いばや通信

ibaya《いばや》共同代表・坂爪圭吾のブログです。

生きる力を爆発させること。

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東京と大阪と京都で開催されたイベントを経由して、いま、京都の出町柳にいる。様々な人種のひとたちと出会う日々の中にいると、稀に、相手の邪気をモロに受け取って除草剤を撒かれた草みたいな気持ちになる。しかし、今回は久しぶりに行動を共にしているみっつの存在に救われた。みっつがいなければ、今頃、私は鴨川を揺蕩う水死体になっていたかもしれない。


このままの流れで、7月11日(火)からみっつと一緒にマレーシアのクアラルンプールを経由して、ベトナムホーチミンに行きます。その後の予定は未定ですが、7月22日(金)の夜にタイのバンコクから成田に戻るまでの間、基本的に暇をしています。奇跡的にお会いできる方がいらっしゃいましたら、気軽にご連絡いただければ嬉しいです。


最近思うことあれこれをまとめます。

1・アドバイスの裏側にある嘘。


稀に、何かあるとすぐに(頼まれてもいないのに)アドバイスをしたがるひとと出会う。誤解を恐れずに言うと、私は、説教やアドバイスをしたがるひとが嫌いだ。アドバイスとは、要するに「俺みたいになれ」ということになるのだと思う。その態度に、その自惚れに、ある種の傲慢さ【お前はひとにアドバイスをできるほど、偉い人間なのか?という疑問】を感じてしまうのだと思う。自分を偉いと思っているひとに、多分、偉いひとはいない。

2・人間関係の不幸の原因の9割は「過干渉(余計な御世話)」


聞く方も、聞く方で、様々な人の意見に思い切り惑わされているのを見ることが多い。ひとの意見を聞くことも時には大事だとは思うが、でも、何よりも大事なことは「自分の声」を聞くことではないだろうか。極論、自分が「ああ、自分はこのひとのことが大好きだ!」と感じるひと以外の声は、聞かない方がいいと思う。他人にアドバイスをしたがるひとほど、単純に、承認欲求に飢えている【そのひと自身があまり幸せではない】だけの場合が多い。

3・怒りの裏側には甘えがある。


何かあると、すぐに怒り出すひとがいる。怒りの裏側には「現実が思う通りにならないことが許せない、そのひと自身の幼児的な甘え」があるような気がする。多くの場合は、両親との関係で長年患っている一悶着があって、未だにその心理的な問題【本当は抱き締めてもらいたかった的なサムシング】が解決できていないのだと思う。私は、怒りの感情に触れるのが苦手なために、即座に逃げる。これはこのひと自身の問題であって、【例え自分が怒られていたとしても】自分の問題ではないのだと認定して、逃げる。

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4・大阪の居酒屋にて。


関西在住のYさんから、もし良かったら会えませんかと連絡をもらい、大阪の居酒屋で初対面を果たした。Yさんは、自分ひとりだけで話を聞くのもあれだと思ったそうで、友達二人にも声をかけた。そのため、私のことをよく知っているYさんと、私のことは何も知らないけれどとりあえずYさんに呼ばれたから来たという女性二人と、私を含めて四人でご飯を食べることになった。

5・愛情か、打算か。


私は、タクシードライバーや飲食店の従業員などに冷たく対応するひとが嫌いだ。Yさんの友達がそういう感じのひとで、私は、露骨に機嫌が悪くなってしまった。しかし、理性では「いかん!いかん!初対面のひとを前に、こんなことで機嫌を悪くしているようではダメだ!」と思ったので、頑張って自分のご機嫌を伺ってはみたけれど、ダメなものはダメだった。潔く、嫌われてしまおうと思った私は無口になり、早々とその場を退散した。

6・自信よりも「自分」


帰り際、Yさんに「なぜ、この二人を呼んだのですか」と尋ねた。Yさんの人柄は非常に柔和で素晴らしく、多分、二人きりで出会っていたらしっかりと話をすることができた気がした。私は、勝手に「Yさんは、もしかしたら自分に自信がないのかもしれない。だから、自分ひとりで坂爪さんの時間を奪うのは申し訳ないから、友達を呼んで少しでも誰かの役に立てばいいなとか思っているんじゃないのだろうか」と勘繰って、その旨を伝えた。

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7・対等に話がしたいだけだ。


Yさんは「そうです」と答えた。私は、では、今度はタイマン勝負で会いましょうと言った。そして「お願いだから、自分のことを低く見積もらないでください。あなたが自分のことを卑下するほどに、あなたが私のことを褒めるほどに、私とあなたの間に距離が生まれる。距離が生まれるほどに、この場が退屈なものになる。私の願いは、あなたと対等に話をすることです。私は、褒められたくて来た訳じゃないし、接待を受けたくて来た訳じゃない、ただ、あなたと対等に話がしたいだけだ」という旨を伝えた。

8・瞬間を肯定する。


うまく伝えられたのかはわからないが、私は、自分が感じたことのすべてを出し切ることができたので、心残りは何もなかった。その時自分が感じたことを、無様でも、不器用でも、溜め込むことなく自分の外側に出し切ること。私には、出し切るということがとても大事なことなのだと思う。言いたいことを言う、やりたいことをやる、それができた時に感じる清々しさの中には「瞬間を肯定する」力がある。

9・全身全霊のカメハメ波。


溜め込まないこと。出し切ること。言いたいことがあるならば、やりたいことがあるならば、他人にどう思われるかということは一回無視して、自分の外側に出し切ること。中途半端に小出しをしながら「察してください」などと相手に期待を寄せるのではなく、カメハメ波を打つくらいの気持ちで、何もかもを、この瞬間に全開する。小出しにするのではなく、全部出す。出し切る。出し尽くす。これができた時に感じることができる絶対的な爽快感は、格別だ。

『現代暴力論』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、栗原康著作『現代暴力論』です。表紙帯にある「気分はもう、焼き打ち」のフレーズが最高だなあと思いました。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、千葉県にわたりました ※※※

いま、わたしたちは、徹底的に生きのびさせられている。原発推進派にしても反対派にしても、よりよく生きのびようとあらそっているだけのことだ。(中略)生きのびるということは、死んだように生きるのとおなじことだ。他人によって生かされるのではなく、自分の生を生きていきたい。どうしたらいいか。暴力だ、暴力しかない。ー 栗原康『現代暴力論(表紙裏の帯より引用)』【角川新書】


10・生きる力を爆発させること。


昨日、大阪のロフトプラスワンで開催されたルキノさんとのイベントが良かった。ルキノさんの魅力は、持ち前の美貌や歌や踊りのセンスだけではない「徹底的に自分を生き抜く」その生き様なのだということを思った。そのひとがそのひとで在り続けるということが、こんなにも見るひとの心を元気付けるものなのかということを思った。

人気があるからすごいとか、金を稼いでいるからすごいとかではない、ただ、自分の内側から湧き上がってくるエネルギーを思う存分に出し切ること。その姿勢に、その生命力に、まるで【自分の命も共鳴している】ような嬉しさを覚えるのだろう。この生命力は、あるひとにはあるけれど、ないひとにはないという類のものではない。生きている限り、すべてのひとに備わっている本来的な「生きようとする力」だと思う。

生きる力を爆発させること。自分の力を誰かに預けてしまうのではなく、誰かに自分の人生をどうにかしてもらうことを期待するのではなく、自分には既に力があるのだと思い出すこと。不安を軸に動くのではなく、身体が感じる喜びを軸に動くこと。自分の胸を高鳴らせるものに出逢った時は、時期を選ばず、場所を選ばず、結果に対する執着を振り払って、そのままの姿で突き進むこと。閉塞感や停滞感を突破するものは「俺はやった」時に感じる清々しさ、潔さだと思う。

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人生は続く。

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わがままこそ最高の美徳。

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最高のロケーションに恵まれている熱海の自宅に戻ったものの、早くも「何かをしたい…ゆっくりするのは老後でもいい…」とソワソワしている。小学生の頃、ムライ君という友達がいた。みんなでムライ君の家に集合してファミコンをやることが大好きだったのだけれど、朝9時前にお家にお邪魔をするのはダメだと親から止められていたので、8時頃から「早く9時になれ…早く9時になれ…」とソワソワしていたことを思い出した。


明日から東京に足を運び、そのまま大阪に向かいます。隙間時間や11日以降は時間に余裕があるので、何かあれば誰でも気軽にご連絡ください。と、ここまで書いていた時に、自分の人生を大きく急展開させるようなハプニングのお知らせが届いた。なんでもない日が、一転、とんでもない日になってしまった。私には、たぶん、こういう出来事を【穏やかな日々を望みながらも】歓迎している節がある。

無料の喫茶店をやりたい。


数ヶ月前、Twitterから「図書館みたいな、宿泊施設も兼ねる喫茶店のようなものをやりたい」という投稿をした。基本的な使用料金は完全に無料で、珈琲も無料、料理も無料、欲しい本があれば自由に持って行ってOKで、返却の必要もない。場合によっては宿泊も可能、なんなら泊まってくれたひとには百円あげちゃうくらいの、そういう場所を作りたいと思っていた。

月日は流れ、熱海に家を持ち、気がつけば「わたり食堂【0円食堂】」という名前で、上記のような循環型の催しを実験的に試していた。いま、熱海を離れる機会も増えて、正直に言えば「もっとこの家を有効に活用できたらいいなあ」と思っていた。そういうことを親愛なる女性に話したら、わたり食堂をイベントとしてではなくお店としてやってしまえばいいじゃないですかという提案をもらった。


それもありなのかもしれない、と思う。誤解を恐れずにいうと、家も金も仕事もなかった人間が死なずに生きてこれたのは「ストックはないけどフローはある」からだと思っていて、これを坂爪圭吾という個人だけではなく、お店という目に見えるものにも適用してみたときに、どのような反応が起きるのか(そもそもで成り立つのか)ということに、最近、再び興味を抱くようになった。


自宅を開放するリスクと魔法。

現在も、基本的に熱海の自宅は開放されているために、不定期で様々な人が訪れる。というようなことを話すと、頻繁に「危ない目にあったことはないのですか?」と尋ねられる。危ない目にあったことはそれほどなく、朝、7時半頃に目覚めたら隣に40代の女性がいて「おはようございます」と言われてビビったことがある程度だ。

私が海外などにいっている時は、過去に出会った方から「熱海でゆっくりしたいので使わせてもらってもいいですか」という連絡が届き、自由に、好き勝手に使ってもらっている。あるひとは友達を呼んで宴会を開き、あるひとは都心の喧騒を離れて瞑想をするために、あるひとは制作に集中するためのアトリエとして活用したりしている(らしい)。久しぶりに熱海に帰ると、家を出る時にはなかったはずの食材や調味料や酒類などが追加されていて「魔法みたいだ!」と思う。

家には「みんなの財布」といって、誰でも自由に使える財布が常設されている。別に大した金額がはいっている訳でもないのだけれど、家に帰るたびに、財布の中身が(家を出た時よりも減っているのではなく)増えていることに驚く。金銭に限らず、クオカードなどの商品券や、ハーゲンダッツの引換券や、熱海駅までのバスの回数券などが追加されていて「魔法みたいだ!(再録)」と思う。

奇跡は余白に舞い込む。

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無用の用という言葉がある。使い方は間違っているけれど、余白があるからこそ(自分で用途を限定しないからこそ)舞い降りてくる奇跡がある。自分の想像を超えた出来事、自分の狭い知識の範囲を飄々と飛び越えてくれる出来事に遭遇したとき、私は、なんだかとてもうれしくなる。人生ってこんなこともあるのか!と、自分の目の前に起きていることを楽しんでいる。

もちろん、余白の中には「これはちょっと歓迎できないな!」というようなことも舞い込んでくる。お金が増えることもあればお金が減ることもあるし、部屋が綺麗になることもあれば部屋が汚くなることもあるし、朝7時半に起きてみると隣に(夜にはいなかったはずの)女性が座っていたりすることもある。

私としても「自由にしてください」と公言している手前、引くに引けない場面がある。正直に言えば「それはないでしょー!」とも思っているけれど、同時に、あんた、よく、そういうことができるもんだねえという感動も覚えている。そういう時は、もう、自由のどすこい相撲である。お前に自由があるように、俺にだって自由があるんだぜ、と、相手以上の自由を行使することで乗り越えてきた。

『わがままこそ最高の美徳』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、ヘルマン・ヘッセ著作『わがままこそ最高の美徳』です。タイトルだけで充分に素晴らしいので、読まずとも本棚に並べておくだけでグッドなフィーリングです。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、クアラルンプールにわたりました ※※※

人生の下劣さに対抗する最良の武器は、勇気と、わがままと、忍耐です。勇気は私たちを強くし、わがままは愉しさを生み出し、忍耐は平安をもたらしてくれます。ー ヘルマン・ヘッセ『わがままこそ最高の美徳』【草思社


「正しさ」より「楽しさ」

ほんとうはもっと違うことが書きたかったのだけれど、さきほどのハプニングが原因で、平静さを完全にロストしてしまった。何が言いたいのかというと、無料の喫茶店的なサムシングをやってみたいので興味のある方は一緒にやりましょう!ということと、いままでにないやり方で何かを開放してみた時、思いもかけない(良いも悪いもまるごとひっくるめて)面白い目にあえることがあるということです。


生きているといろいろなことがある。そういう時、過去の自分の言葉に支えられることがある。自分の力で「どうにきゃしなきゃ!」と肩肘を張ってしまうこともあるけれど、しかし、人生の大半は「【自分の力を超えた所で】どうにかなってしまう」ものなのだろう。それならば、大切なことは(人生を心配するのではなく)人生を信頼して身を委ねることだ。案じるなかれ、産むが易しのマインドだ。


熱海に戻ったら、手紙が届いていた。読み終えた時に、嬉しさを覚えた。多分、楽しさには二種類ある。楽しいけれど「虚しい」時と、楽しい上に「嬉しい」時の二種類だ。ほんとうの楽しさの中には「(そのひとと出会えたこと・新しい自分自身と出会えたことの)嬉しさ」がある。表面的には過酷に見えることでも、心の底では「いよいよきたか…(ゴクリ)」と高鳴る胸の鼓動を感じている。ひとのこころを動かすものは、正しさよりも「楽しさ」だ。


こんにちは。そろそろ熱海のご自宅へ戻られた頃でしょうか?先日、といってもしばらく経ってしまいましたが、わたり文庫で銀色夏生さんの「夏の森」を送って頂いた○○です。わたり文庫、ほんとうにありがとうございました。お花や、葉っぱの手紙や、いろいろ一緒にはいっていて受け取って嬉しくてたまらなくなりました。夏の森、読んでいます。銀色夏生さんの本はたくさんは読んでいないのですが、「とにかく あてもなくても このドアをあけようよ」という詩集が大好きで、でも「夏の森」もやっぱりすごくいいなと思いました。詩集というのは他のものでもそうかもしれませんが、読む時によって書いてある言葉の受け取り方や、心に響く言葉が変わってくるのがすごくおもしろいというか、不思議だなあと思います。雨ふりの午後にゆっくりと読みたくなる本だなと思いました。またこの本もわたらせていけたらなと思います。

そして、ブログをいつも読ませて頂いて、元気というか「あ、これでいいんだ」「私でいいんだ」感をいつもたくさんもらっています。どうしたらいいのかつまった時、すごく孤独を感じている時、おもしろみを感じられない時。そんなときにブログを読むと、ふと私の中の根本の自分にかえっていくような気がするのです。そこにはどっしりと構えてる自分がいて、その自分を発見すると、ああ、別にこれでいいんだと安心する。全然うまく言えませんが。そして、少し新しい考え方や感じ方も出てきて、現状は何も変わってなくても、なんか前に進んでいる気もする。本当に、いつも、ありがとうございます。

これからも体にはご慈愛していただきながら、坂爪さんのますますの「生」を、ブログ等を通じて感じさせてください。

いよいよ夏がやってきますね!!










