私はもうひとりのあなたです。

私は、誰かのことを好きになる時「あなたはもうひとりの私で、私はもうひとりのあなたです」という感覚を覚えることがある。大袈裟な言葉になるけれど、私はあなたの代わりに生きていて、あなたは私の代わりに生きているのだという感覚を覚えることがある。別々の命を生きているのではなく、ひとつの大きな命を生きているのだという感覚を覚えることがある。

先日、あるひとから「さくら」というタイトルの小説を貰った。話の内容は省略するけれど、物語の途中で『神様』という言葉が出てきた。特定の宗教を持たない私は、しかし、神様と呼ばれるものに思いを巡らせることが頻繁にある。私にとって、神様とはどこか遠くにいるものではなく、自分の中に常にいるものであると感じている。神様を信じるということは、自分の中の神様を信じるということだと感じている。それが「自信」と呼ばれるものではないだろうかと感じている。

あなたの中にもいて、私の中にもいて、それは一見すると別々なもののようでいて、同じでもあって、きっと幸せと呼ばれるものは「何か大きなものとの一体感」で、不幸と呼ばれるものは「何か大きなものとの分離感【切り離される痛み】」なんだろうなと思っている。自分の調子がいい時は、世界も開いたものとして映し出される。自分の調子が悪い時は、世界は閉じたものとして映し出される。

幸福は一体感、不幸は分離感。

先月、タイに足を運んだ時に美しい夕日を目にする機会に恵まれた。綺麗なものを見ると、あのひとにも見せてやりたいという気持ちになる。美味いものを食べると、あのひとにも食べさせてやりたいという気持ちになる。綺麗だねと言えば「綺麗だね」と返ってくる、同じ気持ちを分かち合える関係性は、素晴らしいものだ。


私は、人間関係における幸福は「同じ気持ちを分かち合えた瞬間」に生まれるものだと思っている。自分が笑う時、世界も一緒に笑顔になる。しかし、自分が泣く時は世界にひとりぼっちで泣く。世界は一緒に泣いてはくれない。ただ、稀に世界も一緒に泣いている時がある。世界も一緒に泣いている時、それは幸福な瞬間になるのだと思う。同じ喜びだけではない、同じ涙を流している時、それは、美しくて貴い「幸福な瞬間」なのだと思う。

『さくら』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、海外遠征中であるためにご紹介のみになるのですが西加奈子著作のロングセラー『さくら』です。巻末のあとがきで、西さんは「結果的に『さくら』は売れ、私の生活を変えてしまう一冊になりましたが、それより、『何かを書くことは?』ということを忘れることが出来るのは、何かを書いている間だけである、ということを教えてくれた一冊でもありました。私は、ずっと書き続けよう、と思います。こんな苦しくて、幸せなことはありません」と言う。きっと、生きるとは何かということを忘れることが出来るのも、生きている間になるのだろう。

でもなぁ、わしのこの目えはな、わしのもんやけど、ああ、わしのもんや無い思たんや。神様に返すんやてなぁ。わしはもう、山も星も見ることは出来へんけど、山の裾野がな、こう、どんな風に曲がってるかを覚えてるし、星のな、その形は見えんでも、光を感じることが出来る。わしは目え見えへんけどなぁ、ぜえんぶわしのもんに出来るし、ぜえんぶ返すことも出来るんや。ー 西加奈子『さくら(P79・公園のおじいさん)』【小学館文庫】


ひとつの大きな命を生きている。

素晴らしい出逢いの中には、いままでの人生をまるごと肯定する素晴らしい力がある。それは、相手に対して「いままで良く生きてきてくれた、あなたが生きていてくれたから、いま、こうして出逢うことができたのだ」と感じる、大きな大きな喜びをもたらす。そして、この言葉は、相手だけでなく実は自分自身にも言っているのだということを知る。相手が生きていてくれたように、自分もこうして生きてきたからこそ、二人は出逢えたのだということを知る。これまでの自分の日々を肯定する、大きな力の存在を知る。


私は、私の好きなひとを通じて「自分の人生を肯定する」ことができているのだと思う。そして、自分はひとりではない【ひとりでは生きられない】ということを知るのだと思う。その感覚は、知るというよりも「思い出す」に近いのだと思う。私は、私の好きなひとを通じて「何か大きなものとの一体感」を思い出しているのだと思う。この感覚を、私は「ひとつの大きな命を生きている」と感じているのだと思う。


私は「好きなひとに好きだと言うために生きている」のだと思う。もう、ただ、それだけなのだと思う。たったそれだけのことの中に、言葉にはならない、幾つもの美しくて貴い光の粒子が凝縮されている。誰かを好きになるということは、自分を好きになるということだ。誰かに好きだと伝えることは、自分に好きだと伝えることだ。別々の命を生きているのではない、この瞬間も、私達は「ひとつの大きな命を生きている」のだと思う。


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人生は続く。

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生きる力を爆発させること。

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東京と大阪と京都で開催されたイベントを経由して、いま、京都の出町柳にいる。様々な人種のひとたちと出会う日々の中にいると、稀に、相手の邪気をモロに受け取って除草剤を撒かれた草みたいな気持ちになる。しかし、今回は久しぶりに行動を共にしているみっつの存在に救われた。みっつがいなければ、今頃、私は鴨川を揺蕩う水死体になっていたかもしれない。


このままの流れで、7月11日(火)からみっつと一緒にマレーシアのクアラルンプールを経由して、ベトナムホーチミンに行きます。その後の予定は未定ですが、7月22日(金)の夜にタイのバンコクから成田に戻るまでの間、基本的に暇をしています。奇跡的にお会いできる方がいらっしゃいましたら、気軽にご連絡いただければ嬉しいです。