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人生は続く。

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命よ、踊れ。

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熊本を経由して大阪にはいり、いま、熱海に向かう東海道新幹線の車内からブログ記事を更新している。7日(木)七夕には、東京の国立市で開催されるお話会に登壇(?)することになった。誰でも参加できる内容になりますので、気軽に遊びにいらしてください。


久しぶりに熱海に戻るために、いま、胸が高鳴っている。庭の花はどうなっているだろうか。家を出る前に蒔いた種は、芽を出しているだろうか。近所のおばあちゃんや野良猫たちや野良猿たちは、元気に暮らしているだろうか。海は、空は、山は、川は、さえずる鳥の鳴き声は、いまも変わらず綺麗だろうか。たったそれだけのことを考えるだけで、いま、胸が高鳴っている。

帰る場所があるということ。

静岡県熱海市にある伊豆山に家を用意してもらったのが昨年の12月末、それから、わたしにも帰りたいと思える場所ができた。およそ2年間に及ぶ『家のない生活』をしていた私にとって、風呂があること、トイレがあること、布団があること、食器があること、屋根があること、これらのすべてがひたすらにありがたかった。

家のない生活をしていた頃は、帰る場所がないことは日常茶飯事だった。家のない生活の最大の弱点は「横になれないこと」であり、私は、適当なカフェや公園やカラオケボックスを見つけては、こまめに休憩を取るようにしていた。ひとつの用事を済ませては、また次の用事を済ませるために必要なエネルギーを適当な場所で充電する、その繰り返しの日々を過ごしていた。

当たり前のことだけれど、このような生き方をしている限り「まとまった疲れを取る時間」というものを確保することはできない。だからなのだろうか、当時の私の身体は、いま以上に常に緊張状態に置かれていて、ほんとうの意味でリラックスをできるような瞬間は、多分、皆無だったのだと思う。

ああ、自分はつらかったんだな。

当時の自分にとって、家がないことは「当たり前の日常であり、悲しいことでもなければ苦しいことでもなく、ただ、家がないというだけのことだ」と思っていた。これは決して強がっている訳ではなく、当時の私の、偽りのない実感になる。しかし、実際に帰る場所を与えられたいま、当時の自分を振り返りながら「よくもまあ、2年間もやったものだ」と思う。いま、再び同じことをやれと言われても、胸を張って「やりたくありません」と言う。

家が与えられて間もない頃、風呂に感謝をし、トイレに感謝をし、布団や食器や屋根があることにひたすら感謝をしていた時、ふと、ああ、おれはずっとつらかったんだなという言葉が口を出た。特に何かを思って言った訳ではない、ただ、思うよりも先に、自然に口から言葉がこぼれて来た。すると、自分でも何が起きているのかもわからないまま、どんどん、どんどん、おさえることのできない涙がこぼれてきた。

ああ、自分はずっとつらかったんだなという言葉は、自分でも意識することのなかった心の深い所にある【置き去りにされていた感情】を掬い上げ、涙となり、おさえても、おさえても、おさえることのできない結晶となって、私の瞳からこぼれてきた。自分では平気なつもりでいたことでさえ、心の深いところでは、確実に自分を傷つけていたのだということを、涙を通じて、私は思い知らされた。

忘れたものを探すため。

熱海に戻ったら、庭の花たちに水をやろう。玄関の前の掃除をしよう。夏に備えて扇風機を探そう。手紙の返事を書こう。鳥の鳴き声に耳をすませよう。天気が良ければ、海に行こう。ひとりきりでも泳いでみよう。帰り道には温泉に寄ろう。馴染みの飲食店で、馴染みのメニューを注文しよう。夜になったら、ギターを弾こう。読書をしよう。日記を書こう。それにも飽きたら、窓を開けて、星空を眺めながら、虫の音でも聴きながら、布団の中でゆっくりと眠ろう。

なんでもない当たり前の生活を思うときに、ああ、当たり前の生活のなかには、こんなにもカラフルな幸せがあるのだということを、何度も何度も忘れては、何度も何度も思い出す。それならば、これだけ大好きだと思える場所がありながら、なぜ、私はこの場所を離れてどこか別の場所へと、懲りることなく足を運ぶのだろうか。それは、もしかしたら「忘れたものを探すため」なのかもしれないと思う。

生きている限り、ひとは何かを忘れてしまうし、ひとは何かを失っていく。しかし、失うことと、忘れることは違う。失ったものを取り戻すことはできないけれど、忘れてしまっただけのことならば、何度でも思い出すことができる。どこか遠くにあるものを探しに行くのではなく、いまここにあるもの、すでに備わっていることを思い出すために、私は、いまいる場所を離れようとするのかもしれない。

『悲しみの秘儀』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、若松英輔著作『悲しみの秘儀』です。こちらの本は、数日前に博多駅前で野垂れ死にかけていたときに、避難所として駆け込んだ紀伊国屋書店で購買した(そして見事に復活を果たした)、奇跡の一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡をいたします。

※※※ こちらの本は、石川県にわたりました ※※※

かつて日本人は、「かなし」を、「悲し」だけでなく、「愛し」あるいは「美し」とすら書いて「かなし」と読んだ。悲しみにはいつも、愛しむ心が生きていて、そこには美としか呼ぶことができない何かが宿っている。人生には悲しみを通じてしか開かない扉がある。悲しむ者は、新しい生の幕開けに立ち会っているのかもしれない。 ー 若松英輔「悲しみの秘儀(表紙帯の文章より)」【ナナロク社】


命は踊りたがっている。

私の母親は山形県の小国町という雪国の出身で、小さな頃、雪が降る度に「冬が長ければ長いほど、春を喜ぶことができる」ということを口にしていた。最近、このフレーズを頻繁に思い出す。悲しみを通過しなければ、苦しみを通過しなければ得られない喜びが、きっと、この世界にはたくさんある。




ここ数日間は、個人的にも厳しい時期が続いていた。そのすべてを綴ることはできないけれど、悲しみが深ければ深い分だけ、苦しみが深ければ深い分だけ、自然の雄大な営みが、美しい音楽の旋律が、すれ違うひとの優しさが、いつも以上に身に沁みることがある。時には「ああ」と言葉を失うほどに、時には涙が出そうになるほどに、疲れていたはずの命が、枯れ果てていたはずの命が、再び踊りだす感覚を覚えることがある。




冬のような時期が続いたとしても、季節が春を運ぶように、命は踊りたがっている。どれだけ厳しい状況に置かれたとしても、どれだけ苦しい状況に置かれたとしても、この命は、ひとつの小さな生命は、どうしようもなく生きたがっている。海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を、自分の中にある生命を、最期の瞬間まで護り抜きたいと思う。




命よ、踊れ。


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人生は続く。

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生き方の是非を問うことよりも。

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福岡県を経由して大分市内にはいったものの、宿泊を予定していた場所との相性が合わず「誠に申し訳ありませんが、私は、ここにいられるほど強くはないみたいです」という断絶魔をあげ、真っ暗闇の大分市内を3時間程度ぶらついた後にカプセルホテルに漂着した。

画像は、愛媛県在住の方から送っていただいたものになる。自分の目の前に広がる風景の写真をやり取りできる相手がいることはうれしい。現在の大分市内は土砂降りの大荒れで、これから、熊本在住の方々がはるばる大分市内まで車で迎えに来てくれることになっている。熊本に足を運んだ後は大阪に向かい、大阪の予定を終えた後は熱海の自宅に戻る予定でいる。

答えよりも「応え」

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先日、警固神社で開催されたイベントには50名近くものひとたちが集まってくれた。頻繁に受ける質問に「何が転機になったのですか?」とか「どうすれば勇気を持てますか?」とか「不安になることはないのですか?」というものがある。私は、転機とか勇気とか不安という言葉を、あまり意識して行動を起こしたことがない。正直に言えば、そんなことはどうでもいいんじゃないだろうかと思う。

大人は、転機とか勇気とか不安とか成長とかいう言葉が大好きで、転機があるからできた、勇気があるからできた、不安を乗り越えることができたから成長した、みたいな物語を好む。だけど、こどもたちはそんな言葉を飛び越えて、懲りることのない体当たりを続けながら、泣きながら、笑いながら、平気で逞しくなっていく。転機とか勇気とか不安とか成長とか、そういう類の言葉は「振り向いた時、気がつけば勝手に身についていたもの」に過ぎず、目的にするようなものではないと思う。


大切なことは、答えではなく「応え」だと思う。日々に答えを求めるのではなく、日々の問いに真摯に応えようとすることの中に、その姿に、そのひと自身の光は宿るのだと思う。答えがあるからやれたのではなく、答えはないけどやる、やりたいと思ったからやる、自分の内側から湧き出してくる静かな衝動に「応える」姿に、結果として宿る(周囲から見ると宿っているように映る)ものが、勇気や成長や自信と呼ばれるものになるのだと思う。

いまを生きることしかできない弱さ。

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私は、過去に大学を辞めている。最大の理由は「ここにいたら自分がダメになる気がしたから」という非常に後ろ向きなものであり、大学を辞めてでもやりたいと思う何かがあった訳ではない。大学を辞めると告げた時、周囲のひとからは「もったいない」とか「親に迷惑をかける」とか「逃げているだけだ」とか「これからどうするつもりなんだ」とか、他にも、様々なことを言われた記憶がある。


大分の家を飛び出した時、私は、大学を辞めた当時のことを思い出していた。連続する移動を続ける私は、どこか行きたい場所があるから積極的に移動をする訳ではなく、ここにいることができないから、ここにいたら自分はダメになってしまうから、移動を続けているだけなのではないだろうかという疑問が脳裏をよぎり、この疑問は、自分の腑に落ちていった。


いまを生きることができるのは強さではなく、いまを生きることしかできない弱さに、私は支えられているのだと思う。弱さは「このままでは自分がダメになる」という危険信号を頻繁に発して、私に、移動することを促す。ここにいたら、ここにいた時間の分だけ、ここにいるひとたちのことを嫌いになってしまう。自分と自分が苦手とする空間は混ざり合い、自分で自分を護ることができなくなってしまう。できるだけ早く、自分を殺してしまうことよりも早く、いまいる場所を移動することを促す。

良寛の生きかた』

今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、松本市著作『ヘタな人生論より良寛の生きかた【河出文庫】』です。タイトルは微妙ですが、自らを大愚と名乗り、生涯無一物で生きた良寛和尚の入門書としては非常に読み易い一冊になります。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、東京都にわたりました ※※※

形見とて何残すらむ春は花
夏ほととぎす秋は紅葉ば(『良寛全歌集』一〇五九)

訳)わたしが亡くなった後の思い出の品として、残せるものは何もない。しかし、春は梅や桜の花が咲き、夏はホトトギスの鳴き声がある。秋はもみじの葉がひらひらと散る。わたしの死後も自然はなお美しい。これがただ、わたしがこの世に残す形見になってくれるだろう。


生き方の是非を問うことよりも。

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俺はいったい何をやっているのだろうと思うことがある。自分で好き好んで「誰にでも会います」などとオープンにしておきながら、行き着いた先でボロボロになったり勝手に孤独を感じたり夜道を3時間歩きながら和田アキ子あの鐘を鳴らすのはあなた(「あなたには希望の匂いがする」の歌詞が秀逸!)」を道路のど真ん中で歌いながら、自分を励ましたりしている。


ただ、このような生き方をする人間にでさえ、自然は分け隔てなく(時に絶妙なタイミングで)様々な恩恵を与えてくれる。夜道を歩いていた時、東京から一通のメールが届いた。自分には何もないと感じている時、自分はダメだなあと感じている時、自然の素晴らしさ、音楽の美しさ、ひとの優しさは身に染みる。緊張していた何かが緩み、ああ、自分はこういうものに支えられてきたのだということを取り戻す。


自分で「どうにかしなきゃ!」と肩肘を張ってしまうこともあるけれど、人生の大半は「【自分の力を超えた所で】どうにかなってしまう」ものなのだと思う。生き方に答えはないのだから、きっと、生き方に間違いもないのだ。それならば、自分の生き方の是非を問うことよりも、自分の生き方の眼前に広がる風光明媚な瞬間を、しっかりと捉えていきたいと思う。



初めまして。
Facebookでフォローさせていただいてます。
○○と申します。
いつもブログを拝見していて、感じたことをお伝えしたくなるのですが、ふと、思い立ってメールさせていただいてます。

坂爪さんのブログを読むと、いつも、「生きてる」って思います。
坂爪さんも、私も。
坂爪さんの言葉は、坂爪さんのものだけれど、私のものの時もあります。
そういう時、私は
「こういう風に感じ、考えるのは私だけじゃなかった」
と嬉しく思うし
「その感じ、考えをこう表現できるのはすごい」
とも思います。
そして、そう感じながら坂爪さんのブログを読んでいる人は、きっと他にもいて、それを思うと、なんだかにやりと不思議な気持ちになったりもします。

今日の東京は少し冷たい雨が降っています。
坂爪さんがいらっしゃるところは、どんなお天気なのでしょうか。

これからもブログ、楽しみにしています。
坂爪さんの生き様、楽しみにしています。
私も、今日も明日も生きていきます。


○○○○○


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讃められるために生きている訳じゃない。

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バンコクを経由して福岡県にはいり、今宿、福間、宗像、久留米を訪れた後に、天神に来た。今夜は、警固神社で開催されるイベントに登壇する。稀に、イベントなどに登壇すると「どうしたら、坂爪さんのようになれますか」という質問を受ける。誤解を恐れずに言うと、私は、このようなことを聞かれると非常に困る。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・「自分みたいになれ」とは思わない。


私は、自分以外の誰かに「自分みたいになれ」とは思わない。自分と同じであることを強要したいとも思わないし、家を捨てる必要もなければ、文章を綴る必要もないし、自分の存在をオープンにする必要もなければ、意味もない移動を繰り返す必要もない。ただ、坂爪圭吾が坂爪圭吾であるように、あなたにはあなたでいて欲しいと思う。

2・私は「触媒」でありたい。


大切なことは、私の話ではなく、私の話を通じて引き出される「あなた自身の話」だと思っている。私が言葉を綴るとき、私が人前に出て話をするとき、決して「自分みたいになれ」とは思わない。私が私であるように、あなたはあなたでいて欲しいと思っている。私は触媒でありたい。私の話を通じて引き出される「あなた自身の話」を聞きたいと思っている。

3・自分の宝を互いに掘り合う。


私にとって、私の話は「内側の話」になる。しかし、あなたにとって私の話は「外側の話」のひとつに過ぎない。私が触媒でありたいと思う最大の理由は、答えは、自分の内側にあるということを信じるからだ。あなたの答えはあなた自身の内側にあるものであり、私の中に、あなたの答えはない。私はひとつの触媒で、触媒を通じて出てくる自分自身こそが宝の地図であり、掘るべき対象だと思っている。

4・自分の中にある「尊い部分」の声を聞くこと。


誰か偉い(偉いとされている)ひとの話をありがたがって聞くような時代は、もう、終わりにしたいと思う。他人とは、多分、模範するべき対象ではない。自分を確かめるためにある「鏡」のようなものだと思う。大切なことは、他人を通じて引き出されてくる、自分の中にある『尊い部分』の声を聞くこと、自分の中にある『美しい部分』の声を聞くことだ。

5・鏡は、濁りの少ない方がいい。


鏡は、濁りの少ない方がいい。

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6・私は、まだ自分の生き方に名前を与えていない。


二年間ほど家のない生活をして、その模様をブログに書いた。読者は徐々に増え、日本全国や海外からも声がかかるようになり、私は、その日々の中で感じたことを言葉に残した。ひとは私を、詩人だという。哲学者だという。芸術家だという。旅人だという。浮浪者だという。ロックだという。ゴミのような人間だという。様々な名前で私を呼ぶが、私は、まだ自分の生き方に名前を与えていない。

7・自分以上も、以下もない。


初対面の人間から、普段は何をしているひとなのかと尋ねられても、自分を表現する言葉が何もない。私は私であり、それ以上でもなければ、それ以下でもない。「ただ、生きている」というそれだけのことになるが、そんなことを言っても相手を困らせるだけだから、私は、何も言えないままに黙ることが多い。何も伝える言葉を持たない時は、ただ、沈黙を守るしかない。

8・「無」に賭ける。


多くのひとびとが何者かになろうとするなかで、何者でもないことに賭ける。「無」に賭ける。ここ数年間の自分の生き方は、これに集約される気がしている。有為より無為に、意味より無意味に、利益より無利益に、所有より無所有に、価値より無価値に、自己より無自己の中に、自身の拠り所を見出してきたような気がしている。

9・自分みたいになるな。


やがて、家のない生活はピリオドを迎えることになったが、遍歴は続く。夢はない。目標もない。答えもなく、問いもない。常に途上にいる。過去もない、未来もない、あるのはこの瞬間だけ。私は、自分みたいになれとは思わない。真逆で、自分みたいにはなるなとは思っている。

『村に火をつけ、白痴になれ』

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日本に戻ったので、わたり文庫【循環型の図書館】を再開します。今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、栗原康著作『村に火をつけ、白痴になれ(伊藤野枝伝)』です。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、神奈川県にわたりました ※※※

私のすべては唯屈従です。人は私をおとなしいとほめてくれます。やさしいとほめてくれます。私がどんなに苦しんでいるかも知らないでね。私はそれを聞くといやな気持ちです。ですけど不思議にも私はますますおとなしくならざるを得ません。やさしくならずにはいられません。
私には1日だって、今日こそ自分の日だと思って、幸福を感じた日は一日もありません。私は私のかぶっている殻をいやだいやだと思いながらそれにかじりついて、それにいじめられながら死ぬのです。私にはいつまでもその殻がつきまといます。それに身動きがとれないのです。
あなたは何にも拘束されない強者として活きてください。それだけがお願いです。屈従ということは、本当に自覚ある者のやることじゃありません。私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願いします。忘れないでください。他人に讃められるということは何にもならないのです。自分の血を絞り肉をそいでさえいれば人は皆よろこびます。ほめます。ほめられることが生きがいのあることでないということを忘れないでください。何人でも執着を持ってはいけません。ただ自身に対してだけは全ての執着を集めてからみつけてお置きなさい。私のいうことはそれだけです。私は、もう何にも考えません。 ー 村に火をつけ、白痴になれ【岩波書店


10・讃められるために生きている訳じゃない。


日本に戻り、一番最初に購買したものは、100円ショップの小さなしょうがすりおろし器だった。私はしょうがを愛している。移動中も自由にしょうがのすりおろしを楽しむことができたら健康にも良いし最高だ!と思い、数日前からネットで適当なしょうがすりおろし器を探しては「これが欲しい!」とか「こんなものもあるのか!」と、興奮と熱狂の渦に溺れていた。

福岡では、飛行機の遅延と怒涛のスケジューリングにより睡眠不足に陥り、軽いグロッキー状態に置かれていた。しかし、しょうがのことを考えている時間(あとは花を眺めている時間)だけは、どれだけ疲れていても多幸感を覚えることができた。そして、天神ロフトの調理器具コーナーに足を運んだ瞬間は、まるで天国のお花畑にいるかのような気持ちになった。

結果的に、100円ショップにあるものが何よりもベストだったために、それを購買した。しょうがすりおろし器を探している時間、しょうがすりおろし器で何を作ろうかと考えている時間、しょうがすりおろし器を実際に購買した瞬間は、揺るぎない喜びに溢れていた。私が欲しいと願うものは、過去も未来も吹き飛ばす、圧倒的な【この瞬間】のことなのだと思う。

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人生は続く。

〒413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

瞬間をぶちまけて輝くこと。

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バンガロールからバンコクを経由してチェンマイにはいり、ミニバンに揺られること3時間強(値段は150バーツと非常に安価)、タイの北西部にあるパーイという小さな町に来た。山道を抜けるために爆裂に揺れるとは聞いていたが、見事に過酷で、乗客の過半数近くは車内でリバースをしていた。助手席を陣取ることで揺れの軽減に成功した私は、比較的軽度のダメージで事なきを得た。

変なことを考えていたら、酔った。

3時間強の道程の途中、日本でいう「道の駅」的な山中の小屋で、20分程度の休憩が入る。そこにはWi-Fiが飛んでいたために、インターネットを接続したところ、ジャストタイミングで(まだ会ったことのないひとから)一件のクレームが届いた。そこには「前にLINEを送ったのに、既読スルーをするのはなぜか」というようなことが書かれていた。

いただいたメールにはすべて目を通していて、自然の恵みを前に「ありがてぇ、ありがてぇ」と昔の農民がひざまずくような感覚で、私も、メールを前に「ありがてぇ、ありがてぇ」とひざまずいている。しかし、メールの返信が非常に苦手な私は、ほとんどのメールに返信をできていない。そんな私を許容してくれるひととは良好な関係を築けるものの、許容できないひとたちから定期的にお叱りを受ける。

クレームが届くと、正直、心中は穏やかではなくなる。休憩時間が終わったあとも、パーイに向かう車内で「このようなひとには、どのように対応するのがベストなのか」ということを考えていたら、なんということだろう、(前半戦はまったくの無傷で「余裕だぜ!」と思っていたはずの私が)酔った。変なことを考えはじめてから、精神状態が乱れ、軽い車酔いをしてしまったのだ。

「BUT, I LOVE YOU」の魔法。

このままではいけないと思った私は、この、不穏な感覚(クレームに対する精神状態の乱れ)に、一刻も早くピリオドを打たなければいけないと思った。そこで思い浮かんだ妙案が、過去のブログ記事で書いた「こころのなかでひたすら相手を罵倒した後に、最後に『BUT, I LOVE YOU【でも、愛しているよ】』とささやく」というものだった。


誰も傷つけることのない、クレームに対する優等生的な対応ができるのであれば、それに越したことはないのだと思う。しかし、私のような器の小さい人間は、正しさを追求するほどに、必ず何処かで無理が出る。そんな時は、ひたすら相手の責任にするに限る。「これだけメールが届いているのに、毎回返事ができる訳がないだろーが!バカ!」と、逆切れをかますに限る。

ひとしきり逆切れをかました後、最後の最後に「BUT, I LOVE YOU【でも、愛しているよ】」で締めくくった私の精神はアルカイックな安定感を取り戻し、その後の車内は「私は川。私は清らかな川。さらさら流れる新緑の小川」と自らに暗示をかけて清流に擬態をした私は、抗わず、濁らず、揺れに身をまかせる(あとは「鼻呼吸」に集中する)ことによって酔いも収まり、無事にパーイに到着をした。

美しい街「パーイ」


パーイの街並みは非常に素晴らしく、物価も安価で、自然に溢れ、アーティストの移住者も多いためにお洒落な雑貨が立ち並び、観光地にありがちな勧誘行為を目にすることもない。オートバイもレンタルも1日300円程度からと破格で、滝や、洞窟や、天然の温泉もあり、街全体を一周するのに1時間もかからない。

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宿泊先のコテージは自然のど真ん中にあり、

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見渡す限りの、山と、森が広がっている。

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マンゴーは五個で100円程度。ドラゴンフルーツは五個で150円程度。宿泊代は1000円程度。私は、目の前に広がる雄大な自然を眺めながら、ひたすら南国の果物を(ナイフがないので手で剥きながら)摂取し続けていた。何もない、何もしないということが、時には最高の贅沢になるということを思う。雲が流れるように、時間がゆっくりと流れている。

ひとは、幸せなときに誰かを批判したいとは思わない。

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パーイの街並みを眺めながら、天然の温泉に浸かりながら、自然に溢れた風景のど真ん中に身を置きながら、「ひとは幸せなときに、誰かを批判したいとは思わないだろう」ということを思った。自分が批判的になっているとき、自分が懐疑的になっているとき、自分が「あまり好きではない自分」になってしまっているとき、私は、自分の中にある種の攻撃性が宿るように感じている。

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誤解を恐れずに言うと、常に不平不満に溢れているようなひとは、常に攻撃できる対象を探しているようなひとは、あまり幸せではないのだろうなと思う。私は弱い人間なので、一緒にいるひとのエネルギーをダイレクトに受け取ってしまう。常に不満に溢れているひとと一緒にいると、こちらまで不幸せな気持ちになる。いまの自分にはまだ、そういうひとと同じ時間を過ごしている余裕はない。

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ただ、同時に「もしも、そういうひとたちとこうした景色を共有できたなら、こうした体験を共有することができたなら、そのひとたちともよろこびを分かち合えるのではないだろうか」と感じることもある。不穏な感情や誹謗中傷などの攻撃性は、形を変えたSOSであることが多い。生まれてきてよかったと感じる幸せに触れてみたいと乞い願う、そのひと自身のこころの叫びであることが多い。

瞬間をぶちまけて輝くこと。

素晴らしい風景を目にしたとき、美しい時間を過ごしたとき、私達は、いつまでもその瞬間を忘れないでいられるように、写真に収めたり、言葉に残したり、自分のこころに焼き付けようとする。それでも、その瞬間が、その刹那が、素晴らしいものであればあるほどに、写真には収められないということを、とてもじゃないけれど言葉にすることはできないのだということを、同時に思う。


自然やこどもの生き様に感動を覚えるのは、それらが「瞬間にすべてを凝縮している」からなのだと思う。過去でもない、未来でもない、ただ、この瞬間に自分の生命をぶちまけて輝いている。思い煩うこともない。出し惜しみをすることもない。その姿を目にした時に、ああ、自分はいまをしっかりと生きていなかったのだということを、そして、自分もこんな風に生きられたらということを思う。


時間にも、命にも、限界がある。限界があるからこそ、いまあるものに輝きが宿る。生きているということは、瞬間【力】を持つということだ。瞬間をぶちまけて輝くことができる、その可能性を誰もがすでに持っているということだ。自分を磨り減らすような比較や競争からは距離を置き、絶対的な自分に集中すること。生きているということは、瞬間をぶちまけて輝くことができるということだ。


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人生は続く。

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観光とは「光を観る」こと。

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カンボジアシェムリアップからバンコク経由で南インドのチェンナイにはいり、チェンナイからシャタブディ鉄道に乗って5時間弱、バンガロールに到着をした。今回、インドに足を運ぶきっかけになったのは、日本在住の女性から「インドに行きたいのですが、ひとりではちょっと心許ないので、一緒に行きませんか?」と連絡が届いたことが発端になる。彼女とは、バンコクの空港で合流をした。