最近思うことあれこれをまとめます。

1・アドバイスの裏側にある嘘。


稀に、何かあるとすぐに(頼まれてもいないのに)アドバイスをしたがるひとと出会う。誤解を恐れずに言うと、私は、説教やアドバイスをしたがるひとが嫌いだ。アドバイスとは、要するに「俺みたいになれ」ということになるのだと思う。その態度に、その自惚れに、ある種の傲慢さ【お前はひとにアドバイスをできるほど、偉い人間なのか?という疑問】を感じてしまうのだと思う。自分を偉いと思っているひとに、多分、偉いひとはいない。

2・人間関係の不幸の原因の9割は「過干渉(余計な御世話)」


聞く方も、聞く方で、様々な人の意見に思い切り惑わされているのを見ることが多い。ひとの意見を聞くことも時には大事だとは思うが、でも、何よりも大事なことは「自分の声」を聞くことではないだろうか。極論、自分が「ああ、自分はこのひとのことが大好きだ!」と感じるひと以外の声は、聞かない方がいいと思う。他人にアドバイスをしたがるひとほど、単純に、承認欲求に飢えている【そのひと自身があまり幸せではない】だけの場合が多い。

3・怒りの裏側には甘えがある。


何かあると、すぐに怒り出すひとがいる。怒りの裏側には「現実が思う通りにならないことが許せない、そのひと自身の幼児的な甘え」があるような気がする。多くの場合は、両親との関係で長年患っている一悶着があって、未だにその心理的な問題【本当は抱き締めてもらいたかった的なサムシング】が解決できていないのだと思う。私は、怒りの感情に触れるのが苦手なために、即座に逃げる。これはこのひと自身の問題であって、【例え自分が怒られていたとしても】自分の問題ではないのだと認定して、逃げる。

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4・大阪の居酒屋にて。


関西在住のYさんから、もし良かったら会えませんかと連絡をもらい、大阪の居酒屋で初対面を果たした。Yさんは、自分ひとりだけで話を聞くのもあれだと思ったそうで、友達二人にも声をかけた。そのため、私のことをよく知っているYさんと、私のことは何も知らないけれどとりあえずYさんに呼ばれたから来たという女性二人と、私を含めて四人でご飯を食べることになった。

5・愛情か、打算か。


私は、タクシードライバーや飲食店の従業員などに冷たく対応するひとが嫌いだ。Yさんの友達がそういう感じのひとで、私は、露骨に機嫌が悪くなってしまった。しかし、理性では「いかん!いかん!初対面のひとを前に、こんなことで機嫌を悪くしているようではダメだ!」と思ったので、頑張って自分のご機嫌を伺ってはみたけれど、ダメなものはダメだった。潔く、嫌われてしまおうと思った私は無口になり、早々とその場を退散した。

6・自信よりも「自分」


帰り際、Yさんに「なぜ、この二人を呼んだのですか」と尋ねた。Yさんの人柄は非常に柔和で素晴らしく、多分、二人きりで出会っていたらしっかりと話をすることができた気がした。私は、勝手に「Yさんは、もしかしたら自分に自信がないのかもしれない。だから、自分ひとりで坂爪さんの時間を奪うのは申し訳ないから、友達を呼んで少しでも誰かの役に立てばいいなとか思っているんじゃないのだろうか」と勘繰って、その旨を伝えた。

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7・対等に話がしたいだけだ。


Yさんは「そうです」と答えた。私は、では、今度はタイマン勝負で会いましょうと言った。そして「お願いだから、自分のことを低く見積もらないでください。あなたが自分のことを卑下するほどに、あなたが私のことを褒めるほどに、私とあなたの間に距離が生まれる。距離が生まれるほどに、この場が退屈なものになる。私の願いは、あなたと対等に話をすることです。私は、褒められたくて来た訳じゃないし、接待を受けたくて来た訳じゃない、ただ、あなたと対等に話がしたいだけだ」という旨を伝えた。

8・瞬間を肯定する。


うまく伝えられたのかはわからないが、私は、自分が感じたことのすべてを出し切ることができたので、心残りは何もなかった。その時自分が感じたことを、無様でも、不器用でも、溜め込むことなく自分の外側に出し切ること。私には、出し切るということがとても大事なことなのだと思う。言いたいことを言う、やりたいことをやる、それができた時に感じる清々しさの中には「瞬間を肯定する」力がある。

9・全身全霊のカメハメ波。


溜め込まないこと。出し切ること。言いたいことがあるならば、やりたいことがあるならば、他人にどう思われるかということは一回無視して、自分の外側に出し切ること。中途半端に小出しをしながら「察してください」などと相手に期待を寄せるのではなく、カメハメ波を打つくらいの気持ちで、何もかもを、この瞬間に全開する。小出しにするのではなく、全部出す。出し切る。出し尽くす。これができた時に感じることができる絶対的な爽快感は、格別だ。

『現代暴力論』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、栗原康著作『現代暴力論』です。表紙帯にある「気分はもう、焼き打ち」のフレーズが最高だなあと思いました。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※

いま、わたしたちは、徹底的に生きのびさせられている。原発推進派にしても反対派にしても、よりよく生きのびようとあらそっているだけのことだ。(中略)生きのびるということは、死んだように生きるのとおなじことだ。他人によって生かされるのではなく、自分の生を生きていきたい。どうしたらいいか。暴力だ、暴力しかない。ー 栗原康『現代暴力論(表紙裏の帯より引用)』【角川新書】


10・生きる力を爆発させること。


昨日、大阪のロフトプラスワンで開催されたルキノさんとのイベントが良かった。ルキノさんの魅力は、持ち前の美貌や歌や踊りのセンスだけではない「徹底的に自分を生き抜く」その生き様なのだということを思った。そのひとがそのひとで在り続けるということが、こんなにも見るひとの心を元気付けるものなのかということを思った。

人気があるからすごいとか、金を稼いでいるからすごいとかではない、ただ、自分の内側から湧き上がってくるエネルギーを思う存分に出し切ること。その姿勢に、その生命力に、まるで【自分の命も共鳴している】ような嬉しさを覚えるのだろう。この生命力は、あるひとにはあるけれど、ないひとにはないという類のものではない。生きている限り、すべてのひとに備わっている本来的な「生きようとする力」だと思う。

生きる力を爆発させること。自分の力を誰かに預けてしまうのではなく、誰かに自分の人生をどうにかしてもらうことを期待するのではなく、自分には既に力があるのだと思い出すこと。不安を軸に動くのではなく、身体が感じる喜びを軸に動くこと。自分の胸を高鳴らせるものに出逢った時は、時期を選ばず、場所を選ばず、結果に対する執着を振り払って、そのままの姿で突き進むこと。閉塞感や停滞感を突破するものは「俺はやった」時に感じる清々しさ、潔さだと思う。

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人生は続く。

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わがままこそ最高の美徳。

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最高のロケーションに恵まれている熱海の自宅に戻ったものの、早くも「何かをしたい…ゆっくりするのは老後でもいい…」とソワソワしている。小学生の頃、ムライ君という友達がいた。みんなでムライ君の家に集合してファミコンをやることが大好きだったのだけれど、朝9時前にお家にお邪魔をするのはダメだと親から止められていたので、8時頃から「早く9時になれ…早く9時になれ…」とソワソワしていたことを思い出した。


明日から東京に足を運び、そのまま大阪に向かいます。隙間時間や11日以降は時間に余裕があるので、何かあれば誰でも気軽にご連絡ください。と、ここまで書いていた時に、自分の人生を大きく急展開させるようなハプニングのお知らせが届いた。なんでもない日が、一転、とんでもない日になってしまった。私には、たぶん、こういう出来事を【穏やかな日々を望みながらも】歓迎している節がある。

無料の喫茶店をやりたい。


数ヶ月前、Twitterから「図書館みたいな、宿泊施設も兼ねる喫茶店のようなものをやりたい」という投稿をした。基本的な使用料金は完全に無料で、珈琲も無料、料理も無料、欲しい本があれば自由に持って行ってOKで、返却の必要もない。場合によっては宿泊も可能、なんなら泊まってくれたひとには百円あげちゃうくらいの、そういう場所を作りたいと思っていた。

月日は流れ、熱海に家を持ち、気がつけば「わたり食堂【0円食堂】」という名前で、上記のような循環型の催しを実験的に試していた。いま、熱海を離れる機会も増えて、正直に言えば「もっとこの家を有効に活用できたらいいなあ」と思っていた。そういうことを親愛なる女性に話したら、わたり食堂をイベントとしてではなくお店としてやってしまえばいいじゃないですかという提案をもらった。


それもありなのかもしれない、と思う。誤解を恐れずにいうと、家も金も仕事もなかった人間が死なずに生きてこれたのは「ストックはないけどフローはある」からだと思っていて、これを坂爪圭吾という個人だけではなく、お店という目に見えるものにも適用してみたときに、どのような反応が起きるのか(そもそもで成り立つのか)ということに、最近、再び興味を抱くようになった。


自宅を開放するリスクと魔法。

現在も、基本的に熱海の自宅は開放されているために、不定期で様々な人が訪れる。というようなことを話すと、頻繁に「危ない目にあったことはないのですか?」と尋ねられる。危ない目にあったことはそれほどなく、朝、7時半頃に目覚めたら隣に40代の女性がいて「おはようございます」と言われてビビったことがある程度だ。

私が海外などにいっている時は、過去に出会った方から「熱海でゆっくりしたいので使わせてもらってもいいですか」という連絡が届き、自由に、好き勝手に使ってもらっている。あるひとは友達を呼んで宴会を開き、あるひとは都心の喧騒を離れて瞑想をするために、あるひとは制作に集中するためのアトリエとして活用したりしている(らしい)。久しぶりに熱海に帰ると、家を出る時にはなかったはずの食材や調味料や酒類などが追加されていて「魔法みたいだ!」と思う。

家には「みんなの財布」といって、誰でも自由に使える財布が常設されている。別に大した金額がはいっている訳でもないのだけれど、家に帰るたびに、財布の中身が(家を出た時よりも減っているのではなく)増えていることに驚く。金銭に限らず、クオカードなどの商品券や、ハーゲンダッツの引換券や、熱海駅までのバスの回数券などが追加されていて「魔法みたいだ!(再録)」と思う。

奇跡は余白に舞い込む。

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無用の用という言葉がある。使い方は間違っているけれど、余白があるからこそ(自分で用途を限定しないからこそ)舞い降りてくる奇跡がある。自分の想像を超えた出来事、自分の狭い知識の範囲を飄々と飛び越えてくれる出来事に遭遇したとき、私は、なんだかとてもうれしくなる。人生ってこんなこともあるのか!と、自分の目の前に起きていることを楽しんでいる。

もちろん、余白の中には「これはちょっと歓迎できないな!」というようなことも舞い込んでくる。お金が増えることもあればお金が減ることもあるし、部屋が綺麗になることもあれば部屋が汚くなることもあるし、朝7時半に起きてみると隣に(夜にはいなかったはずの)女性が座っていたりすることもある。

私としても「自由にしてください」と公言している手前、引くに引けない場面がある。正直に言えば「それはないでしょー!」とも思っているけれど、同時に、あんた、よく、そういうことができるもんだねえという感動も覚えている。そういう時は、もう、自由のどすこい相撲である。お前に自由があるように、俺にだって自由があるんだぜ、と、相手以上の自由を行使することで乗り越えてきた。

『わがままこそ最高の美徳』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ヘルマン・ヘッセ著作『わがままこそ最高の美徳』です。タイトルだけで充分に素晴らしいので、読まずとも本棚に並べておくだけでグッドなフィーリングです。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、クアラルンプールにわたりました ※※※

人生の下劣さに対抗する最良の武器は、勇気と、わがままと、忍耐です。勇気は私たちを強くし、わがままは愉しさを生み出し、忍耐は平安をもたらしてくれます。ー ヘルマン・ヘッセ『わがままこそ最高の美徳』【草思社