自分で自分の予定をいれることを諦めてから数年が経ち、いまでは、様々な方々が私の代わりに予定を埋めてくれる。25日(土)には日本に戻り、27日(月)には福岡の警固神社にてトークイベントに登壇する。自分のような生き方がどれだけ人様の役に立つのかはわからないけれど、こういう生き方でも(いまのところ)どうにかなっているという、この「どうにかなっている」という部分について、話をしたいと思っている。時間に余裕のある方は、誰でも、お気軽に遊びにいらしてください。

【イベント詳細】坂爪圭吾さんお話会

バンガロール在住の日本人女性。

バンガロールには、およそ1200人の日本人が暮らしているという。そのうちのひとり、バンガロールで8年間暮らしている日本人女性・Nさんから連絡をいただき、一緒に食事をした。数日前、たまたまこのブログを開いたら、そこには「バンガロールに行きます」と書いてあり、バ、バ、バ、バンガロール!?となったNさんは、そのままの勢いで連絡をしてくれたのだと話してくれた。

Nさんの紹介で、現地在住の日本人が集まる「合唱サークル」にご招待をしていただいた。私のような新参者にも、優しく、あたたかく、和やかな雰囲気の中で歓迎をしてくれた、非常に優しい方々の集まりだった。正直に言えば、私は、ひとがたくさん集まる場所があまり得意ではない。最大の理由は「普段は何をしているのですか」という定番の質問に、私は、上手に答えることができないからだ。

あなたは何をしているのですか【何もしていません】。旅人ですか【旅人ではありません】。どうしてインドに来たのですか【召喚されたからです】。お金はどうしているのですか【稼ぐことは少なく、貰うことが多いです】。これから何をするつもりですか【何も決めていません】など。質問に答えれば答えるほどに、露骨に、相手との距離が開いてしまう。

有為に対する「無為」に賭ける。

ひとびとがひとつの信仰を持っている中で、自分は、大袈裟な言葉で言えば「異教徒みたいだなあ」と思うことがある。大勢のひとびとが有為を信じる中で無為に賭け、何者かになろうとする中で何者でもないことを貫き、何かを得ることを試みる中で何かを棄てることを試みている、自分を、稀に、異教徒みたいなだあと思うことがある。

人間の外側にはりついているものではなく、外側にはりついているものをすべて取り去った後に残るもの、私の興味は『生身の人間【裸の人間】』にある。初対面での会話が苦手な理由は、おそらく、外側にはりついているものの話題で終始することが多いからなのだろう。そして、人間の外側にはりついているものでそのひと自身の価値が図られるとき、私の存在価値はゼロになる。

自分の気持ちをわかってもらいたいと思う気持ちと、自分の気持ちを伝えることは無理だろうなと思う気持ちと、その、両方がある。初対面を苦手だと感じる気持ちの裏側には、まだ、誰かにわかってもらいたいと願う弱い自分がいる。中途半端で、未練がましい、さみしがり屋の自分がいる。

アルゼンチン「空を見る話」

過去に、自分の前世を見るというヒプノセラピーなるものを受けたことがある。その時の話を短くまとめると、私は、アルゼンチンの人里離れた谷の上に暮らしていたのだという。そして、谷の上から、谷の下のひとびとの暮らしを眺めては、愛する妻とふたりで静かに暮らしていたのだという。

ある日、私は、愛する妻と死別をする。その日を境に、私の中に大きな変化が起きた。それは、いままで谷の下ばかりを見ているばかりの私が、谷の上も見るようになったのだ。きっと、亡き妻を思ってのことなのだろう。目には見えない何かを思い、いままで下ばかりを見ていた人間が、上を見るようになった。たったそれだけの話が、妙に、こころに残っている。

誰かにわかってもらおうと思うな。横を見るな。横につながりを求めるな。上を見ろ。つながりは上にあることを思い出せ。人に理解を求めるのではなく、天に恥じない生き方をしろ。このエピソードを思い出すたびに、私は、そういう気持ちになる。横につながりを求めていた自分を恥じて、うつむきがちになっていた視線を上げて、ただ、空を見る【見えない何かに思いを馳せる】ようにしている。

最高の観光名所は「人間」だ。


インドらしいことはなにひとつせず、路地裏を歩いてはこどもたちや犬や鳥やリスを観察していた。カメラを向けると、こどもだけでなく大人も一緒になって「俺を撮れ!俺を撮れ!」と求めてくる。こどもがいる大人は「うちのこどもを撮れ!」と、こども以上のテンションで迫ってくる。その姿が、そのストレートな態度と気持ちが、妙に胸に迫ってくる。

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インドのこどもは端正な顔立ちをしていて、

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赤ちゃんにさえ、風格がある。

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「娘を撮れ!」と母親に迫られ、

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「俺を撮れ!」とおじさんに迫られ、

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「私を撮って!」と母親に迫られ、

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「俺の家族も撮れ!」と若い父親に迫られて、写真撮影の順番待ちが発生した。皆、写真が好きなのだろう。撮った写真を見せると、おとなもこどもも一緒になって、ニコーッと弾ける笑顔で喜びの表情を浮かべる。お互いに写真を見せ合って、これが俺だ、これがお前だと、肩を叩きあって笑い合う。ただそれだけのことに、ただそれだけの場面に、涙が出そうになる。どうしてなのだろうか、涙の理由はわからないけれど、これだけで「インドに来てほんとうに良かった」と思う。

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最高の観光名所は「人間」だ。

観光とは「光を観る」こと。

観光とは、ガイドブックに掲載されている場所を巡ることではなく、ひとやものやことを通じて「光を観る」ことなのだと思う。光を観るためには、必ずしも海外まで行く必要もなければ、誰も踏み入たことのない秘境の中まではいらなければいけないというものでもない。光を観るものは、いま、ここにある、人間の心だ。


自分のこころが「いいな」と感じる出来事に触れたとき、まるで、こころが再び呼吸をはじめるような感覚を覚える。うれしいことは、いいなと思える出来事に出会えたこと【外側の出来事】だけではなく、自分の中にあるこころが、命が、魂が、まだ、死んでなんかいなかったのだということ【内側の出来事】を教えられることだ。いま、私のこころは光を観ることができていて、きっと、これから先も光を観ることができるのだという静かな予感が、希望になる。


日本在住の女性から、一通のメールが届いた。ひとのこころに光を観た時、きっと、その場所はひとつの『観光地』になる。光は、自分と、自分の人生を肯定する。涙は、自分の濁りと、自分の汚れを浄化する。光を観る時、ひとの温もりに触れた時、こころの中にある冷たいカタマリが溶け出して、流れ出してくるものが涙になる。非日常の中にあるものだけではなく、日常の中にもたくさん転がっているはずの、光を、涙を、ひとりの人間のこころの動きを、しっかりと捉えていきたいと思う。



圭吾さん

バンガロールというのはどこだろうと、探してみると
インドの南のほうなんですね。

日本からインドへ一瞬でメールが届くのは
改めて考えると不思議な感じです。

日本の実家に戻って3年間やってきたことに違和感を感じ、自分がそれを演じてるような気がしてきて、

引っ越しを機に全てを捨てようとしたところ、
引っ越しできなくなり、これは神様がちゃんと向き合えと言ってるのね、と観念し、

正直に辞めたいということと
辞めたい理由を言いました。

みんな引いてるだろうなと思いつつ帰ったところ、あるメンバーから
「カミングアウトに立ち会えたことが、うれしい」とメッセージがあり、

ああ、ちゃんと言ってよかったなあと思いました。

圭吾さんが言っていた「ひとを信頼して話すこと」、これがちょっと
腑に落ちた気がします。

どうせ分かってもらえないだろうと適当に話したり
ごまかしたりしないで、きちんと気持ちを話せば、分かってくれる人は
いるんだなあと。

もういい歳なのですが、今までずっとずっと「どうせ分かってくれない
どうせ私になんて興味が無い」と思って生きてきた気がします。

だから目の前の人に、言葉をにごして答えたり、適当にごまかしたり。

でも最近ちょっとそれをやめてみようと思って、銀行の外貨両替の窓口
などでも、今までなら「ちょっと旅行に」くらいでにごしていたのを
「今度モンゴルに行くんで、ドルの小銭がいるって書いてあって」と
正直に話すと、窓口の人と話が盛り上がったり。そんなことが、うれしかったり。

昔、修学旅行の班や文化祭などで、自分の班だけはつまらないと思ってきました。
でも、つまらなくしていたのは私だったんですね。自分を開けば相手も開く、
自分が楽しんでいたら、きっとみんなも楽しんだはず。

そんなあれやこれやを、遅まきながら圭吾さんに教わって実験して実感して、
そんな感じの昨今です。圭吾さんの言葉に出会えてよかったと本当に思います。
バンガロールは今何時でしょう?日本は今21時52分
さっきまで出ていた月は隠れてしまいました。









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人生は続く。

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ストックはないけれど、フローはある。

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前回のブログ記事で「所持金の都合でアンコールワットの入場料が払えない」という内容の投稿をしたら、投稿を見てくれたカンボジア在住の女性Nさんから「シェムリアップまで来て、アンコールワットが見られないのはあんまりです!料金などはご負担いたしますので、よろしければ私がご案内いたします」と連絡をいただいた。


朝焼けに映えるアンコールワットは、綺麗だった。アンコールワットを見れたことはもちろんだけれど、それ以上に、ひとの優しさに触れることができたという事実が嬉しかった。Nさんは、優しくて、綺麗で、可愛いかった。シェムリアップに来てから、感動的な出来事が頻繁に起きている。過去に「奇跡は余白に舞い込む」という内容の投稿をしたけれど、また、当時と同じ感覚を抱いている。


シェムリアップの奇跡。

たまたま予約をしたホテルのオーナーSさんが「坂爪さんって、あの、坂爪さんですよね?」と、声をかけてくれた。私のことを知ってくれていたSさんは「オートバイでお連れできるので、いきたい場所があったら何処でも言ってくださいね!」と、神様のような優しさを示してくれた。街中を案内してもらうばかりではなく、結果的にプールにまで連れて行っていただき、クリームブリュレやフルーツまでご馳走になった。

また、自転車の観光ガイドをやっている25歳の日本人男性・Mさんから「ご飯をご馳走するのでお会いしましょう!」と、鍋料理をご馳走していただいた。Mさんの繋がり(?)で、シェムリアップ在住の日本人アイドル「さかなちゃん」とも出会った。驚いたことに、さかなちゃんもいばや通信を読んでくれていたらしく、出会えたことをよろこんでくれた。喜んでもらえると、照れてしまうけれど、こちらまで嬉しくなる。

また、シェムリアップで雑貨屋を営む日本人女性・Aさんから「ご飯をご馳走するのでお会いしましょう!」と、非常に豪華なクメール料理をご馳走していただいた。動的なだけではない、静的な時間も共に楽しめる素晴らしい時間になった。していただいた内容はとにかく、こうして、実際に出会えたことが何よりも嬉しい。そして、今朝、朝の4時半集合で、アンコールワットをご案内していただいた。

自分をオープンにするということ。

私は、自分のスケジュールと連絡先をWEB上(ブログ記事末尾)に公開している。そのため、足を運んだ先々で暮らす方々から「会いましょう」という連絡をもらう機会が、多分、一般的なひとよりは頻繁にある(ある方だと思う)。自分をオープンにすることは、時に、浴びる必要のない批判や罵倒を浴びてしまう結果になることもあるけれど、それをしていなければ絶対に起きない奇跡に出会えることもある。

五日間、何の予定もいれずに訪れたシェムリアップでの滞在は、まさに「奇跡は余白に舞い込む」を実感した滞在になった。私は、ひとと話をすることが好きだ。そして、当たり前のことだけれど、ひとも、自然だ。そのひとの中にある「自然」を垣間見たときの嬉しさは、花や、雲や、鳥や、猫や、空や、小さなこどもや、夕日を見ている時に感じる「ただ、そうであること」の嬉しさに似ている。

そして、明日からインドのマハーバリプラムを経由して、バンガロールに向かう。バンガロールでは、現地在住の日本人の方から連絡をいただき、お茶をしたり、宿を提供していただくことになっている。
なぜ、何もない私が、貯蓄や所持金という意味ではほとんどのストックを持たない私が、これだけの恩恵を受けることが許されているのだろうか。自分のことのはずなのに、稀に、自分のことがわからなくなることがある。

ストックはないけれど、フローはある。

感覚的な話になるけれど、いまの私には「ストック【貯蓄】はないけれど、フロー【流動】はある」ように感じている。言い換えるならば、ストックによっては生きることができない(自分の力だけでは到底生きていくことができない)私も、フローによって生かされている(様々なひとの力によって生かされている)という感覚を、強く覚えている。

これは決して自慢をしたい訳ではなくて、自分でも、自分に起きている現象が何なのかということはまるでわかっていない。ただ、感覚として「ストックはないけれど、フローはある」ということを感じていて、この流れは、自分の純度が落ちた瞬間から、自分が調子に乗った瞬間から、自分が何かしらを溜め込もうとした瞬間から、途絶えてしまうものだと感じている。

様々なひとの力を得た時に、一番強く思うことは「しっかりと生きよう」ということだ。この「しっかり」が、どういう意味なのかは自分でもわからないけれど、誰かにご飯をご馳走してもらえたからといって「ラッキー!儲け儲け!うひゃひゃひゃひゃ!」という気持ちには、とてもじゃないけれど、なることはできない。

心配を投影するか、信頼を投影するか。

ここ数日間の出来事を振り返りながら、およそ1年前に、ロンドンから届いたメールの内容を思い出していた。詳細は、過去記事【「他人に迷惑をかけてはいけない」という嘘】にまとめてあるのですが、ここに記載されている三つの要点のことを、思い出していた。

・実は、皆が何かを誰かに与えたいと思っている。
・他人から施しを受けるのは惨めなことではなく、寧ろ崇高な経験になる。
・すべてを受け取ることを自分に許しなさい。

心配を投影するか、信頼を投影するか。自分を開けば世界も開き、自分を閉じれば世界も閉じる。きっと、この世の中は、自分が投げたものがそのまま返ってくるようにできているのだと思う。相手を傷つける言葉を使えば、自分のこころも同じように傷つけている。相手を疑えば、自分も疑われ、相手を信じれば、自分も信じられる。月並みな言葉になるけれど、事実、その通りなのだと思う。