「正しさ」より「楽しさ」

ほんとうはもっと違うことが書きたかったのだけれど、さきほどのハプニングが原因で、平静さを完全にロストしてしまった。何が言いたいのかというと、無料の喫茶店的なサムシングをやってみたいので興味のある方は一緒にやりましょう!ということと、いままでにないやり方で何かを開放してみた時、思いもかけない(良いも悪いもまるごとひっくるめて)面白い目にあえることがあるということです。


生きているといろいろなことがある。そういう時、過去の自分の言葉に支えられることがある。自分の力で「どうにきゃしなきゃ!」と肩肘を張ってしまうこともあるけれど、しかし、人生の大半は「【自分の力を超えた所で】どうにかなってしまう」ものなのだろう。それならば、大切なことは(人生を心配するのではなく)人生を信頼して身を委ねることだ。案じるなかれ、産むが易しのマインドだ。


熱海に戻ったら、手紙が届いていた。読み終えた時に、嬉しさを覚えた。多分、楽しさには二種類ある。楽しいけれど「虚しい」時と、楽しい上に「嬉しい」時の二種類だ。ほんとうの楽しさの中には「(そのひとと出会えたこと・新しい自分自身と出会えたことの)嬉しさ」がある。表面的には過酷に見えることでも、心の底では「いよいよきたか…(ゴクリ)」と高鳴る胸の鼓動を感じている。ひとのこころを動かすものは、正しさよりも「楽しさ」だ。


こんにちは。そろそろ熱海のご自宅へ戻られた頃でしょうか?先日、といってもしばらく経ってしまいましたが、わたり文庫で銀色夏生さんの「夏の森」を送って頂いた○○です。わたり文庫、ほんとうにありがとうございました。お花や、葉っぱの手紙や、いろいろ一緒にはいっていて受け取って嬉しくてたまらなくなりました。夏の森、読んでいます。銀色夏生さんの本はたくさんは読んでいないのですが、「とにかく あてもなくても このドアをあけようよ」という詩集が大好きで、でも「夏の森」もやっぱりすごくいいなと思いました。詩集というのは他のものでもそうかもしれませんが、読む時によって書いてある言葉の受け取り方や、心に響く言葉が変わってくるのがすごくおもしろいというか、不思議だなあと思います。雨ふりの午後にゆっくりと読みたくなる本だなと思いました。またこの本もわたらせていけたらなと思います。

そして、ブログをいつも読ませて頂いて、元気というか「あ、これでいいんだ」「私でいいんだ」感をいつもたくさんもらっています。どうしたらいいのかつまった時、すごく孤独を感じている時、おもしろみを感じられない時。そんなときにブログを読むと、ふと私の中の根本の自分にかえっていくような気がするのです。そこにはどっしりと構えてる自分がいて、その自分を発見すると、ああ、別にこれでいいんだと安心する。全然うまく言えませんが。そして、少し新しい考え方や感じ方も出てきて、現状は何も変わってなくても、なんか前に進んでいる気もする。本当に、いつも、ありがとうございます。

これからも体にはご慈愛していただきながら、坂爪さんのますますの「生」を、ブログ等を通じて感じさせてください。

いよいよ夏がやってきますね!!










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人生は続く。

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坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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命よ、踊れ。

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熊本を経由して大阪にはいり、いま、熱海に向かう東海道新幹線の車内からブログ記事を更新している。7日(木)七夕には、東京の国立市で開催されるお話会に登壇(?)することになった。誰でも参加できる内容になりますので、気軽に遊びにいらしてください。


久しぶりに熱海に戻るために、いま、胸が高鳴っている。庭の花はどうなっているだろうか。家を出る前に蒔いた種は、芽を出しているだろうか。近所のおばあちゃんや野良猫たちや野良猿たちは、元気に暮らしているだろうか。海は、空は、山は、川は、さえずる鳥の鳴き声は、いまも変わらず綺麗だろうか。たったそれだけのことを考えるだけで、いま、胸が高鳴っている。

帰る場所があるということ。

静岡県熱海市にある伊豆山に家を用意してもらったのが昨年の12月末、それから、わたしにも帰りたいと思える場所ができた。およそ2年間に及ぶ『家のない生活』をしていた私にとって、風呂があること、トイレがあること、布団があること、食器があること、屋根があること、これらのすべてがひたすらにありがたかった。

家のない生活をしていた頃は、帰る場所がないことは日常茶飯事だった。家のない生活の最大の弱点は「横になれないこと」であり、私は、適当なカフェや公園やカラオケボックスを見つけては、こまめに休憩を取るようにしていた。ひとつの用事を済ませては、また次の用事を済ませるために必要なエネルギーを適当な場所で充電する、その繰り返しの日々を過ごしていた。

当たり前のことだけれど、このような生き方をしている限り「まとまった疲れを取る時間」というものを確保することはできない。だからなのだろうか、当時の私の身体は、いま以上に常に緊張状態に置かれていて、ほんとうの意味でリラックスをできるような瞬間は、多分、皆無だったのだと思う。

ああ、自分はつらかったんだな。

当時の自分にとって、家がないことは「当たり前の日常であり、悲しいことでもなければ苦しいことでもなく、ただ、家がないというだけのことだ」と思っていた。これは決して強がっている訳ではなく、当時の私の、偽りのない実感になる。しかし、実際に帰る場所を与えられたいま、当時の自分を振り返りながら「よくもまあ、2年間もやったものだ」と思う。いま、再び同じことをやれと言われても、胸を張って「やりたくありません」と言う。

家が与えられて間もない頃、風呂に感謝をし、トイレに感謝をし、布団や食器や屋根があることにひたすら感謝をしていた時、ふと、ああ、おれはずっとつらかったんだなという言葉が口を出た。特に何かを思って言った訳ではない、ただ、思うよりも先に、自然に口から言葉がこぼれて来た。すると、自分でも何が起きているのかもわからないまま、どんどん、どんどん、おさえることのできない涙がこぼれてきた。