カンボジアのこどもたち。


Sさんのご案内で、一般人も立ち入り可能な学校に足を運んだ。カンボジアの平均年齢は24歳前後と非常に若く、小さなこどもたちが大量にいる。私は、こどもが大好きだ。こどもたちに囲まれているだけで、不思議なくらい、嬉しくなる。楽しくなる。元気をもらえる。見ているこちらまで、気持ちが若返る。世界中、どこの国のこどもたちも、愚かで、チャーミングで、最高だ。

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整列していたはずのこどもたちの中にも

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率先して、愚かな真似をする男子がいる

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瞬時に全体が乱れて、

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こういうことや、

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こういうことや、

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こういうことになる。

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カンボジアのこどもはほんとうに可愛くて、

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女子は、大人だ。

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お菓子を前にこどもは無力で、

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最終的には、全体で暴れる。

レールはないけれど、大地はある。

私は単純な人間だから、ひとから元気をもらうこともあれば、ひとから失望をもらうこともある。同じように、ひとから失望をもらうこともあれば、ひとから希望をもらうこともある。自分の中にしっかりとした軸を養うことができればいいのだろうけれど、まだ、まだ、まだ、簡単にぶれ続けてしまう日々のど真ん中を生きている。


みんなが当たり前にできることを、できることならば、自分も当たり前にできる人間になりたいと思っていた。それなのに、いつ、どこで、どのようにレールを踏み外したのかはわからないけれど、結果的に、自分でも何も分かっていない生き方をする31歳になってしまっている。完璧とはほど遠い生き方だけれど、それでも、自分の人生を「悪くない」と思えるようになったのは、つい最近の話だ。


シェムリアップの数日間を振り返っていた時、日本から、LINEを通じて一通の連絡が届いた。そこには「有難う、生きていてくれて、存在してくれて有難う」という言葉が綴られていた。心の中にじんわりと広がる、あたたかな膨らみを感じた。しっかりと生きようと思う時、その「しっかり」が何を指すのか、少しだけわかったような気がした。自分以外の誰かではなく、自分以外の何かではなく、自分自身をしっかりと生きよう。そう思った。



夜分に恐れ入ります。
坂爪さんのTwitterをいつからだったでしょうか、毎日拝見しております。

今、一番にお伝えしたいことは、とにかく
「有難う、生きていてくれて、存在してくれて有難う」という言葉です。

坂爪さんは誰かに感謝されようと発信してらっしゃるわけではないと思いますが、数々の言葉に、写真に、救われたり、背中をおされたり、寄り添ってもらったりして、感謝の気持ちを抱いている方は多くいらっしゃるように感じます。 

ここ暫くの間、理不尽なことや言い様のない哀しみを感じたりした時に、夜空を見上げながら坂爪さんの言葉や存在を思い、それだけで心を支えて頂きました。

と同時に、事情は違ってもいま私と同じように、坂爪さんの存在に涙している人もいるだろうと思いました。

こんなことを言うのはおこがましいですが、ブログを拝見しておりますと
“私と感覚や考え方が同じだなぁ”と思うことがあります。

そして、ブログの内容が今の自分に丁度タイムリーなものであることもしばしばで、確か以前にも他にも同じように仰る方が居られることをブログで拝見したような気がします。
坂爪さんを中心に繋がっているような、不思議な糸を感じます。 

坂爪さんのブログで、特に私にとって大切なものは、瞬間日記というアプリに保存しております!!

今まで感謝の気持ちをお伝えしようと思いながら、なかなかメッセージを送れずにおりましたが、勢いで書いてしまい、纏まりのない文章で申し訳ございません。

でも、何が起こるかわからない人生。
あと数時間後に100%生きているとも言えません。
だからこそ、こうしてお伝えできて良かったです。



動物や植物、あらゆる自然に包まれながら、心身ともに健康で過ごすことができるように祈っております。



深夜のガストにて… 
                                  

○○○


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人生は続く。

〒413-0002
静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

ひととひととはわかりあえない。そのことだけは、わかりあえる。

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ラオスのルアンパパーンを経由して、カンボジアシェムリアップに到着した。たまたま予約をしたホテルが日本人宿で、日も暮れた頃、大勢の日本人たちとホテルのラウンジで「みんなで一緒に飲みましょうよ」的なノリが発生した。隣に座った男性が「お兄さんは何をしているのですか?」と尋ねる。私は「えっと、特に何をしているとかはないのですが、ブログを書いたりしています」と答えた。

男性は「へー!日本では、何処に住んでいるんですか?」と尋ねる。私は、話の流れから「ブログ読者の方が、熱海に家を購買してくれた」旨を簡単に話した。これがよくなかった。私の話は完全なネタになり、俺も家が欲しいからブログでも書こうかなとか、お前もブログを書けば家をもらえるぞとか、過去に何億回か体験してきたであろう地獄の時間を過ごした後、私は、その場を離れた。

集団心理と呼ばれるものがあるのかもしれない。多分、あの場にいた人たちも、ひとりひとりとしっかり話をすれば、それなりに心を通わせることもできたのかもしれない。しかし、多数決の原理が働くからなのだろうか、一対多数となった時、空間の雰囲気に私は完敗する。私の中にも「自分を正しく理解してもらいたい」と相手に願う、ある種の甘えがあったのだと思う。

シェムリアップ散歩

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カンボジアシェムリアップには、世界遺産でお馴染みのアンコールワットがある。自分は安上がりな人間だと思う。入場料と体調(数日前から、軽い頭痛が続いている)の関係でまだ足を踏み入れていないのだけれど、ホテルの近所を軽く歩くだけでも、カンボジアの風を感じることができた。こどもたちを眺めるだけで、花を眺めるだけで、晴れ渡る空を眺めるだけで、もう、充分だと思う。

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寺院の木陰で眠るタクシードライバーと、

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アンコールワット風の、近所の寺院。

知識を増やしてはいけない。

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シェムリアップ前に経由してきたラオスも、非常に素晴らしい環境だった。ルアンパパーン空港から市街地まで徒歩で向かう途中に「オールドブリッジ」という名前の、文字通り、非常に古い橋が架かっている。車の通行が許されていないこの橋を、現地のひともバイクで通過していくその傍らを、徒歩で渡っているのは、自分ひとりだけだった。たったそれだけのことが、強く、心に残る体験になった。


ありあまる知識は思い込みや先入観を増やし、ありあまる経験は瞬間の新鮮さを失わせる。どれだけ多くの知識を集めたとか、どれだけ多くの経験を重ねたとか、スタンプラリーを集めるような日々であることより、まだ、何もない、生まれたばかりのこどもの視点を、いま、生まれてはじめて目の当たりにした時の、あの、新鮮さを、積み重ねるよりも、積み減らすことを、私は、基点は「ゼロ」に置いていたい。

ひととひととはわかりあえない。そのことだけは、わかりあえる。

自分のことを正しく理解してもらいたいと願うことは、多分、甘えだ。そして、理解をしてもらいたいと思っておきながら、同時に、理解されてしまった(何かに括られてしまった)瞬間に「違うし!それだけじゃないし!」と、また別の自分が顔を出すことも頻繁にある。きっと、ひととひととはわかりあえない。ただ、わかりあえないという、そのことだけは、わかりあうことができる。


違いを許容すれば「正しさの幅」が生まれ、違いを許容できなければ「正しさの争い」が生まれる。稀に、出会うひとから「坂爪さんのようには生きれないけれど」と言われることがあるけれど、自分のように生きる必要など、微塵もないのだと思う。最近は、「自分みたいになれ」ではなく「あなたの代わりに生きている」という表現が、腑に落ちる。私は、あなたの代わりに生きていて、あなたは、私の代わりに生きている。あなたは、もうひとりの私で、多分、私は、もうひとりのあなただと思う。


バンコクでイベントを主催してくれたまさみさんのツイートと、後日、まさみさんから届いたメールを読んで、自分が大切にしていきたい感情を思い出した。あなたのすべてを理解することはできないけれど、あなたが覚えたその「感情」ならば、過去に自分も似たようなことを思ったことがある。だからなのだろうか、その気持ちが、とてもよくわかる。ひととひととはわかりあえないかもしれないが、しかし、感情は伝染する。私がしていきたいと思うことは、自分を触媒とした「幸福感」の伝達だ。




坂爪さん

こんにちは!
今頃はカンボジアの風に吹かれている頃でしょうか?

先週は本当にありがとうございました。
坂爪さんたちと別れた夜には、また別のお客様が日本から来て、バタバタと過ごした1週間でした。
バタバタだけが要因でなく、自分に起こっていることをなかなか言葉にできずにおりました。

しかし、その合間にも、いろんな方が感想を伝えてくださったり、ブログにかいてくださったり、あの日出会った方とお茶をする約束をしたりと、後からもたくさんのギフトをいただけた1週間でした。

「わたりカフェ」、企画しだした当初は、実はちょっと「やらねば」という気持ちがありました。

しかし、「うまくやろうと思わず、楽しんでやろう!」と思えたところから、ようやくワクワクが始まった気がします。「楽しく」は、私の課題なんです(笑)

皆さんと会うまでは、いろいろ話をしたいと思っていたのですが、始まって、いらっしゃった方たちの様子をみてたら、なんか良い意味で「どーでもよく」なっていました。(笑)
坂爪さんとちょっと離れたキッチンからの眺めを一緒に見て、幸せな気持ちを共有させてもらえた、あの瞬間だけで私の気持ちは「満腹」だったんじゃないかと思います。

満腹だと、あとは全部溢れていきますね(笑)

結果的に、皆さんがいろんな気づきを持って帰って下さったり、良い気持ちになってくださったり。

それを後日伝えていただいたことで、時間の経過につれ減ってくるお腹を、また満たしてもらえました。^ ^

なんという循環!!!

これが「わたりカフェかー!!!」と、身をもって体験しました。


お話会では、「稼ぐの苦手なんで」と、テヘヘと笑う皆さんの様子を見て衝撃を受けました。

私もそうなんですが、こういうのすごく抵抗があったんです。
でも!
いいのかー!!!
苦手なんでって、いっちゃえばいいのかー!!!

すごく気が楽になりました。

今、1週間経っても、思い出すと、すごく幸せな空気に包まれているのを感じます。

日本に帰っても、この幸せな感じを忘れたくないです。親子共々。

本当に素敵な時間をありがとうございました!

ではではまた日本でお会いできる日を楽しみにしております。

それまでは、濁らずこのままいけるように、残りのバンコク生活楽しみたいと思います!

それでは、良い旅を!

まさみ



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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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歩き出す前が、一番疲れている。

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チェンマイを経由して、ラオスのルアンパパーンに来た。金欠を理由に、チェンマイ旧市街からチェンマイ空港まで徒歩一時間程度を歩き、約一時間のフライトを経て、ルアンパパーン空港から市街地まで徒歩一時間程度を歩いた。飛行機には飛行機の、車には車の、徒歩には徒歩の風景がある。メコン川に沈む夕日が綺麗だった。

最近では、様々な場所を徒歩で移動するようになっている。行動範囲に限りはあるものの、現地の人達の暮らしや、戯れる子供たちや、犬や、猫や、眼前に開けた空を眺めているだけでも、エネルギーが漲って来る。文字通り、自分の足で歩くということ。たったこれだけのことが、自分自身をその土地に馴染ませるばかりか、忘れていた何かを取り戻すことができる。

ルアンパパーンの托鉢僧。

ルアンパパーンの市街地に到着し、予約をしていたホテルに荷物を降ろしたのが夜の19時頃。値段とは裏腹に豪華な室内に気分を良くした私は、ホテルの中をうろついていた。無料の洗濯機や無料のドリンクコーナーもあり、屋上のテラス席からは綺麗な三日月を眺めることができる。ラオスの夜は、日本の初夏の夜のように過ごしやすい気候で、今夜はここで静かに読書でもしていようかなとも思ったものの、ふと、思い立って夜の市場に足を向けた。

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レストランや土産物屋や幾つもの屋台がひしめく中に、露天の雑貨屋に並んでいた、托鉢僧のデザインの小物に目が止まった。オレンジ色の袈裟を来て、ごく少数で、限りなく少ない荷物と共に、前に、前に、足を進める托鉢僧の後ろ姿に、勝手なシンパシーを覚えてしまった。

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移動の多い生活をしているために、長距離を徒歩で移動する機会は頻繁にある。正直に言えば辛さを覚える中でも、これもある種のトレーニングだと自分の背中を押してみたり、無心になることを試みたり、ゴールではなく踏み出す一歩だけに集中したり、好きな歌を歌ったり、好きなひとを思い出したり、うつむきがちになる視線を「これではいけない!」と前に向け、空を仰ぎ、自分で自分を励ますことで乗り越えてきた。

歩き出す前が、一番疲れている。

昔、何かで「歩き出す前が、一番疲れている」という言葉を読んだ。もしも、私がホテルを離れずにナイトマーケットにも行くことがなければ、この、ルアンパパーンの僧侶と出会うこともできなかった。歩き出す前は億劫に感じることでも、歩き出せば、実際に行動を起こしてしまえば、吹き抜ける風や、自分を鼓舞してくれる様々な何かと出会うことができる。この「何か」は、頭で考えては勝手に磨耗していただけの自分の疲労を爽やかに、軽やかに、吹き飛ばしてくれる。

いま、私は、移動を続ける日々の中にいる。しかし、私は、自分を旅人だとは思えない。ひとに会い、ひとと話し、喜捨を受け、お布施を受け、別れを告げ、出逢いを元に、先に進む。先に進むが、何処にも行かない。私は、常に、途上にいる。明日の身もわからない。ただ、流れている。ただ、遍歴をしている。

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。ー 鴨長明方丈記

6月25日(土)に日本【福岡】に戻ることが決まったので、この日から、一週間程度「喜捨JAPAN@福岡遍歴」をやることになりました。基本的には、会いたいと言ってくれるひとと会い、話したいと言ってくれるひとと話す(何もなければひたすら歩く)数日間になります。坂爪圭吾との面会(?)をご希望される方がいらっしゃいましたら、ブログ末尾の連絡先よりご連絡ください。詳しい日程などは、下記リンク先より随時更新いたします。


絞り出すではなく、溢れ出す。

数日前にタイのチェンマイで開催されたイベントには、バンコクやムンバイやマレーシアや日本からも遊びに来てくれた人達がいた。マレーシアから来てくれた女性は、行くかどうかを物凄い悩んだ挙句、やりたいことをやってこその人生だろうと発奮し、前日(!)に航空券を予約して主人に内緒で子供と一緒にやって来た道中、なんと、クアラルンプールの空港で神様からのギフト【1000リンギッド札を20枚(約5万円)】を拾ったのだと話してくれた。その話し方が、その時の身振り手振りが素晴らしく印象的で、イベント終了後にはLINEでメッセージをいただいた。


坂爪さん、遅い時間に失礼致します。

今日、いばやトークに参加させていただいた○○○○です。

興奮冷めやらず、こんな時間にラインしてしまっています、お許しください。

今日はお会いできて、本当に楽しかったです。

今まで坂爪さんの言葉に沢山の勇気をいただいてきましたが、今日直接お会いして、同じ場所で同じ空気を感じることの凄さ、素晴らしさを改めて感じました。

やっぱり、リアルにかなうものなし!です。

言葉ではなく、感覚でたくさんのことを教えていただいた気がします。

いいとか悪いではなく、ただそこに坂爪さんとして『在る』『在ろうとしている』んだなあと思いました。

私も私の全てを今のまま、受け入れていきたいです。


このような機会を与えてくださった全てに感謝しています。

そして、このような行動を起こせた自分にも、拍手したいです。

おやすみなさい。

またどこかでお会いできることを楽しみにしています。


千葉県からはるばる来てくれたムエタイ選手の男性は、イベント開始直前に到着する飛行機に乗って、急ぎ足で会場まで駆けつけてくれた。ムエタイをやっているということをひけらかすような態度は微塵もなく、ただ、いま、ここに来れたということを喜んでくれた男性の姿に、見ているこちらまでこみ上げてくる嬉しさに包まれた。二人とも、ほんとうに美しい瞳と、素晴らしい表情と、清々しい空気を身に纏っていた。イベント終了後に御礼のメールをしたところ、その日の内に返信が届いた。


まさかの
ご連絡とても嬉しいです


こちらこそ
チェンマイまで来るナイスなきっかけになりました

実際に payacaさんに出向いた事で
けいごさんを はじめ
普段じゃまず
出会えない
様々な環境、考えの方達との交流、、
サイコーでした

タイに来て
数時間にて旅の醍醐味は
ほぼ満たされました笑


少し勇気を出し
メールを送り
チェンマイへ行ってみて
よかったです

けいごさん
ありがとうございました

皆さんにもありがとうと言いたいです




では

เราจะได้เห็นคุณอีกครั้ง


ひととひとの出会いの中には、言葉にすることのできない、大きな、大きな、喜びがある。無理をしてまで自分を絞りあげるのではなく、内側から込み上げてくる抑えきれない何かが溢れてくる、いてもたってもいられなくなる、泉のような思いに包まれた時、生きていることの豊かさと、純粋な幸福感、確かな生命の躍動感を覚える。ひとがひとを思う気持ち、ひとが何かをやりたいと思う気持ち、ひとがひとつの命を生きていきたいと思う気持ちは『絞り出すものではなく、溢れ出すもの』なのだと思う。そして、自分の内側にある溢れ出すスイッチを押すために、私は、また、遍歴をしているのかもしれない。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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人生とは、ボーナスタイムである。

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バンコクを経由してチェンマイにはいり、旧市街界隈を散策した。今日は、チェンマイで開催されるトークイベントに登壇する。私が怠惰な人間だからなのだろうか、海外に足を運んでも「せっかく来たのだから、ここでしか見れないものを見たい!」という気持ちになることはあまりない。現地に到着し、現地の風を浴びて、現地の飲み物を飲みながら、現地のひとを眺めたら、多分、私はすでにゴールをしている。あとは、もう、おまけみたいなものだ。


おまけという感覚を、最近、人生全般に対して感じている。これまで生きてきて31年間、自分のやりたいようにやらせてもらった。いいこともあれば、悪いこともあった。振り返れば、もし、明日死ぬことになっても「それなりに生きてきたなあ」と思える日々を過ごしてきた。それなのに、まだ、生きていてもいいのですかと、これだけ楽しませてもらったのに、まだ、半分も終わっていないのですかと、これはもう、ボーナスタイムみたいなものではないですか!!と、稀に、何かに感謝をしたくなる時がある。

人生とは、ボーナスタイムである。

トークイベントなどに登壇をすると「坂爪さんのような生き方は、年をとったらできないじゃないか、結婚をしたらできないじゃないか、健康じゃなくなったらできないじゃないか」と言われることがある。確かに、そのひとの言う通りなのだと思う。だからこそ、私は言いたい。だからこそ、いま、こうしてやっているんじゃないのかと。いつか踊ることさえもできなくなる日が来るからこそ、いま、この瞬間を踊っているんじゃないのかと。過去でもない、未来でもない、なぜ、いまという瞬間をしっかりと見てくれないのだろうかと、そういう気持ちになる。

自分のような生き方は、たまたま偶然が続いているだけに過ぎない脆くて頼りのない生き方で、来月には死んでいるかもしれない、10年後にはあらゆる社会的な信頼を失ってどん底の生活を送る羽目になっているかもしれない。先のことはわからない。ただ、先のことはわからないのは「私だけではない」はずだ。同じように、どのような生き方をしてきたとしても「生きている」ことに変わりはない。

そんなんじゃ生きていけないよという言葉を、多分、これまでに百億回は聞いてきた。しかし、そんなんで生きてきてしまった身としては「自分みたいに生きろだなんて微塵も思わないから、正しさの勝負をしたいとも、自分の意見を押し付けたいとも思わないから、ただ、そんなんで生きてきてしまった人間の生き方を、単純に面白がってもらえたらうれしい」と思う。そんなんじゃ生きていけないと思っていたことが、必ずしもそうではないのかもしれない【道はいくらでもあるのだ】と感じた瞬間に吹く風が、多分、自由だ。

日本に生まれた恩恵を。

日本に生まれただけで、私達は、サイコロで言えば6が出ているようなものだ。日本が完璧だとは言わないが、まず、日本語が通じる。蛇口を捻れば水が出て、街並みもトイレも清潔で、デパ地下や炊き出しに行けば飢えることもなく、生活保護職業訓練などの支援もあって、パスポートがあればビザなしで行ける国が大量にある。足りない部分をあげればキリがないが、足りない部分があるからこそ、補完していくことの喜びを味わうこともできる。


距離が人間を近付けることもあるみたいだ。

出会ったことのないひとよりも、出会ったひとを大切にしたい。

ブログなどを書いていると、まだ、会ったことのないひとからこころの無い言葉が届くことがある。そんな時、私は、露骨に傷を負っている。ぐはぁ!と叫び、見て見ぬ振りをしながら届いたメールなりなんなりを即座に削除はするものの、悪意に触れた瞬間に感じる不穏な空気、心臓の痛み、感情の荒波をごまかすことはできない。批判を受けることには徐々に慣れてはきたけれど、慣れたからといって、無傷でいられる訳でもない。

そんな時に、まさに傷ついているど真ん中の最中に、バンコクで開催されたイベントに来てくれた女性から、一通のメールが届いた。正直な言葉には、聞くひとの心を動かす目には見えないエネルギーがあるのだと思う。その力が、その思いが、その瞬間の煌めきが、文面からも伝わってくる素晴らしい内容だった。そして、私は「出会ったことのないひとよりも、出会ったひとを大切にしたい」ということを思った。

自分の嫌いなものではなく、自分の好きなものに使ってこその命だ。自分の気持ちをごまかすことは、自分の感情を打ち消すことは、自分を否定する出来事を受け入れてしまうことは、大袈裟な言葉で言えば『小さな自殺』だと思う。それならば、できることならば、素直でいたい。正直でいたい。出会ったことのないひとよりも、出会ったひとを大切にしたい。そして、いつか踊ることさえもできなくなる日が来る時まで、クリアな言葉で、クリアな気持ちで、ボーナスタイムを駆け抜けて行きたい。



バンコクわたりカフェに赤ちゃん連れで参加した○○○○です^^

一瞬の出会いでしたが、わたしなりにことばにしたい思いに駆られました。
子どもと育つ世界にどっぷりの日々のわたしにとって、坂爪さんと、team0のお二人のまとう空気感はどこまでも眩しく、20代のお二人の笑い声さえも、とてつもなく懐かしく遠くに感じ入ってました(笑)
子どもがいるせいか、お三方も子どもに見え(笑)どーやったらこんな風にどこまでも生きる力がつくのか、3人3様の生き様に一瞬でもクロスし、エッセンスを貰ったような気がします。

会場にいて、こんなに『ありがとうございます』と言う人を初めて見ました。坂爪さんから発せられる『ありがとうございます』は、相手を通り越して自分に返しているかのような、透明なことば。
いやー、これこそが、長年の生活の重みなのかと、聴き入ってしまいました。

わたくし、日本では家族一緒に暮らし、タイに赴任して週末同居の単身赴任となり、家族とはなんぞや?という問いが頭の中にずっとありました。消しても消しても。心にぽっかりと穴があいた時がしばらく流れいました。
わたりカフェを後にして、階下に下りると、『おかあーさーん』と2人の子どもが駆け寄ってきて、(たった)2時間ぶりの再会なのに、両手を広げて求め合い、この瞬間、言葉にはならない(家族とはなんぞや?)の答えがからだの隅々まで入ってきてグァーンと満たされました。
答えは感覚としてしかないけれど、一瞬で何かがやってきて、もう充分だよの思いが溢れてきました。

凛とした生身の坂爪さんに、まさか!のバンコクでお会いできて、眼差しをみれただけで、わたしは語ることもなくいっぱいいっぱいだったようで。坂爪さんの『ありがとうございます』の風が今でも心地よく吹いています。
何もかもが充分満たされている。言葉ではなく、思いで満たされた日曜日の夕方
果てしない偶然が続くことを祈って。よき旅となりますように。

○○○○




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人生は続く。

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どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残る瞬間のど真ん中を。

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関西空港を経由してタイのドンムアン空港に着き、5日、バンコクで開催されたわたりカフェ&トークイベントに登壇(?)した。大勢の人々がはるばる遊びに来てくれて、また、参加者のひとりひとりの雰囲気がとても柔和で素晴らしいもので、心に深く残る1日になった。ほんの一瞬の出来事だとしても「いま、このひとと心を通わすことができた」と思える瞬間の中には、言葉にならない喜びがある。

最近思うことあれこれをまとめます。

1・自分を開けば、世界も開く。


こんなにもたくさんのひとが来てくれるとは思わず、ただ、ただ、感動してしまった。日本から来てくれたひともいた。小さなこどもたちもたくさんいて、見ているだけでも元気を貰えた。自分がいまいる場所を好きになるかどうかは、多分、自分の心理状態に大きく依存している。自分を開けば、世界も開き、幾つもの素晴らしい側面を見せてくれる。平和とは、外的な要因ではなく、心の状態だと思う。自分を閉ざせば、世界も閉じる。幾つもの素晴らしいものたちも、そのまま、流れ去ってしまう。

2・悪を糾弾する心も、同じように悪である。


私は、誰の生き方も否定をしたくない。他人がしたことやしなかったこと(してくれなかったこと)ではなく、できることならば、自分がしたことやしなかったことだけに集中をしていきたい。理由は単純で、私は弱い人間だからだ。他人の生き方にああだこうだと言いたくなっている時、私の心は静けさを失い、波風が立って、乱れている。乱れた心のままでは、自分で自分を護ることが難しくなる。大切なことは、他人の濁りを指摘することよりも、自分の純度を高めることだ。

3・ヘタクソなままでいいし、ヘタクソなままがいい。


コミュニケーションの本質は、何を話すかよりも「どのような気持ちで話すか」に宿るものだと思っている。心のない言葉は、どれだけ綺麗でも、どれだけ耳当たりの良いものだとしても、聞く人の心には届かない。語彙力はなくても、自分の気持ちを的確に表現できる言葉は見つからなくても、まっすぐに、精一杯に何かを伝えようとする人の姿には、見る人の心を動かす力が宿る。言葉だけではない、多分、私達は「言葉を含めた身体全体」を通じて、コミュニケーションを交わしている。

4・自分の弱さを認めた分だけ、他人に優しい人間になる。


自分の強さを認めた分だけ、他人に厳しい人間になる。自分にもできたのだから、お前もやればできるのだと、何かをできないひとの姿を「努力が足りない」からだと叱責をする。厳しさは萎縮を生み、そのひと自身が本来持っていたはずの力さえ、芽が出る前に潰してしまうこともある。きっと、弱さとは「自分の弱さを認められない弱さ」のことだ。自分の弱さを認めた分だけ、他人に優しい人間になる。弱さを認められた土壌の上にだけ、咲く花もある。

5・一般的な幸福に惑わされると、自分の幸福を見失ってしまう。


月並みな言葉になるけれど、いままで、何度も何度も目にしては通過してきた言葉になるけれど、大切なことは「他人がどう思うかということではなく、自分がどう思うかということ」だ。誰も理解者はいなくても、いまはまだひとりきりだとしても、自分の心は確かに素晴らしいと感じたものならば、紛れもない、それは本当に素晴らしいものなのだ。





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6・自分が溶け出していくこと。


抽象的な話になるけれど、俺が、俺が、となっている時、そのひとは(水に例えるならば)固体の状態になっている。固体は硬い。氷は冷たい。何かと交わることもない。それが徐々に溶け出した時、そのひとは固体から液体になる。液体は流れる。温度も上がる。周囲の液体とも混ざり合う。そして、最終的には気体になる。素晴らしいひとの存在は、まるで、そこにいるだけで周囲の空気を変えてしまう力がある。固体から液体へ、液体から気体に変化していく過程の中に、自分の純度を高めるヒントがあるような気がしている。

7・何度でも、宝物を探しに行こう。


わかってしまう(先が見えてしまうことに対する)退屈さもあれば、わからないことに対する不安や恐怖もある。同時に、何かを理解することの楽しさもあれば、自分は何もわからないということをわかる楽しさもある。ひとつの答えを常に胸に抱き続けることは、人間には、とても難しいことだ。だからこそ、僕達は、生きている限り見つける楽しさを喜んで行ける。