ああ、自分はずっとつらかったんだなという言葉は、自分でも意識することのなかった心の深い所にある【置き去りにされていた感情】を掬い上げ、涙となり、おさえても、おさえても、おさえることのできない結晶となって、私の瞳からこぼれてきた。自分では平気なつもりでいたことでさえ、心の深いところでは、確実に自分を傷つけていたのだということを、涙を通じて、私は思い知らされた。

忘れたものを探すため。

熱海に戻ったら、庭の花たちに水をやろう。玄関の前の掃除をしよう。夏に備えて扇風機を探そう。手紙の返事を書こう。鳥の鳴き声に耳をすませよう。天気が良ければ、海に行こう。ひとりきりでも泳いでみよう。帰り道には温泉に寄ろう。馴染みの飲食店で、馴染みのメニューを注文しよう。夜になったら、ギターを弾こう。読書をしよう。日記を書こう。それにも飽きたら、窓を開けて、星空を眺めながら、虫の音でも聴きながら、布団の中でゆっくりと眠ろう。

なんでもない当たり前の生活を思うときに、ああ、当たり前の生活のなかには、こんなにもカラフルな幸せがあるのだということを、何度も何度も忘れては、何度も何度も思い出す。それならば、これだけ大好きだと思える場所がありながら、なぜ、私はこの場所を離れてどこか別の場所へと、懲りることなく足を運ぶのだろうか。それは、もしかしたら「忘れたものを探すため」なのかもしれないと思う。

生きている限り、ひとは何かを忘れてしまうし、ひとは何かを失っていく。しかし、失うことと、忘れることは違う。失ったものを取り戻すことはできないけれど、忘れてしまっただけのことならば、何度でも思い出すことができる。どこか遠くにあるものを探しに行くのではなく、いまここにあるもの、すでに備わっていることを思い出すために、私は、いまいる場所を離れようとするのかもしれない。

『悲しみの秘儀』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、若松英輔著作『悲しみの秘儀』です。こちらの本は、数日前に博多駅前で野垂れ死にかけていたときに、避難所として駆け込んだ紀伊国屋書店で購買した(そして見事に復活を果たした)、奇跡の一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、石川県にわたりました ※※※

かつて日本人は、「かなし」を、「悲し」だけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。悲しみにはいつも、愛しむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことができない何かが宿っている。人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているのかもしれない。 ー 若松英輔「悲しみの秘儀(表紙帯の文章より)」【ナナロク社】


命は踊りたがっている。

私の母親は山形県の小国町という雪国の出身で、小さな頃、雪が降る度に「冬が長ければ長いほど、春を喜ぶことができる」ということを口にしていた。最近、このフレーズを頻繁に思い出す。悲しみを通過しなければ、苦しみを通過しなければ得られない喜びが、きっと、この世界にはたくさんある。




ここ数日間は、個人的にも厳しい時期が続いていた。そのすべてを綴ることはできないけれど、悲しみが深ければ深い分だけ、苦しみが深ければ深い分だけ、自然の雄大な営みが、美しい音楽の旋律が、すれ違うひとの優しさが、いつも以上に身に沁みることがある。時には「ああ」と言葉を失うほどに、時には涙が出そうになるほどに、疲れていたはずの命が、枯れ果てていたはずの命が、再び踊りだす感覚を覚えることがある。




冬のような時期が続いたとしても、季節が春を運ぶように、命は踊りたがっている。どれだけ厳しい状況に置かれたとしても、どれだけ苦しい状況に置かれたとしても、この命は、ひとつの小さな生命は、どうしようもなく生きたがっている。海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を、自分の中にある生命を、最期の瞬間まで護り抜きたいと思う。




命よ、踊れ。


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人生は続く。

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生き方の是非を問うことよりも。

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福岡県を経由して大分市内にはいったものの、宿泊を予定していた場所との相性が合わず「誠に申し訳ありませんが、私は、ここにいられるほど強くはないみたいです」という断絶魔をあげ、真っ暗闇の大分市内を3時間程度ぶらついた後にカプセルホテルに漂着した。

画像は、愛媛県在住の方から送っていただいたものになる。自分の目の前に広がる風景の写真をやり取りできる相手がいることはうれしい。現在の大分市内は土砂降りの大荒れで、これから、熊本在住の方々がはるばる大分市内まで車で迎えに来てくれることになっている。熊本に足を運んだ後は大阪に向かい、大阪の予定を終えた後は熱海の自宅に戻る予定でいる。

答えよりも「応え」

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先日、警固神社で開催されたイベントには50名近くものひとたちが集まってくれた。頻繁に受ける質問に「何が転機になったのですか?」とか「どうすれば勇気を持てますか?」とか「不安になることはないのですか?」というものがある。私は、転機とか勇気とか不安という言葉を、あまり意識して行動を起こしたことがない。正直に言えば、そんなことはどうでもいいんじゃないだろうかと思う。

大人は、転機とか勇気とか不安とか成長とかいう言葉が大好きで、転機があるからできた、勇気があるからできた、不安を乗り越えることができたから成長した、みたいな物語を好む。だけど、こどもたちはそんな言葉を飛び越えて、懲りることのない体当たりを続けながら、泣きながら、笑いながら、平気で逞しくなっていく。転機とか勇気とか不安とか成長とか、そういう類の言葉は「振り向いた時、気がつけば勝手に身についていたもの」に過ぎず、目的にするようなものではないと思う。


大切なことは、答えではなく「応え」だと思う。日々に答えを求めるのではなく、日々の問いに真摯に応えようとすることの中に、その姿に、そのひと自身の光は宿るのだと思う。答えがあるからやれたのではなく、答えはないけどやる、やりたいと思ったからやる、自分の内側から湧き出してくる静かな衝動に「応える」姿に、結果として宿る(周囲から見ると宿っているように映る)ものが、勇気や成長や自信と呼ばれるものになるのだと思う。