8・無理をすることは、ガチガチの固体。


バンコクのイベントを主催してくれたまさみさんは、とにかく素直で、リアクションも豊かで、かといって誰かに気に入られる為にしている訳でもない、ただ、そのまま、自然なままでそこにいる姿が、ほんとうに素敵だった。ほんとうに素敵なひとは、ほんとうに可愛い。無理をすることは、ガチガチの固体だ。何かをしなければいけないとかではない、頭ではない、ただ、自然に「何かをしたくなってしまう」瞬間の中に、透明な魅力は宿るのだと思う。

9・同じ気持ちを分かち合う。


あのひとのことばかり考えている。

10・どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残る瞬間のど真ん中を。


トークイベントなどに出演をすると「夢や目標はありますか」と尋ねられることが頻繁にある。その度に、私は「特にありません」と答えていた。誰かに胸を張れるような夢もなければ、自分のモチベーションを高めるような目標もない。そんな自分をダメだなあと思う時期もあったけれど、しかし、ないものはない、無理矢理何かを用意をしたとしても何処か違和感がある、それならば「夢も目標もないままに生きる」しかない、それでいい、そのままでいい、そんな風に自分のことを思っている。

夢も目標もない自分にも、強く感じている部分は二つある。ひとつは「言葉に対する執着」のようなもので、何処にいても、何をしても、私は、言葉を綴ることをやめなかった。誰かに頼まれている訳でもないのに、それで生計が成り立つ訳でもないのに、ひたすらに、ひたすらに、自分が感じていることを言葉に置き換え続けてきた。それは、まるで自分の生きた証を残すかのように、自分の心臓に消えない刺青を掘るように、自分の内部に強く刻まれている。言葉を綴り続けること、そこに、私は自分が生きていることに対する大きな何かを感じている。

そして、もうひとつは「毎日、今日も生きたと思って眠りに落ちたい」という思いだ。いまの私には、固定された夢も目標も何もない、ただ、こどものような愚直で幼いこの願いしかない。どのような1日でもいいから、どのような日々を過ごしたとしてもいいから、心に深く残るような瞬間のど真ん中を。バンコクに沈む夕日が綺麗だった。心に染みる、素晴らしい夕日だった。きっと、いまの自分にも夢はある。いまの自分にも目標はある。燦然と輝く、いまの自分にも理想はある。それは、今日も生きたと思って毎晩眠りにつくことであり、最後の瞬間に「俺は生きた」と思いながら、こどもが眠るように、人生に幕を降ろすことだ。

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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたい。

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片道1700円の高速バスで横浜から京都に向かい、滋賀県近江八幡を経由して、いま、京田辺駅近くのカフェにいる。これから神戸のハーバーランドに向かい、明日の夜には関西空港からバンコクに向けて出発をする。お金がないために、多分、その日はドンムアン空港の路地裏に宿泊をする。バンコクでは、現地在住の日本人女性の方がイベントを企画してくださることになり、軽目の交流会が行われる。たまたまバンコクにいるぜ!という方は、誰でも気軽に遊びに来てください。


バンコクのあとはチェンマイに向かい、こちらでも、現地在住の日本人男性の方がイベントを企画してくださることになった。たまたまチェンマイにいるぜ!という方は、誰でも気軽に遊びに来てください。その後は、日本在住の女性が「インドに行きたいのですが、ひとりで行くのはちょっと怖いので、よかったら交通費などは負担するので一緒に行ってください」と連絡をくださり、(時間的に余裕があるためにラオスカンボジアベトナムを経由した後に)16日からインドのチェンナイとバンガロールに足を運ぶ。


世界を舞台にはしているものの、活躍はまったくしていない(要するに暇である)私は、自分の連絡先とスケジュールをWEB上で公開している。それを見てくれたひとが「おお、この日程はさかつめの予定がガラ空きだ。それならば、こんなことをお願いしてみよう!」という感じで、様々な依頼を投げ込んでくれる。私も、出来ることならばご要望に添えるように動いている。その結果、インドにまで足を運べることになった。人生は不思議だ。海外でも莫大な暇を持て余しているので、何かありましたら誰でも気軽にご連絡ください。

【坂爪圭吾のスケジュール】坂爪圭吾

※※※ 追記 ※※※

こちらの記事を見てくれた新潟県在住のC様が、非常にありがたいことに3日の宿を予約してくれました。この場をお借りして大感謝いたします。C様、ありがとうございます!!

近江八幡「日牟禮八幡宮

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日牟禮八幡宮の景観が素晴らしかった。

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近江八幡在住の女性から「久しぶりにお会いしたいです」的なご連絡をいただき、足を運んだ。ここでしか食べることのできないという『つぶら餅【たねや】』が抜群に美味しかった。最近は「言葉にならない」と感じることが多い。景観の素晴らしさも、食事の美味しさも、自分の心が覚えた気持ちも、言葉にした途端に「(それだけではないのに)それ以外のものを取りこぼしてしまう」感覚を覚える。言葉の非力さは、同時に、自分の非力さでもあるのだと思う。

尾賀商店「(坂爪史上最高の)近江牛カレー」

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これを食べるためだけにでも再訪をしたい。

近江八幡「ラコリーナ

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屋根が芝生でキュートだ。

大津駅「琵琶湖」

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空の青が。

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雲の白が。

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芝の緑が。

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吉井和哉風に言えば「天国旅行」だ。

コップに半分の水。

滋賀県を経由して京都駅に戻り、宿のなかった私は「(家のない生活をしていた頃にお世話になりまくった)あのひとに連絡をしようかな、でも、どうしようかな」と3時間ばかり逡巡していた。夜の10時を目前に控えた頃、意を決した私は京田辺在住のMさんに「突然ではありますが、お邪魔じゃなければお邪魔をしたいです」と連絡をした。すると、Mさんは「もちろんです!」と快諾してくれた。

Mさんとは「コップに半分の水がある」的な話をした。よく、コップに半分『も』水があると思うのか、コップに半分『しか』水がないと思うのか(ポジティブに考えるか、ネガティブに考えるかで全然違う)的な話を耳にすることがあるけれど、私は、このような話があまり得意ではない。別に『も』とか『しか』とかは不要で、ただ、コップに半分の水がある。『も』とか『しか』とかじゃない、ただ、コップに半分の水がある(ただ、そうである)だけ。以上。それだけでいいじゃないか、と思う。

金がないなら「金がないなあ」だけでいいし、家がなければ「家がないなあ」だけでいいし、友達がいなければ「友達がいないなあ」だけでいいし、さみしいときは「さみしいんだなあ」だけでいいし、ただ、そうであるだけのことを無理に前向きに捉えようとしたり、過剰に後ろ向きに捉えてしまうことは、また、別の問題を引き起こしてしまうような気がしている。そういう話を、Mさんとした。

カテゴライズされることへの違和感。

Mさんは言った。家がなかった頃の坂爪さんには、何かこう、もっと尖った部分とか『何かやばいことをしてやろう!』とか『固定観念を破壊してやろう!』いうギラギラしたものを感じていたのですが、いまは、仏教的な、ある種の慈悲深さというか何というか、あの頃とはまた違った性質を帯びているように感じるんだけど、最近の坂爪さんでも『これは許せない!』とか思ったことはあるのですか。

私は答えた。昔は、いわゆる権力などと呼ばれるものが大嫌いでした。俺は偉いとか、俺の言うことを聞け的なことを言うひとをみると「うるせー!ばか!」とか「お前は誰だ!」とか「なんぼのもんじゃい!(自分を偉いと思うヤツに偉い人間はおらん!)」と、まっこうから否定をしたくなっていました。でも、いまは、ああ、こういうひとっているよなあ(そして、こういうひとの話を聞きたがるひともいるよなあ)、でも、俺は違うなあと、自分と他人を分けて考えることができるようになりました。

ただ、最近でも「カテゴライズされてしまうこと」に対する抵抗は強くあるみたいです。あなたはこういうひとだよねとか言われてしまうと「違うし!」とか「俺がノイズキャンセラーだったら、お前、消されてるよ」などと反発をしたくなってしまうのですが、きっと、まだ、いまの自分は固定することも固定されることも大嫌いな(というか、固定されると死ぬ)のだと思います。そういう話を、Mさんとした。

海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたい。

琵琶湖に打ち寄せる波を眺めながら、自然はいいなあと感じていた。海でも、空でも、動物でも、植物でも、自然はいいなあと感じるとき、同時に「本来であれば、自分も自然の一部なんだよなあ」という当たり前のことを思う。自然が素晴らしいのは、ただ、ありのまま、裸のまま、剥き出しのままでそこにあるからだ。海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、なぜ、自分のことを愛することができないのだろうか。


ありのままであるということ。頻繁に耳にする言葉だ。頻繁に耳にするからといって、しかし、簡単なことではないのだと思う。誰かに追いつこうとしないこと。誰かを引き離そうとしないこと。誰かに縛られ過ぎたりしないこと。誰かを過剰に尊敬したりはしないこと。誰かに勝とうとは思わないこと。誰かに負けたくないとは思わないこと。誰かではなく自分を主語に、自分の日々に集中をすること。


あんまり先のことを考え過ぎてはいけないのだと思う。自分以外の誰かの言葉に、影響を受け過ぎてはいけないのだと思う。どれだけ悪足掻いてみたところで、自分は、自分以外の何者にも成り得ない。特別な人間にはならなくても、特別な何かをしなくても、ただ、自分のこころが「いいな」と感じる瞬間を積み重ねた先に、きっと、特別な人生はある。静かなものは、ありのまま、そのままの姿で、満ち足りている。海や空を愛するように、動物や植物を愛するように、自分の中にある自然を愛していきたいと思う。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
TEL 07055527106 LINE ibaya
MAIL keigosakatsume@gmail.com

死なないために、生きている訳じゃない。

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湘南江ノ島で開催された「わたり喫茶」があまりにも素晴らしく、ハートに風がびゅんびゅびゅびゅびゅぅんと吹き抜けた。ああ、この瞬間は最高だなと思える瞬間の中には「風が吹いた」よろこびがある。長い間、換気をすることのなかった部屋の窓を開けた時のような、こころのリンパに溜まった老廃物が流れ出すような、新鮮な感覚を覚える。生きていると死にたくなることも結構頻繁にあるなかで、同時に、生きているということは本当に素晴らしいものなのだなあと心の底から思うことができる。

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風が吹き抜けた10の瞬間をまとめます。

1・ちあきさんが素晴らしかった。

誤解を恐れずに言うと、私には「(自分を含めて)人間はクソだな」と思う瞬間がある。生まれたときには綺麗だったはずのヒューマンが、年を重ねるごとにどうしても避けられない汚れを抱えてしまい、やがて、大半の人間は薄汚れてしまう(そして、自覚も同時になくしてしまう)ものなのだろうかと思ってしまう時がある。そこに自分の意識がフォーカスされてしまっている時は、何かこう、人生全般ってクソだなという気持ちにもなってしまうことがある。

私は、自分のことを「表面的にはオープンだけど、実際は非常にクローズドな人間である」ような気がしている。自分でイベントを開催しておきながら、誰よりも早く集団の輪の中を飛び出して、自分の殻の中に閉じこもり、閉じこもっておきながら誰かに声をかけられることを待っていたりもする。そんな自分の面倒臭過ぎる心の扉をノックして「外に出ておいでよ」と寄り添ってくれるものは、たとえば、湘南江ノ島でラムピリカという素晴らしい喫茶店を営むちあきさんのような人間だ。

ちあきさんをはじめて、私は、心の綺麗なひとの存在に物凄いエネルギーで支えられている。自分を含めて人間全般を諦めてしまいそうになるときに、綺麗なままでいてくれるひとがいるということが、そのままで生きていてくれたひとがいるということが、どれだけ、自分の支えになっているのだろうか。具体的に何かをしてくれるという訳ではなく、ただ、そのひとが生きているというそのことが、たまらなくうれしくなる。

2・さとみさんの「ピットイン力」

昨日は、足もみ師のさとみさんもいてくれた。絶対的・相対的に共に弱者である私は、ひとと話しているときに気軽に傷ついてしまうことができるのだけれど、そういう時は「さとみさん、ちょっと聞いてくださいよ」と擦り寄りながら愚痴を吐く。器の大きいさとみさんは、私の話を、うなずきながらしっかりと聞いてくれる。昨日も、ことあるごとに勝手に自爆をしながら周囲を浮遊している私を、さとみさんは優しく受け入れてくれた。

私がF−1の車ならば、さとみさんはピットイン的な存在になる。基本的にギュインギュインとトラックをエンジン全開で爆走する私は、(割と早い段階で)故障かな?と思った瞬間に、さとみさん的な存在にピットインをして軽い修繕を行う。そして、新たな気持ちで再びトラックをギュインギュインと爆走する。ピットイン的な存在がいなければ、私は、路上で爆死をしていたのだろうなあと思う。さとみさんをはじめ、自分には「ピットイン的な存在がいるのだ!」と再認識できたことがうれしかった。

3・葛飾北斎の観察力。

私が「さとみさんは何を思っていたのですか?」と尋ねると、さとみさんは「打ち寄せる波を眺めていたのですが、見れば見るほどに、葛飾北斎の絵とまったく同じように見えてきて、北斎は、ほんとうに対象をじっくりとじっくりと観察をしていたんだなあと思っていました」と話してくれた。どうしてなのだろうか、私には、さとみさんのこの言葉が深く胸に刻まれた。

対象をじっくりと観察すること。いつもよりも、耳を澄ませること。いつもよりも、じっくりと見つめること。ひとも、自然も、見つめれば見つめるほどに『その、存在のすごさ』にハートが圧倒されるはずだったのに、宮本武蔵風も「(目で)見るのではなく(心で)観るのが大切でござる」とおっしゃっていたはずなのに、最近の自分には、そういう時間が足りていなかったことを反省した。

4・ルキノさんと出会えた。

7月9日(土)に大阪のロフトプラスワンで一緒にイベントをやることになっているルキノさんが、はるばる、東京から江ノ島まで遊びに来てくれた。この日が初対面になったのだけれど、私は、とにかくルキノさんと実際に話せたことがうれしかった。この感覚をうまく説明することはできないのだけれど、ルキノさんと同じイベントに出ることが決まった時に「最高の遊びの予定がはいった!」という気持ちになった。