いまを生きることしかできない弱さ。

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私は、過去に大学を辞めている。最大の理由は「ここにいたら自分がダメになる気がしたから」という非常に後ろ向きなものであり、大学を辞めてでもやりたいと思う何かがあった訳ではない。大学を辞めると告げた時、周囲のひとからは「もったいない」とか「親に迷惑をかける」とか「逃げているだけだ」とか「これからどうするつもりなんだ」とか、他にも、様々なことを言われた記憶がある。


大分の家を飛び出した時、私は、大学を辞めた当時のことを思い出していた。連続する移動を続ける私は、どこか行きたい場所があるから積極的に移動をする訳ではなく、ここにいることができないから、ここにいたら自分はダメになってしまうから、移動を続けているだけなのではないだろうかという疑問が脳裏をよぎり、この疑問は、自分の腑に落ちていった。


いまを生きることができるのは強さではなく、いまを生きることしかできない弱さに、私は支えられているのだと思う。弱さは「このままでは自分がダメになる」という危険信号を頻繁に発して、私に、移動することを促す。ここにいたら、ここにいた時間の分だけ、ここにいるひとたちのことを嫌いになってしまう。自分と自分が苦手とする空間は混ざり合い、自分で自分を護ることができなくなってしまう。できるだけ早く、自分を殺してしまうことよりも早く、いまいる場所を移動することを促す。

良寛の生きかた』

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、松本市著作『ヘタな人生論より良寛の生きかた【河出文庫】』です。タイトルは微妙ですが、自らを大愚と名乗り、生涯無一物で生きた良寛和尚の入門書としては非常に読み易い一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

形見とて何残すらむ春は花
夏ほととぎす秋は紅葉ば(『良寛全歌集』一〇五九)

訳)わたしが亡くなった後の思い出の品として、残せるものは何もない。しかし、春は梅や桜の花が咲き、夏はホトトギスの鳴き声がある。秋はもみじの葉がひらひらと散る。わたしの死後も自然はなお美しい。これがただ、わたしがこの世に残す形見になってくれるだろう。


生き方の是非を問うことよりも。

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俺はいったい何をやっているのだろうと思うことがある。自分で好き好んで「誰にでも会います」などとオープンにしておきながら、行き着いた先でボロボロになったり勝手に孤独を感じたり夜道を3時間歩きながら和田アキ子あの鐘を鳴らすのはあなた(「あなたには希望の匂いがする」の歌詞が秀逸!)」を道路のど真ん中で歌いながら、自分を励ましたりしている。


ただ、このような生き方をする人間にでさえ、自然は分け隔てなく(時に絶妙なタイミングで)様々な恩恵を与えてくれる。夜道を歩いていた時、東京から一通のメールが届いた。自分には何もないと感じている時、自分はダメだなあと感じている時、自然の素晴らしさ、音楽の美しさ、ひとの優しさは身に染みる。緊張していた何かが緩み、ああ、自分はこういうものに支えられてきたのだということを取り戻す。


自分で「どうにかしなきゃ!」と肩肘を張ってしまうこともあるけれど、人生の大半は「【自分の力を超えた所で】どうにかなってしまう」ものなのだと思う。生き方に答えはないのだから、きっと、生き方に間違いもないのだ。それならば、自分の生き方の是非を問うことよりも、自分の生き方の眼前に広がる風光明媚な瞬間を、しっかりと捉えていきたいと思う。



初めまして。
Facebookでフォローさせていただいてます。
○○と申します。
いつもブログを拝見していて、感じたことをお伝えしたくなるのですが、ふと、思い立ってメールさせていただいてます。

坂爪さんのブログを読むと、いつも、「生きてる」って思います。
坂爪さんも、私も。
坂爪さんの言葉は、坂爪さんのものだけれど、私のものの時もあります。
そういう時、私は
「こういう風に感じ、考えるのは私だけじゃなかった」
と嬉しく思うし
「その感じ、考えをこう表現できるのはすごい」
とも思います。
そして、そう感じながら坂爪さんのブログを読んでいる人は、きっと他にもいて、それを思うと、なんだかにやりと不思議な気持ちになったりもします。

今日の東京は少し冷たい雨が降っています。
坂爪さんがいらっしゃるところは、どんなお天気なのでしょうか。

これからもブログ、楽しみにしています。
坂爪さんの生き様、楽しみにしています。
私も、今日も明日も生きていきます。


○○○○○


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人生は続く。

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讃められるために生きている訳じゃない。

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バンコクを経由して福岡県にはいり、今宿、福間、宗像、久留米を訪れた後に、天神に来た。今夜は、警固神社で開催されるイベントに登壇する。稀に、イベントなどに登壇すると「どうしたら、坂爪さんのようになれますか」という質問を受ける。誤解を恐れずに言うと、私は、このようなことを聞かれると非常に困る。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・「自分みたいになれ」とは思わない。


私は、自分以外の誰かに「自分みたいになれ」とは思わない。自分と同じであることを強要したいとも思わないし、家を捨てる必要もなければ、文章を綴る必要もないし、自分の存在をオープンにする必要もなければ、意味もない移動を繰り返す必要もない。ただ、坂爪圭吾が坂爪圭吾であるように、あなたにはあなたでいて欲しいと思う。

2・私は「触媒」でありたい。


大切なことは、私の話ではなく、私の話を通じて引き出される「あなた自身の話」だと思っている。私が言葉を綴るとき、私が人前に出て話をするとき、決して「自分みたいになれ」とは思わない。私が私であるように、あなたはあなたでいて欲しいと思っている。私は触媒でありたい。私の話を通じて引き出される「あなた自身の話」を聞きたいと思っている。