私は、魂が綺麗なひとが好きだ。魂などという言葉を使うと非常に胡散臭いものに響くかもしれないけれど、しかし、現在の自分には「魂」としか言えない部分を感じることが頻繁にある。私は、会ってもいないくせに「ルキノさんは、きっと魂の綺麗なひとなのだろう」と勝手に思っていた。そして、これから自分の予感が確信に変わるまでの時間を、いま、ほんとうに楽しみにしているのだと思う。

5・冬樹さんの「死なないために、生きている訳じゃない」

イベントの途中、男女4人でテーブルを囲みながら話をする時間があった。ひとりの女性が「(非常に乱暴にまとめると)いまの仕事に悩みがあって、ほんとうは好きなことをやりたいんだけど、生活もあるからお金に対する思いを消すこともできない」と話していた。それを聞いていた冬樹さんという男性が、自分の思いなどを交えながら幾つかのたとえ話をしてくれた。

話の詳細は省略するが、その途中で「死なないために、生きている訳じゃないんだ」ということを、冬樹さんは満面の笑みで話していた。その姿が、その表情が、その表情の奥にある冬樹さん自身の過去の実体験や『悲しみを通過した優しさ』から伝わる何かに、私のこころはひどく感じ入ってしまった。死なないために、生きているんじゃない。そうだよな、と、思う。俺たちは、何も、死なないために生きている訳じゃないんだ。



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6・みさとちゃん(仮名)の笑顔。

イベントにみさとちゃん(仮名)という名前の二十代の女の子が遊びに来てくれた。優しくて可愛くて真面目そうなみさとちゃんは「自分には価値があるのだと思えるときもあれば、自分には何も価値がないのだと思うときもあって、自分の中にいる『みさとA』の声と『みさとB』の声にすごい悩まされることがあるのですが、坂爪さんは、そういうときはどうしているのですか」と聞いてくれた。

私は「では、『みさとC』を登場させるのはどうでしょうか?」的なことを答えた。みさとCにはゴリゴリのオラオラ的な所があり、価値があるとか価値がないとかで悩むA&Bに対して「無価値で何が悪い」と、無価値であることを肯定するある種の開き直りを見せる。彼女の口癖は『無駄こそJOY』であり、みさとCは、無意味に意味を覚え、無目的に目的を見出し、無価値に価値を観る。そういうキャラクターを自分の中に培うというのはどうでしょうか??的な話をした。

私の話はどうしようもなく支離滅裂なものになってしまったけれど、みさとちゃんが、私の話を聞きながら笑顔になってくれたことがうれしかった。そして、帰り際に「なんだかいろいろなことがどうでもよくなりました」と声をかけてくれたときに、ああ、いま、確実に俺たちの間に風が吹いているなあといううれしさを覚えた。いろいろなことが、後ろ向きな意味ではなくどうでもいいことのように思えたときに感じるこの気持ちこそが、きっと、自由だ。


7・空海と「俺は、一喜一憂していたいのだ」

最近の私は禅的なサムシングにはまりすぎていて、幸せになりたいと思うから不幸になるのだ、執着があるから、欲望があるから苦しみも生まれる訳であって、自分をなくせば、欲望を消せば楽になれるのだという思考に(非常に短期間ではあったものの)はまりつつあった。しかし、空海の思想にまつわる本を読みながら、ああ、俺はやっぱり(人間の欲望や煩悩や執着をする思いなども含めて)生きているということをまるごと肯定していたいのだ、という思いに立ち返った。

空海は「無我より大我、無欲より大欲」というようなことを言っている。この言葉を私なりに解釈すると「自我を消すなんて無理だよ、同時に、欲望を消すなんて無理だよ、自我や欲望があってこその人間なんだ、大切なことは欲望を消そうとすることよりも、どうせなら『自分のため』だなんていうけち臭いものに囚われるよりも、人類全体が幸福になってしまうようなビッグな欲望を抱けよ」ということになる。

直近の私は「一喜一憂する自分はダサい!もっと落ち着きたい!」などと思っていたけれど、いまでは「ああ、俺はなんだかんだと言いながら、一喜一憂していることを楽しみたいと思っているのだ。感情の揺れがなくなることよりも、感情の荒波に揉まれながら(時には溺れながら)、ああでもないとか、こうでもないとか、死ぬ!とか、生きる!とか、ギャーギャー言っていたいのだ」と思った。

8・「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」

わたり喫茶に参加をしてくれた女性が、終了間際、ほんとうに、ほんとうに楽しそうな表情を浮かべながら「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」と話してくれた。その言葉が、その表情が、ほんとうに嬉しかった。彼女がうれしそうにしてくれたこともうれしかったけれど、自分のよろこびや、自分が感じているうれしさは、決してひとりよがりのものでもなかったのだという事実が、ほんとうに嬉しかった。

誰かのために生きている訳ではないけれど、やはり、自分が楽しいと思うことも他の誰も楽しいと思ってくれることの中には、言葉にすることのできないうれしさがある。たとえば、それが「大人になっても、こんなに楽しいことはあるんですね」という言葉に象徴されるような形で自分の目の前に差し出されたときに、ああ、人生は捨てたもんじゃないなあ(というか、最高だなあ)という気持ちになる。

9・布施明の『MY WAY』

江ノ島から熱海に戻る車の中で、私が愛してやまない布施明の『MY WAY』を爆音で流しながら熱唱をした。ああ、なんて素晴らしい歌詞なのだろうかと、ああ、なんて素晴らしい声量なのだろうかと、ああ、なんて素晴らしい表情をしながらこのひとは歌を歌うのだろうかと、何がなんだかいろいろなものが「最高だなあ!」という気持ちになり、そして、私の中に新しい夢が生まれた。

自分も布施明のように『MY WAY』をカンツォーネ風に高らかに歌い上げることができたのならば、もう、最高に気持ちいいだろうなあと思った。やりたいことは何もない、夢も目標も具体的なビジョンも何もなかった私にも、それが実現したことを考えるだけでも胸がワクワクするような『夢』ができた。それは、布施明のMY WAYを高らかに歌い上げる日が来ること。隙間時間を見つけては、カンツォーネ的なサムシングの自主練習を日々に取り入れよう。


10・夕陽が綺麗だったこと。

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イベント終了間際に、夕日の光が差し込んできた。


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まるで、1日のご褒美みたいじゃないかと思った。


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夕日に「生きるんだよ」と言われている気がした。


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乱暴な表現になるけれど「この夕日の素晴らしさは、ものをたくさん持っているひとには味わうことはできないのだろうなあ」という気持ちになった。夕日の美しさは、自然の素晴らしさは、多分、なにもないやつほど深く味わうことができる。なにもないからこそ、全体に染み渡ってくる何かを受け取ることができるのだし、なにもないからこそ、目の前にあるものを全力でよろこぶことができる。


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そして、私は、余計なものは捨てていきたいという気持ちになった。まだまだ、いまの自分には、余計なものが身体全体にびっしりとこびりついている。これは、きっと、捨てていける。これはなくても、生きていける。生きていることを、よろこんで行ける。そして、身体の奥の方から、何かに感謝をしたくなる気持ちが湧き出してきた。自分や自分の人生全般を見限りそうになることもあるけれど、心の底では「すべてを肯定していきたいのだ」と思っている、自分を取り戻すことができた1日になった。




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人生は続く。

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流動的な存在であるために。

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東京都国立市で開催されたイベントに登壇(?)した後に、熱海に戻った。職場でも、子育てでも、自分が解決できていないことを他人に教えることはできない。こどもの教育に悩むお母様とお話をする機会があったけれど、(こどもは勝手に学んでいるものだから)無理に何かを教えようとしたり、母親としてしっかりしなければいけないという思いは持たなくてもいいのではないだろうかと思った。


私は親になったことがないためにこどもの気持ちしかわからないが、こどもは、不完全でも構わないから親には楽しそうに生きていて欲しいと思っているのではないだろうか。逆に言えば、両親が常にイライラしたり心の余裕をなくしていたら、こどもは常に萎縮をして、自分の感情を溜め込み、時には「自分がいるから両親はイライラしているのだ」と自分を責め、世界を恐れて、周囲の顔色を伺う人間になる。私の場合、親が非常に適当な人間であったために、自分も適当な人間になることができた。この点は、とても親に感謝をしている。

自分に肩書きを与えない。

適当な人間が功を奏したのか(功を喪失したのか)、いまの自分には社会的な肩書きが何もない。文章は書くが作家ではなく、移動はするが旅人ではなく、わたり文庫やわたり食堂などはやっているが活動家ではなく、呼ばれたイベントなどには出演するが講演家という訳でもない。そのため、自己紹介をする時には非常に困る。多くの場合、ただの胡散臭い人間だと思われてコミュニケーションは終了する。自分を説明する言葉を持ち合わせていないために、ああ、今日もわかってはもらえなかったなあと思うことは多い。

自分に肩書きがあれば説明も楽になるだろうとは思うものの、私は、まだ、自分に肩書きを与えていない。これはある種の反骨精神にも似ていて、私は、人間が「自分の外側に装着しているもの」に対する関心が薄い。大企業の社長だとか、金持ちだとか、著名人であるとか、世界を舞台に活躍をしているとか、巷ではこれだけ話題になっているのだと耳にしたとしても、正直に言えば「だから何なのだろうか?」という気持ちになる。世間的にどのようなポジションにいるのかという相対的なものよりも、そのひと自身が何を感じ、何を思いながら生きているのかという『絶対的なそのひと自身』に興味がある。

だからなのだろうか、あなたはこういうひとですよねというカテゴライズをされてしまった瞬間、私の中にある反骨精神が爆発して「違うし!」と叫びたくなる。固定されてしまうことを、自分の役割を限定づけられてしまうことを、極端に恐れているのかもしれない。固定されたくない。自分の役割を限定づけられたくない。こどもじみた思いかもしれないが、私は、流動的な存在でありたいと思っている。

流動的な存在であるために。

最近は、ことあるごとに「捨てなさい」という言葉が脳裏をよぎる。高級な家や車や家具を所有することの中には自身の欲望を満たす快楽もあるかもしれないが、同時に、傷つくことや失うことを常に恐れる不安定な状態にもなる。目には見えない「見栄」や「プライド」や「世間体な肩書き」なども、それによって自分を律することができる場合もあれば、同時に、それに縛られる(守ろうとする力が働く)ことによって、自身の自由を喪失する場合もある。


家のない生活をはじめた頃から、自然を愛する気持ちが極端に増えた。昔はペットを飼いたいなどとも思っていたが、いまでは、家の前を通る野良猫や野良猿や野良狸(熱海には猿や狸が出る)を眺めているだけで「ある意味で、これもペットだ」という気持ちになる。大都会の街中ですれ違う美女も、かつては自分のものになったらいいなあなどと思うこともあったが、いまでは「眺めているだけでいい【一緒になるのも、一緒にならないのも、ある種の縁だ】」という、野に咲く花を眺めている時のような気持ちになる。


自分は強いのではなく弱いのだと、自分は賢いのではなく愚かなのだと思うようになってから、生きることが楽になった。多くのものを維持できる強さが自分にあれば、捨てずに持ち続ける生き方もできたかもしれない。しかし、今世における私には、そのような余裕は持ち合わせていないみたいだ。流動的な存在でありたければ、余計な見栄やプライドを、ポイっとゴミ箱に捨ててしまうことだ。

雨の日は、沢蟹も出る。

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「おお、また来たか!」と、話しかけている。

『「足もみ」で心も体も超健康になる!』

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今回の「わたり文庫無料郵送の一冊」は、田辺智美さん著作『「足もみ」で心も体も超健康になる!【王様文庫】』です。この本は、熱海に遊びに来てくれた女性が「これはいいですよー!」とおすすめしてくれた最高の一冊になります。ふくらはぎや足裏は「第二の心臓」とも言われていますが、私も、自分の生活が行き詰まった暁には『ふくらはぎもみ師(ふくらはぎもまれ師)』として、第二の人生を歩みたいと思います。ご希望される方は、何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には、24時間以内に折り返しご連絡いたします。

※※※ こちらの本は、熊本県にわたりました ※※※


アキレス腱の周囲がもったりとして、足首のくびれがほとんどなくなってしまっている状態の人も即、足もみを。

足首が太いのは遺伝や体型のせいではなく、毒素や老廃物が付着しているケースがほとんどです。

しっかり足もみをすれば、必ずキュッとしまった足首になり、全身の肌ツヤもよくなります。



何者でもないからこそ、すべてになることができる。

自分の外側に装着したもので自分を誇るような、そういうものには、もう、あまり興味を持てなくなってしまった。どれだけ金を集めても、どれだけ周囲の評判を集めても、どれだけ高級な装飾に身を包んだとしても、どれだけ立派とされている行為を成し遂げたとしても、根本のところで感じている「虚しさ」をごまかすことはできない。それならば、今世の自分は「(有ではなくて)無に賭ける」しかないのだろうと、自分の外側に装着しているものではなく、何もかもを剥ぎ取った後に残る『裸の自分』で、どこまで行けるのかを見てみたいのだと思っている。


自然のすべてはこの世にひとつしかない天然記念物のようなもので、こどもを、花を、異性を、動物を、あらゆる自然を、檻の中に入れて閉じ込める(カテゴライズをして固定する)ような真似はしたくない。花や女性やこどもを「眺めているだけでいい」と感じている時の自分は、同じように、その対象に対して「生きているだけでいい」と感じている。相手を自由にさせているときに、自分のこころも、同じように自由になることができる。この気持ちを、この感覚を、出来ることならばなくしたくない。


何もしたくない時には、何かをしたくなる時まで、ただ、何もしないでいればいいのだと思う。何かをしなければいけないという罪悪感に駆られている時期は辛いけれど、その時期を超えた先には、前よりも透明で、前よりも強い、そして、前よりも揺るぎのなくなっている自分がいるのだと思う。何者でもないからこそ「何者にでもなることができる」のであり、何者でもないからこそ「すべてになることができる」のだと、私は思う。何者でもなく生きるということは、ただ、そのままの姿でそこにあるということだ。


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人生は続く。

静岡県熱海市伊豆山302
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
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