3・自分の宝を互いに掘り合う。


私にとって、私の話は「内側の話」になる。しかし、あなたにとって私の話は「外側の話」のひとつに過ぎない。私が触媒でありたいと思う最大の理由は、答えは、自分の内側にあるということを信じるからだ。あなたの答えはあなた自身の内側にあるものであり、私の中に、あなたの答えはない。私はひとつの触媒で、触媒を通じて出てくる自分自身こそが宝の地図であり、掘るべき対象だと思っている。

4・自分の中にある「尊い部分」の声を聞くこと。


誰か偉い(偉いとされている)ひとの話をありがたがって聞くような時代は、もう、終わりにしたいと思う。他人とは、多分、模範するべき対象ではない。自分を確かめるためにある「鏡」のようなものだと思う。大切なことは、他人を通じて引き出されてくる、自分の中にある『尊い部分』の声を聞くこと、自分の中にある『美しい部分』の声を聞くことだ。

5・鏡は、濁りの少ない方がいい。


鏡は、濁りの少ない方がいい。

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6・私は、まだ自分の生き方に名前を与えていない。


二年間ほど家のない生活をして、その模様をブログに書いた。読者は徐々に増え、日本全国や海外からも声がかかるようになり、私は、その日々の中で感じたことを言葉に残した。ひとは私を、詩人だという。哲学者だという。芸術家だという。旅人だという。浮浪者だという。ロックだという。ゴミのような人間だという。様々な名前で私を呼ぶが、私は、まだ自分の生き方に名前を与えていない。

7・自分以上も、以下もない。


初対面の人間から、普段は何をしているひとなのかと尋ねられても、自分を表現する言葉が何もない。私は私であり、それ以上でもなければ、それ以下でもない。「ただ、生きている」というそれだけのことになるが、そんなことを言っても相手を困らせるだけだから、私は、何も言えないままに黙ることが多い。何も伝える言葉を持たない時は、ただ、沈黙を守るしかない。

8・「無」に賭ける。


多くのひとびとが何者かになろうとするなかで、何者でもないことに賭ける。「無」に賭ける。ここ数年間の自分の生き方は、これに集約される気がしている。有為より無為に、意味より無意味に、利益より無利益に、所有より無所有に、価値より無価値に、自己より無自己の中に、自身の拠り所を見出してきたような気がしている。

9・自分みたいになるな。


やがて、家のない生活はピリオドを迎えることになったが、遍歴は続く。夢はない。目標もない。答えもなく、問いもない。常に途上にいる。過去もない、未来もない、あるのはこの瞬間だけ。私は、自分みたいになれとは思わない。真逆で、自分みたいにはなるなとは思っている。

『村に火をつけ、白痴になれ』

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日本に戻ったので、わたり文庫【循環型の図書館】を再開します。今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、栗原康著作『村に火をつけ、白痴になれ(伊藤野枝伝)』です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

私のすべては唯屈従です。人は私をおとなしいとほめてくれます。やさしいとほめてくれます。私がどんなに苦しんでいるかも知らないでね。私はそれを聞くといやな気持ちです。ですけど不思議にも私はますますおとなしくならざるを得ません。やさしくならずにはいられません。
私には1日だって、今日こそ自分の日だと思って、幸福を感じた日は一日もありません。私は私のかぶっている殻をいやだいやだと思いながらそれにかじりついて、それにいじめられながら死ぬのです。私にはいつまでもその殻がつきまといます。それに身動きがとれないのです。
あなたは何にも拘束されない強者として活きてください。それだけがお願いです。屈従ということは、本当に自覚ある者のやることじゃありません。私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願いします。忘れないでください。他人に讃められるということは何にもならないのです。自分の血を絞り肉をそいでさえいれば人は皆よろこびます。ほめます。ほめられることが生きがいのあることでないということを忘れないでください。何人でも執着を持ってはいけません。ただ自身に対してだけは全ての執着を集めてからみつけてお置きなさい。私のいうことはそれだけです。私は、もう何にも考えません。 ー 村に火をつけ、白痴になれ【岩波書店


10・讃められるために生きている訳じゃない。


日本に戻り、一番最初に購買したものは、100円ショップの小さなしょうがすりおろし器だった。私はしょうがを愛している。移動中も自由にしょうがのすりおろしを楽しむことができたら健康にも良いし最高だ!と思い、数日前からネットで適当なしょうがすりおろし器を探しては「これが欲しい!」とか「こんなものもあるのか!」と、興奮と熱狂の渦に溺れていた。

福岡では、飛行機の遅延と怒涛のスケジューリングにより睡眠不足に陥り、軽いグロッキー状態に置かれていた。しかし、しょうがのことを考えている時間(あとは花を眺めている時間)だけは、どれだけ疲れていても多幸感を覚えることができた。そして、天神ロフトの調理器具コーナーに足を運んだ瞬間は、まるで天国のお花畑にいるかのような気持ちになった。

結果的に、100円ショップにあるものが何よりもベストだったために、それを購買した。しょうがすりおろし器を探している時間、しょうがすりおろし器で何を作ろうかと考えている時間、しょうがすりおろし器を実際に購買した瞬間は、揺るぎない喜びに溢れていた。私が欲しいと願うものは、過去も未来も吹き飛ばす、圧倒的な【この瞬間】のことなのだと思う。

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人生は続く。

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瞬間をぶちまけて輝くこと。

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バンガロールからバンコクを経由してチェンマイにはいり、ミニバンに揺られること3時間強(値段は150バーツと非常に安価)、タイの北西部にあるパーイという小さな町に来た。山道を抜けるために爆裂に揺れるとは聞いていたが、見事に過酷で、乗客の過半数近くは車内でリバースをしていた。助手席を陣取ることで揺れの軽減に成功した私は、比較的軽度のダメージで事なきを得た。

変なことを考えていたら、酔った。

3時間強の道程の途中、日本でいう「道の駅」的な山中の小屋で、20分程度の休憩が入る。そこにはWi-Fiが飛んでいたために、インターネットを接続したところ、ジャストタイミングで(まだ会ったことのないひとから)一件のクレームが届いた。そこには「前にLINEを送ったのに、既読スルーをするのはなぜか」というようなことが書かれていた。

いただいたメールにはすべて目を通していて、自然の恵みを前に「ありがてぇ、ありがてぇ」と昔の農民がひざまずくような感覚で、私も、メールを前に「ありがてぇ、ありがてぇ」とひざまずいている。しかし、メールの返信が非常に苦手な私は、ほとんどのメールに返信をできていない。そんな私を許容してくれるひととは良好な関係を築けるものの、許容できないひとたちから定期的にお叱りを受ける。

クレームが届くと、正直、心中は穏やかではなくなる。休憩時間が終わったあとも、パーイに向かう車内で「このようなひとには、どのように対応するのがベストなのか」ということを考えていたら、なんということだろう、(前半戦はまったくの無傷で「余裕だぜ!」と思っていたはずの私が)酔った。変なことを考えはじめてから、精神状態が乱れ、軽い車酔いをしてしまったのだ。

「BUT, I LOVE YOU」の魔法。

このままではいけないと思った私は、この、不穏な感覚(クレームに対する精神状態の乱れ)に、一刻も早くピリオドを打たなければいけないと思った。そこで思い浮かんだ妙案が、過去のブログ記事で書いた「こころのなかでひたすら相手を罵倒した後に、最後に『BUT, I LOVE YOU【でも、愛しているよ】』とささやく」というものだった。


誰も傷つけることのない、クレームに対する優等生的な対応ができるのであれば、それに越したことはないのだと思う。しかし、私のような器の小さい人間は、正しさを追求するほどに、必ず何処かで無理が出る。そんな時は、ひたすら相手の責任にするに限る。「これだけメールが届いているのに、毎回返事ができる訳がないだろーが!バカ!」と、逆切れをかますに限る。

ひとしきり逆切れをかました後、最後の最後に「BUT, I LOVE YOU【でも、愛しているよ】」で締めくくった私の精神はアルカイックな安定感を取り戻し、その後の車内は「私は川。私は清らかな川。さらさら流れる新緑の小川」と自らに暗示をかけて清流に擬態をした私は、抗わず、濁らず、揺れに身をまかせる(あとは「鼻呼吸」に集中する)ことによって酔いも収まり、無事にパーイに到着をした。

美しい街「パーイ」


パーイの街並みは非常に素晴らしく、物価も安価で、自然に溢れ、アーティストの移住者も多いためにお洒落な雑貨が立ち並び、観光地にありがちな勧誘行為を目にすることもない。オートバイもレンタルも1日300円程度からと破格で、滝や、洞窟や、天然の温泉もあり、街全体を一周するのに1時間もかからない。

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宿泊先のコテージは自然のど真ん中にあり、

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見渡す限りの、山と、森が広がっている。

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マンゴーは五個で100円程度。ドラゴンフルーツは五個で150円程度。宿泊代は1000円程度。私は、目の前に広がる雄大な自然を眺めながら、ひたすら南国の果物を(ナイフがないので手で剥きながら)摂取し続けていた。何もない、何もしないということが、時には最高の贅沢になるということを思う。雲が流れるように、時間がゆっくりと流れている。

ひとは、幸せなときに誰かを批判したいとは思わない。

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パーイの街並みを眺めながら、天然の温泉に浸かりながら、自然に溢れた風景のど真ん中に身を置きながら、「ひとは幸せなときに、誰かを批判したいとは思わないだろう」ということを思った。自分が批判的になっているとき、自分が懐疑的になっているとき、自分が「あまり好きではない自分」になってしまっているとき、私は、自分の中にある種の攻撃性が宿るように感じている。

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誤解を恐れずに言うと、常に不平不満に溢れているようなひとは、常に攻撃できる対象を探しているようなひとは、あまり幸せではないのだろうなと思う。私は弱い人間なので、一緒にいるひとのエネルギーをダイレクトに受け取ってしまう。常に不満に溢れているひとと一緒にいると、こちらまで不幸せな気持ちになる。いまの自分にはまだ、そういうひとと同じ時間を過ごしている余裕はない。

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ただ、同時に「もしも、そういうひとたちとこうした景色を共有できたなら、こうした体験を共有することができたなら、そのひとたちともよろこびを分かち合えるのではないだろうか」と感じることもある。不穏な感情や誹謗中傷などの攻撃性は、形を変えたSOSであることが多い。生まれてきてよかったと感じる幸せに触れてみたいと乞い願う、そのひと自身のこころの叫びであることが多い。

瞬間をぶちまけて輝くこと。

素晴らしい風景を目にしたとき、美しい時間を過ごしたとき、私達は、いつまでもその瞬間を忘れないでいられるように、写真に収めたり、言葉に残したり、自分のこころに焼き付けようとする。それでも、その瞬間が、その刹那が、素晴らしいものであればあるほどに、写真には収められないということを、とてもじゃないけれど言葉にすることはできないのだということを、同時に思う。


自然やこどもの生き様に感動を覚えるのは、それらが「瞬間にすべてを凝縮している」からなのだと思う。過去でもない、未来でもない、ただ、この瞬間に自分の生命をぶちまけて輝いている。思い煩うこともない。出し惜しみをすることもない。その姿を目にした時に、ああ、自分はいまをしっかりと生きていなかったのだということを、そして、自分もこんな風に生きられたらということを思う。


時間にも、命にも、限界がある。限界があるからこそ、いまあるものに輝きが宿る。生きているということは、瞬間【力】を持つということだ。瞬間をぶちまけて輝くことができる、その可能性を誰もがすでに持っているということだ。自分を磨り減らすような比較や競争からは距離を置き、絶対的な自分に集中すること。生きているということは、瞬間をぶちまけて輝くことができるということだ。


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人生は続く。

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